2018年12月22日(土)14時~16時45分 大槻能楽堂
西国旅情~お話、狂言《福の神》からのつづき
能《藤戸》シテ母/漁夫の霊 友枝昭世
ワキ佐々木盛綱 殿田健吉
ワキツレ従者 則久英志 平木豊男
アイ盛綱の下人 善竹忠亮
竹市学 横山晴明 白坂信行 三島元太郎
後見 狩野了一 友枝雄人
地謡 粟谷能夫 出雲康雄 粟谷明生 長島茂
高林呻二 粟谷充雄 金子敬一郎 内田成信
これまで拝見した友枝昭世さんの舞台の中でいちばん好きなのが、袴能《天鼓》だった。後シテの、あの透き通るように純粋な舞姿が強く印象に残っている。
《天鼓》と《藤戸》とは、強者に我が子の命を奪われた親と、殺された子の亡霊をそれぞれ前・後シテに配置し、改心した権力者による管絃講が営まれるという点でよく似た構成でありながら、前・後シテとも、主人公たちのキャラクターはきわめて対照的だ。
わたしの勝手な思い込みかもしれないけれど、人間臭く生々しい《藤戸》は、友枝昭世さんの芸風や個性とはあまりそぐわない(要するにニンに合わない)気がするが、それを当代きっての名手がどう演じられるのか、とても興味があった。
この日の大槻能楽堂は、立見客もぎっしり詰めかけるほどの超満員。東京の見所でお見かけしたお顔もちらほら。冬至にもかかわらず、熱気に包まれていた。
【前場】
ワキの佐々木盛綱一行が登場する。
病気療養後に復帰した殿田さん、久しぶりに拝見する。復帰されて誠に喜ばしい。
しかし、まだ本調子ではなく、お辛そうに見える。以前には決してなかった絶句があるなど、かなり無理をして舞台に立たれているのではないだろうか。
〈シテの登場〉
お囃子が素晴らしい。とくに、竹市学さんの笛。
藤田流らしい吹き込みの強さ、鋭さに加えて、この方の笛には独特の翳りと繊細な趣きがあり、曲趣に寄り添いつつ、その情感を高めている。
この年代の囃子方さんで、ここまで芸位の高い人はほかにはいないと思う。
現役笛方さんのなかではいちばん好きかもしれない。
一声の囃子の竹市さんの笛に聞き惚れていると、気がつけば、シテがすでに一の松まで来ていた。
まったく気配を感じさせないし、身体は不動を保っているのに、全身から激しい勢いが感じられる。
まるで、訴訟に来た群集をかき分け、息せき切って、盛綱の前に出たような強い勢い。
「よくもっ! よくもっ!」という激しい感情がメラメラと立ち昇っている。
〈シテの訴え〉
息子を殺して海に沈めただろう!と詰め寄る母親にたいして、シラを切る盛綱。
あなたに浅瀬を教えて、殺されたのは、「まさしき我が子にて候ふものを!」と、シテは語気を強めて、盛綱に迫る。
わが子を返せと詰め寄るところでは、
「なき子を同じ道になしてたばせ給へ」と、シテは自分も殺してほしいと、ワキの右側に向かって突き進むが、わけもなく跳ねのけられる。
さわに、「我が子返させ給へや」で、ワキのほうへ左手をつよく突き出し、狂乱のあげく、モロジオリ。
(本公演冒頭の村上湛氏のお話によると、片山幽雪師はこの場面で、ワキの刀をねらって突進していくとおしゃっていたという。
その刀で相手を刺すのか、それとも自分を刺すつもりなのかわからないが、「殺気をもって行かなあかん」、というのが幽雪流のやり方だったらしい。)
わたしの席からはワキに向うシテの後姿しか見えなかったため、殺気までは感じ取れなかったが、友枝昭世さんにしては珍しいほど、リアルで写実的な、はげしく強い感情表現だったと思う。
〈流儀による詞章の違い〉
番組と一緒に喜多流の詞章も配布された。
観世の詞章と比較してみると、けっこう違っていて面白い。(*付記参照)
【後場~友枝昭世の本領発揮!】
〈後シテ登場〉
下掛りでは太鼓が入るため、後シテの登場楽は、一声ではなく、出端になる。
太鼓の入った出端のほうが管絃講らしく聴こえる。
揚幕が上がると、冷たく、暗い水底から、漁師の亡霊がぬるりと浮かび上がり、そのまま水面をすべるように、陰々とした昏さで橋掛りを進んでいく。
ああ、このハコビ。
やっぱりこの方は、こういう、この世ならぬ存在のほうがしっくり合う。
後シテの第一声も、観世のものとは違っていた。
「うたかたの、哀れに消えし露の身の、何に残りの心なるらん」
陰鬱な声と謡。果てしないほどの「うかばれなさ」。
痩男の面は、アゴを出さずに顔をすっぱりと覆うようにつけられ、シテの身体・魂と面・装束が完全に一体化し、漁師の亡霊が水にぐっしょり濡れたまま舞台に現れたかのような錯覚を起こさせる。
げっそりと落ちくぼんだ眼窩には暗い光が宿り、シテの身体が向きを変えるごとに、目玉がギョロギョロと動いているように見える。
両生類のように粘着性のある、恨みがましい姿。
殺害場面の再現で身体を刺し抜かれる場面では、刀に見立てた竿で突きさす所作を、グサッグサッと写実的に演じるのではなく、映画の回想シーンでスローモーションがかかったような映像芸術的表現。
そこから浮きぬ沈みぬ流されて、水底に沈んでいく型の哀れさ、悲しさ。
陰隠滅滅たる、底なしの怨みの淵に観客を引き込んでおいてから、
最後の、「彼の岸に至りて」で、竿をパッと放す。
その瞬間、
シテの身体がふわっと軽くなったように見え、漁夫の魂が怨みの苦悩から、ふっと解放されたのが感じられた。
最後は、「成仏得脱の身と成りぬ」で、合掌。
この解脱の瞬間の表現が、とりわけ見事だった。
*付記
たとえば、漁師を殺したことについて、最初はシラを切っていた盛綱が、やがて認めて、しだいに母親に同情的になるところ。
観世の詞章では、盛綱は「あら不憫や候」とか、「かの物の跡をも弔ひ、妻子をも世に立てうずるにてあるぞ」など、憐みの言葉や、遺族の面倒を見ることなどを口に出して伝えている。
それにたいして、喜多流の詞章では、そうした言葉は盛綱の口からは出ず、地謡によって「うつつなき有様を見るこそ哀れなりけれ」と謡われたり、母親を送り届けるアイの下人を通して間接的に伝えられたりするのみである。
つまり、喜多流の詞章だと、改心していく盛綱の心の軌跡が見えにくく、なぜ、あれほど強く詰め寄っていた母親が、急におとなしくなって、下人とともに家に帰るのかも分かりにくい。
おそらく、喜多流の詞章のほうが原型に近く、観世の詞章は分かりにくさを解消するために、のちに改訂が加えられたのかもしれない。
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2018年12月23日日曜日
2018年1月26日金曜日
《鉢木》後場~国立能楽堂特別公演
2018年1月25日(木) 13時~16時 国立能楽堂
能《鉢木》シテ佐野常世 友枝昭世
ツレ常世妻 狩野了一
ワキ最明寺時頼 森常好 二階堂某 森常太郎
アイ早打 炭光太郎 二階堂従者 小笠原匡
松田弘之 成田達志 亀井忠雄
後見 中村邦夫 友枝雄人
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
友枝真也 内田成信 佐々木多門 大島輝久
《鉢木》前場からのつづきです。
【後場】
一声の囃子で、回国修行から戻った最明寺時頼、二階堂某、従者が登場。
越之段の後、早笛となります。
名手ぞろいの囃子方、この一声→半早笛も、聴かせどころ、聴きどころ。
きらびやかな諸軍勢のなか、ただ一騎、佐野常世の痩せ馬だけが、心ははやれど足が言うことを聞かず、思うように前に進まない。
腰から抜き出した鞭で打てども打てども、先へは進まず、
「足弱車の乗りぢから」で、一の松から三の松までダラダラと後退、
「追ひかけたり」で、苛立ちをぶちまけるように鞭を投げ捨て、舞台へ。
このあたりの遠近感・スピード感・軍勢にどんどん追い抜けれて行く感じの出し方、能の枠を逸しない範囲での、常世の感情表現はさすが。
〈時代劇的大団円〉
最明寺の命により、二階堂は、諸軍勢のなかから一番みすぼらしい姿の常世を見つけ出す。
御前に参るよう命じられた常世は、謀反人に間違われたのだと早合点し、斬首も覚悟で前に出る。
鉢木を伐る前と後とでは、常世の心も大きく変化し、腹をくくった潔さが前面に押し出される。
そして、後場の山場はなんといっても、ワキ・最明寺の長ゼリフ。
「これこそいつぞやの大雪に宿仮りし修行者よ、見忘れてあるか」は、いかにも時代劇っぽい台詞ですが、この日のワキ方・森常好さんも、遠山の金さんばりの名調子。
いまにも片肌を脱いでべらんめえ調で、「この桜吹雪が目に入らぬか!」と言いだしそうなくらい小気味よい名裁きで、威厳と貫禄十分!
友枝昭世師も、「見忘れてあるか!」で、勧進帳の弁慶のようにダダッと後ろに下がって両手をついて深々とお辞儀。
現在物の面白さが最高潮に達したところで、終曲。
無事本領安堵となった常世は、三の松で長刀を担ぎ、意気揚々と愛妻のもとへ帰ったのでした。
能《鉢木》シテ佐野常世 友枝昭世
ツレ常世妻 狩野了一
ワキ最明寺時頼 森常好 二階堂某 森常太郎
アイ早打 炭光太郎 二階堂従者 小笠原匡
松田弘之 成田達志 亀井忠雄
後見 中村邦夫 友枝雄人
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
友枝真也 内田成信 佐々木多門 大島輝久
《鉢木》前場からのつづきです。
【後場】
一声の囃子で、回国修行から戻った最明寺時頼、二階堂某、従者が登場。
越之段の後、早笛となります。
名手ぞろいの囃子方、この一声→半早笛も、聴かせどころ、聴きどころ。
きらびやかな諸軍勢のなか、ただ一騎、佐野常世の痩せ馬だけが、心ははやれど足が言うことを聞かず、思うように前に進まない。
腰から抜き出した鞭で打てども打てども、先へは進まず、
「足弱車の乗りぢから」で、一の松から三の松までダラダラと後退、
「追ひかけたり」で、苛立ちをぶちまけるように鞭を投げ捨て、舞台へ。
このあたりの遠近感・スピード感・軍勢にどんどん追い抜けれて行く感じの出し方、能の枠を逸しない範囲での、常世の感情表現はさすが。
〈時代劇的大団円〉
最明寺の命により、二階堂は、諸軍勢のなかから一番みすぼらしい姿の常世を見つけ出す。
御前に参るよう命じられた常世は、謀反人に間違われたのだと早合点し、斬首も覚悟で前に出る。
鉢木を伐る前と後とでは、常世の心も大きく変化し、腹をくくった潔さが前面に押し出される。
そして、後場の山場はなんといっても、ワキ・最明寺の長ゼリフ。
「これこそいつぞやの大雪に宿仮りし修行者よ、見忘れてあるか」は、いかにも時代劇っぽい台詞ですが、この日のワキ方・森常好さんも、遠山の金さんばりの名調子。
いまにも片肌を脱いでべらんめえ調で、「この桜吹雪が目に入らぬか!」と言いだしそうなくらい小気味よい名裁きで、威厳と貫禄十分!
友枝昭世師も、「見忘れてあるか!」で、勧進帳の弁慶のようにダダッと後ろに下がって両手をついて深々とお辞儀。
現在物の面白さが最高潮に達したところで、終曲。
無事本領安堵となった常世は、三の松で長刀を担ぎ、意気揚々と愛妻のもとへ帰ったのでした。
友枝昭世の《鉢木》前場~国立能楽堂特別公演
2018年1月25日(木) 13時~16時 国立能楽堂
能《鉢木》シテ佐野常世 友枝昭世
ツレ常世妻 狩野了一
ワキ最明寺時頼 森常好 二階堂某 森常太郎
アイ早打 炭光太郎 二階堂従者 小笠原匡
松田弘之 成田達志 亀井忠雄
後見 中村邦夫 友枝雄人
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
友枝真也 内田成信 佐々木多門 大島輝久
首都圏の大雪から数日たったこの日もまだ雪がだいぶ残っていて、能楽堂の中庭はミニチュアの雪景色。《鉢木》のために誂えたような上演日和。
それにしても、《鉢木》は難しい曲です……。
友枝昭世師は亡霊・精霊など、現実を超えた夢の世界が似合う舞の名手。
「能ではなく芝居」と言われるこの現在物のシテは舞もほとんどなく、どちらかというと、ニンにない役柄かもしれない(観世寿夫も《鉢木》を好まなかったというし)、だからこそ昭世師ならではの《鉢木》が生まれたのかもしれません。
【前場】
ツレは出し置きで地謡前に静かに座り、最明寺時頼扮する旅僧と、一夜の宿をめぐってやり取りをする。
狩野了一さんはもしかすると、友枝昭世のツレを最も多く勤めていらっしゃるのではないだろうか。謡も合わせやすく、姿も端正、昭世師が絶大な信頼を寄せていらっしゃるのがよくわかる。
この日の常世妻役も、慣れない貧乏暮らしを切り盛りして、落魄した夫を支えつつ、掌でコロコロ転がしている……というキーパーソン的な役どころを、もとは武家の奥方らしく、品よく美しく演じていて凄く良かった。
〈シテの出〉
幕が上がり、素襖裃姿で現れたシテは、雪原の彼方に霞んでいるように見える。
雪の湿り気を感じさせる、少し重みのあるハコビ。
一の松に立ち、かすかに辺りを見渡すようにして第一声を発する。
その声音は、わたしには少し意表を突くものだった。
ぁ、あぁ……降ったる雪かな
なにかこう、戦禍の後の焼け野原を目にした時のような声。
すべてが灰燼に帰して何もかも失い、呆然と立ち尽くす人が発したような声。
愁嘆のその向こうにある、形容しがたい感情から絞り出された声だった。
「袂も朽ちて袖せばき」で、石川啄木がじっと手を見るように、左袖をむなしく見つめ、「あら面白からずの雪の日かな」に、厭世観を滲ませる。
この場面ではピンとこなかったのだが、次の場面、その次の場面と展開するうちに、常世の心理描写が入念に計算されているのが伝わってきた。
冒頭の厭世観、人間不信、人間的な感覚・温情の鈍麻があったからこそ、一夜の宿を拒む次の場面につながってくる。
この時の一抹の後悔が、妻の助言によって悔恨・懺悔の情へと膨らみ、夕闇迫る雪原で僧侶の姿を必死で探すうちに、人間的な感情や心のゆとりを取り戻し、僧が佇む雪景色に感興を催して「駒とめて袖打ち払ふ陰もなし」の定家の歌を引くに至り、さらには秘蔵の鉢木でのもてなしへとつながってゆく。
〈薪ノ段→いざ鎌倉の覚悟〉
正先に、雪をかぶった鉢木の作り物が出され、いよいよ薪ノ段。
「捨人のための鉢木切るとても」で扇を開き、まるで我が子を斬るような、覚悟と逡巡が入り混じる。
次の「雪打ち払い見れば面白やいかにせん」で、未練ありげに鉢木をしばし見つめたのち、扇を閉じる。
秘蔵の鉢木は、過去の栄華の象徴。
梅、桜、松と、大事な植木を伐るたびに、過去への未練も断ち切っていく。
それはおそらく常世が日頃から願いつつも、どうしてもできなかったことなのだろう。
過去の威光、過去の自分を断ち切れないことが、現在の苦しみとなっていた。
僧を薪でもてなすことは、常世にとって、過去と決別するまたとないチャンスなのだ。
そうしてすべてを断ち切り手放したあとに、
常世に残ったのはただひとつ、武士としての意地と矜持。
ボロボロの具足に錆びた長刀、痩せた馬を最明寺に指し示し、
「鎌倉に御大事あれば」「あの馬に乗り」と、
下居のまま片足を、バンッ!、とひとつ足拍子して、
見得を切るようなその姿に、サムライの美学が凝縮されていた。
《鉢木》後場につづく
能《鉢木》シテ佐野常世 友枝昭世
ツレ常世妻 狩野了一
ワキ最明寺時頼 森常好 二階堂某 森常太郎
アイ早打 炭光太郎 二階堂従者 小笠原匡
松田弘之 成田達志 亀井忠雄
後見 中村邦夫 友枝雄人
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
友枝真也 内田成信 佐々木多門 大島輝久
首都圏の大雪から数日たったこの日もまだ雪がだいぶ残っていて、能楽堂の中庭はミニチュアの雪景色。《鉢木》のために誂えたような上演日和。
それにしても、《鉢木》は難しい曲です……。
友枝昭世師は亡霊・精霊など、現実を超えた夢の世界が似合う舞の名手。
「能ではなく芝居」と言われるこの現在物のシテは舞もほとんどなく、どちらかというと、ニンにない役柄かもしれない(観世寿夫も《鉢木》を好まなかったというし)、だからこそ昭世師ならではの《鉢木》が生まれたのかもしれません。
【前場】
ツレは出し置きで地謡前に静かに座り、最明寺時頼扮する旅僧と、一夜の宿をめぐってやり取りをする。
狩野了一さんはもしかすると、友枝昭世のツレを最も多く勤めていらっしゃるのではないだろうか。謡も合わせやすく、姿も端正、昭世師が絶大な信頼を寄せていらっしゃるのがよくわかる。
この日の常世妻役も、慣れない貧乏暮らしを切り盛りして、落魄した夫を支えつつ、掌でコロコロ転がしている……というキーパーソン的な役どころを、もとは武家の奥方らしく、品よく美しく演じていて凄く良かった。
〈シテの出〉
幕が上がり、素襖裃姿で現れたシテは、雪原の彼方に霞んでいるように見える。
雪の湿り気を感じさせる、少し重みのあるハコビ。
一の松に立ち、かすかに辺りを見渡すようにして第一声を発する。
その声音は、わたしには少し意表を突くものだった。
ぁ、あぁ……降ったる雪かな
なにかこう、戦禍の後の焼け野原を目にした時のような声。
すべてが灰燼に帰して何もかも失い、呆然と立ち尽くす人が発したような声。
愁嘆のその向こうにある、形容しがたい感情から絞り出された声だった。
「袂も朽ちて袖せばき」で、石川啄木がじっと手を見るように、左袖をむなしく見つめ、「あら面白からずの雪の日かな」に、厭世観を滲ませる。
この場面ではピンとこなかったのだが、次の場面、その次の場面と展開するうちに、常世の心理描写が入念に計算されているのが伝わってきた。
冒頭の厭世観、人間不信、人間的な感覚・温情の鈍麻があったからこそ、一夜の宿を拒む次の場面につながってくる。
この時の一抹の後悔が、妻の助言によって悔恨・懺悔の情へと膨らみ、夕闇迫る雪原で僧侶の姿を必死で探すうちに、人間的な感情や心のゆとりを取り戻し、僧が佇む雪景色に感興を催して「駒とめて袖打ち払ふ陰もなし」の定家の歌を引くに至り、さらには秘蔵の鉢木でのもてなしへとつながってゆく。
〈薪ノ段→いざ鎌倉の覚悟〉
正先に、雪をかぶった鉢木の作り物が出され、いよいよ薪ノ段。
「捨人のための鉢木切るとても」で扇を開き、まるで我が子を斬るような、覚悟と逡巡が入り混じる。
次の「雪打ち払い見れば面白やいかにせん」で、未練ありげに鉢木をしばし見つめたのち、扇を閉じる。
秘蔵の鉢木は、過去の栄華の象徴。
梅、桜、松と、大事な植木を伐るたびに、過去への未練も断ち切っていく。
それはおそらく常世が日頃から願いつつも、どうしてもできなかったことなのだろう。
過去の威光、過去の自分を断ち切れないことが、現在の苦しみとなっていた。
僧を薪でもてなすことは、常世にとって、過去と決別するまたとないチャンスなのだ。
そうしてすべてを断ち切り手放したあとに、
常世に残ったのはただひとつ、武士としての意地と矜持。
ボロボロの具足に錆びた長刀、痩せた馬を最明寺に指し示し、
「鎌倉に御大事あれば」「あの馬に乗り」と、
下居のまま片足を、バンッ!、とひとつ足拍子して、
見得を切るようなその姿に、サムライの美学が凝縮されていた。
《鉢木》後場につづく
2017年11月19日日曜日
片山幽雪三回忌追善能《海士・二段返・解脱之伝》舞囃子《頼政》
2017年11月19日(日)11時~17時40分 国立能楽堂
連吟《賀茂》
梅田嘉宏 橋本忠樹 分林道治 味方玄 河村博重 古橋正邦
青木道喜 武田邦弘 小林慶三 梅田邦久 橘保向 橋本礒道
仕舞《通盛》 観世芳伸
《松虫キリ》 片山伸吾
《野宮》 武田志房
《蝉丸》 山階彌右衛門
《天鼓》 観世喜正
《船辨慶キリ》観世淳夫
地謡 小林慶三 武田邦弘 橋本礒道 青木道喜 梅田嘉宏
能《海士・二段返・解脱之伝》シテ 観世清和
子方 谷本悠太朗 ワキ 殿田謙吉 御厨誠吾
アイ 野村万之丞
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井広忠 観世元伯→小寺佐七
後見 大槻文蔵 山階彌右衛門 坂口貴信
地謡 観世銕之丞 浅井文義 観世芳伸 清水寛二
柴田稔 馬野正木 長山桂三 谷本健吾
舞囃子《頼政》シテ 友枝昭世
藤田六郎兵衛 成田達志 柿原崇志
香川靖嗣 塩津哲生 粟谷能夫 友枝雄人 狩野了一
能《三輪・白式神神楽》シテ 片山九郎右衛門
ワキ 宝生欣也 アイ 野村万蔵
杉市和 吉阪一郎 亀井広忠 前川光長
後見 浅見真州 青木道喜 味方玄
梅若玄祥 観世銕之丞 観世喜正 山崎正道
片山伸吾 分林道治 橋本忠樹 観世淳夫
狂言《隠狸》太郎冠者 野村萬 主 野村万作
仕舞《班女》 山本順之
《江口キリ》 観世銕之丞
《融》 梅若玄祥
地謡 片山九郎右衛門 梅田邦久 武田邦弘 橘保向 河村博重
舞囃子《三笑》観世喜之 大槻文蔵 浅見真州
一噌幸弘 曽和正博 柿原崇志 小寺佐七
半能《石橋》シテ 片山清愛
ワキ 宝生欣也 アイ 野村萬斎
杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 観世清和 片山九郎右衛門 片山伸吾
地謡 大槻文蔵 観世喜正 武田邦弘 西村高夫
味方玄 分林道治 梅田嘉宏 観世淳夫
今振り返っても思うのですが、何年かあとにこの日のことを、夢のように幸せだったと、思い返すような気がします。
今をときめく超一流の方々が一堂に会した、ほんとうに夢のように豪華絢爛で、密度の濃い、充実すぎるほど充実した公演!
