2019年3月31日日曜日

桜三昧、春三昧の大槻能楽堂

2019年3月24・31日  大槻能楽堂
自宅周辺の桜は5~8分咲き

【長山皐諷会】(3月24日)
(番外仕舞《笹之段》長山禮三郎

番外仕舞《白楽天》  観世銕之丞
    《杜若キリ》 観世喜之

番外仕舞《屋島》   長山耕三
    《草子洗小町》観世喜正
    《鞍馬天狗》 長山桂三

九皐会より 鈴木啓吾 小島英明 中所宜夫
銕仙会より 浅見真州 浅見慈一

お囃子 
笛 斉藤敦、(野口亮改メ)槌矢亮
小鼓 上田敦史、清水皓祐
大鼓 山本哲也、山本寿弥 
太鼓 上田悟



【寺澤好聲会】(3月31日)
番外仕舞《実盛》  大槻文蔵
    《網之段》 井上裕久

番外舞囃子《歌占》 寺澤拓海
     《巻絹》 寺澤杏海
斉藤敦 久田陽春子 山本哲也 中田弘美

近所の枝垂れ桜

春の陽気に誘われて、二週続けて大槻能楽堂へ。

長山禮三郎さん・耕三さんのお社中会では、銕仙会・九皐会の方々が東京からお見えになっていて、懐かしい。そうそう、九皐会の謡ってこんな感じだったよね。とくに観世喜正さんが地頭になると、ちょっと鼻にかかったようなビブラートの効いた謡い方になって、特徴的。

番外仕舞も充実。
銕之丞さん、年末年始の《道成寺》で酷評されていたからちょっと心配だったけれど、スケールの大きな《白楽天》で、住吉明神の品格と威厳を感じさせた。羽根扇から神風が物凄い勢いで吹いてくるようだった。

銕之丞さんによる《熊野・読次之伝・村雨留・墨次之伝》(小書てんこ盛り)は四月観世会例会で拝見する予定。淳夫さんの朝顔も楽しみ。



そして、白眉は長山桂三さん。
やっぱりうまい! 情景がありありと立ち現れる! シテのお辞儀の先に、花盛りの鞍馬山に佇む牛若丸の姿が見えてくる。



今週訪れた寺澤忠芳さん、幸裕さんのお社中会では、京都から井上裕久さんをはじめ門下の 吉浪壽晃さん、浦部幸裕さん、吉田篤史さんたちも参加。井上一門の謡も好きだし、寺澤幸弘さんの謡も見事なので、この日の地謡は素晴らしかった。


大槻文蔵師の《実盛》は「老いの美学」を具現化した舞。
文蔵師の実盛は若さにしがみつくというよりも、美しく、華々しく老いていく。使い込まれたアンティーク家具のように黒光りのする美しい姿と芸。みずからの美学を、ここまで完璧に身体と芸で表現した人がいるだろうか。


井上裕久さんの《網之段》。
このあいだ、九郎右衛門さんの《網之段》を拝見したばかりだけれど、井上さんの舞もよかった。ヒラキで両腕をふんわりと広げるたびに、桜の花がほころび、ハラハラと花びらが散ってゆく。顔(面)を左右に切るだけで、澄んだ水に国栖魚たちがシュシュッと俊敏に泳ぐ姿が見える。桜が咲き誇り、水面に花びらが浮かぶ。母の狂おしい歎きと、狂おしく散る桜。さすがだった。
6月の井上定期能の《九世戸》、都合がつけば観にいきたい。


それからびっくりしたのが、寺澤拓海さんの舞囃子《歌占》。
めっちゃうまいやん。過去に能《熊坂》や舞囃子《六浦》を拝見したものの、そのときはときに印象に残らなかった。でも、うまい方なんですね。まだ十代くらい?
謡はお父様に似て、とてもよく通る素敵な謡。舞にもキレがあり、人の目を惹きつける魅力があった。ちょっと注目。





2019年3月23日土曜日

「気」の芸術 ~ 水車稲荷はどこへ?

2019年3月21日(木) 京都観世会館

体調を崩していたため家で休養すべきか迷ったが、少しでもお能の空気に触れたくて、味方玄さんの社中会にお邪魔した。

長居はできなかったけれども、行ってよかった。

片山九郎右衛門さんの番外仕舞《網之段》。
桜川の水を扇で汲み上げる型は、わが子の魂を手の中に集めるような愛おしげな所作。
水面に浮かぶ桜の花びらが扇の中でゆらゆら揺らめき、陽光を反射する水の透明感がシテの顔に明るく映っている。
水の質感、実体感がたしかに感じられる。
このリアリティがあるからこそ、桜子の母の情感と、そこに込めた世阿弥の美意識がひしひしと伝わってくる。


能《海士》のシテを舞われた社中の方も素晴らしく、とりわけ玉之段が見応えがあった。


そして、圧巻は舞囃子《融・舞返》!
杉信太朗さん、成田達志さん、白坂信行さん、前川光範さんのお囃子が超絶カッコいい!! 
もう完全に、ロック! これぞ、ロック! アグレッシブな、攻めロック!

