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2020年2月13日木曜日

鬼と芸能 古今東西の鬼大集合~伝統芸能文化創生プロジェクト

2020年2月8日(土)京都芸術センター講堂
岩手県・北藤根鬼剣舞《一人加護》
2020年2月8日(土)京都芸術センター講堂
第1部:シンポジウム
基調講演 小松和彦先生
パネリスト 横山太郎、川崎瑞穂、三宅流

第2部:芸能の公演
狂言《節分》鬼 茂山千五郎
 女 島田洋海
《母ケ浦の面浮立》佐賀県・母ケ浦面浮立保存会
《鬼剣舞》岩手県・北富士根鬼剣舞保存会

廃校となった小学校校舎を利用した京都芸術センター

今月は「民俗芸能月間」と称して、民俗芸能関連のイベントへの参加をいくつか予定している。

先週の壬生狂言につづく第2弾となるのが、個人的にめちゃくちゃツボの「鬼と芸能」というこのシンポジウム&公演。しかも司会は、敬愛する小松和彦先生だ。やっぱり小松先生のお話はおもしろい! 学生時代、なんでもっと先生の講義を受けておかなかったのだろう……。


第1部:シンポジウム
小松和彦先生の基調講演を要約すると;

鬼とは、過剰な「力」の象徴的・否定的な表現である。ここでいう「過剰」とは、秩序・制御からの逸脱を意味する。われわれ(あるいは個人)に恐怖や災厄を与えるとみなされたものに対して、「鬼」というラベルが貼られてきた。

「鬼」は「人間」の反対概念である。日本人が抱く「人間」という概念の否定形であり、反社会的・反道徳的「人間」として造形されたものが「鬼」なのだ。

神事などに登場する鬼は「祓われる」ために存在する。
鬼は、良くないものを集めた「器(うつわ」であり、人々のケガレを掃除機のように吸いとってから追い払われる。一年の禍を背負って退散してくれる鬼は、人々にとってありがたい存在である。

鬼は、平安時代までは姿の見えないものとされ、一説では「おぬ(隠)」が転じて「おに」と呼ばれるようになったとされる。だが、やがて鬼はしだいに可視化されていく。鬼が語られ、描かれ、演じられるなかで、信仰や美術や芸能が生まれていった。


以上が、小松和彦先生の〈鬼〉論だった。このあたりのことは、先生の著作『鬼と日本人』に詳しく述べられている。鬼にたいする興味がまたムクムクと湧いてきたので、馬場あき子さんの『鬼の研究』とともに『鬼と日本人』も時間を見つけて再読したい。



【第2部】鬼の芸能公演
東北と九州の鬼芸能を居ながらにして拝見できるという贅沢な公演。撮影OKだったので、少しだけご紹介します。

【北藤根鬼剣舞】
北藤根鬼剣舞
はるばる岩手県からお越しになった北藤根鬼剣舞保存会の皆さん。
演者のほとんどは若い方々で、跳躍したりしゃがんだりと激しいアクション。エネルギッシュで勇壮な舞だった。

地元では、鬼剣舞はジャニーズのパフォーマンスよりもカッコいいとされ、若い人にとっても憧れの芸能だとのこと。皆さん子どものころから習い覚えて、参加するそうだ。



鬼剣舞(重要無形民俗文化財)は1300年前からつづく念仏剣舞で、囃子方は太鼓1人、平鉦1人、笛3~4人で編成される。
もっとも巧い舞い手が白い面をつけるという。能でも白い面は位の高さを意味するが、民俗芸能の世界でも「白」は位の高さを意味するらしい。

それにしても、皆さん生き生きとしていて、熱いパッションがみなぎっていた。たんなる地元芸能の「保存」ではなく、人々の暮らしに息づいた「生きた」芸能なのだ、鬼剣舞は。


鬼剣舞《一人加護》
白い面をつけたリーダー格の演者が一人で舞う《一人加護》。大地を踏みしめる「反閇」を行い、五穀豊穣と鎮魂を祈る。

西日本の民俗芸能に比べると、東北の芸能は太鼓の音色に、背骨に響くようなどっしりとした重みがある。囃子の音質の違いは、西日本と東北の空気や大地の違いだろうか?


