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2019年9月8日日曜日

片山九郎右衛門の《融》~京都駅ビル薪能

2019年9月1日(日)京都駅ビル室町小路広場
橋掛りはなく、幕から出るとすぐに本舞台

能《融》片山九郎右衛門
 ワキ福王知登 アイ茂山忠三郎
 森田保美 吉阪一郎 谷口正壽 前川光範
 後見 青木道喜 梅田嘉宏
 地謡 古橋正邦 浦田保親 河村博重
        分林道治 橋本光史 田茂井廣道
        橋本忠樹 大江広祐



夢を見ていたのかと思うほど、詩のように美しい舞台。この日は眠りにつくまで、魔法にかけられたようにぽ~っとしていた。

片山九郎右衛門さんはこの一週間あまり、シテを5回も勤め、東西合同養成会や御社中ゆかた会を主催するという、想像を絶するようなハードスケジュールをこなされてきた。にもかかわらず最後の最後にトドメのように、これほどまでに人を感動させる《融》を舞われるなんて……あまりにも偉大すぎて言葉が見つからない。

ステージでは黄色いライトを効果的に使って、月の光に照らされた廃墟らしい舞台空間を創出。地謡、囃子、ワキの謡も、「後見道」を極めた後見の働きもすばらしく、京都能楽界の底力を実感させた。


【前場】
〈名所教え〉
ここ京都駅は、源融の六条河原院跡から徒歩15分ほどの近距離にある。
だから名所教えの場面でも、音羽山、中山清閑寺、今熊野、稲荷山、深草山、伏見の竹田、淀、鳥羽、大原、小塩、嵐山と、京の名所が放射状に広がるまさにその中心に、この京都駅ビルの舞台が位置していることになる。

もちろん、演能上は舞台上手が東、下手が西という決まりになっているから、シテ・ワキの向く方角は実際の方角とは異なるが、京都駅のこのステージほど源融が君臨した六条河原院を、臨場感をともなって実感できる舞台はないのではないだろうか。


「こっちが音羽山で、あれが今熊野、ほら、嵐山も見えるよ」とシテが教え、ワキが視線を向ける。そのたびに名所の位置と映像がリアルに浮かんできて、まるで自分も河原院の廃墟に佇んでいるように思えてくる!



〈汐汲み〉
秋の月を愛でていた老人は汐汲みを忘れていたことに気づき、ハッと両手を打ち合わせて天秤桶を担ぎ、正先でサブンッと桶を水につける。

シテはまず、左に担いだ桶で水を汲み、次に右の桶で汲んでゆく。最初に汲んだ桶にはタップタップと水があふれ、まだ水が入っていないカラの桶とは明らかに重さが違うように見える。
水の重量、質感、桶のなかで揺れて波打つ水の動き。桶に汲まれた水の存在をたしかに感じさせる。


中入前の「老人と見えつるが、汐雲にかきまぎれて跡も見えずなりにけり」でシテは、はらりと着物を脱ぐようななめらかな所作で、肩に担いでいた天秤桶を後ろに落とす。
この肩関節・肩甲骨のやわらかさ。

そして、音を立てないようにそっと、天秤の紐の半分を短く持ち、先に桶が地面に着いた手応えを感じてから、両手に持っていた紐を放す。素早い所作のなかの、繊細な動きと心くばり。



〈間狂言のカット→早替わり〉
驚いたのが、間狂言がカットされたこと。
(番組にはアイに茂山忠三郎さんの名前があったから、当初は間狂言が入る予定だったと思う。)

シテの中入後、ほとんどすぐにワキが待謡を謡い出し、出端の囃子が奏された。
はたしてシテの着替えが間に合うのかハラハラしてしまったが、通常のタイミングで幕があがり、シテはみごとに融の亡霊に変身して登場した。

主後見の青木道喜さんをはじめ片山一門の完璧な「後見芸」に脱帽!




【後場】
後シテの出立は、立涌白地狩衣に唐草模様の白地大口、黒垂。頭には初冠ではなく風折烏帽子。面は、憂いを帯びた中将。

「あら面白や曲水の盃」で、正先で身を乗り出し、
「受けたり受けたり遊舞の袖」と、水面に映った月影を曲水の宴の盃に見立て、扇で月影を汲みあげる。

白皙の貴公子がギリシャのナルシスさながらに水面をのぞき込み、優雅な所作で月影を汲む。この耽美の極致に、私も周りの観客たちも魂を抜かれたようにうっとりと見入っていた。



〈早舞〉
さらにシテは初段オロシで正先へ向かい、ふたたび水面に映った月影を扇で汲み、空を見上げて、月を愛でる。
そのまま融の亡霊は、しばし甘美な追想に耽るように、恍惚とした表情を浮かべていた。

やがて月に雲がかかるように中将の面に翳がさし、哀しげな愁いを帯びてくる。
この時の、なまめかしく紅潮した中将の表情が今でも忘れられない。


クライマックスではナガシの囃子が入り、シテは懐かしい過去を搔き集めるように、またもや扇で水を汲み上げる。

このころになると私はほとんど陶酔状態になり、融の世界に浸って、夢とも現ともつかないような酩酊感に酔っていた。

京都駅ビルという現代的な高層空間に、廃墟となった六条河原院が出現し、そこへ融が追懐した風雅な幻想世界が折り重なる……。

気がつくと、シテは袖を巻き上げたまま幕のなかへ、月の都へと還っていった。

ああ、名残惜しい。
私も、周囲の人たちも、ため息。
そして、たがいに満足げな笑顔。

この感覚、この余韻、
これこそ私が求めていた《融》だった。

東北鎮護・奥州一宮「塩竈神社」
画像は大震災の1年後に訪れた時のもの。

塩竈神社から見下ろした塩竈港


2019年7月30日火曜日

片山九郎右衛門《安達原》~面白能楽館プロデュース

2019年7月27日(土)京都観世会館
面白能楽館「恐怖の館」からのつづき
白川で気持ちよさそうに涼んでいたアオサギさん

能《安達原》シテ片山九郎右衛門
 祐慶 小林努 山伏 有松遼一
 能力 茂山千三郎
 左鴻泰弘 曽和鼓堂 河村大 前川光範
 後見 大江信行 梅田嘉宏
 地謡 河村晴道 味方玄 分林道治
    浦部幸裕 橋本光史 吉田篤史
        河村和貴 大江泰正


やっぱり凄かった、九郎右衛門さん! 
これだから目が離せない。

解説の林宗一郎さん曰く「現代の能楽師が考え得る工夫」を凝らした《安達原》。鬼女の「心の闇と悲しみに迫るところ」と「鬼の形相で出てくる女の勢い」が見どころとのこと。

その触れ込みにたがわず、いや、ふれ込み以上に、随所に工夫が凝らされ、鬼女の内面に迫ったこの日の舞台は、まちがいなく、私がこれまで観たなかで最高の《安達原》だった。

照明がいつもより落として、見所が暗めになっていたのもよかった。こういう曲やしっとりとした深みのある曲は、これくらいの照明のほうが雰囲気が出る。



【前場】
短縮バージョンなので、ワキの次第は地謡が引き受け、道行はカット。名乗りのあと、すぐさま陸奥の安達原に到着(早っ!)。

ワキの山伏一行が着くと、笛の独奏が入る。この左鴻さんの笛から、安達原の荒涼とした空気と、女のわび住まいの寂莫たる雰囲気が醸成されてくる。


〈糸車を回す場面〉
シテは、陸奥の風さながらの寂寥感のある地謡にのせて、古い映写機のようにゆっくりと枠枷輪を回しながら「日陰の糸」「糸毛の車」「糸桜」と糸尽しの歌を謡い、そこに自らの過去を投影させてゆく。

「長き命のつれなさを思ひ明石の浦千鳥」から、命を長らえたくないとでもいうように、糸車を回す速度が速まり、女は感極まって泣きくずれてしまう。
シテのまとう孤独な影が、憐れな女の輪郭をなぞっている。

こういう影の表現が、九郎右衛門さんらしい。
孤独な人間の脆い部分にスーッと入っていける人。
人の心の傷に、自然に寄り添える人なのかもしれない。

そして、ヒロインの気持ちに同化するだけでなく、能面の魂を肉体に憑依させ、その魂を表現できるだけの神業的身体技能をもつ人でもある。

まさに心・技・体の3つが渾然一体となって、九郎右衛門さんの舞台を創り上げていた。



〈鬼の気配〉
「あらうれしや候、かまへてご覧じ候ふな」と、閨のなかを覗かないよう念を押す女の声に、「どうか、わたしを裏切らないで」と哀願するような気持が滲む。

だが、アイの従者に再度念を押すところから、しだいに「鬼」の心が顔を出す。
一の松で立ち止まる場面では、姿は女でも、背後の影は鬼になりかけているような、そんな気配が漂っていた。




【間狂言】
女との約束は裏切られ、閨のなかを覗かれてしまう(聖職者なのに女性の寝室を覗くなんて……)。なかには腐臭漂う死体の山。
(関西の間狂言は東京と比べて、わかりやすいというか、オーバーアクションなんですね。)



【後場】
幕が上がり、鬼女となった後シテ登場。
三の松でしばし佇んだあと、ススーッと後ろに下がって幕のなかへ。
早笛の囃子とともに、ふたたびサッと幕が上がり、勢いよくシテが出て、一の松で謡いだす。

この「焦らし」と「勢い」、「前進」と「後退」のメリハリの効いたシテの出が、めちゃくちゃカッコいい!


照明を落とした舞台のなか、シテが打杖を振り下ろす。般若の面がおぞましくも、恐ろしい。金泥の眼が怨みの炎で鈍く光り、耳まで裂けた口から底なしの闇がのぞき、凄まじい憎悪の念を沸々とたぎらせている。

やがてシテは橋掛りに向かう途中、後見座の前で、背負っていた柴をサラリと落とす。《道成寺》の鱗落としと同じ型だが、どことなくエレガントで品がある。

九郎右衛門さんの鬼女は邪悪に見えつつも、かつては奥ゆかしく美しい女性であったと思わせる気品と恥じらいが、所作や物腰の端々に感じとれる。こういうところに惹かれるのだ。


イノリの囃子のなか、息をつく暇もないほどの迫力ある鬼女と山伏のバトルが繰り広げられる。
燃えたぎるような鬼女の怨念に山伏たちは圧倒されたかに見えたが、「東方に降三世明王……」と山伏たちが神々の名を唱えると、シテの勢いはみるみる衰えてゆく。

この鬼女の忿怒の形相と、呪文の効力に威力を失ってゆくさまとの明暗表現がじつにあざやか。眼に見えない衝撃が鬼女を襲ってゆくのが、手に取るようにわかる。


最後は山伏たちに祈り伏せられ、タタターッと橋掛りを進んでそのまま幕入り。


……かと思ったが、ふたたび幕が上がり、

そこには、
鬼の姿をした女がひとり、

救いのない孤独のなかで、
むせび泣いていた。






2019年6月27日木曜日

浅見真州の《隅田川》~京都観世会例会

2019年6月23日(日)京都観世会館
観阿弥祭《通小町》《鵜飼》からのつづき
能《隅田川》シテ狂女 浅見真州
 子方・梅若丸 味方遙
 ワキ渡守 宝生欣哉 旅人 野口能弘
 杉市和 大倉源次郎 國川純
 後見 大江又三郎 味方玄
 地謡 片山九郎右衛門 浦田保浩
    古橋正邦 浦田保親 浅井通昭
    橋本忠樹 大江泰正 河村浩太郎



浅見真州師はリアリズム的・演劇的な演出を好まれる方だと思う。
随所に工夫が凝らされ、舞台にドラマ性豊かなメリハリがある。それでいて「能」としての品位を損なわないギリギリの範囲にとどまっているところが、真州師の舞台の醍醐味だと思う。

一流どころをそろえたこの日の《隅田川》。各役の芸も光り、総合的にきわめて上質な舞台だった。



《隅田川》の役別の感想
【シテ】
真州師独自の演出かな? と思われる箇所がいくつか。

1つは、『伊勢物語』の歌「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」のあと、立廻リのような所作が入るところ。
古歌の引用のあとに、笛の音とともに舞台を半周することで、在原業平が抱いた恋慕や郷愁と、わが子を追い求めるシテの思いとがしみじみと重なり、狂女の心のうちが滲み出て舞台にあふれてくる。


2つ目は、わが子の死を知った狂女が、塚の前で泣き崩れるところ。この日の舞台では「道の辺の土となりて」で、杉市和さんの笛が入った。

パリ公演の《砧》でも、クライマックスで妻の亡霊が夫に怨みのたけをぶつけたあと、市和さんの笛が入り、夫(宝生欣哉)が数珠で合掌、長い「間」のあと妻が成仏する、という演出が加えられていた。

シテ、ワキ、笛ともにこの日と同じ配役だったが、シテの激情が昂る前後に名手の笛が入り「間」を取ることで、舞台変化や心理描写がより鮮明に伝わってくる。


そのいっぽうで演劇的表現が「能」の枠を逸脱しているように思える部分もあった。

たとえば、渡守が梅若丸の最期を語るところでは、シテは肩で息をするように身体を震わせて、心の動揺を表現していたが、ここまでいくと芝居的要素が強すぎて「やりすぎ」のように感じた。