とくに早舞から急テンポの急ノ舞に転じるところ、
成田達志さんの小鼓が冴え渡り、前川光範さんの早打ちが炸裂し、ビシビシッと凄まじい「気」が舞台全体に充満する。
そこへ、九郎右衛門さん、味方玄さんたちの地謡が、まるで獅子のような迫力で覆いかかる!

最高の能楽師さんたちから発せられる最高の「気」が、ビシビシッと鍼のように飛んできて、ツボの経絡に次々と突き刺さる。
しびれるような電流が走り、足元から鳥肌が立った。

やっぱりお能は、「気」の芸術なのだ。

最高のパフォーマンスに遭遇すると、身体がおのずと反応する。
分泌されるホルモンや神経伝達物質が変化して、心と体のバランスが整ってくる。

難しい意味なんか分からなくてもいい、言語の壁なんか関係ない。
主客の「気」が交流すれば、身体そのものが変化する。

大事なのは「気」、技術と表現力をともなった「気」なのだ。



成田奏さんの小鼓も聴きたかったし、味方ファミリーの番外仕舞も拝見したかったけれど、もうこれが限界。後ろ髪を引かれる思いで、会場を後にした

でも、大好きな能楽師さんたちから良い「気」をいただいたおかげで、いろいろあって心身ともに弱り切っていたわたしも、少し前向きになれた気がする。


幸せな気分で白川沿いを歩いていると、なんと、水車稲荷さんが無くなっているではないですか!

ここは、明治期に琵琶湖疏水から水を引いて水車を回した竹中製麦所の水車用水路跡。この水路の安全祈願のために祀られたのが、水車稲荷(三谷稲荷社)だったという。

こんなに無残に祠が撤去されたのを見たのははじめてなので、ショック。
隣接する家屋の建て替えか何かで、どこかに移転されただけならいいけれど。








2019年3月21日木曜日

弓弦羽神社 ~ 羽生結弦ファンの聖地

2019年3月16日(土)弓弦羽神社(神戸市東灘区)

フィギュアスケーター・羽生選手も訪れた、羽生結弦ファンの聖地・弓弦羽神社。香雪美術館の目の前にあります。

8世紀末に弓弦羽ノ森を神領地と定め、849年に社殿を造営し、熊野大神を祀ったのが、この弓弦羽神社の始まりとされます。由緒ある立派な神社でした。


大きな鳥居をくぐると、左手に樹齢350年の御神木。さらに進むと、手水舎が見えてきます。

御祭神が熊野大神なので、境内のあちこちに八咫烏が。
もちろん、手水舎にも。不愛想なのがカワイイ。




ここの手水舎はなかなかハイテク。
参拝者が近づくと、センサーで感知して、ヤタガラスの口から水が出てきます。




こちらは、神社のマスコットシンボル「ゆづ丸」くん。

紙に願い事を書いて、この「ゆづ丸」くんの内部に入れ、ゆづ丸の身体に自分の名前と日付、羽を書いて、奉納すれば、神様にお願いを届けてくれるとか。
ゆづ丸くんも、羽生結弦ファンに大人気。




さらに進むと、大きな社殿が見えてきました。

社伝によると、三韓征伐から凱旋した神功皇后が摂津国難波浦に向かう途中で、忍熊王が挙兵したとの知らせを受け、この地で弓矢甲冑を奉納して熊野大神に先勝祈願をしたのが、この神社の起源だそうです。


この故事により、神社背後の山を「弓弦羽嶽」(弓矢)、もしくは、「武庫山(後に六甲山の字が宛てられた)」(甲冑)と呼んだといいます。

また、神功皇后がこの里の泉に姿を写したことから、この地は「御影」と呼ばれるようになったとされています。

「武庫(むこ)」や「六甲山」、「御影」といった馴染み深い地名が、この神社の縁起に由来していたとは! 




社殿にも、ヤタガラスがいっぱい!



絵馬のほとんどが羽生結弦選手の必勝祈願!




