2019年12月22日(日)京都観世会館
《邯鄲》盧生 片山九郎右衛門
舞童 梅田晃熙 勅使 殿田謙吉
大臣 宝生欣也
輿舁 平木豊男 宝生尚哉
宿の女主人 茂山茂
杉市和 飯田清一 谷口正壽 前川光長
後見 小林慶三 大江信行
地謡 青木道喜 古橋正邦 河村博重
分林道治 味方團 宮本茂樹
河村和貴 大江広祐
《腹不立》出家 茂山七五三
アド 茂山逸平 茂山千之丞
仕舞《巻絹》河村博重
《車僧》橋本忠樹
武田邦弘 古橋正邦
田茂井廣道 清沢一政
《正尊 起請文・翔入》味方玄
義経 片山伸吾 静 味方慧
江田源三 分林道治 熊井太郎 大江広祐
姉和光景 大江信行
立衆 橋本忠樹 宮本茂樹 河村和貴
河村和晃 河村浩太郎
武蔵坊弁慶 宝生欣也
下女(くノ一?)松本薫
杉信太朗 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 片山九郎右衛門 味方團
ワキ後見 殿田謙吉 平木豊男
地謡 橋本礒道 橘保向 武田邦弘
青木道喜 古橋正邦 河村博重
田茂井廣道 清沢一政
【邯鄲】
忘れもしない、私が能を観はじめた5年前、初めて感動した舞台が片山九郎右衛門さんの《邯鄲・夢中酔舞》(国立能楽堂企画公演)だった。
あのときのクライマックスの光景は、いまでも胸に焼きついている。
盧生がゆっくりと身を起こしたあと、時間が凝固したような長い沈黙がつづいた。
はたしてシテは無事なのか?
もしかすると一畳台に激しくダイヴしたせいで、脳震盪でも起こしたのではないだろうか……?
緊迫した静寂ののち、シテはようやく沈黙を破り、「盧生は、夢醒めて……」と謡い出した━━「永遠の一瞬」ともいえる絶妙な「間」だった。
観世寿夫があの名舞台で井筒をのぞいた時のような、計算され、洗練しつくされたあの美しい「間」が、観能ビギナーだった私を能の世界へ引き入れてくれた。
この日の《邯鄲》でもあの時の「間」が再現され、盧生が身を起こしたあとに長い沈黙がつづいた。
ただ、5年前の《邯鄲》では舞台も見所も水を打ったように静まり返っていたが、この日は見所の物音で、あの「永遠の一瞬」が惜しくも乱されたのだった……。
一畳台での〈楽〉も、5年前とよく似た感覚を抱いた。
シテは、空気中とは異なる重力空間に存在していた。手足に水圧のような抵抗を受け、まるで水中で舞っているかに見える。引立大宮の四角い箱型空間が透明なアクアリウムと化し、シテは夢の中でゆらめくように遊泳していた。
生死の境で魚になって泳ぐ夢を見る『雨月物語』の「夢応の遊鯉」がふと頭に思い浮かび、《邯鄲》の世界と折り重なっていった。
ほかにも、とりわけ印象深かった箇所が2つある。
ひとつは〈楽〉を舞い終えて興に乗ったシテが、橋掛りで至福の境地に浸るところ。
昼夜・四季のすべての美しさが目の前に展開し、この世の頂点を極めた盧生は「面白や、不思議やな」とまばゆい栄華に酔いしれるのだが、この時シテは橋掛りの欄干にゆったりと腰をかけ、甘美な悦楽にしばし耽溺する。
橋掛りの欄干に無造作に腰をかけるという、大胆な型を観るのはこの時が初めてだった。
シテの創意だろうか?
クタッとくつろいだ姿勢から、いかにも圧倒的な幸福に浸りきって我を忘れた青年らしい、どこか生ぬるく隙のある、ぽわ~んとした脱力感が伝わってくる。
もうひとつは、盧生が夢から醒めて「何事も一炊の夢」と悟ったのち、「南無三宝南無三宝」と唱えるところ。
この時シテはおもむろに一畳台から立ち上がり、正中に出て、急に激しい調子で「南無三宝! 南無三宝!」と歓呼する。「なんだ! そうだったのか! そういうことだったのかぁ!!」と、全身から熱い感動がほとばしるように。
ここも、青い果実のようなちょっとベタな感情表現が、どことなく若者らしさを感じさせた。盧生のつかの間の「悟り」の先にあるのが何なのか、あれこれ想像をめぐらせたくなる。
アイの宿屋の女将は、5年前の《邯鄲》と同じ茂山茂さん。はまり役だ。ハコビがなんとも女らしく、婀娜っぽい。
笛も5年前と同じく杉市和さん。囃子方は俊英ぞろい。推しの大鼓方・谷口正壽さんがこの日も冴えていた。そして、端然と下居した大臣役の宝生欣哉さんの不動の佇まいが、ひたすら美しかった。
片山定期能《正尊 起請文・翔入》につづく
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2019年12月27日金曜日
2019年9月27日金曜日
片山九郎右衛門の《三井寺・無俳之伝》
2019年9月22日(土)京都観世会館
京都観世会九月例会《錦木》からのつづき
能《三井寺・無俳之伝》片山九郎右衛門
千満 梅田晃煕 能力 茂山忠三郎
宝生欣哉 平木豊男 宝生尚哉
杉市和 飯田清一 河村大
後見 大江又三郎 青木道喜
地謡 浅井文義 河村和重 河村晴道
分林道治 大江信行 宮本茂樹
河村和貴 大江広祐
仕舞《道明寺》浦田保親
《松風》河村晴久
《松虫キリ》鷲尾世志子
《善界》浦部幸裕
能《天鼓・弄鼓之舞》浦田保浩
ワキ福王和幸 アイ茂山千五郎
森田保美 久田舜一郎 谷口正壽 前川光範
後見 杉浦豊彦 深野新次郎
地謡 河村晴久 河村博重 片山伸吾
味方團 吉田篤史 松野浩行
大江泰正 河村和晃
《三井寺》は昨年の片山定期能(シテは味方玄さん)でも拝見しましたが、この日は「無俳之伝」の小書付き。
「無俳(おかしなし)之伝」とは、前場で夢占いをする清水寺門前の者が登場しない演出のこと(「俳」は狂言方の意)。江戸中期につくられたこの小書については、「曲の作為に反する」として批判的な見方をする研究者や能評家もいらっしゃるようです。
演能時間を短縮するたんなる便法とみなされがちなこの小書ですが、狂言方による夢占いの場面をそぎ落としたからこそ、母の深い祈りと神仏への訴えが観る者の心に強く迫る……九郎右衛門さんの「無俳之伝」はそんな小書の真意をみごとに表現した舞台でした。
【前場】
登場楽も気配もなく、ふと気がつけば、いつのまにかシテが登場していた。
シテの出立は、花模様の水色地と青い縦縞の生成地の段替唐織壺折に、秋草花をあしらったシックで豪華な焦茶地の縫箔腰巻という非常に凝った取り合わせ。地味で渋いながらも上質なセンスが光る、贅を尽くした装束。
色艶の美しい塗笠を目深にかぶり、どこか思いつめたような表情をしている。
面は、角度によっては増のようにも見える、超美形の深井。
「南無や大慈大悲の観世音……」
正先で下居して、一心に手を合わせる千満丸の母。
情愛に満ちた深い母性を感じさせるその姿は、さながらイエスの助命を祈る聖母マリアを思わせる。おごそかな一条の光が照らしているかのように、シテの姿がぼうっと浮かび上がる。
「いまだ若木のみどり子に再びなどか逢はざらん、再びなどか逢はざらん」
魂の奥底から振り絞るような悲痛な祈りの言葉が、清水の観音さまに訴えかける。
やがてシテは、にわかに啓示を受けたかのようにハッと覚醒し「あら有難や候……あらたなる霊夢を蒙りて」と数珠をもつ手で合掌し、三井寺めざして中入。
音楽的な要素を最小限にとどめた静謐で崇高な場面。オリジナルの《三井寺》にはない、この小書ならではの良さが際立つ前場だった。
【後場】
茂山忠三郎さんの小舞「いたいけしたるもの」は後場の眼目のひとつ。張り子の顔、練稚児、しゅくしゃ結びにささ結びと玩具尽しのこの小舞を、じつに身軽で身のこなしで舞っていた。飛び返りはまるで無重力空間で舞うかのよう。体重の重みを感じさせない軽やかな着地も見事。
「ジャモ~ン、モォ~ン、モオォ~ン」と三井寺の鐘をつくところも、空気を震わせて伝わってくる妙なる音の残響、音の波の揺らめきが巧みに表現されていた。
〈カケリと鐘ノ段〉
狂女越一声を経て、ナガシのような囃子からカケリに入る。
澄みきった秋の夜空に浮かぶ月。冷たく照らす銀色の月に誘われるように、シテはルナティックなカケリを舞う。魂がなかば遊離したような、夢うつつの狂気の舞。
そこから一転、中国の故事を引いて、鐘をつく理由を説く議論の場面では、冷静で理知的な面をのぞかせる。
鐘ノ段では、本物の鐘をつくように色とりどりの錦の紐を巧みに操る写実性と、作り物と一体化した舞のような優雅な所作が印象的。
名文をちりばめたクセで、シテは静かに面をテラして鐘の音を聴く。その姿を介して、琵琶湖の湖面に響きわたる三井寺の名鐘の澄んだ音色が聴こえてきた。
浦田保浩《天鼓・弄鼓之舞》につづく
京都観世会九月例会《錦木》からのつづき
三井寺の仁王門(重文・室町時代) この曲の作者もこの門をくぐったのかも |
能《三井寺・無俳之伝》片山九郎右衛門
千満 梅田晃煕 能力 茂山忠三郎
宝生欣哉 平木豊男 宝生尚哉
杉市和 飯田清一 河村大
後見 大江又三郎 青木道喜
地謡 浅井文義 河村和重 河村晴道
分林道治 大江信行 宮本茂樹
河村和貴 大江広祐
仕舞《道明寺》浦田保親
《松風》河村晴久
《松虫キリ》鷲尾世志子
《善界》浦部幸裕
能《天鼓・弄鼓之舞》浦田保浩
ワキ福王和幸 アイ茂山千五郎
森田保美 久田舜一郎 谷口正壽 前川光範
後見 杉浦豊彦 深野新次郎
地謡 河村晴久 河村博重 片山伸吾
味方團 吉田篤史 松野浩行
大江泰正 河村和晃
《三井寺》は昨年の片山定期能(シテは味方玄さん)でも拝見しましたが、この日は「無俳之伝」の小書付き。
「無俳(おかしなし)之伝」とは、前場で夢占いをする清水寺門前の者が登場しない演出のこと(「俳」は狂言方の意)。江戸中期につくられたこの小書については、「曲の作為に反する」として批判的な見方をする研究者や能評家もいらっしゃるようです。
演能時間を短縮するたんなる便法とみなされがちなこの小書ですが、狂言方による夢占いの場面をそぎ落としたからこそ、母の深い祈りと神仏への訴えが観る者の心に強く迫る……九郎右衛門さんの「無俳之伝」はそんな小書の真意をみごとに表現した舞台でした。
【前場】
登場楽も気配もなく、ふと気がつけば、いつのまにかシテが登場していた。
シテの出立は、花模様の水色地と青い縦縞の生成地の段替唐織壺折に、秋草花をあしらったシックで豪華な焦茶地の縫箔腰巻という非常に凝った取り合わせ。地味で渋いながらも上質なセンスが光る、贅を尽くした装束。
色艶の美しい塗笠を目深にかぶり、どこか思いつめたような表情をしている。
面は、角度によっては増のようにも見える、超美形の深井。
「南無や大慈大悲の観世音……」
正先で下居して、一心に手を合わせる千満丸の母。
情愛に満ちた深い母性を感じさせるその姿は、さながらイエスの助命を祈る聖母マリアを思わせる。おごそかな一条の光が照らしているかのように、シテの姿がぼうっと浮かび上がる。
「いまだ若木のみどり子に再びなどか逢はざらん、再びなどか逢はざらん」
魂の奥底から振り絞るような悲痛な祈りの言葉が、清水の観音さまに訴えかける。
やがてシテは、にわかに啓示を受けたかのようにハッと覚醒し「あら有難や候……あらたなる霊夢を蒙りて」と数珠をもつ手で合掌し、三井寺めざして中入。
音楽的な要素を最小限にとどめた静謐で崇高な場面。オリジナルの《三井寺》にはない、この小書ならではの良さが際立つ前場だった。
【後場】
茂山忠三郎さんの小舞「いたいけしたるもの」は後場の眼目のひとつ。張り子の顔、練稚児、しゅくしゃ結びにささ結びと玩具尽しのこの小舞を、じつに身軽で身のこなしで舞っていた。飛び返りはまるで無重力空間で舞うかのよう。体重の重みを感じさせない軽やかな着地も見事。
「ジャモ~ン、モォ~ン、モオォ~ン」と三井寺の鐘をつくところも、空気を震わせて伝わってくる妙なる音の残響、音の波の揺らめきが巧みに表現されていた。
〈カケリと鐘ノ段〉
狂女越一声を経て、ナガシのような囃子からカケリに入る。
澄みきった秋の夜空に浮かぶ月。冷たく照らす銀色の月に誘われるように、シテはルナティックなカケリを舞う。魂がなかば遊離したような、夢うつつの狂気の舞。
そこから一転、中国の故事を引いて、鐘をつく理由を説く議論の場面では、冷静で理知的な面をのぞかせる。
鐘ノ段では、本物の鐘をつくように色とりどりの錦の紐を巧みに操る写実性と、作り物と一体化した舞のような優雅な所作が印象的。
名文をちりばめたクセで、シテは静かに面をテラして鐘の音を聴く。その姿を介して、琵琶湖の湖面に響きわたる三井寺の名鐘の澄んだ音色が聴こえてきた。
浦田保浩《天鼓・弄鼓之舞》につづく
2019年9月8日日曜日
片山九郎右衛門の《融》~京都駅ビル薪能
2019年9月1日(日)京都駅ビル室町小路広場
能《融》片山九郎右衛門
ワキ福王知登 アイ茂山忠三郎
森田保美 吉阪一郎 谷口正壽 前川光範
後見 青木道喜 梅田嘉宏
地謡 古橋正邦 浦田保親 河村博重
分林道治 橋本光史 田茂井廣道
橋本忠樹 大江広祐
夢を見ていたのかと思うほど、詩のように美しい舞台。この日は眠りにつくまで、魔法にかけられたようにぽ~っとしていた。
片山九郎右衛門さんはこの一週間あまり、シテを5回も勤め、東西合同養成会や御社中ゆかた会を主催するという、想像を絶するようなハードスケジュールをこなされてきた。にもかかわらず最後の最後にトドメのように、これほどまでに人を感動させる《融》を舞われるなんて……あまりにも偉大すぎて言葉が見つからない。
ステージでは黄色いライトを効果的に使って、月の光に照らされた廃墟らしい舞台空間を創出。地謡、囃子、ワキの謡も、「後見道」を極めた後見の働きもすばらしく、京都能楽界の底力を実感させた。
【前場】
〈名所教え〉
ここ京都駅は、源融の六条河原院跡から徒歩15分ほどの近距離にある。
だから名所教えの場面でも、音羽山、中山清閑寺、今熊野、稲荷山、深草山、伏見の竹田、淀、鳥羽、大原、小塩、嵐山と、京の名所が放射状に広がるまさにその中心に、この京都駅ビルの舞台が位置していることになる。
もちろん、演能上は舞台上手が東、下手が西という決まりになっているから、シテ・ワキの向く方角は実際の方角とは異なるが、京都駅のこのステージほど源融が君臨した六条河原院を、臨場感をともなって実感できる舞台はないのではないだろうか。
「こっちが音羽山で、あれが今熊野、ほら、嵐山も見えるよ」とシテが教え、ワキが視線を向ける。そのたびに名所の位置と映像がリアルに浮かんできて、まるで自分も河原院の廃墟に佇んでいるように思えてくる!
〈汐汲み〉
秋の月を愛でていた老人は汐汲みを忘れていたことに気づき、ハッと両手を打ち合わせて天秤桶を担ぎ、正先でサブンッと桶を水につける。
シテはまず、左に担いだ桶で水を汲み、次に右の桶で汲んでゆく。最初に汲んだ桶にはタップタップと水があふれ、まだ水が入っていないカラの桶とは明らかに重さが違うように見える。
水の重量、質感、桶のなかで揺れて波打つ水の動き。桶に汲まれた水の存在をたしかに感じさせる。
中入前の「老人と見えつるが、汐雲にかきまぎれて跡も見えずなりにけり」でシテは、はらりと着物を脱ぐようななめらかな所作で、肩に担いでいた天秤桶を後ろに落とす。
この肩関節・肩甲骨のやわらかさ。
そして、音を立てないようにそっと、天秤の紐の半分を短く持ち、先に桶が地面に着いた手応えを感じてから、両手に持っていた紐を放す。素早い所作のなかの、繊細な動きと心くばり。
〈間狂言のカット→早替わり〉
驚いたのが、間狂言がカットされたこと。
(番組にはアイに茂山忠三郎さんの名前があったから、当初は間狂言が入る予定だったと思う。)
シテの中入後、ほとんどすぐにワキが待謡を謡い出し、出端の囃子が奏された。
はたしてシテの着替えが間に合うのかハラハラしてしまったが、通常のタイミングで幕があがり、シテはみごとに融の亡霊に変身して登場した。
主後見の青木道喜さんをはじめ片山一門の完璧な「後見芸」に脱帽!
【後場】
後シテの出立は、立涌白地狩衣に唐草模様の白地大口、黒垂。頭には初冠ではなく風折烏帽子。面は、憂いを帯びた中将。
「あら面白や曲水の盃」で、正先で身を乗り出し、
「受けたり受けたり遊舞の袖」と、水面に映った月影を曲水の宴の盃に見立て、扇で月影を汲みあげる。
白皙の貴公子がギリシャのナルシスさながらに水面をのぞき込み、優雅な所作で月影を汲む。この耽美の極致に、私も周りの観客たちも魂を抜かれたようにうっとりと見入っていた。
〈早舞〉
さらにシテは初段オロシで正先へ向かい、ふたたび水面に映った月影を扇で汲み、空を見上げて、月を愛でる。
そのまま融の亡霊は、しばし甘美な追想に耽るように、恍惚とした表情を浮かべていた。
やがて月に雲がかかるように中将の面に翳がさし、哀しげな愁いを帯びてくる。
この時の、なまめかしく紅潮した中将の表情が今でも忘れられない。
クライマックスではナガシの囃子が入り、シテは懐かしい過去を搔き集めるように、またもや扇で水を汲み上げる。
このころになると私はほとんど陶酔状態になり、融の世界に浸って、夢とも現ともつかないような酩酊感に酔っていた。
京都駅ビルという現代的な高層空間に、廃墟となった六条河原院が出現し、そこへ融が追懐した風雅な幻想世界が折り重なる……。
気がつくと、シテは袖を巻き上げたまま幕のなかへ、月の都へと還っていった。
ああ、名残惜しい。
私も、周囲の人たちも、ため息。
そして、たがいに満足げな笑顔。
この感覚、この余韻、
これこそ私が求めていた《融》だった。
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橋掛りはなく、幕から出るとすぐに本舞台 |
能《融》片山九郎右衛門
ワキ福王知登 アイ茂山忠三郎
森田保美 吉阪一郎 谷口正壽 前川光範
後見 青木道喜 梅田嘉宏
地謡 古橋正邦 浦田保親 河村博重
分林道治 橋本光史 田茂井廣道
橋本忠樹 大江広祐
夢を見ていたのかと思うほど、詩のように美しい舞台。この日は眠りにつくまで、魔法にかけられたようにぽ~っとしていた。
片山九郎右衛門さんはこの一週間あまり、シテを5回も勤め、東西合同養成会や御社中ゆかた会を主催するという、想像を絶するようなハードスケジュールをこなされてきた。にもかかわらず最後の最後にトドメのように、これほどまでに人を感動させる《融》を舞われるなんて……あまりにも偉大すぎて言葉が見つからない。
ステージでは黄色いライトを効果的に使って、月の光に照らされた廃墟らしい舞台空間を創出。地謡、囃子、ワキの謡も、「後見道」を極めた後見の働きもすばらしく、京都能楽界の底力を実感させた。
【前場】
〈名所教え〉
ここ京都駅は、源融の六条河原院跡から徒歩15分ほどの近距離にある。
だから名所教えの場面でも、音羽山、中山清閑寺、今熊野、稲荷山、深草山、伏見の竹田、淀、鳥羽、大原、小塩、嵐山と、京の名所が放射状に広がるまさにその中心に、この京都駅ビルの舞台が位置していることになる。
もちろん、演能上は舞台上手が東、下手が西という決まりになっているから、シテ・ワキの向く方角は実際の方角とは異なるが、京都駅のこのステージほど源融が君臨した六条河原院を、臨場感をともなって実感できる舞台はないのではないだろうか。
「こっちが音羽山で、あれが今熊野、ほら、嵐山も見えるよ」とシテが教え、ワキが視線を向ける。そのたびに名所の位置と映像がリアルに浮かんできて、まるで自分も河原院の廃墟に佇んでいるように思えてくる!
〈汐汲み〉
秋の月を愛でていた老人は汐汲みを忘れていたことに気づき、ハッと両手を打ち合わせて天秤桶を担ぎ、正先でサブンッと桶を水につける。
シテはまず、左に担いだ桶で水を汲み、次に右の桶で汲んでゆく。最初に汲んだ桶にはタップタップと水があふれ、まだ水が入っていないカラの桶とは明らかに重さが違うように見える。
水の重量、質感、桶のなかで揺れて波打つ水の動き。桶に汲まれた水の存在をたしかに感じさせる。
中入前の「老人と見えつるが、汐雲にかきまぎれて跡も見えずなりにけり」でシテは、はらりと着物を脱ぐようななめらかな所作で、肩に担いでいた天秤桶を後ろに落とす。
この肩関節・肩甲骨のやわらかさ。
そして、音を立てないようにそっと、天秤の紐の半分を短く持ち、先に桶が地面に着いた手応えを感じてから、両手に持っていた紐を放す。素早い所作のなかの、繊細な動きと心くばり。
〈間狂言のカット→早替わり〉
驚いたのが、間狂言がカットされたこと。
(番組にはアイに茂山忠三郎さんの名前があったから、当初は間狂言が入る予定だったと思う。)
シテの中入後、ほとんどすぐにワキが待謡を謡い出し、出端の囃子が奏された。
はたしてシテの着替えが間に合うのかハラハラしてしまったが、通常のタイミングで幕があがり、シテはみごとに融の亡霊に変身して登場した。
主後見の青木道喜さんをはじめ片山一門の完璧な「後見芸」に脱帽!