逆に、「さりとては人々この土を返して今一度この世の姿を母に見せさせ給へや」と、塚の前で両手を思いっきり広げて土を掘り起こす所作をするところは、死者をよみがえらせる呪術儀礼のように見え、ドラマティックな表現が功を奏していた。


塚の中から梅若丸の声が聞こえてきたときの狂女の興奮や、わが子の亡霊が腕の間をすり抜けていく表現なども秀逸で、生身の女性の胸を掻きむしるような哀哭や絶望がリアルに伝わってきた。



【後見
シテの水衣や縫箔の裾がはだけた時の後見の対応が名人芸!
とくに味方玄さん。
舞台進行の邪魔にならないよう絶妙なタイミングを見計らって、針で水衣を縫い留め、糸をハサミで切る……その間、わずか2秒。ほとんど目にも留まらぬ早業だった。後見の鑑ですね。


【ワキとワキツレ】
宝生欣哉さんの渡守を観るのはこれで3度目だろうか。
おなじみの桜模様の紺地素襖上下に、青・黄土・白の段熨斗目。
最初は上から目線で狂女を侮っていた渡守が、しだいに教養の豊かな相手に心を寄せ、やがて絶望の淵にいる彼女を親身にいたわってゆく、その過程、心の動きを欣哉さんは丹念に描く。好きだな、共感能力の高い欣哉さんの渡守。

野口能弘さんの旅人役もよかった。うまくなりはった。



【お囃子】
シテの登場楽・一声は、悲劇の予兆を感じさせるような物悲しいお囃子。
市和さんの笛と源次郎さんの小鼓は、もうそれを聴いただけで、ぎゅっと胸が締めつけられるよう。繊細かつ精巧な、デリケートな音色。
國川純さんの大鼓、なつかしい。パリ公演の映像では絶好調だったけれど、この日は湿度のせいだろうか、音色がやや不調だったかも。



【地謡】
私自身が無宗教でひねくれ者だからかもしれないが、「さあ、泣いてください!」と言わんばかりの子方を出す演出など、《隅田川》はどちらかというと苦手な曲だった。

でも今回の舞台では、観客の涙腺を刺戟するような「あざとさ」を地謡が希釈していて、《隅田川》っていい曲だなぁと心から感動できた。

あざとさがピークに達するのが、「南無阿弥陀仏」と唱えるところ。ここが特に苦手だったけれど、高音で謡う念仏のきれいなこと! 
謡の声そのものが弔いの鐘のような清浄な響きを持っていて、「あざとさ」を感じる私の心を解きほぐし、純朴な東人たちが無心に祈る念仏唱和の輪のなかに、いつしか自分も入っていくような心地さえした。


演者がいて、観客がいて、《隅田川》の世界があって、それらが念仏唱和のなかでひとつに溶け合ってゆく。

悲しい物語だけれど、この空間にいることがたまらなく幸せだった。





2019年2月4日月曜日

舞台芸術としての《鷹姫》後場~ロームシアター京都

2019年2月3日(日)14時~16時20分 ロームシアター京都

第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
 老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
 岩 浅井文義 河村和重 味方玄 
   浦田保親  吉浪壽晃 片山伸吾
   分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
 竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
 後見 林宗一郎

第二部 ディスカッション
 観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄

舞台監督:前原和比古、照明:宮島靖和
空間設計:ドットアーキテクツ



《鷹姫》前場:舞台芸術としての伝統芸能からのつづき

前半では、動きが抑制された「静」の場面が展開したが、クライマックスはダイナミックで華やかな「動」の世界。そこからエンディングに向けて、枯渇、死、そして虚無の世界へと向かっていく。
このメリハリのきいた舞台展開、舞台美術・照明と、能の芸の技の組み合わせは見事だった。


【空賦麟と鷹姫の闘い】
老人が去り、鷹姫と二人きりになった空賦麟。

岩「空賦麟は鷹を見つ」

空賦麟の視線を感じた鷹姫は、袖を巻いて大きく羽ばたき、空賦麟に挑みかかる。空賦麟は剣で応戦。
ここから、鷹姫と空賦麟の一騎打ちに━━。

九郎右衛門さんの両袖を激しく巻く所作は、猛禽類の羽ばたきそのもの。
おそらく喜多流の新作能《鶴》のように、舞衣の袖を長く着付けたのではないだろうか。通常の袖よりも幅広で長い袖を巧みにひるがえす。

袖を巻くタイミングも速度も絶妙だった。
けっして形態模写をしているわけではなく、能の品格と舞のような美しさを備えつつ、美しい女の顔をしたセイレーンのような「怪鳥のイデア」を体現している。

バタバタッと翼で襲いかかる鷹姫に、必死で抗戦していた空賦麟だが、やがてその妖力に負けて、寝入ってしまう。


【湧き出る泉の水→急ノ舞】
そのとき、岩たちが呪文を唱えはじめた。

あたさらさまらききりさや…ききりさやおん、かからさやうん
水よ、水よ水よ、水よ水よ水よ

正先の岩に囲まれた泉から、スモークがもくもく立ちのぼり、ゴボゴボッゴボッと、水が湧く効果音が聞こえてくる。

正先に駆け寄り、泉をのぞく鷹姫。
泉の奥から光があふれ、鷹姫の顔を照らす。ライトアップされたその顔は、神々しいまでに輝き、光を放つ不死の水と共鳴していた。
扇で水を汲む所作をした鷹姫は、「しめしめ」とばかりに、霊水を手にした歓びの舞を舞う。

この急ノ舞風の舞は、《紅葉狩》で維茂が寝入るのを見届けた鬼女が急ノ舞を舞うところから着想を得たのかもしれない。



【持ち去られた不死の水】
急ノ舞の終わりころ、鷹姫はポンッと大きく拍子を踏み、空賦麟にかけた魔法を解く。
ハッと目覚めた空賦麟は、不死の水を手にした鷹姫を必死で追いかけてゆく。

鷹姫は、舞台奥の急斜面のスロープを身軽な身のこなしで駆けあがり、魔の山へと飛翔しながら消えていった。

ここの魔術的な飛翔の表現と、それを見事にこなした九郎右衛門さんの身体能力は「ブラヴォー!」のひと言に尽きる。
面をかけたほとんど見えない状態の縫箔腰巻姿で、あの急斜面を一気に、しかも、この上なく美しく、妖気を漂わせながら駆け上っていくなんて! 


鷹姫を逃した空賦麟は、正先へ駆け戻り、水を求めて泉をのぞく。
しかし、泉のなかは空っぽ。
もはや不死の水が放つ光は消え、またもとの涸れた泉があるだけだった。
精魂尽き果てたように、愕然と安座する空賦麟。

(空賦麟役の宝生欣哉さんが凄かったのは、このがっくり安座した状態から終演まで、ずーっと長いあいだ不動のままだったこと。おそらく瞬きもほとんどしなかったと思う。)



【幽鬼(老人)の登場→終幕】
するとそこへ、不死の水への妄執ゆえに幽鬼となった老人が現れる。

出立は前場と同じ着流、白い縒水衣の下に金色の法被を着ていて、さりげなくゴージャス。髪は前と同じく結わない尉髪。手には鹿背杖。
面は、重荷悪尉? 鷲鼻で額には深い皺が刻まれ、怨念のこもった恐ろしい形相をしている。

老人「いかに空賦麟、さても得たるか泉の水…」

怨念のこもった暗い情念のメラメラとした燃やし方などは、銕之丞さんの持ち味が生きていた。執念渦巻く、どす黒く、よろよろした立ち廻りがリアル。悪尉の面の雰囲気とも凄くあっている。まさに、はまり役。

最後は、老人(幽鬼)が下居して岩と化す。
鹿背杖を空賦麟に手渡し、今度は空賦麟が泉の水が湧くのを待ち続けながら老いてゆくことを暗示して終幕。

(ふつうの能舞台と同様、老人、空賦麟、岩たちの順に舞台袖へと帰っていくのだけれど、ここは、通常の舞台演劇のようにサッと幕を下ろしたほうがドラマティックだったかも。)



《鷹姫》裏話ディスカッションへ続く




追記:原作との違い
《鷹姫》の上演を見て感じた、イェイツの戯曲"At the Hawk's Well"との主な違いは以下のとおり。

(1)three musicians(3人の楽人たち)と岩(コロス)
"At the Hawk's Well"では地謡と囃子方を兼ねたthree musicians(仮面のようなメーキャップを施している)が登場する。いっぽう《鷹姫》では、ギリシャ仮面劇から想を得たコロスが登場する。能へのコロスの導入は画期的。

(2)主人公の違い
"At the Hawk's Well"ではクー・フーリンが主人公に想定されているが、《鷹姫》では老人or鷹姫がシテに設定されている。

(3)鷹姫のキャラクターの違い
"At the Hawk's Well"では、泉を守る少女に、山の魑魅Sidheが取り憑いて、老人と若者に呪いをかける。だが、《鷹姫》では鷹姫は最初から魔物として登場する。

(4)結末の違い
"At the Hawk's Well"では、泉の水が得られなかったクー・フーリンは、老人を残してさっさと立ち去ってゆく(イェイツの連作へとつながっていく)が、《鷹姫》では、空賦麟が老人と同じ運命をたどることが暗示される。

イェイツの戯曲では欧米の他の作品と同じく、直線的な構造をしているのに対し、《鷹姫》は、禅竹作品に見られるような円環構造を示している。西洋と日本の世界観の違いが反映されているようで面白い。

(5)hazelと榛(はり)の違い
"At the Hawk's Well"では、葉の抜け落ちたhazel(榛:ハシバミ)の根元に泉があることになっている。それに対して、《鷹姫》では、榛(はり)の小林の根元に泉がある設定。榛(はり)はハンノキの古名で、ハンノキは英語でalderという。
おそらく"At the Hawk's Well"の邦訳で「榛(はしばみ)」とされていたのを、能の詞章を書く際に、「榛(はり)」と読み間違えてしまったからだと思う。

イェイツが、葉の抜け落ちたhazel(ハシバミ)の根元に、不死の水が湧く泉があるという設定にしたのには意味があると思う。

ハシバミは、ドルイド僧が儀式を行う際に用いた樹木のひとつであり、ハシバミの実は「知恵の実」とされた。また、古代ケルトではハシバミの枝は、水脈・鉱脈を探るダウジングに用いられた。不死の水の水脈を探るハシバミの枝。だが、そのハシバミの木は枯れかけている。
涸れた泉、枯れた聖木、荒涼とした絶海の孤島。
魔力と呪いが支配するこの島では、「知恵の実」は永久に実ることはない。
不毛と虚無の島。
それが、イェイツが描こうとした「鷹の泉にて」の舞台なのかもしれない。






2019年1月23日水曜日

片山九郎右衛門の《東北》~京都能楽養成会研究公演

2019年1月21日(月)17時30分~20時20分 京都観世会館
京都能楽養成会研究公演・舞囃子三番からのつづき

能《東北》シテ 片山九郎右衛門
  ワキ 宝生欣哉 
  アイ 茂山千五郎
  杉市和 吉阪一郎 河村凛太郎
  後見 大江信行 梅田嘉宏
  地謡 味方玄 橋本忠樹 河村和貴
     河村和晃 大江広祐 樹下千慧




大寒を迎えた京都の夜。
冷たい空気が静寂を深め、森閑とした能舞台で、演者も観客もいつも以上に感覚が研ぎ澄まされる。夜は、夢の世界がしみこむ時間、夢とうつつのはざまの時間。この舞台を夜能で拝見できてよかった。


【前場】
旅の僧が、東国から花の都にやってくる。
欣哉さんの道行は、姿そのものが詩的で、こちらの想像力をかきたてる。多くの名脇役がそうであるように、いわくありげな影をまとう。なにか過去のありそうな、漂泊の僧。

この僧だからこそ、亡者と魂が共鳴し、女の霊が彼の前に現れたのだろう。そう思わせるだけの雰囲気を、欣哉さんの旅僧は醸している。


前場では、シテの声が印象的だった。
「な~う、な~う」という幕のなかからの声。
これがなんとも、色っぽい。

こんなに色っぽい九郎右衛門さんの声を聞いたのは初めてかもしれない。先日、舞妓さんの舞で聞いた地方さんの艶っぽい声を思い出す。

とはいえ、女性の声音を真似ているのではなく、あくまでお能の発声法に則った呼掛の声、れっきとした深みのある男性の声だ。それなのに熟した果実のような、豊潤なみずみずしさがある。



【後場】
河村凛太郎さんの小鼓が、鬘物の一声の囃子らしい繊細な音色。後シテの出の空気を醸成する。

シテの出立は緋大口に紫長絹。
長絹の文様は、たなびく霞を抽象化したような横のラインがいくつも入ったシンプルなデザイン。紫の地色もほどよく褪色して暗灰色に見え、春の夜のおぼろを能装束に仕立てたような風情がある。

