2018年12月30日日曜日

阿古屋塚・玉三郎奉納~源平栄枯盛衰

2018年12月29日(土)  六波羅蜜寺
空也踊躍念仏からのつづき
六波羅蜜寺の本当の脇にひっそり佇む阿古屋塚。
阿古屋塚の手前には、五代目坂東玉三郎が奉納した由緒碑も建っている。


「奉納 五代目 坂東玉三郎 平成二十三年 十一月吉日」

六代目歌右衛門はもとより、梅枝さんや児太郎さんも、阿古屋を演じるにあたりこの塚に手を合わせたのだろうか。



玉三郎が奉納した阿古屋塚の由緒碑によると、「阿古屋の菩提を弔うため鎌倉時代に建立す。石造宝塔は鎌倉時代の作で、その下の台座は古墳時代の石棺の石蓋を用いている」とのこと。

五条坂の傾城だった阿古屋。
景清と逢瀬を重ねたのも、この付近だったと思うと、感慨深いものがある。
能《景清》で、九州日向国に盲目の景清を訪ねた娘も、(実在の人物ならば)この辺りの生まれかもしれない。




阿古屋塚の隣には、平清盛の塚もある。

平家全盛期、六波羅蜜寺の敷地内には、平家一門の拠点・六波羅館があり、平家の屋敷が立ち並んでいたという。

能《熊野》でおなじみの、平宗盛の館があったのも、この辺りだろうか。
熊野は、ここから花見車に乗って出発し、清水寺へ向かった。

ここ六波羅は、能や歌舞伎ともゆかりの深い場所だ。


やがて平家の時代が終焉すると、この地を支配したのが源頼朝だった。
頼朝の没後は、北条氏が幕府の出先機関「六波羅探題」をこの地に置いた。

その鎌倉幕府も、足利氏の政権に取って代わられる。
六波羅蜜寺は、平氏から源氏、源氏から足利氏へと為政者が移り変わるなか、幾度も戦火に見舞われたが、幸い、本堂だけは焼失を免れ、本堂内部・内陣は創建当時の面影を微かにとどめている。

堂内は撮影禁止で画像はないが、拝見したところ、柱や梁の染みのように見える部分は、おそらく剥落し褪色し尽くした文様の跡だと思う。

かつては極彩色に塗りこめられた色鮮やかな文様。
いまでは滲んだ染みのように見えるその文様こそが、戦火を逃れた勲章のようにも感じられる。
染みのなかに、ほのかに見える花の名残り。
老女物の名舞台を観たときはこんな気分になるのかもしれない。






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