見所は着物率が高く、井上八千代さん・安寿子さんもロビーでご挨拶をされていて、追善公演だけど華やか。京都から来られた方も多かったようです。
長丁場の割には休憩時間が少ないため、序盤は途中で休憩を入れ、観世喜正さんと淳夫さんの仕舞には間に合うように戻ってきたのですが、「仕舞が終わるまで席に戻らないでください」とスタッフの人に言われ、残念ながら拝見できず。
そんなわけで、感想は能《海士》から。
能《海士・二段返・解脱之伝》
願いが叶うなら、あの方の太鼓で二段返を聴きたかった……。
「解脱之伝」は、2年前の能楽座自主公演で、銕之丞・九郎右衛門の義兄弟共演(前シテ/後シテ)で観たことがある。
前シテ・銕之丞さんが表した純朴な海女のもつ母性のたくましさと、後シテ・九郎右衛門さんが舞った、菩薩となった海女の光り輝く荘厳さ━━どちらも素晴らしく、忘れがたい舞台だった。
清和宗家の《海士・解脱之伝》は、それとはまた趣きが異なる。
〈前場〉
前シテは、水衣は着用せず、
小菊や芝草などを横段にあしらったグリーンの唐織着流(脱下ゲ)。
ウィリアム・モリス調の垢抜けた洋風な色柄で、もしかすると、何年か前に拝見した《芭蕉》の時の唐織なのかも。
面は深井なのだけど、増かと思うくらい、若くて美形の顔立ちをしている。
全体的になにか、こう、高位の品格のある女性のような洗練された雰囲気。
生前、肉体労働をしていた庶民(海女)の亡霊のイメージからはかけ離れている気もするが、きっと、ヴィジュアルを重視されたのだろう。
玉之段はさすがだった。
橋掛りを効果的に用い、手に汗握るような逃亡劇を高い技術力で表現(まさに「玉之段」のお手本)。
それを、銕仙会メインの地謡と最高の囃子陣がさらに盛り上げ、見応え・聴き応え満点だった。
〈後場〉
出端・二段返は、出端越しの後に二段返の手を打つため三段構成となり、厳粛で、重々しい。
途中で半幕があがり、後シテが姿を見せる。
半幕の状態がかなり長く、解脱して菩薩になった海女が、法華経による弔いにしばし聞き入る風情。
後シテの出立は、「解脱之伝」の小書により龍女ではなく、菩薩になったことをあらわすため、菊唐草の紅地舞衣に、金箔で立涌模様を施した白紋大口。
頭には白蓮の天冠を戴き、面は泣増。
左手に経巻をもって現れる。
舞は、これも「解脱之伝」の小書により、早舞がイロエとなり、荘重な囃子で舞いあげる。
地謡・囃子の素晴らしさとともに、子方さんもよかった。
谷本悠太朗さんは、以前拝見した《船弁慶》の義経役でも思ったけれど、立ち居や姿に高貴な役柄にふさわしい品がある。
将来有望な方なので、御兄弟ともども、このまま能楽の道に進んでくれるといいな。
休憩をはさんで、
舞囃子《頼政》
休憩時間が短かったせいか、まだ席に戻ってこられない人が多く、空席が目立つなか舞囃子が始まった。
そして驚いたことに、わたしの席の、通路を隔てた斜め前の女性が、こともあろうに友枝昭世師の《頼政》を見ながら、ずっとお菓子を食べていた!!
気を取り直して舞台に集中。
床几に掛けての仕方話もいいけれど、
やはり立ち上がって、左腰に差したもう一本の扇を、刀のようにサッと抜くあたりからが、昭世さんの真骨頂。
「切っ先を揃えて」で、開いた扇を盾のように左手にもち、
「ここを最期と戦うたり」で、右手に持った扇を刀に見立てて振り落とす。
百戦錬磨の武将のような隙のない身のこなし。
「芝の上に扇を打ち敷き」で、開いた扇を床に落とし、
「鎧脱ぎ捨て座を組みて」で、安座し、扇を取りあげて閉じ、
「刀を抜きながら」と、刀に見立てた右手の扇に目をやり、
埋木の花咲くこともなかりしに、身のなるはてはあはれなりけり
最期を覚悟した老武者の、埋木に咲く一輪の花のような艶のある謡。
「埋もれ木」とは言いながら、やりたいこと、やるべきことは、すべてやり尽くしたという燃焼感。
「あはれなりけり」と言いながら、もう充分生きた、生ききった、という潔さ。
サムライのダンディズムが、シテの全身から立ちのぼる。
最後は「扇の芝の草の陰に帰るとて失せにけり」で、枕ノ扇。
チャンドラーの小説を思わせる、どこかハードボイルドなカッコよさのある《頼政》だった。
《三輪・白式神神楽》前場につづく
![]() |
| 能楽堂前の銀杏並木 |
梅田嘉宏 橋本忠樹 分林道治 味方玄 河村博重 古橋正邦
青木道喜 武田邦弘 小林慶三 梅田邦久 橘保向 橋本礒道
仕舞《通盛》 観世芳伸
《松虫キリ》 片山伸吾
《野宮》 武田志房
《蝉丸》 山階彌右衛門
《天鼓》 観世喜正
《船辨慶キリ》観世淳夫
地謡 小林慶三 武田邦弘 橋本礒道 青木道喜 梅田嘉宏
能《海士・二段返・解脱之伝》シテ 観世清和
子方 谷本悠太朗 ワキ 殿田謙吉 御厨誠吾
アイ 野村万之丞
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井広忠 観世元伯→小寺佐七
後見 大槻文蔵 山階彌右衛門 坂口貴信
地謡 観世銕之丞 浅井文義 観世芳伸 清水寛二
柴田稔 馬野正木 長山桂三 谷本健吾
舞囃子《頼政》シテ 友枝昭世
藤田六郎兵衛 成田達志 柿原崇志
香川靖嗣 塩津哲生 粟谷能夫 友枝雄人 狩野了一
能《三輪・白式神神楽》シテ 片山九郎右衛門
ワキ 宝生欣也 アイ 野村万蔵
杉市和 吉阪一郎 亀井広忠 前川光長
後見 浅見真州 青木道喜 味方玄
梅若玄祥 観世銕之丞 観世喜正 山崎正道
片山伸吾 分林道治 橋本忠樹 観世淳夫
狂言《隠狸》太郎冠者 野村萬 主 野村万作
仕舞《班女》 山本順之
《江口キリ》 観世銕之丞
《融》 梅若玄祥
地謡 片山九郎右衛門 梅田邦久 武田邦弘 橘保向 河村博重
舞囃子《三笑》観世喜之 大槻文蔵 浅見真州
一噌幸弘 曽和正博 柿原崇志 小寺佐七
半能《石橋》シテ 片山清愛
ワキ 宝生欣也 アイ 野村萬斎
杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 観世清和 片山九郎右衛門 片山伸吾
地謡 大槻文蔵 観世喜正 武田邦弘 西村高夫
味方玄 分林道治 梅田嘉宏 観世淳夫
今振り返っても思うのですが、何年かあとにこの日のことを、夢のように幸せだったと、思い返すような気がします。
今をときめく超一流の方々が一堂に会した、ほんとうに夢のように豪華絢爛で、密度の濃い、充実すぎるほど充実した公演!
見所は着物率が高く、井上八千代さん・安寿子さんもロビーでご挨拶をされていて、追善公演だけど華やか。京都から来られた方も多かったようです。
長丁場の割には休憩時間が少ないため、序盤は途中で休憩を入れ、観世喜正さんと淳夫さんの仕舞には間に合うように戻ってきたのですが、「仕舞が終わるまで席に戻らないでください」とスタッフの人に言われ、残念ながら拝見できず。
そんなわけで、感想は能《海士》から。
能《海士・二段返・解脱之伝》
願いが叶うなら、あの方の太鼓で二段返を聴きたかった……。
「解脱之伝」は、2年前の能楽座自主公演で、銕之丞・九郎右衛門の義兄弟共演(前シテ/後シテ)で観たことがある。
前シテ・銕之丞さんが表した純朴な海女のもつ母性のたくましさと、後シテ・九郎右衛門さんが舞った、菩薩となった海女の光り輝く荘厳さ━━どちらも素晴らしく、忘れがたい舞台だった。
清和宗家の《海士・解脱之伝》は、それとはまた趣きが異なる。
〈前場〉
前シテは、水衣は着用せず、
小菊や芝草などを横段にあしらったグリーンの唐織着流(脱下ゲ)。
ウィリアム・モリス調の垢抜けた洋風な色柄で、もしかすると、何年か前に拝見した《芭蕉》の時の唐織なのかも。
面は深井なのだけど、増かと思うくらい、若くて美形の顔立ちをしている。
全体的になにか、こう、高位の品格のある女性のような洗練された雰囲気。
生前、肉体労働をしていた庶民(海女)の亡霊のイメージからはかけ離れている気もするが、きっと、ヴィジュアルを重視されたのだろう。
玉之段はさすがだった。
橋掛りを効果的に用い、手に汗握るような逃亡劇を高い技術力で表現(まさに「玉之段」のお手本)。
それを、銕仙会メインの地謡と最高の囃子陣がさらに盛り上げ、見応え・聴き応え満点だった。
〈後場〉
出端・二段返は、出端越しの後に二段返の手を打つため三段構成となり、厳粛で、重々しい。
途中で半幕があがり、後シテが姿を見せる。
半幕の状態がかなり長く、解脱して菩薩になった海女が、法華経による弔いにしばし聞き入る風情。
後シテの出立は、「解脱之伝」の小書により龍女ではなく、菩薩になったことをあらわすため、菊唐草の紅地舞衣に、金箔で立涌模様を施した白紋大口。
頭には白蓮の天冠を戴き、面は泣増。
左手に経巻をもって現れる。
舞は、これも「解脱之伝」の小書により、早舞がイロエとなり、荘重な囃子で舞いあげる。
地謡・囃子の素晴らしさとともに、子方さんもよかった。
谷本悠太朗さんは、以前拝見した《船弁慶》の義経役でも思ったけれど、立ち居や姿に高貴な役柄にふさわしい品がある。
将来有望な方なので、御兄弟ともども、このまま能楽の道に進んでくれるといいな。
休憩をはさんで、
舞囃子《頼政》
休憩時間が短かったせいか、まだ席に戻ってこられない人が多く、空席が目立つなか舞囃子が始まった。
そして驚いたことに、わたしの席の、通路を隔てた斜め前の女性が、こともあろうに友枝昭世師の《頼政》を見ながら、ずっとお菓子を食べていた!!
気を取り直して舞台に集中。
床几に掛けての仕方話もいいけれど、
やはり立ち上がって、左腰に差したもう一本の扇を、刀のようにサッと抜くあたりからが、昭世さんの真骨頂。
「切っ先を揃えて」で、開いた扇を盾のように左手にもち、
「ここを最期と戦うたり」で、右手に持った扇を刀に見立てて振り落とす。
百戦錬磨の武将のような隙のない身のこなし。
「芝の上に扇を打ち敷き」で、開いた扇を床に落とし、
「鎧脱ぎ捨て座を組みて」で、安座し、扇を取りあげて閉じ、
「刀を抜きながら」と、刀に見立てた右手の扇に目をやり、
埋木の花咲くこともなかりしに、身のなるはてはあはれなりけり
最期を覚悟した老武者の、埋木に咲く一輪の花のような艶のある謡。
「埋もれ木」とは言いながら、やりたいこと、やるべきことは、すべてやり尽くしたという燃焼感。
「あはれなりけり」と言いながら、もう充分生きた、生ききった、という潔さ。
サムライのダンディズムが、シテの全身から立ちのぼる。
最後は「扇の芝の草の陰に帰るとて失せにけり」で、枕ノ扇。
チャンドラーの小説を思わせる、どこかハードボイルドなカッコよさのある《頼政》だった。
《三輪・白式神神楽》前場につづく
2017年11月6日月曜日
人でなしの恋 ~友枝昭世の《松風》
2017年11月5日(日)13時~17時 国立能楽堂
友枝会《松風》からのつづき
《松風》シテ 友枝昭世
ツレ狩野了一 ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
杉市和 曽和正博 國川純
後見 内田安信 中村邦生
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 出雲康雅
佐藤陽 内田成信 大島輝久 谷友矩
須磨の浦の美しい光景を、シテの所作と囃子で次々と描写していくのも、この曲の見どころ。
詞章と演者の動き・地謡が呼応し、観客の五感を心地よく刺激する。
友枝会《松風》からのつづき
ツレ狩野了一 ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
杉市和 曽和正博 國川純
後見 内田安信 中村邦生
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 出雲康雅
佐藤陽 内田成信 大島輝久 谷友矩
前記事でざっと感想を述べたのですが、心に刻んでおきたいので、とくに印象に残った部分を記しておこうと思います。
【ワキの旅僧の登場】
欣哉さんの旅僧は、さまざまな過去を想像させる漂泊の僧。
二人の姉妹の松の墓標に向かう姿にも、真摯で深い、憐みの心が感じられる。
二人の姉妹の松の墓標に向かう姿にも、真摯で深い、憐みの心が感じられる。
欣哉さんの持ち味のひとつが、この外見上の、共感力の高さだ。
【松風村雨の登場→潮汲み】
登場楽は真ノ一声(簡略形?)。
杉市和さんの笛の音から、妖しく澄んだ月の光と、真珠のようにキラキラ輝く白い砂浜の映像が浮かび上がり、夜の浜辺に美しい姉妹が姿を現す。
舞台に入ったシテ・ツレは、同吟・掛け合いを経て、潮汲みの場面へ。
「寄せては返るかたをなみ(片男波)」で、「寄せる波」と「返る波」をあらわすべく、正中にいたシテが、角に置かれた汐汲車に近づくのと入れ替えに、脇正にいたツレが、常座までタラタラと下がる。
さらにシテは面を遣って、「芦辺の田鶴こそは立ち騒げ」と、水際にいた鶴たちが一斉にはばたくのを目で追い、「四方の嵐も音添えて」で、強風に耳を澄ますように辺りをゆっくりと見渡す。
須磨の浦の美しい光景を、シテの所作と囃子で次々と描写していくのも、この曲の見どころ。
詞章と演者の動き・地謡が呼応し、観客の五感を心地よく刺激する。
汐汲車の前で下居したシテは、「さのみなど海士人の憂き秋のみを過ごすらん」で、せつない思い出を汲み上げるように、開いた扇で舞台外から汐を汲む所作をする。
一度目はたっぷりと、二度目は控えめに。
一度目はたっぷりと、二度目は控えめに。
「見れば月こそ桶にあれ」と、姉妹は月の影が映る桶をのぞきこむ。
「月は一つ」、「影は」「二つ」━━。
月は、一人の乙女の象徴。
影は、一人の乙女が感情(松風)と理性(村雨)に分離した、二つの人格の象徴だと思う。
恋をすると誰しも、感情と理性のはざまで揺れ動く。
その様子を演劇化したのが《松風》であり、だからこそ、その揺れ動き、自制の効かなくなった狂乱に、観客も自分の過去or現在の恋心を重ね合わせてしまうのかもしれない。
【クセ】
クセ地の前あたりから、喜多流の地謡が色艶を増していく。
床几に掛かったシテは、行平の形見の衣を左手に持ち、
「形見こそ今は仇なれ」と、衣を脇へ遠ざけつつも、
「これなくは、忘るる隙もありなと」と、やはり形見を引き寄せて、いとおしげに見入る。
さらに床几から立ち上がり、
「捨てても置かれず」で、衣を振り捨てるような所作をしたのち、
「取れば面影に立ちまさり」と、掻き立てられるように形見を抱きつつ、
「涙に伏し沈む事ぞ悲しき」で、衣を熱く抱擁しながら、小さく回って、松のほうへ近づいていく。
シテの腕のなかの烏帽子と狩衣が、まるで実体のある人形のように見え、
しっとりと、思い込めた抱擁は、江戸川乱歩の『人でなしの恋』を連想させる。
長持ちのなかの美しい京人形に、命懸けの恋をした男の話だ。
シテが狂おしく抱きしめた行平の人形には、過去の恋の亡霊が憑依し、その人形はやがて若き日の松風の姿と重なって、シテは行平とともに、恋に身を焦がした自分自身をも抱きしめているように見える。
乱歩の耽美的で倒錯的な世界とも通じる、官能的なシーンだった。
【物着→シテ・ツレ掛け合い】
正中で水衣を脱ぎ、紫長絹に烏帽子を身につけたシテは、ハッと気づいたように松を見上げ、「あら嬉しやあの松蔭に行平の御立ちあるが……」と狂喜して、立ち上がる。
ここは割と(ちょっと大げさすぎるくらい)、はっきりとした面遣い。
ここから「立ち別れ~」で、シテ・ツレがシオリつつ交差し、ツレは笛座へ、シテは橋掛りに向かう見せ場となるが、この日は比較的あっさりめで、シテは幕際までは行かずに、二の松でUターンして舞台に戻り、中ノ舞に入っていく。
【中ノ舞→破ノ舞→終曲】
中ノ舞は、甘い陶酔に身を任せつつ、過ぎ去った恋を哀悼するような追想の舞。
シテは二段オロシで右袖を巻き上げ、じいっと松を見つめる。
舞を得たシテは、「磯馴松の」で袖を巻き上げて松に駆け寄り、
「なつかしや~」で後ろに下がって左袖を巻き上げたままシオリ返し。
さらに破ノ舞に入り、脇座前で袖を被き、そのまま作り物の松の前、正先ギリギリを駆け抜けていく。
なにかここで、過去の恋への妄執も情念も浄化され、小面の表情から曇りが抜け、月のように澄んでいくのが見て取れた。
ツレを先立てて橋掛りを去ってゆくシテは、三の松の手前で立ち止まり、振り返って袖を被き、懐かしげに松を見つめる。
そのまなざしには、行平への苦しく断ちがたい恋情はなく、
すべては過去のものとして悟り、諦観した、静かな穏やかさがあった。
「月は一つ」、「影は」「二つ」━━。
月は、一人の乙女の象徴。
影は、一人の乙女が感情(松風)と理性(村雨)に分離した、二つの人格の象徴だと思う。
恋をすると誰しも、感情と理性のはざまで揺れ動く。
その様子を演劇化したのが《松風》であり、だからこそ、その揺れ動き、自制の効かなくなった狂乱に、観客も自分の過去or現在の恋心を重ね合わせてしまうのかもしれない。
【クセ】
クセ地の前あたりから、喜多流の地謡が色艶を増していく。
床几に掛かったシテは、行平の形見の衣を左手に持ち、
「形見こそ今は仇なれ」と、衣を脇へ遠ざけつつも、
「これなくは、忘るる隙もありなと」と、やはり形見を引き寄せて、いとおしげに見入る。
さらに床几から立ち上がり、
「捨てても置かれず」で、衣を振り捨てるような所作をしたのち、
「取れば面影に立ちまさり」と、掻き立てられるように形見を抱きつつ、
「涙に伏し沈む事ぞ悲しき」で、衣を熱く抱擁しながら、小さく回って、松のほうへ近づいていく。
シテの腕のなかの烏帽子と狩衣が、まるで実体のある人形のように見え、
しっとりと、思い込めた抱擁は、江戸川乱歩の『人でなしの恋』を連想させる。
長持ちのなかの美しい京人形に、命懸けの恋をした男の話だ。