こちらは末社の松尾社(まつおのしゃ)。
松尾大社を本宮とするお酒の神さまですね。

灘五郷の真ん中にある御影では、いまでも酒造会社が「松尾講」を組織していて、灘の酒造メーカーの多くがこの松尾社の氏子だそうです。


弓弦羽神社では、4月7日に「御影・花びらまつり」が行われ、灘五郷のふるまい酒もあるとのこと(一杯百円)。
お近くの方、お花見がてらに訪れてみてはいかがでしょうか。






2019年3月19日火曜日

18年前の梅若実玄祥の《道成寺》~四世梅若実襲名記念展覧会

2019年2月26日~5月6日 香雪美術館
「梅若六郎家所蔵の能面と能装束」幽玄の世界への誘いからのつづき

本展覧会では面・装束・扇の展示のほか、平成12年に名古屋能楽堂で梅若実(当時六郎)が舞った《道成寺》のダイジェスト版も上演された。この舞台が凄かった!

18年前といえば、実師は50代初めの絶頂期。
小鼓の大倉源次郎師、笛の藤田六郎兵衛師、鐘後見の梅若紀彰師は40代、ワキの宝生閑・地頭の大槻文蔵師は60代と、いずれも40代~60代の脂の乗り切った年代だ。

観能歴の長い人が「昔は凄かった。でも、今はねぇ……」みたいなことを言うのをよく耳にするが、あれは単なる回顧主義ではなく、正真正銘の事実なのだと思い知らされた。才能あふれる人たちの全盛期に居合わせた観客は幸せだと羨ましく思う。


この名古屋能楽堂での《道成寺》は、紀伊国屋書店から出ているDVD『能・道成寺』にも収録されている。展覧会での上演はダイジェスト版なので、「乱拍子→急ノ舞→鐘入り→蛇体登場→鱗落とし→エンディング」を鑑賞した。


冒頭から乱拍子の凄烈な迫力が押し寄せてくる!

源次郎師の小鼓と、梅若実(六郎)師の一騎打ち。
凝縮されたエネルギーがぶつかり合い、炸裂し、火花を散らす。
それは、敵対する闘いではなく、衝突しながらも調和する絶妙な駆け引きであり、スリルあふれる神経戦のような、極度に張りつめた緊張感の攻防だった。


ホウ、オーーッと源次郎師が、命を削るような掛け声をあげて鼓を打てば、実(六郎)師が相手の急所めがけて刀を打ち込むように足遣いをし、大蛇がズルッズルッととぐろを巻くように身をくねらせる。剣豪どうしの果たし合いとは、このようなものだろうか。


密度の高い静寂を打ち砕くように、激しい急ノ舞でシテと囃子が瀧のごとく奔流し、そこから一気に鐘入りへとなだれこむ。

「たちばなの道成興行の寺なればとて、道成寺とは名づけたりや……」、実師の哀調を帯びた謡。ダイナミックな舞のなかにヒロインの傷ついた心が見え隠れする。


後シテは、白頭に白般若。
白般若の面は、今回展示されている出目洞水満矩「白般若」の写しだった。


実師は、女の悲しみをより深く表現するために、この白般若の面を使ったという。
はじめてこの白般若の面をかけて《道成寺》を舞ったとき、白洲正子から「とうとう、お父様を抜いたわね!」と絶賛されたそうだ。それゆえ、この面にはことのほか思い入れがあると聞く。


前記事で書いたように、梅若家の白般若の面は、髪の分け目から左右に二筋の毛筋が入っているのが特徴。毛筋は鬘で隠れて見えないが、白頭の隙間から見える般若の顔には深い悲しみの影が宿っていた。怨みのなかに、身を切るような悲しみと恋慕の情が揺れ動いている。


数珠を揉んで調伏するワキの宝生閑のまなざしは、どこかあたたかく、慈しみの心が感じられる。
傷ついたヒロインの昔語りに耳を傾ける、あのやさしさ、あたたかさ。
敵意で対決するのではなく、相手を包み込むように、数珠を揉み、蛇体を追う。
「弔い」のための調伏。


能《葵上》にも使われる位の高い白般若をつけているからだろうか、蛇体のシテにも恐ろしさはなく、ほのかに品があり、か弱げなところがある。


実(六郎)師が描いた真砂庄司の娘。
宝生閑の相手をいたわるような物腰。
その悲しく、あたたかい空気を音で奏でるお囃子。
美しい所作で、力強く確かな手際で鐘を落とした鐘後見。


いずれも素晴らしく、心に残る《道成寺》だった。







2019年3月17日日曜日

「梅若六郎家所蔵の能面と能装束」幽玄の世界への誘い ~香雪美術館

2019年2月26日~5月6日 御影・香雪美術館

梅若六郎家の名品中の名品が勢ぞろいした四世梅若実襲名記念特別展。

あこがれの「逆髪」に出会えただけでも感激なのに、かつての名舞台で使われた面も数多く展示され、あのときの感動が蘇ってくる。
当代梅若実師による18年前の《道成寺》の映像も上演され、いつしか子どものように夢中になっていた。会場には3時間近くいただろうか。


