2018年9月26日水曜日

京都観世会九月例会《半蔀》《雷電・替装束》

2018年9月23日(日) 11時~16時30分 京都観世会館
《玄象・初能之式》からのつづき

能《半蔀》シテ里女/夕顔 林宗一郎
   ワキ僧 江崎正左衛門 アイ所ノ者 善竹隆平
   杉市和 竹村英雄 谷口正壽
   後見 橋本雅夫 河村浩太郎
   地謡 河村晴道 味方玄 片山伸吾 浦部幸裕
      松野浩行 宮本茂樹 河村和晃 樹下千慧

仕舞《錦木クセ》 浦田保親
  《鐘之段》  河村和重
  《項羽》   橋本光史
   地謡 杉浦豊彦 河村博重 河村晴久 梅田嘉宏

能《雷電・替装束》シテ菅丞相/雷神 橋本忠樹
    ワキ延暦寺座主 小林努 従僧 原陸 岡充
    アイ能力 上吉川徹
    森田保美 曽和鼓堂 石井保彦 井上敬介
    後見 青木道喜 橋本光史
    地謡 分林道治  吉浪壽晃 浅井通昭 味方團
       深野貴彦 河村和貴 大江広祐 浦田親良



《玄象》のあとの能二番&仕舞もよかった! 京都観世は若手後期から中堅が充実していて、見応え十分。


能《半蔀》
シテの登場は、アシライ出。谷口正壽さんの大鼓が、いつもながら音色・掛け声ともに素晴らしい。いま、中堅ではいちばん好きな大鼓方さんかもしれない。

シテの出がフラフワーッと現われたような雰囲気で、なんとも素敵だった。

歌川豊春の肉筆浮世絵に《見立反魂香図》という、ケシの生け花の前に置かれた香炉の煙から美しい女の幽霊が現れる作品があるけれど、ちょうどあの絵のように、生けられた花とも、お香の煙ともつかないところから、ふわっと、おぼろげに現れたような、精妙なハコビ。

送り笛に送られながらの中入の時も、美しいハコビが運んでいくその姿が、いかにも悲しげで、儚げで、夕顔という女性のすべてがそこに集約されていた。

シテの艶のある謡と、河村晴道さん率いるいかにも林一門らしい繊細な地謡が、光源氏と夕顔の印象的な出会いのシーンを描写して、舞台は序ノ舞へ。

最後は、青みがかったスモークホワイトの長絹と白々と明けゆく東雲が溶け合って、シテは半蔀のなかへ消えていった。



仕舞三番
橋本光史さんははじめて拝見する。もう少しじっくり観てみたい。
浦田保親さんは要チェック! 
4月にこちらに来てから九郎右衛門さん一辺倒だった気がするから、来年はもう少し視野を広げて、浦田定期能をはじめ、いろんな定期能も観てみよう。



能《雷電・替装束》
こちらも、見事なシテの出。
シテは、いつの間にか現われたという感じで、気がつけば、一の松まで出てきていて、「一本、やられた!」という感じ(笑)。

前シテの出立は「替装束」なので、面は童子or慈童だろうか。
美童の顔立ちなのに、老成した雰囲気で、じつに妖しげ。見惚れるほどきれいな姿。

「重ねて扉を敲きけり」で、閉じた扇でシテ柱を打つ所作。
お辞儀をする所作や、謡の息遣い、煙遁の術のようにタ―ッと走り去る中入など、ところどころに、師匠である九郎右衛門さんの芸風を思わせる。

間狂言の立シャベリのあと、一畳台が運び込まれ、後シテ登場。

雷神の面は、顰(シカミ)。怒りを表すように真っ赤な赤頭をつけているが、後頭部の一房だけが白くて、ふわふわしたキツネのしっぽのよう。
《賀茂・素働》の後シテと同じ、金ぴか&ジグザグの稲妻アクセサリーを赤頭から垂らしている。
なんとなく、キュートでおちゃめ、遊び心あふれる出立だ。

最後はワキの小林努さんとの一畳台でのバトルで(《葵上》のときも思ったけれど、小林努さんは数珠揉みがうまい!)見所を沸かせ、華やかな会にふさわしい締めくくり。
森田保美さんの笛もよかった。


観客もそれぞれ満足げな表情で、能楽堂をあとにしていた。









2018年9月24日月曜日

梅若実《玄象・初能之式》~京都観世会九月例会

2018年9月23日(日) 11時~16時30分 京都観世会館

能《玄象・初能之式》シテ尉/村上天皇 梅若実
   ツレ藤原師長 井上裕久 姥 田茂井廣道 龍神 大江信行
   ワキ従者 福王和幸 喜多雅人 中村宜成
   アイ師長ノ従者 善竹隆司
   藤田六郎兵衛→杉市和 大倉源次郎 山本哲也 前川光長
   後見 片山九郎右衛門 橋本擴三郎
   地謡 大江又三郎 河村和重 古橋正邦 浦田保浩
      吉田篤史 梅田嘉宏 大江泰正 河村浩太郎

