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2020年4月11日土曜日

白井あさぎ七回忌追善・春青能~無観客公演

2020年4月11日(土)冬青庵能舞台

舞囃子《田村》青木真由人
 竹市学 吉阪一郎 河村大
   浦田保親 大江信行 大江広祐

仕舞《弱法師》片山九郎右衛門
 味方玄 分林道治 梅田嘉宏

(舞台の清掃・消毒)

能《半蔀・立花供養》青木道喜
 宝生欣哉 松本薫
 竹市学 吉阪一郎 河村大
 味方玄
 片山九郎右衛門 浦田保親
 分林道治 大江広祐
 立花 上村錦昭師



緊急事態宣言発令から4日目。
この過酷な状況の下、大変なご苦労をされている方々のお舞台が「無観客公演」としてネット配信された。

「白井あさぎ七回忌追善」と銘打つこの公演は、18歳で夭折された白井あさぎさんの追善能としてご両親が主催されたもので、今回で5回目とのこと。この公演日が祥月命日だという。

公演フライヤーの主催者挨拶には「先行きの望みを失いかけました」と書かれていて、どんなにかお辛いことだったろうと胸が痛む。と同時に、こうして追善能を続けてこられたのは、ご両親にとってお能がかけがえのない心の慰めとなってきた証しであり、いま、この非常事態のなかで久しぶりに映像を通じてお能に触れ、渇いた心に癒しと潤いを与えてくれたお能の力をありがたく実感した自分の気持ちとも重なるように思えた。

芸術は、人間が人間らしくあるためになくてはならないものであり、人間存在の根幹にかかわるものだと強く感じた。芸術が滅びれば、人の心も滅びてしまう。



《半蔀・立花供養》
故人の学生時代に能楽サークルで御指導された青木道喜師による《半蔀・立花供養》。曲も内容も七回忌追善に誠にふさわしく、隅々まで神々しい清らかさに満ちていた。

序ノ舞の途中で、シテとワキが立花に向かって合掌するところが強く印象に残った。

輝くほど白いシテの装束が舞台床の鏡面に映り、その厳かな姿から故人への深い追慕の念が香煙のように立ちのぼる。師の思いを受けた花に故人の魂が降り立ち、少女のような薄紅色の丸い花がほほえんでいるように見えた。

可憐な面影の宿るその花を、竹市学さんの笛の音がやさしく包んでいた。竹市さんの笛は悲しいなかにも、やさしさがある。

そしてなによりも、宝生欣哉さんの静かで美しいハコビと姿が最大の供養のように思えた。





舞囃子《田村》
青木師のご子息の青木真由人さんの舞囃子《田村》はキリッと引き締まり、凛々しく、清々しい。この重苦しい時代のなか、一条の希望の光が射し込んだようだった。


仕舞《弱法師》
何か月ぶりかに拝見する九郎右衛門さんの舞。
以前、舞囃子《弱法師・盲目之舞》を拝見して、いたく感動したのを覚えている。

この日の仕舞《弱法師》ではさらに表現をそぎ落とし、杖の動きも最小限に抑えられていた。シテは俊徳丸の内面へ深く入り込み、その重力につられて、カメラの向こうにいる私も俊徳丸の中へなかば引きずり込まれていた。


「今は入日や落ちかかるらん」で、シテは西の空に顔を向ける。
目を閉じた九郎右衛門さんの顔が弱法師の木彫りの能面に見え、その顔面を赤い夕日が照らしていた。俊徳丸のまぶたの薄膜を通して、落日の光が透過するのがこちらの目に映り、西日のまぶしさとぬくもりが伝わってくる。

「淡路絵島、須磨明石、紀の海までも、見えたり見えたり」のところでは、俊徳丸が耳で見た情景、繊細な皮膚で感じた潮風と春の空気がありありと感じられた。


九郎右衛門さんはこのところ何年も、殺人的なスケジュールで長距離を全力疾走してきた。

この辛く苦しい充電期間を糧として、九郎右衛門さんの芸はさらに磨かれ、深化していくことを確信しつつ、少しでも早くこの疫禍が収束して、実際のお舞台をふたたび拝見できる日が来ることをお祈りしています。





2020年1月3日金曜日

京都能楽会 新年奉納2020~平安神宮

2020年1月1日(水)平安神宮神楽殿

《翁 日吉式》浦田保浩
 千歳 林宗一郎 三番三 茂山忠三郎
 森田保美 林吉兵衛 大和 大輝
 渡部諭
 
仕舞《高砂》今井克紀
  《八島》廣田泰能

仕舞《田村クセ》片山伸吾
  《東北クセ》吉田篤史
  《岩船》  大江信行

狂言小舞《三人夫》網谷正美
 松本薫 丸石やすし

装束付舞囃子
《猩々》金剛龍謹
 ワキ 小林努
 杉信太朗 吉阪一郎
 谷口正壽 前川光範
平安京大内裏応天門の縮小版・平安神宮の應天門

本年もお参りさせていただきました。

昨年は金剛流の《翁》「神楽式」でしたが、今年は観世流なので「日吉式」です。

2年前にも書きましたが、もう一度おさらいすると、「日吉式(ひえのしき)」というのは、日吉大社のひとり翁にちなんでつくられた小書だそうです。

この小書では、翁も三番三も面をつけず、三番三は揉ノ段だけで、鈴ノ段はカットされます。また、通常は翁だけが正先で拝礼しますが、日吉式では、翁・千歳・三番三の三人で礼をします。

翁(父尉)・千歳(延命冠者)・三番三という、三人翁の要素もあるかもしれません。民俗芸能の翁舞と伝統芸能の《翁》の色彩が折衷された神事能らしい《翁》でした。


林宗一郎さんの千歳がなんとも魅力的で、個性を生かした爽快で清涼感のある舞でした。
もう名門の御当主となられたので、おそらく今後は翁を舞う機会が増え、千歳役は徐々に少なくなっていくのでしょう。そう思うと、宗一郎さんの千歳舞が貴重なものに感じられます。

林吉兵衛父子の小鼓は、さすがに息が合ってますねぇ。
そして2年前にも感じましたが、渡部諭さんの揉み出しがなんともカッコいい。平安神宮の三番三では、渡部諭さんと、お師匠様の谷口正壽さんが年替わりで交互に大鼓を勤められるようですが、お二人とも好みの芸風なので、彼らの三番三を聴くのも楽しみのひとつです。



狂言小舞《三人夫》
平安神宮新年奉納での狂言小舞は毎年《三人夫》なのかな?
昨年は茂山千作さんが舞われていました。御簾の蔭で転倒されたのを昨日のことのように思い出します。病を押してのご出演だったのでしょう。ふらつきながらも、年輪を感じさせる風格のある舞姿でした。なつかしいです。時は移り変わっていきますね……。



帰りに、大切な人のためにお守りをいただいてきました。
平安神宮といえば、左近の桜に右近の橘。その桜色をした美しい勾玉のお守りです。病気平癒の御利益があるそうです。
どうか病が癒えて、平穏で安らかな日が訪れますように。





2020年1月1日水曜日

京都観世会「謡初式」2020年

2020年1月1日(水)京都観世会館
鏡餅の正月飾りと注連縄が張られた能舞台
舞囃子《高砂》  片山九郎右衛門
仕舞《鶴亀》   井上裕久
  《田村クセ》 大江又三郎
  《東北キリ》 橋本擴三郎
  《放下増小歌》浦田保親
  《小鍛冶キリ》林宗一郎
舞囃子《羽衣》  杉浦豊彦
狂言小舞《雪山》 茂山忠三郎
舞囃子《猩々》  河村晴道
祝言《四海波》  全員


令和二年、明けましておめでとうございます。

今年も元日から謡初式&翁を観覧できて、晴れやかな新年の幕開けでした。

じつはこの日、大晦日から近所で除夜の鐘が何時間も鳴り響いたおかげで(わが家の周囲はお寺だらけ)、ほとんど一睡もできないまま観世会館へ行ったのですが、九郎右衛門さんの《高砂》を観ているうちに滝に打たれたようにシャキッと目が醒めてきて、年明け早々「活」を入れていただきました。

九郎右衛門さんはいつもにも増して、厳しく精悍な表情。新たな年への固い決意がうかがえます。

仕舞で印象深かったのが、林宗一郎さん。
隙のないシャープなキレ味の舞に、さらに磨きがかかったよう。2回連続の飛び返りも、フィギュアスケートの4回転ジャンプをみるような鮮やかさ。

宗一郎さんが御当主となり、新たな試みが盛り込まれつつある林定期能も、今年で百周年を迎えるそうです。
2月には《翁》と《日觸詣(ひむれもうで)》(十世林喜右衛門玄忠作の神能)のシテを勤められるとのこと。きっと宗一郎さんにとってさらなる飛躍の年となることでしょう。大いに期待しています!


河村晴道さんの《猩々》もよかった!
いつもながら、この方の舞姿にはいかにも京都らしい、首の細い水鳥のような優雅さと気品がある。
今年12月の林定期能では河村晴道さんの《定家》が予定されている。なんとか都合をつけて、拝見できるといいな。


最後は、京都観世会シテ方全員による《四海波》。
「四海波静かにて……」
年々、この詞の重みが増してくる。静かな波、穏やかで平安であることの有難さ。
どうか枝を鳴らさぬ、平和で健やかな一年でありますように。

今年は20代の若いシテ方さんも何人か加わり、並びきれないくらいの大人数が舞台に上がった。高齢化+人口減少の著しい日本にあって、「若手が増えて舞台にのりきれないくらい」というのは凄いことだと思う。

黒紋付袴の能楽師さんたちがずらりと勢ぞろいした京都観世会の舞台は、毎回のことながら壮観。今年はとくに若手の方々の存在がなんともおめでたく、明るい希望を感じさせたのでした。




2019年12月30日月曜日

味方玄《正尊 起請文・翔入》~片山定期能十二月公演

2019年12月22日(日)京都観世会館
片山九郎右衛門《邯鄲》からのつづき
京都府庁旧本館
《正尊 起請文・翔入》味方玄
義経 片山伸吾 静 味方慧
江田源三 分林道治 熊井太郎 大江広祐
姉和光景 大江信行
立衆 橋本忠樹 宮本茂樹 河村和貴
河村和晃 河村浩太郎
武蔵坊弁慶 宝生欣也
下女(くノ一?)松本薫
杉信太朗 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 片山九郎右衛門 味方團
ワキ後見 殿田謙吉 平木豊男
地謡 橋本礒道 橘保向 武田邦弘
青木道喜 古橋正邦 河村博重
田茂井廣道 清沢一政


さて、この日は番組自体が豪華なうえに、京都観世会の看板役者2人がシテを勤めるという「日頃のご愛顧に感謝して出血大サービス!」的なデラックス版。

早々に売り止めになったため超満員が予想され、いつもよりかなり早めの開場40分前に到着のに、すでにビックリするほどの人、人、人! 
これまで見たことないような長蛇の列に「今日は立ち見かなあ……クスン」と覚悟していたら、意外にもいつもの見やすい席を確保できました(o^―^o)ニコ。
東京圏からの遠征組も多かったようだし、今年は観世会例会もいつもの年より客の入りが多かったそうだから、盛り上がってますね、京都のお能は。


《正尊 起請文・翔入》
味方玄さんの正尊に、準主役の弁慶役が宝生欣哉さん。立衆が大勢出て、今年最後の観能にふさわしい華やかでにぎやかな舞台でした。

いちばんの見どころは、なんといっても起請文の場面。
シテの玄さんが「お~~じょぉ~~(王城)の鎮守」とか「驚かしたてまつぅ~るぅ~~」など、独特の節回しで読み上げる。お腹の奥底でメラメラと紅蓮の炎が燃えたぎっているような、気迫と熱気が感じられる。

味方玄さんの直面は、顔の皮膚から肉体の生々しさが消え去り、素顔そのものが無機質な能面に変化している。じっと目を凝らして見ていても、シテはまったく瞬きをしない。角膜が乾燥しないのだろうか?