【後場】
後シテの出立は、立涌白地狩衣に唐草模様の白地大口、黒垂。頭には初冠ではなく風折烏帽子。面は、憂いを帯びた中将。
「あら面白や曲水の盃」で、正先で身を乗り出し、
「受けたり受けたり遊舞の袖」と、水面に映った月影を曲水の宴の盃に見立て、扇で月影を汲みあげる。
白皙の貴公子がギリシャのナルシスさながらに水面をのぞき込み、優雅な所作で月影を汲む。この耽美の極致に、私も周りの観客たちも魂を抜かれたようにうっとりと見入っていた。
〈早舞〉
さらにシテは初段オロシで正先へ向かい、ふたたび水面に映った月影を扇で汲み、空を見上げて、月を愛でる。
そのまま融の亡霊は、しばし甘美な追想に耽るように、恍惚とした表情を浮かべていた。
やがて月に雲がかかるように中将の面に翳がさし、哀しげな愁いを帯びてくる。
この時の、なまめかしく紅潮した中将の表情が今でも忘れられない。
クライマックスではナガシの囃子が入り、シテは懐かしい過去を搔き集めるように、またもや扇で水を汲み上げる。
このころになると私はほとんど陶酔状態になり、融の世界に浸って、夢とも現ともつかないような酩酊感に酔っていた。
京都駅ビルという現代的な高層空間に、廃墟となった六条河原院が出現し、そこへ融が追懐した風雅な幻想世界が折り重なる……。
気がつくと、シテは袖を巻き上げたまま幕のなかへ、月の都へと還っていった。
ああ、名残惜しい。
私も、周囲の人たちも、ため息。
そして、たがいに満足げな笑顔。
この感覚、この余韻、
これこそ私が求めていた《融》だった。
東北鎮護・奥州一宮「塩竈神社」 画像は大震災の1年後に訪れた時のもの。 |
塩竈神社から見下ろした塩竈港 |
2019年9月2日月曜日
片山九郎右衛門の《善界・白頭》~能楽チャリティ公演 被災地復興、京都からの祈り 夜の部
2019年8月29日(木)ロームシアター京都
《賀茂》《呼声》からのつづき
能《善界・白頭》片山九郎右衛門
ツレ浦部幸裕 アイ井口竜也
ワキ小林努 有松遼一
森田保美 林吉兵衛 河村大 前川光範
後見 青木道喜 味方玄 梅田嘉宏
地謡 浦田保浩 浦田保親 吉浪壽晃
分林道治 味方團 松野浩行
河村和貴 谷弘之助
九郎右衛門さんの《善界・白頭》は、4年前に銕仙会で拝見した(その時の感想はこちら)。もう4年前になるのか……。
あの時はワキが宝生欣哉、お囃子は笛・竹市学、小鼓・成田達志、そして太鼓が観世元伯という凄いメンバーで、まさに全身に鳥肌が立つゾクゾクするような舞台だった。いまでも鮮明に記憶に残っている。
【前場】
時間が押していたのか、お調べのないままお囃子登場(お調べのない舞台は初めて。なんとなく演者も観客も気分が落ち着かないものです)。
短縮ヴァージョンのため、道行やクリ・サシ・クセは省略。クセは、善界たちが天狗稼業の辛さを嘆くという、この曲の妙味となる部分なので、カットされたのはちょっと残念だったけど、時間の都合上いたしかたない。
ツレの浦部幸裕さん、謡に味わいがあり、九郎右衛門さんとのシテ・ツレの掛け合いのところも聴き応えがあった。太郎坊の庵室で密談するところも、シテ・ツレが同時に大口をつまんでサッと裾を上げ、キリッとした物腰で下居する。
ここが、合わせ鏡のようにそろっていて、観ていて気持ちいい。
シテとツレの呼吸がぴったりで、所作もともにきれい。こういう組み合わせで観ると前場がぐっと引き締まり、舞台がいっそう緊密になる。
【来序中入】
「南につづく如意が嶽、鷲の御山の」でシテは東(上手)を仰ぎ、「雲や霞も嵐とともに失せにけり」でサーッと風になったように飛翔感のあるハコビで橋掛りをすり抜けて、中入。
続いて来序の囃子で、ツレが退場。
この時の前川光範さんの、天高く突き抜けるような高音の掛け声に吸い寄せられた。観世元伯さんが旅立って以来、太鼓で感動することはあまりなかったけれど、これほど素晴らしい太鼓をまた聴くことができるなんて!
高く、高く、もっと高く、天と交信しているような、胸がときめく太鼓。
【後場】
時間がないためか、ワキの出の一声の囃子の最中に、牛車の作り物が脇座に置かれる。作り物は、2日前に見た《車僧》の破れ車と同じ造り。
続いて、大ベシの囃子で後シテ登場。
いかにも白頭の小書らしい重みのあるハコビから魔物めいた雰囲気がたちこめ、まるでスモークでも焚いているかのように霞がかって見える。「大唐の天狗の首領、善界坊とは我がことなり」の声に、大天狗の威信をかけた決意と意志がみなぎっている。
「不思議や雲の中よりも、邪法を唱ふる声すなり」の足拍子は、音を立てない「雲中の拍子」。重力を感じさせない浮遊感がある。
ワキがお経を唱えると、シテは雲から落下したように飛び安座をして、体を伏せる。
「さしもに飛行を羽も地に落ち」で、ふたたび飛び安座で、飛行から落下する「組落ちの型」。やがてナガシの囃子とともに橋掛りへ逃れ、欄干に足をかけて、悔しまぎれに僧に向かって数珠を投げ、そのままタタターッと幕のなかへ。
時間が押して巻き巻きでしたが密度の高い御舞台、堪能しました!
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夜の白川沿い、知恩院古門 |
能《善界・白頭》片山九郎右衛門
ツレ浦部幸裕 アイ井口竜也
ワキ小林努 有松遼一
森田保美 林吉兵衛 河村大 前川光範
後見 青木道喜 味方玄 梅田嘉宏
地謡 浦田保浩 浦田保親 吉浪壽晃
分林道治 味方團 松野浩行
河村和貴 谷弘之助
九郎右衛門さんの《善界・白頭》は、4年前に銕仙会で拝見した(その時の感想はこちら)。もう4年前になるのか……。
あの時はワキが宝生欣哉、お囃子は笛・竹市学、小鼓・成田達志、そして太鼓が観世元伯という凄いメンバーで、まさに全身に鳥肌が立つゾクゾクするような舞台だった。いまでも鮮明に記憶に残っている。
【前場】
時間が押していたのか、お調べのないままお囃子登場(お調べのない舞台は初めて。なんとなく演者も観客も気分が落ち着かないものです)。
短縮ヴァージョンのため、道行やクリ・サシ・クセは省略。クセは、善界たちが天狗稼業の辛さを嘆くという、この曲の妙味となる部分なので、カットされたのはちょっと残念だったけど、時間の都合上いたしかたない。
ツレの浦部幸裕さん、謡に味わいがあり、九郎右衛門さんとのシテ・ツレの掛け合いのところも聴き応えがあった。太郎坊の庵室で密談するところも、シテ・ツレが同時に大口をつまんでサッと裾を上げ、キリッとした物腰で下居する。
ここが、合わせ鏡のようにそろっていて、観ていて気持ちいい。
シテとツレの呼吸がぴったりで、所作もともにきれい。こういう組み合わせで観ると前場がぐっと引き締まり、舞台がいっそう緊密になる。
【来序中入】
「南につづく如意が嶽、鷲の御山の」でシテは東(上手)を仰ぎ、「雲や霞も嵐とともに失せにけり」でサーッと風になったように飛翔感のあるハコビで橋掛りをすり抜けて、中入。
続いて来序の囃子で、ツレが退場。
この時の前川光範さんの、天高く突き抜けるような高音の掛け声に吸い寄せられた。観世元伯さんが旅立って以来、太鼓で感動することはあまりなかったけれど、これほど素晴らしい太鼓をまた聴くことができるなんて!
高く、高く、もっと高く、天と交信しているような、胸がときめく太鼓。
【後場】
時間がないためか、ワキの出の一声の囃子の最中に、牛車の作り物が脇座に置かれる。作り物は、2日前に見た《車僧》の破れ車と同じ造り。
続いて、大ベシの囃子で後シテ登場。
いかにも白頭の小書らしい重みのあるハコビから魔物めいた雰囲気がたちこめ、まるでスモークでも焚いているかのように霞がかって見える。「大唐の天狗の首領、善界坊とは我がことなり」の声に、大天狗の威信をかけた決意と意志がみなぎっている。
「不思議や雲の中よりも、邪法を唱ふる声すなり」の足拍子は、音を立てない「雲中の拍子」。重力を感じさせない浮遊感がある。
ワキがお経を唱えると、シテは雲から落下したように飛び安座をして、体を伏せる。
「さしもに飛行を羽も地に落ち」で、ふたたび飛び安座で、飛行から落下する「組落ちの型」。やがてナガシの囃子とともに橋掛りへ逃れ、欄干に足をかけて、悔しまぎれに僧に向かって数珠を投げ、そのままタタターッと幕のなかへ。
時間が押して巻き巻きでしたが密度の高い御舞台、堪能しました!
2019年9月1日日曜日
能楽チャリティ公演第2部《賀茂》《呼声》
2019年8月29日(木)ロームシアター京都
ナビゲーション 松井美樹
半能《賀茂》深野貴彦
樹下千慧 有松遼一 岡充
左鴻泰弘 曽和鼓堂 井林久登 前川光範
後見 深野新次郎 橋本擴三郎 塚本和雄
地謡 武田邦弘 古橋正邦 越智隆之
吉浪壽晃 橋本光史 吉田篤史
橋本忠樹 松井美樹
狂言《呼声》茂山千五郎
茂山茂 茂山逸平
後見 島田洋海
能《善界・白頭》片山九郎右衛門
ツレ浦部幸裕 アイ井口竜也
ワキ小林努 有松遼一
森田保美 林吉兵衛 河村大 前川光範
後見 青木道喜 味方玄 梅田嘉宏
地謡 浦田保浩 浦田保親 吉浪壽晃
分林道治 味方團 松野浩行
河村和貴 谷弘之助
チャリティ公演夜の部は、能狂言の3番とも良かった! 前川光範さんの太鼓が2番あったのもうれしい。
こんなに素晴らしい公演がプロボノで運営・上演されているなんて……京都在籍の有志の方々と共催・協力された方々には毎回頭が下がります。こういう公演を続けていくのは、ほんとうに大変なことだと思う。こちらにとっても微力ながらチャリティに参加できる良い機会。ご出演された方々、共催・協力された方々、ありがとうございました!
半能《賀茂》深野貴彦
能《小鍛冶》と舞囃子《融クツロギ》を観た時から、私のなかの「うまい人リスト」に入っていた深野貴彦さん。この日の《賀茂》も期待以上でした。
以前も書いたけれど、細身なのに足腰が強靭でしなやか。力強い身体に弾力性がある。
早笛でのシテの出の謡「我はこれ、王城を守る君臣の道、別雷の神なり」には、稲妻がビカビカッと放電するような響きがあり、次の足拍子はドカンッと落雷したような重厚さ。
「風雨随時の御空の雲居」でシテが上を向けば、黒雲たちこめる空が現れ、「光稲妻の稲葉の露にも」で、下居して袖をきれいに被く、この袖の扱いが見事。
「ほろほろとどろとどろと踏みとどろかす」の足拍子は、まさに雷がゴロゴロ轟くよう。低く重みのある振動がこちらの肚に響いてくる。
ツレの樹下さんの御祖神の舞は無垢で愛らしく、謡にも艶がある。
ワキの有松遼一さんはこの日、昼・夜合わせて3番の舞台にご出演されていて、夜の部でも《賀茂》のワキと《善界》のワキツレに登場。ハコビも姿勢もきれい。座っているあいだずっと高い緊張感を持続されていて、強い「気」の放射を感じさせる。注目したいワキ方さんだ。
最後は、シテが幕際で袖を被き、虚空に上る体で留拍子。
前川光範さんの掛け声にも上昇感があって、大満足の舞台でした。
狂言《呼声》
茂山千五郎さん、茂さん、逸平さんによる《呼声》。三人とも声量が大音量で聞き取りやすく、舞台展開がスピーディで現代的。
最後に三人で輪舞するところは、兄弟・従兄弟が子どものころに遊んだ姿そのまま。思わず釣り込まれてしまうような、何とも言えない可笑しみがあった。
能《善界・白頭》へつづく
ナビゲーション 松井美樹
半能《賀茂》深野貴彦
樹下千慧 有松遼一 岡充
左鴻泰弘 曽和鼓堂 井林久登 前川光範
後見 深野新次郎 橋本擴三郎 塚本和雄
地謡 武田邦弘 古橋正邦 越智隆之
吉浪壽晃 橋本光史 吉田篤史
橋本忠樹 松井美樹
狂言《呼声》茂山千五郎
茂山茂 茂山逸平
後見 島田洋海
能《善界・白頭》片山九郎右衛門
ツレ浦部幸裕 アイ井口竜也
ワキ小林努 有松遼一
森田保美 林吉兵衛 河村大 前川光範
後見 青木道喜 味方玄 梅田嘉宏
地謡 浦田保浩 浦田保親 吉浪壽晃
分林道治 味方團 松野浩行
河村和貴 谷弘之助
チャリティ公演夜の部は、能狂言の3番とも良かった! 前川光範さんの太鼓が2番あったのもうれしい。
こんなに素晴らしい公演がプロボノで運営・上演されているなんて……京都在籍の有志の方々と共催・協力された方々には毎回頭が下がります。こういう公演を続けていくのは、ほんとうに大変なことだと思う。こちらにとっても微力ながらチャリティに参加できる良い機会。ご出演された方々、共催・協力された方々、ありがとうございました!
半能《賀茂》深野貴彦
能《小鍛冶》と舞囃子《融クツロギ》を観た時から、私のなかの「うまい人リスト」に入っていた深野貴彦さん。この日の《賀茂》も期待以上でした。
以前も書いたけれど、細身なのに足腰が強靭でしなやか。力強い身体に弾力性がある。
早笛でのシテの出の謡「我はこれ、王城を守る君臣の道、別雷の神なり」には、稲妻がビカビカッと放電するような響きがあり、次の足拍子はドカンッと落雷したような重厚さ。
「風雨随時の御空の雲居」でシテが上を向けば、黒雲たちこめる空が現れ、「光稲妻の稲葉の露にも」で、下居して袖をきれいに被く、この袖の扱いが見事。
「ほろほろとどろとどろと踏みとどろかす」の足拍子は、まさに雷がゴロゴロ轟くよう。低く重みのある振動がこちらの肚に響いてくる。
ツレの樹下さんの御祖神の舞は無垢で愛らしく、謡にも艶がある。
ワキの有松遼一さんはこの日、昼・夜合わせて3番の舞台にご出演されていて、夜の部でも《賀茂》のワキと《善界》のワキツレに登場。ハコビも姿勢もきれい。座っているあいだずっと高い緊張感を持続されていて、強い「気」の放射を感じさせる。注目したいワキ方さんだ。
最後は、シテが幕際で袖を被き、虚空に上る体で留拍子。
前川光範さんの掛け声にも上昇感があって、大満足の舞台でした。
狂言《呼声》
茂山千五郎さん、茂さん、逸平さんによる《呼声》。三人とも声量が大音量で聞き取りやすく、舞台展開がスピーディで現代的。
最後に三人で輪舞するところは、兄弟・従兄弟が子どものころに遊んだ姿そのまま。思わず釣り込まれてしまうような、何とも言えない可笑しみがあった。
能《善界・白頭》へつづく
2019年8月28日水曜日
片山九郎右衛門の《定家》~京都観世会8月例会
2019年8月25日(日)京都観世会館
能《定家》梅若実→片山九郎右衛門
(梅若実右股関節症のため代演)
福王茂十郎 是川正彦 喜多雅人
千本辺りの者 小笠原匡
杉市和 大倉源次郎 河村大
後見 井上裕久 林宗一郎
地謡 梅若実 河村和重 浦田保親
浦部幸裕 橋本光史 松野浩行
大江泰正 河村和晃
この10日間ほど、片山九郎右衛門さんはほとんど連日のようにシテを勤めていらっしゃる。そうした過密スケジュールのなかで、突然、舞うことになった大曲《定家》。それでこれだけの高いレベル━━熟練の役者が周到に準備を重ねて仕上げるくらいのレベル━━の舞台を上演されるとは! やっぱり凄い方です。
見えないところで、いったいどれほどの努力をされているのだろう……。
【前場】
前シテの出立は、秋の草花をあしらった青白の段替唐織。涼しげな配色だが、まばゆい白地に金糸が織り込まれ、上品で趣味が良い。
装束に照明が反射して、後光のような輝きがシテの体を包んでいる。だが、その光には温かみはなく、どこか人を寄せつけない、バリアのようなものを感じさせる。
近寄りがたい、気高さ。
梅若実地頭の初同「今降るも、宿は昔の時雨にて」で、冷たい雨の降る廃園にいにしえの面影が宿り、そこに佇むシテの姿が、氷のように鋭く冷たい気品をたたえている。近づくと怪我をするような鋭利な気品。
これほど冷たく、近づきがたい九郎右衛門さんのシテを観るのは初めてだった。
「妄執を助け給へや」のところでも、僧に向かって合掌することはなく、ただ相手をじっと見つめている。
誰にも弱さを見せず、誰にもすがらない。
それが高貴で気高い式子内親王の生き方だったのだろうか。
〈中入〉
作り物に入るところでは、
「かげろふの石に残す形だに」で、シテは正中から後ろに下がって、石塔に背をつけたかと思うと、そのまま塗り込められたようにピタッと張り付き、石の彫像と化す。
石塔と一体化して、みずからも石像になったかと思うほど、シテはしばらく不動のまま。
やがて、「苦しみを助け給へ」でいったん石塔から離れてワキへ向き、そのままくるりと向きを変えて、作り物へ中入。
【後場】
習ノ一声は、深い洞窟の底から響いてくるような大小鼓の音色。
河村大さんの大鼓の響き、なんて深みのある音なんだろう! 遠い過去の記憶を呼び覚ますような魔力のある音色。
そこへ源次郎さんの小鼓と杉市和さんの笛も重なり、囃子の音の世界が、遠い恋の記憶を連れてくる。
「夢かとよ、闇のうつつの宇津の山」
塚の中から響いてくるシテの声は、悲しみでもない、苦しみでもない、名状しがたい感情の奥底から湧きあがる、うめくような、あえぐような、せつない声。
「朝の雲」「夕べの雨と」
中国の故事「朝雲暮雨」を引いて男女の交情をほのめかす場面では、シテは声を昂らせ、内奥に沸々と燃えたぎる熱情をほのめかす。
引廻しが下ろされて現れたシテは、灰紫の長絹に水浅葱大口という出立。
面は灰色がかった長絹の顔映りのせいで、一瞬「痩女」かと思ったほど。前と同じ増の面だが、蔦葛の翳になり、塚のなかの後シテの顔は色褪せたようにやつれて見える。
〈序ノ舞〉
序ノ舞は崇高な気品に貫かれた、冷たく、美しい、愛する者を撥ねつけるような拒絶の舞。
時おり見せる「身を沈める型」が斎院時代の巫女性を垣間見せる。
舞の後半では、キリで喩えられる蔦葛で縛られた葛城の女神のような神秘性すら漂っていた。
だが、冷たい序ノ舞から一転、舞い終えたシテの謡「おもなの舞のありさまやな」は、炎のような熱い情念で燃えていた。
抑えに抑えていた情熱が、ここで一気にほとばしったかのような熱い謡。紅潮した生身の女の情感があふれ出す。
冷たい拒絶と、熱い思い。
求めれば拒まれ、離れれば燃え上がる。
両極端の思いが自分のなかで内部分裂を起こし、そのはざまで揺れ動き、懊悩する。そんな内親王をイメージさせた。だからこそ、定家は彼女に妄執を抱き、死後も離れられずに、這い纏うしかなかったのだろうか。
〈終曲〉
最後に、シテは八の字を描くように作り物を出入りしたのち、塚のなかで独楽のようにくるくるまわって葛に這い纏われるさまを表し、愛する定家の抱擁を受け入れるように静かに下居して、枕の扇。
【付記】
時雨亭の場所は《定家》では「千本辺り」(今出川通千本付近)となっていますが、実際に時雨亭があったとされるのは嵯峨野のようです(時雨亭跡は嵯峨野の常寂光寺、二尊院、厭離庵など諸説あります)。
《定家》の作者とされる金春禅竹がなぜ、時雨亭を「千本辺り」に設定したのかは定かではありませんが、当時は時雨亭が千本辺りに存在したと思われていたのかもしれません。あるいは、禅竹自身が舞台を「都の内」に設定し、曲全体に「都の香り」をそこはかとなく漂わせたかったのかもしれません。
画像は昨年11月に嵯峨野を訪れた時のものですが、近くには祇王寺もあり、晩秋の嵯峨野には、能《定家》の舞台にふさわしい物寂しく枯れた風情が漂っていました。
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定家の時雨亭跡とされる嵯峨野・二尊院 |
能《定家》梅若実→片山九郎右衛門
(梅若実右股関節症のため代演)
福王茂十郎 是川正彦 喜多雅人
千本辺りの者 小笠原匡
杉市和 大倉源次郎 河村大
後見 井上裕久 林宗一郎
地謡 梅若実 河村和重 浦田保親
浦部幸裕 橋本光史 松野浩行
大江泰正 河村和晃
この10日間ほど、片山九郎右衛門さんはほとんど連日のようにシテを勤めていらっしゃる。そうした過密スケジュールのなかで、突然、舞うことになった大曲《定家》。それでこれだけの高いレベル━━熟練の役者が周到に準備を重ねて仕上げるくらいのレベル━━の舞台を上演されるとは! やっぱり凄い方です。
見えないところで、いったいどれほどの努力をされているのだろう……。
【前場】
前シテの出立は、秋の草花をあしらった青白の段替唐織。涼しげな配色だが、まばゆい白地に金糸が織り込まれ、上品で趣味が良い。
装束に照明が反射して、後光のような輝きがシテの体を包んでいる。だが、その光には温かみはなく、どこか人を寄せつけない、バリアのようなものを感じさせる。
近寄りがたい、気高さ。
梅若実地頭の初同「今降るも、宿は昔の時雨にて」で、冷たい雨の降る廃園にいにしえの面影が宿り、そこに佇むシテの姿が、氷のように鋭く冷たい気品をたたえている。近づくと怪我をするような鋭利な気品。
これほど冷たく、近づきがたい九郎右衛門さんのシテを観るのは初めてだった。
「妄執を助け給へや」のところでも、僧に向かって合掌することはなく、ただ相手をじっと見つめている。
誰にも弱さを見せず、誰にもすがらない。
それが高貴で気高い式子内親王の生き方だったのだろうか。
〈中入〉
作り物に入るところでは、
「かげろふの石に残す形だに」で、シテは正中から後ろに下がって、石塔に背をつけたかと思うと、そのまま塗り込められたようにピタッと張り付き、石の彫像と化す。
石塔と一体化して、みずからも石像になったかと思うほど、シテはしばらく不動のまま。
やがて、「苦しみを助け給へ」でいったん石塔から離れてワキへ向き、そのままくるりと向きを変えて、作り物へ中入。
【後場】
習ノ一声は、深い洞窟の底から響いてくるような大小鼓の音色。
河村大さんの大鼓の響き、なんて深みのある音なんだろう! 遠い過去の記憶を呼び覚ますような魔力のある音色。
そこへ源次郎さんの小鼓と杉市和さんの笛も重なり、囃子の音の世界が、遠い恋の記憶を連れてくる。
「夢かとよ、闇のうつつの宇津の山」
塚の中から響いてくるシテの声は、悲しみでもない、苦しみでもない、名状しがたい感情の奥底から湧きあがる、うめくような、あえぐような、せつない声。
「朝の雲」「夕べの雨と」
中国の故事「朝雲暮雨」を引いて男女の交情をほのめかす場面では、シテは声を昂らせ、内奥に沸々と燃えたぎる熱情をほのめかす。
引廻しが下ろされて現れたシテは、灰紫の長絹に水浅葱大口という出立。
面は灰色がかった長絹の顔映りのせいで、一瞬「痩女」かと思ったほど。前と同じ増の面だが、蔦葛の翳になり、塚のなかの後シテの顔は色褪せたようにやつれて見える。
〈序ノ舞〉
序ノ舞は崇高な気品に貫かれた、冷たく、美しい、愛する者を撥ねつけるような拒絶の舞。
時おり見せる「身を沈める型」が斎院時代の巫女性を垣間見せる。
舞の後半では、キリで喩えられる蔦葛で縛られた葛城の女神のような神秘性すら漂っていた。
だが、冷たい序ノ舞から一転、舞い終えたシテの謡「おもなの舞のありさまやな」は、炎のような熱い情念で燃えていた。
抑えに抑えていた情熱が、ここで一気にほとばしったかのような熱い謡。紅潮した生身の女の情感があふれ出す。
冷たい拒絶と、熱い思い。
求めれば拒まれ、離れれば燃え上がる。
両極端の思いが自分のなかで内部分裂を起こし、そのはざまで揺れ動き、懊悩する。そんな内親王をイメージさせた。だからこそ、定家は彼女に妄執を抱き、死後も離れられずに、這い纏うしかなかったのだろうか。
〈終曲〉
最後に、シテは八の字を描くように作り物を出入りしたのち、塚のなかで独楽のようにくるくるまわって葛に這い纏われるさまを表し、愛する定家の抱擁を受け入れるように静かに下居して、枕の扇。
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こちらも時雨亭跡とされる嵯峨野・常寂光寺 |
【付記】
時雨亭の場所は《定家》では「千本辺り」(今出川通千本付近)となっていますが、実際に時雨亭があったとされるのは嵯峨野のようです(時雨亭跡は嵯峨野の常寂光寺、二尊院、厭離庵など諸説あります)。
《定家》の作者とされる金春禅竹がなぜ、時雨亭を「千本辺り」に設定したのかは定かではありませんが、当時は時雨亭が千本辺りに存在したと思われていたのかもしれません。あるいは、禅竹自身が舞台を「都の内」に設定し、曲全体に「都の香り」をそこはかとなく漂わせたかったのかもしれません。
画像は昨年11月に嵯峨野を訪れた時のものですが、近くには祇王寺もあり、晩秋の嵯峨野には、能《定家》の舞台にふさわしい物寂しく枯れた風情が漂っていました。
2019年7月30日火曜日
片山九郎右衛門《安達原》~面白能楽館プロデュース
2019年7月27日(土)京都観世会館
面白能楽館「恐怖の館」からのつづき
能《安達原》シテ片山九郎右衛門
祐慶 小林努 山伏 有松遼一
能力 茂山千三郎
左鴻泰弘 曽和鼓堂 河村大 前川光範
後見 大江信行 梅田嘉宏
地謡 河村晴道 味方玄 分林道治
浦部幸裕 橋本光史 吉田篤史
河村和貴 大江泰正
やっぱり凄かった、九郎右衛門さん!