シテが狂おしく抱きしめた行平の人形には、過去の恋の亡霊が憑依し、その人形はやがて若き日の松風の姿と重なって、シテは行平とともに、恋に身を焦がした自分自身をも抱きしめているように見える。
乱歩の耽美的で倒錯的な世界とも通じる、官能的なシーンだった。
【物着→シテ・ツレ掛け合い】
正中で水衣を脱ぎ、紫長絹に烏帽子を身につけたシテは、ハッと気づいたように松を見上げ、「あら嬉しやあの松蔭に行平の御立ちあるが……」と狂喜して、立ち上がる。
ここは割と(ちょっと大げさすぎるくらい)、はっきりとした面遣い。
ここから「立ち別れ~」で、シテ・ツレがシオリつつ交差し、ツレは笛座へ、シテは橋掛りに向かう見せ場となるが、この日は比較的あっさりめで、シテは幕際までは行かずに、二の松でUターンして舞台に戻り、中ノ舞に入っていく。
【中ノ舞→破ノ舞→終曲】
中ノ舞は、甘い陶酔に身を任せつつ、過ぎ去った恋を哀悼するような追想の舞。
シテは二段オロシで右袖を巻き上げ、じいっと松を見つめる。
舞を得たシテは、「磯馴松の」で袖を巻き上げて松に駆け寄り、
「なつかしや~」で後ろに下がって左袖を巻き上げたままシオリ返し。
さらに破ノ舞に入り、脇座前で袖を被き、そのまま作り物の松の前、正先ギリギリを駆け抜けていく。
なにかここで、過去の恋への妄執も情念も浄化され、小面の表情から曇りが抜け、月のように澄んでいくのが見て取れた。
ツレを先立てて橋掛りを去ってゆくシテは、三の松の手前で立ち止まり、振り返って袖を被き、懐かしげに松を見つめる。
そのまなざしには、行平への苦しく断ちがたい恋情はなく、
すべては過去のものとして悟り、諦観した、静かな穏やかさがあった。
友枝会《松風》~概観
2017年11月5日(日)13時~17時 国立能楽堂
《松風》シテ 友枝昭世
ツレ狩野了一 ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
杉市和 曽和正博 國川純
後見 内田安信 中村邦生
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 出雲康雅
佐藤陽 内田成信 大島輝久 谷友矩
《茶壺》シテ 野村萬
アド野村万之丞 小アド野村万蔵
《野守》シテ 友枝真也
ワキ則久英志 アイ能村晶人
一噌隆之 森澤勇司 柿原光博 小寺真佐人
後見 塩津哲生 佐々木多門
地謡 大村定 長島茂 友枝雄人 金子敬一郎
塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤寛泰
楽しみにしていた友枝昭世さんの《松風》。
昭世さんや万三郎さん、九郎右衛門さんの舞台を拝見していつも思うけど、名手の舞台には意外性がある。
好い意味で、こちらの予想を裏切ってくれる。
公演記録で観た昭世さんの《松風》は、狂気に突き動かされ、恋の熱情がシテの全身から立ちのぼるような凄さだった。
今回もそういう《松風》を勝手にイメージしていたのですが;
この日の《松風》では、そうした「情念の極み」的な側面は比較的抑えられ、シテは、身を焦がし、身悶えしながら待ち続けた恋の苦悩の日々を、どこか甘く、懐かしい想いで振り返りつつ、追慕の舞っているようだった。
最後には、松風の魂が昇華されて、
その分身だった村雨とひとつになり、
行平の象徴であり、恋の墓標でもある松とも不離一体となって、
松の精とも、月の精ともつかない、朧げに透き通った存在となり、
みずから松風を聞きながら、
引き潮とともに海の彼方へ、
あるいは、月の世界へと還っていくようだった。
万三郎さんの舞台でもいつも感じるように、
友枝昭世さんも拝見するたびに、削ぎ落せるものは削ぎ落しつつ、体の軸が微塵もぶれない強靭な足腰で、舞と型の精髄を、力みのない軽やかさで舞っている。
ほんとうは膨大なエネルギーと細心の注意・神経を使っているのだろうけれど、あらゆる自然の摂理や物理的束縛から解放されて、「型」もほとんど「型」ではなくなったかのように、自由に、自然に、軽やかに舞っているように見える。
とりわけ万三郎師の舞には、そうした印象がある。
世阿弥がしばしば使った「少な少なに」という言葉、
それでいて「花はいや増しに見えしなり」という言葉を想起させる。
そして、この御二人に共通するのは、終曲部でじつに印象深く、意味ありげな視線をこちらに投げかけること。
もちろん、それはこちらの一方的な錯覚&妄想にすぎないのだろう。
でも、シテが面を通して観客に投げかける視線によって、シテとの一体感がさらに高まり、観る者を曲中に深く、強く引きこみ、演者とともに創り上げた独自の物語世界を観者の脳裏に映写させる。
こういうことができるのも、名手のなせる業だと思う。
いま現在の友枝昭世師にしか舞えない唯一無二の《松風》、いまの昭世師独自の《松風》の世界を堪能できた至福……。
前置きが長くなったので
細かい内容は、友枝昭世の《松風》に続きます。
《松風》シテ 友枝昭世
ツレ狩野了一 ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
杉市和 曽和正博 國川純
後見 内田安信 中村邦生
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 出雲康雅
佐藤陽 内田成信 大島輝久 谷友矩
《茶壺》シテ 野村萬
アド野村万之丞 小アド野村万蔵
《野守》シテ 友枝真也
ワキ則久英志 アイ能村晶人
一噌隆之 森澤勇司 柿原光博 小寺真佐人
後見 塩津哲生 佐々木多門
地謡 大村定 長島茂 友枝雄人 金子敬一郎
塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤寛泰
楽しみにしていた友枝昭世さんの《松風》。
昭世さんや万三郎さん、九郎右衛門さんの舞台を拝見していつも思うけど、名手の舞台には意外性がある。
好い意味で、こちらの予想を裏切ってくれる。
公演記録で観た昭世さんの《松風》は、狂気に突き動かされ、恋の熱情がシテの全身から立ちのぼるような凄さだった。
今回もそういう《松風》を勝手にイメージしていたのですが;
この日の《松風》では、そうした「情念の極み」的な側面は比較的抑えられ、シテは、身を焦がし、身悶えしながら待ち続けた恋の苦悩の日々を、どこか甘く、懐かしい想いで振り返りつつ、追慕の舞っているようだった。
最後には、松風の魂が昇華されて、
その分身だった村雨とひとつになり、
行平の象徴であり、恋の墓標でもある松とも不離一体となって、
松の精とも、月の精ともつかない、朧げに透き通った存在となり、
みずから松風を聞きながら、
引き潮とともに海の彼方へ、
あるいは、月の世界へと還っていくようだった。
万三郎さんの舞台でもいつも感じるように、
友枝昭世さんも拝見するたびに、削ぎ落せるものは削ぎ落しつつ、体の軸が微塵もぶれない強靭な足腰で、舞と型の精髄を、力みのない軽やかさで舞っている。
ほんとうは膨大なエネルギーと細心の注意・神経を使っているのだろうけれど、あらゆる自然の摂理や物理的束縛から解放されて、「型」もほとんど「型」ではなくなったかのように、自由に、自然に、軽やかに舞っているように見える。
とりわけ万三郎師の舞には、そうした印象がある。
世阿弥がしばしば使った「少な少なに」という言葉、
それでいて「花はいや増しに見えしなり」という言葉を想起させる。
そして、この御二人に共通するのは、終曲部でじつに印象深く、意味ありげな視線をこちらに投げかけること。
もちろん、それはこちらの一方的な錯覚&妄想にすぎないのだろう。
でも、シテが面を通して観客に投げかける視線によって、シテとの一体感がさらに高まり、観る者を曲中に深く、強く引きこみ、演者とともに創り上げた独自の物語世界を観者の脳裏に映写させる。
こういうことができるのも、名手のなせる業だと思う。
いま現在の友枝昭世師にしか舞えない唯一無二の《松風》、いまの昭世師独自の《松風》の世界を堪能できた至福……。
前置きが長くなったので
細かい内容は、友枝昭世の《松風》に続きます。
2017年9月14日木曜日
東京能楽囃子科協議会定式能~舞囃子《絵馬・女体》九月夜能
2017年9月13日(水)18時~20時35分 最高気温30℃ 国立能楽堂
舞囃子《絵馬・女体》 友枝昭世
ツレ 香川靖嗣 塩津哲生
一噌幸弘 曽和正博 國川純 観世元伯→小寺真佐人
地謡 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
内田成信 金子敬一郎 大島輝久
狂言小舞《景清》 山本東次郎
地謡 山本則俊 山本則重 山本則秀
一調《山姥》 宝生和英×三島元太郎
能《楊貴妃・干之掛》 梅若万三郎
ワキ 森常好 アイ 山本則俊
松田弘之 大倉源次郎 亀井忠雄
後見 加藤眞悟 山中迓晶
地謡 梅若紀彰 観世喜正 鈴木啓吾 伊藤嘉章
角当直隆 小島英明 坂真太郎 川口晃平
囃子科協議会の九月夜能は去年も良かったけれど、昨年以上に企画力がパワーアップして、観客の潜在ニーズを汲みとった夢の選曲・配役。
アンケートで要望が多かったのか、全席指定席制になっているのも有難い。
とにかく、舞囃子・小舞・一調・能、どれをとっても超一流。
息をのむ舞台が次々と展開し、観能砂漠だったわたしの心に、沁み込む、しみこむ……。
【舞囃子《絵馬・女体》】
喜多流を代表する三名手による、ありえないほどの贅沢な布陣。
舞囃子といっても、ワキと作り物が出ない半能+袴能のように充実していて、上演時間も30分。
「われは日本秋津島の大頭領」で、シテ・ツレ三人が立ち上がり、シテは大小前に立ち、ツレの天鈿女命(香川靖嗣)と手力雄命(塩津哲生)は、それぞれ笛座前と常座で下居して待機。
〈シテ・天照大神の神舞〉
「女体」の小書なので、シテは中之舞ではなく、神舞を急の位で舞う。
神舞といえば、男神が颯爽と舞うイメージが強い。
女体のシテが急の位で神舞を舞うものが、この曲のほかにもあるのだろうか。
十四世六平太は、「絵馬女体の神舞は、滞りなくスーッと舞っちまはなくちゃいけない」と言っているが、「女体」だからどうすべきなのかは芸談では述べていない。
友枝昭世の絵馬女体の神舞には、王者たる女神の気品と気高さが香り高く漂い、曲線の美しい川を流れ下るように、緩急のつけ方やスピード感にも優美な空気が一貫して流れていた。
いつまでも観ていたかった……。
が、舞囃子なので(?)神舞は早くも三段で終わり、シテは「天の岩戸に閉ぢ籠りて……御影を隠し」で、パントマイムのように観音開きの扉を開き、目に見えない作り物(岩戸)の中へと姿を消す。
〈ツレ・天鈿女命の神楽〉
「荒ぶる神々これを歎きて」から、囃子が急調になり、「取るや榊葉の」で、ツレは扇から幣に持ち替え、「神楽の韓神催馬楽」で、シテに向かって幣を振り、幣をもって神楽を舞う。
(神楽を幣で舞うところが舞囃子では異例。)
神を岩戸からおびき出すというよりも、女神の怒りを鎮めるような丁寧な神楽。
じつというと、神楽のあいだの半分は、大小前で床几にかかるシテの姿に無意識に吸い寄せられていた。
その胸を打つような彫刻美━━。
天岩戸に籠ったシテの姿は本来、扉の奥に閉じ込められ、隠されているべきもの。
しかし作り物がないために、美が必然的に露出され、意図せずおのずと輝いて、観る者をどうしようもなく、抗いようもないほど惹きつける。
沈黙と静止が、何よりも雄弁に太陽神アマテラスの存在を示し、舞台をおごそかに照らしている。
それはたとえば、広隆寺の弥勒菩薩を目の前にした時の感覚にも似ていて、仏像は黙して語らずとも不動のまま、心に強く、深く、訴えかけてくる、そんな感覚だった。
〈ツレ・手力雄命の急之舞〉
神楽の最後、天鈿女命が幣を振りながら、常座で待機する手力雄命に近づいていく。
囃子が神楽から急之舞に切り替わるタイミングで、手力雄命は下居姿から左足を大きく踏み出し、威勢よく立ち上がって、急之舞を舞い出す。
塩津哲生師が男性的でかっこいい!
装束をつけない紋付袴姿のほうが、膝の折り方や両脚の広げ方がわかりやすい。
手力雄命の名にふさわしく、力みなぎる雄渾な舞。
昨年、高千穂の夜神楽で鑑賞した「戸取」(天岩戸を取りはらう舞)の手力雄命を思わせる。たぶん、こうした民俗芸能の神楽由来の能なのかもしれない。
ツレの二人がそれぞれ陰と陽(女と男)の要素をあらわし、その中央で君臨するアマテラスは、あるときは男体、あるときは女体といった、小書の有無で、性が入れ替わる両性具有的な側面をもっている。
その陰陽・晴雨のバランスのなかで、国土が潤い、民が豊かに繁栄するというのがこの曲のテーマなのだろう。
そうした曲のテーマと呼応するように、シテ・ツレ三者の芸が見事に調和して古代神話の世界を舞台に現出させた。
能の名舞台を観たような高い満足感。
企画者、演者に感謝!
九月夜能・狂言小舞《景清》、一調《山姥》につづく
追記:お囃子も、もちろん良かったのですが、
やはり、あの方の太鼓で拝見したかった。
1年前の《融・笏之舞》の太鼓を思い出す。
能の舞台はほんとうに一度限り。 はかなく、貴い。
舞囃子《絵馬・女体》 友枝昭世
ツレ 香川靖嗣 塩津哲生
一噌幸弘 曽和正博 國川純 観世元伯→小寺真佐人
地謡 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
内田成信 金子敬一郎 大島輝久
狂言小舞《景清》 山本東次郎
地謡 山本則俊 山本則重 山本則秀
一調《山姥》 宝生和英×三島元太郎
能《楊貴妃・干之掛》 梅若万三郎
ワキ 森常好 アイ 山本則俊
松田弘之 大倉源次郎 亀井忠雄
後見 加藤眞悟 山中迓晶
地謡 梅若紀彰 観世喜正 鈴木啓吾 伊藤嘉章
角当直隆 小島英明 坂真太郎 川口晃平
囃子科協議会の九月夜能は去年も良かったけれど、昨年以上に企画力がパワーアップして、観客の潜在ニーズを汲みとった夢の選曲・配役。
アンケートで要望が多かったのか、全席指定席制になっているのも有難い。
とにかく、舞囃子・小舞・一調・能、どれをとっても超一流。
息をのむ舞台が次々と展開し、観能砂漠だったわたしの心に、沁み込む、しみこむ……。
【舞囃子《絵馬・女体》】
喜多流を代表する三名手による、ありえないほどの贅沢な布陣。
舞囃子といっても、ワキと作り物が出ない半能+袴能のように充実していて、上演時間も30分。
「われは日本秋津島の大頭領」で、シテ・ツレ三人が立ち上がり、シテは大小前に立ち、ツレの天鈿女命(香川靖嗣)と手力雄命(塩津哲生)は、それぞれ笛座前と常座で下居して待機。
〈シテ・天照大神の神舞〉
「女体」の小書なので、シテは中之舞ではなく、神舞を急の位で舞う。
神舞といえば、男神が颯爽と舞うイメージが強い。
女体のシテが急の位で神舞を舞うものが、この曲のほかにもあるのだろうか。
十四世六平太は、「絵馬女体の神舞は、滞りなくスーッと舞っちまはなくちゃいけない」と言っているが、「女体」だからどうすべきなのかは芸談では述べていない。
友枝昭世の絵馬女体の神舞には、王者たる女神の気品と気高さが香り高く漂い、曲線の美しい川を流れ下るように、緩急のつけ方やスピード感にも優美な空気が一貫して流れていた。
いつまでも観ていたかった……。
が、舞囃子なので(?)神舞は早くも三段で終わり、シテは「天の岩戸に閉ぢ籠りて……御影を隠し」で、パントマイムのように観音開きの扉を開き、目に見えない作り物(岩戸)の中へと姿を消す。
〈ツレ・天鈿女命の神楽〉
「荒ぶる神々これを歎きて」から、囃子が急調になり、「取るや榊葉の」で、ツレは扇から幣に持ち替え、「神楽の韓神催馬楽」で、シテに向かって幣を振り、幣をもって神楽を舞う。
(神楽を幣で舞うところが舞囃子では異例。)
神を岩戸からおびき出すというよりも、女神の怒りを鎮めるような丁寧な神楽。
じつというと、神楽のあいだの半分は、大小前で床几にかかるシテの姿に無意識に吸い寄せられていた。
その胸を打つような彫刻美━━。
天岩戸に籠ったシテの姿は本来、扉の奥に閉じ込められ、隠されているべきもの。
しかし作り物がないために、美が必然的に露出され、意図せずおのずと輝いて、観る者をどうしようもなく、抗いようもないほど惹きつける。
沈黙と静止が、何よりも雄弁に太陽神アマテラスの存在を示し、舞台をおごそかに照らしている。
それはたとえば、広隆寺の弥勒菩薩を目の前にした時の感覚にも似ていて、仏像は黙して語らずとも不動のまま、心に強く、深く、訴えかけてくる、そんな感覚だった。
〈ツレ・手力雄命の急之舞〉
神楽の最後、天鈿女命が幣を振りながら、常座で待機する手力雄命に近づいていく。
囃子が神楽から急之舞に切り替わるタイミングで、手力雄命は下居姿から左足を大きく踏み出し、威勢よく立ち上がって、急之舞を舞い出す。
塩津哲生師が男性的でかっこいい!
装束をつけない紋付袴姿のほうが、膝の折り方や両脚の広げ方がわかりやすい。
手力雄命の名にふさわしく、力みなぎる雄渾な舞。
昨年、高千穂の夜神楽で鑑賞した「戸取」(天岩戸を取りはらう舞)の手力雄命を思わせる。たぶん、こうした民俗芸能の神楽由来の能なのかもしれない。
ツレの二人がそれぞれ陰と陽(女と男)の要素をあらわし、その中央で君臨するアマテラスは、あるときは男体、あるときは女体といった、小書の有無で、性が入れ替わる両性具有的な側面をもっている。
その陰陽・晴雨のバランスのなかで、国土が潤い、民が豊かに繁栄するというのがこの曲のテーマなのだろう。
そうした曲のテーマと呼応するように、シテ・ツレ三者の芸が見事に調和して古代神話の世界を舞台に現出させた。
能の名舞台を観たような高い満足感。
企画者、演者に感謝!