狂言《栗焼》太郎冠者 善竹忠一郎 主 善竹隆司
   後見 上西良介

能《半蔀》シテ里女/夕顔 林宗一郎
   ワキ僧 江崎正左衛門 アイ所ノ者 善竹隆平
   杉市和 竹村英雄 谷口正壽
   後見 橋本雅夫 河村浩太郎
   地謡 河村晴道 味方玄 片山伸吾 浦部幸裕
      松野浩行 宮本茂樹 河村和晃 樹下千慧

仕舞《錦木クセ》 浦田保親
  《鐘之段》  河村和重
  《項羽》   橋本光史
   地謡 杉浦豊彦 河村博重 河村晴久 梅田嘉宏

能《雷電・替装束》シテ菅丞相/雷神 橋本忠樹
    ワキ延暦寺座主 小林努 従僧 原陸 岡充
    アイ能力 上吉川徹
    森田保美 曽和鼓堂 石井保彦 井上敬介
    後見 青木道喜 橋本光史
    地謡 分林道治  吉浪壽晃 浅井通昭 味方團
       深野貴彦 河村和貴 大江広祐 浦田親良




別会かと思うくらい、めちゃくちゃ豪華な例会。補助席もぎっしり。
能3番+狂言+仕舞という5時間半の長丁場だけれどどれも楽しく、京都観世会のレベルの高さを実感した会でした。
2階のショーケースには、秋らしい能装束の展示も。

   
能《玄象・初能之式》
ツレ・ワキが大勢登場する、珍しい小書のついたこういう曲は、いわゆる梅若実好み?
求心力のあるシテならではの、引き締まったまとまりと、ショー的な華やぎ。

【前場】
小書「初能之式(脇能之式:わきのうのしき)」なので、ツレ・ワキ・ワキツレの登場楽は、真之次第(?)でしょうか。大小鼓の掛け合いが見事。
この日は前川光長さんの太鼓が冴え渡り、掛け声も、音色も、美しく澄んでいた。わたしが好きな、すこし金属質の音色と高い掛け声。来序と出端の太鼓も吸い込まれそうだった。

久しぶりに聴く梅若実師の謡は、やっぱりさすがだ。観客の耳から入って脳へ、脳から心へと、謡がひたひたしみ込んでいくのを見計らうような間の取り方。
謡自体の長さは変わらないはずなのに、謡が描写する情景を観客が思い描き、味わうのを、計算に入れて謡っているように感じられる。


塩屋に入り、作り物のポールを握って波の音に耳を澄ますところは、昨年末に拝見した《景清》を思い起こさせる。
シテが少し面を伏せて波の音を聴く型はほとんど変わらないのに、なんだろう、この微かな違いは。
同じ型でも、《景清》では、老残の身の生々しさや個人的な懐旧の情を感じさせたのにたいし、《玄象》では、遠くの潮騒だけが聴こえてくる須磨の浦の静けさや、いにしえの王朝物語で光源氏が都を偲んで聴いたであろう波のざわめき、源氏自身の心のざわめき(=師長の焦燥感)さえもが、シテの姿から立ち昇ってくる。


シテが扇をバチに見立てて「ばらりからりからりばらり」と琵琶を掻き鳴らす所作は、写実的なあてぶりなのだけれど、なんともいえない詩情が漂い、師長に渡唐を思いとどまらせるだけの、妙なる調べを感じさせる。




〈後見とワキ〉
梅若実師は下居をされないため、立つか、床几に掛かるかのどちらか。
必然的に、後見の立ち働きが多くなる。
九郎右衛門さんの、後見の鑑のような働きぶりはいつも以上で、さりげなく、絶妙なタイミングで床几の出し引きをするだけでなく、水衣や狩衣の裾にシワができないよう、床几を支えながら、シテが腰を下ろす寸前まで、もう片方の手を装束の裾にあてている。
そして、ひとつひとつの所作や、すっと立ち上がる姿のきれいなこと!
後見の所作だけでも、鑑賞に価する。

鑑賞に価するといえば、ワキの福王さんの所作やハコビ、微動だにしない彫刻のような下居姿もことのほか美しく、高い技術を感じさせる(ただ、あまりにも品格があり過ぎて、従者ではなく、主君の藤原師長に見えてしまうという難点も)。



【後場】
早舞は小書のため、黄鐘早舞。
これは前場の、「師長の弾く琵琶の調子は黄鐘、板屋を敲く雨の音は盤渉だから、板屋に苫を葺いて調子を整えた」という流れとも符合する。

梅若実師は、わたしが観能をはじめたころにはすでに足腰が衰えていて、この日も(映像で観た全盛期に比べれば)身体の衰えは否めなかった。実師にとっての「老後の初心」「老後の工夫」というものはどういうものだろう? その点に注目して拝見していたのだが、わからなかった。

どちらかというと、体の衰えをカバーしようという方向ではなく、今の状態、いま現在のご自分の存在そのものをすべて肯定して、堂々とした貫禄で舞っているように見受けられた。

超満員の観客も、いまの実師の舞台を観に詰めかけているのだ。このままでいい。このままがいい。
これが、スーパースターのスーパースターたるゆえんだろうか。
存在感、器の大きさ、すべてが破格。
誰にも真似のできないスケールの大きさが、圧倒的な迫力で伝わってきた。