朝日新聞の創業者・村山龍平のコレクションを収めた香雪美術館

梅若家の優れた能面の多くは、明治期に能楽名家や大名家から放出された名品を、初代梅若実が精力的に買い求めたもの。かけがえのない面・装束の散逸や海外流出を防いだのが、初代実だった。


本展覧会でも、13代喜多流宗家が明治初期に手放したものが、土佐藩藩主・山内容堂の手に渡り、その後梅若実が入手した優品の数々が展示されていた。


また、三遊亭円朝と白洲正子からそれぞれ贈られた「喝食」(河内大掾家重)や「増女」(出目是閑吉満)なども展示され、初代梅若実の幅広い交友関係の一端がうかがえる。

これらの能面には、贈った人の人柄や趣味も反映されていて面白い。

円朝の「喝食」はアクのある個性的な顔立ち。たんなる正義のヒーローではない、一癖も二癖もありそうな「喝食」だ。いっぽう、白洲正子が贈った「増女」は洗練された気品を備え、素直でひたむきな雰囲気をもつ。これを初代実が掛けることで、かえってシテ自身の個性が引き立つことを白洲正子は狙ったのだろうか。


【蝉羽(せみのは)】(伝出目友閑満庸・江戸中期)
この日、思いがけない出会いとなったのが、孫次郎系の女面「蝉羽」だった。下ぶくれの顔立ちに、豊かでぼってりとした唇。コケティッシュな笑みを浮かべているが、うるおいのある切れ長の目は、どことなく寂しげだ。みずみずしい表情、やわらかな肌の質感は、生身の女性を思わせる。


『能を旅する』という本に、当代実師がこの「蝉羽」を《松浦佐用姫》に用いた時の写真が掲載されている。最高の舞い手を得た能面「蝉羽」はこのうえなく幸せそうに、生き生きと輝いている。能面は、舞台で使われてこそ生きてくる。




【童子】(伝石川龍右衛門・室町末期)
これは忘れもしない、梅若紀彰師が《菊慈童・酈縣山》で使った面だ。
「酈縣山」の小書がつくと、菊慈童が深山へ流刑されるシーンが前場として復活する。

ひとり深山に置き去りにされる慈童の、寄る辺のない、打ちひしがれた様子。赤子を抱くように、さも大事そうに枕を抱く、あの悄然とした姿が、いまも胸に強く焼きついている。思わず駆け寄って抱きしめたいほど、胸が強く締めつけられたのが懐かしい。




【蛙】(伝河内大掾家重。江戸前期)
【真蛇】(伝赤鶴吉成・室町期)
昨年、Eテレで放送された復曲能《大般若》。前シテに使われた「蛙」と、後シテの「真蛇」が展示されていた。

《大般若》の前シテ・深沙大王の化身に「蛙」の面が使われているのを観た時は、軽い衝撃を覚えた。当代実師の卓越した美的感覚がここにも現れている。「深沙大王=沙悟浄=河童=蛙」という連想に由来するのかもしれないけれど、ふつう思いつかないよね、「蛙」を使うなんて。


喜多家旧蔵の「蛙」は、通常の「蛙」の面とはちょっと違う。ふつうの「蛙」は、上からジトーッと恨みがましく見下ろす表情をしているが、この「蛙」は上目遣いで、どこか飄々としていて、つかみどころがない。深沙大王の化身の「得体の知れなさ」を表現するのには最適だと思う。


「真蛇」の面は、復曲能《大般若》の要。
深沙が転じて「真蛇」と表記されることが多く、能面の「真蛇」は《大般若》の専用面だったという仮説からこの能が復曲された。

梅若家所蔵の「真蛇」はそれほど恐ろしい感じはなく、どちらかというとアニメチックでコミカルだ。

目や歯・牙には金輪や金板がはめ込まれ、鋲で打ちつけられている。文字通り、耳まで避けるほどカッと開かれた大きなアゴには、両サイドに大きな亀裂が入っているのが見て取れる。まさにアゴが外れた状態だったのではないだろうか。

大きく亀裂の入った「真蛇」を掛けて、さらに巨大な輪冠龍戴(これも展示)を被って舞台で舞うというのは至難の業である。これを当代実師は事もなげに演っておられた。黄金期のハリウッド映画を思わせるスペクタクルな構成・演出も見事。
余談だけど、ツレの龍神役で出ていた川口晃平さん、以前にも増してうまくなっていた。




【逆髪】(大宮大和真盛・江戸前期)
この「逆髪」の写しを使って喜多流某師が《道成寺》を舞ったのをテレビで観たことがある。その時は、面だけが妙に浮き上がり、なんとなくちぐはぐだった。能面の顔立ちがあまりにも現代的で、どこか深みに欠けるような印象を受けたのかもしれない。