九月夜能・狂言小舞《景清》、一調《山姥》につづく
追記:お囃子も、もちろん良かったのですが、
やはり、あの方の太鼓で拝見したかった。
1年前の《融・笏之舞》の太鼓を思い出す。
能の舞台はほんとうに一度限り。 はかなく、貴い。
2017年8月27日日曜日
喜多流 素謡・仕舞の会~十四世喜多六平太記念能楽堂改修勧進
2017年8月26日(土)15時30分~17時30分 喜多能楽堂
仕舞《白楽天》 佐々木多門
《敦盛クセ》 粟谷充雄
地謡 塩津圭介 佐藤寛泰 谷友矩 佐藤陽
素謡《井筒》シテ 友枝昭世
ワキ 長島茂
友枝昭世 粟谷能夫 大村定 谷大作 長島茂
粟谷浩之 金子敬一郎 友枝雄人 内田成信 友枝真也
仕舞《蝉丸》 長島茂
《融》 粟谷明生
地謡 佐藤章雄 塩津圭介 佐藤寛泰 佐藤陽
素謡《金輪》シテ 出雲康雅
ワキ 狩野了一 ワキツレ 大島輝久
香川靖嗣 塩津哲生 出雲康雅 粟谷明生 内田安信
佐々木多門 狩野了一 中村邦生 粟谷充雄 大島輝久
こういう素謡と仕舞だけの会ははじめて。
番組と配役が素敵なので行ってきました。
関東大震災と戦災で二度にわたり能舞台を焼失させるという辛酸をなめた十四世六平太。
その悲願がかない、やっとの思いで再建された現在の喜多能楽堂。
能楽堂入り口の重厚感のある木製の扉は、焼失した能舞台の名残でしょうか。
こうして素謡・仕舞の会で改修勧進が行われ、大切に、大切に補修されている……。
素謡《井筒》
友枝昭世さんは二年半前の「友枝昭世の會」で《井筒》は舞納めにされたという。
自決用の懐刀をしのばせて臨むような覚悟で、ひとつひとつの舞台を舞っている(少なくともわたしにはそう見える)。
「友枝昭世」という究極のブランドについてまわる観客の高い期待。
それを、歳を重ねても決して裏切らない舞台を続けている。
その想像を絶するほどの困難さ。
暁ごとの閼伽の水、月も心や清むらん
あのときの舞台を観ているからだろうか、シテの謡は井筒の女そのものに聞こえ、水桶と数珠を持った唐織姿の美しい女が、陽炎のように半透明になってスーッと舞台に立ち現れる。
井筒の女の美しい姿と、能面の裏側にあったシテの表情が二重写しになり、ああ、あのとき昭世師はこんなふうに謡っていたのか、とか、こんなふうに思いを込めていたのか、ということが素謡の進行に合わせて見えてくる。
昭世師の謡は、謡だけが突出して巧いという類の謡ではなく、その曲を舞っている時とまったく同じように(おそらく心の中で、魂そのものが舞いながら謡っているのだろう)、その時々のシテの所作や動きが視覚化されるような謡。
形見の直衣、身に触れて恥ずかしや。昔男に移り舞
ここのところはとりわけ情感がこもっていて、わたしも感極まって涙があふれてくる。
クライマックスはシテと地謡の謡がともに素晴らしく、二年前の舞台の時に耳にこびりついていた「さながら見みえし昔男の冠直衣は、女とも見えず、男なりけり、業平の面影」で最高潮に達し、井戸に手をかけて中をのぞきこみ、さらにススキをかき分けて井戸を深くのぞいた、あの印象深いシーンがよみがえってくる。
最後は、秋の気配を感じさせる静かな余韻━━。
仕舞四番
こういう会の仕舞って、舞手の色紋付姿もちょっとしたファッションショーみたいで秘かな楽しみ。
着付けの仕方も、襟を鈍角に合わせて詰め気味に着る人や、鋭角に合わせてゆったりと着る人、(おそらく補正で)胸・腹をふくらませる人、逆にお腹がすっきり見えるよう工夫する人など、さまざま。
トップバッターは、品のいいスモークパープルの色紋付の佐々木多門さん。
《白楽天》は能はもとより、舞囃子・仕舞もあまり観たことがないので、ストーリー以外どういうものかわからないのですが、男神の真ノ序ノ舞物だからかなり重い位なのですね。地謡も難しそう。
とにかく、十月の《楊貴妃》がとても楽しみなのでした。
次は粟谷充雄さんの《敦盛クセ》。
こちらはキリリとした黒紋付。たしか二月に仕舞を拝見した時は別の髪型だったと思うのですが、この日は僧侶の剃髪のような頭がジョン・マルコヴィッチのようで素敵でした。
《逆髪》の長島茂さんは薄灰色の色紋付。
わたしはこのとき咳の発作に見舞われそうになり、下を向いて抑えるのに必死だったので、見どころの水鏡に姿を映すところも拝見できず。
最後は白茶の色紋付の粟谷明生さん。
今まさに身体能力・技術力と豊かな経験が交差した円熟期の舞。
(身体を絞っていらっしゃるのかな……以前と比べて引き締まって見える)
欠けたることもなき望月のような、存在感のある《融》の仕舞でした。
素謡《鉄輪》
《鉄輪》は素謡だと、なぜか狂言役がいないから、前場はほとんどシテ一人の謡。
そんなわけで前場は独り舞台的な感じで終わり、物語は後半へ。
ワキツレ・浮気男の大島さんと、ワキ・安倍晴明の狩野了一さんの掛合が見事。
とくに狩野晴明の祈りの謡「肝胆を砕き祈りけり、謹上再拝」には強い呪力がこもっていて、この曲の素謡の白眉だった。
仕舞《白楽天》 佐々木多門
《敦盛クセ》 粟谷充雄
地謡 塩津圭介 佐藤寛泰 谷友矩 佐藤陽
素謡《井筒》シテ 友枝昭世
ワキ 長島茂
友枝昭世 粟谷能夫 大村定 谷大作 長島茂
粟谷浩之 金子敬一郎 友枝雄人 内田成信 友枝真也
仕舞《蝉丸》 長島茂
《融》 粟谷明生
地謡 佐藤章雄 塩津圭介 佐藤寛泰 佐藤陽
素謡《金輪》シテ 出雲康雅
ワキ 狩野了一 ワキツレ 大島輝久
香川靖嗣 塩津哲生 出雲康雅 粟谷明生 内田安信
佐々木多門 狩野了一 中村邦生 粟谷充雄 大島輝久
こういう素謡と仕舞だけの会ははじめて。
番組と配役が素敵なので行ってきました。
関東大震災と戦災で二度にわたり能舞台を焼失させるという辛酸をなめた十四世六平太。
その悲願がかない、やっとの思いで再建された現在の喜多能楽堂。
能楽堂入り口の重厚感のある木製の扉は、焼失した能舞台の名残でしょうか。
こうして素謡・仕舞の会で改修勧進が行われ、大切に、大切に補修されている……。
素謡《井筒》
友枝昭世さんは二年半前の「友枝昭世の會」で《井筒》は舞納めにされたという。
自決用の懐刀をしのばせて臨むような覚悟で、ひとつひとつの舞台を舞っている(少なくともわたしにはそう見える)。
「友枝昭世」という究極のブランドについてまわる観客の高い期待。
それを、歳を重ねても決して裏切らない舞台を続けている。
その想像を絶するほどの困難さ。
暁ごとの閼伽の水、月も心や清むらん
あのときの舞台を観ているからだろうか、シテの謡は井筒の女そのものに聞こえ、水桶と数珠を持った唐織姿の美しい女が、陽炎のように半透明になってスーッと舞台に立ち現れる。
井筒の女の美しい姿と、能面の裏側にあったシテの表情が二重写しになり、ああ、あのとき昭世師はこんなふうに謡っていたのか、とか、こんなふうに思いを込めていたのか、ということが素謡の進行に合わせて見えてくる。
昭世師の謡は、謡だけが突出して巧いという類の謡ではなく、その曲を舞っている時とまったく同じように(おそらく心の中で、魂そのものが舞いながら謡っているのだろう)、その時々のシテの所作や動きが視覚化されるような謡。
形見の直衣、身に触れて恥ずかしや。昔男に移り舞
ここのところはとりわけ情感がこもっていて、わたしも感極まって涙があふれてくる。
クライマックスはシテと地謡の謡がともに素晴らしく、二年前の舞台の時に耳にこびりついていた「さながら見みえし昔男の冠直衣は、女とも見えず、男なりけり、業平の面影」で最高潮に達し、井戸に手をかけて中をのぞきこみ、さらにススキをかき分けて井戸を深くのぞいた、あの印象深いシーンがよみがえってくる。
最後は、秋の気配を感じさせる静かな余韻━━。
仕舞四番
こういう会の仕舞って、舞手の色紋付姿もちょっとしたファッションショーみたいで秘かな楽しみ。
着付けの仕方も、襟を鈍角に合わせて詰め気味に着る人や、鋭角に合わせてゆったりと着る人、(おそらく補正で)胸・腹をふくらませる人、逆にお腹がすっきり見えるよう工夫する人など、さまざま。
トップバッターは、品のいいスモークパープルの色紋付の佐々木多門さん。
《白楽天》は能はもとより、舞囃子・仕舞もあまり観たことがないので、ストーリー以外どういうものかわからないのですが、男神の真ノ序ノ舞物だからかなり重い位なのですね。地謡も難しそう。
とにかく、十月の《楊貴妃》がとても楽しみなのでした。
次は粟谷充雄さんの《敦盛クセ》。
こちらはキリリとした黒紋付。たしか二月に仕舞を拝見した時は別の髪型だったと思うのですが、この日は僧侶の剃髪のような頭がジョン・マルコヴィッチのようで素敵でした。
《逆髪》の長島茂さんは薄灰色の色紋付。
わたしはこのとき咳の発作に見舞われそうになり、下を向いて抑えるのに必死だったので、見どころの水鏡に姿を映すところも拝見できず。
最後は白茶の色紋付の粟谷明生さん。
今まさに身体能力・技術力と豊かな経験が交差した円熟期の舞。
(身体を絞っていらっしゃるのかな……以前と比べて引き締まって見える)
欠けたることもなき望月のような、存在感のある《融》の仕舞でした。
素謡《鉄輪》
《鉄輪》は素謡だと、なぜか狂言役がいないから、前場はほとんどシテ一人の謡。
そんなわけで前場は独り舞台的な感じで終わり、物語は後半へ。
ワキツレ・浮気男の大島さんと、ワキ・安倍晴明の狩野了一さんの掛合が見事。
とくに狩野晴明の祈りの謡「肝胆を砕き祈りけり、謹上再拝」には強い呪力がこもっていて、この曲の素謡の白眉だった。
2017年3月24日金曜日
《三輪・神遊》後場~友枝昭世の會特別公演
2017年3月22日(水) 19時~20時45分 国立能楽堂
《三輪・神遊》前場からのつづき
【中入→間狂言】
間狂言では、「大穴持(オオナムチ)=三輪大明神」であることが語られる。
(ここからは私見ですが)
斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』によると、出雲族には古くから竜蛇信仰があり、蛇のトグロの形に似た山が、「神の籠る山(神名備山)」として崇拝されたという。
特に丸い山は女神の山と考えられ、出雲族が移り住んだ大和でも、太陽が昇る方角にある三輪山の神は、「太陽の女神」とされた。
もちろん、能《三輪》の直接の典拠は『俊頼髄脳』と考えられているが、三輪の神が女姿で顕現し、太陽神アマテラスと一体となる本曲には、そうした古事記以前の古代信仰の記憶が埋め込まれているのかもしれない。
【後場】
作り物から響くシテの声、そしてワキとの掛合いが神話の世界への扉を開いていく。
「御影あらたに見え給ふ」で引廻しが外されると、白狩衣に照明が反射して、シテに後光が射したように見え、あたりがパアーッと輝き出す。
(大鼓は中入ではまだ交換されず、おそらく神楽・破ノ舞に備えてシテサシでようやく交換。
中入では、なかば居眠り状態だった柿原崇志さんも、後場が始まるとキリッと覚醒し、ほとんど本能的に体が動いて鼓を打ち、掛け声を発しているように見えた。
芸が血肉そのものとなって、心身と一体化している――。)
〈クセ〉
クセの前半はシテが輝きを増し、壮麗な印象を与える。
友枝昭世さんはこういう神的な存在が最もよく似合う。
小面の面にもふつうの若い娘のような人間味はなく、かといって硬質な近寄りがたさもない、女神の媚態ともいうべき「聖なる色香」を感じさせる不思議な表情を浮かべている。
活玉依毘売に身をやつしたシテは
「さすが別れの悲しさに」で、立ち上がって作り物から出、
「苧環に針をつけ」と差し出した右袖を糸巻に見立て、意を決したように右袖を見る。
上ゲ端のあと「こはそもあさましや」で、左袖巻き上げ、
「契りし人の姿か」と、作り物につけられた杉の神木を、愛おしげに、懐かしげに見つめる。
永遠の絆を誓い合った相手は、もう手の届かない存在。
その衝撃、そのせつなさ。
突然の別れは、いつの世にも、誰の身にも起こりうる。
神木を見つめるシテの姿からは抑えがたい恋慕の情があふれてきて、ことさら忘れ難いシーンだった。
〈神楽〉
「八百万の神遊」で扇を閉じ、「これぞ神楽の始めなる」と扇を幣のように左右左と打ち振り、太鼓が入って下居・達拝。
神楽の序は六つ。
カカリで常座前方に立って再拝。
ユリを多用した松田さんの笛が時空を歪ませて、観る者をタイムマシンに乗せたまま悠久の時をさかのぼってゆく。
二段目でシテは脇座前で右手の扇を逆手に持ち替え、右袖を巻き上げ、笛がさらにユリを効かせ(十ノユリ)、グル―ヴ感全開のユリ無き七ツユリが続き、昂揚感を高めつつテンポが速まり、三段から神楽留へ。
〈神々の依り代となるシテ〉
「天の岩戸を引き立てて」で、シテはアマテラスとなって羽根扇で岩戸を引く所作、
「常世の闇と早なりぬ」で、扇で顔を覆いながら舞台を廻る。
さらに「八百万の神たち岩戸の前にてこれを歎き」で
今度は八百万の神々となって作り物(岩戸)に向かって下居。
ここから再びアマテラスとなって、
「天照大神その時に岩戸を少し開き給へば」と、作り物に入って合わせた両手を開き、
すぐさま作り物から出て、今度は岩戸の隙間からアマテラスが観た神遊の様子を再現する。
(おそらく破ノ舞の前半はアメノウズメで、後半からアマテラスとなる。)
〈破ノ舞〉
本舞台で右手の扇を逆手に持ち、右袖を巻き上げ、脇正側を小さく廻って袖を返し、サーッと橋掛りへ進み、幕際へ。
二の松で左袖を被き、右手の扇で顔を隠す(→翁の型)。
この時の、シテの、扇越しの流し目。
ほとんど悩殺されそうになるくらい、ゾクッとする。
友枝昭世の舞台で背筋を走るような官能を感じたのは初めてだった。
なまなましさのない艶麗さだ。
シテは、袖を被き顔を隠したまま、再び幕際に戻り、そこから総ナガシで本舞台へ。
天の岩戸が開かれ、まばゆい光が射してゆく――。
本舞台で被いた左袖を戻し、左袖を勢いよく巻き上げる。
天高く昇った燦々と輝く太陽!
「面白やと神の御声の、妙なる始めの物語」
ここで、一、二瞬の完全なる静寂。
時空の狭間は再び閉じられ、夜が明けて、
シテの留拍子とともに神話の世界の夢は終わった。
《三輪・神遊》前場からのつづき
能《三輪・神遊》シテ友枝昭世
ワキ森常好 アイ山本東次郎
松田弘之 曽和正博 柿原崇志 観世元伯→小寺真佐人
後見 塩津哲生 中村邦生 狩野了一
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
内田成信 金子敬一郎 友枝雄人 大島輝久
【中入→間狂言】
間狂言では、「大穴持(オオナムチ)=三輪大明神」であることが語られる。
(ここからは私見ですが)
斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』によると、出雲族には古くから竜蛇信仰があり、蛇のトグロの形に似た山が、「神の籠る山(神名備山)」として崇拝されたという。
特に丸い山は女神の山と考えられ、出雲族が移り住んだ大和でも、太陽が昇る方角にある三輪山の神は、「太陽の女神」とされた。
もちろん、能《三輪》の直接の典拠は『俊頼髄脳』と考えられているが、三輪の神が女姿で顕現し、太陽神アマテラスと一体となる本曲には、そうした古事記以前の古代信仰の記憶が埋め込まれているのかもしれない。
【後場】
作り物から響くシテの声、そしてワキとの掛合いが神話の世界への扉を開いていく。
「御影あらたに見え給ふ」で引廻しが外されると、白狩衣に照明が反射して、シテに後光が射したように見え、あたりがパアーッと輝き出す。
(大鼓は中入ではまだ交換されず、おそらく神楽・破ノ舞に備えてシテサシでようやく交換。
中入では、なかば居眠り状態だった柿原崇志さんも、後場が始まるとキリッと覚醒し、ほとんど本能的に体が動いて鼓を打ち、掛け声を発しているように見えた。
芸が血肉そのものとなって、心身と一体化している――。)
〈クセ〉
クセの前半はシテが輝きを増し、壮麗な印象を与える。
友枝昭世さんはこういう神的な存在が最もよく似合う。
小面の面にもふつうの若い娘のような人間味はなく、かといって硬質な近寄りがたさもない、女神の媚態ともいうべき「聖なる色香」を感じさせる不思議な表情を浮かべている。
活玉依毘売に身をやつしたシテは
「さすが別れの悲しさに」で、立ち上がって作り物から出、
「苧環に針をつけ」と差し出した右袖を糸巻に見立て、意を決したように右袖を見る。
上ゲ端のあと「こはそもあさましや」で、左袖巻き上げ、
「契りし人の姿か」と、作り物につけられた杉の神木を、愛おしげに、懐かしげに見つめる。
永遠の絆を誓い合った相手は、もう手の届かない存在。
その衝撃、そのせつなさ。
突然の別れは、いつの世にも、誰の身にも起こりうる。
神木を見つめるシテの姿からは抑えがたい恋慕の情があふれてきて、ことさら忘れ難いシーンだった。
〈神楽〉
「八百万の神遊」で扇を閉じ、「これぞ神楽の始めなる」と扇を幣のように左右左と打ち振り、太鼓が入って下居・達拝。
神楽の序は六つ。
カカリで常座前方に立って再拝。
ユリを多用した松田さんの笛が時空を歪ませて、観る者をタイムマシンに乗せたまま悠久の時をさかのぼってゆく。
二段目でシテは脇座前で右手の扇を逆手に持ち替え、右袖を巻き上げ、笛がさらにユリを効かせ(十ノユリ)、グル―ヴ感全開のユリ無き七ツユリが続き、昂揚感を高めつつテンポが速まり、三段から神楽留へ。
〈神々の依り代となるシテ〉
「天の岩戸を引き立てて」で、シテはアマテラスとなって羽根扇で岩戸を引く所作、
「常世の闇と早なりぬ」で、扇で顔を覆いながら舞台を廻る。
さらに「八百万の神たち岩戸の前にてこれを歎き」で
今度は八百万の神々となって作り物(岩戸)に向かって下居。
ここから再びアマテラスとなって、
「天照大神その時に岩戸を少し開き給へば」と、作り物に入って合わせた両手を開き、
すぐさま作り物から出て、今度は岩戸の隙間からアマテラスが観た神遊の様子を再現する。
(おそらく破ノ舞の前半はアメノウズメで、後半からアマテラスとなる。)
〈破ノ舞〉
本舞台で右手の扇を逆手に持ち、右袖を巻き上げ、脇正側を小さく廻って袖を返し、サーッと橋掛りへ進み、幕際へ。
二の松で左袖を被き、右手の扇で顔を隠す(→翁の型)。
この時の、シテの、扇越しの流し目。
ほとんど悩殺されそうになるくらい、ゾクッとする。
友枝昭世の舞台で背筋を走るような官能を感じたのは初めてだった。
なまなましさのない艶麗さだ。
シテは、袖を被き顔を隠したまま、再び幕際に戻り、そこから総ナガシで本舞台へ。
天の岩戸が開かれ、まばゆい光が射してゆく――。
本舞台で被いた左袖を戻し、左袖を勢いよく巻き上げる。
天高く昇った燦々と輝く太陽!
「面白やと神の御声の、妙なる始めの物語」
ここで、一、二瞬の完全なる静寂。
時空の狭間は再び閉じられ、夜が明けて、
シテの留拍子とともに神話の世界の夢は終わった。
2017年3月23日木曜日
友枝昭世の會《三輪・神遊》前場~熊本復興支援特別公演
2017年3月22日(水) 19時~20時45分 国立能楽堂
なんとか山場を越えて、久々の能楽堂へ。
行けるかどうかギリギリだったけど、拝見できてよかった!
ただ、この公演こそ元伯さんの太鼓で観たかった。
大曲の良い舞台であればあるほど、名人の不在がひびいてくる。
もちろん、代演の方は力の限りと尽くしていたし、全然悪くはなかったけれど、
囃子に関していえば、おいしいのになんとなくスパイスが効いてない優しい味。
【前場】
お調べを聴いてビックリしたけれど、笛もチラシでは杉信太朗さんだったのが
プログラムで確認したら松田さんになっていた。
「神遊」の神楽は笛が命だから?
ワキ(角帽子・茶水衣・灰無地熨斗目着流・紺房数珠)の登場のあと、
習ノ次第でシテが登場する。
幕があがってゆっくりと現れたシテの美しさにハッとさせられた。
出立は、渋い金茶と青みがかった銀色の見事な段替秋草模様唐織。
面は曲見だろうか。
増かと思うほど、艶やかで気品ただよう女面。
橋掛りを進むシテのハコビには重い摩擦感があり、
奥山の道なき道をゆく女の足取りと一途な思いを感じさせる。
一の松で後ろ(鏡板のほう)を向いて次第を謡い、
舞台に入って玄賓僧都に案内を乞う。
地謡「柴の編戸を押し開き」で、左手で戸を開ける所作、
「かくしも尋ね切樒」で、ワキに向かって下居、樒を置いて
「罪を助けてたび給へ」と、合掌。
〈シテの下居〉
秋の山居の寂寞とした景色が謡われるなか正中下居するシテの姿は、
定慶作の如意輪観音のように愁いを帯びた不動の美の結晶のよう。
名仏師が魂を籠めて仏像を彫りあげるように、
シテはみずからの肉体に魂を注ぎ込み、芸術品につくりあげる。
同じ型なのに、どのシテ方も、どの舞台も、それぞれ独自の下居姿があり、
先月の《東北》の下居と、この日の下居とは同じではない。
多くの名手が高齢になると下居を放棄せざるを得なくなるなか、
この佇まいの、息をのむほどの美しさ――。
わたしは奇跡のようなその姿に、ただただ見入っていた。
《三輪・神遊》後場につづく
能《三輪・神遊》シテ友枝昭世
ワキ森常好 アイ山本東次郎
松田弘之 曽和正博 柿原崇志 観世元伯→小寺真佐人
後見 塩津哲生 中村邦生 狩野了一
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
内田成信 金子敬一郎 友枝雄人 大島輝久
なんとか山場を越えて、久々の能楽堂へ。
行けるかどうかギリギリだったけど、拝見できてよかった!
ただ、この公演こそ元伯さんの太鼓で観たかった。
大曲の良い舞台であればあるほど、名人の不在がひびいてくる。
もちろん、代演の方は力の限りと尽くしていたし、全然悪くはなかったけれど、
囃子に関していえば、おいしいのになんとなくスパイスが効いてない優しい味。
【前場】
お調べを聴いてビックリしたけれど、笛もチラシでは杉信太朗さんだったのが
プログラムで確認したら松田さんになっていた。
「神遊」の神楽は笛が命だから?