そのおぼろな春の夜に、和泉式部の霊がふわり、ふわりと、袖をひるがえし、梅の香のような芳香をほのかに漂わせる。


序ノ舞の序を踏むときの、装束の裾からのぞく白い足。
白足袋を履いたその足がハッとするほど、なまめかしい。

芥川龍之介は桜間弓川のハコビを観て「あの足にさわってみたい欲望を感じた」と言ったが、名人の足というものは表現力がじつに豊かだ。


何がどう違うのか、具体的には分からないけれど、白足袋を履いた九郎右衛門さんの足は、たとえば、大天狗を演じた時と、貴公子を演じた時とでは違う。《東北》のような貴婦人の霊を演じた時の足は、狂女物の母親役の足とはまったく違う。


それは、女性の足というよりも、観念的に理想化された女の足であり、楚々とした聖性をもちつつも、この上なく官能的だ。これこそ、才色兼備の恋多き女としてイメージされる和泉式部の足だった。


序ノ舞で、官能的な足が向きを変えるとき、足そのものは少しも動かない(ように見える)。

まるで回転台に載っているように、不動のまま、90度、180度と、自由自在に身体の向きを変え、姿そのもの、動きそのものが、甘美な芸術品となって、観客を陶酔させていた。


シテが袖を翻すたびに、どこかで梅が一輪咲いて、春が近づいてくるようだった。

袖を巻き上げ、袖を返すたびに、甘い春の夜の香りが漂ってくるようだった。



終演後、能楽堂を出ると、空には明るく、大きな満月(スーパームーン)が出ていたのかもしれない。でも、わたしはそれにさえ気づかないほど、幸せな余韻に浸っていた。





2019年1月22日火曜日

京都能楽養成会研究公演

2019年1月21日(月)17時30分~20時20分 京都観世会館

舞囃子《高砂》シテ 樹下千慧
  杉市和 吉阪倫平 河村大 前川光範
  地謡 梅田嘉宏 河村和晃
     河村浩太郎 大江広祐

舞囃子《小塩》シテ 大江広祐
  森田保美 唐錦崇玄 河村大 前川光範
  地謡 大江信行 河村和貴
     河村浩太郎 樹下千慧

舞囃子《巴》シテ 廣田幸稔
  森田保美 曽和鼓堂 河村裕一郎
  後見 豊嶋晃嗣
  地謡 宇髙徳成 山田伊純 惣明貞助
     湯川稜 向井弘記 辻剛史

小舞《雪山》茂山七五三
  茂山千作 茂山千五郎 井口竜也
  茂山虎真 茂山竜正

能《東北》シテ 片山九郎右衛門
  ワキ 宝生欣哉 アイ 茂山千五郎
  杉市和 吉阪一郎 河村凛太郎
  後見 大江信行 梅田嘉宏
  地謡 味方玄 橋本忠樹 河村和貴
     河村和晃 大江広祐 樹下千慧




いまだに信じられない。こんなに豪華な番組&配役が研究公演なんて! 番組をいただいたときはミスプリントかと思って、二度見したほど。

こちらに来てからよく感じるけれど、京都ってすごい。次世代の育成にどれほど心血を注いでいるのか、この公演を観ただけでもその熱い思いが伝わってくる。研修生の方々も、講師陣の熱演に応えるだけの意気込みとパフォーマンスを披露されていて、なんかちょっと、感動的で、胸が熱くなった。



舞囃子《高砂》
冒頭からホームラン連打か!というくらい、スカッとカッコいい《高砂》。

まず、お囃子が素晴らしい。
わが家の家宝DVDの舞囃子《高砂》の笛と太鼓も、杉市和さんと前川光範さんなのだけれど、京都の《高砂》といえば、このお二方の笛と太鼓というぐらい、わたしの脳にはこのお二人の音色がインプットされている。
杉市和さんの笛にはほかの誰にも出せない、やみつきになるような独特の味わいがある。

そして、前川光範さんの超絶に凄い腹筋と背筋による、からくり人形のようなバチさばき、あざやかな早打ち、絶叫のように響きわたる掛け声。関西で《高砂》といえば、やはり、この方の太鼓の右に出るものはない。

ここに、河村大さんと吉阪倫平さんの大小鼓が絡んでくる。倫平さん、相変わらずの天才児ぶり。いや、天才児というよりも、小鼓の腕では、もうすでにれっきとした大人顔負けのプロ。掛け声も声変わりの声がだいぶ安定してきて、河村大さんとの掛け合いも聴き応え十分。
地謡も京都観世らしい謡。大江広祐さんのワキ謡も素敵だった。

さらに、シテの樹下千慧さんがよかった!
謡に明朗で颯爽とした伸びやかさがあり、舞の緩急の付け方にも品格とキレがあって、観ていてじつに清々しく、目が釘付けになる。この方の舞のリズム、間の取り方は、どことなく九郎右衛門さんに似ている。目に美しい舞姿だった。



舞囃子《小塩》
曲趣がガラリと変わり、「動」から「静」へ。
大江広祐さんは細身で背が高いし、宝生流のように腰を低く落とさないので、どうしても腰高に見えてしまうけれど、それでいて、体の軸がまったくブレていない。

こういう体型で、これくらい腰高の構えだと遠心力に影響されそうなものなのに、足拍子も安定していて、盤石の姿勢。鍛え抜かれた、しなやかな鋼のような足腰なのかもしれない。
(細身&長身で体がふらつきやすい人は、こういう人に習うといいのかも。)


序ノ舞は「気」が内へ向かって放出され、身体の中心が充実している。ひとつひとつの所作はきわめて繊細なのに、熱く、強い芯のようなものを感じさせる。何かを訴えかけてくるような舞、観る者に想像の余地を与えてくれるような舞だった。

お囃子もしっとりとした趣きがあり、唐錦崇玄さんもとくに序ノ舞の序の小鼓がたっぷりとしていて、地謡にもどこか雅やかな優しさがあった。




舞囃子《巴》
先月も、金剛若宗家の《巴》を拝見したばかり。
後シテの出をのぞいて、後場のほとんどを舞い、薙刀、笠、小袖、小太刀などの道具も使うので、これはもう袴能のようなもの。後見の豊嶋晃嗣さんがさりげないながらも、けっこう忙しく立ち働いておられた。

シテの廣田幸稔さんはベテランらしい、そつのない所作と動き。
「涙にむせぶばかりなり」とシオリ、少し間をおいてから、「かくて御前を立ち上がり」で、すっくと立ちあがる。

この決然と立ちあがるところに、巴の女らしさと、気丈さ、健気さが描写されていた。巴だけでなく、女という、この上なく強い性を象徴するような表現だった。

地謡は観世とはひと味違う奥行きを感じさせ、お囃子で研修生の河村裕一郎さんの掛け声が良かった。



茂山七五三さんの小舞《雪山》、拝見したかったのですが、休憩なしのノンストップ公演なので、休憩時間にあてました。


片山九郎右衛門の《東北》につづく



2018年12月1日土曜日

梅若万三郎の《井筒・物着》~松月会

2018年11月23日(金) 大槻能楽堂
松月会・能と囃子~大倉流小鼓の会からのつづき

能《井筒・物着》シテ 梅若万三郎 
    ワキ 福王茂十郎
    赤井啓三 社中の方 河村大
    後見 加藤眞悟 上田貴弘
    地頭 大槻文蔵



今年の個人的ベスト1はまちがいなく、6月に観た万三郎師の《大原御幸》だと思っていた。
でも、同じシテによるこの《井筒》が、同点一位か、それ以上かもしれない。

(曲趣が異なるので比べようもないけれども。それにまだ友枝昭世さんの《藤戸》があるから、順位が変動するかも。)

おそらくこの日の序ノ舞は、生涯忘れないだろう。
忘れたくない、何度も反芻して、何度も、何度も、心のなかに蘇らせたい舞だった。


【前場】
橋掛りをゆくシテのハコビに、足腰の衰えを強く感じる。

しかし、常座にスッと立つ姿は、さざ波さえ立たない、鏡面のような湖の静けさ。
ことばを絶する美しさで、女は、ただ、そこに立っている。

シテの姿も謡も、これまで観たどの井筒の女よりも抽象的だった。

そこには、シテ自身の作為や演出はなにも感じられず、「役になりきる」とか、「役の気持ちで演じる」などという要素は一切ない。

年齢や肉体の衰えに応じたさまざまな工夫も、かぎりなく自由な、無為自然のあり方のように見えた。

余計な要素をすべて排した高い抽象性ゆえに、シテの存在そのものが観る者の想像力を刺激する。

シテの佇まいから連想される、思いや、面影や、記憶のかけらが、無秩序に立ち現れては消えてゆく。

そして、それらがコラージュのようにわたしの心のなかで結合し、解体され、再構築されて、万三郎の《井筒》の世界を有機的に描き出していった。



【序ノ舞】
動きは最小限

無駄な動作、無駄な力を、かぎりなく、極限まで削ぎ落とした序ノ舞。
二段オロシでもシテは袖を被くことなく、袖をふわりと巻いただけ。

華麗優美な色彩に染まっていた芸が、時を経て、褪色に褪色を重ねた果てに、完全に色が抜け、最後に残った薄墨のゆるやかな線。

それは、真っ白な状態から描いた墨絵ではない。
あでやかな色彩が抜けたあとに残る、紗のかかったような色艶がうっすらと透けている。

美しい影、その気配だけが、残り香だけが、舞っている。


この精妙な舞は、言葉であらわすべきではないのかもしれない。
言葉であらわせばあらわすほど、この日の序ノ舞から乖離して、遠ざかってしまう。

妙なる花が風に舞う趣き、それを世阿弥は「妙花風」と名づけた。
言語も意味も及ばない世界。
この舞こそが、そうなのかもしれない。


シテが舞っているのか、それを観ている自分の魂が舞っているのか。
最後には、その区別さえつかなくなり、ただ、ひたすら、うすく滲んだ舞の美のなかに耽溺し、じんわりとこみ上げてくる幸福感に身を浸していた。








2018年11月27日火曜日

片山九郎右衛門の《海士》~能と狂言の会・国際交流の夕べ

2018年11月20日(火)18時30分~20時45分 京都観世会館
観世会館近くの京都写真美術館。たまにのぞいてみると面白い作品に出会える。

能《海士》海士/龍女 片山九郎右衛門
    藤原房前 片山峻佑
    ワキ 福王知登 是川雅彦 喜多雅人
    アイ浦の男 茂山逸平
    後見 河村博重 味方玄
    地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 片山伸吾
       田茂井廣道 大江信行 橋本忠樹 梅田嘉宏



やっぱり、舞衣姿で舞う九郎右衛門さんの早舞は最高!
今年も九郎右衛門さんの数々の素敵な舞台を拝見したが、そのなかでもいちばん感動した。これこそ言葉の壁を飛び越えて、圧倒的な美の力で観る者を魅了する、当代屈指の舞台だった。


【前場】
冒頭、藤原房前一行が、讃岐国志度浦を訪れる。
片山峻佑さんは「芸筋が良い」子方さん。
房前役にふさわしい威厳を品格が漂うハコビと立ち居振る舞い。落ち着いた物腰。それに謡もうまい。将来が楽しみな子方さんだ。

一声の囃子で登場した前シテは、白地摺箔に笹柄の紫縫箔腰巻に、青みがかった墨色の縷水衣という出立。
右手には鎌、左手には杉葉(みるめ)。
深井の面は遠目で観ると若く美しいが、近くで見ると、深く憂いのある陰翳が刻まれている。

浦の海女だという女は、従者に問われるままに、昔、藤原不比等がこの地を訪れ、「面向不背の珠」を龍王から奪還すべく、海女乙女を契りを結び、房前大臣が生まれたことを話す。

これを聞いて驚いた子方・房前が、「やあ、これこそ房前の大臣よ」と名乗ったときの、前シテの表情━━。

目の前にいるのがわが子だと知った時の、母の驚きと感動。
それを表現する所作は、けっして写実的なものではなく、型を忠実に踏襲しているだけである。
しかし、シテの全身から愛情深い母性が熱い湯気のように立ち昇り、オキシトシンが脳内で大量分泌されているのが感じ取れるほど、なんともいえない、慈愛に満ちた表情を浮かべている。

硬質であるはずの能面の、やわらかな表情の動き、目や口元のやさしく柔和な緩み。

物腰や所作のごく微妙な変化だけで、冷たい能面が、こんなにもしっとりと包み込むような、豊かな母の表情を浮かべられるものだろうか。

おそらくシテには、さまざまな人物の心理・心の動きの引き出しがたくさんあって、そこから役柄に応じた心模様を選び出しているのかもしれない。
そしてそれを、高い技術で表現できる人なのだろう。



〈玉之段〉
驚いたのが、「大悲の利剣を額に当て、龍宮の中に飛び入れば」で、パッと飛び込むところ。

シテは、ヒラリと身を躍らせて宙高く飛び上がったかと思うと、音も振動もないまま、ヒタリと静かに着地した。
着地の際に音だけでなく、わずかな振動もないなんて……まるで忍者の特撮かCG映像のよう。人間業ではなかった。