ところがこの日、展示された「逆髪」の本面からは、まったく別の感じを抱いた。

凄みのある美貌・美形に変わりはないが、それは表層的で浅薄な美しさではなく、もっと内省的で深い精神性を感じさせる奥行きのある美しさだった。妖艶な官能性よりも狂気を秘めた神秘性を感じさせた。

写しと本面の違いだろうか。それとも。。。

それにしても、不思議な面である。
この面をしばし眺めてたあと、ほかの能面を鑑賞していても、強い磁石に引かれるようにまたこの面の前に戻ってしまう。2階の展示室に行っても、どうしても「逆髪」の面のことが気になって、また舞い戻ってしまうのだ。しかも見るたびに表情を変え、受ける印象が違ってくる。憂いに沈んでいたり、氷のように冷たく取り澄ましていたり、驕慢な笑みを浮かべていたりと、まるで生きている女性のよう。

おそらく舞台では、ほんの少し角度を変えるだけで、あるいは、観る側の精神状態を微妙に反映して、一瞬ごとに表情や雰囲気を変えるのだろう。

この面は、能《逆髪》以外に《道成寺》や新作能《智恵子抄》にも使われたという。すでに使われたことがあるのかもしれないけれど、《鷹姫》はどうだろう? 《鷹姫》こそ、この謎めいた面にふさわしい気がする。《野宮》でも観てみたい。



このほか、伝日永相忠の「老女小町」(室町末)や、斜めに描かれた二本の毛筋が特徴的な出目洞水満矩「白般若」、下間少進仲孝の花押のある「痩女」、美しく茶色に褪色した黒紅唐織など、ここに書ききれないくらいの凄い名品ばかり。


18年前の《道成寺》の映像が感動的だったので、黄金期の梅若実玄祥の《道成寺》につづく。








2019年3月8日金曜日

上方伝統芸能SHOW英語公演

2019年3月2日(土)18時~19時10分 山本能楽堂

〈プログラム〉
出演者によるトーク
 小西玲央 山本章弘 司会:旭堂南春

落語《TAKOYAKI TIME》 ダイアン吉日
 三味線 勝正子 鳴り物 桂紋四郎

狂言《柿山伏》シテ山伏 善竹隆司
 アド畑主 善竹隆平
 後見 上吉川徹 働き 小西玲央

半能《猩々》シテ 山本彰弘
 杉信太朗 古田知英 石井保彦 田中達
 後見 前田和子
 地謡 大西礼久 今村一夫
    山下あさの 山本麗晃



わずか一時間あまりのあいだに、落語・狂言・能がギュッと詰まった、上方芸能のアソート公演。

司会は、アメリカ人の女性講談師・旭堂南春さん。ジョークを交えながらの分かりやすい英語で楽しく解説してはりました。

トークと落語は英語だったけれど、さすがに狂言とお能は通常の日本語の古語+字幕での上演。字幕は、日本語・英語・中国語・韓国語の四か国語がプロジェクターで壁に映写されます。こんな感じに。↓
プロジェクターで壁に映写された四か国語(「上方」の訳が「Osakan」、つまり上方=大阪になっているんですね。)

まずは落語から。

落語《TAKOYAKI TIME》 ダイアン吉日
ダイアンさんはイギリス人の女性落語家。大安吉日をもじって「ダイアン吉日」という芸名。ご自分で着付をされたのでしょうか。少し派手めのピンクの着物が、細身長身のダイアンさんにとても似合ってはります。所作もきれい。


演目は、上方の古典落語「時うどん」のスピンオフ作「たこやきタイム」。

関西では、「時そば」ではなく「時うどん」というのも、この日はじめて知りました。へぇ~、です(笑)。

ストーリー展開はだいたい「時うどん」と同じ。
「時そば」は客がひとりで蕎麦屋をごまかすのですが、「時うどん」では二人組の客が登場します。「たこやきタイム」でも「時うどん」にならい、ボケとツッコミ役の二人組が出てきます。

みどころは、たこやきを焼く店主と、熱々のたこやきを食べる客の形態模写。
ダイアンさんは、鉄板の上でたこ焼きを転がしたり、刷毛でソースを塗ったり、青のりやかつおぶしを振りかけたりと、芸が細かい。ピックでたこ焼きをつつく手つきがとてもリアル。たこ焼きの湯気にかつおぶしがゆらゆら揺れる感じも伝わってきます。


それに、アツアツのたこ焼きをフウフウ言いながら食べるところといったら!
表面をパリッと焼いたたこやきを頬ばり、めちゃ熱の中身が口の中でトロッと出てくる、あの感じが見事! 