ワキ(角帽子・茶水衣・灰無地熨斗目着流・紺房数珠)の登場のあと、
習ノ次第でシテが登場する。
幕があがってゆっくりと現れたシテの美しさにハッとさせられた。
出立は、渋い金茶と青みがかった銀色の見事な段替秋草模様唐織。
面は曲見だろうか。
増かと思うほど、艶やかで気品ただよう女面。
橋掛りを進むシテのハコビには重い摩擦感があり、
奥山の道なき道をゆく女の足取りと一途な思いを感じさせる。
一の松で後ろ(鏡板のほう)を向いて次第を謡い、
舞台に入って玄賓僧都に案内を乞う。
地謡「柴の編戸を押し開き」で、左手で戸を開ける所作、
「かくしも尋ね切樒」で、ワキに向かって下居、樒を置いて
「罪を助けてたび給へ」と、合掌。
〈シテの下居〉
秋の山居の寂寞とした景色が謡われるなか正中下居するシテの姿は、
定慶作の如意輪観音のように愁いを帯びた不動の美の結晶のよう。
名仏師が魂を籠めて仏像を彫りあげるように、
シテはみずからの肉体に魂を注ぎ込み、芸術品につくりあげる。
同じ型なのに、どのシテ方も、どの舞台も、それぞれ独自の下居姿があり、
先月の《東北》の下居と、この日の下居とは同じではない。
多くの名手が高齢になると下居を放棄せざるを得なくなるなか、
この佇まいの、息をのむほどの美しさ――。
わたしは奇跡のようなその姿に、ただただ見入っていた。
《三輪・神遊》後場につづく
2017年2月27日月曜日
友枝昭世の《東北》後場~喜多流自主公演二月
2017年2月26日(日) 12時~16時10分 喜多能楽堂
能《東北》シテ里女/和泉式部の霊 友枝昭世
ワキ旅僧 宝生欣哉 ワキツレ工藤和哉 則久英志
アイ東北院門前の者 石田幸雄
一噌隆之 鵜澤洋太郎 亀井忠雄
後見 香川靖嗣 内田安信
地謡 粟谷能夫 出雲康雅 粟谷明生 金子敬一郎
佐々木多門 内田成信 粟谷充雄 大島輝久
狂言《泣尼》シテ僧 野村萬斎
アド施主 深田博治 小アド尼 月崎晴夫
仕舞《弓八幡》粟谷充雄
地謡 佐藤陽 佐藤寛泰 谷友矩 高林昌司
能《春日龍神》シテ春日明神の仕人/龍神 塩津圭介
ワキ明恵上人 御厨誠吾 ワキツレ則久英志 吉田祐一
アイ春日神社の末社 深田博治
栗林祐輔 幸信吾 亀井洋佑 観世元伯→徳田宗久
後見 塩津哲生 谷大作
地謡 大村定 中村邦生 長島茂 狩野了一
粟谷浩之 高林呻二 友枝雄人 友枝真也
喜多流自主公演《東北》前場からのつづき
【後場】
一声の囃子が奏され、幕が上がる。
シテの姿はまだ見えない。
それでも暁闇の空がしだいに明るみはじめるように、
揚幕の奥の洞窟の向こうからほのかに光が射し、
装束の輝きの照り返しで、シテが近づいてくるのが分かる。
現れたシテは、まばゆく輝く白銀の長絹(露は朱)に緋大口の出立。
面はおそらく前シテと同じ小面だろうか。
この世の喜怒哀楽を超越した天女のような表情の女面が、
シテの人間離れした舞姿の雰囲気と溶け合う。
長絹には、朝顔にも似た梅花らしき花が青やピンクで装飾されている。
白長絹に緋大口という姿は、東北院の白梅に住まう和泉式部の霊にふわさしい。
〈クリ・サシ・クセ〉
クリ・サシで和歌の功徳が解かれ、「天道にかなふ詠吟たり」でユウケン、
ここから舞グセとなり、王城の鬼門を守護する東北院の素晴らしさが讃えられる。
このあと、地謡をはさんで、シテは達拝から序ノ舞へ。
シテの舞と地謡の謡との甘美な融合が、ひんやり生温かい春の夜気を漂わせてゆく。
〈序ノ舞〉
友枝昭世の舞と和泉式部の歌が、頭のなかで重なり合う。
冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
序を踏んだのち、シテは深まる闇のなかをたどるように、そっと、そっと歩を進める。
不可抗力的な情念の闇を、女の足が月を求めてさまよう。
夢にだに見で明かしつる暁の恋こそ恋のかぎりなりけれ
激しい恋の数々を思い描くように、大小前で開いた扇で華やかに弧を描き、
恋の苦しみの極みを味わった暁を懐しむように、
初段オロシで目付柱の彼方を見つめる。
物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る
二段目で白い袖を巻き上げた時、沢辺から蛍がぼうっと白く立ちのぼり、
オロシで面を遣うその視線が、あくがれ出たみずからの魂を追ってゆく。
どろどろした愛欲、懊悩、煩悩の沼の中から咲き出た純白の梅。
さまざまな色彩が塗り込められた重層的な白を身にまとうシテの姿は、
女という業深き存在を救う女神であり、歌舞の菩薩そのものだった。
〈終曲〉
色こそ見えね、香やは隠るる、香やは隠るる……梅風よもに薫ずなる
巧みな面遣いで、四方に満ちた梅の香を聞いたシテは、
「方丈の灯火を火宅とやなほ人は見ん」で、
情熱の燻りをほのめかすようにワキを見つめ、
常座に至って幕のほうを向いたまま留拍子。
なにか、とても尊いものを見た気がした。
狂言《泣尼》・能《春日龍神》につづく
能《東北》シテ里女/和泉式部の霊 友枝昭世
ワキ旅僧 宝生欣哉 ワキツレ工藤和哉 則久英志
アイ東北院門前の者 石田幸雄
一噌隆之 鵜澤洋太郎 亀井忠雄
後見 香川靖嗣 内田安信
地謡 粟谷能夫 出雲康雅 粟谷明生 金子敬一郎
佐々木多門 内田成信 粟谷充雄 大島輝久
狂言《泣尼》シテ僧 野村萬斎
アド施主 深田博治 小アド尼 月崎晴夫
仕舞《弓八幡》粟谷充雄
地謡 佐藤陽 佐藤寛泰 谷友矩 高林昌司
能《春日龍神》シテ春日明神の仕人/龍神 塩津圭介
ワキ明恵上人 御厨誠吾 ワキツレ則久英志 吉田祐一
アイ春日神社の末社 深田博治
栗林祐輔 幸信吾 亀井洋佑 観世元伯→徳田宗久
後見 塩津哲生 谷大作
地謡 大村定 中村邦生 長島茂 狩野了一
粟谷浩之 高林呻二 友枝雄人 友枝真也
喜多流自主公演《東北》前場からのつづき
【後場】
一声の囃子が奏され、幕が上がる。
シテの姿はまだ見えない。
それでも暁闇の空がしだいに明るみはじめるように、
揚幕の奥の洞窟の向こうからほのかに光が射し、
装束の輝きの照り返しで、シテが近づいてくるのが分かる。
現れたシテは、まばゆく輝く白銀の長絹(露は朱)に緋大口の出立。
面はおそらく前シテと同じ小面だろうか。
この世の喜怒哀楽を超越した天女のような表情の女面が、
シテの人間離れした舞姿の雰囲気と溶け合う。
長絹には、朝顔にも似た梅花らしき花が青やピンクで装飾されている。
白長絹に緋大口という姿は、東北院の白梅に住まう和泉式部の霊にふわさしい。
〈クリ・サシ・クセ〉
クリ・サシで和歌の功徳が解かれ、「天道にかなふ詠吟たり」でユウケン、
ここから舞グセとなり、王城の鬼門を守護する東北院の素晴らしさが讃えられる。
このあと、地謡をはさんで、シテは達拝から序ノ舞へ。
シテの舞と地謡の謡との甘美な融合が、ひんやり生温かい春の夜気を漂わせてゆく。
〈序ノ舞〉
友枝昭世の舞と和泉式部の歌が、頭のなかで重なり合う。
冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
序を踏んだのち、シテは深まる闇のなかをたどるように、そっと、そっと歩を進める。
不可抗力的な情念の闇を、女の足が月を求めてさまよう。
夢にだに見で明かしつる暁の恋こそ恋のかぎりなりけれ
激しい恋の数々を思い描くように、大小前で開いた扇で華やかに弧を描き、
恋の苦しみの極みを味わった暁を懐しむように、
初段オロシで目付柱の彼方を見つめる。
物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る
二段目で白い袖を巻き上げた時、沢辺から蛍がぼうっと白く立ちのぼり、
オロシで面を遣うその視線が、あくがれ出たみずからの魂を追ってゆく。
どろどろした愛欲、懊悩、煩悩の沼の中から咲き出た純白の梅。
さまざまな色彩が塗り込められた重層的な白を身にまとうシテの姿は、
女という業深き存在を救う女神であり、歌舞の菩薩そのものだった。
〈終曲〉
色こそ見えね、香やは隠るる、香やは隠るる……梅風よもに薫ずなる
巧みな面遣いで、四方に満ちた梅の香を聞いたシテは、
「方丈の灯火を火宅とやなほ人は見ん」で、
情熱の燻りをほのめかすようにワキを見つめ、
常座に至って幕のほうを向いたまま留拍子。
なにか、とても尊いものを見た気がした。
狂言《泣尼》・能《春日龍神》につづく
2017年2月26日日曜日
喜多流自主公演二月~《東北》
2017年2月26日(日) 12時~16時10分 喜多能楽堂
能《東北》シテ里女/和泉式部の霊 友枝昭世
ワキ旅僧 宝生欣哉 ワキツレ工藤和哉 則久英志
アイ東北院門前の者 石田幸雄
一噌隆之 鵜澤洋太郎 亀井忠雄
後見 香川靖嗣 内田安信
地謡 粟谷能夫 出雲康雅 粟谷明生 金子敬一郎
佐々木多門 内田成信 粟谷充雄 大島輝久
狂言《泣尼》シテ僧 野村萬斎
アド施主 深田博治 小アド尼 月崎晴夫
仕舞《弓八幡》粟谷充雄
地謡 佐藤陽 佐藤寛泰 谷友矩 高林昌司
能《春日龍神》シテ春日明神の仕人/龍神 塩津圭介
ワキ明恵上人 御厨誠吾 ワキツレ則久英志 吉田祐一
アイ春日神社の末社 深田博治
栗林祐輔 幸信吾 亀井洋佑 観世元伯→徳田宗久
後見 塩津哲生 谷大作
地謡 大村定 中村邦生 長島茂 狩野了一
粟谷浩之 高林呻二 友枝雄人 友枝真也
追加
最初から最後まで、一瞬一瞬がひたすら美しく、
梅花の女神のため息のような、人を酔わせる薫りが舞台から漂ってきて、
こちらはもう、とろとろに溶けて骨抜き状態。
三島由紀夫は《東北》について、
「文学的詞章から離れた全く純粋な人体の美的運動」と言っているけれど、
そうした情念の生々しさのない抽象度の高い曲こそ、
友枝昭世の芸の結晶が最も美しく輝く場だと思う。
この日の友枝昭世さんの《東北》も、これまで観てきた《東北》とは全然違っていて、
これだよね!これが禅竹の《東北》だよね!
と、探し求めていたものをようやく見つけた幸せな気分。
【前場】
次第の囃子で、ワキ・ワキツレ登場。
笛の一噌隆之さん、この日は咳き込むなどしてお辛そうだったが
(花粉症かな? 笛だと呼吸困難になるからほんとうに大変そう)、
ヒシギは二回ともきれいだった。
大小鼓は申し分なく、鵜澤洋太郎さんの皮と音の調整はほんと凄い。
どんな天候の時でも、たっぷりと潤いのある弾むような音色。
いつもながら美しいハコビで欣哉さんが登場。
薄茶の水衣に角帽子、グレーの無地熨斗目着流。
ワキツレとの道行では、則久英志の謡が冴えている。
この日は則久さんが二番ともワキツレを勤められたが、
どちらの謡も則久さんが入るとツヤが出て引き締まる。
都に着いた旅僧一行が咲き誇る梅を愛でているところへ、東北院門前の人がやってくる。
「これは和泉式部が植えた『和泉式部』という名の梅ですよ」と言われ、
僧が「ふうん、そうなんだー」と思いながら眺めていると、
〈シテの出〉
幕のなかから「のうのう」の声。
この声を聞いて、ホッと安堵する。
一週間前に国立主催公演の地謡を休演されたため心配していたけれど、
調子の良さを物語るような、
こちらが《東北》の前シテの出はこうあってほしいと望む声で一安心。
シテの出立は紅白段替唐織、面は小面だろうか。
一見すると可憐で愛らしい姿。
それでいて、所作や物腰は「天守物語」の富姫のようにあでやかで﨟長けている。
着付も一分の隙もないほどビシッと決まっていて、
それが中入りまでまったく崩れず、
鬘帯も最後までシテの背中の中心線をまっすぐ貫き、
凛とした後ろ姿を形づくっていた。
無駄な動きや軸のブレが一切ないシテと、隙のない装束付とが響き合い、
精巧無比な彫刻美に魂が吹きこまれる。
情趣豊かな地謡も曲の世界を見事に醸成し、
この地謡・後見・働キ・幕係との相互作用によって、シテの芸が生きてくる。
言わずもがなのことだけれど、ホームグラウンドで観ると、
喜多流らしく一本筋の通った連係プレイの素晴らしさがいっそう強く感じられた。
《東北》後場につづく
(以下はおまけの脱線です)
今月は十六世六平太の一周忌とのことで最後に「追加」があったのですが、それを聞きながら、他のシテ方流儀とは違い、共和制をしく喜多流の先進性について思いを馳せたのです。
(ちなみに、うちの(母校の)大学の能楽サークルも喜多流。指導はA.A師。当時は菊生師もご指導されていたかも。同じ研究室の子が小鼓を打っていたのが懐かしい。)
流儀運営を共和制で行うというのは大変だとは思うけれど、わたしのような全くの部外者が見る限りでは、良い方向にどんどん変わっているように感じます。
それを思いつくままに列挙すると、
(1)流儀のサイトがすばらしく充実!
「スケジュール」の項目が大変見やすく、自主公演だけでなく個人の会や他流の会などの情報が素早く更新されていき、チラシもPDFで観ることができるので、行きたい公演やチケット発売日がチェックしやすい。
また、メンバーのプロフィールも載っているので、顔と名前を覚えやすい。
(2)喜多流専用チケットネット販売の開始
これはもう、一般部外者にとってはほんとうにありがたいシステム!
ネット販売が導入されて敷居が低くなったのは確か
(3)情報発信力の高さ
流儀の公式ツイッターで随時情報発信している。
情報発信のスピードの速さは業界屈指だと思う。
(4)外国人向けのイベント・ワークショップで能のグローバル化を図る
(5)懐が深い
九郎右衛門さんや味方玄さんの東京での公演チラシを置いてくれている。
この日も銕仙会のチラシがあった。
こんなふうに喜多流は革新性に満ちていて、
芸の中身は変えず、新奇性に飛び付かず、骨太の芸風を深めていくいっぽうで、
チケットの販売法や情報発信などのシステムは変えていく。
一般客からすれば、これこそ理想の変革。
他流・他家も採り入れてほしいな。
能《東北》シテ里女/和泉式部の霊 友枝昭世
ワキ旅僧 宝生欣哉 ワキツレ工藤和哉 則久英志
アイ東北院門前の者 石田幸雄
一噌隆之 鵜澤洋太郎 亀井忠雄
後見 香川靖嗣 内田安信
地謡 粟谷能夫 出雲康雅 粟谷明生 金子敬一郎
佐々木多門 内田成信 粟谷充雄 大島輝久
狂言《泣尼》シテ僧 野村萬斎
アド施主 深田博治 小アド尼 月崎晴夫
仕舞《弓八幡》粟谷充雄
地謡 佐藤陽 佐藤寛泰 谷友矩 高林昌司
能《春日龍神》シテ春日明神の仕人/龍神 塩津圭介
ワキ明恵上人 御厨誠吾 ワキツレ則久英志 吉田祐一
アイ春日神社の末社 深田博治
栗林祐輔 幸信吾 亀井洋佑 観世元伯→徳田宗久
後見 塩津哲生 谷大作
地謡 大村定 中村邦生 長島茂 狩野了一
粟谷浩之 高林呻二 友枝雄人 友枝真也
追加
最初から最後まで、一瞬一瞬がひたすら美しく、
梅花の女神のため息のような、人を酔わせる薫りが舞台から漂ってきて、
こちらはもう、とろとろに溶けて骨抜き状態。
三島由紀夫は《東北》について、
「文学的詞章から離れた全く純粋な人体の美的運動」と言っているけれど、
そうした情念の生々しさのない抽象度の高い曲こそ、
友枝昭世の芸の結晶が最も美しく輝く場だと思う。
この日の友枝昭世さんの《東北》も、これまで観てきた《東北》とは全然違っていて、
これだよね!これが禅竹の《東北》だよね!
と、探し求めていたものをようやく見つけた幸せな気分。
【前場】
次第の囃子で、ワキ・ワキツレ登場。
笛の一噌隆之さん、この日は咳き込むなどしてお辛そうだったが
(花粉症かな? 笛だと呼吸困難になるからほんとうに大変そう)、
ヒシギは二回ともきれいだった。
大小鼓は申し分なく、鵜澤洋太郎さんの皮と音の調整はほんと凄い。
どんな天候の時でも、たっぷりと潤いのある弾むような音色。
いつもながら美しいハコビで欣哉さんが登場。
薄茶の水衣に角帽子、グレーの無地熨斗目着流。
ワキツレとの道行では、則久英志の謡が冴えている。
この日は則久さんが二番ともワキツレを勤められたが、
どちらの謡も則久さんが入るとツヤが出て引き締まる。
都に着いた旅僧一行が咲き誇る梅を愛でているところへ、東北院門前の人がやってくる。
「これは和泉式部が植えた『和泉式部』という名の梅ですよ」と言われ、
僧が「ふうん、そうなんだー」と思いながら眺めていると、
〈シテの出〉
幕のなかから「のうのう」の声。
この声を聞いて、ホッと安堵する。
一週間前に国立主催公演の地謡を休演されたため心配していたけれど、
調子の良さを物語るような、
こちらが《東北》の前シテの出はこうあってほしいと望む声で一安心。
シテの出立は紅白段替唐織、面は小面だろうか。
一見すると可憐で愛らしい姿。
それでいて、所作や物腰は「天守物語」の富姫のようにあでやかで﨟長けている。
着付も一分の隙もないほどビシッと決まっていて、
それが中入りまでまったく崩れず、
鬘帯も最後までシテの背中の中心線をまっすぐ貫き、
凛とした後ろ姿を形づくっていた。
無駄な動きや軸のブレが一切ないシテと、隙のない装束付とが響き合い、
精巧無比な彫刻美に魂が吹きこまれる。
情趣豊かな地謡も曲の世界を見事に醸成し、
この地謡・後見・働キ・幕係との相互作用によって、シテの芸が生きてくる。
言わずもがなのことだけれど、ホームグラウンドで観ると、
喜多流らしく一本筋の通った連係プレイの素晴らしさがいっそう強く感じられた。
《東北》後場につづく
(以下はおまけの脱線です)
今月は十六世六平太の一周忌とのことで最後に「追加」があったのですが、それを聞きながら、他のシテ方流儀とは違い、共和制をしく喜多流の先進性について思いを馳せたのです。
(ちなみに、うちの(母校の)大学の能楽サークルも喜多流。指導はA.A師。当時は菊生師もご指導されていたかも。同じ研究室の子が小鼓を打っていたのが懐かしい。)
流儀運営を共和制で行うというのは大変だとは思うけれど、わたしのような全くの部外者が見る限りでは、良い方向にどんどん変わっているように感じます。
それを思いつくままに列挙すると、
(1)流儀のサイトがすばらしく充実!
「スケジュール」の項目が大変見やすく、自主公演だけでなく個人の会や他流の会などの情報が素早く更新されていき、チラシもPDFで観ることができるので、行きたい公演やチケット発売日がチェックしやすい。
また、メンバーのプロフィールも載っているので、顔と名前を覚えやすい。
(2)喜多流専用チケットネット販売の開始
これはもう、一般部外者にとってはほんとうにありがたいシステム!
