2019年2月26日火曜日

ドナルド・キーン氏への挽歌《源氏供養》~京都観世会二月例会

2019年2月24日(日)11時~16時40分 京都観世会館
《烏帽子折》からのつづき

能《源氏供養・舞入》シテ 杉浦豊彦
 安居院法印 江崎欽次郎 
   従僧 大坪賢明 和田英基
 左鴻泰弘 林吉兵衛 山本哲也
 後見 井上裕久 林宗一郎
 地謡 大江又三郎 浦田保浩 越智隆之
    河村晴久 浅井通昭 松野浩行
    橋本忠樹 河村浩太郎

仕舞《白楽天》牧野和夫
  《笹之段》浦部好弘→浦部幸裕
  《須磨源氏》武田邦弘
橋本礒道 塚本和雄 橋本擴三郎 浅井通昭

能《烏帽子折》烏帽子折/熊坂長範 大江信行
 妻 宮本茂樹 牛若 大江信之助
 吉次延高 有松遼一 吉六 岡充
 若者頭 田茂井廣道 立衆 大江広祐
 梅田嘉宏 浦田親良 味方團 
 大江泰正 河村和貴 樹下千慧
 亭主 網谷正美 早打 井口竜也
 盗人 茂山千之丞 あきら 島田洋海
 大野誠 林大和 石井保彦 前川光範
 後見 片山九郎右衛門 橋本光史
 地謡 河村和重 青木道喜 浦田保親
    吉浪壽晃 分林道治 吉田篤史
         深野貴彦 河村和晃

  
順番は前後しますが、《源氏供養》の感想も記録のために少しだけ書いておきます。

(能《弱法師》はわたしの期待が大きすぎたため、どうしても減点方式で観てしまい、結果、書いたブログもなんだかもやもやした内容になってしまったので削除しました。)


さて、この日の《源氏供養》には「舞入」という小書がついているため、通常はイロエの部分が中ノ舞に替わります。

シテの中ノ舞での袖の扱いが素敵でした。とくに二段オロシで袖を被くところ、紫長絹の袖がふんわりと面のまわりを縁どり、美しい女面(増でしょうか)の目元が潤いを帯びたようにしっとりと輝いて、印象的でした。


この曲には間狂言がないので、装束替も大変だったと思いますが、後場では紅入唐織から烏帽子・紫長絹・緋大口に美しく着替えた後シテが登場。後見の井上裕久さん、林宗一郎さんの手際の良さがうかがえます。
左鴻さんの笛も良かった。


《源氏供養》のワキは、唱導文芸の大家・安居院(あぐい)法印なのですが、数珠の房の色が赤みがかった紫色をしていて、ほかの緋房や紺房・茶房とは一線を画しているようなイメージ。
(最高の僧位・法印だから紫なのかな? 紫式部の「紫」とも呼応して、ワキの端正な佇まいに合っていました)。


安居院法印・聖覚がつくったとされ、源氏供養の法会で唱えられる「源氏物語表白」の文章がクセで謡われるのが、能《源氏供養》の最大の特徴です。


このクセの文句が面白く、『源氏物語』の巻名が、隠し絵のように織り込まれています。
光源氏の妻や恋人たち、甘美な逢瀬の数々や思い悩み苦しんだこと、悲しい別れ、報われぬ思い、源氏没後の宇治十帖、そして最後に夢の浮橋を渡って、阿弥陀如来の来迎によって極楽浄土に迎えられるまで、『源氏物語』の名場面がサブリミナル効果のように意識下の奥底に去来します。


わたしがはじめて『源氏物語』を読んだのは、原文ではなく英訳版"The Tale of Genji"(サイデンステッカー訳)だったのですが、奇しくもこの日は『源氏物語』をこよなく愛したドナルド・キーンさんが亡くなられた日。
この《源氏供養》は、キーンさんをあの世におごそかに送り出す、手向けの曲でもあったのかもしれません。いま振り返ると、そうだったのなのかなぁと思います。