これだから目が離せない。
解説の林宗一郎さん曰く「現代の能楽師が考え得る工夫」を凝らした《安達原》。鬼女の「心の闇と悲しみに迫るところ」と「鬼の形相で出てくる女の勢い」が見どころとのこと。
その触れ込みにたがわず、いや、ふれ込み以上に、随所に工夫が凝らされ、鬼女の内面に迫ったこの日の舞台は、まちがいなく、私がこれまで観たなかで最高の《安達原》だった。
照明がいつもより落として、見所が暗めになっていたのもよかった。こういう曲やしっとりとした深みのある曲は、これくらいの照明のほうが雰囲気が出る。
【前場】
短縮バージョンなので、ワキの次第は地謡が引き受け、道行はカット。名乗りのあと、すぐさま陸奥の安達原に到着(早っ!)。
ワキの山伏一行が着くと、笛の独奏が入る。この左鴻さんの笛から、安達原の荒涼とした空気と、女のわび住まいの寂莫たる雰囲気が醸成されてくる。
〈糸車を回す場面〉
シテは、陸奥の風さながらの寂寥感のある地謡にのせて、古い映写機のようにゆっくりと枠枷輪を回しながら「日陰の糸」「糸毛の車」「糸桜」と糸尽しの歌を謡い、そこに自らの過去を投影させてゆく。
「長き命のつれなさを思ひ明石の浦千鳥」から、命を長らえたくないとでもいうように、糸車を回す速度が速まり、女は感極まって泣きくずれてしまう。
シテのまとう孤独な影が、憐れな女の輪郭をなぞっている。
こういう影の表現が、九郎右衛門さんらしい。
孤独な人間の脆い部分にスーッと入っていける人。
人の心の傷に、自然に寄り添える人なのかもしれない。
そして、ヒロインの気持ちに同化するだけでなく、能面の魂を肉体に憑依させ、その魂を表現できるだけの神業的身体技能をもつ人でもある。
まさに心・技・体の3つが渾然一体となって、九郎右衛門さんの舞台を創り上げていた。
〈鬼の気配〉
「あらうれしや候、かまへてご覧じ候ふな」と、閨のなかを覗かないよう念を押す女の声に、「どうか、わたしを裏切らないで」と哀願するような気持が滲む。
だが、アイの従者に再度念を押すところから、しだいに「鬼」の心が顔を出す。
一の松で立ち止まる場面では、姿は女でも、背後の影は鬼になりかけているような、そんな気配が漂っていた。
【間狂言】
女との約束は裏切られ、閨のなかを覗かれてしまう(聖職者なのに女性の寝室を覗くなんて……)。なかには腐臭漂う死体の山。
(関西の間狂言は東京と比べて、わかりやすいというか、オーバーアクションなんですね。)
【後場】
幕が上がり、鬼女となった後シテ登場。
三の松でしばし佇んだあと、ススーッと後ろに下がって幕のなかへ。
早笛の囃子とともに、ふたたびサッと幕が上がり、勢いよくシテが出て、一の松で謡いだす。
この「焦らし」と「勢い」、「前進」と「後退」のメリハリの効いたシテの出が、めちゃくちゃカッコいい!
照明を落とした舞台のなか、シテが打杖を振り下ろす。般若の面がおぞましくも、恐ろしい。金泥の眼が怨みの炎で鈍く光り、耳まで裂けた口から底なしの闇がのぞき、凄まじい憎悪の念を沸々とたぎらせている。
やがてシテは橋掛りに向かう途中、後見座の前で、背負っていた柴をサラリと落とす。《道成寺》の鱗落としと同じ型だが、どことなくエレガントで品がある。
九郎右衛門さんの鬼女は邪悪に見えつつも、かつては奥ゆかしく美しい女性であったと思わせる気品と恥じらいが、所作や物腰の端々に感じとれる。こういうところに惹かれるのだ。
イノリの囃子のなか、息をつく暇もないほどの迫力ある鬼女と山伏のバトルが繰り広げられる。
燃えたぎるような鬼女の怨念に山伏たちは圧倒されたかに見えたが、「東方に降三世明王……」と山伏たちが神々の名を唱えると、シテの勢いはみるみる衰えてゆく。
この鬼女の忿怒の形相と、呪文の効力に威力を失ってゆくさまとの明暗表現がじつにあざやか。眼に見えない衝撃が鬼女を襲ってゆくのが、手に取るようにわかる。
最後は山伏たちに祈り伏せられ、タタターッと橋掛りを進んでそのまま幕入り。
……かと思ったが、ふたたび幕が上がり、
そこには、
鬼の姿をした女がひとり、
救いのない孤独のなかで、
むせび泣いていた。
面白能楽館「恐怖の館」からのつづき
![]() |
白川で気持ちよさそうに涼んでいたアオサギさん |
能《安達原》シテ片山九郎右衛門
祐慶 小林努 山伏 有松遼一
能力 茂山千三郎
左鴻泰弘 曽和鼓堂 河村大 前川光範
後見 大江信行 梅田嘉宏
地謡 河村晴道 味方玄 分林道治
浦部幸裕 橋本光史 吉田篤史
河村和貴 大江泰正
やっぱり凄かった、九郎右衛門さん!
これだから目が離せない。
解説の林宗一郎さん曰く「現代の能楽師が考え得る工夫」を凝らした《安達原》。鬼女の「心の闇と悲しみに迫るところ」と「鬼の形相で出てくる女の勢い」が見どころとのこと。
その触れ込みにたがわず、いや、ふれ込み以上に、随所に工夫が凝らされ、鬼女の内面に迫ったこの日の舞台は、まちがいなく、私がこれまで観たなかで最高の《安達原》だった。
照明がいつもより落として、見所が暗めになっていたのもよかった。こういう曲やしっとりとした深みのある曲は、これくらいの照明のほうが雰囲気が出る。
【前場】
短縮バージョンなので、ワキの次第は地謡が引き受け、道行はカット。名乗りのあと、すぐさま陸奥の安達原に到着(早っ!)。
ワキの山伏一行が着くと、笛の独奏が入る。この左鴻さんの笛から、安達原の荒涼とした空気と、女のわび住まいの寂莫たる雰囲気が醸成されてくる。
〈糸車を回す場面〉
シテは、陸奥の風さながらの寂寥感のある地謡にのせて、古い映写機のようにゆっくりと枠枷輪を回しながら「日陰の糸」「糸毛の車」「糸桜」と糸尽しの歌を謡い、そこに自らの過去を投影させてゆく。
「長き命のつれなさを思ひ明石の浦千鳥」から、命を長らえたくないとでもいうように、糸車を回す速度が速まり、女は感極まって泣きくずれてしまう。
シテのまとう孤独な影が、憐れな女の輪郭をなぞっている。
こういう影の表現が、九郎右衛門さんらしい。
孤独な人間の脆い部分にスーッと入っていける人。
人の心の傷に、自然に寄り添える人なのかもしれない。
そして、ヒロインの気持ちに同化するだけでなく、能面の魂を肉体に憑依させ、その魂を表現できるだけの神業的身体技能をもつ人でもある。
まさに心・技・体の3つが渾然一体となって、九郎右衛門さんの舞台を創り上げていた。
〈鬼の気配〉
「あらうれしや候、かまへてご覧じ候ふな」と、閨のなかを覗かないよう念を押す女の声に、「どうか、わたしを裏切らないで」と哀願するような気持が滲む。
だが、アイの従者に再度念を押すところから、しだいに「鬼」の心が顔を出す。
一の松で立ち止まる場面では、姿は女でも、背後の影は鬼になりかけているような、そんな気配が漂っていた。
【間狂言】
女との約束は裏切られ、閨のなかを覗かれてしまう(聖職者なのに女性の寝室を覗くなんて……)。なかには腐臭漂う死体の山。
(関西の間狂言は東京と比べて、わかりやすいというか、オーバーアクションなんですね。)
【後場】
幕が上がり、鬼女となった後シテ登場。
三の松でしばし佇んだあと、ススーッと後ろに下がって幕のなかへ。
早笛の囃子とともに、ふたたびサッと幕が上がり、勢いよくシテが出て、一の松で謡いだす。
この「焦らし」と「勢い」、「前進」と「後退」のメリハリの効いたシテの出が、めちゃくちゃカッコいい!
照明を落とした舞台のなか、シテが打杖を振り下ろす。般若の面がおぞましくも、恐ろしい。金泥の眼が怨みの炎で鈍く光り、耳まで裂けた口から底なしの闇がのぞき、凄まじい憎悪の念を沸々とたぎらせている。
やがてシテは橋掛りに向かう途中、後見座の前で、背負っていた柴をサラリと落とす。《道成寺》の鱗落としと同じ型だが、どことなくエレガントで品がある。
九郎右衛門さんの鬼女は邪悪に見えつつも、かつては奥ゆかしく美しい女性であったと思わせる気品と恥じらいが、所作や物腰の端々に感じとれる。こういうところに惹かれるのだ。
イノリの囃子のなか、息をつく暇もないほどの迫力ある鬼女と山伏のバトルが繰り広げられる。
燃えたぎるような鬼女の怨念に山伏たちは圧倒されたかに見えたが、「東方に降三世明王……」と山伏たちが神々の名を唱えると、シテの勢いはみるみる衰えてゆく。
この鬼女の忿怒の形相と、呪文の効力に威力を失ってゆくさまとの明暗表現がじつにあざやか。眼に見えない衝撃が鬼女を襲ってゆくのが、手に取るようにわかる。
最後は山伏たちに祈り伏せられ、タタターッと橋掛りを進んでそのまま幕入り。
……かと思ったが、ふたたび幕が上がり、
そこには、
鬼の姿をした女がひとり、
救いのない孤独のなかで、
むせび泣いていた。
2019年7月16日火曜日
片山九郎右衛門の《杜若・素囃子》~能楽にみる自然・人を超えた「いのち」の世界
2019年7月15日(月)大津市伝統芸能会館
【番組】
お話 林和清
能《杜若・素囃子》片山九郎右衛門
ワキ旅僧 江崎欽次郎
杉市和 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 味方玄 大江信行
地謡 青木道喜 古橋正邦 分林道治
橋本忠樹 梅田嘉宏 大江広祐
はじめて訪れた大津伝統芸能会館。
三井寺の茶店で実演販売されていた力餅と弁慶ひきずり鐘饅頭をいただいてから向かいました(美味しかった♡)。
さて肝心の舞台は、九郎右衛門さんのシテなので、さぞかし妖艶な《杜若》になるかと思いきや……さにあらず。
小書や装束の色合いが変わるだけで「これほど見えてくる世界が違うのか」と新鮮な驚きを覚えるほど、予想外の《杜若》だった。やっぱり九郎右衛門さん、意表を突いてくる。
注目すべきは後シテの装束。
公演チラシのあでやかな紫長絹とは違い、くすんだ納戸色(ブルーグレー)の長絹。文様の配置・配色もおとなしめ。初冠から日陰の糸を垂らしているが、挿しているのは杜若ではなく、小ぶりの梅花。
長絹の裾にあしらわれた露芝の文様が、『伊勢物語』の芥川の段で詠まれた業平と高子との愛の形見の歌「白珠か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを」を連想させる。
装束の抑えた色調のせいだろうか、これほど悲しげで、内省的な杜若の精は観たことがなかった。どこか《雲林院》にも通じる雰囲気、井筒の女の思慕の念のような思いがしっとりと立ち込める。
「素囃子(シラバヤシ)」の小書ゆえか、クリの前のイロエは省略され、序ノ舞がイロエに似た「素囃子」という舞に代わる。
この「素囃子」の導入部にも序を踏む箇所があるのだが、そのときのシテの足がおどろくほど神々しい。その犯しがたい神聖さゆえに、なおさら禁断を犯したくなるように、芥川龍之介ならずとも「あの足にさわりたい」とさえ思えてくる。
2年前の九郎右衛門さんの《龍田・移神楽》(東京G6にて)で、前シテの巫女が見所に背を向けて下居し、こちらに足の裏を見せたときにも同じ思いを抱いた。九郎右衛門さんが女体を演じるときの足は、生身の美女の足よりもはるかに清らかで美しく見える。
それでいて、たとえば九郎右衛門さんが癋見をつけて天狗などを演じた時の足には、どこかゴツゴツしたむさくるしさが漂い、触りたいという欲望は感じない。
同じ人物の、同じ白足袋をはいた足なのに、ハコビや物腰、全身から醸し出される空気感の違いで、観客にまったく違った感情を抱かせる。こういう表現力が九郎右衛門さんの凄さなんだろうなぁ。
【素囃子】
シテは序を踏んだあと、舞台を時計まわりに半周して、大小前に至り、扇を開いてから正先へ前進。それから反時計まわりに半周して、大小前に至る。
杜若の精と在原業平の姿が二重写しになり、業平と高子の恋の逃避行を思わせる悲しい雰囲気が再現される。
植物的な感じよりも、「杜若の精」という美しい器に、恋する男女の霊が入れ替わり依りついて、最後に両性具有的精霊になったような、そういう印象を受けた。
私の好きな「蝉の唐衣の」で左袖を広げて見つめる型(チラシのポーズ)がなかったのは、小書ゆえなのか、それとも九郎右衛門さんの工夫だろうか。
そのほか、通常と違う箇所がところどころあり、引き裂かれた恋人への思いを表現した、哀慕の舞のようだった。
【照明が……】
惜しむらくは、照明。
大津伝統芸能会館はチラシのデザインは最高なのに、照明が……なんでこんなことするのん?って思うくらい残念だった。
ほかの能楽堂であれば、私の席のあたりから観ると、能面に独特の陰翳が出て、想像力が刺激され、シテの心の動きや内面を思い描くことができるのに、ここの能楽堂では、ライトが前からだけでなく、横からもギラギラと照りつけ、べたっとした均一な舞台照明になっていた。
その結果、シテの動きに合わせて能面に生まれるはずの繊細な陰翳が完全に飛んでしまい、面の表面がテカテカと人工的に光って、舞台芸術としての能の醍醐味が半減してしまっていた。
とはいえ、地謡もみずみずしい清涼感のある謡で、ワキも素晴らしかったし(江崎欽次郎さん、これから注目しよう)、立方以外のシテ方さんが着る白紋付も涼しげで、私にとってひと夏のかけがえのない思い出、幸せな時間だった。
このあと、大津市歴史博物館で石田友汀の《蘭亭曲水図》《雪中騎驢・泊船図》《西湖図》などを観てから、囃子Laboへ。
琵琶湖の対岸、左に見える小高い山が、 俵藤太の大ムカデ退治で有名な「近江富士」三上山。 |
お話 林和清
能《杜若・素囃子》片山九郎右衛門
ワキ旅僧 江崎欽次郎
杉市和 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 味方玄 大江信行
地謡 青木道喜 古橋正邦 分林道治
橋本忠樹 梅田嘉宏 大江広祐
路面電車に乗ってちょっとした遠足気分♪ 鎌倉能舞台へ向かう江ノ電みたい。 |
はじめて訪れた大津伝統芸能会館。
三井寺の茶店で実演販売されていた力餅と弁慶ひきずり鐘饅頭をいただいてから向かいました(美味しかった♡)。
さて肝心の舞台は、九郎右衛門さんのシテなので、さぞかし妖艶な《杜若》になるかと思いきや……さにあらず。
小書や装束の色合いが変わるだけで「これほど見えてくる世界が違うのか」と新鮮な驚きを覚えるほど、予想外の《杜若》だった。やっぱり九郎右衛門さん、意表を突いてくる。
注目すべきは後シテの装束。
公演チラシのあでやかな紫長絹とは違い、くすんだ納戸色(ブルーグレー)の長絹。文様の配置・配色もおとなしめ。初冠から日陰の糸を垂らしているが、挿しているのは杜若ではなく、小ぶりの梅花。
長絹の裾にあしらわれた露芝の文様が、『伊勢物語』の芥川の段で詠まれた業平と高子との愛の形見の歌「白珠か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを」を連想させる。
装束の抑えた色調のせいだろうか、これほど悲しげで、内省的な杜若の精は観たことがなかった。どこか《雲林院》にも通じる雰囲気、井筒の女の思慕の念のような思いがしっとりと立ち込める。
「素囃子(シラバヤシ)」の小書ゆえか、クリの前のイロエは省略され、序ノ舞がイロエに似た「素囃子」という舞に代わる。
この「素囃子」の導入部にも序を踏む箇所があるのだが、そのときのシテの足がおどろくほど神々しい。その犯しがたい神聖さゆえに、なおさら禁断を犯したくなるように、芥川龍之介ならずとも「あの足にさわりたい」とさえ思えてくる。
2年前の九郎右衛門さんの《龍田・移神楽》(東京G6にて)で、前シテの巫女が見所に背を向けて下居し、こちらに足の裏を見せたときにも同じ思いを抱いた。九郎右衛門さんが女体を演じるときの足は、生身の美女の足よりもはるかに清らかで美しく見える。
それでいて、たとえば九郎右衛門さんが癋見をつけて天狗などを演じた時の足には、どこかゴツゴツしたむさくるしさが漂い、触りたいという欲望は感じない。
同じ人物の、同じ白足袋をはいた足なのに、ハコビや物腰、全身から醸し出される空気感の違いで、観客にまったく違った感情を抱かせる。こういう表現力が九郎右衛門さんの凄さなんだろうなぁ。
【素囃子】
シテは序を踏んだあと、舞台を時計まわりに半周して、大小前に至り、扇を開いてから正先へ前進。それから反時計まわりに半周して、大小前に至る。
杜若の精と在原業平の姿が二重写しになり、業平と高子の恋の逃避行を思わせる悲しい雰囲気が再現される。
植物的な感じよりも、「杜若の精」という美しい器に、恋する男女の霊が入れ替わり依りついて、最後に両性具有的精霊になったような、そういう印象を受けた。
私の好きな「蝉の唐衣の」で左袖を広げて見つめる型(チラシのポーズ)がなかったのは、小書ゆえなのか、それとも九郎右衛門さんの工夫だろうか。
そのほか、通常と違う箇所がところどころあり、引き裂かれた恋人への思いを表現した、哀慕の舞のようだった。
【照明が……】
惜しむらくは、照明。
大津伝統芸能会館はチラシのデザインは最高なのに、照明が……なんでこんなことするのん?って思うくらい残念だった。
ほかの能楽堂であれば、私の席のあたりから観ると、能面に独特の陰翳が出て、想像力が刺激され、シテの心の動きや内面を思い描くことができるのに、ここの能楽堂では、ライトが前からだけでなく、横からもギラギラと照りつけ、べたっとした均一な舞台照明になっていた。
その結果、シテの動きに合わせて能面に生まれるはずの繊細な陰翳が完全に飛んでしまい、面の表面がテカテカと人工的に光って、舞台芸術としての能の醍醐味が半減してしまっていた。
とはいえ、地謡もみずみずしい清涼感のある謡で、ワキも素晴らしかったし(江崎欽次郎さん、これから注目しよう)、立方以外のシテ方さんが着る白紋付も涼しげで、私にとってひと夏のかけがえのない思い出、幸せな時間だった。
明るすぎる大津市伝統芸能会館の能舞台 |
このあと、大津市歴史博物館で石田友汀の《蘭亭曲水図》《雪中騎驢・泊船図》《西湖図》などを観てから、囃子Laboへ。
2019年6月27日木曜日
浅見真州の《隅田川》~京都観世会例会
2019年6月23日(日)京都観世会館
観阿弥祭・《通小町》《鵜飼》からのつづき
能《隅田川》シテ狂女 浅見真州
子方・梅若丸 味方遙
ワキ渡守 宝生欣哉 旅人 野口能弘
杉市和 大倉源次郎 國川純
後見 大江又三郎 味方玄
地謡 片山九郎右衛門 浦田保浩
古橋正邦 浦田保親 浅井通昭
橋本忠樹 大江泰正 河村浩太郎
浅見真州師はリアリズム的・演劇的な演出を好まれる方だと思う。
随所に工夫が凝らされ、舞台にドラマ性豊かなメリハリがある。それでいて「能」としての品位を損なわないギリギリの範囲にとどまっているところが、真州師の舞台の醍醐味だと思う。
一流どころをそろえたこの日の《隅田川》。各役の芸も光り、総合的にきわめて上質な舞台だった。
《隅田川》の役別の感想
【シテ】
真州師独自の演出かな? と思われる箇所がいくつか。
1つは、『伊勢物語』の歌「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」のあと、立廻リのような所作が入るところ。
古歌の引用のあとに、笛の音とともに舞台を半周することで、在原業平が抱いた恋慕や郷愁と、わが子を追い求めるシテの思いとがしみじみと重なり、狂女の心のうちが滲み出て舞台にあふれてくる。
2つ目は、わが子の死を知った狂女が、塚の前で泣き崩れるところ。この日の舞台では「道の辺の土となりて」で、杉市和さんの笛が入った。
パリ公演の《砧》でも、クライマックスで妻の亡霊が夫に怨みのたけをぶつけたあと、市和さんの笛が入り、夫(宝生欣哉)が数珠で合掌、長い「間」のあと妻が成仏する、という演出が加えられていた。
シテ、ワキ、笛ともにこの日と同じ配役だったが、シテの激情が昂る前後に名手の笛が入り「間」を取ることで、舞台変化や心理描写がより鮮明に伝わってくる。
そのいっぽうで演劇的表現が「能」の枠を逸脱しているように思える部分もあった。
たとえば、渡守が梅若丸の最期を語るところでは、シテは肩で息をするように身体を震わせて、心の動揺を表現していたが、ここまでいくと芝居的要素が強すぎて「やりすぎ」のように感じた。
逆に、「さりとては人々この土を返して今一度この世の姿を母に見せさせ給へや」と、塚の前で両手を思いっきり広げて土を掘り起こす所作をするところは、死者をよみがえらせる呪術儀礼のように見え、ドラマティックな表現が功を奏していた。
塚の中から梅若丸の声が聞こえてきたときの狂女の興奮や、わが子の亡霊が腕の間をすり抜けていく表現なども秀逸で、生身の女性の胸を掻きむしるような哀哭や絶望がリアルに伝わってきた。
【後見】
シテの水衣や縫箔の裾がはだけた時の後見の対応が名人芸!