《半蔀》《雷電・替装束》につづく




2018年9月18日火曜日

大江定期能・夜能《松風》

2018年9月17日(月)17時30分~20時30分 大江能楽堂

ススキの生け花と照明がアレンジされた秋らしいディスプレイ
 仕舞《江野島》  宮本茂樹
  《大江山》  鷲尾世志子
   地謡 大江信行 橋本忠樹 大江広祐 大江泰正

狂言《寝音曲》太郎冠者 小笠原匡 主人 山本豪一  
   後見 泉慎也

仕舞《通小町》  片山九郎右衛門
  《松虫クセ》 大江又三郎
   地謡 牧野和夫 古橋正邦 味方玄 河村和晃

能《松風》シテ 大江信行 ツレ 大江広祐
   ワキ 宝生欣哉 アイ 小笠原匡
   杉市和 吉阪一郎 河村大
   後見 大江又三郎 宮本茂樹
   地謡 片山九郎右衛門 河村和重 古橋正邦 味方玄
      橋本忠樹 大江泰正 河村和晃 鷲尾世志子

押小路通の軒先に咲いた、夕顔ではなく、たぶん、夜顔

秋の夜にぴったりの《松風》、よかった!
ノスタルジックな大江能楽堂には夜能が似合う。
月イチくらいでこういう舞台をじっくり拝見できたら最高だなあ。


仕舞《江野島》
5月の《女郎花》のツレが印象的だった宮本茂樹さん。細身長身の方で、この仕舞《江野島》も見事だった。京都観世にはまだまだ良い役者さんがたくさんいらっしゃる。これからも注目していこう。


狂言《寝音曲》
小笠原匡さんはやっぱりうまいなー。酒杯に見立てた桶蓋になみなみと酒を注がれたときの、手にした液体の重量感、ゴクッと飲んでお酒が喉にしみわたるのを待ってから、またゴクッと飲むあの感じ。
寝たままうたう謡や、山本豪一さんとの絶妙な間。《海士》の小舞の見事さ。
磨かれて黒光りする芸を観る満足感。


仕舞《通小町》
男の孤独の美しさを、熟成したワインのようにじっくりと舞いあげた九郎右衛門さんの《通小町》。
この三連休、九郎右衛門さんの舞を連続して拝見したけれど、この仕舞がいちばん心に響いた。無駄な力が抜けて抑制の利いた、深みのある、落ち着いた舞台。ふだんの稽古のときの仕舞そのままを拝見できた気がする。



能《松風》
長身の大江兄弟による松風村雨。
通常のシテ・ツレ以上に息が合っていて、合わせ鏡のようなタイミングで同じ型をするところなど、分身そのもの。分身といっても、ツレはあくまでツレの分をわきまえていて、本物の影のようにシテに寄り添っている。

真ノ一声で登場した二人は、白い水衣に身を包み、どこか巫女めいた雰囲気をまとう。どんなに愛おしくとも、もう会えない人は、いつしか神のような存在となり、二人はその神と結婚した巫女たちに見える。
同じ姉妹でも、ツレはどこまでもイノセントで愛らしく、シテの増の面は、この能楽堂独特の雰囲気と夜の照明のなかで深い陰翳を浮かべながら、妖しく狂乱する。

見どころはたくさんあったけれど、とりわけ素晴らしかったのが二人の連吟だ。
今まで聴いたシテ・ツレの連吟の中でも五本の指に入るほど美しく、恋しい哀調を帯びている。

三役・地謡ともに素晴らしく、ワキの欣哉さんが二人の姉妹から過去の思いを引き出しつつ狂乱へと誘い、熟練のお囃子がある時は潮騒のように、ある時は松風のように、この舞台を彩っていく。

最後は、しみじみとした余韻。

帰りの夜道を明るい半月が照らしていた。
余韻に浸りながら、秋の夜道を歩く幸せ。




御所八幡宮


心惹かれるレトロな窓


押小路通の銭湯






片山九郎右衛門《熊坂・替之型》~片山定期能九月公演

2018年9月16日(日)12時30分~16時30分 京都観世会館

能《野宮・合掌留》里の女/六条の御息所の霊 河村博重
    ワキ 江崎欽次朗 アイ 山口耕道
    杉市和 林吉兵衛 河村大
    後見 橘保向 梅田嘉宏
    地謡 青木道喜 味方玄 分林道治 田茂井廣道
       大江信行 橋本忠樹 宮本茂樹 河村浩太郎

仕舞《女郎花》小野頼風の霊 大江広祐
  《蝉丸》 逆髪     梅田嘉宏
  《天鼓》 天鼓の霊   橋本忠樹
    地謡 片山伸吾 田茂井廣道 河村和貴 河村浩太郎

狂言《文荷》 シテ太郎冠者 茂山忠三郎
   アド主 山口耕道 アド次郎冠者 山本善之
   後見 岡村宏懇

仕舞《富士太鼓》富士の妻  井上裕久
   地謡 橋本礒道 青木道喜 古橋正邦 清沢一政

能《熊坂・替之型》赤坂宿の僧/熊坂長範の霊 片山九郎右衛門
   ワキ 福王和幸 アイ 茂山忠三郎
   森田保美 曽和鼓童 河村眞之介 前川光長
   後見 小林慶三 味方玄
   地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 片山伸吾
      大江信行 宮本茂樹 河村和貴 大江広祐



