2018年12月22日(土)14時~16時45分 大槻能楽堂
お話「春の湊の生末」 村上湛
狂言《福の神》シテ福の神 善竹忠重
アド参詣人 茂山忠三郎 山口耕道
後見 善竹忠亮
地謡 岡村和彦 前川吉也 牟田素之 小林維毅
能《藤戸》シテ母/漁夫の霊 友枝昭世
ワキ佐々木盛綱 殿田健吉
ワキツレ従者 則久英志 平木豊男
アイ盛綱の下人 善竹忠亮
竹市学 横山晴明 白坂信行 三島元太郎
後見 狩野了一 友枝雄人
地謡 粟谷能夫 出雲康雄 粟谷明生 長島茂
高林呻二 粟谷充雄 金子敬一郎 内田成信
大槻能楽堂の改修について、この日得た情報によると、来年7~12月の改修期間中は大槻能楽堂の主催公演はないとのこと(てっきり、どこかの会館を借りてやるのかと思っていた)。
なので、改修前の来年度の主催公演は、4~6月の自主公演3つとろうそく能1つのみで、番組の発表は年明け以降らしい。
関西で友枝昭世さんや梅若万三郎さんのお舞台を拝見できる数少ない機会のひとつが、大槻能楽堂主催公演だったから、ちょっとショック。
来年4~6月の公演のなかに、観たいものがあるといいな。
お話「春の湊の生末」 村上湛
村上湛氏のお話を拝聴するのははじめて。
国立能楽堂のプログラムやTV放送のこの方の解説が好きで、楽しみにしていたこの日のお話、期待以上に面白かった。
最初、割り当てられた時間が40分と聞いて「長っ!」と思ったのだが、さすがは博覧強記な方だけあって、いろいろな方向に話を広げつつ、最後はひとつのテーマに収斂させていくという巧みな話術で長さを感じさせないばかりか、もっと聞いていたいくらいだった。
(以下は、わたしが勝手に咀嚼して書いているので、村上氏の実際の言葉とは違っています。)
そのひとつのテーマとはお話のタイトルにもある、能《藤戸》のワキの次第「春の湊の生末」。
このワキの次第は、新古今集に収められた寂連法師の歌「暮れてゆく春の湊は知らねども霞に落つる宇治の柴舟」の発想を借りたものである。
この寂連法師の歌に詠みこまれた「惜春」の思い、「時の流れの止め難さ」、それがこの曲のテーマではないか。
藤戸合戦があったのは、『平家物語』では9月、『吾妻鏡』では12月とされているが、能《藤戸》の作者はあえて3月に設定することで、晩春の花である「藤」(藤戸にちなむ花)と呼応させ、漢詩の伝統を引く「惜春」という文学的情緒を暗示している。
《藤戸》のワキは、佐々木盛綱という実在の人物の重い人生を背負った存在として登場する。
彼は《敦盛》の熊谷直実と同様、武士である。
武士とは、art of murderに長けた人殺しのプロ、人を効率よく殺すプロフェッショナルであるが、その一方で、人を殺すことへの罪の意識ももっている。それゆえ武士の時代となった鎌倉時代には念仏宗や禅宗が隆盛し、多くの武士が帰依した。
熊谷直実も念仏僧として出家し、佐々木盛綱も曲の途中で改心する。
《藤戸》の登場人物たちはそれぞれ人間くさい生々しい感情を持っているが、つまるところ、武士も漁師も命限られた儚い存在であり、勝者も敗者も同じ、死にゆく存在なのである。
生々しい出来事、生々しい感情のぶつかり合いを、大きく俯瞰して見るような視点。それが、この曲を貫く「春の湊の生末」ということ、つまり「死にゆく人間の生末」ということなのかもしれない。
狂言《福の神》
異流公演ではないけれど、善竹彌五郎家と茂山忠三郎家の「異家」共演。
やっぱり神戸と京都、彌五郎家と忠三郎家とは芸風がだいぶ違う。
善竹家のことはあまりよく知らないけれど、忠重さんは東京の大蔵吉次郎さんと活舌や発声の感じがよく似ている。
面は専用面の「福之神」だろうか。
やわらかい表情で、とても楽しそうに笑っている。
見ているだけで幸せになりそうな顔立ちだ。
福の神が説く、富貴の心得。
早起き、人にやさしく、客を拒まず、夫婦仲よく。
どれひとつ、まともにできていないわたし。
今年も反省点ばかりだけど、笑う門には福来る。
とにかく、笑って新しい年を迎えよう。
友枝昭世の《藤戸》につづく
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