キーン氏の数々の著作、とくに日本文化論や比較文化論が大好きでした。
(日本人の美意識の特徴として、suggestion(暗示), ambiguity(曖昧さ),irregularity(歪さ), simplicity(簡素さ)への志向を挙げたのはまさに慧眼。)


能狂言にも造詣の深かったドナルド・キーン氏、
心よりご冥福をお祈りいたします。












2019年2月25日月曜日

《烏帽子折》~京都観世会2月例会

2019年2月24日(日)11時~16時40分 京都観世会館
自宅近くの神社に咲いていた鴛鴦(えんおう)梅。
一花で二実が成ることから夫婦梅とも呼ばれるこの梅は、世阿弥本《弱法師》を思わせます。

能《弱法師》シテ 味方玄
 高安通俊 小林努 下人 茂山逸平
 杉市和 曽和鼓堂 河村総一郎
 後見 橋本雅夫 片山伸吾
 地謡 武田邦弘 古橋正邦 河村晴道 
    河村博重 浦部幸裕 大江広祐 
    樹下千慧 浦田親良

狂言《二九十八》男 茂山千三郎
 夢想ノ妻 松本薫
 後見 鈴木実

能《源氏供養・舞入》シテ 杉浦豊彦
 安居院法印 江崎欽次郎 
   従僧 大坪賢明 和田英基
 左鴻泰弘 林吉兵衛 山本哲也
 後見 井上裕久 林宗一郎
 地謡 大江又三郎 浦田保浩 越智隆之
    河村晴久 浅井通昭 松野浩行
    橋本忠樹 河村浩太郎

仕舞《白楽天》牧野和夫
  《笹之段》浦部好弘→浦部幸裕
  《須磨源氏》武田邦弘
橋本礒道 塚本和雄 橋本擴三郎 浅井通昭

能《烏帽子折》烏帽子折/熊坂長範 大江信行
 妻 宮本茂樹 牛若 大江信之助
 吉次延高 有松遼一 吉六 岡充
 若者頭 田茂井廣道 立衆 大江広祐
 梅田嘉宏 浦田親良 味方團 
 大江泰正 河村和貴 樹下千慧
 亭主 網谷正美 早打 井口竜也
 盗人 茂山千之丞 あきら 島田洋海
 大野誠 林大和 石井保彦 前川光範
 後見 片山九郎右衛門 橋本光史
 地謡 河村和重 青木道喜 浦田保親
    吉浪壽晃 分林道治 吉田篤史
         深野貴彦 河村和晃

  

この日の舞台で良かったなあと思ったのは、《源氏供養》での左鴻さんの笛と、浦部幸裕さんが代演した仕舞《笹之段》、そして《烏帽子折》でした。

《烏帽子折》は初めて観るけれど、総勢32人が出演する大掛かりな曲。場面展開もスピーディで、これをスムーズに連携させていくのは難しいのではないでしょうか。

シテの大江信行さん。
やっぱりこの方、うまいですね。

現在物のセリフ回しも巧みで、たとえば、牛若丸から賜った小刀を観た妻がシオルところなどは、「(刀を)よくよく見候へ」と「あら不思議や……さめざめと落涙は何ごとにて候ぞ」のあいだに絶妙な「間」を置いて、長年連れ添った妻が源氏の武将の妹だったというドラマティックな展開へと自然な呼吸でつないでいて見事でした。


地謡が左折の烏帽子のめでたい先例について謡うところも、瞬きひとつしないほどの美しい不動の下居姿。
烏帽子折の先祖が住んでいたという「三条烏丸」(謡では「からすまる」)といえば、ほとんど大江能楽堂のあたりだから、前シテ・烏帽子折亭主と大江信行さんがますます二重写しにダブってきます。

後シテの熊坂長範も迫力満点。
最後の牛若丸に真っ二つに斬られた時は、三の松でダイナミックな仏倒れ。
その後、子方さんに注意が向いていて見逃してしまったのですが、シテは幕へ飛び込むように消えていったのかしら? 気がつくと、幕が大きく揺れていて、シテの姿が消えていたから。どんなふうに消えたのか、見たかったなあ。