乳の下を掻き切る場面は、8月の仕舞「玉之段」ではほとんど涼しい顔をして、すーっと真一文字に胸の下を扇で斬ったが、この日は、グサリッと胸を抉るように突き刺す、リアルな表現。
外国籍の人にも視覚的にわかりやすいよう、迫真性を高めた「玉之段」だった。


中入前、シテは「この筆の後を御覧じて、普請をなさで弔へや」で、文に見立てた扇を子方に渡す。
そして「波の底に沈みけり」で、海の底に沈んでいくように、立ち姿から徐々に身を沈め、常座で下居。
送り笛に送られながら、橋掛りをゆっくりと去っていった。


【後場】
出端の囃子で登場した後シテは、白地に金で唐草模様をあしらった舞衣に、花七宝の紋大口、頭には見事な龍戴、左手に経巻。
面は、どこか物問いたげな泥眼。

3年前、九郎右衛門さんの後シテで、能楽座自主公演の《海士・解脱之伝》を観た(前シテは銕之丞さん)。
あの時は蓮花の天冠を被り、小書にふさわしい解脱感、狩野芳崖の悲母観音のような菩薩感が強く、この世ならぬ神々しい光に輝いていた。

この日の後シテにはまだ人間味があり、生身の女性のもつ潤いのある母性本能を感じさせた。

シテは、子方に経巻を手渡し、わが子がそれを読誦するあいだ、悲しげにシオリながら、常座へ至り、振り返って子方を見つめる。

そこから達拝となり、盤渉早舞へ。

ここからはもう、頭では何も考えない、感覚だけの世界。
どこまでも無限に広がる舞の美のなかに、ただ心地よく身をゆだね、魂が溶けてゆく感覚。

シテが袖をひるがえすたびに、悲しみの雫のようなものがパッとはじけ、シャボン玉のように消えてゆく。

ただ美しいだけではない、一抹の悲しみと翳りのある龍女の舞。

早舞三段目の途中から、シテは橋掛りへ行き、三の松で、風に舞う花びらのように、クルクル、クルクル、とまわり、しばし佇む。

お囃子も止んだ、完全なる静止、完全なる静寂。
余情をたたえた美しい「間」。

この余白のなかに、観客は龍女の思い、胸のうちを夢想し、舞台と観客の想像力の相乗効果で、一人一人のなかに、オリジナルな《海士》が創られてゆく。

囃子の総ナガシで、橋掛りから舞台に戻った龍女からは、あらゆる迷いも、人間的な苦悩も、すべて消え去り、冴え冴えとした光に包まれていた。








2018年11月8日木曜日

南座新開場・吉例顔見世興行~白鸚・幸四郎・染五郎襲名披露

2018年11月7日(水)16時30分~21時 京都四条南座
修復保存された桃山風破風造りの外観
東京時代は一度も来なかったから、めっちゃくちゃ久しぶりの南座!
しかも、南座新開場&高麗屋三代襲名披露というおめでたい公演。舞台も劇場もすごく良くて、とくに幸四郎の弁慶が秀逸だった。
1月の東京公演に比べると、ひと皮もふた皮も剥けて、襲名披露公演で各地をめぐるうちに「染五郎」から「幸四郎」へと見事に脱皮した彼に、京都の観客も心からの拍手喝采を送っていた。


 クラシカルな破風、折り上げ格天井、桟敷席の欄干も保存再生。

今回の改修は、最新技術を用いて耐震補強を施しつつ、昭和初期の名建築「南座」の魅力を維持保存して次世代へ伝えてゆくというもの。
文化財のかけがえのない価値を知り尽くした京都ならではの、伝統と最新のテクノロジーを融合させた理想的な改修のあり方だと思う。



アール・デコ風の照明器具のシェードも洗浄保存。
光源だけLED化されている。

昭和初期の意匠や建築ディテールもそのままなのがうれしい。


夜の部】
第一《寿曽我対面》
  工藤左衛門祐経  仁左衛門
  曽我十郎祐成   孝太郎
  曽我五郎時致   愛之助
  大磯の虎     吉弥
  化粧坂少将    壱太郎
  梶原平三景時   松之助
  八幡三郎     宗之助
  近江小藤太    亀鶴
  鬼王新左衛門   進之介
  小林妹舞鶴    秀太郎

第二 二代目松本白鸚・十代目幸四郎・八代目市川染五郎
   襲名披露口上
   白鸚 幸四郎 染五郎 藤十郎 仁左衛門

第三《勧進帳》 長唄囃子連中
  武蔵坊弁慶    幸四郎
  源義経      染五郎
  亀井六郎     友右衛門
  片岡八郎     高麗蔵
  駿河次郎     宗之助
  常陸坊海尊    錦吾
  富樫左衛門    白鸚

第四《雁のたより》金澤龍玉作
  髪結三二五郎七  鴈治郎
  若旦那万屋金之助 幸四郎
  前野左司馬    亀鶴
  愛妾司      壱太郎
  医者玄伯     寿治郎
  高木治郎太夫   市蔵
  乳母お光     竹三郎
  花車お玉     秀太郎

さて、肝心の舞台。

《寿曽我対面》
愛之助の五郎の目ぢからの強い見得も良かったけれど、なんといっても、仁左衛門の工藤祐経の存在感、求心力の強さは圧巻だった。
アーチやヴォールトを頂点でつなぎとめるキーストーンさながらに、舞台をぐっと引き締め、まとめあげている。南座でニザ様を拝見できる幸せ。

《口上》
今回の口上は、襲名する三人のほかは藤十郎と仁左衛門のみ。
幸四郎の「歌舞伎職人として修練してまいる所存」という言葉には好感が持てる。そういう職人魂で一意専心に役作りに励んできたことが、次の《勧進帳》にもあらわれていた。

染五郎さんの「(連獅子では)親獅子を抜く心意気で」という言葉も頼もしい。

白鸚さんは「南座」を「御園座(みそのざ)」と二度も言い間違えて、観客のひんしゅくを買っていた。
南座新開場記念公演でもあるのに、さすがにそれはアカンやろ。
その後の休憩時間でも、奥様たちが口々に「失礼よね」と言い合っていたほど。
体調は大丈夫だろうかと、そちらのほうが心配になった。かなり無理をしているのかもしれない。


《勧進帳》
ひと言で言うと、腹の据わった弁慶だった。
1月の東京公演では、頭に血が上って、どこか余裕のない感じがあったけれど、この日は肚のあたりの下半身に重心をどっしりと据えて、肉体的にも精神的にも迷いがなかった。

主君・義経が安宅の関を無事に通ること、この目的達成以外の選択肢は弁慶にはない。そうした鬼気迫る気迫が全身にみなぎり、間の取り方や発声も、初春大歌舞伎の時とは雲泥の差で、弁慶の器の大きさ、度量の深さまでをも感じさせた。
(たぶん、この1年で幸四郎さん自身の人間の器が一回りも二回りも大きくなったのだと思う。)

富樫が関所を通すところも、弁慶の凄まじい執念に深く感じ入り、富樫のほうでも、男として、人間として、義経一行を通す以外の選択肢はなかったのだと思わせるほど、弁慶の迫力には説得力があった。

義経役の染五郎は、顔がかなり痩せたのではないだろうか、小顔がさらに細面になり、もう少年の顔ではなく、大人の女性の顔のように見える。宝塚の男役に見紛うほどの美貌。男装の麗人のよう。この方は姿勢と所作がとても美しく、つねに冷静沈着で、星のように輝いている。

最後の花道で神仏に感謝するところ。天を仰ぎ、ぐっと目を閉じる。ゆっくりと目を閉じ、しばらく瞑目する。弁慶の万感の思いが伝わってきて、胸が熱くなる。飛び六方で、心が震えた。いい舞台だった。


《雁のたより》
上方和事らしいドタバタ喜劇。
司役の壱太郎の仕草になんとも言えないやわらかみと艶がある。
上方らしい、ふくよかなやわらかみ。

《勧進帳》に引き続き、ここでも幸四郎が髪結いの客の若旦那として出演。鴈治郎とのアドリブともつかない戯言が面白すぎて、客席も笑いが止まらない。
幸四郎さん、凄い体力。千秋楽までもつのだろうか。



歌舞伎をどりの祖・出雲の阿国像
慶長8年(1603年)、この辺りの鴨河原で出雲の阿国がはじめて「かぶきをどり」を披露したと伝えられている。

南座横にある「阿国歌舞伎発祥地」の碑





2018年10月13日土曜日

新作狂言の名作《死神》~ひがしおおさか狂言会

2018年10月12日(金)18時~20時 大阪国際交流センター・大ホール

解説 網谷正美

《文荷》 太郎冠者 茂山千五郎 次郎冠者 茂山逸平
     主 島田洋海 後見 網谷正美

《骨皮》 老僧 茂山千作 新発意 茂山茂
     傘借 山下守之 馬借 井口竜也
     斎呼 網谷正美   後見 増田浩紀

《死神》 死神 茂山あきら 男 茂山宗彦
     妻 茂山千三郎 
             召使 丸石やすし 鈴木実 増田浩紀
     後見 島田洋海 井口竜也



以前、京極夏彦が茂山家のために書いた妖怪狂言、《狐狗狸噺(こくりばなし)》をTVで観たことがある。
キツネとタヌキと山イヌの化かし合い、無限ループに嵌まり込んだような堂々巡りの展開に、リストラダメ男が巻き込まれてゆくというストーリーが茂山家の芸風に合っていて、とっても面白かった。

京極夏彦は新作狂言《新・死に神》も書いているけれど、この日は、いまでは茂山家のスタンダードナンバーとなった、故・帆足正規師による新作狂言の名作《死神》。

京極夏彦の新作狂言《新・死に神》は、落語《死神》のように布団の前後をひっくり返すのではなく、砂時計をひっくり返すという斬新な発想によっていたり、死神が死ぬというドンデン返しが用意されていたりと、京極らしい「味付け」がされている。

それに対し、帆足正規作の新作狂言《死神》は、円朝の古典落語に比較的忠実な内容だが、この日は、ホール狂言の特性を生かしたエンディングがとびっきりカッコかった。


茂山家と落語は縁が深く、とくに米朝一門とは昔から懇意にしていて、いまでも「お米とお豆腐」(「米」朝一門&お豆腐狂言)など、さまざまなコラボ公演が上演されている。

この日のテーマも「狂言と落語」。


最初の《文荷》は、太郎冠者と次郎冠者のキャラが狂言的ということでセレクトされたという。
能《恋重荷》のパロディでもあるこの曲を、実力派の千五郎さんと逸平さんが演じれば鬼に金棒。観客の心をしっかりつかんで放さない。
豊かな声量と確かな発声、絶妙な間の取り方に加えて、ステージ映えする体格と華やかさ。茂山狂言の醍醐味が堪能できた。


次の《骨皮》は、落語《金明竹》のネタになった狂言として採用された。
ほかにも、狂言に取材した落語としては、《鶴満寺》(狂言《花折》)や《松山鏡》(狂言《鏡男》)などがあり、落語と狂言の親和性の高さうかがえる。


最後はいよいよ《死神》
何もかもうまくいかない男(茂山宗彦)が欄干から身を投げて死のうかどうか逡巡しているところへ、死神(茂山あきら)が現われる。

茂山あきらさんは死神役をすでに百何十回も演じていらして、この役は彼の十八番のようなもの。
死神らしい、ジメーッとした陰湿で粘着質な感じがよく出ていて、この役を演じることが心底楽しく、快感なのが伝わってくる。

死神用に誂えたのだろうか、水衣風の晒のような白い衣に頭には三角布をつけ、面は嘯系の面だけれど、ふつうのうそぶきよりも色黒で、怨みがましい不気味な顔立ちだ。

死神は男のことが妙に気に入り、「お前は80歳まで長生きするから、いくら死のうとしても死に切れない」と言い、死神の秘密を伝授する。

「病人の枕元に死神が座っていたらそいつは寿命だから助からないが、枕元に座っていたらまだ寿命ではないので、呪文を唱えて死神を追い払えば病人は助かる」。そう言うと、男に呪文を教えて、消え去る。


……と、だいたい落語《死神》と同じ内容なので、ストーリーの説明は省くとして、「名医」となった男が病人の家を訪れる場面では、ここは狂言らしく、段熨斗目を布団に見立て、2人の召使に頼んで、この布団(熨斗目)の前後を逆に動かしてもらう。これにより、病人の枕元と足下を逆転させて、死神を追い払い、男はたんまりと礼金をせしめる。

(この時の死神は、最初にあった死神とは別の死神なので、茂山あきらさんが別の面をつけていらした。これもちょっと変わった面で、武悪系の変形のような、瞼がだら~んと垂れ下がった不思議な顔をしていた。)


わわしい妻を喜ばせようと家路を急ぐ男は、秘密を伝授された最初の死神にふたたび遭遇する。
死神の秘密を悪用した男のせいで、この死神は「死神組合」に村八分にされたと怒り、真っ暗な洞窟に男を連れていく。

洞窟の奥には無数のロウソクがゆらめいている。
不思議に思った男の問いに、死神はこう答える。「ロウソクはな、みな人それぞれの寿命じゃ。燃え尽きれは、その者は、死ぬ」。