仕舞と狂言、観たかったのですが、胃痛のため休憩しました(開演前にロビーでお菓子を食べすぎたのかも?)。モニターで拝見した最初の仕舞三番ともよかった。


能《熊坂・替之型》の感想
【前場】
ワキの福王和幸さんを関西で久々に観ると、その洗練が新鮮に見える。
贅肉を削ぎ落された漂泊の僧らしく、胸の補正も勅使などの時よりも控えめ。風を呼ぶようなハコビや、シテのことばを泰然と受けとめる佇まいに、この僧だからこそ熊坂の亡霊が現れたのだという必然性を感じさせる。

九郎右衛門さんと福王和幸さんの組み合わせは初めて拝見するけれど、洗練×洗練はとても見応えがある。
ワキとシテが立ち姿から同時にスーッと下居するところの、間合いとリズム、その美しさ。よく似た僧形の二人の完璧なまでに息を合わせた所作が、旅僧と赤坂宿の僧(熊坂長範)の悪人正機説的な「救うべき存在」と「救われるべき存在」の対比を逆説的に暗示させる。


前シテは直面。
素顔という点では仕舞や舞囃子と同じなのに、この翌日に大江能楽堂で拝見した仕舞《通小町》の時とは、本質的な部分でずいぶん違う。
感情や体調といった役者の素の部分を仕舞のほうがカバーしやすく、直面のほうがカバーしにくい、つまり、直面のほうが素の部分が透けて見えやすいように感じる。
面をつけているほうが苦しいけれど、役者は面に包まれ、守られている。
「直面」という面は、役者が野ざらしに、無防備になった印象を与える。
シテは時おり瞑目し、気を充満させて、見えない面を顔につける。いつもより暗い影がシテの顔を覆う。



【後場】
九郎右衛門さんはこの2週間で5つの舞台のシテを勤め、地頭でもいくつかの舞台に出演。加えて、この三連休の前日に何気なくローカルTVを観ていたら、京都の文化と未来についての会議に委員としてご出席されていた。ほかにもさまざまなお仕事をされているのだろう。とにかく、想像を絶するほどの多忙さだ。
そのなかで、多くの人を感動させるだけの舞台をつねに創出している。これは驚異的・超人的なことだと思う。

心身の疲労が時おり垣間見えるものの、かえってそれが満身創痍で弔い合戦に挑む熊坂長範の姿と重なり、熊坂の心の内にこちらを引きこんでいく。

アクロバティックな型の連続のあざやかさは言うに及ばず、まるで「舞う落語」のように一人二役を演じ、熊坂の長刀さばきによって義経の影が、義経の飛翔によって熊坂の姿が、面白いように立ち現れてくる。

この舞台でとりわけ印象的だったのは、足拍子。
九郎右衛門さんの舞台を観ていると、足拍子の位取り、使い分けにいろいろと気づかされる。
「打物わざにてかなふまじ」での、疲れた感じの足拍子。
そこから深手を負い、徐々に弱っていく熊坂長範の姿、「なぜそこまで?」と思わせるほど戦い抜くダーティーヒーローの暗い影を描いたところに、九郎右衛門さんらしい味わいがあった。









能を楽しむ会~片山九郎右衛門《天鼓・弄鼓之舞》

2018年9月15日(土)18時30分~20時10分  大徳寺瑞峯院

《天鼓》の舞台(方丈)に面した重森三玲作の蓬莱山式枯山水「独坐庭」

大海をあらわす白砂の砂紋を、天鼓が戯れる呂水に見立てて鑑賞

能《天鼓・弄鼓之舞》シテ 片山九郎右衛門
   ワキ 福王知登 アイ 茂山逸平
   杉市和 吉阪一郎 河村大 前川光範
   後見 青木道喜 河村和貴
   地謡 古橋正邦 味方玄 分林道治
      橋本忠樹 梅田嘉宏

面・装束の解説 片山九郎右衛門
   アシスタント 味方玄 分林道治 河村和貴



舞台となった方丈(1535年建造)は、室町期の禅宗方丈建築の遺構。
朝鮮の金剛山を描いた襖絵は野添平米の筆


すべてが非日常━━。
夢のような空間で行われた、夢のような公演。


《天鼓》の舞台には、瑞峯院方丈の板の間が使われた。
襖絵が鏡板代わりで、舞台を囲む三方の畳の間が見所の代わり。
後座や地謡座がないため、囃子方も地謡も三間四方の本舞台に着座。さらに、作り物が正先に置かれたため、シテの舞う空間はかなり狭い。しかし、その狭さを感じさせない天衣無縫の舞だった。


【前場】
前シテ・王伯は白垂に頭巾をかぶり、紗のように薄い茶水衣をつけた、すっきりと品のある姿。演能後の解説によると、面は阿古父尉。小牛尉よりも哀愁が深く、人間的な顔立ちをしているため、こちらを選んだそうだ。