子方さんの大江信之助さんも刀さばきが見事で、大役を立派に勤められてました。

立衆の方々も見応えのある斬られっぷり。
大江広祐さんがキレのある身のこなしで、宙返りも決まっていました。田茂井さんと河村和貴さんがきれいな仏倒れ。けっこう大柄な方々だけれど、体がしなやかで凄い背筋。

味方團さんだけがほかの立衆とは違う装束(頭巾に長刀)で、最初は牛若丸との斬組で、なぜか途中から同じ立衆の人と斬り合い、最後に牛若に斬られるのだけれど、あれはなんだったのだろう? 盗賊の仲間割れ?


最後の最後にようやく太鼓が登場するのですが、さすがは前川光範さん。この方の太鼓が入ると、舞台がさらに生き生きとして活力がみなぎり、熊坂の最期が華やかに彩られます。ピンッと微動だにしない姿勢で座りつづけているところも、きれいだなあと見入ってしまう。

(それにしても、現在物に太鼓が入るのは珍しい。《烏帽子折》の古名が《現在熊坂》だったという説もあるから、もしかすると熊坂長範がのちに幽霊として現れることを予告する意味合いもあって、太鼓が入るのでしょうか? それとも。。。)



ドナルド・キーン氏への挽歌《源氏供養》へつづく



2019年2月5日火曜日

《鷹姫》ディスカッション~舞台芸術としての伝統芸能

2019年2月3日(日)14時~16時20分 ロームシアター京都

第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
 老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
 岩 浅井文義 河村和重 味方玄 
   浦田保親  吉浪壽晃 片山伸吾
   分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
 竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
 後見 林宗一郎

第二部 ディスカッション
 観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄



《鷹姫》後場からのつづきです。

休憩をはさんで、ディスカッション。
舞台を終えたばかりで大変だなあ。

でも、銕之丞さん九郎右衛門さんと義兄弟そろってお話を聞くのははじめてだし、九郎右衛門さんはもとより、銕之丞さんのトークも好きなので、観客としてはうれしい。

お話は西野春雄さんが半分くらいを担当されて、九郎右衛門さんと銕之丞さんのトークは四分の一ずつくらい。


印象に残ったのは、九郎右衛門さんのお話。
九郎右衛門さん曰く、幕から出て幕へ帰っていく能舞台には決まりごとが多いが、そのことで「守られている」ように感じたという。

だだっ広い劇場空間では、何もないところから作り込んでいかなくてはならない。とくに、能《鷹姫》のもつ輪廻感、ループ感は、能舞台では表現しやすいけれども、劇場空間ではこれがなかなか難しいとおっしゃっていた。


輪廻感・ループ感とは関係ないかもしれないけれど、この日わたしが感じたのは、エンディングの空虚感というか、「間の持たなさ」だった。
鷹姫が消え去ったあと、空賦麟は不動のまま泉の前で安座し、動いているのは老人だけ。なにかこう、間のびした感じが延々と続いたような感覚があった。

たとえば、同じように老人が妄執を抱く《恋重荷》などは、美しい女御が最後まで舞台に出ていて、老人に責めさいなまれる。舞台上には、サディスティックであでやかな花が最後まで咲いている。

いっぽう、鷹姫のいない後半の《鷹姫》は明かりの消えたステージのような華のない欠如感が続いていた。
これは、作曲した横道萬里雄が老人の執念にウェイトを置いたことが原因だと思うけれども。


また、空間設計については何度も何度も練り直したらしく、担当されたドットアーキテクツの方々に「何度も作り直していただき、この場をお借りして感謝申し上げます」と九郎右衛門さんから謝辞が捧げられた。演出サイドも相当ご苦労されたのですね。



1967年の初演以来ずっと《鷹姫》を観つづけてきた西野さんは、近年はいろいろな演出がされいて、なかには「やりすぎだ」と思うものもある、という趣旨のことをおっしゃっていた。
九郎右衛門さんも、今回ちょっとやりすぎた部分もあったかもしれない、というようなことを匂わせておられた。