ネット販売が導入されて敷居が低くなったのは確か
(3)情報発信力の高さ
流儀の公式ツイッターで随時情報発信している。
情報発信のスピードの速さは業界屈指だと思う。
(4)外国人向けのイベント・ワークショップで能のグローバル化を図る
(5)懐が深い
九郎右衛門さんや味方玄さんの東京での公演チラシを置いてくれている。
この日も銕仙会のチラシがあった。
こんなふうに喜多流は革新性に満ちていて、
芸の中身は変えず、新奇性に飛び付かず、骨太の芸風を深めていくいっぽうで、
チケットの販売法や情報発信などのシステムは変えていく。
一般客からすれば、これこそ理想の変革。
他流・他家も採り入れてほしいな。
2016年12月9日金曜日
友枝昭世の《遊行柳》~国立能楽堂十二月定例公演
2016年12月7日(水) 13時~15時45分 国立能楽堂
狂言《箕被》からのつづき
能《遊行柳》老人/老柳の精 友枝昭世
ワキ宝生欣哉 ワキツレ大日方寛 御厨誠吾
アイ野村万作→野村萬斎
藤田六郎兵衛 曽和正博 柿原崇志 小寺佐七
後見 中村邦生 友枝雄人
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
友枝真也 狩野了一 金子敬一郎 大島輝久
働キ 佐々木多門
もしかすると、もうこれ以上の《遊行柳》を観ることはないのかもしれない。
《西行桜》への単なるオマージュ作という今までの認識がガラリとくつがえされ、華麗なスペクタクル物を作り続けた信光が最後に奥妙な境地にたどり着き、途方もない名曲を生み出したことに気づかされた。
(頭をガツンと殴られたような衝撃と感動!)、
いつもながら喜多流の舞台は緊密で少しの弛みもなく、作り物を下げる時でさえ、後見や働キの人たちの佇まいや所作、立ち上がるタイミングまで、すべてにおいて完璧で美しく、余韻を乱すどころか、余韻を深める彩りとなっていた。
【前場】
この日のワキ・ワキツレは九月の香川靖嗣の会《遊行柳》と同じで、地謡も地頭が友枝昭世師から香川靖嗣師に入れ替わり、友枝雄人・真也兄弟が入れ替わっただけの布陣。
やはり、欣哉さんのワキは好い。
シテと完全に呼吸を合わせているし、舞台全体の微妙な空気や観客の反応を敏感に読み取り、それに応じてハコビの速度やシテへの視線・声の調子を変えている。
白川の関を過ぎた遊行上人一行が広い街道を進もうとすると、幕の中から呼び掛ける声。
幕から出たシテは、褪色したような薄灰緑色の水衣に小尉の面。
そのハコビには袴能《天鼓》の前シテでも感じた老衰感・憔悴感が漂う。
このわざとらしくなく、かといって写実に偏らない、つまり老醜の匂いを感じさせない「美しい老いの風情」を醸し出すさじ加減が絶妙だった。
(顎が上がり、力のない衰えきった姿で立っているのに見栄えが悪くないどころか、美しく見える不思議。いったいどのように身体を使えばあんなふうにできるのか、見当もつかない。)
老人はかつて遊行上人が通った旧街道にワキを案内し、朽木の柳の生えた古塚へと導く。
蔦葛の這いまとう朽木と古塚を前にして茫然と立ち尽くすワキの上人。
「風のみ渡るけしきかな」で、辺りを見回すシテの視線が、旅人たちが行き交う往時のにぎわいと、彼らの道しるべとなりオアシスとなった柳塚の誇らしげな姿を描き出す。
だが、それも一瞬で、辺りはふたたび廃線跡のような荒涼とした風景となり、
朽木と古塚の前に立つ二人の姿がユベール・ロベールの廃墟の絵を思わせた。
【後場】
待謡の後、出端の囃子となり、やがて作り物のなかからシテが謡い出す。
「(老木の柳の髪も乱るる白髪の老人)忽然と現れ出でたる」で、引廻しが外され、柳の精が姿をあらわす。
後シテの出立は、灰緑の単狩衣に水浅葱の色大口。
面は、森厳な顔立ちの石王尉。
古塚のなかで床几にかかるその姿は、神さびた遺跡のように古色蒼然とした空気をまとっている。
シテは「西方便有一蓮生」で、立ち上がり、
「上品上生に至らんことぞ嬉しき」で、作り物から出て下居し、ワキに向かって合掌。
ここから古今東西の柳の故事が語られるクリ・サシ・クセに入り、
清水寺・楊柳観音の縁起を語る場面の「金色の光さす」ではシテの顔がパッと輝き、
「暮れに数ある沓の音」で、ポンッと足先で鞠を蹴りあげる型は、はずむ鞠の弾力と飛距離を感じさせる。
そして序ノ舞。
有情の老人のような生々しさはそこにはない。
旅人に道を示し、涼を与えてきた柳が、今まさに役目を終えて枯れようとする朽ち木感。
シテが舞うほどに、水分も油気も抜けた枯れゆく植物のはらはらと散るような軽やかさ、閑雅な清らかさが立ち込める。
今まで見たどの序ノ舞とも違う、友枝昭世の《遊行柳》の序ノ舞に、
この世に生を受けた者の、見事な終末の姿を見た気がした。
舞い終えたシテは、ワキの上人としばし見つめ合ったのち、
秋の西風に吹かれて葉をちりぢりに散り落とし、
常座に立ったまま、まるで宮崎駿のアニメーションのように、
みるみるうちに本物の朽木に身を変じ、
あとにはただ、一本の柳の枯木が残るのみだった。
狂言《箕被》からのつづき
| 帰り道、能楽堂前の銀杏並木 |
能《遊行柳》老人/老柳の精 友枝昭世
ワキ宝生欣哉 ワキツレ大日方寛 御厨誠吾
アイ野村万作→野村萬斎
藤田六郎兵衛 曽和正博 柿原崇志 小寺佐七
後見 中村邦生 友枝雄人
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
友枝真也 狩野了一 金子敬一郎 大島輝久
働キ 佐々木多門
《西行桜》への単なるオマージュ作という今までの認識がガラリとくつがえされ、華麗なスペクタクル物を作り続けた信光が最後に奥妙な境地にたどり着き、途方もない名曲を生み出したことに気づかされた。
(頭をガツンと殴られたような衝撃と感動!)、
いつもながら喜多流の舞台は緊密で少しの弛みもなく、作り物を下げる時でさえ、後見や働キの人たちの佇まいや所作、立ち上がるタイミングまで、すべてにおいて完璧で美しく、余韻を乱すどころか、余韻を深める彩りとなっていた。
【前場】
この日のワキ・ワキツレは九月の香川靖嗣の会《遊行柳》と同じで、地謡も地頭が友枝昭世師から香川靖嗣師に入れ替わり、友枝雄人・真也兄弟が入れ替わっただけの布陣。
やはり、欣哉さんのワキは好い。
シテと完全に呼吸を合わせているし、舞台全体の微妙な空気や観客の反応を敏感に読み取り、それに応じてハコビの速度やシテへの視線・声の調子を変えている。
白川の関を過ぎた遊行上人一行が広い街道を進もうとすると、幕の中から呼び掛ける声。
幕から出たシテは、褪色したような薄灰緑色の水衣に小尉の面。
そのハコビには袴能《天鼓》の前シテでも感じた老衰感・憔悴感が漂う。
このわざとらしくなく、かといって写実に偏らない、つまり老醜の匂いを感じさせない「美しい老いの風情」を醸し出すさじ加減が絶妙だった。
(顎が上がり、力のない衰えきった姿で立っているのに見栄えが悪くないどころか、美しく見える不思議。いったいどのように身体を使えばあんなふうにできるのか、見当もつかない。)
老人はかつて遊行上人が通った旧街道にワキを案内し、朽木の柳の生えた古塚へと導く。
蔦葛の這いまとう朽木と古塚を前にして茫然と立ち尽くすワキの上人。
「風のみ渡るけしきかな」で、辺りを見回すシテの視線が、旅人たちが行き交う往時のにぎわいと、彼らの道しるべとなりオアシスとなった柳塚の誇らしげな姿を描き出す。
だが、それも一瞬で、辺りはふたたび廃線跡のような荒涼とした風景となり、
朽木と古塚の前に立つ二人の姿がユベール・ロベールの廃墟の絵を思わせた。
【後場】
待謡の後、出端の囃子となり、やがて作り物のなかからシテが謡い出す。
「(老木の柳の髪も乱るる白髪の老人)忽然と現れ出でたる」で、引廻しが外され、柳の精が姿をあらわす。
後シテの出立は、灰緑の単狩衣に水浅葱の色大口。
面は、森厳な顔立ちの石王尉。
古塚のなかで床几にかかるその姿は、神さびた遺跡のように古色蒼然とした空気をまとっている。
シテは「西方便有一蓮生」で、立ち上がり、
「上品上生に至らんことぞ嬉しき」で、作り物から出て下居し、ワキに向かって合掌。
ここから古今東西の柳の故事が語られるクリ・サシ・クセに入り、
清水寺・楊柳観音の縁起を語る場面の「金色の光さす」ではシテの顔がパッと輝き、
「暮れに数ある沓の音」で、ポンッと足先で鞠を蹴りあげる型は、はずむ鞠の弾力と飛距離を感じさせる。
そして序ノ舞。
有情の老人のような生々しさはそこにはない。
旅人に道を示し、涼を与えてきた柳が、今まさに役目を終えて枯れようとする朽ち木感。
シテが舞うほどに、水分も油気も抜けた枯れゆく植物のはらはらと散るような軽やかさ、閑雅な清らかさが立ち込める。
今まで見たどの序ノ舞とも違う、友枝昭世の《遊行柳》の序ノ舞に、
この世に生を受けた者の、見事な終末の姿を見た気がした。
舞い終えたシテは、ワキの上人としばし見つめ合ったのち、
秋の西風に吹かれて葉をちりぢりに散り落とし、
常座に立ったまま、まるで宮崎駿のアニメーションのように、
みるみるうちに本物の朽木に身を変じ、
あとにはただ、一本の柳の枯木が残るのみだった。
2016年11月9日水曜日
友枝昭世の《野宮》後場~友枝會
2016年11月6日(日) 13時~17時15分 国立能楽堂
友枝会~《野宮》前場からのつづき
能《野宮》シテ友枝昭世
ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
一噌仙幸→一噌隆之 曾和正博 柿原崇志
後見 中村邦生 佐々木多門
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 出雲康雅 長島茂
大島輝久 内田成信 金子敬一郎 佐藤寛泰
狂言《鐘の音》シテ野村萬 アド能村晶人
ワキ工藤和也ワキツレ則久英志 御厨誠吾→代演
アイ野村虎之介 野村拳之介
一噌隆之 観世新九郎 大倉慶乃助 観世元伯
後見 内田安信 塩津哲生
地謡 大村定 粟谷明生 狩野了一 谷大作
塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤陽
【後場】
〈一声→後シテの出〉
前シテの時とはまったく違う、牛車に乗った貴婦人を思わせる優雅な律動感のあるハコビ。
シテの出立は神々しく輝く白地長絹に、艶やかな京紫の色大口。
面は前シテと同じだろうか。
斎宮とともに伊勢に下った御息所と、心を野宮に残したままの御息所。
心身ともに半聖半俗の御息所の存在が装束にもあらわされている。
〈シテ・ワキの掛け合い〉
シテは常座に入り、ワキとの掛け合い。車争いの様子が再現される。
ここのワキの謡「所狭きまで立て並ぶる」や「御車とて人を払ひ、立ち騒ぎたるその中に」や「車の前後に」がいつになく強い調子に感じる。
この欣哉さんの強い謡には車争いの臨場感を高めるとともに、シテの気持ちの昂ぶりを代弁する働きもあり、非常にドラマティックな場面となっていた。
(御息所も、自分の気持ちをこれほど理解し同調してくれる人にこれまで出会ったことがないのではないだろうか。
だからこそ欣哉さん扮する僧の前で、抑えに抑えた思いを解き放ち破ノ舞に至るのだと、その心のプロセスがよくわかるシテとワキの掛け合いだった。)
〈車争い→序ノ舞〉
御息所の妄執の元凶となる屈辱シーン。
「人々ながえに取り付きつつ」で、右袖巻き上げ、
「人だまひの奥に押しやられて」で、押しやられるように後ずさりし、
「身のほどぞ思ひ知られたる」で、顔を隠すように右袖を二度上げ、
「身はなほ牛(憂し)の小車の廻り廻りきて」で、閉じた扇を左肩上にあげ、肩越しに牛車を引くようにして舞台を小さくまわる。
そして、観世流では「昔を思ふ花の袖」のところが、喜多流では「昔に帰る花の袖」となり、よりいっそう旧懐の舞としての遡及的要素が強くなる。
序ノ舞の、白い長絹に達拝の姿は巫女的なイメージ。
嫉妬や恨みなどの負の感情を知らなかった、無垢で幸せな頃の清らかな舞。
喜多流の序ノ舞だからだろうか(それとも昭世師の独創だろうか)、二段オロシでは地謡前で右袖を巻き上げるなど、全体的に舞台上手に比重を置いた序ノ舞。
(上掛りでは脇正で右袖を被くなど、舞台下手側に比重が置かれる。)
〈破ノ舞→終曲〉
地面におりた露に、月の光が反射してキラキラと美しく光る森のなか、
この露を払いつつ源氏が訪れたあの日のことをシテは思い出す。
「露打ち払ひ」で、開いた扇で露を払い、
「(訪はれし我もその人も)ただ夢の世と古りゆく」で、声なき嘆きとともに後退し、
「誰松(待つ)虫の音はりんりんとして」で、耳を澄ます。
彼女が聴きたかったのは虫の音か、それとも、ここを訪れる源氏の足音なのか。
御息所もまた、松風や井筒の女のように「待つ女」なのだと思った。
ここで、シテは思いが一気にあふれ出たように鳥居に駆け寄り、手を伸ばす。
おそらく彼女にとって鳥居は、あの日の象徴であり、源氏の姿そのものなのだ。
その鳥居に触れそうで、触れない。
ほんとうは触れたいのに、思いきり抱きしめたいのに、理性でぐっと思いとどまる。
理性と感情に引き裂かれ、ときには生霊となりながらも、感情と理性のあいだで苦悩し、ひとりで闘い抜いたのが友枝昭世の御息所だった。
(この場面をいま思い出すだけで、彼女の孤独な闘い、孤独な葛藤が胸に迫ってきて、涙があふれてくる。)
自己矛盾に翻弄されたシテは狂おしい破ノ舞を舞い、鳥居から出ることもなく、本舞台の上で車にうち乗り、「火宅~」で終わる地謡とともに、ふたたび迷妄のなかへと還っていった。
友枝会~《野宮》前場からのつづき
能《野宮》シテ友枝昭世
ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
一噌仙幸→一噌隆之 曾和正博 柿原崇志
後見 中村邦生 佐々木多門
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 出雲康雅 長島茂
大島輝久 内田成信 金子敬一郎 佐藤寛泰
狂言《鐘の音》シテ野村萬 アド能村晶人
能《国栖》シテ友枝雄人 ツレ姥 友枝真也
ツレ天女 友枝雄太郎 子方 内田利成ワキ工藤和也ワキツレ則久英志 御厨誠吾→代演
アイ野村虎之介 野村拳之介
一噌隆之 観世新九郎 大倉慶乃助 観世元伯
後見 内田安信 塩津哲生
地謡 大村定 粟谷明生 狩野了一 谷大作
塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤陽
【後場】
〈一声→後シテの出〉
前シテの時とはまったく違う、牛車に乗った貴婦人を思わせる優雅な律動感のあるハコビ。
シテの出立は神々しく輝く白地長絹に、艶やかな京紫の色大口。
面は前シテと同じだろうか。
斎宮とともに伊勢に下った御息所と、心を野宮に残したままの御息所。
心身ともに半聖半俗の御息所の存在が装束にもあらわされている。
〈シテ・ワキの掛け合い〉
シテは常座に入り、ワキとの掛け合い。車争いの様子が再現される。
ここのワキの謡「所狭きまで立て並ぶる」や「御車とて人を払ひ、立ち騒ぎたるその中に」や「車の前後に」がいつになく強い調子に感じる。
この欣哉さんの強い謡には車争いの臨場感を高めるとともに、シテの気持ちの昂ぶりを代弁する働きもあり、非常にドラマティックな場面となっていた。
(御息所も、自分の気持ちをこれほど理解し同調してくれる人にこれまで出会ったことがないのではないだろうか。
だからこそ欣哉さん扮する僧の前で、抑えに抑えた思いを解き放ち破ノ舞に至るのだと、その心のプロセスがよくわかるシテとワキの掛け合いだった。)
〈車争い→序ノ舞〉
御息所の妄執の元凶となる屈辱シーン。
「人々ながえに取り付きつつ」で、右袖巻き上げ、
「人だまひの奥に押しやられて」で、押しやられるように後ずさりし、
「身のほどぞ思ひ知られたる」で、顔を隠すように右袖を二度上げ、
「身はなほ牛(憂し)の小車の廻り廻りきて」で、閉じた扇を左肩上にあげ、肩越しに牛車を引くようにして舞台を小さくまわる。
そして、観世流では「昔を思ふ花の袖」のところが、喜多流では「昔に帰る花の袖」となり、よりいっそう旧懐の舞としての遡及的要素が強くなる。
序ノ舞の、白い長絹に達拝の姿は巫女的なイメージ。
嫉妬や恨みなどの負の感情を知らなかった、無垢で幸せな頃の清らかな舞。
喜多流の序ノ舞だからだろうか(それとも昭世師の独創だろうか)、二段オロシでは地謡前で右袖を巻き上げるなど、全体的に舞台上手に比重を置いた序ノ舞。
(上掛りでは脇正で右袖を被くなど、舞台下手側に比重が置かれる。)
〈破ノ舞→終曲〉
地面におりた露に、月の光が反射してキラキラと美しく光る森のなか、
この露を払いつつ源氏が訪れたあの日のことをシテは思い出す。
「露打ち払ひ」で、開いた扇で露を払い、
「(訪はれし我もその人も)ただ夢の世と古りゆく」で、声なき嘆きとともに後退し、
「誰松(待つ)虫の音はりんりんとして」で、耳を澄ます。
彼女が聴きたかったのは虫の音か、それとも、ここを訪れる源氏の足音なのか。
御息所もまた、松風や井筒の女のように「待つ女」なのだと思った。
ここで、シテは思いが一気にあふれ出たように鳥居に駆け寄り、手を伸ばす。
おそらく彼女にとって鳥居は、あの日の象徴であり、源氏の姿そのものなのだ。
その鳥居に触れそうで、触れない。
ほんとうは触れたいのに、思いきり抱きしめたいのに、理性でぐっと思いとどまる。
理性と感情に引き裂かれ、ときには生霊となりながらも、感情と理性のあいだで苦悩し、ひとりで闘い抜いたのが友枝昭世の御息所だった。
(この場面をいま思い出すだけで、彼女の孤独な闘い、孤独な葛藤が胸に迫ってきて、涙があふれてくる。)
自己矛盾に翻弄されたシテは狂おしい破ノ舞を舞い、鳥居から出ることもなく、本舞台の上で車にうち乗り、「火宅~」で終わる地謡とともに、ふたたび迷妄のなかへと還っていった。
2016年11月7日月曜日
友枝会~《野宮》前場
2016年11月6日(日) 13時~17時15分 国立能楽堂
能《野宮》シテ友枝昭世
ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
一噌仙幸→一噌隆之 曾和正博 柿原崇志
後見 中村邦生 佐々木多門
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 出雲康雅 長島茂
大島輝久 内田成信 金子敬一郎 佐藤寛泰
狂言《鐘の音》シテ野村萬 アド能村晶人
ワキ工藤和也 ワキツレ則久英志 御厨誠吾→代演
アイ野村虎之介 野村拳之介
一噌隆之 観世新九郎 大倉慶乃助 観世元伯
後見 内田安信 塩津哲生
地謡 大村定 粟谷明生 狩野了一 谷大作
塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤陽
今月で、観能三周年を迎えます。
わたしにとって友枝会はいわばその記念公演。
ひとつだけ贅沢を言えば脇能or修羅能と狂言が先にあって、《野宮》がラストだったらもっとよかったなー。
感動をほかの舞台で上書きせずに、しばらくボーッと、余韻に浸っていたかった。
【前場】
〈ワキの登場〉
名ノリ笛でワキが登場。
一噌仙幸師の代演で笛を吹いた隆之さんが《国栖》と連続登板。
《野宮》の仙幸師の代わりには一噌庸二or藤田次郎さんがいいと思っていたのですが、隆之さんの笛もこの日は良かった。
とくにヒシギが《野宮》にふさわしい繊細で情趣豊かなヒシギになっていて、いつのまにか階段をいくつか登られたのを感じた。
そして、ワキの欣哉さん。
幕を出た瞬間からその美しいすり足とともに、晩秋の冷え冷えとした空気を運んでくる。
この方のハコビとすらりとした姿勢には、しっとりとした詩情が漂っている。
所作のひとつひとつが詩の韻律を生み出してゆく。
そのまま舞台へ進み、紅葉も色褪せた森の景色に溶け込む。
鳥居之前で手を合わせ、野宮→伊勢→仏の道に思いを馳せて心を澄ませていると;
〈シテの登場〉
次第の囃子にのってシテが現れる。
何か、強い重力に抵抗するような重いハコビ。
野宮へ還ることを戒める自分と、どうしても毎年ここへ還ってきてしまう自分。
後ろにグッと踏みとどまろうとする力と、前に強く引かれて進もうとする力。
相反する力の拮抗と矛盾する心の葛藤が、その重い抵抗を感じさせるハコビに象徴されていた。
前シテの出立は、秋の草花がぎっしり織り込まれた精緻な唐織。
面は増だろうか。
現代的な目鼻立ちのはっきりした美女だ。
(チラシの写真と同じ面?)
