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2019年3月5日火曜日

土蜘蛛灯籠・上七軒など~歴史散歩・北野をあるく

2019年3月2日(土) 13時30分~15時 北野天満宮界隈

京都文化博物館「北野天満宮 信仰と名宝」関連イベントのつづきです。

現地を散策して、歴史的背景を知ってから展覧会を鑑賞すると、いっそう興味が湧きます。ブンパクには今月中に行く予定なので楽しみです♪
東向観音寺(朝日寺)

北野天満宮二の鳥居のすぐ近くにあるのが、806年、桓武天皇の勅願により建立された朝日寺(現・東向観音寺)。

もともと朝日寺が、北野のこの地に建っていました。しかし、947年に菅原道真廟が移されたことから、朝日寺の最鎮らが北野天満宮を建立。朝日寺は北野天満宮の神宮寺になったそうです。

「東向観音寺」と呼ばれるようになったのは、その向かいにも観音堂(西向観音)があったため。しかし、西向観音は廃絶され、東向観音寺だけが残りました。

961年には、菅原道真御作とされる十一面観音が筑紫観世音寺より招来され、新たにこの寺の本尊になったといいます。この十一面観音像は、25年に1度だけ開帳される秘仏。次回公開されるのは8年後の3月だそうです。

お堂のなかに上がらせていただいたのですが、内部は、礼堂の奥に本堂がある形式で、北野天満宮の「拝殿ー本殿」をつなぐ形式を踏襲しています。

また、十一面観音は菅公の本地仏とされていることから、この寺でも本尊の左隣に菅原道真像が安置されています。

いまでも神仏習合の香りが色濃く残るお寺ですね。





土蜘蛛灯籠の由来
東向観音寺の左手奥には、土蜘蛛塚の遺物とされる灯籠の火袋がひっそりと祀られています。


「土蜘蛛」灯籠の火袋
副住職さんのお話によると、この土蜘蛛灯籠の火袋は、もとは一条七本松にあったのですが、どういう訳か、東向観音寺の境内に安置されることになったそうです。

(由来碑には、土蜘蛛灯籠の所有者の家運が傾いたことから「土蜘蛛の祟り」とされ、東向観音寺に奉納されたと記されています。お寺めぐりをしていると、同様の理由で幽霊画などが奉納されているのをよく目にします。)

土蜘蛛灯籠の前で手を合わせると、網の張った祠が、能《土蜘蛛》の蜘蛛塚の作り物のように見えてきます。土蜘蛛さん、どうぞ安らかに。




伴氏廟
土蜘蛛灯籠と一緒に、菅原道真の生母の氏族・大伴氏(伴氏)の廟もあります。

これも副住職のお話によると、もとは北野天満宮の境内にあったものが、明治期の神仏分離令により東向観音寺に移されてきたそうです。
関西ではこうした事例が後を絶ちません。




北野廃寺跡
さて、白梅町の今川通の交差点、京都信用金庫の前に立つのが、飛鳥時代に建立された京都盆地最古の寺院跡の石碑です。

ここは、太秦から続く大地の東端に位置することから秦氏との関連が指摘されています。

発掘調査では、「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された平安前期の施釉陶器が4点発掘され、一説では、この寺に聖徳太子信仰にかかわる建物が存在していたといわれています。





天神川(紙屋川)
北野廃寺跡碑から天神さんに向かって少し歩いたところに、天神川が流れています。

御土居の堀としても使われた天神川は、江戸時代までは「紙屋川」と呼ばれていました。

古代よりこの川の水で紙漉きが行われたといいます。古代の紙はきわめて貴重なので、何度も再生利用したため灰色をしていました。顕微鏡で見ると、再利用された紙に以前に記された文字が見えるそうです。

この川の水でつくられた紙が、宮中のさまざまな文書に使われていたのですね。

かつてここは、渡来系技術集団の集住地だったのでしょうか。



上七軒の花街の提灯には「五つ団子」の紋章が。
つづいて向かったのが、京都五花街でもっとも古い上七軒。

上七軒の起源は室町時代にまでさかのぼります。
1444年、麹の製造をめぐって北野天満宮が室町幕府から攻撃を受け、社殿の一部を焼失。社殿修復の際に残った資材を用いて、七軒の茶屋が建てられました。これが上七軒の始まりです。

その後、応仁の乱で衰退しかけた北野界隈に再び活力を与えたのが、豊臣家でした。1587年、北野大茶湯のおりに、秀吉の休憩所になったのが上七軒です。このとき、名物のみたらし団子を秀吉に献上したところ、おおいに喜ばれ、みたらし団子を商う特権が七軒茶屋に与えられました。

上七軒の花街が五つ団子の紋章を用いているのは、この逸話に由来するそうです。







さらに上七軒は、出雲阿国の「かぶき踊り」が初めて上演された場所でもあります。

そう、歌舞伎発祥の地は四条河原ではなく、ここ上七軒だったのです! と、学芸員さんたちはおっしゃっていました。
いずれにしろ、室町時代末から近世初頭にかけて、ここは御茶屋や遊女屋が立ち並ぶ一大歓楽街だったのですね。


2年前に発見され、京都文化博物館特別展「北野天満宮 信仰と名宝」で初公開される《洛外名所遊楽図屏風》には、当時の北野界隈のにぎわいが生き生きと描かれています。


そんなわけで、春らしいお天気にも恵まれ、とても楽しい歴史散歩ツアーでした。

学芸員さん、東向観音寺の副住職さん、ありがとうございました!