個人的には、今回の演出はとても好きで良かったと思う。とくに、鷹姫が魔の山の頂まで飛翔して(実際には急斜面を駆け上って)消え去る演出はすばらしかった。

ただ、音響効果は不要だったのではないだろうか。
冒頭の風の吹きすさぶ音は、たとえば、竹市学さんの笛の物寂しい音色でいくらでも表現できるだろう。
水が湧き出る際の、ゴボゴボッという音も、スモークと照明、そしてコロスの輪唱だけでも、水が湧き出るさまが十分に伝わってくる。

《鷹姫》に限らず、能には人工的な効果音は不要だとわたし自身は思っているけれど、そういう価値観もこれから変わっていくのだろうか……?


あれこれ書いたけれど、この日の舞台と九郎右衛門さんの鷹姫は、わたしにとって一生の思い出になると思う。

素敵なお舞台、ありがとうございました。





2019年2月4日月曜日

舞台芸術としての《鷹姫》後場~ロームシアター京都

2019年2月3日(日)14時~16時20分 ロームシアター京都

第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
 老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
 岩 浅井文義 河村和重 味方玄 
   浦田保親  吉浪壽晃 片山伸吾
   分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
 竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
 後見 林宗一郎

第二部 ディスカッション
 観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄

舞台監督:前原和比古、照明:宮島靖和
空間設計:ドットアーキテクツ



《鷹姫》前場:舞台芸術としての伝統芸能からのつづき

前半では、動きが抑制された「静」の場面が展開したが、クライマックスはダイナミックで華やかな「動」の世界。そこからエンディングに向けて、枯渇、死、そして虚無の世界へと向かっていく。
このメリハリのきいた舞台展開、舞台美術・照明と、能の芸の技の組み合わせは見事だった。


【空賦麟と鷹姫の闘い】
老人が去り、鷹姫と二人きりになった空賦麟。

岩「空賦麟は鷹を見つ」

空賦麟の視線を感じた鷹姫は、袖を巻いて大きく羽ばたき、空賦麟に挑みかかる。空賦麟は剣で応戦。
ここから、鷹姫と空賦麟の一騎打ちに━━。

九郎右衛門さんの両袖を激しく巻く所作は、猛禽類の羽ばたきそのもの。
おそらく喜多流の新作能《鶴》のように、舞衣の袖を長く着付けたのではないだろうか。通常の袖よりも幅広で長い袖を巧みにひるがえす。

袖を巻くタイミングも速度も絶妙だった。
けっして形態模写をしているわけではなく、能の品格と舞のような美しさを備えつつ、美しい女の顔をしたセイレーンのような「怪鳥のイデア」を体現している。

バタバタッと翼で襲いかかる鷹姫に、必死で抗戦していた空賦麟だが、やがてその妖力に負けて、寝入ってしまう。


【湧き出る泉の水→急ノ舞】
そのとき、岩たちが呪文を唱えはじめた。

あたさらさまらききりさや…ききりさやおん、かからさやうん
水よ、水よ水よ、水よ水よ水よ

正先の岩に囲まれた泉から、スモークがもくもく立ちのぼり、ゴボゴボッゴボッと、水が湧く効果音が聞こえてくる。

正先に駆け寄り、泉をのぞく鷹姫。
泉の奥から光があふれ、鷹姫の顔を照らす。ライトアップされたその顔は、神々しいまでに輝き、光を放つ不死の水と共鳴していた。
扇で水を汲む所作をした鷹姫は、「しめしめ」とばかりに、霊水を手にした歓びの舞を舞う。

この急ノ舞風の舞は、《紅葉狩》で維茂が寝入るのを見届けた鬼女が急ノ舞を舞うところから着想を得たのかもしれない。



【持ち去られた不死の水】
急ノ舞の終わりころ、鷹姫はポンッと大きく拍子を踏み、空賦麟にかけた魔法を解く。
ハッと目覚めた空賦麟は、不死の水を手にした鷹姫を必死で追いかけてゆく。

鷹姫は、舞台奥の急斜面のスロープを身軽な身のこなしで駆けあがり、魔の山へと飛翔しながら消えていった。

ここの魔術的な飛翔の表現と、それを見事にこなした九郎右衛門さんの身体能力は「ブラヴォー!」のひと言に尽きる。
面をかけたほとんど見えない状態の縫箔腰巻姿で、あの急斜面を一気に、しかも、この上なく美しく、妖気を漂わせながら駆け上っていくなんて! 