シテは鳥居の前に佇む男の姿を見て「とくとく帰り給へよ」と、ここが神にとって、そして自分にとっての不可侵の聖地であることを毅然と示すが、だからといって相手を冷たくはねつけるわけではない。
その声には、つねに心を武装してきた彼女が旅僧と通じ合う何かを感じ取り、相手をなかば受け入れるような響きがあった。
〈初同〉
喜多流の謡の醍醐味が凝縮されたような素晴らしい地謡。
謡によって《野宮》にふさわしい物哀しい雰囲気が醸成され、
条件反射的に泣いてしまう映画音楽を聴いた時のように、この初同から涙があふれてきて、後場の山場になるとほとんど号泣しそうになる。
「うらがれの草葉に荒るる野宮の」から、シテは鳥居前に進み、
「跡なつかしきここにしも」で、下居して榊を供え、
「その長月七日の日も今日にめぐり気にけり」で、後ろに下がってワキに向く。
そして「火焼屋の微かなる光は我が想い内にある」で目付柱やや上方を見るのだが、
その時、ポッと頬を上気させたような、ときめきを覚えた少女のような表情を浮かべる。
彼女は嫉妬に狂った半面、少女のような純愛を心の奥底で燃やし続けていた――そんな想像が湧いてくる。
その一途な愛に見合った愛され方をしていたらこんなに苦しまなくて済んだだろうに。
〈クリ・サシ・クセ〉
正中で床几に掛かるシテの、気高いユリの花を思わせる美しさ。
御息所の悲劇は、その高根の花のような高貴な外見と、ほんとうは繊細で傷つきやすい内面とのギャップであり、その内面を素直にあらわせない(育ちや身分による)気位の高さ、不器用さなのかもしれない。
友枝昭世の前シテは、御息所の品格や気高さとともに、その奥に隠された可憐さや脆さ、そしておそらく東宮妃時代の愛らしさをも感じさせた。
やがて前シテは自らの名を明かすと、鳥居の柱に隠れ、送り笛とともに消えてゆく。
友枝會~《野宮》後場につづく
能《野宮》シテ友枝昭世
ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
一噌仙幸→一噌隆之 曾和正博 柿原崇志
後見 中村邦生 佐々木多門
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 出雲康雅 長島茂
大島輝久 内田成信 金子敬一郎 佐藤寛泰
狂言《鐘の音》シテ野村萬 アド能村晶人
能《国栖》シテ友枝雄人 ツレ姥 友枝真也
ツレ天女 友枝雄太郎 子方 内田利成ワキ工藤和也 ワキツレ則久英志 御厨誠吾→代演
アイ野村虎之介 野村拳之介
一噌隆之 観世新九郎 大倉慶乃助 観世元伯
後見 内田安信 塩津哲生
地謡 大村定 粟谷明生 狩野了一 谷大作
塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤陽
今月で、観能三周年を迎えます。
わたしにとって友枝会はいわばその記念公演。
ひとつだけ贅沢を言えば脇能or修羅能と狂言が先にあって、《野宮》がラストだったらもっとよかったなー。
感動をほかの舞台で上書きせずに、しばらくボーッと、余韻に浸っていたかった。
【前場】
〈ワキの登場〉
名ノリ笛でワキが登場。
一噌仙幸師の代演で笛を吹いた隆之さんが《国栖》と連続登板。
《野宮》の仙幸師の代わりには一噌庸二or藤田次郎さんがいいと思っていたのですが、隆之さんの笛もこの日は良かった。
とくにヒシギが《野宮》にふさわしい繊細で情趣豊かなヒシギになっていて、いつのまにか階段をいくつか登られたのを感じた。
そして、ワキの欣哉さん。
幕を出た瞬間からその美しいすり足とともに、晩秋の冷え冷えとした空気を運んでくる。
この方のハコビとすらりとした姿勢には、しっとりとした詩情が漂っている。
所作のひとつひとつが詩の韻律を生み出してゆく。
そのまま舞台へ進み、紅葉も色褪せた森の景色に溶け込む。
鳥居之前で手を合わせ、野宮→伊勢→仏の道に思いを馳せて心を澄ませていると;
〈シテの登場〉
次第の囃子にのってシテが現れる。
何か、強い重力に抵抗するような重いハコビ。
野宮へ還ることを戒める自分と、どうしても毎年ここへ還ってきてしまう自分。
後ろにグッと踏みとどまろうとする力と、前に強く引かれて進もうとする力。
相反する力の拮抗と矛盾する心の葛藤が、その重い抵抗を感じさせるハコビに象徴されていた。
前シテの出立は、秋の草花がぎっしり織り込まれた精緻な唐織。
面は増だろうか。
現代的な目鼻立ちのはっきりした美女だ。
(チラシの写真と同じ面?)
シテは鳥居の前に佇む男の姿を見て「とくとく帰り給へよ」と、ここが神にとって、そして自分にとっての不可侵の聖地であることを毅然と示すが、だからといって相手を冷たくはねつけるわけではない。
その声には、つねに心を武装してきた彼女が旅僧と通じ合う何かを感じ取り、相手をなかば受け入れるような響きがあった。
〈初同〉
喜多流の謡の醍醐味が凝縮されたような素晴らしい地謡。
謡によって《野宮》にふさわしい物哀しい雰囲気が醸成され、
条件反射的に泣いてしまう映画音楽を聴いた時のように、この初同から涙があふれてきて、後場の山場になるとほとんど号泣しそうになる。
「うらがれの草葉に荒るる野宮の」から、シテは鳥居前に進み、
「跡なつかしきここにしも」で、下居して榊を供え、
「その長月七日の日も今日にめぐり気にけり」で、後ろに下がってワキに向く。
そして「火焼屋の微かなる光は我が想い内にある」で目付柱やや上方を見るのだが、
その時、ポッと頬を上気させたような、ときめきを覚えた少女のような表情を浮かべる。
彼女は嫉妬に狂った半面、少女のような純愛を心の奥底で燃やし続けていた――そんな想像が湧いてくる。
その一途な愛に見合った愛され方をしていたらこんなに苦しまなくて済んだだろうに。
〈クリ・サシ・クセ〉
正中で床几に掛かるシテの、気高いユリの花を思わせる美しさ。
御息所の悲劇は、その高根の花のような高貴な外見と、ほんとうは繊細で傷つきやすい内面とのギャップであり、その内面を素直にあらわせない(育ちや身分による)気位の高さ、不器用さなのかもしれない。
友枝昭世の前シテは、御息所の品格や気高さとともに、その奥に隠された可憐さや脆さ、そしておそらく東宮妃時代の愛らしさをも感じさせた。
やがて前シテは自らの名を明かすと、鳥居の柱に隠れ、送り笛とともに消えてゆく。
友枝會~《野宮》後場につづく
2016年9月16日金曜日
東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》後場
2016年9月14日(水) 18時~20時50分 国立能楽堂
東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》前場からのつづき
松田弘之 鵜澤洋太郎 國川純 観世元伯
後見 中村邦生 狩野了一
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
佐々木多門 内田成信 友枝雄人 金子敬一郎
後場は珍しい喜多流「笏之舞」。
このシテで、この小書、この演者。
プログラムに書かれた「一期一会の能」という源次郎師の言葉にふさわしい舞台だった。
(以下は「笏之舞」のメモ的なもの。記憶違いは多々あるかもしれません。)
【間狂言】
間狂言の途中からアシライ笛が入り、アイのシャベリが終わる瞬間に、アシライがピタッとおさまるように吹き終わる。
この魔法のような間合いの取り方、さすがです。
【ワキの待謡→出端】
ワキの待謡「夢待ち顔の旅音かな」で、半幕が上がり、まばゆい白狩衣に身を包み、床几に掛かった後シテの姿が現れる。
出端の囃子に誘われて、シテが胸の前で手を合わせて笏を持つ姿(いわゆる聖徳太子のポーズ)でスルスルと登場。
常座で「忘れて年を経しものを」と謡い出し、
脇正で「雪を廻らす雲の袖」と、サシコミ・ヒラキ。
【笏之舞】
通常ならば「受けたり受けたり遊舞の袖」のあと早舞に入るところを、
「序」のような囃子に合わせて大小前で足拍子。
その大小前から、ゆったりとした足取りで角(目付柱)に至り、
目付柱から脇柱に向かう際にのみ、囃子が大小太鼓のゆっくりとしたナガシとなる。
シテは脇柱に至ると、やがて舞台を一巡し、
正中でいったん下居して笏を腰に差し、扇に持ち替える。
ここまで、《翁》のような厳かな儀式を観ている気分。
そこから舞台を小さく廻って、大小前で両袖の露をとって達拝。
囃子はゆっくりとした早舞(?)になり、シテは露を放して舞い始める。
初段オロシのあと笛が盤渉になり、
シテは橋掛りに進むことなく、すべて本舞台の上で五段の早舞を舞いあげる。
個人的な好みでいうと、やはり他の小書のようにシテが橋掛りに行ってそこで舞ったりクツロイだりして何らかの印象的な所作を見せ、囃子もそれを盛り上げるようなドラマティックな手を打ったほうが、観ているほうも胸が高まるような気がした。
本舞台上だけの緩やかなテンポの早舞というのは、どうしても見せ場に欠けてしまう。
(と思うのは、ほかの小書で覚える高揚感を知ってしまったからかも。)
この小書がめったに上演されない理由も、そのあたりにあるのかもしれない。
【終曲】
しっとりとした憂いのある貴公子、友枝昭世師の融がもっとも美しく見えた場面だ。
「月もはや影傾きて」で、雲ノ扇をしたシテの視線が青白く薄れゆく月の光を描き出す。
夢のように朧気に輝きながら月の都に帰るその後ろ姿を、
観客の気持ちを代弁するかのように名残惜しげにワキが見送る。
このときの欣哉さんの表情がなんとも言えない。
次々と大物役者を相手に大きな舞台を勤め、その経験を糧に芸を高めていらっしゃる。
この日の舞台も、友枝昭世師にまったく引けを取らないほどの品格を感じさせ、シテを見送るこの視線によって、月の都に昇る融の姿を見事に表現していた。
もともと上手い方だけど、恐ろしいスピードで芸にさらに磨きがかかっていくその過程を観客として目撃するのは、なんてわくわくする体験なのだろう。
東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》前場からのつづき
能《融・笏之舞》友枝昭世
ワキ宝生欣哉 アイ能村晶人松田弘之 鵜澤洋太郎 國川純 観世元伯
後見 中村邦生 狩野了一
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
佐々木多門 内田成信 友枝雄人 金子敬一郎
後場は珍しい喜多流「笏之舞」。
このシテで、この小書、この演者。
プログラムに書かれた「一期一会の能」という源次郎師の言葉にふさわしい舞台だった。
(以下は「笏之舞」のメモ的なもの。記憶違いは多々あるかもしれません。)
【間狂言】
間狂言の途中からアシライ笛が入り、アイのシャベリが終わる瞬間に、アシライがピタッとおさまるように吹き終わる。
この魔法のような間合いの取り方、さすがです。
【ワキの待謡→出端】
ワキの待謡「夢待ち顔の旅音かな」で、半幕が上がり、まばゆい白狩衣に身を包み、床几に掛かった後シテの姿が現れる。
出端の囃子に誘われて、シテが胸の前で手を合わせて笏を持つ姿(いわゆる聖徳太子のポーズ)でスルスルと登場。
常座で「忘れて年を経しものを」と謡い出し、
脇正で「雪を廻らす雲の袖」と、サシコミ・ヒラキ。
【笏之舞】
通常ならば「受けたり受けたり遊舞の袖」のあと早舞に入るところを、
「序」のような囃子に合わせて大小前で足拍子。
その大小前から、ゆったりとした足取りで角(目付柱)に至り、
目付柱から脇柱に向かう際にのみ、囃子が大小太鼓のゆっくりとしたナガシとなる。
シテは脇柱に至ると、やがて舞台を一巡し、
正中でいったん下居して笏を腰に差し、扇に持ち替える。
ここまで、《翁》のような厳かな儀式を観ている気分。
そこから舞台を小さく廻って、大小前で両袖の露をとって達拝。
囃子はゆっくりとした早舞(?)になり、シテは露を放して舞い始める。
初段オロシのあと笛が盤渉になり、
シテは橋掛りに進むことなく、すべて本舞台の上で五段の早舞を舞いあげる。
個人的な好みでいうと、やはり他の小書のようにシテが橋掛りに行ってそこで舞ったりクツロイだりして何らかの印象的な所作を見せ、囃子もそれを盛り上げるようなドラマティックな手を打ったほうが、観ているほうも胸が高まるような気がした。
本舞台上だけの緩やかなテンポの早舞というのは、どうしても見せ場に欠けてしまう。
(と思うのは、ほかの小書で覚える高揚感を知ってしまったからかも。)
この小書がめったに上演されない理由も、そのあたりにあるのかもしれない。
【終曲】
しっとりとした憂いのある貴公子、友枝昭世師の融がもっとも美しく見えた場面だ。
「月もはや影傾きて」で、雲ノ扇をしたシテの視線が青白く薄れゆく月の光を描き出す。
夢のように朧気に輝きながら月の都に帰るその後ろ姿を、
観客の気持ちを代弁するかのように名残惜しげにワキが見送る。
このときの欣哉さんの表情がなんとも言えない。
次々と大物役者を相手に大きな舞台を勤め、その経験を糧に芸を高めていらっしゃる。
この日の舞台も、友枝昭世師にまったく引けを取らないほどの品格を感じさせ、シテを見送るこの視線によって、月の都に昇る融の姿を見事に表現していた。
もともと上手い方だけど、恐ろしいスピードで芸にさらに磨きがかかっていくその過程を観客として目撃するのは、なんてわくわくする体験なのだろう。
東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》前場
2016年9月14日(水) 18時~20時50分 国立能楽堂
東京能楽囃子科協議会定式能・九月夜能~舞囃子《巴》・狂言《三本柱》からのつづき
松田弘之 鵜澤洋太郎 國川純 観世元伯
後見 中村邦生 狩野了一
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
佐々木多門 内田成信 友枝雄人 金子敬一郎
喜多流の《笏之舞》の小書は初見。
国立能楽堂図書室で金春流《笏之舞》の映像記録は観たことがあるけれど、同じ小書名でも流派によってずいぶん違う(金春流ではシテが笏を持って舞い、早舞が急ノ舞になる)。
喜多流の《笏之舞》は、観ていて(あるいは舞っていて)面白いかどうかは別として、囃子的には特殊な手が多く、かなりマニアック。
そのうえ友枝昭世師をお呼びしての舞台。
お調べにいつもより入念に時間をかけ、とくに太鼓が最後まで調整に余念がない。
気合のほどが伝わってくる。
【前場】
名ノリ笛で諸国一見の僧が登場。
松田さん(東京囃子科協議会の笛方エース!)がいつもより心もち早めに笛を口元にあて、わずかでも吹きかすりのないように意識を極度に集中させて吹いているのがわかる。
ヒシギの時は、仕損じたら腹を切るくらいの意気込みだ。
【一声→シテの登場→名所教え→汐汲み→中入】
前シテは、茶水衣、濃灰色無地熨斗目、腰蓑。
面は三光尉だろうか(朝倉尉かも)。
友枝さんがつけると何でも品良く見える。
一の松でハコビの速度を緩め、常座に立ち、懐かしげに大きくあたりを見回す。
この所作、視線の動きによって、廃墟と化した河原の院の荒涼とした風景が立ち現れる。
名所教えの場面でも、ワキと二人で視線の先を合わせつつ互いに心を通わせていくさまが、物寂しい景色の中でほのぼのとした温かみを感じさせた。
しみじみとした情景を謡い上げる地謡もよかった。
ただこの日はわたしの感覚の問題かもしれないけれど、先日の袴能《天鼓》に比べると、なにかもうひとつ、手放しで感動できない壁のようなものを感じてしまった。
(注:先日のような神の領域に入った舞台を70代半ばで毎回勤めるのは不可能に近いし、友枝昭世師の舞台に対する期待が大きすぎるがゆえのきわめて個人的な感想なので、一般的な基準からすればとても良い舞台でした。)
「いざや汐を汲まんとて」でシテは常座に置いていた田子を担いで、正先ギリギリまで出、
「汲めば月をも袖に望汐の」で、舞台外に桶を下ろして汐を汲み、両桶に映る月を観る。
高度な技術を要する場面。
ここもこのシテ本来の力をもってすれば、汲み上げた水の量感・質感さえも感じさせる印象深いシーンになっていたはずだと、いつもに増して認知的不協和のジレンマに陥ってしまう。
中入の時はタタタと足早に橋掛りを帰る途中、三の松でスピードを緩めてから幕に入る。
これがなんともいえない優雅なリズムで、余韻を漂わせる中入だった。
東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》後場につづく
東京能楽囃子科協議会定式能・九月夜能~舞囃子《巴》・狂言《三本柱》からのつづき
能《融・笏之舞》友枝昭世
ワキ宝生欣哉 アイ能村晶人松田弘之 鵜澤洋太郎 國川純 観世元伯
後見 中村邦生 狩野了一
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
佐々木多門 内田成信 友枝雄人 金子敬一郎
喜多流の《笏之舞》の小書は初見。
国立能楽堂図書室で金春流《笏之舞》の映像記録は観たことがあるけれど、同じ小書名でも流派によってずいぶん違う(金春流ではシテが笏を持って舞い、早舞が急ノ舞になる)。
喜多流の《笏之舞》は、観ていて(あるいは舞っていて)面白いかどうかは別として、囃子的には特殊な手が多く、かなりマニアック。
そのうえ友枝昭世師をお呼びしての舞台。
お調べにいつもより入念に時間をかけ、とくに太鼓が最後まで調整に余念がない。
気合のほどが伝わってくる。
【前場】
名ノリ笛で諸国一見の僧が登場。
松田さん(東京囃子科協議会の笛方エース!)がいつもより心もち早めに笛を口元にあて、わずかでも吹きかすりのないように意識を極度に集中させて吹いているのがわかる。
ヒシギの時は、仕損じたら腹を切るくらいの意気込みだ。
【一声→シテの登場→名所教え→汐汲み→中入】
前シテは、茶水衣、濃灰色無地熨斗目、腰蓑。
面は三光尉だろうか(朝倉尉かも)。
友枝さんがつけると何でも品良く見える。
一の松でハコビの速度を緩め、常座に立ち、懐かしげに大きくあたりを見回す。
この所作、視線の動きによって、廃墟と化した河原の院の荒涼とした風景が立ち現れる。
名所教えの場面でも、ワキと二人で視線の先を合わせつつ互いに心を通わせていくさまが、物寂しい景色の中でほのぼのとした温かみを感じさせた。
しみじみとした情景を謡い上げる地謡もよかった。
ただこの日はわたしの感覚の問題かもしれないけれど、先日の袴能《天鼓》に比べると、なにかもうひとつ、手放しで感動できない壁のようなものを感じてしまった。
(注:先日のような神の領域に入った舞台を70代半ばで毎回勤めるのは不可能に近いし、友枝昭世師の舞台に対する期待が大きすぎるがゆえのきわめて個人的な感想なので、一般的な基準からすればとても良い舞台でした。)
「いざや汐を汲まんとて」でシテは常座に置いていた田子を担いで、正先ギリギリまで出、
「汲めば月をも袖に望汐の」で、舞台外に桶を下ろして汐を汲み、両桶に映る月を観る。
高度な技術を要する場面。
ここもこのシテ本来の力をもってすれば、汲み上げた水の量感・質感さえも感じさせる印象深いシーンになっていたはずだと、いつもに増して認知的不協和のジレンマに陥ってしまう。
中入の時はタタタと足早に橋掛りを帰る途中、三の松でスピードを緩めてから幕に入る。
これがなんともいえない優雅なリズムで、余韻を漂わせる中入だった。
東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》後場につづく
2016年8月27日土曜日
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》後場
2016年8月25日(木) 18時半~21時 国立能楽堂
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》前場からのつづき
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也 働キ 塩津圭介
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
【後場】
光長師が入った出端の囃子で後シテの出。
後シテは青灰色の袴に履き替えただけなのに、前場とはまったくの別人。
面・装束を替えないため、芸の力による前後シテの変化がよく分かる。
ハコビのスピード・軽やかさ、バネのような姿勢のハリ、身体のしなやかさ。
内側から湧き出るような躍動感。
たんに打ちひしがれた老人から純真な少年になっただけでなく、
全身に亡霊めいた儚げな透明感を帯びている。
手には金地に老竹色の模様が描かれた唐団扇。
団扇の色の取り合わせが黄味がかった色紋付と青灰色の袴となじんで
爽やかで絶妙なコーディネートになっている。
「同じく打つなり天の鼓」で、シテは唐団扇を置いて撥を持ち、
「打ち鳴らすその声の、呂水の波は滔々と打つなり打つなり」で
軽やかに、浮き立つように天の鼓を打ち鳴らす。
さらに撥を腰に差し、再び唐団扇を手にして、いよいよ「楽」の舞に入っていく。
友枝昭世の天鼓の楽は、ひたすら美しく、どこか悲しげで、
「湖の夜明け、ピアノに水死者の指ほぐれおちならすレクイエム」という
塚本邦雄の歌を思わせる。
帝の逆鱗に触れたために同じく湖に沈められた数多の寵童・寵妃たち。
彼らと天鼓自身の魂を弔う水葬の舞のように見えたのだ。
やがて水死者たちのさまよう魂が昇華され、
天鼓という鼓の精、音楽の妖精のなかでひとつになって、
鎮魂の舞から、何物にもとらわれない天衣無縫の舞へと変化する。
(そのようにわたしには見えた。)
月が涼やかに照り輝き、恋人どうしの星たちが寄り添う初秋の夜空。
波の音、管弦の音色、鼓の精の夜遊の舞。
月に嘯き、水に戯れ
夜空と水面のあいだを自由に飛び跳ね、無邪気に舞い戯れる。
シテが上げた水しぶきがクリスタルのようにきらめきながら弾け飛ぶ。
詩的で幻想的な景色のなか、夜が白々と明けはじめ、
シテの姿は透き通る影のように徐々に薄れて、
夢のように消えていった。
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》前場からのつづき
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也 働キ 塩津圭介
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
【後場】
光長師が入った出端の囃子で後シテの出。
後シテは青灰色の袴に履き替えただけなのに、前場とはまったくの別人。
面・装束を替えないため、芸の力による前後シテの変化がよく分かる。
ハコビのスピード・軽やかさ、バネのような姿勢のハリ、身体のしなやかさ。
内側から湧き出るような躍動感。
たんに打ちひしがれた老人から純真な少年になっただけでなく、
全身に亡霊めいた儚げな透明感を帯びている。
手には金地に老竹色の模様が描かれた唐団扇。
団扇の色の取り合わせが黄味がかった色紋付と青灰色の袴となじんで
爽やかで絶妙なコーディネートになっている。
「同じく打つなり天の鼓」で、シテは唐団扇を置いて撥を持ち、
「打ち鳴らすその声の、呂水の波は滔々と打つなり打つなり」で
軽やかに、浮き立つように天の鼓を打ち鳴らす。
さらに撥を腰に差し、再び唐団扇を手にして、いよいよ「楽」の舞に入っていく。
友枝昭世の天鼓の楽は、ひたすら美しく、どこか悲しげで、
「湖の夜明け、ピアノに水死者の指ほぐれおちならすレクイエム」という
塚本邦雄の歌を思わせる。
帝の逆鱗に触れたために同じく湖に沈められた数多の寵童・寵妃たち。
彼らと天鼓自身の魂を弔う水葬の舞のように見えたのだ。
やがて水死者たちのさまよう魂が昇華され、
天鼓という鼓の精、音楽の妖精のなかでひとつになって、
鎮魂の舞から、何物にもとらわれない天衣無縫の舞へと変化する。
(そのようにわたしには見えた。)
月が涼やかに照り輝き、恋人どうしの星たちが寄り添う初秋の夜空。
波の音、管弦の音色、鼓の精の夜遊の舞。
月に嘯き、水に戯れ
夜空と水面のあいだを自由に飛び跳ね、無邪気に舞い戯れる。
シテが上げた水しぶきがクリスタルのようにきらめきながら弾け飛ぶ。
詩的で幻想的な景色のなか、夜が白々と明けはじめ、
シテの姿は透き通る影のように徐々に薄れて、
夢のように消えていった。
2016年8月26日金曜日
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》前場
2016年8月25日(木) 18時半~21時 国立能楽堂
国立能楽堂企画公演・仕舞《頼政》からのつづき
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也 働キ 塩津圭介
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
袴能は初めて観る。
《天鼓》のように二場で別人を演じる曲を、面・装束なしでどう表現するのだろう?