子に先立たれた老人の謡は、どこか幽雪師を思わせる渋みのある謡だ。
抑えても抑えても、どうしようもなくこみあげてくる悲しみが、王伯の全身からにじんでくる。
シオルときも「苦しみの海に沈むとかや」の「沈む」に合わせて、シオリの型に深く顔を沈ませてゆく。


《天鼓》では、後漢の帝はキーパーソンであるにもかかわらずけっして姿を現さない、神のごとき存在として描かれる。
意に背けば理不尽に人の命を奪い、平穏な暮らしを破壊し、意に沿えば管絃講を催して丁重に弔うという、恐ろしくも慈悲深い、自然そのものを体現している。
不条理な「自然」あるいは「運命」に対して、嘆いても、恨んでも仕方がない。それでも嘆かずにはいられない人間の性を、王伯が代弁している。

帝が象徴する「自然」「運命」「現実」という、どうにもならないもの、絶対的な存在・現象にたいする、声なき怒り、慟哭、そして圧倒的な無力感を、シテのモロジオリが伝えていた。


【後場】
後シテ・天鼓の亡霊の面は、天下一(出目)友閑の童子。
まことに美麗で、どこか神秘的な雰囲気のある少年の面だ。
演能後の解説で、面だけを見せていただいたときは、たしかに友閑作らしい毛描の細かさや唇が紅さが際立っていたが、舞台で使われていた時とは印象が異なる。
九郎右衛門さんがつけて舞うと、上気したように頬が紅潮して潤いを帯び、脈動するような生気が宿る。

唐団扇を手に登場した天鼓は、「打つなり天の鼓」でバチに持ち替え、そこから、もう片時も話したくないというように、バチを持ったまま〈楽〉を舞う。

〈楽〉は盤渉。
方丈正面に広がる白砂で描かれた水紋は呂水の波となり、秋の夜空に包まれた禅寺で虫の声と盤渉楽がこの世に一つしかない旋律を奏でるなか、天鼓が水しぶきをあげながら、水面に戯れる。
その視線はおのずと天の鼓に向かい、袖を翻し、狭い空間を舞ううちに、鼓の作り物が跳ね飛ばされたが、それも、愛する太鼓を弄ぶ天真爛漫な姿そのもの、まさに「弄鼓之舞」だった。

猩々乱のように首をプルプル~と振り、袖を被き、飛び返り、袖を巻き……天空と水面のあいだを飛び跳ねているような、清らかで、軽やかな舞。

ああ、こんなふうに、
恨みも苦しみも悲しみも、無邪気に昇華できたらどんなにいいだろう。
これこそが人間にとっての最上の救い。
寒山拾得を能の舞台で表現したら、こういう姿になるのかもしれない。


(なんだか、ちょっとテンション低めの記事でした。もう少しわくわく胸を躍らせて感想を書けたらいいのにと自分でも思うのだけれど……。この日から三日連続で観能したあとに書いてるからかな。天鼓の無邪気さを見習いたい。)


創建者の大友宗麟にちなんでつくられたキリシタン燈籠


わかりにくいけど7つの石組が十字架を形づくる「閑眠庭」




2018年9月8日土曜日

井上八千代「澪の会」~京舞井上流

2018年9月7日(金)19時~21時 片山家能楽・京舞保存財団



小唄《打水》      井上八千代
 佐藤隆三作曲・春日とよ作曲・四世八千代振付。手踊り。

小唄《白扇》別題《末広》井上八千代
 哥川亭作詞・吉田草紙庵作曲・四世八千代振付。扇。

小唄《露は尾花》    井上八千代
 四世八千代振付。

小唄《河庄》      井上八千代
 竹柴蟹助作詞・豊竹巌太夫作曲・四世八千代振付。手踊り。

地唄《玉取海士》    井上葉子
 初世八千代振付。手籠・扇。

地唄《葵上》      井上八千代
 木ノ本屋巴遊作・初世八千代振付(二世補作か?)扇。

座談会



新門前通の片山家能楽・京舞保存財団で3か月に1度開かれる「澪の会」。
十何年も皆勤賞で通い続けている人もいるらしいけれど、そうなるのもうなずける。井上八千代の至高の芸を、信じられないほど間近で拝見できる、とにかく凄い会である。

座敷舞とは無縁だったわたしは、うぶな、タブラ・ラサの状態で拝見したものだから、ガツンッと強い衝撃を受けた。テレビやホールで観るのとは、受ける印象がまるで異なる。本来、座敷での鑑賞を想定してつくられた京舞はこうした場で観てはじめてその真髄が、胸にずっしりと、ダイレクトに伝わってくるのだと実感する。

しかもここは、観世流片山家と井上流京舞の数々の名手を輩出し、現在も育みつづけている「芸能の聖地」、メディアにもよく登場する、あの敷舞台である。

京間三間の稽古舞台の床板は、かつて京都御所の南東にあった観世能楽堂が終戦間近に建物疎開で取り壊された折に、片山博通・幽雪(当時博太郎)父子が、面装束とともに必死の思いで救出した舞台板が使われたもの。
先人たちの汗と涙と脂のしみついた舞台床には、無数の傷とともに、数々のドラマやエピソード、長い歴史が刻まれている。


