桟敷席で足が痛いため、河村青嵐会の途中でおさんぽへ。
近くの上御霊神社に立ち寄りました。
アヤメ科の中で「いち早く咲く」鳶尾(一初)も見納め |
その昔、御霊神社のお堀には杜若が群生していたそうです。
門前に住んでいた尾形光琳は、その杜若を写生して《燕子花図》や《八橋図》を制作したのではないかとも言われています。
今では、御霊さんのシンボルフラワーに |
そこで氏子さんたちが乾燥に強い鳶尾(いちはつ)を栽培。
現在はおよそ四千株の鳶尾が境内を彩っています。
また、御霊神社の祭日は18日であることから、「一八(いちはつ)」とも書くこの花は、御霊さんのシンボルフラワーとして地元の人々に愛されているそうです。
出番を待つ御霊祭の豪華な神輿 |
当日は、神輿のほかにも牛車や稚児行列があり、平安装束をまとった人々が大通りを練り歩くとのこと。
とはいえ、豪華なお祭りの影には、古都の暗い歴史が潜んでいます。
なんといってもここは、実兄である桓武天皇によって餓死させられたともいわれる早良親王(崇道天皇)をはじめ、強力な怨霊たちを祀る神社。
この神社のある土地は、京都御所の真北に位置します(かつての大内裏の鬼門)。
その重要な場所に強い怨霊神を祀ることで、王城を守護してもらうという、なんともご都合主義的な御霊信仰なのですが、こういう古代日本人の思想は、たとえば能の《采女》や《天鼓》《恋重荷》にも反映されているのかもしれません。
能では、恨みを抱いて死んでいったであろう天鼓や采女(あるいは山科荘司)が、自分にひどい仕打ちをした権力者による供養に感謝し、わりとあっけらかんと御代を讃えたり、恨んだ相手を守護したりします。
そのことに対して、現代人はもやもやした違和感を抱いてしまいがちですが、いにしえの人々には素直に納得のいくことだったのだろうと、こういう御霊神社を訪れるとなんとなく分かる気がします。
ちなみに、王城の鬼門には早良親王を単独で祀る崇道神社があります。
鬼門を守護するためには、まさに毒を以て毒を制す、というわけですね。
この神社の「御霊の杜」が応仁の乱勃発の地となったのも、おそらく偶然ではないのでしょう。
神を畏れ敬う人間の心が薄らぐと、人々に祟りをなす悪心がいつ目覚めるか分からない……ここは、そうした御霊神への畏怖の念を思い起こさせる場所でもあります。
すぐ近くには猿田彦神社も |
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