鷹姫を逃した空賦麟は、正先へ駆け戻り、水を求めて泉をのぞく。
しかし、泉のなかは空っぽ。
もはや不死の水が放つ光は消え、またもとの涸れた泉があるだけだった。
精魂尽き果てたように、愕然と安座する空賦麟。

(空賦麟役の宝生欣哉さんが凄かったのは、このがっくり安座した状態から終演まで、ずーっと長いあいだ不動のままだったこと。おそらく瞬きもほとんどしなかったと思う。)



【幽鬼(老人)の登場→終幕】
するとそこへ、不死の水への妄執ゆえに幽鬼となった老人が現れる。

出立は前場と同じ着流、白い縒水衣の下に金色の法被を着ていて、さりげなくゴージャス。髪は前と同じく結わない尉髪。手には鹿背杖。
面は、重荷悪尉? 鷲鼻で額には深い皺が刻まれ、怨念のこもった恐ろしい形相をしている。

老人「いかに空賦麟、さても得たるか泉の水…」

怨念のこもった暗い情念のメラメラとした燃やし方などは、銕之丞さんの持ち味が生きていた。執念渦巻く、どす黒く、よろよろした立ち廻りがリアル。悪尉の面の雰囲気とも凄くあっている。まさに、はまり役。

最後は、老人(幽鬼)が下居して岩と化す。
鹿背杖を空賦麟に手渡し、今度は空賦麟が泉の水が湧くのを待ち続けながら老いてゆくことを暗示して終幕。

(ふつうの能舞台と同様、老人、空賦麟、岩たちの順に舞台袖へと帰っていくのだけれど、ここは、通常の舞台演劇のようにサッと幕を下ろしたほうがドラマティックだったかも。)



《鷹姫》裏話ディスカッションへ続く




追記:原作との違い
《鷹姫》の上演を見て感じた、イェイツの戯曲"At the Hawk's Well"との主な違いは以下のとおり。

(1)three musicians(3人の楽人たち)と岩(コロス)
"At the Hawk's Well"では地謡と囃子方を兼ねたthree musicians(仮面のようなメーキャップを施している)が登場する。いっぽう《鷹姫》では、ギリシャ仮面劇から想を得たコロスが登場する。能へのコロスの導入は画期的。

(2)主人公の違い
"At the Hawk's Well"ではクー・フーリンが主人公に想定されているが、《鷹姫》では老人or鷹姫がシテに設定されている。

(3)鷹姫のキャラクターの違い
"At the Hawk's Well"では、泉を守る少女に、山の魑魅Sidheが取り憑いて、老人と若者に呪いをかける。だが、《鷹姫》では鷹姫は最初から魔物として登場する。

(4)結末の違い
"At the Hawk's Well"では、泉の水が得られなかったクー・フーリンは、老人を残してさっさと立ち去ってゆく(イェイツの連作へとつながっていく)が、《鷹姫》では、空賦麟が老人と同じ運命をたどることが暗示される。

イェイツの戯曲では欧米の他の作品と同じく、直線的な構造をしているのに対し、《鷹姫》は、禅竹作品に見られるような円環構造を示している。西洋と日本の世界観の違いが反映されているようで面白い。

(5)hazelと榛(はり)の違い
"At the Hawk's Well"では、葉の抜け落ちたhazel(榛:ハシバミ)の根元に泉があることになっている。それに対して、《鷹姫》では、榛(はり)の小林の根元に泉がある設定。榛(はり)はハンノキの古名で、ハンノキは英語でalderという。
おそらく"At the Hawk's Well"の邦訳で「榛(はしばみ)」とされていたのを、能の詞章を書く際に、「榛(はり)」と読み間違えてしまったからだと思う。