休憩時間になると、その大切な稽古舞台に、「どうぞおあがり下さい」とお弟子さんらしきスタッフの方がが観客に勧めてくださった。ちょっとビックリ、感動、畏れ多いことである。
片山家・井上流の御先祖の写真が見守る格天井の敷舞台を、感慨深い思いで、味わうように踏みしめる。身体で感じる舞台板の感触。足の裏の感覚は、自分が思う以上に鋭敏なのだとこのときはじめて気づいた。



【小唄四題】
入場時に小唄と地唄の詞章(資料)が渡されるので、何の知識もないわたしにも分かりやすい。資料には片山博通(八世九郎右衛門)の解説もついていて、能との関連を知る手掛かりになる。

冒頭の《打水》は四世八千代の振付だが、附が見つからなかったため、当代八千代さんが新たに振付をされたという。そのため今回は手踊りではなく、桔梗と薄をあしらった団扇が使われた。
水を打った庭の飛び石を歩くような足遣いがしっとりとしていて、草露を避けるしぐさが恋に悩む女心を感じさせる。虫の声に耳を澄ます初秋の風情。


それにしても、その身体能力、下半身、体幹の揺るぎなさ、盤石さには、ただただ圧倒される。「おいどを落とす」構えから生み出される、無限の広がりと表現の深さ。
八千代さん曰く、「おいどを低く落とすことで、上半身が自由になる」という。
このあと、井上葉子さんが《海士》を舞われて、それもとても素敵だったが、おいどを落した腰の位置の低さ、下半身の揺るぎない安定感の差は歴然としていた。


着流しで、寝そべるようにして、両脚を横にサッと出してサッと曲げるという難度の高い振りの時も、着物の裾が魔法のようにまったく乱れない。
鍛えに鍛え抜かれた筋肉と、驚異的な柔軟性、高度な熟練の技に息をのむ。



地唄《玉取海士》
薄紫の単衣姿の井上葉子さんが舞われた。
能《海士》の玉ノ段からの引用が3分の2近くを占めているが、八千代さんがおっしゃるには、観世流よりも金剛流の型に似ているという。
とはいえ、歌舞伎の海老反りのように後ろに反らしてそのまま倒れ込んだり、扇を口にずっとくわえたまま舞ったりと、能にはない型もふんだんに盛り込まれ、若い葉子さんのしなやかな身体が織りなす舞には、独特の凛とした嫋やかさがある。

ラスト近くの乳の下を掻き切る箇所で、ハッとする。
開いた扇で、スーッと真一文字に胸の下を斬る型は、先月拝見した九郎右衛門さんの仕舞《玉之段》を彷彿させたのだった。



地唄《葵上》
三部構成の地唄。
第一、二、三部がそれぞれ序・破・急となり、「急」のなかに緩急がつけられていると八千代さんがおっしゃっていた。
その言葉通り、第一部(序)の冒頭は、動きを極力抑えた静かな表現。スリ足や大左右、シオリ返シなどの能によく似た型によって、王朝絵巻のように華やかな東宮妃時代を懐かしむ心があらわされる。

中段の第二部は一転(破)、「もつれもつれてナ」のような世話物的なくだけた調子になり、女性らしい舞の振りが多用される。こういうところがいかにも花街の座敷舞らしく、光源氏との逢瀬が情念豊かに描かれる。

第三部(急)は、ふたたび能《葵上》からの引用に戻り、恨みと妬心が極度に昂る、うわなり打ちのシーンとなるが、ここは、腰をぐっと落とした深沈なる下半身で、気持ちの昂ぶりを内に、内にためた表現。そのぶん、その内奥にメラメラと燃える暗い焔を感じさせる。
おいどを落とすからこそ可能になる、複雑に入り組んだ心の深みの表現。
見事だった。



【座談会】
休憩を挟んだ後半の座談会では、観客があらかじめ記入した質問用紙の内容をもとに、八千代さんが実演を交えながら、気さくに、誠実にお話をしてくださった。飾らないお人柄は片山家の方々に共通のものだろうか。
その素晴らしい芸とともにお人柄もとても魅力的で、またぜひうかがいたい!












2018年9月5日水曜日

片山九郎右衛門の《賀茂》~京都駅ビル薪能

2018年9月2日(日)18時30分~20時 京都駅ビル室町小路広場
装束付舞囃子《屋島》・狂言《清水》からのつづき

京町家の甍を波に見立て、灯台をイメージした京都タワー(山田守設計)


能《賀茂》シテ 片山九郎右衛門
     前ツレ 大江広祐 後ツレ 橋本忠樹
     ワキ 宝生欣哉 アイ 鈴木実
     杉信太朗 飯田清一 河村大 前川光範
     後見 青木道喜 分林道治 大江信行
     地謡 古橋正邦 河村博重 味方玄 片山伸吾 橋本光史 田茂井廣道 


橋掛りのない薪能の舞台


九郎右衛門さんの《賀茂》は、昨年、国立能楽堂定例公演で拝見した。
あのときは「素働」の小書付きだったから、早笛がどっしりした重みのある位になり、舞働もイロエに変化、面も大飛出ではなく、怒天神が用いられ、稲妻型にジグザグに切った金紙が赤頭から垂らされていた。