男「では、この勢いよく燃えているロウソクは?」
死神「それは、先月生まれたお前の息子じゃ」

男「この厚かましそうに燃えているのは?」
死神「それは、お前の女房じゃ」

男「じゃあ、この細々と、今にも燃え尽きそうなのは、どいつの?」
死神「それは、お前じゃ」

男「ええっ!! 80歳まで生きると言ったのでは!?」
死神「あそこの、メラメラと燃えるロウソクがお前だったのに、お前があの病人と自分の寿命を取り換えてしまったのじゃ」

なんとかして助けてほしいと懇願する男に、死神は、心中に失敗した片割れのロウソクがあるから、これをうまく継ぎ足せば寿命が延びるだろうと言う。

男は必死で継ぎ足そうとするが、手がぶるぶる震えて……。

死神「ふっふっ、消ゆるぞ」
男「ああ、気が散る。ああ……」
死神「ふっふっふっ」

男「ああ、ああ」(手の震えがとまらない)

死神「ふっふっふっふ、ふっふ」

男「ああ、あ、消、え……」(後ろにバッタリ倒れる)

死神「ほうら、消えた」

(照明がサッと消え、会場は真っ暗に。)













2018年8月24日金曜日

能楽チャリティ公演 《翁》《葵上・梓之出・空之祈》~被災地復興、京都からの祈り

2018年8月23日(木)10時30分~12時30分 ロームシアター京都サウスホール

ナビゲーション 大江信行 英語通訳

能《翁》 片山九郎右衛門
  千歳 橋本忠樹 三番三 茂山千三郎 面箱 鈴木実
  杉市和 林吉兵衛 林大和 林大輝 河村大
  後見 青木道喜 分林道治
  狂言後見 島田洋海 松本薫
  地謡 武田邦弘 橋本礒道 古橋正邦 片山伸吾
     橋本光史 吉田篤史 深野貴彦 梅田嘉宏

狂言《土筆》男甲 茂山逸平 男乙 茂山童司
  後見 井口達也

能《葵上・梓之出・空之祈》 六条御息所ノ生霊 吉浪壽晃
   巫女 松井美樹 下人 島田洋海
   横川小聖 小林努 臣下 原大
   左鴻泰弘 吉阪一郎 石井保彦 井上敬介
   後見 杉浦豊彦 塚本和雄
   地謡 浦部好弘 河村和重 河村博重 河村晴久
      浦部幸裕 松野浩行 河村和貴 樹下千慧




千年以上ものあいだ、呪力によってこの国を守護してきた京都。
この地から、祈りと鎮魂の芸能である能楽━━しかも、祈りのパワーが最大限に発揮される《翁》と《葵上》━━を演じて被災地に思いを届けるという、最高に心のこもったチャリティ公演が今年も開催された。これだけの規模の公演を何年も続けるなんて、なかなかできることではありません。主催者・共催者・協力された方々にはほんとうに頭が下がる。

ロビーでは能楽師さんたちが素敵な笑顔で募金活動をされていて、こちらにとっても貧者の一灯を点すよい機会でした。ありがとうございます!


能《翁》
九郎右衛門さんの翁を拝見するのは、これで三度目になる。
九郎右衛門さんの翁は、うまく謡おうとか、きれいに見せようとか、そういう演者のエゴを感じさせない。
ただ、一途に精魂込めて捧げる祈りの心が、胸に深く、響いてくる。
今回それがとりわけ強く、いつも以上に緊張した面持ちがとても精悍に見えた。
被災地へ祈りを届けようという、凄まじい意気込みと熱意が感じられる。
ここにいる能楽師さんすべてがきっと、同じ思いで舞台に立たれているのだろう。
キリッと引き締まった緊張感が場内を包み、演者の方々の真剣な表情が神々しい。

正先での拝礼は、翁烏帽子の先が床に着くくらいに深々と。
「天下泰平 国土安穏」の謡は、翁と一体となったシテの、魂を絞り出すような予祝の祈り(ここは、感動的で涙があふれてきた)。

翁之舞の袖の扱いはふんわりと、重力とは無縁の、異次元の翁の世界を感じさせる軽やかさ。

こちらも、心を合わせて祈る思いで拝見した。
《翁》は観客に見せるためのものではなく、ともに祈るためにあるのかもしれない。




能《葵上・梓之出・空之祈》
 一度拝見してみたいと思っていた吉浪壽晃さんのシテ。相当の実力派だ。
この日の《葵上・梓之出・空之祈》も予想以上に素晴らしかった!

【梓之出】
小書「梓之出」なので、照日の巫女の口寄せに引かれるように六条御息所の生霊が登場するのだが、このツレの口寄せが、松井美樹さんのちょっとビブラートがかかったような独特の謡で、どこかイタコめいた呪術的で土着的な雰囲気があり、交霊の場面にふさわしい特殊効果を入れたような不思議な感覚があった。
(「天清浄地清浄……」の祓詞が、オシラ祭文のようにも聞こえる。)

こういう依代になり得る存在、霊の「器」としての巫女のもつ神秘性・異質性は、男性には表現しがたい雰囲気かもしれない。


【葵上打擲】
「プ・ポ・プ・ポ」と小鼓の奏でる梓弓に誘われて現れた吉浪さんの御息所の生霊。
病床の葵上に見立てた出小袖を打つところも、品位を崩さず、心の悲痛な叫びのような、悲しげな打擲を、ひとつ。

まるで意識とは別のものに突き動かされて、腕だけがひとりでに恋敵を打擲したかのように、泥眼の面が途方に暮れたような、驚きの表情を浮かべている。

光源氏との逢瀬が過去のものとなったことを恨むところも、愛憎のはざまで揺れ動く女の弱さがにじむ。
鬼になりゆく身ながらも、所々に、可憐さと気品が感じられて、高貴な御息所らしい風情があった。


【後場→空之祈】
小書つきなので物着ではなく、中入後、擦箔に緋長袴という出立で登場。
長髢をくるくる巻いたものを、投げ縄のようにシュルルーッと小聖に投げつける。
こういうところ一つとっても、あざやかな手さばきだ。

「空之祈」で小聖が鬼女(生霊)の姿を見失い、出小袖に向かって懸命に数珠を揉んでいるあいだ(小林努さんのワキもよかった!)、シテは橋掛りへ逃れるのだが、橋掛りで見込むとき、どこか自分の心の奥底をのぞきこむような、内省的な表情がフッとあらわれる。

生霊がふたたび舞台に戻ってきたのは、小聖に救済を求めたからだろうか。

聖の祈りに心が和らぎ、御息所の怨念は成仏する。
常座での留にも、なんとなく雲間から青空がのぞいたような、晴れやかな空気が漂う。

《葵上》って、嫉妬に狂った鬼女の調伏物語ではなく、一人の打ちひしがれた女性がみずからの悲運を受け入れて立ち直っていくお話、心の救済の物語だったのですね、たぶん。



追記:わたしの隣に座っていた女性が、能楽初心者らしきご友人をお連れしていて、終演後、そのお友達が「わあ、すごく良かった!! 誘ってくれてありがとう!」と、とても感激されていた御様子だった。
これをきっかけに、能楽堂にも足を運んでくださるといいな。






2018年8月2日木曜日

片山九郎右衛門の仕舞《玉之段》~片山定期能より

2018年7月29日(日) 京都観世会館
片山定期能七月公演からのつづき

仕舞《玉之段》 片山九郎右衛門
  地謡 橘保向 古橋正邦 味方玄 清沢一政



九郎右衛門さんの仕舞は、なにかもう、別格すぎて、次元が違っていた。

《玉之段》はそれでなくても写実的な演出だけれど、この日の舞では、シテの動きと地謡の詞・節・流れとが見事に溶け合い、その一挙手一投足、顔の角度のわずかな変化から景色があざやかに立ち現れ、物語がスピード感をともなって立体的に浮かび上がる。
その描写力はほとんど魔法のよう。
魔法使いが杖を振るように、シテの動きに合わせて、映像が次々とおもしろいように見えてくる。
まばたきするのも、息をするのも惜しいくらい、片時も目が離せない。


「そのとき人々力を添え……ひとつの利剣を抜き持って」と、シテは肚の奥底から声を響かせ、決然と立ち上がり、死を賭して勢いよく海に飛びこんだ。

舞台の空気が逆巻くようにざわめき、身を躍らせて飛び込む女の姿、跳ねあがる水しぶきの弾むさままで感じとれる。


……あたりは一転、海の底。
舞台の空気もがらりと変わり、密度の高い水の抵抗を感じさせるシテの所作。
子を思う母の気迫、凄まじい執念が、シテの全身にみなぎり、鰐・悪魚ももろともせず、無我夢中で珠をめざす女の一念が胸に迫ってくる。


臨場感あふれる壮絶なチェイス劇の果てに、シテは乳の下を掻き切るのだが、
ここの箇所、胸をグサッとえぐるように剣を突き刺す場合が多いなか、九郎右衛門さんはじつにさりげなく、ほとんど涼しい顔をして、すーっと真一文字に胸の下を扇で斬った。
何の迷いも、力みもない、清々しいほどの潔さ。

こういうところが、九郎右衛門さんの美学だと思う。

気迫で、押して、押して、押していって、最後に、スッと後ろに引く。

やりすぎない、ハズシの美学。









2018年6月17日日曜日

梅若万三郎の《大原御幸》~大槻能楽堂自主公演能 能の魅力を探る 洛陽の春

2018年6月16日(土) 14時~16時45分 大槻能楽堂

お話 六道を見た女院 馬場あき子

能《大原御幸》シテ建礼門院 梅若万三郎
   後白河法皇 塩津哲生
   阿波内侍 上田拓司 大納言局 青木健一
   万里小路中納言 福王茂十郎
   大臣 福王知登 輿舁 広谷和夫 喜多雅人
   供人 禅竹忠一郎
   赤井啓三 久田舜一郎 谷口正壽
   後見 大槻文蔵 赤松禎友
   地謡 浅井文義 多久島利之 山本博通 上野雄三
      寺澤幸祐 武富康之 齊藤信輔 大槻裕一



万三郎師の能を観ると、こういう舞台を観ることはもうないのだろうといつも思う。《定家》の時も、《朝長》も、《野宮》も、《当麻》の時も。
そしてこの日ほど、そうした思いを強くしたことはなかった。もう、こんな《大原御幸》を、建礼門院を、観ることは二度とないだろう。

大槻能楽堂を訪れたのは、学生時代に山崎正和先生の講座で文蔵師の御舞台を拝見して以来(ほとんど前世の記憶……)。なので所属能楽師の方々についてはごく一部しか存じ上げなかったが、その表現力の高さに感じ入った。
囃子と地謡が入ることで、いっそう深まる静けさ、侘しさ、閑寂な気配。
尋ねる人も稀な大原に時おり聞こえる斧の音、猿の声、梢吹く風……まるで効果音のように聞こえてくる囃子。その音色の精妙な響きが、山里のうら寂しく澄んだ空気を伝えてくる。鬱蒼と生い茂る、湿度の高い新緑の香りさえ漂ってくる。
とりわけ赤井啓三さんの笛、そして谷口正壽さんの大鼓に魅了された。

ワキの福王茂十郎さんの謡も見事。その存在感・品格の高さは当代ワキ方随一(この舞台を観て、好きなワキ方さんのひとりになった)。



【前シテ】
かくして舞台は用意され、大藁屋の引廻シが降ろされた。

作り物のなかに三尊形式で坐する三人の尼僧。
中央の建礼門院の顔が、なぜか一瞬、老女に見えた。
長い歳月を掛けて皺を刻んだ老いの顔ではなく、一夜にして白髪になった老女の顔に。
若く美しい女面をつけているにもかかわらず、どうしてそう見えたのかは分からないけれど、時の流れを飛び越えた人間の顔のような印象を受けたのだった。


【後シテ】
幕が上がり、後シテが現れる。
蜻蛉の羽のように薄い紫の水衣をまとったその姿の、尋常ではない美しさ、気高さ。

シテはただそこに存在するだけで、建礼門院のすべてを、魂そのものを具現化していた。
そこには、我というもの、作為というものが微塵もなく、
「私が悲しい」「自分が憐れ」なのではなく、この世の悲しみ、苦しみを一身に背負い、静かに引き受けている、端然とした優雅さ、高貴さがあった。

三島由紀夫は(おそらく銕仙会で観た)《大原御幸》についてのエッセイのなかで、「地獄を見たことによって変質した優雅」「屍臭がしみついている優雅」について語っているが、胸が強く締めつけられるほどのほんとうの美というものは、地獄を見て、屍臭がしみついたその汚点さえも、シミや汚れという景色として、美の一部に変換し、美をいっそう深めていくのだろうか。

そうして、かぎりなく深まった美の体現者が、梅若万三郎の建礼門院だった。
残酷な環境のなかで染み着いたくすみや濁り、そしてその果ての諦観がなければ、真の美などありえないことを、その姿が教えてくれた。
悲惨な記憶を抱えた彼女の内奥に沈澱する汚濁や不純物は、「褪色の美」を際立たせる翳りだった。

もう、シテから一瞬たりとも目を離したくはなかった。
地謡の謡も、囃子の音色も、後白河法皇の言葉も、そのすべてをシテの存在が吸収・媒介し、シテの存在を通して、わたしはそれらを感じていた。



【六道語り】
万三郎師の床几に掛かる姿は、気の遠くなるような修練の結晶。
翡翠のような半透明の輝きを放ちつつ、磨きこまれた鈍く艶のある声で、地謡と一体になりながら粛然と語り出す。

それは法皇に請われるままに紡ぎ出した語りだったが、いつしか死者への弔いとなり、鎮魂の祈りとなり、成道への請願となっていった。

語り進むにつれて、シテのおもてはおごそかさを増し、時として菩薩のような神々しさすら感じさせる。
性急に六道語りを求めた法皇の顔にも、どこか癒され慰められたような安らぎが漂っていた。

語る者、語られる者、そしてそれを聞く者に作用する、語りのちからがここにはあった。

法皇を乗せた輿が橋掛りをしずしずと遠ざかる。
常座に立つシテは静かにそれを見送り、
やがて、
果てしなくつづく寂寞とした山里の日常へと還っていった。



付記1:解説の馬場あき子さん、ますますご壮健で拝聴できたことに感謝。
解説では、その後も長く生き続けた建礼門院に言及し、女人の生命力の不思議さ、たおやかさのなかにある強さについて語っていらしたが、ご自身がそのお手本のような存在だと思う。

付記2:今回で大槻能楽堂自主公演能はなんと、祝650回を迎えたとのこと。
記念に文蔵師の《翁》のポストカードをいただいた。
このような素晴らしい舞台・配役を企画してくださったことに、深謝!

