松月会・能と囃子~大倉流小鼓の会からのつづき
能《井筒・物着》シテ 梅若万三郎
ワキ 福王茂十郎
赤井啓三 社中の方 河村大
後見 加藤眞悟 上田貴弘
地頭 大槻文蔵
今年の個人的ベスト1はまちがいなく、6月に観た万三郎師の《大原御幸》だと思っていた。
でも、同じシテによるこの《井筒》が、同点一位か、それ以上かもしれない。
(曲趣が異なるので比べようもないけれども。それにまだ友枝昭世さんの《藤戸》があるから、順位が変動するかも。)
おそらくこの日の序ノ舞は、生涯忘れないだろう。
忘れたくない、何度も反芻して、何度も、何度も、心のなかに蘇らせたい舞だった。
【前場】
橋掛りをゆくシテのハコビに、足腰の衰えを強く感じる。
しかし、常座にスッと立つ姿は、さざ波さえ立たない、鏡面のような湖の静けさ。
ことばを絶する美しさで、女は、ただ、そこに立っている。
シテの姿も謡も、これまで観たどの井筒の女よりも抽象的だった。
そこには、シテ自身の作為や演出はなにも感じられず、「役になりきる」とか、「役の気持ちで演じる」などという要素は一切ない。
年齢や肉体の衰えに応じたさまざまな工夫も、かぎりなく自由な、無為自然のあり方のように見えた。
余計な要素をすべて排した高い抽象性ゆえに、シテの存在そのものが観る者の想像力を刺激する。
シテの佇まいから連想される、思いや、面影や、記憶のかけらが、無秩序に立ち現れては消えてゆく。
そして、それらがコラージュのようにわたしの心のなかで結合し、解体され、再構築されて、万三郎の《井筒》の世界を有機的に描き出していった。
【序ノ舞】
動きは最小限
無駄な動作、無駄な力を、かぎりなく、極限まで削ぎ落とした序ノ舞。
二段オロシでもシテは袖を被くことなく、袖をふわりと巻いただけ。
華麗優美な色彩に染まっていた芸が、時を経て、褪色に褪色を重ねた果てに、完全に色が抜け、最後に残った薄墨のゆるやかな線。
それは、真っ白な状態から描いた墨絵ではない。
あでやかな色彩が抜けたあとに残る、紗のかかったような色艶がうっすらと透けている。
美しい影、その気配だけが、残り香だけが、舞っている。
この精妙な舞は、言葉であらわすべきではないのかもしれない。
言葉であらわせばあらわすほど、この日の序ノ舞から乖離して、遠ざかってしまう。
妙なる花が風に舞う趣き、それを世阿弥は「妙花風」と名づけた。
言語も意味も及ばない世界。
この舞こそが、そうなのかもしれない。
シテが舞っているのか、それを観ている自分の魂が舞っているのか。
最後には、その区別さえつかなくなり、ただ、ひたすら、うすく滲んだ舞の美のなかに耽溺し、じんわりとこみ上げてくる幸福感に身を浸していた。
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