【母ケ浦面浮立】
母ケ浦の面浮立
佐賀県から来てくださった母ケ浦面浮立保存会の皆さん。

面浮立(めんふりゅう)とは佐賀県の代表的な民俗芸能で、母ケ浦(ほうがうら)の面浮立は、佐賀県鹿島市の鎮守神社の秋祭りに五穀豊穣を願って毎年奉納されるそうだ。

面浮立の「浮立(ふりゅう)」って「風流」の当て字かな?


「鬼(かけうち)」たち
解説が物足りなかったので、ネットで調べた面浮立の説明を以下にまとめると;

面浮立は以下の3部構成になっている。
(1)奉願道(ほうがんどう):鬼が神社に乗り込むまでの道中
(2)神の前:神前での神との闘い部分
(3)法楽:神との闘いで負けた鬼が、その償いに法楽を踊って、神を楽しませる部分。

主役となる「鬼(かけうち)」は、シャグマのついた鬼面をかぶり、モリャーシと呼ばれる太鼓を腰につけ、打ちながら踊る。

面浮立は、大地に踏ん張る「力足」と、虚空に描く「力み手」を主体とし、悪霊を鎮圧する芸能だそうである。


右側が「かねうち」の女性たち
女性は「かねうち」を務める。
1つの鉦を2人の女性が持ち、拍子に合わせて2人同時に鉦を叩く。青い前だれの上から浴衣を着て、頭に花笠をかぶる。手ぬぐいで顔を覆っているのが特徴。

囃子は鉦のほかに、横笛1人(本来は数人)と大太鼓が1人。

東北の鬼剣舞でも、九州の面浮立でも、舞い手が鬼らしく「ウォーッ!」という獣のような掛け声をかけながら舞うのが印象的だった。祓われるべき鬼でありながら、全身から「気」とエネルギーを発散させて、邪気を追い払う。

鬼のなかに「祓う者」と「祓われる者」が混在しているのが、民俗芸能の鬼の特徴なのかもしれない。


【狂言《節分》茂山千五郎家】
狂言《節分》

壬生狂言の《節分》を観たばかりなので、比較しながら拝見できた。

大きな違いは以下の3つ。
(1)壬生狂言の《節分》で冒頭に登場した厄払いの呪術師が、能狂言の《節分》では登場しない。

(2)壬生狂言の《節分》では女は「後家」だが、能狂言の《節分》では女は夫のある身。夫は出雲大社に年籠りをしているという設定。

(3)壬生狂言の《節分》では鬼は衣服を着て人間の男に変装するが、能狂言の《節分》では、隠れ蓑と隠れ笠をつけて透明人間のように姿を隠して女の家に入り込む。


壬生狂言は無言劇なので、鬼と女の間でどのような言葉が交わされたのかはわからなかったが、能狂言の《節分》ではけっこうきわどい言葉が使われていた。

「一人で寝るか、二人で寝るか、この鬼が伽(とぎ)をしてやろう」とか、「毛抜きはあるか? (女の)眉毛があまりに深々として、この鬼が抜いてやろう」とか……。「眉毛」はおそらく別の箇所のヘアのメタファーだと思う。

生暖かく湿気を帯びた春の匂いがたちこめる節分。
季節の隙間は、心の隙間。
夫の留守に生じる女の気のゆるみ。そこに入り込もうとする鬼。そうした人間心理と春の気分が立ち込めるのが《節分》だ。
人間の心に生じた「魔」を鬼と呼び、季節の境目に生じた「魔」を豆で払いのける曲なのだろう、たぶん。




2018年10月31日水曜日

元稲荷古墳と長岡宮跡

2018年10月27日(土) 向日市・元稲荷古墳と長岡宮跡
最近、古墳にはまりつつあって……関西は古墳がいっぱいでおもしろい!