とくに味方玄さん。
舞台進行の邪魔にならないよう絶妙なタイミングを見計らって、針で水衣を縫い留め、糸をハサミで切る……その間、わずか2秒。ほとんど目にも留まらぬ早業だった。後見の鑑ですね。
【ワキとワキツレ】
宝生欣哉さんの渡守を観るのはこれで3度目だろうか。
おなじみの桜模様の紺地素襖上下に、青・黄土・白の段熨斗目。
最初は上から目線で狂女を侮っていた渡守が、しだいに教養の豊かな相手に心を寄せ、やがて絶望の淵にいる彼女を親身にいたわってゆく、その過程、心の動きを欣哉さんは丹念に描く。好きだな、共感能力の高い欣哉さんの渡守。
野口能弘さんの旅人役もよかった。うまくなりはった。
【お囃子】
シテの登場楽・一声は、悲劇の予兆を感じさせるような物悲しいお囃子。
市和さんの笛と源次郎さんの小鼓は、もうそれを聴いただけで、ぎゅっと胸が締めつけられるよう。繊細かつ精巧な、デリケートな音色。
國川純さんの大鼓、なつかしい。パリ公演の映像では絶好調だったけれど、この日は湿度のせいだろうか、音色がやや不調だったかも。
【地謡】
私自身が無宗教でひねくれ者だからかもしれないが、「さあ、泣いてください!」と言わんばかりの子方を出す演出など、《隅田川》はどちらかというと苦手な曲だった。
でも今回の舞台では、観客の涙腺を刺戟するような「あざとさ」を地謡が希釈していて、《隅田川》っていい曲だなぁと心から感動できた。
あざとさがピークに達するのが、「南無阿弥陀仏」と唱えるところ。ここが特に苦手だったけれど、高音で謡う念仏のきれいなこと!
謡の声そのものが弔いの鐘のような清浄な響きを持っていて、「あざとさ」を感じる私の心を解きほぐし、純朴な東人たちが無心に祈る念仏唱和の輪のなかに、いつしか自分も入っていくような心地さえした。
演者がいて、観客がいて、《隅田川》の世界があって、それらが念仏唱和のなかでひとつに溶け合ってゆく。
悲しい物語だけれど、この空間にいることがたまらなく幸せだった。
観阿弥祭・《通小町》《鵜飼》からのつづき
能《隅田川》シテ狂女 浅見真州
子方・梅若丸 味方遙
ワキ渡守 宝生欣哉 旅人 野口能弘
杉市和 大倉源次郎 國川純
後見 大江又三郎 味方玄
地謡 片山九郎右衛門 浦田保浩
古橋正邦 浦田保親 浅井通昭
橋本忠樹 大江泰正 河村浩太郎
浅見真州師はリアリズム的・演劇的な演出を好まれる方だと思う。
随所に工夫が凝らされ、舞台にドラマ性豊かなメリハリがある。それでいて「能」としての品位を損なわないギリギリの範囲にとどまっているところが、真州師の舞台の醍醐味だと思う。
一流どころをそろえたこの日の《隅田川》。各役の芸も光り、総合的にきわめて上質な舞台だった。
《隅田川》の役別の感想
【シテ】
真州師独自の演出かな? と思われる箇所がいくつか。
1つは、『伊勢物語』の歌「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」のあと、立廻リのような所作が入るところ。
古歌の引用のあとに、笛の音とともに舞台を半周することで、在原業平が抱いた恋慕や郷愁と、わが子を追い求めるシテの思いとがしみじみと重なり、狂女の心のうちが滲み出て舞台にあふれてくる。
2つ目は、わが子の死を知った狂女が、塚の前で泣き崩れるところ。この日の舞台では「道の辺の土となりて」で、杉市和さんの笛が入った。
パリ公演の《砧》でも、クライマックスで妻の亡霊が夫に怨みのたけをぶつけたあと、市和さんの笛が入り、夫(宝生欣哉)が数珠で合掌、長い「間」のあと妻が成仏する、という演出が加えられていた。
シテ、ワキ、笛ともにこの日と同じ配役だったが、シテの激情が昂る前後に名手の笛が入り「間」を取ることで、舞台変化や心理描写がより鮮明に伝わってくる。
そのいっぽうで演劇的表現が「能」の枠を逸脱しているように思える部分もあった。
たとえば、渡守が梅若丸の最期を語るところでは、シテは肩で息をするように身体を震わせて、心の動揺を表現していたが、ここまでいくと芝居的要素が強すぎて「やりすぎ」のように感じた。
逆に、「さりとては人々この土を返して今一度この世の姿を母に見せさせ給へや」と、塚の前で両手を思いっきり広げて土を掘り起こす所作をするところは、死者をよみがえらせる呪術儀礼のように見え、ドラマティックな表現が功を奏していた。
塚の中から梅若丸の声が聞こえてきたときの狂女の興奮や、わが子の亡霊が腕の間をすり抜けていく表現なども秀逸で、生身の女性の胸を掻きむしるような哀哭や絶望がリアルに伝わってきた。
【後見】
シテの水衣や縫箔の裾がはだけた時の後見の対応が名人芸!
とくに味方玄さん。
舞台進行の邪魔にならないよう絶妙なタイミングを見計らって、針で水衣を縫い留め、糸をハサミで切る……その間、わずか2秒。ほとんど目にも留まらぬ早業だった。後見の鑑ですね。
【ワキとワキツレ】
宝生欣哉さんの渡守を観るのはこれで3度目だろうか。
おなじみの桜模様の紺地素襖上下に、青・黄土・白の段熨斗目。
最初は上から目線で狂女を侮っていた渡守が、しだいに教養の豊かな相手に心を寄せ、やがて絶望の淵にいる彼女を親身にいたわってゆく、その過程、心の動きを欣哉さんは丹念に描く。好きだな、共感能力の高い欣哉さんの渡守。
野口能弘さんの旅人役もよかった。うまくなりはった。
【お囃子】
シテの登場楽・一声は、悲劇の予兆を感じさせるような物悲しいお囃子。
市和さんの笛と源次郎さんの小鼓は、もうそれを聴いただけで、ぎゅっと胸が締めつけられるよう。繊細かつ精巧な、デリケートな音色。
國川純さんの大鼓、なつかしい。パリ公演の映像では絶好調だったけれど、この日は湿度のせいだろうか、音色がやや不調だったかも。
【地謡】
私自身が無宗教でひねくれ者だからかもしれないが、「さあ、泣いてください!」と言わんばかりの子方を出す演出など、《隅田川》はどちらかというと苦手な曲だった。
でも今回の舞台では、観客の涙腺を刺戟するような「あざとさ」を地謡が希釈していて、《隅田川》っていい曲だなぁと心から感動できた。
あざとさがピークに達するのが、「南無阿弥陀仏」と唱えるところ。ここが特に苦手だったけれど、高音で謡う念仏のきれいなこと!
謡の声そのものが弔いの鐘のような清浄な響きを持っていて、「あざとさ」を感じる私の心を解きほぐし、純朴な東人たちが無心に祈る念仏唱和の輪のなかに、いつしか自分も入っていくような心地さえした。
演者がいて、観客がいて、《隅田川》の世界があって、それらが念仏唱和のなかでひとつに溶け合ってゆく。
悲しい物語だけれど、この空間にいることがたまらなく幸せだった。
2019年6月23日日曜日
観阿弥祭・仕舞《芭蕉》など ~京都観世会館六月例会
2019年6月23日(日)京都観世会館
能《通小町》シテ深草少将霊 河村晴久
ツレ里女/小野小町 味方團
ワキ旅僧 江崎正左衛門
左鴻泰弘 吉阪一郎 河村大
後見 杉浦豊彦 吉浪壽晃
地謡 河村和重 河村博重 越智隆之
片山伸吾 田茂井廣道 深野貴彦
大江広祐 樹下千慧
狂言《粟田口》大名 小笠原匡
太郎冠者 山本豪一 すっぱ 泉槇也
後見 安田典幸
能《隅田川》シテ狂女 浅見真州
子方・梅若丸 味方遙
ワキ渡守 宝生欣哉 旅人 野口能弘
杉市和 大倉源次郎 國川純
後見 大江又三郎 味方玄
地謡 片山九郎右衛門 浦田保浩
古橋正邦 浦田保親 浅井通昭
橋本忠樹 大江泰正 河村浩太郎
仕舞・観阿弥祭
《芦刈》 井上裕久
《自然居士》浦田保浩
《芭蕉》 片山九郎右衛門
《猩々》 大江又三郎
能《鵜飼》シテ尉/閻魔 吉田篤史
ワキ旅僧 江崎欽次朗 和田英基
アイ所の者 泉槇也
森田保美 曽和鼓堂 河村裕一郎 前川光長
後見 井上裕久 分林道治
地謡 橋本光史 大江信行 林宗一郎
松野浩行 梅田嘉宏 宮本茂樹
河村和貴 浦田親良
いつものとおり開場直前に行ったら、すでに長蛇の列。しまった! 油断してもうた!(>_<)
この日は1階はもちろん満席で、2階の学生席もかなりの入り。今年になってから毎回ほぼ満席じゃないかな。今年度からHPもリニューアルしたし、ツイッターや字幕サービスも始めたし……京都観世会、絶好調!
公演自体も、詰めかけた客の期待を裏切らない充実した内容で、とくに浅見真州さんの舞台は私が見たなかで最高の《隅田川》だった。
ところで、冒頭の画像にある通り、この日は観阿弥祭。
観世流の祖・観阿弥の命日(5月19日享年52才)を新暦に直して、6月に行われるそうです。観阿弥祭なのに何故《芭蕉》や《猩々》が舞われるのだろう?と思ったら、かつて観阿弥作と考えられていたため、昔からの習わしとして継承されているとのこと。
この日の中盤に行われた観阿弥祭では、流祖に敬意を表して、シテも地謡も裃姿で登場。
仕舞4番のシテはそれぞれ名家の当主で、舞のうまい方ばかりだけれど、九郎右衛門さんの《芭蕉》はやっぱり、なんか、ぜんぜんちゃうっ!
切戸口をくぐって舞台に入ってきた瞬間から、堂内の空気が一変する。
夜明け前の寒稽古のような、ピンと張りつめた空気、清浄で、侵しがたい空気があたりを支配する。
ハコビの一足一足からは人間的な要素が漂白され、精霊のような、森の魂のような、露のように儚い女の美の名残りのようなものが漂い出る。
仕舞《芭蕉》は「水に近き楼台は」から「立ち舞ふ袖しばしいざや返さん」までの舞グセの部分。
禅竹らしい「露」や「虫の音」といった詞がちりばめられ、詞章からも、九郎右衛門さんの舞からも、「存在のはかなさ」が、まるで半透明のガラス越しに見るように見え隠れする。無相真如、諸法実相といったとらえどころのない思想を、型や形を超越した、とらえどころのない抽象的な舞が描いてゆく。
九郎右衛門さんの舞を観るたびに、同じものをふたたび見ることのない、一度かぎりのかけがえのない舞台という思いが強くなる。
もう二度と観ることのない舞台。
九郎右衛門さんのシテでぜひとも拝見したい能はたくさんあるけれど、そのなかでとりわけ《芭蕉》が観てみたい。ほとんど悲願に近いこの願いが叶うことがあるのだろうか?
《通小町》《粟田口》《鵜飼》・《隅田川》につづく
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ロビーに飾られた観阿弥祭のお供え |
ツレ里女/小野小町 味方團
ワキ旅僧 江崎正左衛門
左鴻泰弘 吉阪一郎 河村大
後見 杉浦豊彦 吉浪壽晃
地謡 河村和重 河村博重 越智隆之
片山伸吾 田茂井廣道 深野貴彦
大江広祐 樹下千慧
狂言《粟田口》大名 小笠原匡
太郎冠者 山本豪一 すっぱ 泉槇也
後見 安田典幸
能《隅田川》シテ狂女 浅見真州
子方・梅若丸 味方遙
ワキ渡守 宝生欣哉 旅人 野口能弘
杉市和 大倉源次郎 國川純
後見 大江又三郎 味方玄
地謡 片山九郎右衛門 浦田保浩
古橋正邦 浦田保親 浅井通昭
橋本忠樹 大江泰正 河村浩太郎
仕舞・観阿弥祭
《芦刈》 井上裕久
《自然居士》浦田保浩
《芭蕉》 片山九郎右衛門
《猩々》 大江又三郎
能《鵜飼》シテ尉/閻魔 吉田篤史
ワキ旅僧 江崎欽次朗 和田英基
アイ所の者 泉槇也
森田保美 曽和鼓堂 河村裕一郎 前川光長
後見 井上裕久 分林道治
地謡 橋本光史 大江信行 林宗一郎
松野浩行 梅田嘉宏 宮本茂樹
河村和貴 浦田親良
いつものとおり開場直前に行ったら、すでに長蛇の列。しまった! 油断してもうた!(>_<)
この日は1階はもちろん満席で、2階の学生席もかなりの入り。今年になってから毎回ほぼ満席じゃないかな。今年度からHPもリニューアルしたし、ツイッターや字幕サービスも始めたし……京都観世会、絶好調!
公演自体も、詰めかけた客の期待を裏切らない充実した内容で、とくに浅見真州さんの舞台は私が見たなかで最高の《隅田川》だった。
ところで、冒頭の画像にある通り、この日は観阿弥祭。
観世流の祖・観阿弥の命日(5月19日享年52才)を新暦に直して、6月に行われるそうです。観阿弥祭なのに何故《芭蕉》や《猩々》が舞われるのだろう?と思ったら、かつて観阿弥作と考えられていたため、昔からの習わしとして継承されているとのこと。
この日の中盤に行われた観阿弥祭では、流祖に敬意を表して、シテも地謡も裃姿で登場。
仕舞4番のシテはそれぞれ名家の当主で、舞のうまい方ばかりだけれど、九郎右衛門さんの《芭蕉》はやっぱり、なんか、ぜんぜんちゃうっ!
切戸口をくぐって舞台に入ってきた瞬間から、堂内の空気が一変する。
夜明け前の寒稽古のような、ピンと張りつめた空気、清浄で、侵しがたい空気があたりを支配する。
ハコビの一足一足からは人間的な要素が漂白され、精霊のような、森の魂のような、露のように儚い女の美の名残りのようなものが漂い出る。
仕舞《芭蕉》は「水に近き楼台は」から「立ち舞ふ袖しばしいざや返さん」までの舞グセの部分。
禅竹らしい「露」や「虫の音」といった詞がちりばめられ、詞章からも、九郎右衛門さんの舞からも、「存在のはかなさ」が、まるで半透明のガラス越しに見るように見え隠れする。無相真如、諸法実相といったとらえどころのない思想を、型や形を超越した、とらえどころのない抽象的な舞が描いてゆく。
九郎右衛門さんの舞を観るたびに、同じものをふたたび見ることのない、一度かぎりのかけがえのない舞台という思いが強くなる。
もう二度と観ることのない舞台。
九郎右衛門さんのシテでぜひとも拝見したい能はたくさんあるけれど、そのなかでとりわけ《芭蕉》が観てみたい。ほとんど悲願に近いこの願いが叶うことがあるのだろうか?
《通小町》《粟田口》《鵜飼》・《隅田川》につづく
2019年6月4日火曜日
大倉流祖先祭~大槻能楽堂改修記念
2019年6月4日(火) 大槻能楽堂
番組(拝見したもののみ記載)
舞囃子《高砂》分林道治
赤井要佑 社中の方 木村滋二 中田弘美
味方玄 寺澤幸祐 武富康之
舞囃子《花月》大槻裕一
赤井要佑 社中の方 上野義雄
上野雄三 上野雄介 上野雄吾
舞囃子《玉之段》赤松禎友
斉藤敦 社中の方 辻芳昭
大槻文蔵 武富康之 大槻裕一
舞囃子《淡路》金剛龍謹
斉藤敦 社中の方 山本哲也 中田弘美
金剛永謹 種田道一 惣明貞助
《水無月祓》味方玄×桂吉坊
舞囃子《蓮如》青木道喜
杉市和 社中の方 木村滋二 中田弘美
片山九郎右衛門 味方玄 分林道治
舞囃子《鷺》大槻文蔵
赤井啓三 社中の方 辻芳昭 三島元太郎
上野朝義 上野雄三 長山耕三
舞囃子《自然居士》味方玄
斉藤敦 社中の方 山本哲也
片山九郎右衛門 寺澤幸祐 大槻裕一
舞囃子《卒都婆小町》金剛永謹
斉藤敦 社中の方 辻芳昭
種田道一 金剛龍謹 惣明貞助
舞囃子《安宅・瀧流之伝》梅若紀彰
赤井啓三 社中の方 山本哲也
片山九郎右衛門 青木道喜 寺澤幸祐
舞囃子《放下僧》梅若猶義
赤井啓三 社中の方 上野義雄
梅若紀彰 分林道治 大槻裕一
舞囃子《船弁慶》金剛永謹
杉市和 社中の方 上野義雄
種田道一 金剛龍謹 惣明貞助
舞囃子《三輪》大槻文蔵
杉市和 社中の方 山本哲也 三島元太郎
梅若紀彰 梅若猶義 赤松禎友
舞囃子《班女》上野雄三
赤井啓三 社中の方 上野義雄
上野朝義 上野朝彦 上野雄介
舞囃子《安宅》金剛龍謹
杉市和 社中の方 辻芳昭
金剛永謹 種田道一 惣明貞助
舞囃子《邯鄲》片山九郎右衛門
左鴻泰弘 社中の方 山本寿弥 上田悟
青木道喜 味方玄 長山耕三
ほか、舞囃子、居囃子、一調など多数。
ひと言でいうと、すっごい会だった。
好きな能楽師さん、超一流の能楽師さんたちの真剣立合勝負。
とくに片山九郎右衛門vs梅若紀彰vs味方玄という、今を時めく舞の名手の三つ巴の激突がとにかく、凄まじかった。
九郎右衛門さんと梅若紀彰さんの対決で思い出すのは、4年前の佳名会・佳広会(亀井忠雄・広忠師社中会)。
あのときは、九郎右衛門さん、紀彰さんがそれぞれ舞囃子を2番ずつ舞われて、「犬王・道阿弥vs世阿弥の立合もかくやらん」と思わせるほど、わが観能史に残る名試合だった。
あの日の感動をさらに上回るような舞台に出逢えるなんて!!
以下は、簡単なメモ。
舞囃子《高砂》分林道治
この日はじめて気づいたけれど、分林さんの《高砂》は、九郎右衛門さんの芸風によく似ている。緩急のつけ方も、足拍子のタイミングも、型の微妙な角度まで。片山一門の中堅は皆さん見応えがあります。
赤井要佑さんの笛を聴くのははじめてかも。赤井啓三さんの御子息かな? 美しい音色の良い笛。関西の笛方さんはほんと粒ぞろい。
《水無月祓》味方玄×桂吉坊
さすがは源次郎さんのお社中、上手い方が多い。
なかでも桂吉坊さんは米朝一門だけあって、長唄・三味線・笛・太鼓だけでなく、小鼓も相当な腕前。音色もきれいだし、掛け声も見事。謡のお師匠様は味方玄さんでしょうか? 本業だけでも超多忙なのに、それぞれの芸事をこのレベルまでお稽古されるなんて……努力家で多才な方なんですね。
舞囃子《蓮如》青木道喜
青木道喜師作曲の《蓮如》。
盤渉早舞っぽい舞事が入ります。詞章はあまり聞き取れなかったけれど、蓮如の功績や教義的なものが織り込まれていたような。来年あたり、本願寺の能舞台で上演されるのでしょうか。
舞囃子《自然居士》味方玄
味方玄さんの舞台は、能よりも舞囃子が好きだなあ。味方さんの能は感動する時と、そうでないふつうの時があるけれど、舞囃子はほとんどすべて素晴らしい。
そしていつも思うのは、片山一門のなかでいちばん「幽雪」的なものを感じさせるのが味方玄さんだということ。恐ろしいくらいの集中力と、舞台に対する妄執ともいえるくらいの、燃えたぎる執念と情念。舞台に立ったときの目つきと気迫が、幽雪師の生き写しのよう。
舞囃子《安宅・瀧流之伝》梅若紀彰
東京を離れるときに心残りだった能楽師さんの一人が、梅若紀彰さん。
関西ではめったに拝見できないから、最初に番組をいただいたときは狂喜乱舞したくらい。ずっと、この日を心待ちにしていた。
4年前の佳名会・佳広会の時は、《安宅・延年之舞》と《邯鄲》を舞われたけれど、この日は《安宅》の「瀧流之伝」。深緑の色紋付と黄土色の袴という、いつもながらおしゃれな出立。
「瀧流」では、盃に見立てた扇を目付柱の前に投げ、盃を流れに浮かべる型を見せたり、橋掛りへ行く代わりに(舞囃子なので)脇正で水の流れを見込み、曲水を流れる盃を目で追いかけたりするなどの所作が入る。
次はいつ拝見できるだろう?
そう思うと一瞬一瞬が貴重で、一瞬一瞬を心に刻み付けるように味わっていた。舞囃子1番では足りないくらい。《三輪》の地頭もされていたけれど、紀彰さんの神楽物、観てみたかったな。
また、関西にも来てくださいね。
(紀彰さんの舞台でいちばん感動したのが、第一会紀彰の会の《砧》。あのときの太鼓は観世元伯さんだった。元伯さんを最後に観たのも、紀彰さんの社中会だった。東京の能楽師さんを拝見すると、懐かしさとともに、悲しい思い出もこみあげてくる。せつなくて、胸が苦しくなるけれど、こうして思い出して書き記すことが、きっと最高の供養になると思うから。)
舞囃子《邯鄲》片山九郎右衛門
九郎右衛門さん、凄かった!!
切戸口から舞台に入って来た時から、殺気めいた気迫がみなぎっていて、なにかもう、ここではない、別の次元にいた。
おおげさではなく、怖れというか、畏怖の念すら覚えた。
もはや立合ではなくなっていた。
比較対象が存在しない。
ただひとり別次元の高みで君臨する、無双の王者だった。
その姿を前にして、
わたしの身体がまばたきを拒否していた。
全身が「目」となって、ただただ、貪欲にその姿を追っていた。
まばたきを忘れているのに、
目が乾く間もなく、涙があふれてくる。
ストーリーの展開も、意味も、もうどうでもよかった。
ただもう、異次元の凄いものを目の当たりにして、その感動で跳ね飛ばされそうになりながら、必死でしがみつくように舞台を凝視していた。
お菓子を食べていた前列の女性グループも、おしゃべりしていた年配の団体も、ポカンと口を開けて舞台に見入っていた。
見所全体が九郎右衛門さんとともに、ここではない別の次元に運ばれて、意識が遠のくような美しい夢を見ていた。
わたしの理想とする、言葉も意味も超えた舞台。
この感覚をいつまでも覚えていたい。
ありがとうございました。
番組(拝見したもののみ記載)
舞囃子《高砂》分林道治
赤井要佑 社中の方 木村滋二 中田弘美
味方玄 寺澤幸祐 武富康之
舞囃子《花月》大槻裕一
赤井要佑 社中の方 上野義雄
上野雄三 上野雄介 上野雄吾
舞囃子《玉之段》赤松禎友
斉藤敦 社中の方 辻芳昭
大槻文蔵 武富康之 大槻裕一
舞囃子《淡路》金剛龍謹
斉藤敦 社中の方 山本哲也 中田弘美
金剛永謹 種田道一 惣明貞助
《水無月祓》味方玄×桂吉坊
舞囃子《蓮如》青木道喜
杉市和 社中の方 木村滋二 中田弘美
片山九郎右衛門 味方玄 分林道治
舞囃子《鷺》大槻文蔵
赤井啓三 社中の方 辻芳昭 三島元太郎
上野朝義 上野雄三 長山耕三
舞囃子《自然居士》味方玄
斉藤敦 社中の方 山本哲也
片山九郎右衛門 寺澤幸祐 大槻裕一
舞囃子《卒都婆小町》金剛永謹
斉藤敦 社中の方 辻芳昭
種田道一 金剛龍謹 惣明貞助
舞囃子《安宅・瀧流之伝》梅若紀彰
赤井啓三 社中の方 山本哲也
片山九郎右衛門 青木道喜 寺澤幸祐
舞囃子《放下僧》梅若猶義
赤井啓三 社中の方 上野義雄
梅若紀彰 分林道治 大槻裕一
舞囃子《船弁慶》金剛永謹
杉市和 社中の方 上野義雄
種田道一 金剛龍謹 惣明貞助
舞囃子《三輪》大槻文蔵
杉市和 社中の方 山本哲也 三島元太郎
梅若紀彰 梅若猶義 赤松禎友
舞囃子《班女》上野雄三
赤井啓三 社中の方 上野義雄
上野朝義 上野朝彦 上野雄介
舞囃子《安宅》金剛龍謹
杉市和 社中の方 辻芳昭
金剛永謹 種田道一 惣明貞助
舞囃子《邯鄲》片山九郎右衛門
左鴻泰弘 社中の方 山本寿弥 上田悟
青木道喜 味方玄 長山耕三
ほか、舞囃子、居囃子、一調など多数。
ひと言でいうと、すっごい会だった。
好きな能楽師さん、超一流の能楽師さんたちの真剣立合勝負。
とくに片山九郎右衛門vs梅若紀彰vs味方玄という、今を時めく舞の名手の三つ巴の激突がとにかく、凄まじかった。
九郎右衛門さんと梅若紀彰さんの対決で思い出すのは、4年前の佳名会・佳広会(亀井忠雄・広忠師社中会)。
あのときは、九郎右衛門さん、紀彰さんがそれぞれ舞囃子を2番ずつ舞われて、「犬王・道阿弥vs世阿弥の立合もかくやらん」と思わせるほど、わが観能史に残る名試合だった。
あの日の感動をさらに上回るような舞台に出逢えるなんて!!