そんな疑問を抱いていたが、この日の袴能はもはや人間業とは思えず、
シテは完全に神の領域に入っていた。
わたしなど途中から感動で身体が震えてきて、
あんなに胸が物理的にブルブル震えるなんて滅多にない経験。
【前場】
鞨鼓台の作り物が正先に置かれる観世流とは違い、
喜多流では鞨鼓台が目付柱手前に、一畳台が脇正側に置かれる。
この日は囃子方も極上の布陣。
氷が砕け散るような六郎兵衛さんの笛の音が響き、
大小鼓が秋の空のように澄み切った音色を奏でてゆく。
この繊細でやわらかな打音は忠雄&源次郎師ならでは。
そこへワキの勅使が登場する。
紋付袴姿の欣哉さんは、いつもにも増してハコビと姿勢の美しさが際立つ。
胸を突き出した前傾姿勢のまま上半身がスーッと伸びて、バレリーナのよう。
つづいて、いよいよシテの王伯が登場。
幕が上がり、やや間が合って姿を見せた前シテの出立は、
クリーム色の紋付(越後上布かな?)にベージュ色の袴。
薄い青に染められた家紋が朝顔のように見えて涼やか。
顔には完璧な直面をつけている。
素顔とはまったく違う、直面という能面。
芸の力によって生みだす「本物の仮面」を素顔につけるのが直面だと
この袴能を観て初めて分かった。
いや、自己という素顔をはずして直面をつける、というべきだろうか。
(直面は眼の動きが素顔とはまるで違う。
瞬きはもちろん、視線を左右に動かすこともない。
感情のわずかな起伏や息の乱れさえも感じさせない。
それを演能の最初から最後まで貫き通す驚異的な集中力!)
その直面をつけて、白を基調にした紋付袴を着た友枝昭世師は
どこからどう見ても、子に先立たれ憔悴しきった老人・王伯だった。
橋掛りを進むシテの姿には、
生きることに疲れ果てた老人のよぼよぼ感・よろよろ感が漂っている。
とはいえ、シテの足取りがよろよろしているわけでもなく、
左右の重心が不均衡なわけでもない。
ハコビはどこまでも美しく、身体の軸にもブレはなく、
頭の位置も一ミリの狂いもないほど同じ高さで平行移動している。
背中をほんの少しかがめたり、足をごくわずかに引きずり加減にしたりと、
微妙なニュアンスの集積が老いの影を生み出しているのだろうか。
老人らしい弱々しさをどこから漂わせているのか謎なのだが、
かろうじてこの世にとどまっている寄る辺のない雰囲気がその姿にはあった。
いにしえの人にとって、神の如き為政者の気まぐれは天変地異のようなもの。
青天の霹靂のように家族に降りかかった厄災はただ受け入れるしかなかったのだろう。
本来は怨むべき相手から「管弦講で弔う」と言われてモロジオリするのも、
地震で行方不明になっていた息子の遺体が発見され、ようやく供養できるようになった親の気持ちと共通するのかもしれない。
抑制され、抑圧された老人の胸のうち。
感情をむき出しにしないからこそ、
老人の深い悲しみと恨みがひしひしと伝わってくる。
そしてその胸のうちを切々と謡い上げる地謡も素晴らしい!
喜多流の地謡は終始姿勢を正して微動だにせず、ビシッと決まっている。
武士のストイックな美学を体現したような地謡が舞台を引き締め、
凛とした空気を送り込んでゆく。
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》後場へつづく
国立能楽堂企画公演・仕舞《頼政》からのつづき
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也 働キ 塩津圭介
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
袴能は初めて観る。
《天鼓》のように二場で別人を演じる曲を、面・装束なしでどう表現するのだろう?
そんな疑問を抱いていたが、この日の袴能はもはや人間業とは思えず、
シテは完全に神の領域に入っていた。
わたしなど途中から感動で身体が震えてきて、
あんなに胸が物理的にブルブル震えるなんて滅多にない経験。
【前場】
鞨鼓台の作り物が正先に置かれる観世流とは違い、
喜多流では鞨鼓台が目付柱手前に、一畳台が脇正側に置かれる。
この日は囃子方も極上の布陣。
氷が砕け散るような六郎兵衛さんの笛の音が響き、
大小鼓が秋の空のように澄み切った音色を奏でてゆく。
この繊細でやわらかな打音は忠雄&源次郎師ならでは。
そこへワキの勅使が登場する。
紋付袴姿の欣哉さんは、いつもにも増してハコビと姿勢の美しさが際立つ。
胸を突き出した前傾姿勢のまま上半身がスーッと伸びて、バレリーナのよう。
つづいて、いよいよシテの王伯が登場。
幕が上がり、やや間が合って姿を見せた前シテの出立は、
クリーム色の紋付(越後上布かな?)にベージュ色の袴。
薄い青に染められた家紋が朝顔のように見えて涼やか。
顔には完璧な直面をつけている。
素顔とはまったく違う、直面という能面。
芸の力によって生みだす「本物の仮面」を素顔につけるのが直面だと
この袴能を観て初めて分かった。
いや、自己という素顔をはずして直面をつける、というべきだろうか。
(直面は眼の動きが素顔とはまるで違う。
瞬きはもちろん、視線を左右に動かすこともない。
感情のわずかな起伏や息の乱れさえも感じさせない。
それを演能の最初から最後まで貫き通す驚異的な集中力!)
その直面をつけて、白を基調にした紋付袴を着た友枝昭世師は
どこからどう見ても、子に先立たれ憔悴しきった老人・王伯だった。
橋掛りを進むシテの姿には、
生きることに疲れ果てた老人のよぼよぼ感・よろよろ感が漂っている。
とはいえ、シテの足取りがよろよろしているわけでもなく、
左右の重心が不均衡なわけでもない。
ハコビはどこまでも美しく、身体の軸にもブレはなく、
頭の位置も一ミリの狂いもないほど同じ高さで平行移動している。
背中をほんの少しかがめたり、足をごくわずかに引きずり加減にしたりと、
微妙なニュアンスの集積が老いの影を生み出しているのだろうか。
老人らしい弱々しさをどこから漂わせているのか謎なのだが、
かろうじてこの世にとどまっている寄る辺のない雰囲気がその姿にはあった。
いにしえの人にとって、神の如き為政者の気まぐれは天変地異のようなもの。
青天の霹靂のように家族に降りかかった厄災はただ受け入れるしかなかったのだろう。
本来は怨むべき相手から「管弦講で弔う」と言われてモロジオリするのも、
地震で行方不明になっていた息子の遺体が発見され、ようやく供養できるようになった親の気持ちと共通するのかもしれない。
抑制され、抑圧された老人の胸のうち。
感情をむき出しにしないからこそ、
老人の深い悲しみと恨みがひしひしと伝わってくる。
そしてその胸のうちを切々と謡い上げる地謡も素晴らしい!
喜多流の地謡は終始姿勢を正して微動だにせず、ビシッと決まっている。
武士のストイックな美学を体現したような地謡が舞台を引き締め、
凛とした空気を送り込んでゆく。
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》後場へつづく
2015年3月29日日曜日
友枝昭世の會 特別公演 《井筒》
2015年3月28日(土)15時半開演 国立能楽堂
能 《井筒》 シテ 友枝昭世
ワキ 宝生閑 アイ 野村万蔵
囃子 一噌仙幸 曽和正博 柿原崇志
後見 塩津哲生 中村邦生
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
友枝雄人 内田成信 佐々木多門 粟谷浩之
能一番のみという、友枝昭世師ならではの簡素にして極上の公演。
お囃子は、日本芸術院賞を受賞されたばかりの柿原崇志師、
いつもながらクリスタルな音色が美しい一噌仙幸師、
後場で月夜の情景を鼓の音で描きだした曽和正博師。
そして慈愛に満ちたまなざしでシテをこまやかに見つめ続けたワキの宝生閑師。
アイ狂言の野村万蔵師をのぞけば、シテと三役の平均年齢はとても高いのだけれど、
お能ってほんとうに凄い芸術だと思う。
芸の力によって、老いが究極の美に転じる芸術。
経験と鍛錬の積み重ねが、肉体の限界を超越させる芸術。
お能の凄さを再確認した舞台だった。
前日にも野村四郎師の《井筒》のワキを勤めたばかりの宝生閑師が名ノリ笛で登場した後
次第の囃子でシテの友枝昭世師が気配を消したようにひっそり静かに登場。
古風で愛らしい小面に、ゴールドがかったクリーム色と薄い朱色の段替えの唐織。
衿は白と朱色の艶やかな装い。
暁ごとの閼伽の水、月も心を澄ますらん
木の葉の入った水桶と数珠を手に悲しげに謡う謎の女は、旅僧に請われるままに
ススキの生えた古塚に眠る在原業平とその妻の物語を語る。
シテは正中で古塚に向かって下居し、業平とその妻の幼き日々の回想が
居グセのなかで地謡によって語られる。
女が見つめる古塚は、彼女の記憶の中で、業平と遊んだ井筒へと変わり、
その映像がワキの心眼に投影され、
恋が芽生えた幼い男女の無垢な姿が観客の目にも映し出される。
筒井筒、井筒に掛けしまろが丈、生いにけらしな妹見ざる間にと読みて贈りける程に
シテと地謡の謡が美しく、胸に切々と響く。
後場。
初冠に追懸をつけ、桐の葉(?)模様の紫地長絹に上品な朱色の縫箔を腰巻にしたシテが
足のない幽霊さながらに、静かに橋掛りを歩いてくる。
彼女のハコビはもはや人間の体重を載せていない。
ただ、彼女の追懐と思慕の念だけが女の姿となって運ばれてくる。
月明かりと澄んだ笛の音に清められた空間のなか、
古井戸のかたわらに凛然と立つススキと、待つ女の亡霊――。
待つこと以上に辛いものがあるだろうか。
ましてや希代のプレイボーイ、業平をひたすら待ち続けるのだ。
なんと過酷な人生を彼女は生きたのだろう。
その辛く悲しい人生を彼女は自ら選びとり、見事に生き抜いた。
きっと待つことこそが彼女の生きざまであり、矜持だったのだ。
ただ一途で可憐なだけではない、芯の強さ、たおやかさ。
優美に舞う彼女の内には、
風に靡くススキのような強靭なしなやかさが秘められている。
小説や絵画や演劇・映画に登場する日本女性が美しいのは、
自己主張して、相手を意のままにする欧米的な強さではない、
自分を抑え、孤独に耐える精神的な強さ、潔さがあるからだろう。
甘美な思い出、嫉妬に燃えた灼熱の苦しみ、流したいくつもの涙。
折り重ねられた歳月を哀惜するかのように、待つ女は静かに序ノ舞を舞う。
一噌仙幸師の笛が奏でる繊細に澄みきった序ノ舞。
大小鼓の掛け声の枯淡な味わい。
そして、肉体の生々しさから解放された洗練美の極みのような友枝昭世師の舞姿。
一瞬ごとに消え去ってしまう夜露のような美しい世界。
この美に立ち会うことのできた幸せに、私はただただ恍惚として、浸りきっていた。
終曲部は世阿弥の作曲の妙が存分に発揮され、
友枝師は世阿弥の思いと工夫を存分に汲んで演じていらっしゃった。
井筒にかけしまろがたけ、生ひにけらしな、老いにけるぞや
さながら見みえし昔男の冠直衣は女とも見えず、男なりけり、業平の面影
シテはここで左手を井筒の枠にかけ、古井戸をじっとのぞきこむ。
時はさかのぼり、記憶が映像となって甦る。
見ればなつかしや
この時、彼女が井戸の中に見たものは業平の姿。
そして、幼き日の2人の姿だったのかもしれない。
我ながらなつかしや
さらに、シテは扇を持った右手でススキをかき分け、井戸の奥をのぞく。
このときおそらく彼女が追慕したのは、
業平が愛した若き日の、美しかった彼女自身の姿ではないだろうか。
(美少年時代を回顧しながら本曲を書いたであろう世阿弥自身の姿が、
ここで亡霊の姿と重なり合う。)
亡婦魄霊の姿はしぼめる花の色なうて匂ひ
若き日の自分自身に再び出会った彼女は、悄然と扇で顔を隠しながら、
花がしぼむように座りこみ、そして、立ち上がる。
若さを失っていくときの女の哀しみと優雅な諦観。
寺の鐘が鳴り、夜が白々と明けてくる。
シテは留拍子を踏むことなく、
見る者を夢の中に残したまま、
橋掛りを通り、揚幕の奥の異空間へと還っていった。
能 《井筒》 シテ 友枝昭世
ワキ 宝生閑 アイ 野村万蔵
囃子 一噌仙幸 曽和正博 柿原崇志
後見 塩津哲生 中村邦生
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
友枝雄人 内田成信 佐々木多門 粟谷浩之
能一番のみという、友枝昭世師ならではの簡素にして極上の公演。
お囃子は、日本芸術院賞を受賞されたばかりの柿原崇志師、
いつもながらクリスタルな音色が美しい一噌仙幸師、
後場で月夜の情景を鼓の音で描きだした曽和正博師。
そして慈愛に満ちたまなざしでシテをこまやかに見つめ続けたワキの宝生閑師。
アイ狂言の野村万蔵師をのぞけば、シテと三役の平均年齢はとても高いのだけれど、
お能ってほんとうに凄い芸術だと思う。
芸の力によって、老いが究極の美に転じる芸術。
経験と鍛錬の積み重ねが、肉体の限界を超越させる芸術。
お能の凄さを再確認した舞台だった。
前日にも野村四郎師の《井筒》のワキを勤めたばかりの宝生閑師が名ノリ笛で登場した後
次第の囃子でシテの友枝昭世師が気配を消したようにひっそり静かに登場。
古風で愛らしい小面に、ゴールドがかったクリーム色と薄い朱色の段替えの唐織。
衿は白と朱色の艶やかな装い。
暁ごとの閼伽の水、月も心を澄ますらん
木の葉の入った水桶と数珠を手に悲しげに謡う謎の女は、旅僧に請われるままに
ススキの生えた古塚に眠る在原業平とその妻の物語を語る。
シテは正中で古塚に向かって下居し、業平とその妻の幼き日々の回想が
居グセのなかで地謡によって語られる。
女が見つめる古塚は、彼女の記憶の中で、業平と遊んだ井筒へと変わり、
その映像がワキの心眼に投影され、
恋が芽生えた幼い男女の無垢な姿が観客の目にも映し出される。
筒井筒、井筒に掛けしまろが丈、生いにけらしな妹見ざる間にと読みて贈りける程に
シテと地謡の謡が美しく、胸に切々と響く。
後場。
初冠に追懸をつけ、桐の葉(?)模様の紫地長絹に上品な朱色の縫箔を腰巻にしたシテが
足のない幽霊さながらに、静かに橋掛りを歩いてくる。
彼女のハコビはもはや人間の体重を載せていない。
ただ、彼女の追懐と思慕の念だけが女の姿となって運ばれてくる。
月明かりと澄んだ笛の音に清められた空間のなか、
古井戸のかたわらに凛然と立つススキと、待つ女の亡霊――。
待つこと以上に辛いものがあるだろうか。
ましてや希代のプレイボーイ、業平をひたすら待ち続けるのだ。
なんと過酷な人生を彼女は生きたのだろう。
その辛く悲しい人生を彼女は自ら選びとり、見事に生き抜いた。
きっと待つことこそが彼女の生きざまであり、矜持だったのだ。
ただ一途で可憐なだけではない、芯の強さ、たおやかさ。
優美に舞う彼女の内には、
風に靡くススキのような強靭なしなやかさが秘められている。
小説や絵画や演劇・映画に登場する日本女性が美しいのは、
自己主張して、相手を意のままにする欧米的な強さではない、
自分を抑え、孤独に耐える精神的な強さ、潔さがあるからだろう。
甘美な思い出、嫉妬に燃えた灼熱の苦しみ、流したいくつもの涙。
折り重ねられた歳月を哀惜するかのように、待つ女は静かに序ノ舞を舞う。
一噌仙幸師の笛が奏でる繊細に澄みきった序ノ舞。
大小鼓の掛け声の枯淡な味わい。
そして、肉体の生々しさから解放された洗練美の極みのような友枝昭世師の舞姿。
一瞬ごとに消え去ってしまう夜露のような美しい世界。
この美に立ち会うことのできた幸せに、私はただただ恍惚として、浸りきっていた。
終曲部は世阿弥の作曲の妙が存分に発揮され、
友枝師は世阿弥の思いと工夫を存分に汲んで演じていらっしゃった。
井筒にかけしまろがたけ、生ひにけらしな、老いにけるぞや
さながら見みえし昔男の冠直衣は女とも見えず、男なりけり、業平の面影
シテはここで左手を井筒の枠にかけ、古井戸をじっとのぞきこむ。
時はさかのぼり、記憶が映像となって甦る。
見ればなつかしや
この時、彼女が井戸の中に見たものは業平の姿。
そして、幼き日の2人の姿だったのかもしれない。
我ながらなつかしや
さらに、シテは扇を持った右手でススキをかき分け、井戸の奥をのぞく。
このときおそらく彼女が追慕したのは、
業平が愛した若き日の、美しかった彼女自身の姿ではないだろうか。
(美少年時代を回顧しながら本曲を書いたであろう世阿弥自身の姿が、
ここで亡霊の姿と重なり合う。)
亡婦魄霊の姿はしぼめる花の色なうて匂ひ
若き日の自分自身に再び出会った彼女は、悄然と扇で顔を隠しながら、
花がしぼむように座りこみ、そして、立ち上がる。
若さを失っていくときの女の哀しみと優雅な諦観。
寺の鐘が鳴り、夜が白々と明けてくる。
シテは留拍子を踏むことなく、
見る者を夢の中に残したまま、
橋掛りを通り、揚幕の奥の異空間へと還っていった。
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