こちらは、向日神社の裏手、勝山公園内にある元稲荷古墳跡。
古墳時代前期の3世紀のものと推定される大型前方後円墳で、前方部・後方部とも、箸墓古墳と同比率とされています。

「元稲荷」の名称は、かつて古墳の後方部に稲荷社が鎮座していたことに由来するとのこと。向日神社の境内に点在する磐座との関連はどうなのだろう? 
興味が尽きません。


古墳跡は、こんなふうにこんもりした丘になっています。
土地の首長墳墓なので、大王(天皇)・皇族の古墳に比べると無防備です。


向日市の立看板によると、こんな感じの前方後円墳だったようです。


説法石
向日神社の鳥居の横に祀られた巨岩。
「説法石之由来」と書かれた石碑が立っています。


「説法する石?」と思って調べてみると、1307年ころに日蓮上人の孫の日像上人が、この石の上で西国街道を行きかう人々に説法し、法華経の信者を増やしたことに由来するそうです。

ふうむ。
なんとなく、この土地に根づいた岩石信仰の名残りを感じさせます。



西向日の駅まで戻ると、駅前に長岡宮の史跡がありました。

桓武天皇が平城京から長岡村へ、都を遷したのが784年。
それから、早良親王の祟りを恐れて平安京に遷都するまでのわずか10年間、長岡京がこの国の中心でした。



長岡宮跡は、こんな感じ。だだっ広い盛土のような場所。
写真を取っていたら、小さな資料館のようなところからガイドらしき男性が出てきて、いろいろ説明してくださいました。

ここは、↓下図の「西第四堂」にあたる場所だそうです。

長岡宮はこのような配置だったんですね。


短期間で大規模な都や宮殿をつくることができたのは、淀川の舟運を利用して、難波京から建物を移築したり建材を転用したりしたからではないかと考えられています。

上の図を見ると、遷都をめぐる朝廷の迷走や、天智系・天武系の興亡がよくわかります。


長岡京には、鬼門封じの大きな寺院・神社もなく、地勢的・風水的にも明確な四聖獣に相当するものがなかったため、平安京のように霊的バリアの強い王城にはならなかった可能性があります。

平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京→長岡京と長い迷走期間を経て、日本の都は落ち着くべきところに、落ち着いたのかもしれませんね。





2018年10月10日水曜日

奈良豆比古神社の翁舞

2018年10月8日(月)20時~21時 奈良豆比古神社・拝殿
奈良坂を歩くからのつづき


秋季例大祭の宵宮祭で行われる翁舞。
はじめてうかがいましたが、東京や名古屋など遠方から観覧にいらした方々も多く、境内は老若男女でにぎわっていました。

奈良豆比古神社の翁舞は、三人の翁による立合があるなど、能《翁》の古態をとどめるとされています。

現行の能《翁》との形式上の違いもさることながら、今回拝見して感じたのは、翁も三番叟も、意識が「地」に向き、大地に根ざしている、ということ。

「天地人の拍子」など秘説として説いた『翁の大事』が、16世紀以降、吉田神道の吉田家から観世・宝生大夫に伝授されていたことは知られていますが、おそらく能《翁》も、吉田神道の影響を受ける以前は、「天地人」の「天」への意識は今ほど強くなく、もっと「大地」に根ざした舞だったのではないでしょうか。



本殿は、中殿に平城津比古大神、左殿に春日宮天皇(志貴皇子)、右殿に春日王を祀る

奈良豆比古神社の祭神は、産土神の平城津比古大神(奈良津比古大神)、志貴皇子(諡号・春日宮天皇)、春日王(志貴皇子の第2皇子)です。

伝承によると、春日王(田原太子)が「白癩」にかかった際、春日王の2人の王子が春日神に病気平癒を祈願して舞い、父の病を癒したのが起源とされます。
(この伝承については、奈良坂という土地や《翁》の起源とも関係が深く、別記事「奈良坂を歩く」で考察しています。)