英語も聞き取りやすく、時々日本語をはさみながらの高座だったので、日本人も外国の方も楽しめたようです。


それにしても、鏡の間からハメモノ(三味線や鳴り物)が聴こえてくるのが、なんともシュール。面白い体験をしました。大阪ならではですね。




【狂言《柿山伏》】
善竹隆司さんって、梅若紀彰さんにどことなく面差しが似ている。どちらもハンサム。

隆司さんの山伏もよかったけれど、隆平さんの畑主がとくに面白かった。山伏の呪文でググッと後ろに、強い磁場に引かれるように引き戻されるところなんか、最高。





【半能《猩々》】
装束付舞囃子のような半能《猩々》。

山本彰弘師のお舞台ははじめて拝見しますが、いかにも名家の当主然とした鷹揚で品格のある舞。それでいて、酔いのまわった恰幅のいい殿様が興にのって舞っているような、明るくめでたい軽みがある。
地謡はなんとなく正統派の宗家系に近い感じで、明らかに京都の地謡とは違います。

太鼓方観世流の田中達さんの太鼓は、3年前に東京の矢車会の一調で聴いただけだったから、一曲のなかできちんと聴くのは初めて。矢車会、懐かしいな。。。









2019年3月7日木曜日

山本能楽堂 ~ 能楽堂建築シリーズ

2019年3月2日 山本能楽堂 谷町四丁目4番出口から徒歩3分
自分の影が映り込まないように撮影したら、列に並ぶ人たちがガラスに映り込んでしまいました。

ひさびさの能楽堂建築シリーズ。
今回はかねてから訪れてみたかった、大阪最古の能楽堂・山本能楽堂です。

古色を帯びた趣きやノスタルジックな雰囲気を残しつつも、最新の設備を取り入れた館内は、機能的で使い勝手が良い。

伝統と革新のバランスが取れていて、能楽堂の改修法として理想的なあり方なのではないでしょうか。





見所前方2列は、昔ながらの桟敷席。
桟敷席が残っているのがうれしい!





中列から後列はベンチ席。
こういうところも機能的。
観客のニーズに合わせてつくられています。





正面から見た舞台。
舞台板が赤っぽく映っているのは、照明の加減でそう見えるようです。





舞台の照明
舞台の照明はこんな感じ。
均一な色ではなく、多色使いのできるライティング。
さまざまな演出・舞台芸術に対応可能。






1階から2階席を見上げたところ
山本能楽堂には二階席もあります。
二階にも上がってみましょう。






二階席から舞台を見下ろしたところ。
全体が見通せて、見やすい。





二階席
二階席はすべて椅子席とベンチ席になっているので、観能中も快適。

手すりのデザインも優美な曲線、畳敷きに障子窓というのもさりげなく凝っている。





二階の茶室
2階には、炉の切ってある本格的な茶室も。

船場の旦那衆の美意識が、いまに受け継がれる空間。
大坂船場を舞台にした谷崎潤一郎の小説が、なんとなく思い浮かびます。





鏡板
鏡板は、月岡耕漁に師事した能絵師・松野奏風の筆。

老松が鏡板を突き抜け、切戸口とその周辺にまで伸びている、豪放闊達にして斬新な構図。

進取の気性に富む大阪人のヴァイタリティが、植物の生命力が横溢する鏡板から伝わってきます。
松の幹の描線にも、一気呵成に描いたような勢いと迫力があります。



伝統の格式を残しつつも、熱気と活気にあふれる能楽堂。
こんな素敵な場所があったんですね。







2019年3月5日火曜日

土蜘蛛灯籠・上七軒など~歴史散歩・北野をあるく

2019年3月2日(土) 13時30分~15時 北野天満宮界隈

京都文化博物館「北野天満宮 信仰と名宝」関連イベントのつづきです。

現地を散策して、歴史的背景を知ってから展覧会を鑑賞すると、いっそう興味が湧きます。ブンパクには今月中に行く予定なので楽しみです♪
東向観音寺(朝日寺)

北野天満宮二の鳥居のすぐ近くにあるのが、806年、桓武天皇の勅願により建立された朝日寺(現・東向観音寺)。

もともと朝日寺が、北野のこの地に建っていました。しかし、947年に菅原道真廟が移されたことから、朝日寺の最鎮らが北野天満宮を建立。朝日寺は北野天満宮の神宮寺になったそうです。

「東向観音寺」と呼ばれるようになったのは、その向かいにも観音堂(西向観音)があったため。しかし、西向観音は廃絶され、東向観音寺だけが残りました。

961年には、菅原道真御作とされる十一面観音が筑紫観世音寺より招来され、新たにこの寺の本尊になったといいます。この十一面観音像は、25年に1度だけ開帳される秘仏。次回公開されるのは8年後の3月だそうです。