イェイツが、葉の抜け落ちたhazel(ハシバミ)の根元に、不死の水が湧く泉があるという設定にしたのには意味があると思う。

ハシバミは、ドルイド僧が儀式を行う際に用いた樹木のひとつであり、ハシバミの実は「知恵の実」とされた。また、古代ケルトではハシバミの枝は、水脈・鉱脈を探るダウジングに用いられた。不死の水の水脈を探るハシバミの枝。だが、そのハシバミの木は枯れかけている。
涸れた泉、枯れた聖木、荒涼とした絶海の孤島。
魔力と呪いが支配するこの島では、「知恵の実」は永久に実ることはない。
不毛と虚無の島。
それが、イェイツが描こうとした「鷹の泉にて」の舞台なのかもしれない。






《鷹姫》前場~舞台芸術としての伝統芸能Vol.2

2019年2月3日(日)14時~16時10分 ロームシアター京都

第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
 老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
 岩 浅井文義 河村和重 味方玄 
   浦田保親  吉浪壽晃 片山伸吾
   分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
 竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
 後見 林宗一郎

第二部 ディスカッション
 観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄

舞台監督:前原和比古、照明:宮島靖和
空間設計:ドットアーキテクツ




ひと言でいうと、ときめく舞台だった。

鷹姫、空賦麟、老人ともにかねてから観たかった配役。通常《鷹姫》では老人がシテになる場合が多いが、今回はおそらく鷹姫がシテに設定されていたのではないだろうか。

「舞台芸術としての伝統芸能」というタイトルどおり、劇場空間を効果的に使った空間設計・美術・照明・音響効果を駆使した演出が施され、結果的に、能の伝統技術と現代の舞台技術が融合した幻想的な《鷹姫》となった。

とくに後場のクライマックスには「あっ!」と思わせる演出が用意され、今でもあの時の胸の高まりが続いている。




【無の世界から異界へ】
通常とは異なるお調べ。
お調べがすむと、照明がいっせいに消えた。

舞台と客席は、漆黒の闇と完全なる静寂に支配され、視覚も聴覚も剥ぎ取られた観客は、いきなり「無」の世界へ突き落とされる。

やがて、どこからか風の吹きすさぶ音が聴こえてくる。

照明が少しずつ灯り、薄明りのなかに、いくつもの影が立ちのぼる。

青灰色の頭巾に烏天狗のような顔半分の面、黒水衣・大口姿の岩(コロス)たちが舞台に散らばり、その奥の台の上に、ひとりの女の姿が見える。

鷹姫だ。

台上に座る彼女の背後には「魔の山」を模した高いスロープがせり上がっている。

彼女の扮装は、前だけ壺折風に着た紅地舞衣、黒地紋尽し縫箔腰巻、鱗文の摺箔着付に鱗文の鬘帯。
面はもしかすると、女王メディア用に「泥眼」と「増」の中間くらいの女面として観世寿夫が作らせたという、あの能面かもしれない。


ガラスのようにうつろな目。
それは、原作"At the Hawk's Well"でイェイツが描写した"You had that glassy look about the eyes last time it happened."に呼応する。

泉から水が湧く時、鷹姫はガラスのように生気のない、うつろな目をするらしい。

感情を排したその無表情さは、増と泥眼を組み合わせた女面の独特の雰囲気にも由来するが、それだけではなかった。

いくつかの特別な機会をのぞいて、シテ(片山九郎右衛門)は面遣いをほとんどしない。面をまったく動かさないことで、冷たく、生気のない鷹姫の神秘性が増幅されていた。

そのガラスのように無機質で感情のない鷹姫の顔のなかで、くちびるだけがあざやかな紅を帯び、そのことがゾクッとするような妖艶さを感じさせる(*追記)。



【舟の到着・老人の登場】
〈次第〉のように岩(コロス)は謡う。

「いづみは古く涸れ果てて、榛の小林、風寒」

地取り風に低い声で次第が繰り返されると、岩1が彼方を指さし、こう叫ぶ。

「見よ! あなたの磯べを、小さき帆舟の汀に着くぞや」

後半のディスカッションでも岩(コロス)の重要性が語られていたけれど、たしかに、岩の役は舞台の成否を握る鍵のひとつだと思う。

能にはない芝居風のセリフまわしや、的確なフォーメーションでの移動・配置転換、通常の囃子や地謡とは異なる音の世界での謡い出し・間合いなど、難所をあげるときりがない。

