2018年10月25日木曜日

栖霞観から清凉寺へ ~《融》が《百万》に乗っ取られた場所

2018年10月22日(日) 清凉寺(嵯峨釈迦堂)
いにしえの葬送の地・嵯峨野には、謡曲ゆかりの地がたくさんあります。
ここは地獄や六道の辻とも関係が深く、民俗学・妖怪学的にも興味深い場所です。

清凉寺の経蔵に納められた法輪
日本のマニ車ともいわれる法輪(転法輪とも)。
一回まわしただけで、一切経を読むのと同じ功徳が得られるという(お手軽な気もするけれど)ありがたい仏具。堂内には念仏のBGMが流れていました。


さて、ここ清凉寺は、嵯峨野の名の由来となった嵯峨天皇の皇子で、能《融》の主人公でもある源融の別荘「栖霞観」があった場所です。

融の邸宅・六条河原院では、塩竈の浦の景色を模した庭園など「海」のモティーフが用いられていたのにたいし、嵯峨野の別荘は「栖霞観」の名が示すように、道教思想にもとづいた仙境をイメージしてつくられたのかもしれません。

融の没後、彼の姿を写したといわれる阿弥陀如来を安置するために、別荘・栖霞観は「栖霞寺」という寺院に改められました。


多宝塔
仁王門をくぐると、左手に多宝塔があります。
この塔の後ろにひっそりと佇むのが、源融のお墓です。

境内の通りからは見えないので、なかなか見つからなかったのですが、お寺の方にお尋ねして、ようやく探しあてました。
源融の墓とされる宝篋印塔
人通りのまったくない多宝塔の裏にひっそりと。
苔むして摩耗した古い石造りの宝篋印塔。
融の墓所にふさわしい、静かで、安らかな場所です。

そっと、手を合わせました。


隠元禅師筆「栴檀瑞像」の額がかかった釈迦堂
阿弥陀三尊像を本尊とする栖霞寺の創建から数十年たったころのこと。
生前の釈迦の姿を写したとされる「三国伝来の釈迦像」を模刻した清釈迦如来立像が日本に請来されました。

この釈迦如来像を安置するべく栖霞寺の境内に建立されたのが、清凉寺です。

かくして源融ゆかりの栖霞寺は、境内に建立された清凉寺に(ひらたく言えば)乗っ取られる形となり、本尊の座も、阿弥陀如来から釈迦如来へと変わってしまいました。

(現在、源融の姿を写したとされる阿弥陀如来と脇侍たちは、霊宝館に収蔵されています。寺院や宗派の興亡・変遷をたどると、時代のパワーが貴族から庶民へと徐々に移り変わっていったのが感じられます。)

春の嵯峨大念仏のにぎわいを舞台にした能《百万》でも、清凉寺の釈迦如来像が賛美されています。
「毘首羯磨が作りし赤栴檀の尊容、やがて神力を現じて、天竺震旦我が朝三国に渡り、ありがたくも、この寺に現じ給へり」


清凉寺が融通念仏と結びついたのは、13世紀のこと。母親と生き別れになった円覚上人が、嵯峨釈迦堂(清凉寺)を融通念仏根本道場に定めたことによるとされています。

円覚上人は、念仏参加者が十万人に達するごとに一基の塔を建てて供養したことから、「十万上人」と呼ばれました。

清凉寺では、この十万上人(円覚上人)の母子再会譚を能に仕立てたのが、能《百万》(原曲《嵯峨大念仏の女物狂》)だと考えられています。
十万上人の追善法会などでは、「母見た」にちなんで「ハハアーミータ ボウシュ」という念仏が唱えられるそうです(「ボウシュ」は「母処」の意味とのこと)。

嵯峨大念仏狂言にも、いわばご当地ソングとして演目の中に《百万》があるのですが、嵯峨狂言の《百万》では、子方の名前が「十万」になっており、「百万の子ども=十万上人」であることが明示されています。

十万上人は、清凉寺の墓地に静かに眠っています。
清凉寺には、《廓文章》などで知られる夕霧太夫の墓もありますが、ほかにも歴史上有名な方々の墓標が立っています。

豊臣秀頼首塚
清凉寺の再興に尽力した豊臣秀頼もそのひとり。
隣には、大坂の陣諸霊供養碑もあります。

生の六道(小野篁遺跡)
小野篁が、六道珍皇寺の井戸を通って冥途通いをしたという話は有名ですが、六道珍皇の井戸は、冥途の入り口です。
篁の冥途通いの出口となったのが、嵯峨野にあった福正寺の井戸でした。
それゆえ嵯峨野のこの地は、「生(しょう)の六道」といわれたそうです。

福正寺は、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、清凉寺境内にある嵯峨薬師寺に吸収合併され、こうして「生の六道」の遺跡だけが残されました。

東山から嵯峨野まで、つまり、「鳥辺野」から「化野」という二大葬地を冥界の井戸がつないでいたと昔の人は考えていたのですね。

いにしえ人の脳内では、あの世とこの世がこんなふうにつながっていたんだと、その世界観と自由なイマジネーションを垣間見た気がして、面白いものです。
日常のなかに、四次元空間の穴がぽっかり開いているような、そんな思考だったのでしょうか。
夢があって、いいなあ。








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