以下は、簡単なメモ。
舞囃子《高砂》分林道治
この日はじめて気づいたけれど、分林さんの《高砂》は、九郎右衛門さんの芸風によく似ている。緩急のつけ方も、足拍子のタイミングも、型の微妙な角度まで。片山一門の中堅は皆さん見応えがあります。
赤井要佑さんの笛を聴くのははじめてかも。赤井啓三さんの御子息かな? 美しい音色の良い笛。関西の笛方さんはほんと粒ぞろい。
《水無月祓》味方玄×桂吉坊
さすがは源次郎さんのお社中、上手い方が多い。
なかでも桂吉坊さんは米朝一門だけあって、長唄・三味線・笛・太鼓だけでなく、小鼓も相当な腕前。音色もきれいだし、掛け声も見事。謡のお師匠様は味方玄さんでしょうか? 本業だけでも超多忙なのに、それぞれの芸事をこのレベルまでお稽古されるなんて……努力家で多才な方なんですね。
舞囃子《蓮如》青木道喜
青木道喜師作曲の《蓮如》。
盤渉早舞っぽい舞事が入ります。詞章はあまり聞き取れなかったけれど、蓮如の功績や教義的なものが織り込まれていたような。来年あたり、本願寺の能舞台で上演されるのでしょうか。
舞囃子《自然居士》味方玄
味方玄さんの舞台は、能よりも舞囃子が好きだなあ。味方さんの能は感動する時と、そうでないふつうの時があるけれど、舞囃子はほとんどすべて素晴らしい。
そしていつも思うのは、片山一門のなかでいちばん「幽雪」的なものを感じさせるのが味方玄さんだということ。恐ろしいくらいの集中力と、舞台に対する妄執ともいえるくらいの、燃えたぎる執念と情念。舞台に立ったときの目つきと気迫が、幽雪師の生き写しのよう。
舞囃子《安宅・瀧流之伝》梅若紀彰
東京を離れるときに心残りだった能楽師さんの一人が、梅若紀彰さん。
関西ではめったに拝見できないから、最初に番組をいただいたときは狂喜乱舞したくらい。ずっと、この日を心待ちにしていた。
4年前の佳名会・佳広会の時は、《安宅・延年之舞》と《邯鄲》を舞われたけれど、この日は《安宅》の「瀧流之伝」。深緑の色紋付と黄土色の袴という、いつもながらおしゃれな出立。
「瀧流」では、盃に見立てた扇を目付柱の前に投げ、盃を流れに浮かべる型を見せたり、橋掛りへ行く代わりに(舞囃子なので)脇正で水の流れを見込み、曲水を流れる盃を目で追いかけたりするなどの所作が入る。
次はいつ拝見できるだろう?
そう思うと一瞬一瞬が貴重で、一瞬一瞬を心に刻み付けるように味わっていた。舞囃子1番では足りないくらい。《三輪》の地頭もされていたけれど、紀彰さんの神楽物、観てみたかったな。
また、関西にも来てくださいね。
(紀彰さんの舞台でいちばん感動したのが、第一会紀彰の会の《砧》。あのときの太鼓は観世元伯さんだった。元伯さんを最後に観たのも、紀彰さんの社中会だった。東京の能楽師さんを拝見すると、懐かしさとともに、悲しい思い出もこみあげてくる。せつなくて、胸が苦しくなるけれど、こうして思い出して書き記すことが、きっと最高の供養になると思うから。)
舞囃子《邯鄲》片山九郎右衛門
九郎右衛門さん、凄かった!!
切戸口から舞台に入って来た時から、殺気めいた気迫がみなぎっていて、なにかもう、ここではない、別の次元にいた。
おおげさではなく、怖れというか、畏怖の念すら覚えた。
もはや立合ではなくなっていた。
比較対象が存在しない。
ただひとり別次元の高みで君臨する、無双の王者だった。
その姿を前にして、
わたしの身体がまばたきを拒否していた。
全身が「目」となって、ただただ、貪欲にその姿を追っていた。
まばたきを忘れているのに、
目が乾く間もなく、涙があふれてくる。
ストーリーの展開も、意味も、もうどうでもよかった。
ただもう、異次元の凄いものを目の当たりにして、その感動で跳ね飛ばされそうになりながら、必死でしがみつくように舞台を凝視していた。
お菓子を食べていた前列の女性グループも、おしゃべりしていた年配の団体も、ポカンと口を開けて舞台に見入っていた。
見所全体が九郎右衛門さんとともに、ここではない別の次元に運ばれて、意識が遠のくような美しい夢を見ていた。
わたしの理想とする、言葉も意味も超えた舞台。
この感覚をいつまでも覚えていたい。
ありがとうございました。
2019年4月28日日曜日
平成最後の観能と本願寺伝道院
2019年4月28日(日)西本願寺南能舞台・書院
「降誕会祝賀能をより楽しむために」片山九郎右衛門
(1)本願寺と能の歴史と関りについて
(書院にて)
(2)本年の演目解説
・開演前の”触れ”について
・能《田村》について
能面「童子」「平太」の紹介
・狂言《延命袋》について
・能《百万》について
能面「曲見」「深井」の紹介
(南能舞台にて)
(3)仕舞《田村キリ》
(書院にて)
(4)《田村》謡の稽古
「今もその名に流れたる」から「おそかなるべしや」
(舞台と書院で)
(5)参加者の連吟で仕舞《田村》を実演
前日まで観世会例会に行くつもりだったのですが、翌日からGW中盤のハードスケジュールに入るため5時間以上の長丁場の観能は体力的にちょっと自信がなく……急遽こちらに変更。
能《歌占》や《船橋》を見逃したのはとても残念でしたが、平成最後に九郎右衛門さんの仕舞を南舞台で拝見し、謡のお稽古を国宝・対面所(鴻之間)で体験できて、めっちゃ幸せ♪ 一生の思い出になりそう。
わたしの隣に座った女性はお能を観るのははじめてだったそうですが、終演後、とても楽しまれた御様子で「素敵な方ね」と九郎右衛門さんについてもおっしゃっていて、なんだかこちらも嬉しい気分。
それにしても、昨年の降誕会祝賀能の際の拙ブログ画像と比べると、文化財建築物の塀や屋根など、あちこちで地震・台風・大雨の爪痕が生々しく残っていて、復興の大変さをあらためて実感します。檜皮葺などは原皮師が減少して、檜油を含んだ上質の檜皮を得るのさえ困難だろうし。。。
さて、いつもながら楽しいお話が満載だったのですが、いちばん印象に残ったのが、能《田村》の前場についての解説。要約すると;
前場で使われる「童子」の面は、少年の風貌に大人の知謀を兼ね備えた不思議な存在というイメージ、護法童子のようなイメージであらわされる。
前場で童子が箒をもって現れるのは、桜の橋で天と地をつなぐことのできた少年が玉箒を掃きながら向こう側に渡ってゆく伝説がその背景にあるからではないか。
坂上田村麿はほんとうは心優しい人なので、蝦夷の指導者・アテルイとの約束を破ったことについても心を痛めている部分があったのだろう。だから、伝説の少年のように玉箒で清めながらいつかそれを橋に見立てて向こうへ行ってしまいたいという願望を抱いていて、それが前場のような形で表われたのではないだろうか。
という趣旨のことを九郎右衛門さんはおっしゃっていた。
登場人物の内面に深く入り込んだ、ロマンティックな解釈。愛があるよね。能の主人公や登場人物にたいして、身近な存在のように優しいまなざしでみつめている。九郎右衛門さんが語ると、そのキャラクターが自分と同じ悩みや苦しみをもつ血の通った存在として息づいてくる。
講座は70分だけど、物凄く濃い内容。
《田村》の仕舞を二度も舞ってくださった。
最初はキリ。書院から南能舞台まで(けっこう離れている距離)を往復し、橋掛りを歩きながらもいろいろ解説して、さらに舞台では、一人で舞って謡って何役もこなす、というハードさ。
二度目は、清水寺縁起の箇所の謡のお稽古のあと、書院にいる参加者全員が習ったばかりの謡を連吟。それに合わせて、九郎右衛門さんが南能舞台で舞う、というもの。
簡単には覚えられなかったけれど、とにかく、仕舞を舞う九郎右衛門さんまでどうか届け!!と念じながら、渾身の力を込めて謡いました! 全身で謡うのは気持ちいい!
自分たちの謡で、あこがれの方が舞ってくださるなんて夢のよう。
平成最後の素敵な思い出。
九郎右衛門さんと西本願寺さんに感謝!
(このあと、九郎右衛門さんは観世会館に舞い戻って《熊野》の後見を勤められたのでしょう。ほんと、ハードだ。。。)
西本願寺の門前には仏壇関係のお店が軒を並べる。
その先にある特色ある建物が、本願寺伝道院。
中国、インド、トルコを旅した伊東忠太がその経験をもとにデザインした東洋趣味にあふれる建築。
大きなドームの下には、イスラム建築風の窓。こういうところは、同じく伊東忠太設計の築地本願寺に似ている。ドームのまわりを欄干が取り囲む装飾も特徴的。
ロマネスク風の幻獣たち。
こちらはグリフォンっぽい。
羽根の生えたゾウさん。
「降誕会祝賀能をより楽しむために」片山九郎右衛門
![]() |
修復のため南能舞台の塀が撤去されていた。 画像は、橋掛り越しに書院を眺めたところ |
(書院にて)
(2)本年の演目解説
・開演前の”触れ”について
・能《田村》について
能面「童子」「平太」の紹介
・狂言《延命袋》について
・能《百万》について
能面「曲見」「深井」の紹介
(南能舞台にて)
(3)仕舞《田村キリ》
(書院にて)
(4)《田村》謡の稽古
「今もその名に流れたる」から「おそかなるべしや」
(舞台と書院で)
(5)参加者の連吟で仕舞《田村》を実演
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国宝・浪之間玄関の檜皮葺の屋根も無残な状態に |
能《歌占》や《船橋》を見逃したのはとても残念でしたが、平成最後に九郎右衛門さんの仕舞を南舞台で拝見し、謡のお稽古を国宝・対面所(鴻之間)で体験できて、めっちゃ幸せ♪ 一生の思い出になりそう。
わたしの隣に座った女性はお能を観るのははじめてだったそうですが、終演後、とても楽しまれた御様子で「素敵な方ね」と九郎右衛門さんについてもおっしゃっていて、なんだかこちらも嬉しい気分。
それにしても、昨年の降誕会祝賀能の際の拙ブログ画像と比べると、文化財建築物の塀や屋根など、あちこちで地震・台風・大雨の爪痕が生々しく残っていて、復興の大変さをあらためて実感します。檜皮葺などは原皮師が減少して、檜油を含んだ上質の檜皮を得るのさえ困難だろうし。。。
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九郎右衛門さんのインタビュー記事が載った冊子 |
さて、いつもながら楽しいお話が満載だったのですが、いちばん印象に残ったのが、能《田村》の前場についての解説。要約すると;
前場で使われる「童子」の面は、少年の風貌に大人の知謀を兼ね備えた不思議な存在というイメージ、護法童子のようなイメージであらわされる。
前場で童子が箒をもって現れるのは、桜の橋で天と地をつなぐことのできた少年が玉箒を掃きながら向こう側に渡ってゆく伝説がその背景にあるからではないか。
坂上田村麿はほんとうは心優しい人なので、蝦夷の指導者・アテルイとの約束を破ったことについても心を痛めている部分があったのだろう。だから、伝説の少年のように玉箒で清めながらいつかそれを橋に見立てて向こうへ行ってしまいたいという願望を抱いていて、それが前場のような形で表われたのではないだろうか。
という趣旨のことを九郎右衛門さんはおっしゃっていた。
登場人物の内面に深く入り込んだ、ロマンティックな解釈。愛があるよね。能の主人公や登場人物にたいして、身近な存在のように優しいまなざしでみつめている。九郎右衛門さんが語ると、そのキャラクターが自分と同じ悩みや苦しみをもつ血の通った存在として息づいてくる。
講座は70分だけど、物凄く濃い内容。
《田村》の仕舞を二度も舞ってくださった。
最初はキリ。書院から南能舞台まで(けっこう離れている距離)を往復し、橋掛りを歩きながらもいろいろ解説して、さらに舞台では、一人で舞って謡って何役もこなす、というハードさ。
二度目は、清水寺縁起の箇所の謡のお稽古のあと、書院にいる参加者全員が習ったばかりの謡を連吟。それに合わせて、九郎右衛門さんが南能舞台で舞う、というもの。
簡単には覚えられなかったけれど、とにかく、仕舞を舞う九郎右衛門さんまでどうか届け!!と念じながら、渾身の力を込めて謡いました! 全身で謡うのは気持ちいい!
自分たちの謡で、あこがれの方が舞ってくださるなんて夢のよう。
平成最後の素敵な思い出。
九郎右衛門さんと西本願寺さんに感謝!
(このあと、九郎右衛門さんは観世会館に舞い戻って《熊野》の後見を勤められたのでしょう。ほんと、ハードだ。。。)
西本願寺の門前には仏壇関係のお店が軒を並べる。
その先にある特色ある建物が、本願寺伝道院。
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本願寺伝道院、明治45(1912)年竣工、伊東忠太設計 |
大きなドームの下には、イスラム建築風の窓。こういうところは、同じく伊東忠太設計の築地本願寺に似ている。ドームのまわりを欄干が取り囲む装飾も特徴的。
ロマネスク風の幻獣たち。
こちらはグリフォンっぽい。
羽根の生えたゾウさん。
2019年4月23日火曜日
三寿会 ~谷口正喜七回忌追善
2019年4月21日(日) 京都観世会館
舞囃子《国栖・天地之聲》浦田保親
左鴻泰弘 林吉兵衛 社中の方 前川光長
地謡 浦田保浩 林宗一郎
河村和貴 河村和晃
番囃子《大原御幸》片山九郎右衛門
後白河法皇 浦田保親
阿波内侍 片山伸吾
大納言局 林宗一郎
万里小路中納言 江崎欽次朗
杉市和 成田達志 社中の方
地頭 片山九郎右衛門
地謡 宮本茂樹 河村和貴 河村和晃
番外一調 浦田保浩×谷口正壽
舞囃子《卒都婆小町》橋本雅夫
杉市和 林吉兵衛 社中の方
又三郎 保浩 保親 茂樹
舞囃子《夕顔 法味之傳》片山伸吾
杉市和 成田達志 社中の方
九郎右衛門 宗一郎 茂樹 和貴
居囃子《小鍛冶 重キ黒頭》
杉市和 成田達志 社中の方 前川光長
九郎右衛門 保親 伸吾 宗一郎
独調《熊坂》林宗一郎
《花月》浦田保親
《杜若》片山九郎右衛門
《鉄輪》浦田保浩
番外舞囃子《融》林宗一郎
左鴻泰弘 成田奏 渡部諭 前川光長
橋本雅夫 片山伸吾 河村和貴 和晃
ほか、素囃子、居囃子、別習一調など多数。
私イチオシの大鼓方・谷口正壽さんの社中会。成田達志さん、奏さんと、大好きな囃子方ファミリーが勢ぞろいした、とてもいい会でした。
社中の方々も、大鼓を打つときの姿勢とフォームが美しく、音色もきれい。若い男性も多く、皆さん、お師匠様に似て覇気があり、雰囲気がプロっぽい。金剛流の居囃子《巻絹》で惣神楽を打たれた方、《小鍛冶・重キ黒頭》・《花月》の方、独調を打った方など凄いお弟子さんが多かった。
ハイライトは番囃子《大原御幸》。
昨年の舞台でもっとも感動した梅若万三郎師の《大原御幸》。あのときの谷口正壽さんの大鼓も素晴らしかった。音色と掛け声によって閑寂な気配がいっそう際立ち、山里のうら寂しく澄んだ空気や鬱蒼と生い茂る新緑の香りが漂ってくるような、心に残る名演奏だった。
舞がなく、謡専用とされてきた《大原御幸》は番囃子に打ってつけ。この日の番囃子を聴いていると、ヴィジュアルに頼らず聴覚だけに集中したほうが、謡と語りが生み出す物語の世界がより鮮明にイメージできるようにも思えてくる。
とりわけ、シテ兼地頭の九郎右衛門さんの描写力は圧巻だった。
「昨日も過ぎ、今日もむなしく暮れなんとす」と、まるで堂々巡りのような、時間の感覚が麻痺するほどの単調で平穏な日常に埋没することで、過去の記憶を封印し、ひたすら目の前の単純な作業に没頭してきた建礼門院の姿が浮かび上がる。
その静かな水面が、ある日突然、上皇の御幸によってかき乱され、固く塗りこめていた忌まわしい記憶が強制的に呼び覚まされる。
クライマックスの入水の場面。
「十念の御為に西に向かはせおはしまし」では、目を閉じて合掌した幼帝のまぶたの裏に映る、西方極楽浄土のまばゆく輝く黄金の光がサーッと射してくるのが見えた。
「今ぞ……知る……」と、ゆっくり引き延ばされた謡によって、カメラが大きくズームインするように、祖母に抱かれて舟の舳先に立つ安徳天皇の入水直前の姿が大きく写し出される。
「御裳濯川の流れには」から、川の奔流のような勢いのある謡に変わり、激流のように流れたかと思うと、「みずからも続いて沈みしを」より、「動」の謡から一転、「静」の謡へと変化し、すべてを失い、ひとり生き長らえた建礼門院の屈辱と悔恨と深い悲しみがあたりに沈澱する。
最後のシテの謡「女院は柴の戸に」は、か細く後を引くように余韻を漂わせ、その声の先に、山里からしずしずと去り、小さく遠ざかる上皇一行の影が目に見えるようだった。
舞囃子《卒都婆小町》
橋本雅夫師の舞ははじめて拝見する。と思ったら、以前に仕舞を拝見したことがあった。そのときは印象に残らなかったけれど、この《卒都婆小町》はよかった。とくに「あら苦しや、目まひや」と、扇で胸をおさえて苦しそうにする型。無駄な力を抜きつつも、的確な表現力はベテランならではの味わい。
独調《杜若》
九郎右衛門さんの《杜若》の謡を拝聴するのはこれで二度目。前回は、高槻明月能での太鼓方・石井敬介さんとの一調。そのときは、ホール能だったのでマイクを通してだったし、プロ同士のいわば対決のようなものだったけれど、今回はお素人との共演だからか、どことなく、やわらかい優しさがある。
清流のように澄んだ声。初夏の花らしい、みずみずしい生命力のある謡だった。
この日、2階ロビーのお茶席でいただいたお菓子も「かきつばた」。黄身餡の斑紋を外郎生地の花被片でくるんだもので、見た目にも美しいお菓子。ありがとうございます。
番外舞囃子《融》
やっぱり、関西のお囃子っていいな。
特別感のある色紋付に着替えた宗一郎さん。貴公子然とした物腰が《融》にぴったり。「あっ!」と思ったのは、林喜右衛門師に似てきたこと。
全体的な雰囲気はもとより、扇の扱いも、間の取り方も……喜右衛門師の舞を観た時に感じた、ゆったりした品格が匂いたつ。以前はシャープなキレの良さが魅力的な宗一郎さんだったが、そこからさらに芸格を上げて、御父上の芸にぐっと近づいた気がする。
名家の当主になるって凄いことだ。
それまで身体の奥底でそっと熟成されてきた先人の教えが、その立場になった時に、一気に芳醇な香りを放つような、時分の花ではないほんとうの花が開きつつあるような、そんな印象を受けた。「地位が人をつくる」というけれど、まさにそういうことかもしれない。
白川沿いの小道では、一時期撤去されていた水車稲荷がリニューアルされて戻っていた。よかった。なんだかホッとした。
舞囃子《国栖・天地之聲》浦田保親
左鴻泰弘 林吉兵衛 社中の方 前川光長
地謡 浦田保浩 林宗一郎
河村和貴 河村和晃
番囃子《大原御幸》片山九郎右衛門
後白河法皇 浦田保親
阿波内侍 片山伸吾
大納言局 林宗一郎
万里小路中納言 江崎欽次朗
杉市和 成田達志 社中の方
地頭 片山九郎右衛門
地謡 宮本茂樹 河村和貴 河村和晃
番外一調 浦田保浩×谷口正壽
舞囃子《卒都婆小町》橋本雅夫
杉市和 林吉兵衛 社中の方
又三郎 保浩 保親 茂樹
舞囃子《夕顔 法味之傳》片山伸吾
杉市和 成田達志 社中の方
九郎右衛門 宗一郎 茂樹 和貴
居囃子《小鍛冶 重キ黒頭》
杉市和 成田達志 社中の方 前川光長
九郎右衛門 保親 伸吾 宗一郎
独調《熊坂》林宗一郎
《花月》浦田保親
《杜若》片山九郎右衛門
《鉄輪》浦田保浩
番外舞囃子《融》林宗一郎
左鴻泰弘 成田奏 渡部諭 前川光長
橋本雅夫 片山伸吾 河村和貴 和晃
ほか、素囃子、居囃子、別習一調など多数。
私イチオシの大鼓方・谷口正壽さんの社中会。成田達志さん、奏さんと、大好きな囃子方ファミリーが勢ぞろいした、とてもいい会でした。
社中の方々も、大鼓を打つときの姿勢とフォームが美しく、音色もきれい。若い男性も多く、皆さん、お師匠様に似て覇気があり、雰囲気がプロっぽい。金剛流の居囃子《巻絹》で惣神楽を打たれた方、《小鍛冶・重キ黒頭》・《花月》の方、独調を打った方など凄いお弟子さんが多かった。
ハイライトは番囃子《大原御幸》。
昨年の舞台でもっとも感動した梅若万三郎師の《大原御幸》。あのときの谷口正壽さんの大鼓も素晴らしかった。音色と掛け声によって閑寂な気配がいっそう際立ち、山里のうら寂しく澄んだ空気や鬱蒼と生い茂る新緑の香りが漂ってくるような、心に残る名演奏だった。
舞がなく、謡専用とされてきた《大原御幸》は番囃子に打ってつけ。この日の番囃子を聴いていると、ヴィジュアルに頼らず聴覚だけに集中したほうが、謡と語りが生み出す物語の世界がより鮮明にイメージできるようにも思えてくる。
とりわけ、シテ兼地頭の九郎右衛門さんの描写力は圧巻だった。
「昨日も過ぎ、今日もむなしく暮れなんとす」と、まるで堂々巡りのような、時間の感覚が麻痺するほどの単調で平穏な日常に埋没することで、過去の記憶を封印し、ひたすら目の前の単純な作業に没頭してきた建礼門院の姿が浮かび上がる。
その静かな水面が、ある日突然、上皇の御幸によってかき乱され、固く塗りこめていた忌まわしい記憶が強制的に呼び覚まされる。
クライマックスの入水の場面。
「十念の御為に西に向かはせおはしまし」では、目を閉じて合掌した幼帝のまぶたの裏に映る、西方極楽浄土のまばゆく輝く黄金の光がサーッと射してくるのが見えた。
「今ぞ……知る……」と、ゆっくり引き延ばされた謡によって、カメラが大きくズームインするように、祖母に抱かれて舟の舳先に立つ安徳天皇の入水直前の姿が大きく写し出される。
「御裳濯川の流れには」から、川の奔流のような勢いのある謡に変わり、激流のように流れたかと思うと、「みずからも続いて沈みしを」より、「動」の謡から一転、「静」の謡へと変化し、すべてを失い、ひとり生き長らえた建礼門院の屈辱と悔恨と深い悲しみがあたりに沈澱する。
最後のシテの謡「女院は柴の戸に」は、か細く後を引くように余韻を漂わせ、その声の先に、山里からしずしずと去り、小さく遠ざかる上皇一行の影が目に見えるようだった。
舞囃子《卒都婆小町》
橋本雅夫師の舞ははじめて拝見する。と思ったら、以前に仕舞を拝見したことがあった。そのときは印象に残らなかったけれど、この《卒都婆小町》はよかった。とくに「あら苦しや、目まひや」と、扇で胸をおさえて苦しそうにする型。無駄な力を抜きつつも、的確な表現力はベテランならではの味わい。
独調《杜若》
九郎右衛門さんの《杜若》の謡を拝聴するのはこれで二度目。前回は、高槻明月能での太鼓方・石井敬介さんとの一調。そのときは、ホール能だったのでマイクを通してだったし、プロ同士のいわば対決のようなものだったけれど、今回はお素人との共演だからか、どことなく、やわらかい優しさがある。
清流のように澄んだ声。初夏の花らしい、みずみずしい生命力のある謡だった。
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本家玉壽軒の「かきつばた」 |
番外舞囃子《融》
やっぱり、関西のお囃子っていいな。
特別感のある色紋付に着替えた宗一郎さん。貴公子然とした物腰が《融》にぴったり。「あっ!」と思ったのは、林喜右衛門師に似てきたこと。
全体的な雰囲気はもとより、扇の扱いも、間の取り方も……喜右衛門師の舞を観た時に感じた、ゆったりした品格が匂いたつ。以前はシャープなキレの良さが魅力的な宗一郎さんだったが、そこからさらに芸格を上げて、御父上の芸にぐっと近づいた気がする。
名家の当主になるって凄いことだ。
それまで身体の奥底でそっと熟成されてきた先人の教えが、その立場になった時に、一気に芳醇な香りを放つような、時分の花ではないほんとうの花が開きつつあるような、そんな印象を受けた。「地位が人をつくる」というけれど、まさにそういうことかもしれない。
![]() |
リニューアルされた水車稲荷 |
2019年2月4日月曜日
舞台芸術としての《鷹姫》後場~ロームシアター京都
2019年2月3日(日)14時~16時20分 ロームシアター京都
第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
岩 浅井文義 河村和重 味方玄
浦田保親 吉浪壽晃 片山伸吾
分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 林宗一郎
第二部 ディスカッション
観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄
舞台監督:前原和比古、照明:宮島靖和
空間設計:ドットアーキテクツ
《鷹姫》前場:舞台芸術としての伝統芸能からのつづき
前半では、動きが抑制された「静」の場面が展開したが、クライマックスはダイナミックで華やかな「動」の世界。そこからエンディングに向けて、枯渇、死、そして虚無の世界へと向かっていく。
このメリハリのきいた舞台展開、舞台美術・照明と、能の芸の技の組み合わせは見事だった。
【空賦麟と鷹姫の闘い】
老人が去り、鷹姫と二人きりになった空賦麟。
岩「空賦麟は鷹を見つ」
空賦麟の視線を感じた鷹姫は、袖を巻いて大きく羽ばたき、空賦麟に挑みかかる。空賦麟は剣で応戦。
ここから、鷹姫と空賦麟の一騎打ちに━━。
九郎右衛門さんの両袖を激しく巻く所作は、猛禽類の羽ばたきそのもの。
おそらく喜多流の新作能《鶴》のように、舞衣の袖を長く着付けたのではないだろうか。通常の袖よりも幅広で長い袖を巧みにひるがえす。
袖を巻くタイミングも速度も絶妙だった。
けっして形態模写をしているわけではなく、能の品格と舞のような美しさを備えつつ、美しい女の顔をしたセイレーンのような「怪鳥のイデア」を体現している。
バタバタッと翼で襲いかかる鷹姫に、必死で抗戦していた空賦麟だが、やがてその妖力に負けて、寝入ってしまう。
【湧き出る泉の水→急ノ舞】
そのとき、岩たちが呪文を唱えはじめた。
あたさらさまらききりさや…ききりさやおん、かからさやうん
水よ、水よ水よ、水よ水よ水よ
正先の岩に囲まれた泉から、スモークがもくもく立ちのぼり、ゴボゴボッゴボッと、水が湧く効果音が聞こえてくる。
正先に駆け寄り、泉をのぞく鷹姫。
泉の奥から光があふれ、鷹姫の顔を照らす。ライトアップされたその顔は、神々しいまでに輝き、光を放つ不死の水と共鳴していた。
扇で水を汲む所作をした鷹姫は、「しめしめ」とばかりに、霊水を手にした歓びの舞を舞う。
この急ノ舞風の舞は、《紅葉狩》で維茂が寝入るのを見届けた鬼女が急ノ舞を舞うところから着想を得たのかもしれない。
【持ち去られた不死の水】
急ノ舞の終わりころ、鷹姫はポンッと大きく拍子を踏み、空賦麟にかけた魔法を解く。
ハッと目覚めた空賦麟は、不死の水を手にした鷹姫を必死で追いかけてゆく。
鷹姫は、舞台奥の急斜面のスロープを身軽な身のこなしで駆けあがり、魔の山へと飛翔しながら消えていった。
ここの魔術的な飛翔の表現と、それを見事にこなした九郎右衛門さんの身体能力は「ブラヴォー!」のひと言に尽きる。
面をかけたほとんど見えない状態の縫箔腰巻姿で、あの急斜面を一気に、しかも、この上なく美しく、妖気を漂わせながら駆け上っていくなんて!