付記3:三島由紀夫ついでに。彼の遺作『天人五衰』のラストシーンは、おそらく《大原御幸》をなかば意識して書かれたものだと思う(タイトルにもそのことが暗示されている)。『天人五衰』では、白衣に濃紫の被布を着た月修寺門跡・聡子に過去のことを語らせず、本多が人生の最後に訪れた寺を阿頼耶識の殿堂として、記憶もなければ何もない場所として描いている。








2018年6月12日火曜日

復曲試演の会《実方》~片山九郎右衛門&京都観世会

2018年6月10日(日)12時30分~17時15分  京都観世会館

講演「水鏡に映った実方の面影」西野春雄

復曲能《実方》シテ 片山九郎右衛門

  ワキ 宝生欣也
  アイ 茂山七五三 茂山忠三郎
  杉市和 吉阪一郎 河村大 前川光範
  後見 味方玄 梅田嘉宏 松井美樹
  地謡 浦田保親 河村晴道  吉浪壽晃 橋本光史 分林道治
     大江信行 林宗一郎 深野貴彦 橋本忠樹 大江広祐

仕舞《白楽天》  大江又三郎
  《小塩クセ》 河村和重
  地謡 橋本雅夫 武田邦弘 浅井通昭 河村浩太郎 大江泰正

仕舞《生田敦盛キリ》片山伸吾
  《胡蝶》    河村晴久
  《融》     青木道喜
  地謡 橋本擴三郎 古橋正邦 河村博重 松野浩行 樹下千慧

能《野守・白頭》シテ 浦田保浩
  ワキ 小林努 アイ 茂山逸平
  森田保美 林吉兵衛 谷口正壽 前川光長
  後見 井上裕久 宮本茂樹 鷲尾世志子
  地謡 杉浦豊彦 越賀隆之 浦部幸裕 味方團
     田茂井廣道 吉田篤史 河村和貴 河村博晃 




型付・片山九郎右衛門、節付・大江信行、監修・西野春雄━━京都観世会の総力を挙げて復曲された能《実方》。
国立能楽堂図書室で梅若六郎(当時)と大槻文蔵シテの《実方》(観世元頼本ヴァージョン)を観たことがあるけれど、今回あらたに「松井文庫本」をもとに復曲された《実方》は従来のものとは趣きが異なり、良い意味で予想を裏切るものだった!

「並びなき美男」で舞の名手でもある歌人・実方が水鏡して恍惚となるところは、たんなるナルシシズムにとどまらない、ワイルド的倒錯とデカダンスを秘めた耽美的世界の極致。
九郎右衛門さん扮する実方が自己陶酔に耽溺する姿は、怖いくらい官能的で、夢と夢とが折り重なり交錯する世界は、どこか鈴木清順の映画を彷彿とさせた。




【前場】

杉市和さんの名ノリ笛と宝生欣哉さんの漂泊の詩人らしいハコビが、陸奥の荒涼とした冬枯れの景色と、冷たく乾いた空気を感じさせる。

道端に実方の塚を見つけた西行は、正先の向こうに塚がある体で、和歌の先達に手向けるべく本曲の主題となる歌を詠む。「朽ちもせぬその名ばかりを残し置きて、枯れ野の薄、形見ぞとなる」(新古今では「形見とぞ見る」)


《砧》の「無慙やな三年過ぎぬることを怨み」を思わせる、胸にぐっと迫るワキの追悼の謡。
この手向けの言葉に引き寄せられるように、「形見とぞなる」で幕がふわりと上がり、シテが幕の中から呼びかける。



初同でさらに冬の陸奥の荒漠たる気色が描き出され、寂寥感が増してゆく。

(緩急・高低・強弱吟を駆使した謡の節付、囃子の巧みなアレンジ、どれもが素晴らしく、とりわけ地謡の完成度の高さは見事!)

復曲能《実方》は、前場・後場それぞれにクリ・サシ・クセがある特異な構成になっており、前場のクセは居グセ。
公演記録で観た《実方》よりもさらに所作や動きを削りに削り、「静」を際立たせた居グセだった。


前場の最後、「今は都に帰るとて」で下居から立ち上がるときは、杖にすがりつくように立ち上がる「老い」を強調した演出。




【中入り→間狂言:二つの夢の入れ子構造・陸奥左遷説への反証】

前シテ老人は、賀茂の臨時祭で舞うために都に帰るといい、雲の波路を行くように橋掛りを進み、三の松で「臨時の舞を御覧ぜよ」と、いったんワキを振り返り、そのままゆっくりと中入り。

クセが2つあるという以外に《実方》が通常の複式夢幻能と違うのは、前場もワキの夢の中の出来事だと設定されている点だ(これが間狂言で明らかにされる)。


堂本正樹いわく「夢の中の老いた霊がさらに若き日を追憶して夢見る、二重構造になっている」という、「二つの夢」が入れ子構造になっており、複雑に入り混じる夢の世界をどう表現するかが後場のカギとなっていた。


また、実方の陸奥赴任は左遷であるという通説への反証として、今回の間狂言では、陸奥赴任を「名誉ある拝任」と実方が受け止めたことをあらわすため、「悠々たる体にて陸奥の国に御下りありて」という言葉が加えられた。




【後場】

後シテ・実方の亡霊は、ほどよく褪色した青竹色の狩衣に灰紫の指貫、太刀を佩き、追懸をつけ、初冠にはみずみずしい竹葉(実方のトレードマーク)を挿した出立。
面は古色を帯びた、すこし翳りのある中将。全体として長身細身に見える、すっきりとした貴公子姿だった。

(従来の《実方》は後シテを老貴人に設定し尉面を用いたが、若い貴人姿で颯爽と登場するのが今回の目玉のひとつ。ちなみに大槻文蔵師所蔵の、老いと若さを兼ね備えた新作面「実方」もあるらしい。)


後場のクセは、舞グセ。

前半は大小前に立ったまま不動の姿勢を保ち、上ゲ扇から閑かで優美な舞へ。
「水に映る影」で、左袖を巻き、「見れば、わが身ながらも美しく」と、開いた扇で顔を隠し、その隙間からそっとのぞく。


シテは川面に見立てた脇正に見入り、恍惚と安座。

そのまま、シテのまわりだけ時間が止まったように、常座前で安座したまま、水面に映る自分の美貌に酔いしれる。


影に見惚れて佇めり━━


うっとりと安座しつづけるシテは、もはや水鏡に映る自分の姿に見入るのではなく、遠い昔、御手洗川に映った自分の姿に見惚れて佇む自分の姿を追懐し、過ぎ去ったみずからの面影に恋い焦がれ。夢の中の夢に、陶然と浸っていた。

自分に恋する者の瞳に映る自分の姿に、惑溺するように。



【老いの影→雷鳴→終曲】

変則的な序ノ舞(?)に入るころには、中将の面が変容したように目もとが変わり、忘我の境地のようなトロンとした表情を浮かべている。

川面に映る自分の姿に老いの影を認めたシテは、水鏡に見立てた左袖をじっと見る。

しかし従来の《実方》のように、タラタラと後ずさりしたり、ヨロヨロした足取りをするなど、老いの衝撃や老衰のさまを劇的にあらわすことはなく、後場での「若さ」から「老い」への変化は終始曖昧だった。 


「賀茂の神山の時ならぬ」雷鳴が轟き、拍子を踏む実方と別雷神が一体化したような瞬間が訪れる。

一の松でシテが左袖を巻きあげたのを合図に、地謡も囃子もやみ、すべてが静止して、水を打ったような静寂があたりを支配する。


音のない、長い「間」━━。


時空がひずみ、花やかな都から一転、冬枯れの陸奥へと舞台は変わり、夢から醒めた西行が目にしたのは、枯れ野の薄を墓標にした実方の塚。


「跡弔ひ給へや西行よ」と言い残して、亡霊は幕の中に消え、

脇座に立つ西行の耳に、実方の声だけがこだましていた。
















2018年5月27日日曜日

片山九郎右衛門後援会能~《蘆刈》

2018年5月26日(土)13時~17時 最高気温30℃ 京都観世会館

能《蘆刈》シテ日下左衛門  片山九郎右衛門
    ツレ左衛門の妻 味方玄 ワキ従者 宝生欣哉
    ワキツレ供人 則久英志 野口能弘
    アイ里人 野村萬斎
    左鴻泰弘 曽和鼓堂 亀井広忠
    後見 橘保向 青木道喜
    地謡 浅井文義 観世喜正 古橋正邦 分林道治
       大江信行 橋本忠樹 梅田嘉宏 大江広祐

狂言《樋の酒》シテ太郎冠者 野村萬斎
    アド主 深田博治 アド次郎冠者 内藤連
    後見 野村太一郎

仕舞《小鍛冶キリ》片山清愛
  《女郎花》  観世淳夫
  《花筐・狂》 観世喜正
  地謡 片山九郎右衛門 青木道喜 古橋正邦 橋本忠樹

能《龍田・移神楽》シテ神巫/龍田明神 観世銕之丞
    ワキ旅僧 宝生欣哉
    ワキツレ従僧 則久英志 野口能弘
    アイ里人 野村太一郎
    藤田六郎兵衛 吉阪一郎 亀井広忠 前川光長
    後見 青木道喜 大江広祐 梅田嘉宏
    地謡 片山九郎右衛門 武田邦弘 古橋正邦 河村博重
       味方玄 分林道治 橋本忠樹 観世淳夫




九郎右衛門さんが初役として挑んだ《芦刈》は、カケリ、笠之段、男舞と芸尽くし、舞尽くしの曲。
「没落した色男のぼんぼん」と「甲斐性のある女性」の組み合わせは、上方恋愛の定番だし、舞台となった高津宮(仁徳天皇が造営した難波高津宮跡)付近は、現在の大阪・日本橋あたり。この曲はいわば『夫婦善哉』の原型なのかも……。

そんなふうに抱いていた《芦刈》の表層的なイメージがくつがえり、新鮮な感動を覚えたのがこの日の舞台だった。

考えてみると、相思相愛の男女のハッピーエンドを描いた現在能ってほとんどない。《船橋》も《錦木》も《女郎花》も亡霊となった男女の悲恋がテーマだし。

九郎右衛門さんが番組に書いていらっしゃるように、《芦苅》は「不可思議で理屈ではなくすすみ、深まる」「男女の愛」を描いた、まさに「大人の恋の物語」。
それを、能でこれほど情感豊かに表現できるというのが新鮮で、蒙を啓かれる思いがした。



【一声・シテの出→カケリ】
(シテの出の前に、ツレ・ワキ・ワキツレの順に登場するのだが、橋掛りをゆく味方玄さんと欣哉さんのハコビが絶品!)

一声の囃子で登場したシテは、ブルーの水衣に、白と青の段熨斗目、白大口という、春の水辺を思わせる爽やかな出立。
葦の挟草を右肩に載せ、男笠を目深にかぶり、どこか哀愁を漂わせる。

(この男笠が、網目が緻密で塗りの見事な笠で、おそらく幽雪師がこだわり抜いた特注品のひとつかも。)

挟草をもって舞うカケリは、先日観た《屋島》(修羅能)のカケリとも、狂女物のカケリとも違っていて、狂おしさよりも、日下左衛門の育ちをあらわす品の良さと、孤独な影を思わせる憂いを含んだカケリ。



【笠之段】
冒頭は鬱屈した胸の内をあらわすためか、謡に力みが感じられたが、笠之段からは「暗」から「明」に転じ、水の都・大阪の起源となった難波津の活気あふれる海辺のようすと、古代宮殿の繁栄が、舞と謡と目線の動きでいきいきと描き出される。

彼方へざらり、此方へざらりと、芸術品のように美しい笠をもって舞う九郎右衛門さんの精彩に富んだ笠之段は、何度も巻き戻して再生したいくらい!