役に完全に没入し、生理現象を超越した高い集中力が見てとれる。坐禅やヨガなどで瞑想が深まると脳内でシータ波が出るというけれど、もしかすると味方玄さんの脳波もそんな状態かもしれない。


斬り組の場面では、若手と中堅が大活躍!
飛び安座や仏倒れで、立衆たちがバッタバッタと斬られていく。なかには、本舞台と橋掛りでチャンバラ劇が同時に展開し、敵役2人が同時に斬られる「ダブル仏倒れ」という贅沢な演出も!

とくに欣哉さんの弁慶と、大江信行さんの姉和との一騎討は見応えがあった。どちらかというと欣哉さんが牛若丸で、大江さんが弁慶、もしくはダビデとゴリアテの戦いのように見えなくもない。
一の松で欄干から身を乗り出し、弁慶をグイッとにらみつける大江信行さんの鬼気迫る存在感は、主役の2人を凌駕するほどだった。来年も注目したい役者さんだ。


最後は捕縛された正尊が揚幕の奥に連れ去られ、ツレの義経(片山伸吾さん)が常座で留拍子。

片山一門の殺陣といえば、昔、NHKで一場面だけ再放送された《夜討曽我・十番斬》で、片山九郎右衛門さんと味方玄さんの斬組があったのを思い出す。九郎右衛門さん(当時片山清司さん)に斬られた玄さんの仏倒れが、超新星のようにピカッと光り輝いていた。今でもあれ以上の仏倒れは観たことがない。
あのとき彼は、恐怖心を完全に抹殺した「能の鬼」と化し、まさに立像が倒れるがごとく、直立のままバッタリと一直線に倒れてたのだった。そして、あのときも目をぐっと大きく見開いたまま、倒れきった後までまったく瞬きをしなかった。


この2人の御舞台を堪能できて、幸せな一年の締めくくりでした。


どうぞ皆さまも、良き新年をお迎えくださいませ。




2019年12月27日金曜日

片山九郎右衛門《邯鄲》~片山定期能

2019年12月22日(日)京都観世会館

《邯鄲》盧生 片山九郎右衛門
舞童 梅田晃熙 勅使 殿田謙吉
大臣 宝生欣也
輿舁 平木豊男 宝生尚哉
宿の女主人 茂山茂
杉市和 飯田清一 谷口正壽 前川光長
後見 小林慶三 大江信行
地謡 青木道喜 古橋正邦 河村博重
分林道治 味方團 宮本茂樹
河村和貴 大江広祐

《腹不立》出家 茂山七五三
アド 茂山逸平 茂山千之丞

仕舞《巻絹》河村博重
  《車僧》橋本忠樹
武田邦弘 古橋正邦
田茂井廣道 清沢一政

《正尊 起請文・翔入》味方玄
義経 片山伸吾 静 味方慧
江田源三 分林道治 熊井太郎 大江広祐
姉和光景 大江信行
立衆 橋本忠樹 宮本茂樹 河村和貴
河村和晃 河村浩太郎
武蔵坊弁慶 宝生欣也
下女(くノ一?)松本薫
杉信太朗 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 片山九郎右衛門 味方團
ワキ後見 殿田謙吉 平木豊男
地謡 橋本礒道 橘保向 武田邦弘
青木道喜 古橋正邦 河村博重
田茂井廣道 清沢一政


【邯鄲】
忘れもしない、私が能を観はじめた5年前、初めて感動した舞台が片山九郎右衛門さんの《邯鄲・夢中酔舞》(国立能楽堂企画公演)だった。
あのときのクライマックスの光景は、いまでも胸に焼きついている。

盧生がゆっくりと身を起こしたあと、時間が凝固したような長い沈黙がつづいた。
はたしてシテは無事なのか? 
もしかすると一畳台に激しくダイヴしたせいで、脳震盪でも起こしたのではないだろうか……?

緊迫した静寂ののち、シテはようやく沈黙を破り、「盧生は、夢醒めて……」と謡い出した━━「永遠の一瞬」ともいえる絶妙な「間」だった。

観世寿夫があの名舞台で井筒をのぞいた時のような、計算され、洗練しつくされたあの美しい「間」が、観能ビギナーだった私を能の世界へ引き入れてくれた。

この日の《邯鄲》でもあの時の「間」が再現され、盧生が身を起こしたあとに長い沈黙がつづいた。
ただ、5年前の《邯鄲》では舞台も見所も水を打ったように静まり返っていたが、この日は見所の物音で、あの「永遠の一瞬」が惜しくも乱されたのだった……。


一畳台での〈楽〉も、5年前とよく似た感覚を抱いた。
シテは、空気中とは異なる重力空間に存在していた。手足に水圧のような抵抗を受け、まるで水中で舞っているかに見える。引立大宮の四角い箱型空間が透明なアクアリウムと化し、シテは夢の中でゆらめくように遊泳していた。
生死の境で魚になって泳ぐ夢を見る『雨月物語』の「夢応の遊鯉」がふと頭に思い浮かび、《邯鄲》の世界と折り重なっていった。


ほかにも、とりわけ印象深かった箇所が2つある。

ひとつは〈楽〉を舞い終えて興に乗ったシテが、橋掛りで至福の境地に浸るところ。
昼夜・四季のすべての美しさが目の前に展開し、この世の頂点を極めた盧生は「面白や、不思議やな」とまばゆい栄華に酔いしれるのだが、この時シテは橋掛りの欄干にゆったりと腰をかけ、甘美な悦楽にしばし耽溺する。

橋掛りの欄干に無造作に腰をかけるという、大胆な型を観るのはこの時が初めてだった。
シテの創意だろうか?
クタッとくつろいだ姿勢から、いかにも圧倒的な幸福に浸りきって我を忘れた青年らしい、どこか生ぬるく隙のある、ぽわ~んとした脱力感が伝わってくる。


もうひとつは、盧生が夢から醒めて「何事も一炊の夢」と悟ったのち、「南無三宝南無三宝」と唱えるところ。
この時シテはおもむろに一畳台から立ち上がり、正中に出て、急に激しい調子で「南無三宝! 南無三宝!」と歓呼する。「なんだ! そうだったのか! そういうことだったのかぁ!!」と、全身から熱い感動がほとばしるように。

ここも、青い果実のようなちょっとベタな感情表現が、どことなく若者らしさを感じさせた。盧生のつかの間の「悟り」の先にあるのが何なのか、あれこれ想像をめぐらせたくなる。


アイの宿屋の女将は、5年前の《邯鄲》と同じ茂山茂さん。はまり役だ。ハコビがなんとも女らしく、婀娜っぽい。
笛も5年前と同じく杉市和さん。囃子方は俊英ぞろい。推しの大鼓方・谷口正壽さんがこの日も冴えていた。そして、端然と下居した大臣役の宝生欣哉さんの不動の佇まいが、ひたすら美しかった。


片山定期能《正尊 起請文・翔入》につづく



2019年9月27日金曜日

浦田保浩《天鼓・弄鼓之舞》~京都観世会9月例会

2019年9月22日(日)京都観世会館
片山九郎右衛門《三井寺・無俳之伝》からのつづき
2階ロビーに展示されていた《天鼓》の唐団扇と鞨鼓

能《天鼓・弄鼓之舞》浦田保浩
 ワキ福王和幸 アイ茂山千五郎
 森田保美 久田舜一郎 谷口正壽 前川光範
 後見 杉浦豊彦 深野新次郎
 地謡 河村晴久 河村博重 片山伸吾
        味方團 吉田篤史 松野浩行
    大江泰正 河村和晃



最後の《天鼓・弄鼓之舞》もよかった!
京都観世会は円熟期を迎えた中堅の層が厚く、充実している。シテの浦田保浩さんもいい役者さんだ。とくに王伯のような老人は、こういう若くもなく、老いてもいない、いぶし銀の技を持つ巧者が演ると好いものである。

【前場】
老齢に鞭うつような、途方もない悲劇に見舞われた老人のヨボヨボ感、ヨロヨロ感を出しつつも、所作や姿に内から滲み出るような品がある。
深い悲しみに沈むなかで品格を保つシテの佇まいが、こちらの心を揺さぶってくる。

「忘れんと思ふ心こそ忘れぬよりは思ひなれ」

ほんとうに、そう。やり場のない気持ちはどうあがいても折り合いがつかない。忘れようと思っても、その気持ちこそがつらい……。


シテの心を慰め、やさしく介抱するように、私宅に送り出すアイの茂山千五郎さん。
前日に御父上を亡くされたばかりの千五郎さんが、愛児に先立たれて嘆き悲しむシテに、そっと寄り添う。
いつもより厳しく青ざめた表情の千五郎さんの間狂言には、鬼気迫るものがあり、強い決意のようなものを感じさせた。大切な肉親を失った王伯とアイの気持ちが混じり合い、独特の空気が漂う。


【後場】
出端の囃子で後シテ登場。
前シテの老父とは打って変わって、みずみずしく艶やかな美少年の姿。童子の面もまことに麗しい。豊かに実った秋の果実のような芳醇な香りを放っている。

なによりも、シテのはずむように弾力のある舞姿が目に焼きついている。
これほど幸福に満ちた亡霊がいるだろうか?