2018年11月29日木曜日

箕面大滝

2018年11月28日(水) 明治の森箕面国定公園
母のリクエストで箕面へ。
落差33メートルの大滝は、ぼーっと見ているだけでリフレッシュできます。




やっぱり、紅葉の名所だけあってきれい。



母は、夏に腰を痛めてほとんど歩けないほどだったのですが、すっかり元どおりの健脚に。この日の歩数は1万4000歩。 
母を治してくださった神様に感謝です!!


おサルさんもいました。
いまは、おサルさんたちを「野生」に戻すために、条例で餌やりが禁止されています。

(昔はお弁当を食べていると襲ってきたり、もみじの天ぷらをかっさらったりと、おサルさんのトラブルが多かったそうです。でもいまは、おサルさんと人間との良い共生関係ができつつあるみたい。)

自力で食べ物を探しているのでしょうか。
毛並みも良く、ころころした肉付き。着々と冬の準備をしているようです。





今年の紅葉は木がだめらしく、紅く色づく前に、茶色に枯れてしまうものも少なくないようです。度重なる異常気象のせいでしょうか。
↑の左手前の紅葉も、赤くならずに、青紅葉が茶色に変色しています。



平日なので人出もそれほど多くなく、ちょうどいいくらい。



台風21号の爪痕。
杉の木が何本も根こそぎ倒れていました。

いまは通行止めが一時解除中ですが、紅葉シーズンが終わると、崩落した山道・滝道の復旧工事が再会されるそうです。













2018年6月7日木曜日

京都・岡崎さんぽ ~ 武田五一の近代建築

京都の近代建築といえば、京大工学部建築科を創立した武田五一。
岡崎界隈には個性豊かな五一の作品がいくつかあって、眼を楽しませてくれます。

まずは、京都観世会館のおとなり、藤井斉成会有鄰館・第一館から。

カメラ目線の狛犬さん

藤井斉成会有鄰館は、藤井紡績の創業者・藤井善助の東洋美術コレクションを収めた私設美術館。
(開館日が月二回、時間も限られているため、残念ながら、わたしはまだ入ったことがありません。)





屋上の八角堂

収蔵された中国古美術コレクションに合わせて、外観にも東洋的モティーフがちりばめられています。

ひと際目を引くのが、屋上を飾る朱色の八角堂。
これも藤井コレクションのひとつだそうです。





藤井斉成会有鄰館、大正15(1926)年、武田五一設計

屋上の八角堂と響き合うように、エントランスのアーチ部分も門柱灯も、八角形をベースにしたフォルム。

幾何学的デザインを好んだ武田五一が、「8」や「八角形」という中国で縁起が良いとされる数字や形を巧みに取り込んで、吉祥性とデザイン性を融合させています。






見事な龍のレリーフ

東洋な趣きを高める豪華な龍のレリーフ。




次は、琵琶湖疎水を渡って、岡崎公園へ。


平安神宮大鳥居、昭和3(1928)年、武田五一設計顧問

平安神宮大鳥居も、武田五一が設計顧問として手掛けたもの。

高さ24メートルの巨大な大鳥居は、笠木の下に島木をつけ、やや反りを加えた明神型。
どっしりと安定して見えるのは、柱と柱のあいだの長さと貫(梁)までの高さがほぼ同じで、鳥居内部の空間がほぼ正方形をしているからかもしれません。




京都国立美術館の2階ロビーから眺めた大鳥居



京都府立図書館、明治42(1909)年、武田五一設計

近代美術館のとなりにある、京都府立図書館
当時の面影を残すのは外壁のみですが、こちらも武田五一の設計。




「京都図書館」の文字も当時のまま

「京都図書館」の文字の上のイチョウの葉のモティーフは、ウィーン分離派の影響ではないかという指摘もあり、ほど良く甘美なデザイン。







金色の縁取りや、ところどころに配された曲線モティーフなど、世紀末的な装飾性が見られるのも特徴です。



通気口もおしゃれ



KBS京都の「京都建築探偵団」で建築家の円満字洋介さんが鑑賞ポイントとして紹介されていたのですが、通気口にも凝ったデザインが施されています。
孔雀でしょうか?