奈良豆比古神社の翁舞の構成は、
(1)拝礼・着座→(2)前謡→(3)千歳の舞→(4)翁太夫の一人舞→(5)大夫+脇二人による三翁の相舞→(6)三番叟の前舞(揉ノ段に相当)→(7)三番叟と千歳の問答→(8)三番叟の後舞(鈴ノ段に相当)、となっています。

つまり、「能《翁》の翁の舞に対応する部分(1)~(4)」と、「三番叟の舞に対応する部分(6)~(8)」の間に、「(5)三翁の立合」が入る、という構成です。

また、(7)の三番叟と千歳の問答も《翁》の古態と残すといわれ、そのほか、細かい部分で、奈良豆比古神社翁舞ならではの特徴が見られます。

以下、順を追って見ていくと。。。

(1)-1 拝礼
夜7時半ころ、篝火がたかれ、神主(代理)が祝詞を奏上。
8時になると、笛・小鼓・地頭・地謡・脇・三番叟・千歳・大夫の順で、「渡り床」と呼ばれる橋掛りのような廊下を渡って拝殿に至り、正面の本殿に向かって一人ずつ拝礼します。

拝礼の仕方は、能《翁》のシテのように烏帽子が着くくらい深々と下げるのではなく、大夫も他の演者と同じで、片方を立膝にしたまま頭を下げます。




(2)前謡
画像右手が、正面の本殿がある方向。
着座の並びは、向かって右端から、千歳、翁太夫、その隣四人が地謡、左端が笛方。
画像では見えませんが、笛方の斜め隣、本殿に正対する拝殿後方に小鼓2丁。
こちらに背を向けている2人が脇、脇の隣が三番叟、大鼓、となっています。

一同が着座したら、
大夫「とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりとう」
地謡「ちりやたらりたらりら たらりあがりららりとう」
と前謡が始まります。

この辺りの詞章は、現行の能《翁》とそれほど変わらないようでしたが、節がまったく違っていて、もっと平板で素朴な感じです。



(3)千歳の舞
「鳴るは瀧の水、鳴るは瀧の水、日は照るとも」で、千歳の舞が始まります。
千歳は13歳前後の少年が舞うという決まりとのこと。

能《翁》の千歳の舞のように、タタタタタという特徴的な足拍子や袖を巻く所作はありましたが、キビキビとした跳躍的要素は少なく、いかにも神聖な儀式という雰囲気。

千歳の頭に巻いている紐のような飾りが、頭頂部で2本立っているところなど、本殿の千木を思わせます。

もしかすると、稚児である千歳は神の依代であり、生きた社殿として神降しをするために舞う、という意味合いがあるのかもしれません。




(4)翁太夫の一人舞
千歳舞につづくのは、翁大夫による一人舞。
この翁面は室町時代のもので、ふだんは奈良豆比古神社のほかの古面とともに、奈良国立博物館に移管されているとのこと。


(4)翁の一人舞

この翁の一人舞の詞章も、通常の能《翁》の詞章とさほど違いはないのですが、変わっていたのは、上の画像のように、三番叟の鈴ノ段のような、片手を腰にあてて、もう片方の手を下に差し出す田植えのような所作がしばしば入ること。

やはりこうした民俗芸能としての《翁》は、天下泰平国土安穏も大事ではあるけれど、それよりも農耕儀礼・豊作祈願のほうがより身近で切実な願望だったことが、舞の所作からもよく分かります。





(5)三翁の立合

大夫の一人舞に、脇2人が加わり、奈良豆比古神社翁舞の最大の特徴である「三翁の立合」が始まります。

現行の能《翁》にも、小書「十二月往来」「弓矢立合」「父尉延命冠者」「船立合」など、複数の《翁》による立合形式がありますが、それらは直面だったり、父尉や延命冠者の面が使われていたりするのにたいし、こちらは三人とも翁面(白式尉)を使用。