盤渉楽の囃子に合わせて、シテは湖面を飛び跳ねるように、軽やかに水しぶきを上げながら、鼓をうち、舞い戯れ、水に潜っては湖上に浮かび、猩々のようにプルプルプル~ッと首を振り、橋掛りへ進んで前髪をつかみ、欄干越しに、さも愛おしそうに鼓を見込む。
青白い月が幻想的な舞台を照らしている。

愛する鼓にふたたび会えた悦び。
愛してやまない鼓を打つ幸せ。

恨みとか、憎しみとか、そういう悪感情から解放された時、人はこんなにも自由に、軽やかに、天真爛漫になって、愛と幸福感で満たされるのだ。

天鼓の愉悦がはちきれそうなくらい胸いっぱいに広がって、天鼓の身体からあふれ出て、能楽堂全体に充満し、こちらの心にも満ちてくる。

かなしくて、幸せな、幸せな天鼓。



最後に、前川光範さんの太鼓が聴けてよかった。

弄鼓之舞でよかった。



ありがとうございました。






片山九郎右衛門の《三井寺・無俳之伝》

2019年9月22日(土)京都観世会館
京都観世会九月例会《錦木》からのつづき
三井寺の仁王門(重文・室町時代)
この曲の作者もこの門をくぐったのかも

能《三井寺・無俳之伝》片山九郎右衛門
 千満 梅田晃煕 能力 茂山忠三郎
 宝生欣哉 平木豊男 宝生尚哉
 杉市和 飯田清一 河村大
 後見 大江又三郎 青木道喜
 地謡 浅井文義 河村和重 河村晴道
  分林道治 大江信行 宮本茂樹
      河村和貴 大江広祐

仕舞《道明寺》浦田保親
  《松風》河村晴久
  《松虫キリ》鷲尾世志子
  《善界》浦部幸裕

能《天鼓・弄鼓之舞》浦田保浩
 ワキ福王和幸 アイ茂山千五郎
 森田保美 久田舜一郎 谷口正壽 前川光範
 後見 杉浦豊彦 深野新次郎
 地謡 河村晴久 河村博重 片山伸吾
        味方團 吉田篤史 松野浩行
    大江泰正 河村和晃




《三井寺》は昨年の片山定期能(シテは味方玄さん)でも拝見しましたが、この日は「無俳之伝」の小書付き。
「無俳(おかしなし)之伝」とは、前場で夢占いをする清水寺門前の者が登場しない演出のこと(「俳」は狂言方の意)。江戸中期につくられたこの小書については、「曲の作為に反する」として批判的な見方をする研究者や能評家もいらっしゃるようです。

演能時間を短縮するたんなる便法とみなされがちなこの小書ですが、狂言方による夢占いの場面をそぎ落としたからこそ、母の深い祈りと神仏への訴えが観る者の心に強く迫る……九郎右衛門さんの「無俳之伝」はそんな小書の真意をみごとに表現した舞台でした。



【前場】
登場楽も気配もなく、ふと気がつけば、いつのまにかシテが登場していた。

シテの出立は、花模様の水色地と青い縦縞の生成地の段替唐織壺折に、秋草花をあしらったシックで豪華な焦茶地の縫箔腰巻という非常に凝った取り合わせ。地味で渋いながらも上質なセンスが光る、贅を尽くした装束。
色艶の美しい塗笠を目深にかぶり、どこか思いつめたような表情をしている。
面は、角度によっては増のようにも見える、超美形の深井。


「南無や大慈大悲の観世音……」

正先で下居して、一心に手を合わせる千満丸の母。
情愛に満ちた深い母性を感じさせるその姿は、さながらイエスの助命を祈る聖母マリアを思わせる。おごそかな一条の光が照らしているかのように、シテの姿がぼうっと浮かび上がる。

「いまだ若木のみどり子に再びなどか逢はざらん、再びなどか逢はざらん」

魂の奥底から振り絞るような悲痛な祈りの言葉が、清水の観音さまに訴えかける。

やがてシテは、にわかに啓示を受けたかのようにハッと覚醒し「あら有難や候……あらたなる霊夢を蒙りて」と数珠をもつ手で合掌し、三井寺めざして中入。

音楽的な要素を最小限にとどめた静謐で崇高な場面。オリジナルの《三井寺》にはない、この小書ならではの良さが際立つ前場だった。




【後場】
茂山忠三郎さんの小舞「いたいけしたるもの」は後場の眼目のひとつ。張り子の顔、練稚児、しゅくしゃ結びにささ結びと玩具尽しのこの小舞を、じつに身軽で身のこなしで舞っていた。飛び返りはまるで無重力空間で舞うかのよう。体重の重みを感じさせない軽やかな着地も見事。
「ジャモ~ン、モォ~ン、モオォ~ン」と三井寺の鐘をつくところも、空気を震わせて伝わってくる妙なる音の残響、音の波の揺らめきが巧みに表現されていた。



〈カケリと鐘ノ段〉
狂女越一声を経て、ナガシのような囃子からカケリに入る。
澄みきった秋の夜空に浮かぶ月。冷たく照らす銀色の月に誘われるように、シテはルナティックなカケリを舞う。魂がなかば遊離したような、夢うつつの狂気の舞。

そこから一転、中国の故事を引いて、鐘をつく理由を説く議論の場面では、冷静で理知的な面をのぞかせる。


鐘ノ段では、本物の鐘をつくように色とりどりの錦の紐を巧みに操る写実性と、作り物と一体化した舞のような優雅な所作が印象的。

名文をちりばめたクセで、シテは静かに面をテラして鐘の音を聴く。その姿を介して、琵琶湖の湖面に響きわたる三井寺の名鐘の澄んだ音色が聴こえてきた。



浦田保浩《天鼓・弄鼓之舞》につづく




2019年9月25日水曜日

京都観世会九月例会~《錦木》

2019年9月22日(日)京都観世会館
速水御舟《錦木》

能《錦木》浅井通昭
 ツレ女 橋本忠樹 里人 山口耕道
 旅僧 福王知登 喜多雅人 中村宜成
 左鴻泰弘 林大和 山本哲也 井上敬介
 後見 井上裕久 橋本光史
 地謡  吉浪壽晃 味方玄 浦部幸裕
         浦田保親 林宗一郎 深野貴彦
         梅田嘉宏 樹下千慧

狂言《舎弟》茂山千之丞
 茂山逸平 丸石やすし

能《三井寺・無俳之伝》片山九郎右衛門
 子方 梅田晃煕 アイ茂山忠三郎
 宝生欣哉 平木豊男 宝生尚哉
 杉市和 飯田清一 河村大
 後見 大江又三郎 青木道喜
 地謡 浅井文義 河村和重 河村晴道
  分林道治 大江信行 宮本茂樹
      河村和貴 大江広祐

仕舞《道明寺》浦田保親
  《松風》河村晴久
  《松虫キリ》鷲尾世志子
  《善界》浦部幸裕

能《天鼓・弄鼓之舞》浦田保浩
 ワキ福王和幸 アイ茂山千五郎
 森田保美 久田舜一郎 谷口正壽 前川光範
 後見 杉浦豊彦 深野新次郎
 地謡 河村晴久 河村博重 片山伸吾
        味方團 吉田篤史 松野浩行
    大江泰正 河村和晃



台風接近中の3連休の中日、祇園饅頭で栗赤飯と栗もち(観能のお供♡)を求めてから観世会館へ。
この日のひそかなお目当ては、山本哲也VS河村大VS谷口正壽という、当代関西を代表する大鼓方さんの聴き比べ。いずれ劣らぬ脂の乗った実力派。大鼓がこんなに好きになったのも、この3人の大鼓方さんのおかげです。


能《錦木》
《錦木》と聞いて真っ先に思い浮かぶのが、2年前に拝見した梅若紀彰さんの《錦木・替之型》。これは国立能楽堂企画公演「近代絵画と能」シリーズの舞台で、速水御舟の《錦木》をテーマにしていた。紀彰さん扮する《錦木》の男は御舟の絵から抜け出たような、一途に恋する青年だった。

求愛を再現する場面では、家のなかで細布を織る女と、家の外で錦木を立ける男とが、たがいの気配を感じながら相手を意識している。きっと、女の気持ちをそれとなく感じられたからこそ、男は3年間も錦木を立てつづけたのだろう……そう思えた《錦木》だった。


浅井通昭さんの舞台を拝見するのは初めてだったが、この日の《錦木》は京都観世らしさが前面に押し出されていて、ここでしか味わえない《錦木》だと思った。

京都観世の醍醐味は、なんといっても「謡」。京観世の伝統に裏打ちされた「謡」である。
シテとツレの連吟の美しさ、地取の低音の渋く深みのある響き。
豊かで充実した謡の世界によって、あの世でしか結ばれなかった男女の、せつないまでに熱い情愛がひしひしと伝わってくる。地謡の地取が、陸奥の架空の里に、物哀しい秋の空気と陰翳を与えていた。


間狂言では、女の両親が反対したため、女は男の求愛を受け入れられなかったこと、3年通い続けた男が死に、それを悲しんで女も亡くなり、男が積み上げた錦木とともに悲恋の男女が錦塚に葬られたことが語られる。


シテは端正な顔立ちで、直面がよく似合う。
所作や舞がやや硬質に見えたが、それがかえって、錦木を立て続けた男の執念ともいえるひたむきさを感じさせる。

黄鐘早舞は大小物のため、太鼓は出端だけの出番。
黄鐘早舞は男舞と似ているが、凛々しい男気よりも、亡霊となった男の舞う儚さ、心の影の部分、憂悶の名残りのようなものが微かに漂っていた。

最後は「朝の原の野中の塚とぞなりにける」で、シテは飛び返って左袖を被き、立ち上がって左袖を巻いて留拍子。
歌語りのなかの男女の悲恋にふさわしい、陸奥の秋の抒情を感じさせる舞台だった。



片山九郎右衛門の《三井寺・無俳之伝》につづく




2019年9月23日月曜日

 吉浪壽晃の《東岸居士》~同研能

2019年9月21日(土)嘉祥閣

解説 吉田篤史

狂言《寝音曲》鈴木実 増田浩紀

能《東岸居士》 吉浪壽晃
 ワキ岡充 アイ茂山千三郎
 赤井要佑 吉阪一郎 渡部諭
 後見 井上裕久 浦部幸裕
 地謡 寺澤幸祐 浅井通昭
    吉田篤史 寺澤拓海



まずは、吉田篤史さんの解説から。
いつもながら、この方の解説は分かりやすい! 

