かねてから拝見したかった奈良豆比古神社の翁舞。
京都三大奇祭のひとつといわれた「牛祭」(摩多羅神の祭り)が、わたしが訪れた数年後には休止になっていたことを聞いて以来、こうした神事や民俗芸能は「行けるときに行っておかなくては!」と思うようになったこともあり、どうしても観ておきたかったのです。
一度休止になったものを復活させるのは難しく、こうしたお祭りを継続させるのがいかに難しいのかを痛感します。
現に奈良豆比古神社も、御高齢だった神主さんが数か月前に他界し、後を継ぐ人がいないため、今は氏子さんたちが持ち回りで代行されているそうです。
(神主さんがいないので、御朱印も出せないそうです。)
奈良豆比古神社の翁舞は、この奈良坂の土地や歴史と深いかかわりがあり、お能にもしばしば登場する奈良坂を実際に歩いてみたかったので、バスで途中下車して散策してみました。
(奈良駅から奈良豆比古神社まで歩こうとしたら、観光案内所の人に「それは無謀です!」と言われ、途中までバスに乗ったのでした。)
最初の目的地・北山十八間戸は、バス通りから外れた奥まった場所にあるらしく、地元の人に道を尋ねながら、ようやく標識のある場所にたどりつきました。
案内板によると、「すぐ 後(手前) 北山十八間戸」とあるので、それらしき建物を探してみると。。。
これかな? それにしても、ずいぶん狭い。。。。こんなところに。。。
と思っていると、これではなく、その向かいの建物でした。
ちなみにこの建物は、大正時代に建てられた旧奈良市水道計量器室だそうです。
北山十八間戸 |
鎌倉時代に律僧の忍性が癩者収容のために建てた北山十八間戸。
現在の建物は元禄年間に修築されたもの。
柱間が18あるため十八間戸と名づけられ、なかは2畳程度の病室が18戸に区切られているそうです。
奈良坂近くの佐保山には、光明皇后の陵墓があります。
光明皇后は悲田院や施薬院を設置して慈善活動を行い、彼女が癩者の膿を吸ったところその病人が阿閦如来の化身だったという伝説を持つなど、ハンセン病の歴史ともゆかりが深く、この土地はそうした古代・中世の面影を色濃く残す場所です。
坂や峠、関は宗教的な結界の地であり、奈良坂は、いわゆる「坂の者」といわれた人々が集住した奈良坂宿があった場所。
逢坂山の蝉丸・逆髪や、四天王寺のしんとく丸(俊徳丸)のように、そうした宿(夙)や散所のあった場所には、病気や障害をもつ貴人や土地の有力者の子弟にまつわる貴種流離譚がよく聞かれます。
「白癩」を患った春日王とその子息にまつわる奈良豆比古神社の翁舞の伝承も、そうした貴種流離譚のひとつなのかもしれません。
また、猿楽の徒が守護神として祀ってきた「宿神」の正体についても、「宿神=翁=摩多羅神」という説がある一方で、「宿神=翁=春日神」とする説も中世の能楽伝書にはひろく認められます。
実際に、各地の春日社では翁舞が奉納される場所が多く、黒川能の春日社、篠山春日社や春日若宮おん祭での翁奉納、そして、この奈良豆比古神社の春日王を祭神とする翁舞……など、春日社と翁との結びつきは深く、こうしてみていくと、「宿神=翁=春日」説が大きくクローズアップされてきます。
春日神、そして、摩多羅神面を所有する談山神社と春日社とを結ぶ藤原氏。
いろいろ謎が深まるばかりですが、宗教民俗学的にとても興味深く、これからも探っていきたいと思います。
般若寺楼門 |
もうすでに日は暮れてきたので、残念ながら般若寺のなかへは入れず。
聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』によると、654年に蘇我日向臣が孝徳天皇の病気平癒祈願のために建立したと伝えられます。
しかし、戦国時代に大半が焼失し、戦後まで廃寺同然となっていて、往時を偲ぶ建物は、上の画像に見られる鎌倉時代の楼門と三重の塔だけだそうです。
付近の般若野は中世には刑場だった場所で、南都焼き討ちの張本人とされた平重衡の首もこのあたりに晒されたといいます。
そんな感じで、日も暮れてきたこともあり、一人で歩くには怖い場所だったのですが、坂を登ると、穏やかな民家が見えてきて、家々の軒先には奈良豆比古神社の例大祭のために御燈明が灯されていました。
提灯の明かりを見て、ホッとひと息。
いにしえに奈良坂を越えた旅人たちの気持ちがわかるような気がします。
ようやくたどり着いた奈良豆比古神社。
いよいよ翁舞がはじまります。
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