今回は小書なしの《賀茂》。
時間の制約からカット版だったこともあり、夜空に走る稲妻を思わせるスピード感あふれた舞台となった。
ここ数日、ちょっと体調不良だったわたしも、観ているうちにどんどん回復して、観能後は気分スッキリ、完全復活。たぶん、脳内では快楽物質のドーパミンとエンドルフィンが大量分泌されていたと思う。



【前場】
ワキの次第・名乗リ・道行がカットされ、宝生欣哉さんが音もなく登場。脇座で床几に掛かる。
また、上歌以降も大幅にカット。
正先に据えられた白羽の矢の故事も語られないまま、ロンギへと大きくジャンプする。

シテ・ツレの登場で初めて囃子が入り、橋掛りがないため、二人は舞台上で向き合って連吟。
御手洗川の流れをあらわすべく、ブルーの照明が多用された舞台はアクアマリンに染まり、能楽堂とが違う、きらびやかなショーのような雰囲気だ。

幸い、聴かせどころとなる川づくしの謡はカットされず、「賀茂の川瀬の水上はいかなる所なるらん」から始まり、貴船からから大堰川、清滝川、音羽の滝浪とづつく、いかにも京都らしい風情のある謡を堪能できた。

ここのシテと地謡の掛け合いには清流の響きがあり、「神の御こころ汲もうよ」で下居して、合掌するシテの所作が水際立って美しい。
観ているこちらも、冷たい御手洗川に素足を浸して禊をしているような、心身が洗い清められる気分になる。

ここで、「御身はいかなる人やらん」と、欣哉さんがはじめて口を開き、シテ・ツレは正体をほのめかして、来序で中入となる。

中入前に、シテはくるくるっと二回まわって、右腕を前に突き出すのだが、この腕を突き出すときに、遠心力の惰性をまったく感じさせず、みごとにピタッと止まるところ、こういう所作の細部のほんのわずかの違いが、舞台の印象を大きく左右する。
物理的法則にとらわれない芸の美しさ。
そして、その美を支える筋肉のしなやかさ。



【後場】
後場から、囃子が本領発揮。
この日は、杉信太朗さんの笛が素敵だった。
飯田清一さんの小鼓も久しぶりに聴くけれど、この方、好不調の波がなく、つねに高水準の演奏で安定感がある。

橋本忠樹さんの天女ノ舞には、聖母の後光ような優しい光が漂う。
以前、忠樹さんの《胡蝶》の舞を拝見したときも思ったけれど、この方の長絹物の舞は品のいい愛らしさが魅力だ。


天女ノ舞から一転、前川光範さんとスギシンさんの太鼓と笛が冴えるエキサイティングな早笛となり、観客もノリにノッテきたところで、幕がパッと勢いよく揚がり、電光石火の早業で後シテが登場!
この登場がなんともカッコいい。

別雷神は横長の舞台を縦横無尽に使って、血沸き肉躍る舞働を舞う。
この日もシテは驚異的な空間感覚を見せ、ちょうどロックミュージシャンがステージのギリギリまで出てオーディエンスを沸かせるように、迫力とスピード感に満ちた舞を舞いながら舞台の端ギリギリまで迫ってくる。

面をつけた状態で、慣れない横長の仮設舞台の空間を、いったいどうやって瞬時に把握するのだろう? 目付柱の代わりと思われる竹の木(?)も、ふだんとは違う場所に立っているのに。


終曲部でシテとワキが向き合うところがあり、ここでグッと物語に奥行きと広がりが出る。上演でカットされた室明神(室津賀茂明神)とのつながりを肌で感じられるのも、九郎右衛門さんと欣哉さんが交わす視線と、それが生み出す一瞬の一体感があるからこそ。
この御二人でなければ、こういう表現はできないし、ワキが欣哉さんでなければ成り立たない。

観客を存分に沸かせたシテは、弊を後ろに捨て(弊は河村大さんの腕に直撃!)、橋掛りがないので舞台で留。





追記:これを書いている現在は、台風一過。
台風21号、ほんとに凄かった。
亡くなられた方も多かったし、京都の寺社も被害にあい、この京都駅ビルでも天井のガラスが落下。三人の方が怪我をされた。
わたしのところも現在は復旧したものの、一時は停電&断水となり、救急車のサイレンが絶えなかった。こちらに来て以来、災害続きで、さすがに災害疲れ。
















2018年9月3日月曜日

京都駅ビル薪能~装束付舞囃子《屋島》・狂言《清水》

2018年9月2日(日)18時30分~20時 京都駅ビル室町小路広場

鉄とガラスで構成された現代的なアトリウムで行われる京都駅ビル薪能

舞囃子《屋島》装束付 シテ 分林道治
    杉信太朗 飯田清一 河村大
    古橋正邦 河村博重 橋本光史 田茂井廣道 梅田嘉宏

狂言《清水》シテ 茂山千三郎 アド 網谷正美
    後見 鈴木実

能《賀茂》シテ 片山九郎右衛門
     前ツレ 大江広祐 後ツレ 橋本忠樹
     ワキ 宝生欣哉 アイ 鈴木実
     杉信太朗 飯田清一 河村大 前川光範
     後見 青木道喜 分林道治 大江信行
     地謡 古橋正邦 河村博重 味方玄 片山伸吾 橋本光史 田茂井廣道
    

この171段の大階段が観客席に。どこかローマの古代劇場を思わせる。


フューチャリスティックな空間にそびえる巨大階段を観客席に見立てた駅ビル薪能は、いかにも京都らしい、伝統と革新に満ちたイベントだ。
こちらに戻ったらぜったい行きたいと思っていたから、大迫力の舞台に大・大満足!