能は、仮面劇、音楽劇、扮装劇、歌舞劇、詩劇の5つの要素を持った演劇。「ほかの演劇と大きく異なるのは、能の発端となったのが神事・仏事の一環として行われていた儀式だったということです。そのため、ふつうの演劇以上に静寂を大事にしています。ですからどうか演能中は携帯・スマホのアラームが鳴らないよう、今一度、お確かめください」と、すんなり演能中のマナーの注意へと誘導していくところもさすが。

この日の謡のお稽古は、《東岸居士》の「御法の船の水馴棹、御法の船の水馴棹、みな彼の岸に至らん」の部分。《東岸居士》にはこの箇所が3回登場する。観能前に一度謡っておくだけで、曲の底に流れる仏教的なテーマがより深く入ってくる気がする。

(解説メモ)
《花月》と《東岸居士》《自然居士》の違い。花月は少年なので、装束は紅入。居士は青年なので、装束・扇ともに紅無。喝食の面も少年っぽいものを《花月》に使い、大人びた顔立ちのものを《東岸居士》《自然居士》に使う。



能《東岸居士》
 吉浪壽晃さんのお舞台を拝見するのは、この1年で3度目になる。
いつも質の高い舞台を届けてくださる吉浪さんの《東岸居士》は期待通りの満足度。
私にとって初見の曲だったこともあり、なにも描かれていない白いカンバスに吉浪さんの東岸居士のイメージが描かれていくのはなんとも心地よく、幸せな体験だった。

シテの出立は、青地大口にグリーンの水衣。袈裟に紅色の名物裂が2枚ほど混じっていて、寒色系の装束に紅が挿し色になっている。こういうところにシテの趣味の良さが感じられる。
喝食の面は美形度が高く、並の増女よりも美貌の能面だった。頬のえくぼがコケティッシュで妖艶。
吉浪さんの東岸居士は、姿にも声にもみずみずしい潤いがある。

中之舞から舞クセ、鞨鼓と続く舞尽しでは、シテの実力がいかんなく発揮され、中性的で、妖しく、艶っぽい舞姿に東岸居士の魅力が凝縮されていた。清水寺の門前に集まった中世の群集を惹きつけたであろう居士のスター性をしのばせる。


京都のワキ方さんは謡のうまい方が多い。岡充さんも例外ではなく、美声の吉浪さんとの掛け合いではこちらの耳を十分に楽しませてくれた。

井上一門の地謡もいつもながら良かったし、赤井要佑さんの味わい深い笛と、渡部諭さんの気迫のこもった大鼓も、京都ではあまりない組み合わせで、聴き応えがあった。


そして、アイの茂山千三郎さん。
この日の早朝、お兄様の千作さんが逝去されたのを観能後に知った。舞台中の千三郎さんは顔色が少し優れない御様子だったが、立派に清水寺門前の者を勤められていた。

千作さんは舞台でしばしば転倒されていたし、休演もされていたので心配していたが、まさか大病を患っておられたとは。まだ70代前半。これからもっと芸に深みと味わいが増してくる年代だった。関西では若手・中堅は充実しているが、味のあるベテラン狂言方が少ないので、とても残念に思う。個人的には、千作さんの笑顔は私の祖母の笑顔に似ていて、あの笑顔を見ると懐かしいような、ホッとするようなそんな気分になったものだった。あのほんわかした愛嬌のある笑顔は、東京にはない、関西人の笑顔だった。





2019年9月8日日曜日

片山九郎右衛門の《融》~京都駅ビル薪能

2019年9月1日(日)京都駅ビル室町小路広場
橋掛りはなく、幕から出るとすぐに本舞台

能《融》片山九郎右衛門
 ワキ福王知登 アイ茂山忠三郎
 森田保美 吉阪一郎 谷口正壽 前川光範
 後見 青木道喜 梅田嘉宏
 地謡 古橋正邦 浦田保親 河村博重
        分林道治 橋本光史 田茂井廣道
        橋本忠樹 大江広祐



夢を見ていたのかと思うほど、詩のように美しい舞台。この日は眠りにつくまで、魔法にかけられたようにぽ~っとしていた。

片山九郎右衛門さんはこの一週間あまり、シテを5回も勤め、東西合同養成会や御社中ゆかた会を主催するという、想像を絶するようなハードスケジュールをこなされてきた。にもかかわらず最後の最後にトドメのように、これほどまでに人を感動させる《融》を舞われるなんて……あまりにも偉大すぎて言葉が見つからない。

ステージでは黄色いライトを効果的に使って、月の光に照らされた廃墟らしい舞台空間を創出。地謡、囃子、ワキの謡も、「後見道」を極めた後見の働きもすばらしく、京都能楽界の底力を実感させた。


【前場】
〈名所教え〉
ここ京都駅は、源融の六条河原院跡から徒歩15分ほどの近距離にある。
だから名所教えの場面でも、音羽山、中山清閑寺、今熊野、稲荷山、深草山、伏見の竹田、淀、鳥羽、大原、小塩、嵐山と、京の名所が放射状に広がるまさにその中心に、この京都駅ビルの舞台が位置していることになる。

もちろん、演能上は舞台上手が東、下手が西という決まりになっているから、シテ・ワキの向く方角は実際の方角とは異なるが、京都駅のこのステージほど源融が君臨した六条河原院を、臨場感をともなって実感できる舞台はないのではないだろうか。


「こっちが音羽山で、あれが今熊野、ほら、嵐山も見えるよ」とシテが教え、ワキが視線を向ける。そのたびに名所の位置と映像がリアルに浮かんできて、まるで自分も河原院の廃墟に佇んでいるように思えてくる!



〈汐汲み〉
秋の月を愛でていた老人は汐汲みを忘れていたことに気づき、ハッと両手を打ち合わせて天秤桶を担ぎ、正先でサブンッと桶を水につける。

シテはまず、左に担いだ桶で水を汲み、次に右の桶で汲んでゆく。最初に汲んだ桶にはタップタップと水があふれ、まだ水が入っていないカラの桶とは明らかに重さが違うように見える。
水の重量、質感、桶のなかで揺れて波打つ水の動き。桶に汲まれた水の存在をたしかに感じさせる。


中入前の「老人と見えつるが、汐雲にかきまぎれて跡も見えずなりにけり」でシテは、はらりと着物を脱ぐようななめらかな所作で、肩に担いでいた天秤桶を後ろに落とす。
この肩関節・肩甲骨のやわらかさ。

そして、音を立てないようにそっと、天秤の紐の半分を短く持ち、先に桶が地面に着いた手応えを感じてから、両手に持っていた紐を放す。素早い所作のなかの、繊細な動きと心くばり。



〈間狂言のカット→早替わり〉
驚いたのが、間狂言がカットされたこと。
(番組にはアイに茂山忠三郎さんの名前があったから、当初は間狂言が入る予定だったと思う。)

シテの中入後、ほとんどすぐにワキが待謡を謡い出し、出端の囃子が奏された。
はたしてシテの着替えが間に合うのかハラハラしてしまったが、通常のタイミングで幕があがり、シテはみごとに融の亡霊に変身して登場した。

主後見の青木道喜さんをはじめ片山一門の完璧な「後見芸」に脱帽!




【後場】
後シテの出立は、立涌白地狩衣に唐草模様の白地大口、黒垂。頭には初冠ではなく風折烏帽子。面は、憂いを帯びた中将。

「あら面白や曲水の盃」で、正先で身を乗り出し、
「受けたり受けたり遊舞の袖」と、水面に映った月影を曲水の宴の盃に見立て、扇で月影を汲みあげる。

白皙の貴公子がギリシャのナルシスさながらに水面をのぞき込み、優雅な所作で月影を汲む。この耽美の極致に、私も周りの観客たちも魂を抜かれたようにうっとりと見入っていた。



〈早舞〉
さらにシテは初段オロシで正先へ向かい、ふたたび水面に映った月影を扇で汲み、空を見上げて、月を愛でる。
そのまま融の亡霊は、しばし甘美な追想に耽るように、恍惚とした表情を浮かべていた。

やがて月に雲がかかるように中将の面に翳がさし、哀しげな愁いを帯びてくる。
この時の、なまめかしく紅潮した中将の表情が今でも忘れられない。


クライマックスではナガシの囃子が入り、シテは懐かしい過去を搔き集めるように、またもや扇で水を汲み上げる。

このころになると私はほとんど陶酔状態になり、融の世界に浸って、夢とも現ともつかないような酩酊感に酔っていた。

京都駅ビルという現代的な高層空間に、廃墟となった六条河原院が出現し、そこへ融が追懐した風雅な幻想世界が折り重なる……。

気がつくと、シテは袖を巻き上げたまま幕のなかへ、月の都へと還っていった。

ああ、名残惜しい。
私も、周囲の人たちも、ため息。
そして、たがいに満足げな笑顔。

この感覚、この余韻、
これこそ私が求めていた《融》だった。

東北鎮護・奥州一宮「塩竈神社」
画像は大震災の1年後に訪れた時のもの。

塩竈神社から見下ろした塩竈港


2019年9月7日土曜日

京都駅ビル薪能2019~《巻絹》《寝音曲》

2019年9月1日(日)京都駅ビル室町小路広場
リハーサルのあと、開演前の様子
舞囃子《巻絹》大江信行
 森田保美 吉阪一郎 谷口正壽 前川光範
 地謡 浦田保親 分林道治 橋本光史
    田茂井廣道 橋本忠樹

狂言《寝音曲》茂山忠三郎 岡村宏惣
 後見 山本義之

能《融》片山九郎右衛門
 ワキ福王知登 アイ茂山忠三郎
 森田保美 吉阪一郎 谷口正壽 前川光範
 後見 青木道喜 梅田嘉宏
 地謡 古橋正邦 浦田保親 河村博重
        分林道治 橋本光史 田茂井廣道
        橋本忠樹 大江広祐



伊勢丹で買い物を済ませてから会場に着いてみると、京都駅ビル薪能の名物「公開リハーサル」がすでに始まっていた。
演者の方々が時おり笑顔を見せながら、なごやかな雰囲気で申し合わせが進んでゆく。シテの九郎右衛門さんはピッチリした黒い私服をお召しになっていて、舞の動きや身体の線が分かりやすく興味深い。

面白いのは、チャリティ能のときと同様、この京都駅ビルの舞台でも目印となる柱がないこと。

九郎右衛門さんは、1,2,3と、正中から舞台の縁までの歩数をさりげなく数えていらっしゃたが、それだけで、あれほど的確に舞台空間を把握できるものだろうか? 驚きである。
実際の《融》の舞台では、シテは、ステージの端ギリギリまで出て、汐汲みや盃の型をしたり、舞を舞ったりされていた。観ているほうがヒヤヒヤドキドキしたくらい。身体に特別なセンサーでもついているのだろうか。



舞囃子《巻絹》
昨年も書いたけれど、シテは面装束を着けているので、ワキの出ない半能みたいなもの。こういう大規模な舞台では面装束を着けたほうがだんぜん見栄えがするし、はじめて見る人にも「お能らしさ」をアピールできる。

シテの大江信行さんもリハーサルの時は私服で参加されていて、和装の時よりもさらに身体の細さ、背の高さが際立って見えた。それが《巻絹》ではスラリとした巫女姿に変身。このビフォー・アフターの違いが楽しめるのも、駅ビル薪能の醍醐味のひとつ。

面は十寸髪(増髪)だろうか。
眉間にしわを寄せたその顔は、まさに神懸ってトランス状態になった霊媒者そのもの。時間の都合上、神楽は短めだったが、「神があがらせ給ふと云ひ捨つる」で幣を後ろに投げ、狂いから覚めて憑依が解けるその瞬間の表現が見事。
うつむいたシテの体から、神霊がふぅ~と遊離していくのが感じられた。



狂言《寝音曲》
アドの岡村宏惣(ひろのぶ)さんは初めて拝見する人かな?と思って、拙ブログを検索したら、5年前の2014年に第45回東西合同研究発表会で拝見していた。
その時も曲は《寝音曲》で、岡村さんはシテの太郎冠者をされていたが、今回はアドの主人役。これがなかなかうまい。落ち着いていて、間の取り方もよかった。