【夫婦再会→夫の衝撃・逃亡】
葦売りが夫であることに気づいた妻は、男に葦を一本持ってくるよう従者に伝える。
シテは葦を笠の上に載せて、女が乗る輿まで運んでゆくが、相手の顔を見てハッと気づき、葦を取り落とす。

この「葦を笠に載せて運ぶ」、という型は幽雪師の演能メモにあったものだろうか。扇に物を載せて差し出すような奥ゆかしさがあり、育ちのいい日下左衛門の所作にふさわしい演出だった。


妻に遭遇した衝撃のあまり、三の松まで逃げ隠れた男は、そのまま下居して彼方のほうを向き、深く、思いに沈む風情。

このときのシテを覆う深く暗い影が、九郎右衛門さんの解説文にあった「女性の訳ありな出世」という言葉と重なり合う。
日下左衛門が煩悶したのは、零落したわが身を恥じただけではなく、妻の「訳ありな」過去を、その豪華な身なりから読み取ったからではないのだろうか……。



【和歌のやり取り→復縁】
妻は一の松へ行き、はるばる迎えに来たことを告げる。そして、もしかするともう別の女性がいるのではないかと男に尋ねる。

そこで男は三の松で、歌を詠む。
「君なくて悪しかりけりと思ふにぞ、いとど難波の浦は住み憂き」

このときの九郎右衛門さんの謡! 
狂おしいほど、切々と謡いあげた恋心。
なんて、せつないのだろう!
恋するひとと別れて、どれほどせつなかったか、やるせなかったか。
明るくにぎわう難波の浦さえも、どれほど鬱々として住みづらかったか。
君がいなければ……。
聴いていて、胸がジーンと熱くなる。


そこで、女も一の松から、歌を返す。
「あしからじ、よからんとてぞ別れにし、何か難波の浦は住み憂き」

味方玄さんの恋情豊かな、潤いのある謡。

二人がいる橋掛りの空間だけ、心を通わす男女のしっとりとした時間が流れ、観ているほうもドキドキ、ときめいてくる。

別のシテで《芦苅》を見た時は、夫婦は唐突によりを戻して、和歌の徳を説き、めでたしめでたし、という印象を受けたけれど、この舞台を観て納得。

現在物でも芝居や写実に傾くことなく、男女の繊細な心の機微を「謡」と「間」と「佇まい」で表現したのが、九郎右衛門さんと味方玄さん、この二人の名手だった。



【男舞】
要所要所で、ビシッと止まる瞬間のカッコよさ。
緩急のリズムに漂う男の色気。
キリリと袖を巻く所作の凛々しさ。
ときおり、ツレの女を見つめ、巻き上げた袖を差し出す。
恋女房との再会・復縁。幸せと喜びと、ほんの少しの苦悩、悲哀……複雑な感情が織り交ざった九郎右衛門さんの男舞。

仲よく連れ立って帰った二人だけれど、はたして、ハッピーエンドの先にあるものは……?
観客に想像の余地を残して、シテは常座で留拍子を踏んだ。





片山九郎右衛門後援会能・狂言《樋の酒》につづく







2018年5月14日月曜日

青嵐会~河村能舞台

2018年5月12日 10時15分~17時30分  河村能舞台



番外能《雷電》シテ 河村紀仁
   ワキ 原大 ワキツレ 原陸 アイ 茂山忠三郎
   杉市和 曽和鼓堂 谷口正壽 前川光長

番外仕舞《笠之段》  林宗一郎
    《自然居士》 河村和重
    《笹之段》  河村晴久

番外舞囃子《須磨源氏・窕》 河村晴道
    杉市和 吉阪一郎 谷口正壽 前川光長 




こちらも、行きたかった能楽堂。
家紋の入った門幕をくぐると、そこは、つくばいと飛び石の置かれた趣のあるお庭。さらに履物を脱いで上がった先には、桟敷席に囲まれた能舞台が。
ドキドキ胸が高鳴るような、ときめく空間。


屋根の下に繊細な透し彫りの入った欄間のある凝った造り


河村晴道さんの社中会へは、東京のセルリアンタワーで開かれた「府中青嵐会三十五周年記念会」にうかがったことがあり、大変豪華な会だったと今でも記憶に残っている(地謡に川口晃平さんが参加されていたのも印象深かった)。
その河村晴道さんの会を、こうして本拠地で拝見できるなんて!

社中の方々もお師匠様の芸風をよく受け継いでいらして、皆さん舞姿のラインがきれいで、とくに手の表情がこまやか。
これは京都のお素人の方々に共通していえることだけれど、美しい間合いというものを心得ていらして、舞のなかに余白や余韻がごく自然に織り込まれている。きっと、美しい余白のある暮らしをされているのだろう。

そして、東京の時と同じく、河村晴道さんの御社中会は番外能・仕舞・舞囃子も充実すぎるほどの充実ぶり(以下は簡単なメモ)。



番外能《雷電》シテ 河村紀仁
河村晴美資産の御子息のお舞台。まだ大学在学中か、卒業されたばかりでしょうか。

前場では、黒い影のようなものが、音もなく、スーッと現れる。
黒頭に怪士の面をつけたシテの登場の際の、気配を消した妖しげな雰囲気が見事。菅丞相の亡霊のメラメラと内に秘めた恨みが立ち込めていた。

後場は凶悪な顰(しかみ)の面で、一畳台の飛び乗り・降りも鮮やか。
そして、先日の大江定期能でも思ったけれど、京都の若いシテ方さんって、面遣いや袖捌きのうまい人が多い。
関西の能楽界が力を入れている養成会の成果だろうか。
それと、河村能舞台も大江能楽堂も修学旅行生を対象にした公演をよく行っているそうだから、そうしたなかで若い人たちも面装束をつけて舞台で舞うという経験を、早くから積んでおられるのかもしれない。

舞台馴れしているように感じさせるほど、袖を巻き、被くところが決まっていて、良い舞台でした。将来が楽しみなシテ方さん。



番外仕舞《笠之段》林宗一郎
林喜右衛門師に似てこられたなあと思うところが、舞の端々に感じられた。

東京からこちらに戻った時にぜひとも拝見したかったのが、林喜右衛門師の舞台(喜右衛門師の仕舞や舞囃子は観たことがあったが、能ではなかったのだ)。
しかし、間に合わなかった……。

林喜右衛門師こそ、もっと評価されてしかるべき方だった。
もっと東京に招かれて能を舞ってしかるべきだったし、NHKで放送されて映像を残しておくべき方だった。
無念で、残念だ。

でも、最晩年の喜右衛門師の芸の一端に触れることができただけでも幸いだったのかもしれない。
その芸系を受け継ぐ方々の舞台をこうして拝見できるのも、能楽愛好者として幸せだと思う。

話は変わるけれど、
林一門の地謡は、宗一郎さんが地頭で入った時と、そうでない時とでは随分違う。
宗一郎さんが入らないときは、京観世(五軒家)本来の謡なのだろうか。
京都の名水のような、やわらかい謡。
宗一郎さんが地頭で入ると、フォッサマグナの向こうの、すこし硬度の高い水が加わる。
宗一郎さんの謡も素敵だけれど、京風の謡もとても魅力的だ。そういうヴァリエーションを楽しみながら、聴いていた。




 
番外舞囃子《須磨源氏・窕》 河村晴道
おそらく河村晴道さんは、林喜右衛門師の芸風をもっともよく受け継いでいる方ではないだろうか。
端正で品格があり、そのうえ晴道さん独自の繊細優美さがある。

観世寿夫はいくつかの著書のなかで「中年の役者は、力量があればあるほど、その人間としての体臭の強さのようなものに観客の反発を買うおそれがある」とか「役者の主張やナマな肉体は、中年以上の場合、どうも邪魔なものとして浮き上がってくるようだ」と言っている。

河村晴道さんは、そうした中年役者特有の体臭やナマな肉体、余計な自己主張を観客に感じさせない、稀有な役者さんのひとり。
舞姿にも清潔感があり、彼が舞う光源氏には貴公子らしい気品が漂うとともに、兜率天に行って「女たらしぶり」を改心したような、聖人君子的な清廉さがあった。


「窕」の小書のため、能であれば早舞の途中に橋掛りの三の松でクツログところを、舞囃子では舞台上で下居のまま、しばし静止する。
この、何もしない静止の状態がじつに雄弁で、シテの美しい不動の姿が観客の想像力を喚起し、時間の空白のなかに源氏物語の世界が絵巻物のように彩り豊かに展開してゆく。

シテの動きそのものが表現過剰に陥らず抑制が利いているからこそ、一瞬のなかに無限の世界が描き出される。


わたしは目の前に展開される美しい世界に惹き込まれ、まるく大きな幸福感に満たされていた。









2018年5月1日火曜日

片山九郎右衛門の舞囃子《弱法師・盲目之舞》・吉阪若葉会その1

2018年4月30日(月) 京都観世会館

舞囃子《弱法師・盲目之舞》 片山九郎右衛門
   森田保美 社中の方 河村大
   地謡 河村和重 河村晴道 浦田保親



九郎右衛門さんの舞台は、どうしてこれほど深く胸を打つのだろう。
途中からグッと何かが込み上げてきて、涙で視界がかすんだ。わたしの後ろの席の人もすすり泣いていた。

「型」という枠が、これほど豊かな表現を可能にする無限性を秘めていることを実感させる舞囃子でもあった。



「東門に向かふ難波の西の海」で、シテは右手に扇、左手に杖を持って立ち上がる。

シテが突く杖はほとんど床に触れることなく、ずっと宙に浮いたまま微かに上下しながら、右へ左へ揺れつつ盲目の俊徳丸を誘導してゆく。

中空を揺れるその杖は、松虫の触角さながらの鋭敏な感覚器官のようで、空気のわずかな揺れにも敏感に反応する、俊徳丸の感じやすく繊細な心のあり方を想像させる。

盲目の俊徳丸━━。
シテはほとんど終始、目を閉じ、その瞼に黄昏色のライトが夕日のように反射して、閉じた目を腫れぼったく見せている。
腫れぼったい閉じた目……その顔は弱法師の面を彷彿とさせた。
先日の仕舞《隅田川》の時に九郎右衛門さんの顔が深井の面と二重写しになったように、不思議なことに、この時もシテの顔が弱法師のおもてに見えたのだ。

別に形態模写をしたわけでもないのに、シテの顔が役のおもてに見えるのは、舞い手が役に没入しているからだろうか、それとも、こちらがあまりにも惹き込まれているからだろうか。


「今は入日や落ちかかるらん」で、シテは閉じた目で西の空を見つめる。
見ているのに、見ていない。
彼が見ているのは自分の心のなかだけであり、心の闇に灯る微かな光を見ているようだった。
孤独と苦悶の果てにたどり着いた、孤高という名の、誰にも立ち入ることのできないユートピアに俊徳丸は生きていた。


「満目青山は心にあり」で、シテは何かを心に押し込めるように、掌で胸をドンと強く打つ。

見たいものは、すべて心の中にあった。
難波の浦の致景も、春の緑の草香山も。


あのときの俊徳丸は、自分の心以外の何物も必要としない絶対的な孤独のなかにいた。
誰がどんなに同情しても、共感しても、
どれほど深く彼を愛しても、それを必要としない絶対的な孤独の姿。
それが九郎右衛門さんの描いた弱法師だった。



九郎右衛門さん演ずる俊徳丸の姿は、繊細で傷つきやすく、何よりも孤独を愛し、自分だけの世界に生きる現代人の姿と重なり、さらには、牽引者としてつねに孤独な闘いに挑んでいる九郎右衛門さん自身の姿とも重なった。


弱法師の深い闇、影の部分。
これこそ、わたしが観たかったもの、求めていたものだった。






吉阪若葉会その2へつづく















2017年12月19日火曜日

梅若玄祥の《景清》~国立能楽堂定例公演

2017年12月15日(金)18時30分~20分45分 国立能楽堂

能《景清》 シテ 梅若玄祥
    ツレ人丸 馬野正基 トモ従者 谷本健吾
    ワキ里人 宝生欣哉
    杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄
    後見 山崎正道 小田切康陽
    地謡 観世銕之丞 浅井文義 西村高夫 柴田稔
       角当直隆 山中迓晶 川口晃平 観世淳夫



ぜひとも拝見したかった玄祥師の《景清》。
演者の人生そのものが芸の肥やしになる曲ほど、この方の存在感がさらに増して、表現に奥行きが出る。《頼政》も《山姥》も、そして《景清》も、他のシテでは物足りなく思えるくらい、玄祥師の演能にはインパクトがある。
配役も最高だし、玄祥師の芸容の大きさに触れた舞台だった。


〈松門之出〉
小書はないけれど、笛のアシライ・松門之応答(会釈)が入る。

杉市和師の笛が、藁屋住まいのうら寂しく侘びれた風情と、景清の厭世的で孤独な心情を切々と奏で、そこへ作り物の中から、シテの声が響いてくる。
凋落のなかにも枯れてはいない、鈍い艶のある謡。