お堂のなかに上がらせていただいたのですが、内部は、礼堂の奥に本堂がある形式で、北野天満宮の「拝殿ー本殿」をつなぐ形式を踏襲しています。

また、十一面観音は菅公の本地仏とされていることから、この寺でも本尊の左隣に菅原道真像が安置されています。

いまでも神仏習合の香りが色濃く残るお寺ですね。





土蜘蛛灯籠の由来
東向観音寺の左手奥には、土蜘蛛塚の遺物とされる灯籠の火袋がひっそりと祀られています。


「土蜘蛛」灯籠の火袋
副住職さんのお話によると、この土蜘蛛灯籠の火袋は、もとは一条七本松にあったのですが、どういう訳か、東向観音寺の境内に安置されることになったそうです。

(由来碑には、土蜘蛛灯籠の所有者の家運が傾いたことから「土蜘蛛の祟り」とされ、東向観音寺に奉納されたと記されています。お寺めぐりをしていると、同様の理由で幽霊画などが奉納されているのをよく目にします。)

土蜘蛛灯籠の前で手を合わせると、網の張った祠が、能《土蜘蛛》の蜘蛛塚の作り物のように見えてきます。土蜘蛛さん、どうぞ安らかに。




伴氏廟
土蜘蛛灯籠と一緒に、菅原道真の生母の氏族・大伴氏(伴氏)の廟もあります。

これも副住職のお話によると、もとは北野天満宮の境内にあったものが、明治期の神仏分離令により東向観音寺に移されてきたそうです。
関西ではこうした事例が後を絶ちません。




北野廃寺跡
さて、白梅町の今川通の交差点、京都信用金庫の前に立つのが、飛鳥時代に建立された京都盆地最古の寺院跡の石碑です。

ここは、太秦から続く大地の東端に位置することから秦氏との関連が指摘されています。

発掘調査では、「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された平安前期の施釉陶器が4点発掘され、一説では、この寺に聖徳太子信仰にかかわる建物が存在していたといわれています。





天神川(紙屋川)
北野廃寺跡碑から天神さんに向かって少し歩いたところに、天神川が流れています。

御土居の堀としても使われた天神川は、江戸時代までは「紙屋川」と呼ばれていました。

古代よりこの川の水で紙漉きが行われたといいます。古代の紙はきわめて貴重なので、何度も再生利用したため灰色をしていました。顕微鏡で見ると、再利用された紙に以前に記された文字が見えるそうです。

この川の水でつくられた紙が、宮中のさまざまな文書に使われていたのですね。

かつてここは、渡来系技術集団の集住地だったのでしょうか。



上七軒の花街の提灯には「五つ団子」の紋章が。
つづいて向かったのが、京都五花街でもっとも古い上七軒。

上七軒の起源は室町時代にまでさかのぼります。
1444年、麹の製造をめぐって北野天満宮が室町幕府から攻撃を受け、社殿の一部を焼失。社殿修復の際に残った資材を用いて、七軒の茶屋が建てられました。これが上七軒の始まりです。

その後、応仁の乱で衰退しかけた北野界隈に再び活力を与えたのが、豊臣家でした。1587年、北野大茶湯のおりに、秀吉の休憩所になったのが上七軒です。このとき、名物のみたらし団子を秀吉に献上したところ、おおいに喜ばれ、みたらし団子を商う特権が七軒茶屋に与えられました。

上七軒の花街が五つ団子の紋章を用いているのは、この逸話に由来するそうです。







さらに上七軒は、出雲阿国の「かぶき踊り」が初めて上演された場所でもあります。

そう、歌舞伎発祥の地は四条河原ではなく、ここ上七軒だったのです! と、学芸員さんたちはおっしゃっていました。
いずれにしろ、室町時代末から近世初頭にかけて、ここは御茶屋や遊女屋が立ち並ぶ一大歓楽街だったのですね。


2年前に発見され、京都文化博物館特別展「北野天満宮 信仰と名宝」で初公開される《洛外名所遊楽図屏風》には、当時の北野界隈のにぎわいが生き生きと描かれています。


そんなわけで、春らしいお天気にも恵まれ、とても楽しい歴史散歩ツアーでした。

学芸員さん、東向観音寺の副住職さん、ありがとうございました!




2019年3月3日日曜日

北野をあるく~京都文化博物館「北野天満宮 信仰と名宝」関連イベント

2019年3月2日(土)13時30~15時 北野天満宮

特別展「北野天満宮 信仰と名宝」の関連企画として、京都文化博物館が主催する「北野をあるく」という歴史散歩イベントに参加してきました。



天神さんでは梅が真っ盛りで、すっごい人、人、人。。。
そんなカオスのなか、ブンパクと北野天満宮宝物殿の学芸員さんが案内してくれはりました。

ツアーは「北野天満宮境内散策コース」と「上七軒など北野エリア散策コース」の2部制。まずは、境内散策コースから。



一の鳥居
高さ11.4メートルの大鳥居。
現在の一の鳥居は大正時代に建てられたもので、現在の二の鳥居が、本来の一の鳥居でした。

現在の一の鳥居が立つあたりには、かつて北野経王堂があったといいます。
北野経王堂は、明徳の乱の戦没者を弔うべく万部経会(法華経を一万部読誦する法会)を催すために、足利義満が建てた仏堂です。