シテの忠三郎さんは汗びっしょり。横になった体勢で、大きな声で謡うのは相当大変なのだろう。
楽しい舞台だった。


片山九郎右衛門の能《融》へつづく












2019年9月4日水曜日

ICOM(国際博物館会議)京都大会ソーシャルイベント 金剛流《羽衣・盤渉》《棒縛》

2019年9月3日(火)金剛能楽堂

解説 ペレッキア・ディエゴ
狂言《棒縛》次郎冠者 茂山千五郎
 主人 茂山忠三郎 太郎冠者 茂山茂

能《羽衣・盤渉》種田道一
 ワキ有松遼一 岡充
 杉市和 曽和鼓堂 河村大 前川光長
 後見 廣田幸稔 向井弘記
 地頭 金剛龍謹


いよいよ始まったICOM(国際博物館会議)京都大会。
ソーシャル・イベントの会場となった能楽堂には、世界中から参加したICOM会員であふれ、まるでお能の海外公演に居合わせたような雰囲気だった。

京都産業大学准教授のペレッキア・ディエゴ氏による解説も英語がメイン。能・狂言の歴史から能舞台や面・装束について、さらにはこの日の演目のあらすじまで、簡潔に分かりやすく紹介されていた。
「能面は生きています。舞台で使われてこそ能面なのです。どうか世界中の博物館に眠っている能面と能楽師とをつないでくださいますよう皆さまのお力をお貸しください」というディエゴ氏の言葉が印象深い。文化財保護の観点からなかなか難しいとは思うけれども、海外のミュージアム関係者にこうして観ていただいたことが次の「何か」につながっていくといいな。

(4日の観世会館での《船弁慶・前後之替》も拝見する予定でしたが、落雷の影響で電車が止まっていたため、泣く泣く断念しました。(>_<))


《羽衣・盤渉》
今年の京都薪能(平安神宮)でも上演された金剛流の《羽衣・盤渉》。金剛流の華やかな芸風がよく生かされる演出と装束だった。

初めて拝見するシテの種田道一さんは、国立能楽堂主催公演でも何度かシテを勤められているから、おそらく金剛流を代表する能楽師のお一人なのだろう。現在60代半ばの円熟期。ゆったりとした大らかな舞姿で、気分が安らぐような、癒し効果の高い《羽衣》だった。

とくに印象深かったのが、天女が天上を懐かしんで、涙に暮れる場面。シテのシオリがあまりにも可憐で、まさに「梨花一枝雨を帯びたる」風情である。花が萎れてゆくように天人五衰の相を見せつつも、楚々とした天女の清らかさを感じさせる。「あまりに痛はしく候ほどに」と、白龍が心を動かされるのも肯ける。


〈装束〉
長絹は、平安神宮薪能で金剛宗家が着ていた上村松篁の長絹(孔雀の羽根のような目玉模様がついたもの)とは別のものだけれど、同じようにゴールドの羽根模様が裾に向けて放射状に広がったヴィヴィッドなオレンジカラーの長絹だった。
そこに、野村金剛家だけが特別に許されているという、紅白に染め分けられた露(ツユ)がついている。

下は紅地縫箔腰巻、天冠の立物は「盤渉」の時につけられる白蓮。いかにも金剛龍流らしいゴージャスで華麗な出立で、こういう国際大会のイベントによく映える。



〈盤渉〉
序ノ舞は「盤渉」の小書のため、初段の途中から盤渉調になる。
二段オロシでシテが後ろに数足下がり、《猩々》のように爪先を蹴り上げる足遣いをするのだが、水のイメージが強い盤渉調なので、天女が浜辺の波打ち際で舞い戯れるようすを表しているのだろうか?

序ノ舞の最後は破ノ舞の位に変わる(通常の「破ノ舞」はカットされ、序ノ舞と破ノ舞のあいだのシテワカの部分も省略される)。海辺で舞い遊んでいた天女が、ふわっと宙に浮かんで羽ばたいていくような軽やかさ。のどかにそよぐ春の浦風を思わせた。


〈舞込〉
三保の松原から富士の高嶺へ天高く昇っていった天女は、左袖をふわりと被き、クルクル、クルクルとまわりながら橋掛りを進み、最後に白龍のほうを振り返って、そのまま後ろ向きに幕入り。

天女を見送ったワキの留拍子で終演した。
舞台を去る時の有松遼一さんのハコビが棚引くような余韻を残していった。





2019年9月2日月曜日

片山九郎右衛門の《善界・白頭》~能楽チャリティ公演 被災地復興、京都からの祈り 夜の部

2019年8月29日(木)ロームシアター京都
《賀茂》《呼声》からのつづき
夜の白川沿い、知恩院古門

能《善界・白頭》片山九郎右衛門
 ツレ浦部幸裕 アイ井口竜也
 ワキ小林努 有松遼一
 森田保美 林吉兵衛 河村大 前川光範
 後見 青木道喜 味方玄 梅田嘉宏
 地謡 浦田保浩 浦田保親  吉浪壽晃
    分林道治 味方團 松野浩行
    河村和貴 谷弘之助



九郎右衛門さんの《善界・白頭》は、4年前に銕仙会で拝見した(その時の感想はこちら)。もう4年前になるのか……。
あの時はワキが宝生欣哉、お囃子は笛・竹市学、小鼓・成田達志、そして太鼓が観世元伯という凄いメンバーで、まさに全身に鳥肌が立つゾクゾクするような舞台だった。いまでも鮮明に記憶に残っている。


【前場】
時間が押していたのか、お調べのないままお囃子登場(お調べのない舞台は初めて。なんとなく演者も観客も気分が落ち着かないものです)。

短縮ヴァージョンのため、道行やクリ・サシ・クセは省略。クセは、善界たちが天狗稼業の辛さを嘆くという、この曲の妙味となる部分なので、カットされたのはちょっと残念だったけど、時間の都合上いたしかたない。


ツレの浦部幸裕さん、謡に味わいがあり、九郎右衛門さんとのシテ・ツレの掛け合いのところも聴き応えがあった。太郎坊の庵室で密談するところも、シテ・ツレが同時に大口をつまんでサッと裾を上げ、キリッとした物腰で下居する。
ここが、合わせ鏡のようにそろっていて、観ていて気持ちいい。
シテとツレの呼吸がぴったりで、所作もともにきれい。こういう組み合わせで観ると前場がぐっと引き締まり、舞台がいっそう緊密になる。



【来序中入】
「南につづく如意が嶽、鷲の御山の」でシテは東(上手)を仰ぎ、「雲や霞も嵐とともに失せにけり」でサーッと風になったように飛翔感のあるハコビで橋掛りをすり抜けて、中入。
続いて来序の囃子で、ツレが退場。

この時の前川光範さんの、天高く突き抜けるような高音の掛け声に吸い寄せられた。観世元伯さんが旅立って以来、太鼓で感動することはあまりなかったけれど、これほど素晴らしい太鼓をまた聴くことができるなんて! 
高く、高く、もっと高く、天と交信しているような、胸がときめく太鼓。




【後場】
時間がないためか、ワキの出の一声の囃子の最中に、牛車の作り物が脇座に置かれる。作り物は、2日前に見た《車僧》の破れ車と同じ造り。

続いて、大ベシの囃子で後シテ登場。
いかにも白頭の小書らしい重みのあるハコビから魔物めいた雰囲気がたちこめ、まるでスモークでも焚いているかのように霞がかって見える。「大唐の天狗の首領、善界坊とは我がことなり」の声に、大天狗の威信をかけた決意と意志がみなぎっている。

「不思議や雲の中よりも、邪法を唱ふる声すなり」の足拍子は、音を立てない「雲中の拍子」。重力を感じさせない浮遊感がある。

ワキがお経を唱えると、シテは雲から落下したように飛び安座をして、体を伏せる。
「さしもに飛行を羽も地に落ち」で、ふたたび飛び安座で、飛行から落下する「組落ちの型」。やがてナガシの囃子とともに橋掛りへ逃れ、欄干に足をかけて、悔しまぎれに僧に向かって数珠を投げ、そのままタタターッと幕のなかへ。


時間が押して巻き巻きでしたが密度の高い御舞台、堪能しました!




2019年9月1日日曜日

能楽チャリティ公演第2部《賀茂》《呼声》

2019年8月29日(木)ロームシアター京都

ナビゲーション 松井美樹

半能《賀茂》深野貴彦 
 樹下千慧 有松遼一 岡充
 左鴻泰弘 曽和鼓堂 井林久登 前川光範
 後見 深野新次郎 橋本擴三郎 塚本和雄
 地謡 武田邦弘 古橋正邦 越智隆之
         吉浪壽晃 橋本光史 吉田篤史
   橋本忠樹 松井美樹

狂言《呼声》茂山千五郎
 茂山茂 茂山逸平
 後見 島田洋海

能《善界・白頭》片山九郎右衛門
 ツレ浦部幸裕 アイ井口竜也
 ワキ小林努 有松遼一
 森田保美 林吉兵衛 河村大 前川光範
 後見 青木道喜 味方玄 梅田嘉宏
 地謡 浦田保浩 浦田保親  吉浪壽晃
    分林道治 味方團 松野浩行
    河村和貴 谷弘之助



チャリティ公演夜の部は、能狂言の3番とも良かった! 前川光範さんの太鼓が2番あったのもうれしい。
こんなに素晴らしい公演がプロボノで運営・上演されているなんて……京都在籍の有志の方々と共催・協力された方々には毎回頭が下がります。こういう公演を続けていくのは、ほんとうに大変なことだと思う。こちらにとっても微力ながらチャリティに参加できる良い機会。ご出演された方々、共催・協力された方々、ありがとうございました!