「あさましや窶れはてたる有様を」で、引廻しが下され、景清が姿を現す。
角帽子(沙門)はつけず、ロマンスグレーのような白垂に墨色の水衣・白大口という、シックな出立。
景清の面にも品格があり、老残・落魄の底でほの白く光る、武士の気概や矜持を強く感じさせる。
床几に掛けるシテの姿は端正で、胸を打つような美しさ。
ふだんの玄祥師のふくよかさや丸みは微塵も感じさせず、芯の通った精神の骨格が衣を着たような直線的な印象さえ受ける。


ツレやトモ、ワキとのやり取りの時でも、シテは面の裏で目を閉じているのではないかと思わせるほど、相手の声を聞いてから顔をそちらのほうへ向ける。
それも、相手に正対して目を合わせるのではなく、わずかに角度をずらすため、いかにも耳だけで反応しているように見える。

杖のつき方も、じつにさりげない。ごく自然に目の不自由な人が身体の一部として使っている様子。



〈父娘の対面〉
欣哉さん扮する人情味あふれる里人の引き合わせで、景清と人丸は対面する。
馬野さんの人丸が、とても可愛らしい。
おそらく謡曲中、最も長い道のり(鎌倉→宮崎)を、父に会いたい一心で旅してきた人丸のひたむきさ、健気さが感じられた。
トモの谷本さんも、人丸の一途な思いをなんとか実らせようと、若い娘を長い道中ずっと守り続けてきた硬派なボディーガードの雰囲気。

父と娘は見つめ合い、「疎き人をも訪へかしとて怨みそしる」で、景清は人丸の頬に愛情をこめて手を当てるような所作。
目が見えない分、せめて頬に触れて、娘の存在とぬくもりをたしかめようとする父の思いが伝わってくる。



〈錣引きの仕方話〉
「景清これを見て」で、鼓の特殊な手が入り、シテは水衣の肩を脱ぎ、
「物々しやと夕日影に」で床几から立ち上がり、
「打物ひらめかいて」と、右手の扇を見、
「斬ってかかれば」で、太刀に見立てた扇を振り下ろし、
「兵は四方へぱっとぞ逃げにける」で、左右に面を切る。

屋島の合戦での武勇伝を語る場面は、玄祥師らしく写実的で大胆な表現になるかと思っていたが、比較的抑制が利いていた。
これが、この日の気格高い景清の雰囲気と合っていて、若き日の自分の姿を俯瞰して追憶しているようにも思える。
武士の誇りを持ち続けつつ、人生に対する未練よりも、達観に近づいている感じを受けた。




〈今生の別れ〉
語り終えた景清は、別れの時が来たことを娘に告げる。

「さらばよ留まる」「行くぞとの」で、景清は諭すように娘の背中を押す。
人丸の背中から離れたその指が、立ち去ろうとする娘を引き留めるように、微かに震えている。
景清の、言葉にできない心の内を、震える指が語っている。

指の先から見えない触手が伸びて、人丸に絡みつこうとしているかのよう。
心と行動の矛盾。
伝えられなかったほんとうの想い。

こういうところの表現が、とりわけ見事だった。








2017年11月21日火曜日

片山九郎右衛門の《三輪・白式神神楽》後場~片山幽雪追善

2017年11月19日(日)11時~17時40分  国立能楽堂
《三輪・白式神神楽》前場・片山幽雪三回忌追善能からのつづき
白式神神楽でも、この長い橋掛かりが効果的に使われた

能《三輪・白式神神楽》シテ 片山九郎右衛門
   ワキ 宝生欣也 
   アイ 野村万蔵
   杉市和 吉阪一郎 亀井広忠 前川光長
   後見 浅見真州 青木道喜 味方玄
   地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 観世喜正 山崎正道
      片山伸吾 分林道治 橋本忠樹 観世淳夫


拝見するたびに、スケールが大きくなっていく十世片山九郎右衛門。
(そして怖ろしいほど多忙さも増していく。すこし心配なのです。)



【後場】
〈後シテの登場〉
なほも不審に思し召さば、訪ひ来ませ、杉立てる門をしるしにて━━。

女神の三輪明神が、男神の住吉明神に贈ったとされる歌「恋しくは訪ひきませ千早振三輪の山もと杉立てる門」にもとづくこの言葉には、禅竹らしい色めいた魅力が含まれている。

里人の勧めに後押しされるように、玄賓僧都が杉の神木を訪れると、木陰から女神が姿を現す。

「神体あらたに見え給ふ」で、引廻しが下ろされ、後シテがまばゆい姿で出現する。
純白の狩衣を衣紋に着け、白大口、髪は鬘帯の着けないオスベラカシ。
大きな榊を、右手に立てて持っている。



〈クセ・三輪神婚譚〉
三輪神婚譚が語られるクセは、舞グセではなく、作り物に入ったままの居グセ。
玄祥師・地頭、銕之丞師・副地頭、両脇に喜正さん・山崎正道さん、前列には淳夫さん+片山門下の面々という最強の地謡が、神話の世界に描かれた、女の疑念・不信、歎き、衝撃、執着など、今日まで続く女の不幸の根元を謡いあげる。

神婚譚を語る形で静かに佇むシテの全身から、おごそかな光が放射されているよう。シテのまわりが、明かりが灯ったようにぼうっと明るくなっている。

「帰るところを知らんとて」で、シテは立ち上がって作り物から出、「まだ青柳の糸長く」で、左袖に右袖を重ねるように巻き上げる。



〈イロエ〉
シテ「八百万の神遊」、地「これぞ神楽の初めなる」、
シテ「ちはやぶる」で、常座に立って榊を振り、
そこから大小前へ至り、クルクルと回りながら正先で下居。
榊を押しいただき、左右左と振る。端から勢いよく振り、中央でいったん止めて、もう一方の端へやさしく振りきる。そこから立ち上がって榊を振りながら、立廻り。

場が清められ、こちらの罪や穢れも浄化されていく気分になる。

光を放つ、このうえなく清らかな女神。物腰もうっとりするほどエレガントで、幅広の大口との対比で、足首がほっそりとして淑やかに見える。



〈神楽〉
シテは「天岩戸を引き立てて」で、常座に戻り、
地「神は跡なく入り給へば」と、両袖を被いて身をかがめ、
地「常闇の世と早なりぬ」で、かがんだままの姿勢で廻り、
シテ「八百万の神たち」で、下居して両袖を下ろすと、
立ち上がって、

岩戸の前にてこれを歎き━━

「歎き」の語尾は、神々の慟哭をあらわすように、かすれ、尾を引く。

あたりは、漆黒の闇。
光のない世界。

神楽の序は、擦拍子。
打楽器の掛け声はなく、大小太鼓が一粒ずつ打ち、
シテは、暗闇をさぐるように、静かな足拍子を踏む。

杉市和さんの笛の音が木霊する暗闇のなか、
シテの姿だけが白く発光しながら、
こちらに迫ってくる。

ハッと息を呑んだまま呼吸が止まりそうなほど、崇高な感覚に襲われた。
宗教感覚というのは、こういうものかもしれない。
なぜか、身体がふるえて、ふるえながらシテの舞を観ていた。

女神の舞なのか、女神に捧げる舞なのか、そういう区別もなくなり、
男女の性も揺らいで、
シテはこの瞬間、この世で最も美しく、崇高な存在だった。


地直リで、榊から扇に持ち替えたシテは橋掛りに進み、
三の松で、風に揺蕩うようにくるくるとまわったのち、
間を置いて、ゆっくりと左袖を被き、
さらに間を置いて、右手の扇で顔を隠して翁の型。
(九郎右衛門さんのこの「間」! わたしの愛する美しい間の取り方!)


そこから少し後ずさりするように、身を引いたあと、
視界がほとんど効かないなか、大小太鼓のナガシで、
サーッと暁光が射すように、長い橋掛りを駆け抜け、
舞台に至り、さらに作り物に入って下居。




〈終曲〉
「岩戸を少し開き給へば」で、雲ノ扇。
作り物から出て、見所を八百万の神々に見立ててて、
「人の面白々と見ゆる」で、左右を見まわし、
「面白や」と、ユウケン。


シテは一の松で左袖を巻き上げたまま、
「関の戸の世も明け」で、東の空を見上げたのち、
そのまま揚幕の向こうへと消えていった。


覚むるや名残なるらん

玄賓僧都は脇座前で下居して合掌。


シテの居た場所には、光の残影がまだ漂っていた……。





《隠狸》《三笑》《石橋》へつづく




2017年11月20日月曜日

《三輪・白式神神楽》前場~片山幽雪三回忌追善能

2017年11月19日(日)11時~17時40分  国立能楽堂
能《海士・二段返・解脱之伝》・舞囃子《頼政》からのつづき
帰りは、とっぷり日も暮れて

能《三輪・白式神神楽》シテ 片山九郎右衛門
   ワキ 宝生欣也 
   アイ 野村万蔵
   杉市和 吉阪一郎 亀井広忠 前川光長
   後見 浅見真州 青木道喜 味方玄
   地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 観世喜正 山崎正道
      片山伸吾 分林道治 橋本忠樹 観世淳夫



凄いものを観てしまった。
ずーっと観たかった九郎右衛門さんの白式神神楽は、予想をはるかに超えていた。ヴァーグナーの神話劇のような壮大な世界が目の前で展開して、圧倒されるような迫力、ドラマ性に、文字通り身体がふるえた。

能の醍醐味を余すところなく詰め込んだ巧みな演出と、それを十分に生かした選び抜かれた演者たち。この舞台を拝見できて、ほんとうによかった!!


【前場】
〈ワキの登場〉
笛の調べに誘われるように、ワキの玄賓僧都があらわれる。
杉市和さんが奏でる笛の音と、欣哉さんの姿・ハコビが、うら寂しい秋の大和路、三輪山の麓の枯れた景色、冷たく澄んだ空気の質感を映し出す。

『発心集』などを読むと、玄賓僧都は高貴な人妻に恋をしたことがあり、不浄観によって煩悩を克服したという。
玄賓といえば、遁世僧のイメージが強いが、その厭世的な枯淡の風情の奥底に、ほのかな色ツヤ、かすかな余焔が感じられる。欣哉さんの演じる玄賓像にはそんな雰囲気が漂う。



〈シテの登場〉
この次第の囃子もよかった。
広忠さんの抒情的な掛け声。この日は、濁りのない響き。囃子後見には源次郎さん、忠雄さんなど、そうそうたる顔ぶれ。

シテの繊細なハコビが、道なき道をはるばる訪ねてきた女のほそい足を印象づける。
出立は一見シックでも、よく見ると精緻な文様が施された紅無唐織。手には桶。面は、目鼻立ちのはっきりした艶麗な深井。


シテは一の松で立ち止まり、秋の山路を見渡すようにしばし見所を見入ったのち、後ろを向いて、「三輪の山もと道もなし、檜原の奥を訪ねん」と謡いだす。

ここの次第は三遍返し。地取りを受けてのシテの返しは、高音に張った調子で、山道を分け入る感じが強調される。
この時、シテはずっと後ろを向いたまま。

九郎右衛門さんの後姿が美しい。
唐織着流は難しく、名手でも高齢の人は背中が丸まっているし、比較的若い人は隙があって、鑑賞に堪える後姿の人はそう多くはない。

九郎右衛門さんの唐織着流の後姿は、中年の女性が歩んできた人生の翳りのようなものをまとっていて、それがこの女性のどこか後ろめたい罪の意識と、そこから生まれる奥ゆかしさにつながっていた。


(次第の「檜原の奥」にある檜原神社は、元伊勢とも呼ばれており、ここが地理的にも、終曲部で謡われる「伊勢と三輪の神」とが重なり合う土地であることが伏線的に示されている。)



〈庵室へ→シテとワキのやり取り→中入〉
玄賓の庵にたどり着いたシテは、僧との掛け合いののち、左手で「柴の網戸を押し開」く所作をして庵のなかへ入り、「罪を助けてたび給へ」と、手を合わせて懇願する。

ここのところは、イエスの足もとに跪き、香油を塗ったマグダラのマリアを思わせる。なにか、罪深い女の原型のようなもの、そして、それを赦す聖者のイメージと、両者の心の交流の物語が、洋の東西を問わず存在したのかもしれない。
(この場合、樒・閼伽の水が「香油」にあたる 。)


所望した衣を、玄賓から受け取るシテの姿がとても印象的だった。
まるで恋い焦がれた憧れの人から、大切なものを受け取る可憐な少女のよう。はにかむように、悦びを噛み締めるように、左腕に衣を愛おしく抱きしめる。

そして、僧と女は、心を込めてじっとたがいを見つめ合う。

何かが、たしかに、二人のあいだに流れている。
敬慕する側と、敬慕される側。
思いを受け取り、思いを与え合う、そのことがこちらにも伝わってくる。

九郎右衛門さんと欣哉さんならではの、心に残るシーン。
シテからワキへ、演者から観客へ。心より心に伝ふるもの……。





《三輪・白式神神楽》後場につづく