この日は、地頭の浅井文義さんをはじめ京都観世会の方々が、舞台の空気、劇的緊張と緊迫感、静から動への移り変わりを「動く大道具」「謡う大道具」となって表現していた。



やがて老人が、下手寄り奥の岩間から現れる。
面は、三光尉だろうか?
着流に茶水衣、結わずに垂らした尉髪。鹿背杖を突いている。

老人は鷹姫に言う。

「乙女よ、いかなれば物言わぬぞ。…思ひぞ出づる昔の秋…我を見つめ居たりしよのう…」

若き日、老人は鷹姫のうつろな瞳に魅入られ、鷹姫(=鷹の泉)の虜になり、以来、五十年、いや百年、いいや千年、泉に見入り、水が湧き出るのを待っていた。
(ということは、泉の水を飲まなくても、めっちゃ長寿やん?)

そして今、呪いの輪廻が繰り返される……。




【空賦麟の登場】
とつぜん、舞台袖から声がして、若き王子が現れる。

波斯国から海を渡ってやって来た空賦麟。
その出立は、直面、長範頭巾に似た異国風の頭巾、紋大口、法被、側次、手には剣。
ペルシャの王子らしく、どの装束にも金箔がふんだんに施され、全体的にきらびやかな印象。
腰帯には、インド神話の武器でもあった金剛杵があしらわれている。


ここから老人と空賦麟の問答が続くのだが、その間、舞台奥の台上の鷹姫は微動だにしない。登場以来、一言も発さず、彫像のように不動のまま、ガラスのような目でそこに存在している。
感情もなく、生気もないのに、なにか得体の知れない存在感、この世のものでないオーラを放っている。


【鷹姫の舞と老人の中入】
その時━━。
ピイッと笛が鳴り(鷹姫の鳴き声)、鷹姫が下居のまま袖をひるがえす。

空賦麟「やあ、鷹が鳴く、鷹はいづくぞ?」

老人「鷹にはあらず、その鷹こそ山のすだま(魑魅)…人を惑わし、人を誘い、人の破滅を待つ魔性ぞ!」



台(岩山)から下りた鷹姫は、空賦麟を凝視する。
この時、はじめてシテは面を遣い、鷹姫は妖気を放ちながら、燃えるようなまなざしで空賦麟を見つめる。空賦麟は鷹姫の魔力に魅入られ、吸い寄せられてゆく。

ここは九郎右衛門さんと欣哉さんの視線のマジック。魔物の妖しい魔力と、魔物に魅入られ、呪いをかけられた者のエネルギーの交歓が伝わってくる。


鷹姫は、腑抜けのようになった空賦麟から離れると、今度は老人に向かい、その謎めいた視線で老人に迫る。


原作には"There falls a curse on all who have gazed in her unmoistened eyes"とあり、鷹姫の乾いた目(泉の比喩だろうか?)を見つめた者は必ず呪いをかけられるという。
なので、ここは、鷹姫が空賦麟と老人に呪いをかける場面と思われるが、泉鏡花の『高野聖』に登場する美しい女と、獣に変身させられた男たちを思わせるシーンでもあった。


鷹姫はイロエのような囃子で舞台をめぐり、老人は、島を去るよう空賦麟に言い残して、岩間の蔭に消えてゆく(中入)。



《鷹姫》後場につづく



*追記
イェイツはクー・フーリンを主人公にした劇をいくつか書いており、"At the Hawk's Well"の続編"The Only Jealousy of Emer"(エマーのただ一度の嫉妬)では、鷹姫と同一人物と思われる妖精の女がクー・フーリンを誘惑する。
この日の鷹姫は、イェイツの続編を予告するような妖艶さを垣間見せた。





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