半能《賀茂》深野貴彦 
能《小鍛冶》と舞囃子《融クツロギ》を観た時から、私のなかの「うまい人リスト」に入っていた深野貴彦さん。この日の《賀茂》も期待以上でした。

以前も書いたけれど、細身なのに足腰が強靭でしなやか。力強い身体に弾力性がある。
早笛でのシテの出の謡「我はこれ、王城を守る君臣の道、別雷の神なり」には、稲妻がビカビカッと放電するような響きがあり、次の足拍子はドカンッと落雷したような重厚さ。

「風雨随時の御空の雲居」でシテが上を向けば、黒雲たちこめる空が現れ、「光稲妻の稲葉の露にも」で、下居して袖をきれいに被く、この袖の扱いが見事。
「ほろほろとどろとどろと踏みとどろかす」の足拍子は、まさに雷がゴロゴロ轟くよう。低く重みのある振動がこちらの肚に響いてくる。

ツレの樹下さんの御祖神の舞は無垢で愛らしく、謡にも艶がある。

ワキの有松遼一さんはこの日、昼・夜合わせて3番の舞台にご出演されていて、夜の部でも《賀茂》のワキと《善界》のワキツレに登場。ハコビも姿勢もきれい。座っているあいだずっと高い緊張感を持続されていて、強い「気」の放射を感じさせる。注目したいワキ方さんだ。

最後は、シテが幕際で袖を被き、虚空に上る体で留拍子。
前川光範さんの掛け声にも上昇感があって、大満足の舞台でした。




狂言《呼声》
茂山千五郎さん、茂さん、逸平さんによる《呼声》。三人とも声量が大音量で聞き取りやすく、舞台展開がスピーディで現代的。
最後に三人で輪舞するところは、兄弟・従兄弟が子どものころに遊んだ姿そのまま。思わず釣り込まれてしまうような、何とも言えない可笑しみがあった。



能《善界・白頭》へつづく



2019年8月30日金曜日

第50回東西合同研究発表会《花月》《車僧》など

2019年8月27日(火)京都観世会館

舞囃子《高砂五段》惣明貞助
 貞光智宣 岡本はる奈 柿原孝則 中田一葉
 豊嶋晃嗣 山田伊純 向井弘記 湯川稜

舞囃子《芦刈》石黒空
 山村友子 清水和音 森山泰幸
 辰巳孝弥 高橋憲正 佐野弘宜 上野能寛

能《花月》西野翠舟
 ワキ矢野昌平 アイ小西玲央
 杉信太朗 成田奏 河村裕一郎
 寺澤幸祐 笠田祐樹 山田薫
 浦田親良 寺澤拓海 梅若秀成

舞囃子《邯鄲》樹下千慧
 平野史夏 岡本はる奈 亀井洋佑 姥浦理紗
 橋本忠樹 梅田嘉宏 河村和晃
 河村浩太郎 谷弘之助

舞囃子《野守》高林昌司
 山村友子 清水和音 亀井洋佑 中田一葉
 塩津圭介 佐藤寛泰 佐藤陽 谷友矩

舞囃子《経正》谷弘之助
 貞光智宣 吉阪倫平 河村凛太郎
 大江信行 河村和貴 大江広祐
 河村浩太郎 樹下千慧

狂言《口真似》茂山虎真→井口竜也
 茂山竜正→茂山千五郎 柴田鉄平

舞囃子《百万》金春飛翔
 高村裕 成田奏 河村凛太郎
 本田布由樹 本田芳樹 政木哲司 金春嘉織

舞囃子《雲雀山》大槻裕一
 槌矢眞子 寺澤祐佳里 森山泰幸
 笠田祐樹 山田薫 浦田親良 寺澤拓海

能《車僧》宇髙徳成
 ワキ岡充 アイ上杉啓太→小笠原匡
 高村裕 唐錦崇玄→曽和鼓堂 山本寿弥 澤田晃良
 後見 豊嶋幸洋 山田伊純
 金剛龍謹 豊嶋晃嗣 宇髙竜成
 向井弘記 惣明貞助 湯川稜



東京の第48回、大阪の第49回、そして京都の第50回と、この2年間3回連続で拝見してきた東西合同研究発表会。
こうして見てみると囃子方・ワキ方は「東西合同」だけれども、能・狂言のシテは3回とも関西勢なんですね(関西では10~30代の若手能楽師さんが充実しているから?)。
東京の若手囃子方さんが懐かしくて、ちょっとウルッと来てしまった。

いつもながら見所後方には、大御所能楽師さんたちがずらりと勢ぞろい。錚々たるメンバーの厳しい目に見守られて、若手の方々はめちゃくちゃ緊張しただろうなあ~。



舞囃子《高砂五段》惣明貞助
柿原孝則さんはさらにパワーアップして、お囃子をぐいぐいリードされていた。岡本はる奈さんは以前にも増して、小気味よい音色。
貞光智宣さんをはじめ関西の笛方さんは総じてレベルが高い。
シテの惣明貞助さんは、じめじめしたお天気を吹き飛ばすような颯爽とした舞いっぷり。



能《花月》西野翠舟
西野さんは、6月の大阪能楽養成会で舞囃子《松虫》を拝見した時から注目していて、今回の能も期待通り。前にも書いたけれど、一般公募生でこれだけきっちりした良い舞台を上演されるとは! 姿勢と型が、どの角度から見てもきれいに決まっている。
欲を言えば、アイとのやり取り「げに恋は曲者」の場面で、もう少し色っぽさが出ればもっとよかったけれど……でも、見応えのある《花月》でした。

ワキの矢野昌平さん、青翔会のときから拝見してきたけれど、謡に磨きがかかり、姿にも風格が出てきた。

成田奏さんの小鼓は気合充実。繊細な気遣いも感じられ、何よりも安定感がある。シテや他のパートの囃子方から信頼を寄せられる囃子方さんになりはると思う。

地謡は、同じ観世流でも大阪の地謡は京都とはちょっと違う。骨太で、ずっしりした響き。良い地謡。

(この日の地謡は流儀や地域によって特色があり、それぞれの持ち味が出ていて、耳福だった。)



舞囃子《邯鄲》樹下千慧
もはや中堅の亀井洋佑さん、いまも研究発表会にご出演されていることがちょっと不思議だけれど、貫禄が別格。
姥浦理紗さんは、コツコツと着実に前に進んでいらっしゃる。国立能楽堂の図書室でよくお見かけした。努力家で勉強熱心な方。

シテの樹下さんには独特の「花」がある。京都らしい芸風。



舞囃子《野守》高林昌司
京都の高林昌司さんは東京の喜多流若手とはちょっと違う。
関西の能楽師さんはそれぞれに個性がある。中央から離れているおかげで、のびのびと個性を伸ばせるからかしら。

受け継ぐべきものを受け継いだうえで「個性」をもつことは、役者さんにとって大事なことだと思う。どんなにうまくても、没個性的な芸は代替がきく。
この人の舞台が観たい、この人のあの曲が観たいと思わせる魅力。そういうものを関西の若手能楽師さんたちは潜在的にもっている。



舞囃子《経正》谷弘之助
以前から気になっていた谷弘之助さんの舞囃子。
身体の線が細く、身軽でキレがあり、緩急のつけ方にセンスがある。

吉阪倫平さんと河村凛太郎さんの組み合わせは息がぴったり。



狂言《口真似》茂山虎真→井口竜也
シテの代演された井口竜也さんがよかった。

それにしても今回の東西合同は休演が多くて、少し心配。高齢ならまだしも、休演した方々はまだ20~30代。上杉啓太さんの間狂言は、楽しみにしていたからほんとうに残念。



舞囃子《百万》金春飛翔
個性的といえば、金春飛翔さんがダントツに個性的。この方が謡い舞いはじめると、舞台の空気が一変する。中世の大和にタイムスリップしたような、山深い神域で行われる神聖な儀式に立ち会っているような、そんな気分になる。

地謡の大半は東京金春流のメンバー。この日の地謡は良かった。

高村裕さんの笛、一噌流の笛を聴くのは久しぶりすぎて新鮮。



舞囃子《雲雀山》大槻裕一
大槻裕一さん、文蔵師の芸風にますます似てきた。端正で、うますぎる。ほとんど老成したような舞姿。




能《車僧》宇髙徳成
はじめて観る《車僧》。脇座に破れ車の作り物が出される。
恰幅のいい宇髙徳成さんは、前シテの山伏姿がサマになる。

車僧という難しい役を岡充さんが好演。
ちょっかいを出すアイを一蹴し、太郎坊との法力比べも大迫力! 「払子を上げて虚空を打てば」の謡は、マジカルな念のこもった力強い謡。太郎坊が降参するのも無理はないと思わせるほど、説得力のある高僧ぶりだった。


そして、注目の澤田晃良さん。
やっぱり、この方の太鼓の音色がいちばん観世元伯さんの太鼓の音に近い。
本来なら元伯さんも、この見所のどこかでご覧になっていただろうに……そう思うと、胸が熱くなって涙があふれそうになる。
澤田さんだって、まだまだ師匠の後ろに座って、もっともっと多くのことを貪欲に吸収したかっただろうに。
端然と座り続ける姿や、舞台への気の入れ方、粒のひとつひとつを「一球入魂」の精神で打つところなど、お師匠様を彷彿とさせた。

私が澤田さんの太鼓を聴くことはもう当分ないだろうけれど、これからのご活躍を心よりお祈りいたします。





2019年8月28日水曜日

片山九郎右衛門の《定家》~京都観世会8月例会

2019年8月25日(日)京都観世会館
定家の時雨亭跡とされる嵯峨野・二尊院

能《定家》梅若実→片山九郎右衛門
(梅若実右股関節症のため代演)
 福王茂十郎 是川正彦 喜多雅人
 千本辺りの者 小笠原匡
 杉市和 大倉源次郎 河村大
 後見 井上裕久 林宗一郎
 地謡 梅若実 河村和重 浦田保親
        浦部幸裕 橋本光史 松野浩行
        大江泰正 河村和晃


この10日間ほど、片山九郎右衛門さんはほとんど連日のようにシテを勤めていらっしゃる。そうした過密スケジュールのなかで、突然、舞うことになった大曲《定家》。それでこれだけの高いレベル━━熟練の役者が周到に準備を重ねて仕上げるくらいのレベル━━の舞台を上演されるとは! やっぱり凄い方です。
見えないところで、いったいどれほどの努力をされているのだろう……。



【前場】
前シテの出立は、秋の草花をあしらった青白の段替唐織。涼しげな配色だが、まばゆい白地に金糸が織り込まれ、上品で趣味が良い。
装束に照明が反射して、後光のような輝きがシテの体を包んでいる。だが、その光には温かみはなく、どこか人を寄せつけない、バリアのようなものを感じさせる。
近寄りがたい、気高さ。

梅若実地頭の初同「今降るも、宿は昔の時雨にて」で、冷たい雨の降る廃園にいにしえの面影が宿り、そこに佇むシテの姿が、氷のように鋭く冷たい気品をたたえている。近づくと怪我をするような鋭利な気品。

これほど冷たく、近づきがたい九郎右衛門さんのシテを観るのは初めてだった。

「妄執を助け給へや」のところでも、僧に向かって合掌することはなく、ただ相手をじっと見つめている。
誰にも弱さを見せず、誰にもすがらない。
それが高貴で気高い式子内親王の生き方だったのだろうか。



〈中入〉
作り物に入るところでは、
「かげろふの石に残す形だに」で、シテは正中から後ろに下がって、石塔に背をつけたかと思うと、そのまま塗り込められたようにピタッと張り付き、石の彫像と化す。

石塔と一体化して、みずからも石像になったかと思うほど、シテはしばらく不動のまま。

やがて、「苦しみを助け給へ」でいったん石塔から離れてワキへ向き、そのままくるりと向きを変えて、作り物へ中入。



【後場】
習ノ一声は、深い洞窟の底から響いてくるような大小鼓の音色。
河村大さんの大鼓の響き、なんて深みのある音なんだろう! 遠い過去の記憶を呼び覚ますような魔力のある音色。
そこへ源次郎さんの小鼓と杉市和さんの笛も重なり、囃子の音の世界が、遠い恋の記憶を連れてくる。


「夢かとよ、闇のうつつの宇津の山」
塚の中から響いてくるシテの声は、悲しみでもない、苦しみでもない、名状しがたい感情の奥底から湧きあがる、うめくような、あえぐような、せつない声。