金春流の「十二月往来」が奈良豆比古神社の翁舞にいちばん近いのでしょうか(観世流の「十二月往来」は二人の翁による立合)。金春流の「十二月往来」はわたしは未見なので何とも言えませんが、今度拝見して確かめてみようと思います。

奈良豆比古神社の翁舞の三翁の立合は、画像のように、三人で本殿を向いて両腕を広げている所作がほとんど。時おり左右に身体を向けて腰をかがめる程度で、舞らしい舞はなく、本殿の神々に向かって予祝的な文言を奏上するのがメインという印象でした。




(6)三番叟の前舞(揉ノ段に相当)
翁太夫と脇二人が退場する翁帰りのあと、三番叟の前舞が始まります。
軽快な跳躍、大鼓の威勢のいい掛け声や「オンハー」という三番叟の掛け声、両袖を巻き上げて肩に担ぐような型など、能《翁》の揉ノ段に共通する要素もある一方で、
画像のように体を左右に傾けたり、体を横にゆすったりするなど、なんとなくおサルさんっぽいコミカルなしぐさも見受けられます。

よく指摘されるように、猿楽の芸に近似しているといわれる修正会・修二会の芸態を受け継いでいるのかもしれません。



(7)三番叟と千歳の問答
前舞につづっく三番叟と千歳の問答は、現行の大倉流・和泉流にはない文句。
天野文雄先生の『翁猿楽研究』によると、車大歳神社の翁舞や観世座年預系《翁》詞章に類似しており、年預(地方の大夫)の《翁》の影響を受けているとのこと。

所作も変わっていて、三番叟が問いかければ、千歳は正面を向き、千歳が問いかければ、三番叟が正面を向く。両者が向き合って問答をすることがないことから、ここにも翁舞の古態が残されているといわれています。




(8)三番叟の後舞(鈴ノ段)に相当
問答が終わり、鈴を三番叟に渡すと、千歳は退場。
いよいよ後舞(鈴ノ段)へ。
後舞では、鈴ノ段に特徴的な「種まき」や「面返り」のような型が見られ、さらに激しく身をくねらせる動作も入ります。

笛も独特で、素朴だけれど、すこし魔的な、マジカルな音色がなんとも素敵でした。




最後は、ふたたび演者が一人ずつ拝礼し、「渡り床」を渡って、戻っていきます。



記念にいただいた冊子と護符


奈良豆比古神社の翁舞、堪能しました。
それにしても、古い面・装束の保存状態の素晴らしいこと!
翁講中や氏子の方々が、いかにこのお祭りを大切にされているのかが伝わってきます。
こうして継承し、続けていくのは並大抵のご苦労ではないと思いますが、どうかこれからも末永くつづきますように。

ありがとうございました!!










奈良坂を歩く~奈良豆比古神社の翁舞雑感

2018年10月8日(日) 夕方 奈良坂~奈良豆比古神社


かねてから拝見したかった奈良豆比古神社の翁舞。

京都三大奇祭のひとつといわれた「牛祭」(摩多羅神の祭り)が、わたしが訪れた数年後には休止になっていたことを聞いて以来、こうした神事や民俗芸能は「行けるときに行っておかなくては!」と思うようになったこともあり、どうしても観ておきたかったのです。

一度休止になったものを復活させるのは難しく、こうしたお祭りを継続させるのがいかに難しいのかを痛感します。

現に奈良豆比古神社も、御高齢だった神主さんが数か月前に他界し、後を継ぐ人がいないため、今は氏子さんたちが持ち回りで代行されているそうです。
(神主さんがいないので、御朱印も出せないそうです。)