鷹姫を逃した空賦麟は、正先へ駆け戻り、水を求めて泉をのぞく。
しかし、泉のなかは空っぽ。
もはや不死の水が放つ光は消え、またもとの涸れた泉があるだけだった。
精魂尽き果てたように、愕然と安座する空賦麟。
(空賦麟役の宝生欣哉さんが凄かったのは、このがっくり安座した状態から終演まで、ずーっと長いあいだ不動のままだったこと。おそらく瞬きもほとんどしなかったと思う。)
【幽鬼(老人)の登場→終幕】
するとそこへ、不死の水への妄執ゆえに幽鬼となった老人が現れる。
出立は前場と同じ着流、白い縒水衣の下に金色の法被を着ていて、さりげなくゴージャス。髪は前と同じく結わない尉髪。手には鹿背杖。
面は、重荷悪尉? 鷲鼻で額には深い皺が刻まれ、怨念のこもった恐ろしい形相をしている。
老人「いかに空賦麟、さても得たるか泉の水…」
怨念のこもった暗い情念のメラメラとした燃やし方などは、銕之丞さんの持ち味が生きていた。執念渦巻く、どす黒く、よろよろした立ち廻りがリアル。悪尉の面の雰囲気とも凄くあっている。まさに、はまり役。
最後は、老人(幽鬼)が下居して岩と化す。
鹿背杖を空賦麟に手渡し、今度は空賦麟が泉の水が湧くのを待ち続けながら老いてゆくことを暗示して終幕。
(ふつうの能舞台と同様、老人、空賦麟、岩たちの順に舞台袖へと帰っていくのだけれど、ここは、通常の舞台演劇のようにサッと幕を下ろしたほうがドラマティックだったかも。)
《鷹姫》裏話ディスカッションへ続く
追記:原作との違い
《鷹姫》の上演を見て感じた、イェイツの戯曲"At the Hawk's Well"との主な違いは以下のとおり。
(1)three musicians(3人の楽人たち)と岩(コロス)
"At the Hawk's Well"では地謡と囃子方を兼ねたthree musicians(仮面のようなメーキャップを施している)が登場する。いっぽう《鷹姫》では、ギリシャ仮面劇から想を得たコロスが登場する。能へのコロスの導入は画期的。
(2)主人公の違い
"At the Hawk's Well"ではクー・フーリンが主人公に想定されているが、《鷹姫》では老人or鷹姫がシテに設定されている。
(3)鷹姫のキャラクターの違い
"At the Hawk's Well"では、泉を守る少女に、山の魑魅Sidheが取り憑いて、老人と若者に呪いをかける。だが、《鷹姫》では鷹姫は最初から魔物として登場する。
(4)結末の違い
"At the Hawk's Well"では、泉の水が得られなかったクー・フーリンは、老人を残してさっさと立ち去ってゆく(イェイツの連作へとつながっていく)が、《鷹姫》では、空賦麟が老人と同じ運命をたどることが暗示される。
イェイツの戯曲では欧米の他の作品と同じく、直線的な構造をしているのに対し、《鷹姫》は、禅竹作品に見られるような円環構造を示している。西洋と日本の世界観の違いが反映されているようで面白い。
(5)hazelと榛(はり)の違い
"At the Hawk's Well"では、葉の抜け落ちたhazel(榛:ハシバミ)の根元に泉があることになっている。それに対して、《鷹姫》では、榛(はり)の小林の根元に泉がある設定。榛(はり)はハンノキの古名で、ハンノキは英語でalderという。
おそらく"At the Hawk's Well"の邦訳で「榛(はしばみ)」とされていたのを、能の詞章を書く際に、「榛(はり)」と読み間違えてしまったからだと思う。
イェイツが、葉の抜け落ちたhazel(ハシバミ)の根元に、不死の水が湧く泉があるという設定にしたのには意味があると思う。
ハシバミは、ドルイド僧が儀式を行う際に用いた樹木のひとつであり、ハシバミの実は「知恵の実」とされた。また、古代ケルトではハシバミの枝は、水脈・鉱脈を探るダウジングに用いられた。不死の水の水脈を探るハシバミの枝。だが、そのハシバミの木は枯れかけている。
涸れた泉、枯れた聖木、荒涼とした絶海の孤島。
魔力と呪いが支配するこの島では、「知恵の実」は永久に実ることはない。
不毛と虚無の島。
それが、イェイツが描こうとした「鷹の泉にて」の舞台なのかもしれない。
第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
岩 浅井文義 河村和重 味方玄
浦田保親 吉浪壽晃 片山伸吾
分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 林宗一郎
第二部 ディスカッション
観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄
舞台監督:前原和比古、照明:宮島靖和
空間設計:ドットアーキテクツ
《鷹姫》前場:舞台芸術としての伝統芸能からのつづき
前半では、動きが抑制された「静」の場面が展開したが、クライマックスはダイナミックで華やかな「動」の世界。そこからエンディングに向けて、枯渇、死、そして虚無の世界へと向かっていく。
このメリハリのきいた舞台展開、舞台美術・照明と、能の芸の技の組み合わせは見事だった。
【空賦麟と鷹姫の闘い】
老人が去り、鷹姫と二人きりになった空賦麟。
岩「空賦麟は鷹を見つ」
空賦麟の視線を感じた鷹姫は、袖を巻いて大きく羽ばたき、空賦麟に挑みかかる。空賦麟は剣で応戦。
ここから、鷹姫と空賦麟の一騎打ちに━━。
九郎右衛門さんの両袖を激しく巻く所作は、猛禽類の羽ばたきそのもの。
おそらく喜多流の新作能《鶴》のように、舞衣の袖を長く着付けたのではないだろうか。通常の袖よりも幅広で長い袖を巧みにひるがえす。
袖を巻くタイミングも速度も絶妙だった。
けっして形態模写をしているわけではなく、能の品格と舞のような美しさを備えつつ、美しい女の顔をしたセイレーンのような「怪鳥のイデア」を体現している。
バタバタッと翼で襲いかかる鷹姫に、必死で抗戦していた空賦麟だが、やがてその妖力に負けて、寝入ってしまう。
【湧き出る泉の水→急ノ舞】
そのとき、岩たちが呪文を唱えはじめた。
あたさらさまらききりさや…ききりさやおん、かからさやうん
水よ、水よ水よ、水よ水よ水よ
正先の岩に囲まれた泉から、スモークがもくもく立ちのぼり、ゴボゴボッゴボッと、水が湧く効果音が聞こえてくる。
正先に駆け寄り、泉をのぞく鷹姫。
泉の奥から光があふれ、鷹姫の顔を照らす。ライトアップされたその顔は、神々しいまでに輝き、光を放つ不死の水と共鳴していた。
扇で水を汲む所作をした鷹姫は、「しめしめ」とばかりに、霊水を手にした歓びの舞を舞う。
この急ノ舞風の舞は、《紅葉狩》で維茂が寝入るのを見届けた鬼女が急ノ舞を舞うところから着想を得たのかもしれない。
【持ち去られた不死の水】
急ノ舞の終わりころ、鷹姫はポンッと大きく拍子を踏み、空賦麟にかけた魔法を解く。
ハッと目覚めた空賦麟は、不死の水を手にした鷹姫を必死で追いかけてゆく。
鷹姫は、舞台奥の急斜面のスロープを身軽な身のこなしで駆けあがり、魔の山へと飛翔しながら消えていった。
ここの魔術的な飛翔の表現と、それを見事にこなした九郎右衛門さんの身体能力は「ブラヴォー!」のひと言に尽きる。
面をかけたほとんど見えない状態の縫箔腰巻姿で、あの急斜面を一気に、しかも、この上なく美しく、妖気を漂わせながら駆け上っていくなんて!
鷹姫を逃した空賦麟は、正先へ駆け戻り、水を求めて泉をのぞく。
しかし、泉のなかは空っぽ。
もはや不死の水が放つ光は消え、またもとの涸れた泉があるだけだった。
精魂尽き果てたように、愕然と安座する空賦麟。
(空賦麟役の宝生欣哉さんが凄かったのは、このがっくり安座した状態から終演まで、ずーっと長いあいだ不動のままだったこと。おそらく瞬きもほとんどしなかったと思う。)
【幽鬼(老人)の登場→終幕】
するとそこへ、不死の水への妄執ゆえに幽鬼となった老人が現れる。
出立は前場と同じ着流、白い縒水衣の下に金色の法被を着ていて、さりげなくゴージャス。髪は前と同じく結わない尉髪。手には鹿背杖。
面は、重荷悪尉? 鷲鼻で額には深い皺が刻まれ、怨念のこもった恐ろしい形相をしている。
老人「いかに空賦麟、さても得たるか泉の水…」
怨念のこもった暗い情念のメラメラとした燃やし方などは、銕之丞さんの持ち味が生きていた。執念渦巻く、どす黒く、よろよろした立ち廻りがリアル。悪尉の面の雰囲気とも凄くあっている。まさに、はまり役。
最後は、老人(幽鬼)が下居して岩と化す。
鹿背杖を空賦麟に手渡し、今度は空賦麟が泉の水が湧くのを待ち続けながら老いてゆくことを暗示して終幕。
(ふつうの能舞台と同様、老人、空賦麟、岩たちの順に舞台袖へと帰っていくのだけれど、ここは、通常の舞台演劇のようにサッと幕を下ろしたほうがドラマティックだったかも。)
《鷹姫》裏話ディスカッションへ続く
追記:原作との違い
《鷹姫》の上演を見て感じた、イェイツの戯曲"At the Hawk's Well"との主な違いは以下のとおり。
(1)three musicians(3人の楽人たち)と岩(コロス)
"At the Hawk's Well"では地謡と囃子方を兼ねたthree musicians(仮面のようなメーキャップを施している)が登場する。いっぽう《鷹姫》では、ギリシャ仮面劇から想を得たコロスが登場する。能へのコロスの導入は画期的。
(2)主人公の違い
"At the Hawk's Well"ではクー・フーリンが主人公に想定されているが、《鷹姫》では老人or鷹姫がシテに設定されている。
(3)鷹姫のキャラクターの違い
"At the Hawk's Well"では、泉を守る少女に、山の魑魅Sidheが取り憑いて、老人と若者に呪いをかける。だが、《鷹姫》では鷹姫は最初から魔物として登場する。
(4)結末の違い
"At the Hawk's Well"では、泉の水が得られなかったクー・フーリンは、老人を残してさっさと立ち去ってゆく(イェイツの連作へとつながっていく)が、《鷹姫》では、空賦麟が老人と同じ運命をたどることが暗示される。
イェイツの戯曲では欧米の他の作品と同じく、直線的な構造をしているのに対し、《鷹姫》は、禅竹作品に見られるような円環構造を示している。西洋と日本の世界観の違いが反映されているようで面白い。
(5)hazelと榛(はり)の違い
"At the Hawk's Well"では、葉の抜け落ちたhazel(榛:ハシバミ)の根元に泉があることになっている。それに対して、《鷹姫》では、榛(はり)の小林の根元に泉がある設定。榛(はり)はハンノキの古名で、ハンノキは英語でalderという。
おそらく"At the Hawk's Well"の邦訳で「榛(はしばみ)」とされていたのを、能の詞章を書く際に、「榛(はり)」と読み間違えてしまったからだと思う。
イェイツが、葉の抜け落ちたhazel(ハシバミ)の根元に、不死の水が湧く泉があるという設定にしたのには意味があると思う。
ハシバミは、ドルイド僧が儀式を行う際に用いた樹木のひとつであり、ハシバミの実は「知恵の実」とされた。また、古代ケルトではハシバミの枝は、水脈・鉱脈を探るダウジングに用いられた。不死の水の水脈を探るハシバミの枝。だが、そのハシバミの木は枯れかけている。
涸れた泉、枯れた聖木、荒涼とした絶海の孤島。
魔力と呪いが支配するこの島では、「知恵の実」は永久に実ることはない。
不毛と虚無の島。
それが、イェイツが描こうとした「鷹の泉にて」の舞台なのかもしれない。
《鷹姫》前場~舞台芸術としての伝統芸能Vol.2
2019年2月3日(日)14時~16時10分 ロームシアター京都
第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
岩 浅井文義 河村和重 味方玄
浦田保親 吉浪壽晃 片山伸吾
分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 林宗一郎
第二部 ディスカッション
観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄
舞台監督:前原和比古、照明:宮島靖和
空間設計:ドットアーキテクツ
ひと言でいうと、ときめく舞台だった。
鷹姫、空賦麟、老人ともにかねてから観たかった配役。通常《鷹姫》では老人がシテになる場合が多いが、今回はおそらく鷹姫がシテに設定されていたのではないだろうか。
「舞台芸術としての伝統芸能」というタイトルどおり、劇場空間を効果的に使った空間設計・美術・照明・音響効果を駆使した演出が施され、結果的に、能の伝統技術と現代の舞台技術が融合した幻想的な《鷹姫》となった。
とくに後場のクライマックスには「あっ!」と思わせる演出が用意され、今でもあの時の胸の高まりが続いている。
【無の世界から異界へ】
通常とは異なるお調べ。
お調べがすむと、照明がいっせいに消えた。
舞台と客席は、漆黒の闇と完全なる静寂に支配され、視覚も聴覚も剥ぎ取られた観客は、いきなり「無」の世界へ突き落とされる。
やがて、どこからか風の吹きすさぶ音が聴こえてくる。
照明が少しずつ灯り、薄明りのなかに、いくつもの影が立ちのぼる。
青灰色の頭巾に烏天狗のような顔半分の面、黒水衣・大口姿の岩(コロス)たちが舞台に散らばり、その奥の台の上に、ひとりの女の姿が見える。
鷹姫だ。
台上に座る彼女の背後には「魔の山」を模した高いスロープがせり上がっている。
彼女の扮装は、前だけ壺折風に着た紅地舞衣、黒地紋尽し縫箔腰巻、鱗文の摺箔着付に鱗文の鬘帯。
面はもしかすると、女王メディア用に「泥眼」と「増」の中間くらいの女面として観世寿夫が作らせたという、あの能面かもしれない。
ガラスのようにうつろな目。
それは、原作"At the Hawk's Well"でイェイツが描写した"You had that glassy look about the eyes last time it happened."に呼応する。
泉から水が湧く時、鷹姫はガラスのように生気のない、うつろな目をするらしい。
感情を排したその無表情さは、増と泥眼を組み合わせた女面の独特の雰囲気にも由来するが、それだけではなかった。
いくつかの特別な機会をのぞいて、シテ(片山九郎右衛門)は面遣いをほとんどしない。面をまったく動かさないことで、冷たく、生気のない鷹姫の神秘性が増幅されていた。
そのガラスのように無機質で感情のない鷹姫の顔のなかで、くちびるだけがあざやかな紅を帯び、そのことがゾクッとするような妖艶さを感じさせる(*追記)。
【舟の到着・老人の登場】
〈次第〉のように岩(コロス)は謡う。
「いづみは古く涸れ果てて、榛の小林、風寒」
地取り風に低い声で次第が繰り返されると、岩1が彼方を指さし、こう叫ぶ。
「見よ! あなたの磯べを、小さき帆舟の汀に着くぞや」
後半のディスカッションでも岩(コロス)の重要性が語られていたけれど、たしかに、岩の役は舞台の成否を握る鍵のひとつだと思う。
能にはない芝居風のセリフまわしや、的確なフォーメーションでの移動・配置転換、通常の囃子や地謡とは異なる音の世界での謡い出し・間合いなど、難所をあげるときりがない。
この日は、地頭の浅井文義さんをはじめ京都観世会の方々が、舞台の空気、劇的緊張と緊迫感、静から動への移り変わりを「動く大道具」「謡う大道具」となって表現していた。
やがて老人が、下手寄り奥の岩間から現れる。
面は、三光尉だろうか?
着流に茶水衣、結わずに垂らした尉髪。鹿背杖を突いている。
老人は鷹姫に言う。
「乙女よ、いかなれば物言わぬぞ。…思ひぞ出づる昔の秋…我を見つめ居たりしよのう…」
若き日、老人は鷹姫のうつろな瞳に魅入られ、鷹姫(=鷹の泉)の虜になり、以来、五十年、いや百年、いいや千年、泉に見入り、水が湧き出るのを待っていた。
(ということは、泉の水を飲まなくても、めっちゃ長寿やん?)