「朝の雲」「夕べの雨と」
中国の故事「朝雲暮雨」を引いて男女の交情をほのめかす場面では、シテは声を昂らせ、内奥に沸々と燃えたぎる熱情をほのめかす。


引廻しが下ろされて現れたシテは、灰紫の長絹に水浅葱大口という出立。
面は灰色がかった長絹の顔映りのせいで、一瞬「痩女」かと思ったほど。前と同じ増の面だが、蔦葛の翳になり、塚のなかの後シテの顔は色褪せたようにやつれて見える。



〈序ノ舞〉
序ノ舞は崇高な気品に貫かれた、冷たく、美しい、愛する者を撥ねつけるような拒絶の舞。
時おり見せる「身を沈める型」が斎院時代の巫女性を垣間見せる。

舞の後半では、キリで喩えられる蔦葛で縛られた葛城の女神のような神秘性すら漂っていた。

だが、冷たい序ノ舞から一転、舞い終えたシテの謡「おもなの舞のありさまやな」は、炎のような熱い情念で燃えていた。
抑えに抑えていた情熱が、ここで一気にほとばしったかのような熱い謡。紅潮した生身の女の情感があふれ出す。


冷たい拒絶と、熱い思い。
求めれば拒まれ、離れれば燃え上がる。

両極端の思いが自分のなかで内部分裂を起こし、そのはざまで揺れ動き、懊悩する。そんな内親王をイメージさせた。だからこそ、定家は彼女に妄執を抱き、死後も離れられずに、這い纏うしかなかったのだろうか。



〈終曲〉
最後に、シテは八の字を描くように作り物を出入りしたのち、塚のなかで独楽のようにくるくるまわって葛に這い纏われるさまを表し、愛する定家の抱擁を受け入れるように静かに下居して、枕の扇。

こちらも時雨亭跡とされる嵯峨野・常寂光寺

【付記】
時雨亭の場所は《定家》では「千本辺り」(今出川通千本付近)となっていますが、実際に時雨亭があったとされるのは嵯峨野のようです(時雨亭跡は嵯峨野の常寂光寺、二尊院、厭離庵など諸説あります)。

《定家》の作者とされる金春禅竹がなぜ、時雨亭を「千本辺り」に設定したのかは定かではありませんが、当時は時雨亭が千本辺りに存在したと思われていたのかもしれません。あるいは、禅竹自身が舞台を「都の内」に設定し、曲全体に「都の香り」をそこはかとなく漂わせたかったのかもしれません。

画像は昨年11月に嵯峨野を訪れた時のものですが、近くには祇王寺もあり、晩秋の嵯峨野には、能《定家》の舞台にふさわしい物寂しく枯れた風情が漂っていました。



2019年8月25日日曜日

《兼平》~京都観世会八月例会

2019年8月25日(日)京都観世会館

能《兼平》片山伸吾
 旅僧 福王和登
 粟津浦船頭 小笠原弘晃
 杉信太朗 成田達志 谷口正壽
 後見 杉浦豊彦 河村晴道
 地謡 味方玄 吉浪壽晃 分林道治
        味方團 田茂井廣道 橋本忠樹
        宮本茂樹 河村和貴

狂言《蝸牛》山伏 小笠原匡
 太郎冠者 小笠原弘晃 主人 山本豪一

能《定家》梅若実→片山九郎右衛門
(梅若実が股関節症のため代演)
 福王茂十郎 是川正彦 喜多雅人
 千本辺りの者 小笠原匡
 杉市和 大倉源次郎 河村大
 後見 井上裕久 林宗一郎
 地謡 梅若実 河村和重
        浦田保親 浦部幸裕 橋本光史
   松野浩行 大江泰正 河村和晃

仕舞《放下増小歌》松井美樹
   《江口キリ》  吉浪壽晃
  《籠太鼓》  味方玄
  《融》      田茂井廣道

能《善界》大江広祐 河村浩太郎
 岡充 岡陸 有松遼一
 能力 泉槇也
 竹市学 林大輝 石井保彦 井上敬介
 後見 牧野和夫 大江信行
 地謡 大江又三郎 浦田保浩 古橋正邦
       越智隆之 浅井通昭 吉田篤史
       梅田嘉宏 樹下千慧



思いがけず、念願だった片山九郎右衛門さんの《定家》を観ることに。
急遽、東京から駆けつけた方々もちらほら。京都の見所でも、シテが代役になることを当日会場で初めて知った人が多かったようだ。九郎右衛門さんのお社中の方さえ知らなかったくらいだから、ほんとうに突然決まったのかしら?
(観世会館からは2日前にツイッターとHPに発表があった。)


《定家》の感想は別記事に書くとして、まずは《兼平》から。

【お囃子最高!】
一にも二にも、成田達志さんと谷口正壽さんの大小鼓が、悶絶レベルでカッコよかった!

木曾義仲と今井兼平との乳兄弟の固い契りって、こんな感じではなかっただろうか?
まさに、たった二騎になった義仲と兼平が最期に猛戦する凄まじい雄姿を見るかのよう。
敵陣に向かって疾走し、馬上で長刀を振り上げ、太刀を振り下ろす、その勢いそのままの勇ましい掛け声と戦場に響きわたる鼓の音。
戦国武将そのものの、気迫と気合。
義仲と兼平がよみがえって、舞台で鼓を打っているようだった。

天下無双、無敵の大小鼓。
それぞれ単独でもカッコいいけれど、兄弟そろった大小鼓は100倍くらいパワーアップして、もう、最強の組み合わせ!

ああ、このお二人の囃子でもっと舞台を観てみたかった。
あの曲も、この曲も、もっと、もっと観てみたかった……。



【演者が訪れる能の史跡】
京都観世会機関誌『能』7月号に、片山伸吾さんによる《兼平》ゆかりの地をめぐる紀行文「演者が訪れる能の史跡」が寄せられている。

それによると、《兼平》に登場する「山田矢橋の渡舟」は、今の近江大橋がかかる辺りにあったもので、「矢橋の船は速けれど、急がば回れ瀬田の長橋」と連歌に詠まれたように、比叡山からの突風が吹き下ろす船路よりも、瀬田の唐橋を経由した陸路のほうが安全だという、「急がば回れ」のことわざが生まれた場所だという。

公演前日に予習として、伸吾さんの紀行文を読みながら地図をたどると、先日、大津市伝統芸能会館に行った折に目にした琵琶湖の光景が浮かんできた。実際の舞台前場の名所教えの場面でも、のどかな初夏の湖面や崇高な霊山・比叡山がより鮮明にイメージできた。

京都は謡曲の史跡であふれているから、演者がめぐる紀行文が公演前の機関誌に掲載されるのは、良い企画だと思う。(私は今年から会員になったので知らなかったけれど、『能』に掲載された「演者が訪れる能の史跡」シリーズはこれで29回目なんですね。)




能《定家》につづく



2019年8月11日日曜日

同研能~狂言《鳴子遣子》・能《歌占》

2019年8月10日(土)嘉祥閣
千丸屋さん。NHK「百味会」で父子喧嘩してはりましたが、やっぱり夏の暖簾は白。
解説  吉浪壽晃
狂言《鳴子遣子》島田洋海
 井口竜也 山下守之
 後見 茂山茂

能《歌占》吉田篤史
 子方 吉田学史 ツレ 寺澤拓海
 杉信太朗 曽和鼓堂 谷口正壽
 後見 井上裕久 浅井通昭
 地謡 浦部幸裕  吉浪壽晃 寺澤幸祐



解説
まずは、吉浪さんの分かりやすい解説。
《歌占》の次第「月の夕べの浮雲は後の世の迷ひなるべし」の謡のちょっぴりお稽古もあって、楽しかった。吉浪さん、この日も好い声。

(解説の自分用メモ)
《歌占》のクセは「三難クセ」のひとつ。三難クセには、ほかに《白鬚》《花筐》がある。ただし、宝生流ではレパートリーに《白鬚》がないので、《山姥》のクセが三難クセに入る。



狂言《鳴子遣子》
ガラガラと音を鳴らして鳥を脅す道具を「鳴子」と呼ぶか、「遣子」と呼ぶかで言い争うお話。
遣子と呼ぶのは「引いて放てば鳴る」からなんですね。なるほどー。

嘉祥閣では至近距離で拝見できるので、演者の視線の動きまでよく分かる。
判定役となるシテの島田洋海さんがうまい。
言い争っている二人が賭けている刀を最後に持ち去ってしまうところなど、間の取り方や声の調子がなんともうまくて、視線の芸も見事。

それにしても、シテの主人が言った、どちらが勝っても負けても遺恨を残すから、どちらが正しいかなんて決めないほうがいい、というのはなんとも含蓄のある言葉。

たしかに、白黒つけずに曖昧なままにしておくほうが良いことって、人間社会には多い。世渡り上手は、のらりくらりとやり過ごす人だったりする。
『狂言から学ぶ!処世術』みたいな本があったら読んでみたい気がする。

世知辛い世の中、狂言的な思考で渡っていけるといいな。




能《歌占》
《歌占》は宗教民俗学的にも大変興味深い。

白山信仰の祭神・白山比咩大神は生命の蘇生を促す神であり、分霊社では「黄泉がえり」の神事が行われてきた。御神体の白山近辺の各神社では昔から猿楽能が盛んだったとされている。
能《歌占》は、そうした白山信仰を背景に作られた原曲を、観世元雅が「地獄の曲舞」を挿入するなどして換骨奪胎し、洗練化した作品。

おそらく中世には、「黄泉がえり」を体現した風体の芸能者が、地獄のありさまを再現する舞や芸が行われていたのかもしれない。

暗くジメジメした俊徳丸伝説を、《弱法師》のような清浄無垢な作品に仕立てつつ、オリジナルがもつ土俗的な香りを残して独特の世界を構築したように、《歌占》にも原曲のもつ呪術的要素が多分に残されていて、こういうアレンジの妙が元雅の卓越した手腕であり、彼の作品の魅力だと思う。


この日の《歌占》では、とても愛らしい子方さんがキリッと引き締まった表情で舞台にひたむきに向き合っていらっしゃって、その姿が健気で清々しい。朗々とした謡もよかった。

感動的だったのが、シテのお父様との再会シーン。
渡会某が幸菊丸の両肩に手を載せて、父子の対面を喜び合う場面が情愛に満ちていて、胸に響くものがあった。
シテが神懸って立廻り、難しい型の連続で狂乱のさまをあらわすところも印象的。

京観世の名門・井上一門らしい地謡もよく、大小鼓も爽快。なかでも、大鼓の谷口正壽さんが、あいかわらず気迫満点で、めちゃくちゃカッコいい!