奈良豆比古神社の翁舞は、この奈良坂の土地や歴史と深いかかわりがあり、お能にもしばしば登場する奈良坂を実際に歩いてみたかったので、バスで途中下車して散策してみました。

(奈良駅から奈良豆比古神社まで歩こうとしたら、観光案内所の人に「それは無謀です!」と言われ、途中までバスに乗ったのでした。)




最初の目的地・北山十八間戸は、バス通りから外れた奥まった場所にあるらしく、地元の人に道を尋ねながら、ようやく標識のある場所にたどりつきました。

案内板によると、「すぐ 後(手前) 北山十八間戸」とあるので、それらしき建物を探してみると。。。




これかな? それにしても、ずいぶん狭い。。。。こんなところに。。。
と思っていると、これではなく、その向かいの建物でした。
ちなみにこの建物は、大正時代に建てられた旧奈良市水道計量器室だそうです。



北山十八間戸

鎌倉時代に律僧の忍性が癩者収容のために建てた北山十八間戸。
現在の建物は元禄年間に修築されたもの。
柱間が18あるため十八間戸と名づけられ、なかは2畳程度の病室が18戸に区切られているそうです。

奈良坂近くの佐保山には、光明皇后の陵墓があります。
光明皇后は悲田院や施薬院を設置して慈善活動を行い、彼女が癩者の膿を吸ったところその病人が阿閦如来の化身だったという伝説を持つなど、ハンセン病の歴史ともゆかりが深く、この土地はそうした古代・中世の面影を色濃く残す場所です。



坂や峠、関は宗教的な結界の地であり、奈良坂は、いわゆる「坂の者」といわれた人々が集住した奈良坂宿があった場所。

逢坂山の蝉丸・逆髪や、四天王寺のしんとく丸(俊徳丸)のように、そうした宿(夙)や散所のあった場所には、病気や障害をもつ貴人や土地の有力者の子弟にまつわる貴種流離譚がよく聞かれます。

「白癩」を患った春日王とその子息にまつわる奈良豆比古神社の翁舞の伝承も、そうした貴種流離譚のひとつなのかもしれません。


また、猿楽の徒が守護神として祀ってきた「宿神」の正体についても、「宿神=翁=摩多羅神」という説がある一方で、「宿神=翁=春日神」とする説も中世の能楽伝書にはひろく認められます。

実際に、各地の春日社では翁舞が奉納される場所が多く、黒川能の春日社、篠山春日社や春日若宮おん祭での翁奉納、そして、この奈良豆比古神社の春日王を祭神とする翁舞……など、春日社と翁との結びつきは深く、こうしてみていくと、「宿神=翁=春日」説が大きくクローズアップされてきます。

春日神、そして、摩多羅神面を所有する談山神社と春日社とを結ぶ藤原氏。
いろいろ謎が深まるばかりですが、宗教民俗学的にとても興味深く、これからも探っていきたいと思います。



般若寺楼門

もうすでに日は暮れてきたので、残念ながら般若寺のなかへは入れず。

聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』によると、654年に蘇我日向臣が孝徳天皇の病気平癒祈願のために建立したと伝えられます。
しかし、戦国時代に大半が焼失し、戦後まで廃寺同然となっていて、往時を偲ぶ建物は、上の画像に見られる鎌倉時代の楼門と三重の塔だけだそうです。

付近の般若野は中世には刑場だった場所で、南都焼き討ちの張本人とされた平重衡の首もこのあたりに晒されたといいます。





そんな感じで、日も暮れてきたこともあり、一人で歩くには怖い場所だったのですが、坂を登ると、穏やかな民家が見えてきて、家々の軒先には奈良豆比古神社の例大祭のために御燈明が灯されていました。

提灯の明かりを見て、ホッとひと息。
いにしえに奈良坂を越えた旅人たちの気持ちがわかるような気がします。





ようやくたどり着いた奈良豆比古神社。
いよいよ翁舞がはじまります。



奈良豆比古神社の翁舞につづく