そして今、呪いの輪廻が繰り返される……。
【空賦麟の登場】
とつぜん、舞台袖から声がして、若き王子が現れる。
波斯国から海を渡ってやって来た空賦麟。
その出立は、直面、長範頭巾に似た異国風の頭巾、紋大口、法被、側次、手には剣。
ペルシャの王子らしく、どの装束にも金箔がふんだんに施され、全体的にきらびやかな印象。
腰帯には、インド神話の武器でもあった金剛杵があしらわれている。
ここから老人と空賦麟の問答が続くのだが、その間、舞台奥の台上の鷹姫は微動だにしない。登場以来、一言も発さず、彫像のように不動のまま、ガラスのような目でそこに存在している。
感情もなく、生気もないのに、なにか得体の知れない存在感、この世のものでないオーラを放っている。
【鷹姫の舞と老人の中入】
その時━━。
ピイッと笛が鳴り(鷹姫の鳴き声)、鷹姫が下居のまま袖をひるがえす。
空賦麟「やあ、鷹が鳴く、鷹はいづくぞ?」
老人「鷹にはあらず、その鷹こそ山のすだま(魑魅)…人を惑わし、人を誘い、人の破滅を待つ魔性ぞ!」
台(岩山)から下りた鷹姫は、空賦麟を凝視する。
この時、はじめてシテは面を遣い、鷹姫は妖気を放ちながら、燃えるようなまなざしで空賦麟を見つめる。空賦麟は鷹姫の魔力に魅入られ、吸い寄せられてゆく。
ここは九郎右衛門さんと欣哉さんの視線のマジック。魔物の妖しい魔力と、魔物に魅入られ、呪いをかけられた者のエネルギーの交歓が伝わってくる。
鷹姫は、腑抜けのようになった空賦麟から離れると、今度は老人に向かい、その謎めいた視線で老人に迫る。
原作には"There falls a curse on all who have gazed in her unmoistened eyes"とあり、鷹姫の乾いた目(泉の比喩だろうか?)を見つめた者は必ず呪いをかけられるという。
なので、ここは、鷹姫が空賦麟と老人に呪いをかける場面と思われるが、泉鏡花の『高野聖』に登場する美しい女と、獣に変身させられた男たちを思わせるシーンでもあった。
鷹姫はイロエのような囃子で舞台をめぐり、老人は、島を去るよう空賦麟に言い残して、岩間の蔭に消えてゆく(中入)。
《鷹姫》後場につづく
*追記
イェイツはクー・フーリンを主人公にした劇をいくつか書いており、"At the Hawk's Well"の続編"The Only Jealousy of Emer"(エマーのただ一度の嫉妬)では、鷹姫と同一人物と思われる妖精の女がクー・フーリンを誘惑する。
この日の鷹姫は、イェイツの続編を予告するような妖艶さを垣間見せた。
"
第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
岩 浅井文義 河村和重 味方玄
浦田保親 吉浪壽晃 片山伸吾
分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 林宗一郎
第二部 ディスカッション
観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄
舞台監督:前原和比古、照明:宮島靖和
空間設計:ドットアーキテクツ
ひと言でいうと、ときめく舞台だった。
鷹姫、空賦麟、老人ともにかねてから観たかった配役。通常《鷹姫》では老人がシテになる場合が多いが、今回はおそらく鷹姫がシテに設定されていたのではないだろうか。
「舞台芸術としての伝統芸能」というタイトルどおり、劇場空間を効果的に使った空間設計・美術・照明・音響効果を駆使した演出が施され、結果的に、能の伝統技術と現代の舞台技術が融合した幻想的な《鷹姫》となった。
とくに後場のクライマックスには「あっ!」と思わせる演出が用意され、今でもあの時の胸の高まりが続いている。
【無の世界から異界へ】
通常とは異なるお調べ。
お調べがすむと、照明がいっせいに消えた。
舞台と客席は、漆黒の闇と完全なる静寂に支配され、視覚も聴覚も剥ぎ取られた観客は、いきなり「無」の世界へ突き落とされる。
やがて、どこからか風の吹きすさぶ音が聴こえてくる。
照明が少しずつ灯り、薄明りのなかに、いくつもの影が立ちのぼる。
青灰色の頭巾に烏天狗のような顔半分の面、黒水衣・大口姿の岩(コロス)たちが舞台に散らばり、その奥の台の上に、ひとりの女の姿が見える。
鷹姫だ。
台上に座る彼女の背後には「魔の山」を模した高いスロープがせり上がっている。
彼女の扮装は、前だけ壺折風に着た紅地舞衣、黒地紋尽し縫箔腰巻、鱗文の摺箔着付に鱗文の鬘帯。
面はもしかすると、女王メディア用に「泥眼」と「増」の中間くらいの女面として観世寿夫が作らせたという、あの能面かもしれない。
ガラスのようにうつろな目。
それは、原作"At the Hawk's Well"でイェイツが描写した"You had that glassy look about the eyes last time it happened."に呼応する。
泉から水が湧く時、鷹姫はガラスのように生気のない、うつろな目をするらしい。
感情を排したその無表情さは、増と泥眼を組み合わせた女面の独特の雰囲気にも由来するが、それだけではなかった。
いくつかの特別な機会をのぞいて、シテ(片山九郎右衛門)は面遣いをほとんどしない。面をまったく動かさないことで、冷たく、生気のない鷹姫の神秘性が増幅されていた。
そのガラスのように無機質で感情のない鷹姫の顔のなかで、くちびるだけがあざやかな紅を帯び、そのことがゾクッとするような妖艶さを感じさせる(*追記)。
【舟の到着・老人の登場】
〈次第〉のように岩(コロス)は謡う。
「いづみは古く涸れ果てて、榛の小林、風寒」
地取り風に低い声で次第が繰り返されると、岩1が彼方を指さし、こう叫ぶ。
「見よ! あなたの磯べを、小さき帆舟の汀に着くぞや」
後半のディスカッションでも岩(コロス)の重要性が語られていたけれど、たしかに、岩の役は舞台の成否を握る鍵のひとつだと思う。
能にはない芝居風のセリフまわしや、的確なフォーメーションでの移動・配置転換、通常の囃子や地謡とは異なる音の世界での謡い出し・間合いなど、難所をあげるときりがない。
この日は、地頭の浅井文義さんをはじめ京都観世会の方々が、舞台の空気、劇的緊張と緊迫感、静から動への移り変わりを「動く大道具」「謡う大道具」となって表現していた。
やがて老人が、下手寄り奥の岩間から現れる。
面は、三光尉だろうか?
着流に茶水衣、結わずに垂らした尉髪。鹿背杖を突いている。
老人は鷹姫に言う。
「乙女よ、いかなれば物言わぬぞ。…思ひぞ出づる昔の秋…我を見つめ居たりしよのう…」
若き日、老人は鷹姫のうつろな瞳に魅入られ、鷹姫(=鷹の泉)の虜になり、以来、五十年、いや百年、いいや千年、泉に見入り、水が湧き出るのを待っていた。
(ということは、泉の水を飲まなくても、めっちゃ長寿やん?)
そして今、呪いの輪廻が繰り返される……。
【空賦麟の登場】
とつぜん、舞台袖から声がして、若き王子が現れる。
波斯国から海を渡ってやって来た空賦麟。
その出立は、直面、長範頭巾に似た異国風の頭巾、紋大口、法被、側次、手には剣。
ペルシャの王子らしく、どの装束にも金箔がふんだんに施され、全体的にきらびやかな印象。
腰帯には、インド神話の武器でもあった金剛杵があしらわれている。
ここから老人と空賦麟の問答が続くのだが、その間、舞台奥の台上の鷹姫は微動だにしない。登場以来、一言も発さず、彫像のように不動のまま、ガラスのような目でそこに存在している。
感情もなく、生気もないのに、なにか得体の知れない存在感、この世のものでないオーラを放っている。
【鷹姫の舞と老人の中入】
その時━━。
ピイッと笛が鳴り(鷹姫の鳴き声)、鷹姫が下居のまま袖をひるがえす。
空賦麟「やあ、鷹が鳴く、鷹はいづくぞ?」
老人「鷹にはあらず、その鷹こそ山のすだま(魑魅)…人を惑わし、人を誘い、人の破滅を待つ魔性ぞ!」
台(岩山)から下りた鷹姫は、空賦麟を凝視する。
この時、はじめてシテは面を遣い、鷹姫は妖気を放ちながら、燃えるようなまなざしで空賦麟を見つめる。空賦麟は鷹姫の魔力に魅入られ、吸い寄せられてゆく。
ここは九郎右衛門さんと欣哉さんの視線のマジック。魔物の妖しい魔力と、魔物に魅入られ、呪いをかけられた者のエネルギーの交歓が伝わってくる。
鷹姫は、腑抜けのようになった空賦麟から離れると、今度は老人に向かい、その謎めいた視線で老人に迫る。
原作には"There falls a curse on all who have gazed in her unmoistened eyes"とあり、鷹姫の乾いた目(泉の比喩だろうか?)を見つめた者は必ず呪いをかけられるという。
なので、ここは、鷹姫が空賦麟と老人に呪いをかける場面と思われるが、泉鏡花の『高野聖』に登場する美しい女と、獣に変身させられた男たちを思わせるシーンでもあった。
鷹姫はイロエのような囃子で舞台をめぐり、老人は、島を去るよう空賦麟に言い残して、岩間の蔭に消えてゆく(中入)。
《鷹姫》後場につづく
*追記
イェイツはクー・フーリンを主人公にした劇をいくつか書いており、"At the Hawk's Well"の続編"The Only Jealousy of Emer"(エマーのただ一度の嫉妬)では、鷹姫と同一人物と思われる妖精の女がクー・フーリンを誘惑する。
この日の鷹姫は、イェイツの続編を予告するような妖艶さを垣間見せた。
"
2019年1月23日水曜日
片山九郎右衛門の《東北》~京都能楽養成会研究公演
2019年1月21日(月)17時30分~20時20分 京都観世会館
京都能楽養成会研究公演・舞囃子三番からのつづき
能《東北》シテ 片山九郎右衛門
ワキ 宝生欣哉
アイ 茂山千五郎
杉市和 吉阪一郎 河村凛太郎
後見 大江信行 梅田嘉宏
地謡 味方玄 橋本忠樹 河村和貴
河村和晃 大江広祐 樹下千慧
大寒を迎えた京都の夜。
冷たい空気が静寂を深め、森閑とした能舞台で、演者も観客もいつも以上に感覚が研ぎ澄まされる。夜は、夢の世界がしみこむ時間、夢とうつつのはざまの時間。この舞台を夜能で拝見できてよかった。
【前場】
旅の僧が、東国から花の都にやってくる。
欣哉さんの道行は、姿そのものが詩的で、こちらの想像力をかきたてる。多くの名脇役がそうであるように、いわくありげな影をまとう。なにか過去のありそうな、漂泊の僧。
この僧だからこそ、亡者と魂が共鳴し、女の霊が彼の前に現れたのだろう。そう思わせるだけの雰囲気を、欣哉さんの旅僧は醸している。
前場では、シテの声が印象的だった。
「な~う、な~う」という幕のなかからの声。
これがなんとも、色っぽい。
こんなに色っぽい九郎右衛門さんの声を聞いたのは初めてかもしれない。先日、舞妓さんの舞で聞いた地方さんの艶っぽい声を思い出す。
とはいえ、女性の声音を真似ているのではなく、あくまでお能の発声法に則った呼掛の声、れっきとした深みのある男性の声だ。それなのに熟した果実のような、豊潤なみずみずしさがある。
【後場】
河村凛太郎さんの小鼓が、鬘物の一声の囃子らしい繊細な音色。後シテの出の空気を醸成する。
シテの出立は緋大口に紫長絹。
長絹の文様は、たなびく霞を抽象化したような横のラインがいくつも入ったシンプルなデザイン。紫の地色もほどよく褪色して暗灰色に見え、春の夜のおぼろを能装束に仕立てたような風情がある。
そのおぼろな春の夜に、和泉式部の霊がふわり、ふわりと、袖をひるがえし、梅の香のような芳香をほのかに漂わせる。
序ノ舞の序を踏むときの、装束の裾からのぞく白い足。
白足袋を履いたその足がハッとするほど、なまめかしい。
芥川龍之介は桜間弓川のハコビを観て「あの足にさわってみたい欲望を感じた」と言ったが、名人の足というものは表現力がじつに豊かだ。
何がどう違うのか、具体的には分からないけれど、白足袋を履いた九郎右衛門さんの足は、たとえば、大天狗を演じた時と、貴公子を演じた時とでは違う。《東北》のような貴婦人の霊を演じた時の足は、狂女物の母親役の足とはまったく違う。
それは、女性の足というよりも、観念的に理想化された女の足であり、楚々とした聖性をもちつつも、この上なく官能的だ。これこそ、才色兼備の恋多き女としてイメージされる和泉式部の足だった。
序ノ舞で、官能的な足が向きを変えるとき、足そのものは少しも動かない(ように見える)。
まるで回転台に載っているように、不動のまま、90度、180度と、自由自在に身体の向きを変え、姿そのもの、動きそのものが、甘美な芸術品となって、観客を陶酔させていた。
シテが袖を翻すたびに、どこかで梅が一輪咲いて、春が近づいてくるようだった。
袖を巻き上げ、袖を返すたびに、甘い春の夜の香りが漂ってくるようだった。
終演後、能楽堂を出ると、空には明るく、大きな満月(スーパームーン)が出ていたのかもしれない。でも、わたしはそれにさえ気づかないほど、幸せな余韻に浸っていた。
京都能楽養成会研究公演・舞囃子三番からのつづき
能《東北》シテ 片山九郎右衛門
ワキ 宝生欣哉
アイ 茂山千五郎
杉市和 吉阪一郎 河村凛太郎
後見 大江信行 梅田嘉宏
地謡 味方玄 橋本忠樹 河村和貴
河村和晃 大江広祐 樹下千慧
大寒を迎えた京都の夜。
冷たい空気が静寂を深め、森閑とした能舞台で、演者も観客もいつも以上に感覚が研ぎ澄まされる。夜は、夢の世界がしみこむ時間、夢とうつつのはざまの時間。この舞台を夜能で拝見できてよかった。
【前場】
旅の僧が、東国から花の都にやってくる。
欣哉さんの道行は、姿そのものが詩的で、こちらの想像力をかきたてる。多くの名脇役がそうであるように、いわくありげな影をまとう。なにか過去のありそうな、漂泊の僧。
この僧だからこそ、亡者と魂が共鳴し、女の霊が彼の前に現れたのだろう。そう思わせるだけの雰囲気を、欣哉さんの旅僧は醸している。
前場では、シテの声が印象的だった。
「な~う、な~う」という幕のなかからの声。
これがなんとも、色っぽい。
こんなに色っぽい九郎右衛門さんの声を聞いたのは初めてかもしれない。先日、舞妓さんの舞で聞いた地方さんの艶っぽい声を思い出す。
とはいえ、女性の声音を真似ているのではなく、あくまでお能の発声法に則った呼掛の声、れっきとした深みのある男性の声だ。それなのに熟した果実のような、豊潤なみずみずしさがある。
【後場】
河村凛太郎さんの小鼓が、鬘物の一声の囃子らしい繊細な音色。後シテの出の空気を醸成する。
シテの出立は緋大口に紫長絹。
長絹の文様は、たなびく霞を抽象化したような横のラインがいくつも入ったシンプルなデザイン。紫の地色もほどよく褪色して暗灰色に見え、春の夜のおぼろを能装束に仕立てたような風情がある。
そのおぼろな春の夜に、和泉式部の霊がふわり、ふわりと、袖をひるがえし、梅の香のような芳香をほのかに漂わせる。
序ノ舞の序を踏むときの、装束の裾からのぞく白い足。
白足袋を履いたその足がハッとするほど、なまめかしい。
芥川龍之介は桜間弓川のハコビを観て「あの足にさわってみたい欲望を感じた」と言ったが、名人の足というものは表現力がじつに豊かだ。
何がどう違うのか、具体的には分からないけれど、白足袋を履いた九郎右衛門さんの足は、たとえば、大天狗を演じた時と、貴公子を演じた時とでは違う。《東北》のような貴婦人の霊を演じた時の足は、狂女物の母親役の足とはまったく違う。
それは、女性の足というよりも、観念的に理想化された女の足であり、楚々とした聖性をもちつつも、この上なく官能的だ。これこそ、才色兼備の恋多き女としてイメージされる和泉式部の足だった。
序ノ舞で、官能的な足が向きを変えるとき、足そのものは少しも動かない(ように見える)。
まるで回転台に載っているように、不動のまま、90度、180度と、自由自在に身体の向きを変え、姿そのもの、動きそのものが、甘美な芸術品となって、観客を陶酔させていた。
シテが袖を翻すたびに、どこかで梅が一輪咲いて、春が近づいてくるようだった。
袖を巻き上げ、袖を返すたびに、甘い春の夜の香りが漂ってくるようだった。
終演後、能楽堂を出ると、空には明るく、大きな満月(スーパームーン)が出ていたのかもしれない。でも、わたしはそれにさえ気づかないほど、幸せな余韻に浸っていた。
2019年1月15日火曜日
能《小鍛冶》と仕舞五番~京都観世会例会
2019年1月13日(日)11時~17時45分 京都観世会館
《難波・鞨鼓出之伝》 《羽衣・彩色之伝》からのつづき
仕舞《屋島》 浦田保浩
《野守》 杉浦豊彦
地謡 橋本雅夫 橋本礒道 味方團 浦田親良
仕舞《老松》 片山九郎右衛門
《東北》 井上裕久
《鞍馬天狗》林宗一郎
地謡 武田邦弘 牧野和夫
橋本擴三郎 宮本茂樹
能《小鍛冶》シテ童子/稲荷明神 深野貴彦
ワキ三条宗近 小林努 ワキツレ橘道成 原陸
アイ宗近ノ下人 山口耕道
森田保美 曽和鼓堂 河村眞之介 前川光範
後見 深野新次郎 河村晴久
地謡 浦田保親 越賀隆之 味方玄
浅井通昭 橋本光史 吉田篤史
松野浩行 河村和貴
東京と京都の見所の違いのひとつが、男性の着物率。女性の着物率はそう変わらないけれども、京都の見所では和装の男性が多い(初会だったからかな?)。
いわゆる旦那衆だろうか、仕事柄だろうか、それとも純粋に趣味で楽しむ方が多いのだろうか、とにかく着物をさらりと着こなしている殿方が少なくない。さすがは京の着倒れ、和服が板についている。
【仕舞五番】
名家の当主による仕舞は、いずれ菖蒲か杜若、といった風情。見応えがある。
杉浦豊彦さんの《野守》は気迫充実。今年一年に向けての意気込みが感じられる。来月例会の《源氏供養》がますます楽しみ。
九郎右衛門さんの《老松》
かぎりなく「不動」に近い、ゆっくりした動き。神さびた老松のおごそかさと、若い梢のあでやかさ。ほんの少しの動き、ほんの少しの所作のなかに、ほんのり艶のある美が宿っている。
来週の《東北》が待ち遠しい。ずっとあこがれていた九郎右衛門さんの鬘物。どうか、無事に拝見できますように。
林宗一郎さんの《鞍馬天狗》
宗一郎さんも坂口貴信さんと同じく、仕舞や舞囃子で観た時のほうが「おお、凄い!」と思うことが多い。この日の仕舞も素敵だった。
お能では、袖の扱いとか、舞台の空間認識とか、面装束を着けたうえでの表現力の自由さとか、そうした舞台経験を山ほど積まないと得られないような要素がプラスされるから、仕舞・舞囃子とのギャップは致し方ないのかもしれない。
袖の扱いといえば、この日上演された観世清和家元の《羽衣・彩色之伝》での袖の扱いが印象深かった。
それは、シテが序ノ舞の二段オロシで左袖を被いてしばし静止する際、袖が大きく前に垂れて、顔(能面)にかぶさってしまった時のことである。
通常、ほかのシテならば、被いた袖が顔(能面)の前に垂れ下がってしまっても、どうしようもできずに、そのまま静止していることが多い。
しかし清和家元は、袖のなかの左腕をグイッと勢いよく上に伸ばし、顔の前に垂れた袖を天冠の上まで高く引き上げ、美しい増の面を縁取るように袖をかぶせて、見事に、さりげなくポーズを決め直したのだった。
このリカバリーの見事さ、熟練の技に感じ入った。舞台経験が豊富でないとなかなかこうはいかない。さすがだ。
(正直言うと、袖を被いて静止している時間があまりにも長いので、長絹の袖が天冠に引っかかったのかと思ったほど。シテの腕がプルプル震えていたし。後見は気づかない様子で、こちらはハラハラしたけれど、実際のところはどうだったのだろう??)
能《小鍛冶》
最後の小鍛冶は、切能らしい盛り上がり。
深野貴彦さんの前シテの童子は神秘的で、きれいだったし、何よりもお囃子が冴えていた。
前川光範さんのバチさばきと掛け声はいつもながら精彩に富み、新年から絶好調。この方の太鼓が入ると、舞台が生き生きと躍動する。
他のお囃子ももちろんよかったし、地謡も攻めの謡で、おめでたく、華やかな舞台だった。
朝から晩までお能漬けで、豪華な初会、堪能しました。
《難波・鞨鼓出之伝》 《羽衣・彩色之伝》からのつづき
仕舞《屋島》 浦田保浩
《野守》 杉浦豊彦
地謡 橋本雅夫 橋本礒道 味方團 浦田親良
仕舞《老松》 片山九郎右衛門
《東北》 井上裕久
《鞍馬天狗》林宗一郎
地謡 武田邦弘 牧野和夫
橋本擴三郎 宮本茂樹
能《小鍛冶》シテ童子/稲荷明神 深野貴彦
ワキ三条宗近 小林努 ワキツレ橘道成 原陸
アイ宗近ノ下人 山口耕道
森田保美 曽和鼓堂 河村眞之介 前川光範
後見 深野新次郎 河村晴久
地謡 浦田保親 越賀隆之 味方玄
浅井通昭 橋本光史 吉田篤史
松野浩行 河村和貴
東京と京都の見所の違いのひとつが、男性の着物率。女性の着物率はそう変わらないけれども、京都の見所では和装の男性が多い(初会だったからかな?)。
いわゆる旦那衆だろうか、仕事柄だろうか、それとも純粋に趣味で楽しむ方が多いのだろうか、とにかく着物をさらりと着こなしている殿方が少なくない。さすがは京の着倒れ、和服が板についている。
【仕舞五番】
名家の当主による仕舞は、いずれ菖蒲か杜若、といった風情。見応えがある。
杉浦豊彦さんの《野守》は気迫充実。今年一年に向けての意気込みが感じられる。来月例会の《源氏供養》がますます楽しみ。
九郎右衛門さんの《老松》
かぎりなく「不動」に近い、ゆっくりした動き。神さびた老松のおごそかさと、若い梢のあでやかさ。ほんの少しの動き、ほんの少しの所作のなかに、ほんのり艶のある美が宿っている。
来週の《東北》が待ち遠しい。ずっとあこがれていた九郎右衛門さんの鬘物。どうか、無事に拝見できますように。
林宗一郎さんの《鞍馬天狗》
宗一郎さんも坂口貴信さんと同じく、仕舞や舞囃子で観た時のほうが「おお、凄い!」と思うことが多い。この日の仕舞も素敵だった。
お能では、袖の扱いとか、舞台の空間認識とか、面装束を着けたうえでの表現力の自由さとか、そうした舞台経験を山ほど積まないと得られないような要素がプラスされるから、仕舞・舞囃子とのギャップは致し方ないのかもしれない。
袖の扱いといえば、この日上演された観世清和家元の《羽衣・彩色之伝》での袖の扱いが印象深かった。
それは、シテが序ノ舞の二段オロシで左袖を被いてしばし静止する際、袖が大きく前に垂れて、顔(能面)にかぶさってしまった時のことである。
通常、ほかのシテならば、被いた袖が顔(能面)の前に垂れ下がってしまっても、どうしようもできずに、そのまま静止していることが多い。
しかし清和家元は、袖のなかの左腕をグイッと勢いよく上に伸ばし、顔の前に垂れた袖を天冠の上まで高く引き上げ、美しい増の面を縁取るように袖をかぶせて、見事に、さりげなくポーズを決め直したのだった。
このリカバリーの見事さ、熟練の技に感じ入った。舞台経験が豊富でないとなかなかこうはいかない。さすがだ。
(正直言うと、袖を被いて静止している時間があまりにも長いので、長絹の袖が天冠に引っかかったのかと思ったほど。シテの腕がプルプル震えていたし。後見は気づかない様子で、こちらはハラハラしたけれど、実際のところはどうだったのだろう??)
能《小鍛冶》
最後の小鍛冶は、切能らしい盛り上がり。
深野貴彦さんの前シテの童子は神秘的で、きれいだったし、何よりもお囃子が冴えていた。
前川光範さんのバチさばきと掛け声はいつもながら精彩に富み、新年から絶好調。この方の太鼓が入ると、舞台が生き生きと躍動する。
他のお囃子ももちろんよかったし、地謡も攻めの謡で、おめでたく、華やかな舞台だった。
朝から晩までお能漬けで、豪華な初会、堪能しました。
2018年11月27日火曜日
片山九郎右衛門の《海士》~能と狂言の会・国際交流の夕べ
2018年11月20日(火)18時30分~20時45分 京都観世会館
観世会館近くの京都写真美術館。たまにのぞいてみると面白い作品に出会える。
能《海士》海士/龍女 片山九郎右衛門
藤原房前 片山峻佑
ワキ 福王知登 是川雅彦 喜多雅人
アイ浦の男 茂山逸平
後見 河村博重 味方玄
地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 片山伸吾
田茂井廣道 大江信行 橋本忠樹 梅田嘉宏
やっぱり、舞衣姿で舞う九郎右衛門さんの早舞は最高!