細部にもさりげなく遊び心が生かされていて、やっぱり近代建築は魅力的。







2018年5月15日火曜日

上御霊神社

2018年5月12日(土)  上御霊神社


桟敷席で足が痛いため、河村青嵐会の途中でおさんぽへ。
近くの上御霊神社に立ち寄りました。

アヤメ科の中で「いち早く咲く」鳶尾(一初)も見納め

その昔、御霊神社のお堀には杜若が群生していたそうです。

門前に住んでいた尾形光琳は、その杜若を写生して《燕子花図》や《八橋図》を制作したのではないかとも言われています。


今では、御霊さんのシンボルフラワーに
戦後、お堀の水が枯れ、杜若の群生もなくなりました。
そこで氏子さんたちが乾燥に強い鳶尾(いちはつ)を栽培。
現在はおよそ四千株の鳶尾が境内を彩っています。

また、御霊神社の祭日は18日であることから、「一八(いちはつ)」とも書くこの花は、御霊さんのシンボルフラワーとして地元の人々に愛されているそうです。



出番を待つ御霊祭の豪華な神輿

5月18日には、京都で最古の祭りとされる御霊祭が開催されます。
当日は、神輿のほかにも牛車や稚児行列があり、平安装束をまとった人々が大通りを練り歩くとのこと。

とはいえ、豪華なお祭りの影には、古都の暗い歴史が潜んでいます。

なんといってもここは、実兄である桓武天皇によって餓死させられたともいわれる早良親王(崇道天皇)をはじめ、強力な怨霊たちを祀る神社。

この神社のある土地は、京都御所の真北に位置します(かつての大内裏の鬼門)。
その重要な場所に強い怨霊神を祀ることで、王城を守護してもらうという、なんともご都合主義的な御霊信仰なのですが、こういう古代日本人の思想は、たとえば能の《采女》や《天鼓》《恋重荷》にも反映されているのかもしれません。


能では、恨みを抱いて死んでいったであろう天鼓や采女(あるいは山科荘司)が、自分にひどい仕打ちをした権力者による供養に感謝し、わりとあっけらかんと御代を讃えたり、恨んだ相手を守護したりします。
そのことに対して、現代人はもやもやした違和感を抱いてしまいがちですが、いにしえの人々には素直に納得のいくことだったのだろうと、こういう御霊神社を訪れるとなんとなく分かる気がします。


ちなみに、王城の鬼門には早良親王を単独で祀る崇道神社があります。
鬼門を守護するためには、まさに毒を以て毒を制す、というわけですね。







この神社の「御霊の杜」が応仁の乱勃発の地となったのも、おそらく偶然ではないのでしょう。
神を畏れ敬う人間の心が薄らぐと、人々に祟りをなす悪心がいつ目覚めるか分からない……ここは、そうした御霊神への畏怖の念を思い起こさせる場所でもあります。



すぐ近くには猿田彦神社も









2018年3月1日木曜日

神保町逍遥

ただいま鋭意、断捨離中。
ようやく書棚一架分を処分できたところ(ほんとうはもっと減らしたい!)なので、神保町の古書店街はわたしにとって危険ゾーンだけれども、近くまで来るとつい、ふらふ~らと……。

文房堂

大正11年(1922年)の外壁が補修保存されている文房堂のファサード。
この老舗画材店には、素敵なギャラリーカフェも併設されていて、古書店めぐりの休憩にはちょうどいい。




ボヘミアンズ・ギルド

デザイン・アート本が充実。インテリア関係の洋書が特に好き。




原書房

2階は浮世絵ワンダーランド。
国芳、芳年、英泉、北斎漫画など、浮世絵の作品を手に取って鑑賞できます。
初刷りと後刷りを並べて見せてくださるなど、店員さんがいろいろ親切に教えてくださるので、勉強にもなって楽しい。





高山本店

能楽関連書の宝庫。
棚ごと買いたくなるくらい面白い本に出会えます。
能面も置いているので、いつか気に入ったものが見つかるといいな。




玉英堂書店

店主が集めたフクロウの置物たちが出迎える妖しげな階段を上っていくと、そこは稀覯本のフロア。

萩原朔太郎や志賀直哉、中井英夫、芥川龍之介といった文豪の生原稿や書簡がガラスケースに納められていて、観ているだけでもワクワクします。

心惹かれたのが、上田敏の歌の掛け軸。

 ほととぎす、聲もさかりになりにけり、あふち花さく 山かげの道






一誠堂書店

ここの2階は洋書の質・量が素晴らしい。

美しく重厚な革装本を手に取り、ページをめくる時の快感といったら……。
ほとんど官能的ともいえるくらいの、あの手触り、重量感、質感、革装本独特の香り。

電子書籍では絶対に味わえない、あの陶酔感。





大屋書店

こちらは和綴本のパラダイス。
有機的な紙の本の魅力が満喫できます。





大島書店

ここはペーパーバックが充実。
思いがけない本にめぐり会えたりします。






神田まつや

小腹がすいたら、少し足をのばして、神田まつやへ。
関西人からすると、つゆは醤油味が強め。
東京の味。
いつも混んでて相席だけど、美味しい。








建具や照明などのデザインも、この店が好きなポイント。