夏の暑さを吹き飛ばす御舞台でした。




帰りに立ち寄った大極殿・栖園。
帰省土産はこちらで調達。



2019年7月30日火曜日

片山九郎右衛門《安達原》~面白能楽館プロデュース

2019年7月27日(土)京都観世会館
面白能楽館「恐怖の館」からのつづき
白川で気持ちよさそうに涼んでいたアオサギさん

能《安達原》シテ片山九郎右衛門
 祐慶 小林努 山伏 有松遼一
 能力 茂山千三郎
 左鴻泰弘 曽和鼓堂 河村大 前川光範
 後見 大江信行 梅田嘉宏
 地謡 河村晴道 味方玄 分林道治
    浦部幸裕 橋本光史 吉田篤史
        河村和貴 大江泰正


やっぱり凄かった、九郎右衛門さん! 
これだから目が離せない。

解説の林宗一郎さん曰く「現代の能楽師が考え得る工夫」を凝らした《安達原》。鬼女の「心の闇と悲しみに迫るところ」と「鬼の形相で出てくる女の勢い」が見どころとのこと。

その触れ込みにたがわず、いや、ふれ込み以上に、随所に工夫が凝らされ、鬼女の内面に迫ったこの日の舞台は、まちがいなく、私がこれまで観たなかで最高の《安達原》だった。

照明がいつもより落として、見所が暗めになっていたのもよかった。こういう曲やしっとりとした深みのある曲は、これくらいの照明のほうが雰囲気が出る。



【前場】
短縮バージョンなので、ワキの次第は地謡が引き受け、道行はカット。名乗りのあと、すぐさま陸奥の安達原に到着(早っ!)。

ワキの山伏一行が着くと、笛の独奏が入る。この左鴻さんの笛から、安達原の荒涼とした空気と、女のわび住まいの寂莫たる雰囲気が醸成されてくる。


〈糸車を回す場面〉
シテは、陸奥の風さながらの寂寥感のある地謡にのせて、古い映写機のようにゆっくりと枠枷輪を回しながら「日陰の糸」「糸毛の車」「糸桜」と糸尽しの歌を謡い、そこに自らの過去を投影させてゆく。

「長き命のつれなさを思ひ明石の浦千鳥」から、命を長らえたくないとでもいうように、糸車を回す速度が速まり、女は感極まって泣きくずれてしまう。
シテのまとう孤独な影が、憐れな女の輪郭をなぞっている。

こういう影の表現が、九郎右衛門さんらしい。
孤独な人間の脆い部分にスーッと入っていける人。
人の心の傷に、自然に寄り添える人なのかもしれない。

そして、ヒロインの気持ちに同化するだけでなく、能面の魂を肉体に憑依させ、その魂を表現できるだけの神業的身体技能をもつ人でもある。

まさに心・技・体の3つが渾然一体となって、九郎右衛門さんの舞台を創り上げていた。



〈鬼の気配〉
「あらうれしや候、かまへてご覧じ候ふな」と、閨のなかを覗かないよう念を押す女の声に、「どうか、わたしを裏切らないで」と哀願するような気持が滲む。

だが、アイの従者に再度念を押すところから、しだいに「鬼」の心が顔を出す。
一の松で立ち止まる場面では、姿は女でも、背後の影は鬼になりかけているような、そんな気配が漂っていた。




【間狂言】
女との約束は裏切られ、閨のなかを覗かれてしまう(聖職者なのに女性の寝室を覗くなんて……)。なかには腐臭漂う死体の山。
(関西の間狂言は東京と比べて、わかりやすいというか、オーバーアクションなんですね。)



【後場】
幕が上がり、鬼女となった後シテ登場。
三の松でしばし佇んだあと、ススーッと後ろに下がって幕のなかへ。
早笛の囃子とともに、ふたたびサッと幕が上がり、勢いよくシテが出て、一の松で謡いだす。

この「焦らし」と「勢い」、「前進」と「後退」のメリハリの効いたシテの出が、めちゃくちゃカッコいい!


照明を落とした舞台のなか、シテが打杖を振り下ろす。般若の面がおぞましくも、恐ろしい。金泥の眼が怨みの炎で鈍く光り、耳まで裂けた口から底なしの闇がのぞき、凄まじい憎悪の念を沸々とたぎらせている。

やがてシテは橋掛りに向かう途中、後見座の前で、背負っていた柴をサラリと落とす。《道成寺》の鱗落としと同じ型だが、どことなくエレガントで品がある。

九郎右衛門さんの鬼女は邪悪に見えつつも、かつては奥ゆかしく美しい女性であったと思わせる気品と恥じらいが、所作や物腰の端々に感じとれる。こういうところに惹かれるのだ。


イノリの囃子のなか、息をつく暇もないほどの迫力ある鬼女と山伏のバトルが繰り広げられる。
燃えたぎるような鬼女の怨念に山伏たちは圧倒されたかに見えたが、「東方に降三世明王……」と山伏たちが神々の名を唱えると、シテの勢いはみるみる衰えてゆく。

この鬼女の忿怒の形相と、呪文の効力に威力を失ってゆくさまとの明暗表現がじつにあざやか。眼に見えない衝撃が鬼女を襲ってゆくのが、手に取るようにわかる。


最後は山伏たちに祈り伏せられ、タタターッと橋掛りを進んでそのまま幕入り。


……かと思ったが、ふたたび幕が上がり、

そこには、
鬼の姿をした女がひとり、

救いのない孤独のなかで、
むせび泣いていた。






2019年7月29日月曜日

面白能楽館「恐怖の館」

2019年7月27日(土)京都観世会館
お話 林宗一郎
組曲「こんなはずじゃなかった」
《鉄輪》 浦田保浩
《善知鳥》杉浦豊彦
《恋重荷》井上裕久
 左鴻泰弘 曽和鼓堂 河村大 前川光範
 後見 味方團
 地謡 浦田保親 越智隆之
    吉浪壽晃 大江信行

能の体験
 謡体験その一・その二
 能面体験
 装束体験・ホラールーム

能《安達原》シテ片山九郎右衛門
 祐慶 小林努 山伏 有松遼一
 能力 茂山千三郎
 左鴻泰弘 曽和鼓堂 河村大 前川光範
 後見 大江信行 梅田嘉宏
 地謡 河村晴道 味方玄 分林道治
    浦部幸裕 橋本光史 吉田篤史
        河村和貴 大江泰正



その名の通り、と~っても面白くて、怖かった、面白能楽館「恐怖の館」。
京都の能楽師さんは皆さん親切で、フレンドリーな方ばかり。いつもよりお客さんの年齢層も若くて、見所もロビーも活気にあふれ、大人も子供も少女漫画みたいに目がキラキラしていた。
なにより企画力がすごい。ヴァラエティ豊かな内容を「これでもか!」ってくらいギュッと詰め込み、幅広い年齢層が楽しめる公演にアレンジされていて、よく考えられている。

夏休みのこういう体験型能楽イベントはお子さま限定がほとんどで、私などは行きたくてもいけなかったから、うれしい機会でした。



組曲《こんなはずじゃなかった》
《鉄輪》《善知鳥》《恋重荷》という怖い3曲の見せ場をピックアップして、リレー形式で上演。京都観世会を代表するシテ方お三方が、面・装束を着け、曲ごとに「祈祷台」「笠」「重荷」の3つのアイテムが出されるという、贅沢な組曲。

3人のシテの充実した芸が次々と披露され、お囃子が曲と曲をスムーズにつないでいく。この日は音響が良く、前川光範さんと河村大さんが華麗な音色と気迫のある掛け声にゾクゾクした。



謡体験
解説者で企画者のおひとりでもある林宗一郎さんのご指導。地取のお稽古というのが斬新だった。あの低く響く声をお腹の底から出すのはなかなか難しいけれど、地取って渋くてかっこいい。謡のお稽古を少し体験しただけでも、その味わい方が違ってくる。


鉄輪の「祈祷台」
ロビーに設けられた作り物体験コーナー。
鉄輪の「祈祷台」では後妻打ちのポーズで写真撮影。



安達原の「萩小屋」と打杖
担当の片山伸吾さんがていねいに説明してくださいました。
打杖、はじめて手に持ったけれど、意外に軽くてビックリ。
お茶の世界で「軽いものは重く」扱うよう教えられるように、舞台で役者さんが扱うと、もっと頑丈で重そうに見えます。

作り方は竹の棒に布を巻いていくのですが、このとき接着剤は使わず、先のほうを糸で縛るだけだそうです。《安達原》では画像のような紺地の布を使い、《道成寺》などでは赤地の布を使うとのこと。簡素な道具にも、細かい部分に工夫やこだわりが施されていて、能楽師さんから直接お話をうかがうのは着物の織元を訪ねるのに似ています。



能面クラフト・コーナー
公演チラシの裏面の般若を切り抜けば、紙の能面になるというなかなかのアイデア。
こういうの作るのは久しぶり。4才の甥にあげようかな。




装束体験
舞台では装束体験。
着付けチーム4組ぐらいで15人の装束付をしていきます。能楽師さんたちも汗だく。

2階はホラールーム。
私は申し込まなかったのですが、アミューズメントパークのアトラクション並みに「きゃあ~!」という叫び声が聞こえてきて、すごく盛り上がっていました。(^^♪




能面体験

お目当ては、この能面体験。
プロの能楽師さんが面をかけた時どんな感じなのかを体験するべく、本物の舞台の時と同じ強さで紐を締めてもらうようお願いしたのですが、これが私にとっての恐怖体験に。

「えっ! こんなに締めるの?!」と思うくらい、能楽師さんが面紐をグイーッと締めていきます。懲らしめられた孫悟空の頭の輪のような締めつけ具合とでもいうのでしょうか、意識が遠のきそう。

立ち上がって歩いてみましたが、視界は狭く、私は顎を引きすぎていたので、能楽師さんに舞台上のふつうの頭の角度に直してもらうと、足元がまったく見えず、おのずとスリ足的な歩き方になっていきます。

それにしても、面を掛けただけで、慣れ親しんだ自分の身体が、別のものになったような不思議な感覚でした。修練を積んだ能楽師さんはもっと深い憑依感覚を味わっていくのでしょうか。そういえばこの日の翌日、金剛家の能面展にうかがったときに、宇髙竜成さんが「能楽師は能面の依代になるために身体をつくってゆく」みたいなことをおっしゃっていました。能面は、お能の「核」なのかもしれません。




2階展示ケースの怖い能面たち
京都観世会の各御家が持ち寄った、怖い能面たち。
チラシの背景に映っていた能面たちは、この子たちの合成?
間近で拝見できてうれしい。

撮影OKだったので、以下に紹介していきます。

狐蛇




貴船女
変わった能面ですね。林家所蔵の「貴船女」だそうです。
きれいだなぁ。
この面を使った《鉄輪》を観てみたいと思ったのですが、実際は使いにくいとか。



野干




生成
素人目にはこちらのほうが使いにくそうに見えるのですが、使い込まれた跡があるので、意外とそうでもなさそうです。



河津(蛙)
私にとって、能面のなかでいちばん怖いのが蛙の面。
この子はわりと愛嬌があるのですが、日氷の蛙は、ほんとうに怖い。





橋姫



般若



鼻瘤悪尉


片山九郎右衛門《安達原》につづく