今年も九郎右衛門さんの数々の素敵な舞台を拝見したが、そのなかでもいちばん感動した。これこそ言葉の壁を飛び越えて、圧倒的な美の力で観る者を魅了する、当代屈指の舞台だった。
【前場】
冒頭、藤原房前一行が、讃岐国志度浦を訪れる。
片山峻佑さんは「芸筋が良い」子方さん。
房前役にふさわしい威厳を品格が漂うハコビと立ち居振る舞い。落ち着いた物腰。それに謡もうまい。将来が楽しみな子方さんだ。
一声の囃子で登場した前シテは、白地摺箔に笹柄の紫縫箔腰巻に、青みがかった墨色の縷水衣という出立。
右手には鎌、左手には杉葉(みるめ)。
深井の面は遠目で観ると若く美しいが、近くで見ると、深く憂いのある陰翳が刻まれている。
浦の海女だという女は、従者に問われるままに、昔、藤原不比等がこの地を訪れ、「面向不背の珠」を龍王から奪還すべく、海女乙女を契りを結び、房前大臣が生まれたことを話す。
これを聞いて驚いた子方・房前が、「やあ、これこそ房前の大臣よ」と名乗ったときの、前シテの表情━━。
目の前にいるのがわが子だと知った時の、母の驚きと感動。
それを表現する所作は、けっして写実的なものではなく、型を忠実に踏襲しているだけである。
しかし、シテの全身から愛情深い母性が熱い湯気のように立ち昇り、オキシトシンが脳内で大量分泌されているのが感じ取れるほど、なんともいえない、慈愛に満ちた表情を浮かべている。
硬質であるはずの能面の、やわらかな表情の動き、目や口元のやさしく柔和な緩み。
物腰や所作のごく微妙な変化だけで、冷たい能面が、こんなにもしっとりと包み込むような、豊かな母の表情を浮かべられるものだろうか。
おそらくシテには、さまざまな人物の心理・心の動きの引き出しがたくさんあって、そこから役柄に応じた心模様を選び出しているのかもしれない。
そしてそれを、高い技術で表現できる人なのだろう。
〈玉之段〉
驚いたのが、「大悲の利剣を額に当て、龍宮の中に飛び入れば」で、パッと飛び込むところ。
シテは、ヒラリと身を躍らせて宙高く飛び上がったかと思うと、音も振動もないまま、ヒタリと静かに着地した。
着地の際に音だけでなく、わずかな振動もないなんて……まるで忍者の特撮かCG映像のよう。人間業ではなかった。
乳の下を掻き切る場面は、8月の仕舞「玉之段」ではほとんど涼しい顔をして、すーっと真一文字に胸の下を扇で斬ったが、この日は、グサリッと胸を抉るように突き刺す、リアルな表現。
外国籍の人にも視覚的にわかりやすいよう、迫真性を高めた「玉之段」だった。
中入前、シテは「この筆の後を御覧じて、普請をなさで弔へや」で、文に見立てた扇を子方に渡す。
そして「波の底に沈みけり」で、海の底に沈んでいくように、立ち姿から徐々に身を沈め、常座で下居。
送り笛に送られながら、橋掛りをゆっくりと去っていった。
【後場】
出端の囃子で登場した後シテは、白地に金で唐草模様をあしらった舞衣に、花七宝の紋大口、頭には見事な龍戴、左手に経巻。
面は、どこか物問いたげな泥眼。
3年前、九郎右衛門さんの後シテで、能楽座自主公演の《海士・解脱之伝》を観た(前シテは銕之丞さん)。
あの時は蓮花の天冠を被り、小書にふさわしい解脱感、狩野芳崖の悲母観音のような菩薩感が強く、この世ならぬ神々しい光に輝いていた。
この日の後シテにはまだ人間味があり、生身の女性のもつ潤いのある母性本能を感じさせた。
シテは、子方に経巻を手渡し、わが子がそれを読誦するあいだ、悲しげにシオリながら、常座へ至り、振り返って子方を見つめる。
そこから達拝となり、盤渉早舞へ。
ここからはもう、頭では何も考えない、感覚だけの世界。
どこまでも無限に広がる舞の美のなかに、ただ心地よく身をゆだね、魂が溶けてゆく感覚。
シテが袖をひるがえすたびに、悲しみの雫のようなものがパッとはじけ、シャボン玉のように消えてゆく。
ただ美しいだけではない、一抹の悲しみと翳りのある龍女の舞。
早舞三段目の途中から、シテは橋掛りへ行き、三の松で、風に舞う花びらのように、クルクル、クルクル、とまわり、しばし佇む。
お囃子も止んだ、完全なる静止、完全なる静寂。
余情をたたえた美しい「間」。
この余白のなかに、観客は龍女の思い、胸のうちを夢想し、舞台と観客の想像力の相乗効果で、一人一人のなかに、オリジナルな《海士》が創られてゆく。
囃子の総ナガシで、橋掛りから舞台に戻った龍女からは、あらゆる迷いも、人間的な苦悩も、すべて消え去り、冴え冴えとした光に包まれていた。
観世会館近くの京都写真美術館。たまにのぞいてみると面白い作品に出会える。
能《海士》海士/龍女 片山九郎右衛門
藤原房前 片山峻佑
ワキ 福王知登 是川雅彦 喜多雅人
アイ浦の男 茂山逸平
後見 河村博重 味方玄
地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 片山伸吾
田茂井廣道 大江信行 橋本忠樹 梅田嘉宏
やっぱり、舞衣姿で舞う九郎右衛門さんの早舞は最高!
今年も九郎右衛門さんの数々の素敵な舞台を拝見したが、そのなかでもいちばん感動した。これこそ言葉の壁を飛び越えて、圧倒的な美の力で観る者を魅了する、当代屈指の舞台だった。
【前場】
冒頭、藤原房前一行が、讃岐国志度浦を訪れる。
片山峻佑さんは「芸筋が良い」子方さん。
房前役にふさわしい威厳を品格が漂うハコビと立ち居振る舞い。落ち着いた物腰。それに謡もうまい。将来が楽しみな子方さんだ。
一声の囃子で登場した前シテは、白地摺箔に笹柄の紫縫箔腰巻に、青みがかった墨色の縷水衣という出立。
右手には鎌、左手には杉葉(みるめ)。
深井の面は遠目で観ると若く美しいが、近くで見ると、深く憂いのある陰翳が刻まれている。
浦の海女だという女は、従者に問われるままに、昔、藤原不比等がこの地を訪れ、「面向不背の珠」を龍王から奪還すべく、海女乙女を契りを結び、房前大臣が生まれたことを話す。
これを聞いて驚いた子方・房前が、「やあ、これこそ房前の大臣よ」と名乗ったときの、前シテの表情━━。
目の前にいるのがわが子だと知った時の、母の驚きと感動。
それを表現する所作は、けっして写実的なものではなく、型を忠実に踏襲しているだけである。
しかし、シテの全身から愛情深い母性が熱い湯気のように立ち昇り、オキシトシンが脳内で大量分泌されているのが感じ取れるほど、なんともいえない、慈愛に満ちた表情を浮かべている。
硬質であるはずの能面の、やわらかな表情の動き、目や口元のやさしく柔和な緩み。
物腰や所作のごく微妙な変化だけで、冷たい能面が、こんなにもしっとりと包み込むような、豊かな母の表情を浮かべられるものだろうか。
おそらくシテには、さまざまな人物の心理・心の動きの引き出しがたくさんあって、そこから役柄に応じた心模様を選び出しているのかもしれない。
そしてそれを、高い技術で表現できる人なのだろう。
〈玉之段〉
驚いたのが、「大悲の利剣を額に当て、龍宮の中に飛び入れば」で、パッと飛び込むところ。
シテは、ヒラリと身を躍らせて宙高く飛び上がったかと思うと、音も振動もないまま、ヒタリと静かに着地した。
着地の際に音だけでなく、わずかな振動もないなんて……まるで忍者の特撮かCG映像のよう。人間業ではなかった。
乳の下を掻き切る場面は、8月の仕舞「玉之段」ではほとんど涼しい顔をして、すーっと真一文字に胸の下を扇で斬ったが、この日は、グサリッと胸を抉るように突き刺す、リアルな表現。
外国籍の人にも視覚的にわかりやすいよう、迫真性を高めた「玉之段」だった。
中入前、シテは「この筆の後を御覧じて、普請をなさで弔へや」で、文に見立てた扇を子方に渡す。
そして「波の底に沈みけり」で、海の底に沈んでいくように、立ち姿から徐々に身を沈め、常座で下居。
送り笛に送られながら、橋掛りをゆっくりと去っていった。
【後場】
出端の囃子で登場した後シテは、白地に金で唐草模様をあしらった舞衣に、花七宝の紋大口、頭には見事な龍戴、左手に経巻。
面は、どこか物問いたげな泥眼。
3年前、九郎右衛門さんの後シテで、能楽座自主公演の《海士・解脱之伝》を観た(前シテは銕之丞さん)。
あの時は蓮花の天冠を被り、小書にふさわしい解脱感、狩野芳崖の悲母観音のような菩薩感が強く、この世ならぬ神々しい光に輝いていた。
この日の後シテにはまだ人間味があり、生身の女性のもつ潤いのある母性本能を感じさせた。
シテは、子方に経巻を手渡し、わが子がそれを読誦するあいだ、悲しげにシオリながら、常座へ至り、振り返って子方を見つめる。
そこから達拝となり、盤渉早舞へ。
ここからはもう、頭では何も考えない、感覚だけの世界。
どこまでも無限に広がる舞の美のなかに、ただ心地よく身をゆだね、魂が溶けてゆく感覚。
シテが袖をひるがえすたびに、悲しみの雫のようなものがパッとはじけ、シャボン玉のように消えてゆく。
ただ美しいだけではない、一抹の悲しみと翳りのある龍女の舞。
早舞三段目の途中から、シテは橋掛りへ行き、三の松で、風に舞う花びらのように、クルクル、クルクル、とまわり、しばし佇む。
お囃子も止んだ、完全なる静止、完全なる静寂。
余情をたたえた美しい「間」。
この余白のなかに、観客は龍女の思い、胸のうちを夢想し、舞台と観客の想像力の相乗効果で、一人一人のなかに、オリジナルな《海士》が創られてゆく。
囃子の総ナガシで、橋掛りから舞台に戻った龍女からは、あらゆる迷いも、人間的な苦悩も、すべて消え去り、冴え冴えとした光に包まれていた。
2018年11月26日月曜日
能と狂言の会~国際交流の夕べ
2018年11月20日(火)18時30分~20時45分 京都観世会館
桜紅葉が散り残った晩秋の白川。
狂言《墨塗》大名 茂山千作
太郎冠者 茂山茂 女 茂山千五郎
後見 島田洋海
能《海士》海士/龍女 片山九郎右衛門
藤原房前 片山峻佑
ワキ 福王知登 是川雅彦 喜多雅人
アイ浦の男 茂山逸平
後見 河村博重 味方玄
地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 片山伸吾
田茂井廣道 大江信行 橋本忠樹 梅田嘉宏
国際交流基金が主催しているだけあって、観客の7割以上が外国籍の方々。
狂言と能それぞれの終演後、何人かに感想をうかがったところ、狂言については、"It's interesting!""It's so simple, but so nice!" 能については、"It's so beautiful! I LOVE this art!!" といった感想が多く、かなりの好感触。
問題となる言葉の障壁に関しては、《墨塗》と《海士》の英訳シノプシスと、1960年に出版された『JAPANESE NOH DRAMA』から抜粋された《海士》のあらすじと詞章の英訳&詳しい注釈の英訳が配布され、外国籍の方々も、古語で書かれた詞章の意味がよく分からない日本人ビギナーと同じような状態で鑑賞できたのではないかなー。
狂言《墨塗》は言葉の意味は分からなくとも、あらすじさえ押さえておけばビジュアル的に可笑しみが伝わるから、良い選曲だった。
茂山家の芸風も、笑いのツボを全身で表現する上方的笑劇の要素を多分に含んでいて、声もよく通って大きいし、外国人受けしやすいように思った(ふだんよりも演技に誇張が加わったように感じたけれど、それは致し方ないのかも→山本東次郎さんなら目くじらを立てるだろうけど)。
このところ、千作さんの体調が悪そうなのがちょっと気になる。かなり無理をして舞台に立っていらっしゃるのかもしれない。
ところで、愛知県の岡崎信用金庫が毎月発行している『Monthly Report(経済月報)』11月号を観世会館でいただいた。
40ページ以上にわたり、片山家と京舞井上流の特集が組まれていて、信用金庫の広報誌としては異例の扱い。
九郎右衛門さんと井上八千代さんのそれぞれのロングインタビューのほか、今年7月に催された能装束・能面展の展示品の一部図版、能の歴史や曲の解説など、驚くほど充実した内容だった。
こんなにすばらしいメセナ活動をする信用金庫が愛知県にあるんですね。
めちゃくちゃ、イメージアップじゃないですか。
こういう企業や金融機関が増えてほしいな。
能《海士》につづく
桜紅葉が散り残った晩秋の白川。
狂言《墨塗》大名 茂山千作
太郎冠者 茂山茂 女 茂山千五郎
後見 島田洋海
能《海士》海士/龍女 片山九郎右衛門
藤原房前 片山峻佑
ワキ 福王知登 是川雅彦 喜多雅人
アイ浦の男 茂山逸平
後見 河村博重 味方玄
地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 片山伸吾
田茂井廣道 大江信行 橋本忠樹 梅田嘉宏
国際交流基金が主催しているだけあって、観客の7割以上が外国籍の方々。
狂言と能それぞれの終演後、何人かに感想をうかがったところ、狂言については、"It's interesting!""It's so simple, but so nice!" 能については、"It's so beautiful! I LOVE this art!!" といった感想が多く、かなりの好感触。
問題となる言葉の障壁に関しては、《墨塗》と《海士》の英訳シノプシスと、1960年に出版された『JAPANESE NOH DRAMA』から抜粋された《海士》のあらすじと詞章の英訳&詳しい注釈の英訳が配布され、外国籍の方々も、古語で書かれた詞章の意味がよく分からない日本人ビギナーと同じような状態で鑑賞できたのではないかなー。
狂言《墨塗》は言葉の意味は分からなくとも、あらすじさえ押さえておけばビジュアル的に可笑しみが伝わるから、良い選曲だった。
茂山家の芸風も、笑いのツボを全身で表現する上方的笑劇の要素を多分に含んでいて、声もよく通って大きいし、外国人受けしやすいように思った(ふだんよりも演技に誇張が加わったように感じたけれど、それは致し方ないのかも→山本東次郎さんなら目くじらを立てるだろうけど)。
このところ、千作さんの体調が悪そうなのがちょっと気になる。かなり無理をして舞台に立っていらっしゃるのかもしれない。
ところで、愛知県の岡崎信用金庫が毎月発行している『Monthly Report(経済月報)』11月号を観世会館でいただいた。
40ページ以上にわたり、片山家と京舞井上流の特集が組まれていて、信用金庫の広報誌としては異例の扱い。
九郎右衛門さんと井上八千代さんのそれぞれのロングインタビューのほか、今年7月に催された能装束・能面展の展示品の一部図版、能の歴史や曲の解説など、驚くほど充実した内容だった。
こんなにすばらしいメセナ活動をする信用金庫が愛知県にあるんですね。
めちゃくちゃ、イメージアップじゃないですか。
こういう企業や金融機関が増えてほしいな。
能《海士》につづく
2018年11月20日火曜日
曽和博朗三回忌追善会~舞囃子・居囃子など
2018年11月17日(土)11時~19時45分 金剛能楽堂
舞囃子《当麻》片山九郎右衛門
森田保美 曽和伊喜夫 柿原孝則 小寺佐七
地謡 青木道喜 橋本光史 田茂井廣道
独調《知章ロンギ》 田茂井廣道×成田奏
《鐘ノ段》 河村和重×大村華由
《龍田》 武田文志×丹下紀香
《梅枝・楽アト》 橋本光史×森貴史
《錦木キリ》 宇髙通成×古田知英
《高野物狂・道行》林宗一郎×成田達志
居囃子《三輪・白式神神楽》
杉市和 社中の方 柿原崇志 前川光長
地謡 片山九郎右衛門 青木道喜 橋本光史 武田文志
舞囃子《玉鬘》林宗一郎
左鴻泰弘 社中の方 柿原孝則
地謡 河村和重 橋本光史 田茂井廣道 武田文志
番外一調《江口》 大江又三郎×曽和正博
《鵜飼》 種田道一×小寺佐七
《女郎花》 金剛龍謹×幸正佳
《花筐クルイ》武田伊左×曽和鼓童
能《融・遊曲・思立ノ出・金剛返》シテ 金剛永謹
ワキ 小林努 アイ 茂山千作
杉市和 社中の方 谷口正壽 前川光長
後見 宇髙通成 向井弘記 惣明貞助
地謡 種田道一 松野恭憲 金剛龍謹 種田和雄
谷口雅彦 今井克紀 重本昌也 田中敏文
ほか、囃子、一調、独調など多数
開演前、ロビーの遺影に御焼香をさせていただく。追善会にふさわしい番組と内容で、社中の方々の演奏もとても素晴らしかった。
まずは、九郎右衛門さんの舞囃子《当麻》から。
今年2月の能《当麻》は拝見できず、痛恨の極みだったから、この舞囃子はうれしい。
小鼓は故・博朗師のお孫さんの伊喜夫さん、大鼓は柿原孝則さんで、九郎右衛門さんとの組み合わせも珍しい。
舞囃子とはいえ早舞の箇所だけでなく、出端から始まるので、ワキなしの半能・袴能のような形式。
九郎右衛門さんの中将姫は「天上の存在」としての菩薩感が強く、天冠や装束をつけていなくても、光り輝く後光に包まれているように見える。
とりわけ、独特の節回しの「慈悲加祐……乱るなよ~」のところでは、力強く、気高い声で衆生を教え導く、荘厳な崇高美が全身から立ち昇り、思わず、手を合わせたくなるような神々しさだ。
早舞は、女体による法味の舞のため黄鐘早舞。とくに追善の会の初番で出される時は、盤渉調は敬遠すべきものだという。
近日、同じシテによる《海士》を拝見する予定なので、《当麻》の早舞とどう違うのか、比較しながら味わってみようと思う。
居囃子《三輪・白式神神楽》
九郎右衛門さんの白式神神楽の舞囃子地謡を聴くのは、これで3度目くらい。
毎回あらたな感動を覚えるが、そのなかでもこの日の白式は最高だった!
白式神神楽が描き出す、常世の闇の世界、静寂、神々の嘆き、慟哭を、謡と囃子だけでこれほどドラマティックに再現できるなんて!
ちょうど一年前に、国立能楽堂で九郎右衛門さんの能《三輪・白式神神楽》を観た時と同じくらいに、胸が痙攣するほどブルブル震えて、謡の魅力、その素晴らしさにあらためて気づかされた。
こんなふうに心を揺さぶる謡に出逢うと、能楽はバリアフリーだと強く思う。
たとえ感覚の一部に障害があっても、能楽の音の世界の豊かさ、その表現力の高さを存分に発揮した一流の舞台に触れると、能の醍醐味を味わうことができるのではないだろうか。
小鼓の社中の方も熟練者で、特にスリ拍子の箇所で、小鼓→太鼓→大鼓の順番で一粒ずつ打っていくところの漆黒の闇の表現が見事だった。
このあと、九郎右衛門さんは大急ぎで大槻能楽堂へ。
瞬間移動しないと間に合わないようなスケジュールなのに、いったいどうやって移動されたのだろう……?
舞囃子《玉鬘》
玉鬘のシンボルでもある左肩に垂らした一筋の髪。
舞囃子だからもちろん髪は垂らしていないけれど、艶やかな黒髪と千々に乱れる思い、心の狂乱、漠然とした苦しみが、カケリのなかに凝縮して表現されていて、やっぱり宗一郎さんの舞囃子はいいな。
ほかにも見どころ・聴きどころの多い番組で書きたいことは山ほどあるけれど、長くなるので、能《融・遊曲・思立之出・金剛返》の感想は次の記事で。
舞囃子《当麻》片山九郎右衛門
森田保美 曽和伊喜夫 柿原孝則 小寺佐七
地謡 青木道喜 橋本光史 田茂井廣道
独調《知章ロンギ》 田茂井廣道×成田奏
《鐘ノ段》 河村和重×大村華由
《龍田》 武田文志×丹下紀香
《梅枝・楽アト》 橋本光史×森貴史
《錦木キリ》 宇髙通成×古田知英
《高野物狂・道行》林宗一郎×成田達志
居囃子《三輪・白式神神楽》
杉市和 社中の方 柿原崇志 前川光長
地謡 片山九郎右衛門 青木道喜 橋本光史 武田文志
舞囃子《玉鬘》林宗一郎
左鴻泰弘 社中の方 柿原孝則
地謡 河村和重 橋本光史 田茂井廣道 武田文志
番外一調《江口》 大江又三郎×曽和正博
《鵜飼》 種田道一×小寺佐七
《女郎花》 金剛龍謹×幸正佳
《花筐クルイ》武田伊左×曽和鼓童
能《融・遊曲・思立ノ出・金剛返》シテ 金剛永謹
ワキ 小林努 アイ 茂山千作
杉市和 社中の方 谷口正壽 前川光長
後見 宇髙通成 向井弘記 惣明貞助
地謡 種田道一 松野恭憲 金剛龍謹 種田和雄
谷口雅彦 今井克紀 重本昌也 田中敏文
ほか、囃子、一調、独調など多数
開演前、ロビーの遺影に御焼香をさせていただく。追善会にふさわしい番組と内容で、社中の方々の演奏もとても素晴らしかった。
まずは、九郎右衛門さんの舞囃子《当麻》から。
今年2月の能《当麻》は拝見できず、痛恨の極みだったから、この舞囃子はうれしい。
小鼓は故・博朗師のお孫さんの伊喜夫さん、大鼓は柿原孝則さんで、九郎右衛門さんとの組み合わせも珍しい。
舞囃子とはいえ早舞の箇所だけでなく、出端から始まるので、ワキなしの半能・袴能のような形式。
九郎右衛門さんの中将姫は「天上の存在」としての菩薩感が強く、天冠や装束をつけていなくても、光り輝く後光に包まれているように見える。
とりわけ、独特の節回しの「慈悲加祐……乱るなよ~」のところでは、力強く、気高い声で衆生を教え導く、荘厳な崇高美が全身から立ち昇り、思わず、手を合わせたくなるような神々しさだ。
早舞は、女体による法味の舞のため黄鐘早舞。とくに追善の会の初番で出される時は、盤渉調は敬遠すべきものだという。
近日、同じシテによる《海士》を拝見する予定なので、《当麻》の早舞とどう違うのか、比較しながら味わってみようと思う。
居囃子《三輪・白式神神楽》
九郎右衛門さんの白式神神楽の舞囃子地謡を聴くのは、これで3度目くらい。
毎回あらたな感動を覚えるが、そのなかでもこの日の白式は最高だった!
白式神神楽が描き出す、常世の闇の世界、静寂、神々の嘆き、慟哭を、謡と囃子だけでこれほどドラマティックに再現できるなんて!
ちょうど一年前に、国立能楽堂で九郎右衛門さんの能《三輪・白式神神楽》を観た時と同じくらいに、胸が痙攣するほどブルブル震えて、謡の魅力、その素晴らしさにあらためて気づかされた。
こんなふうに心を揺さぶる謡に出逢うと、能楽はバリアフリーだと強く思う。
たとえ感覚の一部に障害があっても、能楽の音の世界の豊かさ、その表現力の高さを存分に発揮した一流の舞台に触れると、能の醍醐味を味わうことができるのではないだろうか。
小鼓の社中の方も熟練者で、特にスリ拍子の箇所で、小鼓→太鼓→大鼓の順番で一粒ずつ打っていくところの漆黒の闇の表現が見事だった。
このあと、九郎右衛門さんは大急ぎで大槻能楽堂へ。
瞬間移動しないと間に合わないようなスケジュールなのに、いったいどうやって移動されたのだろう……?
舞囃子《玉鬘》
玉鬘のシンボルでもある左肩に垂らした一筋の髪。
舞囃子だからもちろん髪は垂らしていないけれど、艶やかな黒髪と千々に乱れる思い、心の狂乱、漠然とした苦しみが、カケリのなかに凝縮して表現されていて、やっぱり宗一郎さんの舞囃子はいいな。
ほかにも見どころ・聴きどころの多い番組で書きたいことは山ほどあるけれど、長くなるので、能《融・遊曲・思立之出・金剛返》の感想は次の記事で。
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