万部経会の日は大勢の人でにぎわい、北野経王堂は三十三間堂よりも大きなランドマーク的建築物だったようですが、残念ながら、明治期に廃寺となりました。




影向の松のある松林
一の松をくぐった参道を縁どる松林にはこんな謂れがあります。

菅原道真の没後40年近くが過ぎたころ、右京七条にすむ少女・多治比文子(たじひのあやこ)、近江国比良宮神主・神良種(みわのよしたね)の男童に、それぞれ菅原道真の霊が憑依し、北野の右近の馬場に一夜にして千本の松が生える場所がある、そこに祠を建てるようにとの神託が下りました。

こうして建てられたのが、北野天満宮です。
現在、参道脇に立つ松林は、一夜にして生えた千本松の名残りということですが、どうでしょうか。。。






母子牛
境内にはたくさんの牛の像があります。
なかには、子牛を連れた母牛も。
安産祈願によさそうですね。
お母さん牛なので、顔の表情が柔和でやさしそう。




国宝・三光門の彫刻
人が多すぎて全体像が撮れなかったのですが、↑こちらは三光門の一部。
いかにも桃山時代らしい絢爛豪華な彫刻が見事。
それでいて彩色も彫刻のバランスも抑制が効いていて、日光東照宮ほど派手でけばけばしくない。シックな木目が余白としてうまく生かされていて、こういう美意識って素敵だと思う。

三光は日・月・星の光を意味しますが、三光門には、太陽と月の彫刻しかなく、星の彫刻が欠けています。これは、大極殿から望むと、ちょうどこの門の上に北斗七星が輝いて見えるからだそう。

「星欠けの三光門」は夜空に輝く星をも取り込んだ、究極の借景ですね。





拝殿向って左には、紅和魂梅

右には、老松
本殿の前には、紅梅と老松の御神木が植えられています。

道真の「飛梅伝説」は、能《老松》や歌舞伎《菅原伝授手習鑑》の梅王丸・松王丸・桜丸のベースにもなっています。以下は伝説の概略。

菅原道真の京都の邸宅では、梅・桜・松の木が植えられていました。
大宰府に旅立つおり、道真は「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」というあの有名な歌を詠みます。梅は主人を慕って大宰府へとまっしぐらに飛んでいきました。いっぽう、桜は悲しみのあまり枯れてしまい、道真は「梅は飛び桜は枯るる世の中に 何とて松のつれなかるらん」という歌を詠みます。主人に「つれない」と責められた松は、梅を追って大宰府へ向います。
かくして、老松(追い松)と飛梅(紅梅殿)は天満宮の御神木となったのでした。


ちなみにここ、北野天満宮では、御神木がウィルスに感染した場合に備えて、住友林業に依頼して御神木の紅和魂梅をクローン化しているそうです。




拝殿
国宝に指定されている社殿は、本殿・拝殿・石の間・楽の間をつないだ日本最古の八棟造(権現造)。唐破風のある荘厳華麗な桃山建築です。




社殿側面
横から見ると、拝殿と本殿(手前)を石の間がつないでいるのがわかります。
(土間があるから「石の間」)
神々の鎮座する聖域・本殿は静かで落ち着いた雰囲気。




裏の社(やしろ)
北野天満宮七不思議のひとつ「裏の社(やしろ)」。
北野天満宮では、本殿の背面にも「御后三柱」という神座があります。
御后三柱とは、菅原氏の祖神・天穂日命、道真の祖父・清公、父・是善のこと。




廻廊(重要文化財)
重文の回廊の一部。
もっと引きで撮れたら廻廊の良さが伝わってくるのですが、人の姿がたくさん入ってしまうので、こんな感じに。。。




地主神社
北野天満宮の創建以前から信仰されてきた土地の神さまが祀られています。

地主神社が建つのは、楼門からまっすぐ延びる参道の正面。
これは、もともと地主神社があったため、天満宮の本殿は地主神社の正面をよけて建てられたからだといいます。



御土居
豊臣秀吉がつくった御土居の遺構。
ここが御土居のほぼ西端にあたります。
西側の御土居は、次の記事で紹介する紙屋川(天神川)に沿ってつくられていました。

近世以降、この御土居より東(御土居の内側)が洛中、西(御土居の外側)が洛外といった感覚が形成されていったようです。


次の記事では紙屋川をはじめ、天神さん周辺の北野エリアを見ていきます。
(土蜘蛛の塚などもあって、面白かった!)

「上七軒など北野エリア散策コース」につづく