とはいえ、この日の演目は雨降らしの《賀茂》。
開演1~2時間前にはゴロゴロッと雷が鳴りだして、けっこう本降りの雨となった。
このままいくと中止かなあ……なんて思っていたら、サウンドチェックが始まるころには雨も止んで、夕風が涼しい薪能日和に。
いつもながらの九郎右衛門マジックだろうか、天候の変化さえも、舞台演出のように思えてくる。
あの雷雨は、別雷神からの祝福のしるしだったのカモ。


この薪能では開演直前に簡単なリハーサルが行われるので、一般客もその様子を拝見できる。ファンにとっては、うれしい特典だ。
袴姿の味方玄さんが水たまりをよけながら、大階段後方で音響チェックをしたり、九郎右衛門さんが全体の指揮をしながら、御自分でも謡ったり、舞ったり。
けっこう和気あいあいとしたムードで進行していく。

リハーサルでは、地謡と杉信太朗さん以外は、みなさん私服(九さまの私服姿を初めて拝見した)。
私服だと紋付袴よりも身体の線や骨格の動きがより鮮明にわかるから、興味津々で見入ってしまう。
やっぱり、筋肉が凄いなあ。稽古と舞台によって打ち鍛えられた、しなやかで弾力のある鋼の身体。あの美のもとは、強靭な筋肉なのだ。
宝生欣哉さんも、装束をつけていると華奢に見えるけれど、実際は胸板が厚くて、腕や足腰もガッシリしていらっしゃる。


薪能のメンバーは、たぶん……同日、観世会館で行われた公演からほとんどそのまま京都駅に移動してきはったんですね。
欣哉さんはこの日、三番目の舞台。みなさん、タフ。



舞囃子《屋島》*装束付
面・装束をつけての上演なので、ワキの出ない半能のような形式。
こういう薪能は、おそらく能にあまり馴染みのない人への普及が主目的だろうから、面・装束をつけたほうがお能らしい豪華さ・華やかさをアピールできるし、道行く人を思わず立ち止まらせて、舞台に引きこんでいくパワーが格段にアップする。

カケリやキリは修羅能の醍醐味がギュッと詰まっていて、分林さんのダイナミックな舞とともに、見応えがあった。

舞囃子終了後、大階段には最上部まであふれんばかりに観客がひしめいていて、すごい熱気。


狂言《清水》
網谷さん、うまいなー。
軽みと渋みのある、いぶし銀の味わい。

シテが武悪面をつけたとき、わたしの後ろにいたお子さんが「うわん、こわい~」と泣き出してしまい、それがなんとも可愛かった。



能《賀茂》につづく






京都美風「古典芸能を楽しもう! 能・狂言の世界へようこそ」

2018年8月25日~9月21日 京都駅ビルインフォーメーション前


先月末から、京都駅にお能の展示コーナーが設けられています。

囃子の御道具や能面の陳列、お能の歴史や説明のパネル展示などがあり、能舞台の模型も、子供たちに人気でした。

飛び出す能楽師の舞を鑑賞するAR体験もできます。

会場は、老若男女、海外の人たちでにぎわっていました。

わたしが釘付けになったのが、九郎右衛門さんのお舞台の映像。



《嵐山》《班女》《忠度》《松風》の映像がダイジェストで流れていました。

《忠度》と《松風》がとりわけ美しい。うっとり、ため息。
お舞台、観たかったなー。




先日亡くなられた藤田六郎兵衛師が、《班女》《忠度》《松風》の笛を勤めていらっしゃって、まだなにか悪い夢を見ているよう。
(これほどの名手を、花の盛りに失うなんて。次期人間国宝を次々と狙い撃ちする病魔……ぜったいに今年か来年には国宝になられると思っていたのに。)

昨夏、霞が関で大倉源次郎さんと六郎兵衛さんが、揉ノ段や獅子を演奏されたことを思い出す。
人通りの多いコモンゲートで喧騒にまぎれながら、ストリートミュージシャンのように行われた、笛と小鼓のライヴセッション。
昔はよく二人で飲みに行っては、「流し」のように笛と小鼓で演奏してね……などと、若かりし頃のエピソードをはさみながらのセッションは、能楽堂とはまた違った味わいで、アットホームな楽しさがあった。
そして、お二人の演奏の素晴らしかったこと!

六郎兵衛さんの笛を最後に聴いたのは、九郎右衛門さんの後援会能の《龍田・移神楽》(シテ観世銕之丞)だった。
少しの衰えも感じさせない、あの五段神楽は一生の宝物です。



小鼓と大鼓



中将




大癋見


駅の一角にこういう展示があるなんて、京都はほんとうに素晴らしい!