2018年10月31日水曜日

元稲荷古墳と長岡宮跡

2018年10月27日(土) 向日市・元稲荷古墳と長岡宮跡
最近、古墳にはまりつつあって……関西は古墳がいっぱいでおもしろい!

こちらは、向日神社の裏手、勝山公園内にある元稲荷古墳跡。
古墳時代前期の3世紀のものと推定される大型前方後円墳で、前方部・後方部とも、箸墓古墳と同比率とされています。

「元稲荷」の名称は、かつて古墳の後方部に稲荷社が鎮座していたことに由来するとのこと。向日神社の境内に点在する磐座との関連はどうなのだろう? 
興味が尽きません。


古墳跡は、こんなふうにこんもりした丘になっています。
土地の首長墳墓なので、大王(天皇)・皇族の古墳に比べると無防備です。


向日市の立看板によると、こんな感じの前方後円墳だったようです。


説法石
向日神社の鳥居の横に祀られた巨岩。
「説法石之由来」と書かれた石碑が立っています。


「説法する石?」と思って調べてみると、1307年ころに日蓮上人の孫の日像上人が、この石の上で西国街道を行きかう人々に説法し、法華経の信者を増やしたことに由来するそうです。

ふうむ。
なんとなく、この土地に根づいた岩石信仰の名残りを感じさせます。



西向日の駅まで戻ると、駅前に長岡宮の史跡がありました。

桓武天皇が平城京から長岡村へ、都を遷したのが784年。
それから、早良親王の祟りを恐れて平安京に遷都するまでのわずか10年間、長岡京がこの国の中心でした。



長岡宮跡は、こんな感じ。だだっ広い盛土のような場所。
写真を取っていたら、小さな資料館のようなところからガイドらしき男性が出てきて、いろいろ説明してくださいました。

ここは、↓下図の「西第四堂」にあたる場所だそうです。

長岡宮はこのような配置だったんですね。


短期間で大規模な都や宮殿をつくることができたのは、淀川の舟運を利用して、難波京から建物を移築したり建材を転用したりしたからではないかと考えられています。

上の図を見ると、遷都をめぐる朝廷の迷走や、天智系・天武系の興亡がよくわかります。


長岡京には、鬼門封じの大きな寺院・神社もなく、地勢的・風水的にも明確な四聖獣に相当するものがなかったため、平安京のように霊的バリアの強い王城にはならなかった可能性があります。

平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京→長岡京と長い迷走期間を経て、日本の都は落ち着くべきところに、落ち着いたのかもしれませんね。





2018年10月28日日曜日

向日神社御鎮座千三百年奉祝大祭・能奉納《神歌》《羽衣》など

2018年10月27日(日)13時30分 向日神社 舞楽殿
向日神社の長~い参道
素謡《神歌》 井上裕久
仕舞《高砂》 吉田篤史
能《羽衣》  吉田潔司
   後見 井上裕久 橋本忠樹  
   地頭  吉浪壽晃
 

この日の午前中は桂離宮、午後は向日神社の御鎮座千三百年祭へ。
はじめて訪れたけど、とにかく広くて立派な神社で、びっくり。
地元の方たちは気さくで親切な方が多く、心があたたまる良い街ですね。

1418年に建立された本殿(重文)
本殿は室町期の「流れ造り」様式の代表的建築物。明治神宮の本殿も、この向日神社をモデルにつくられたそうです。

本殿は室町時代のものですが、神社の歴史はさらに古く、祭神の火雷神は、上賀茂神社の祭神・別雷神のお父様。つまり、賀茂氏の祖神ですね。
賀茂氏は5世紀にこの地にやってきて、そこから分かれて賀茂の地に移り住んだといいます。
向日神社の歴史は古代史的にもとても興味深く、いま向日市文化資料館で向日神社の特別展をやっているそうだから、今度行ってみようかな。

 

さて、この日の奉納能は吉田家を中心にした井上一門による演能でした。(主催者の役員の方にうかがうと、撮影OK、ネット掲載OKとのことなので、画像を少しアップします。)

神事能には、能楽堂で行われる観客向けの公演とは違う、特別な魅力があります。
ひと言でいうと、観客に「よく見せよう」という邪心のない純真性とでもいうのでしょうか。
素謡《神歌》のシテ井上裕久さんと、能《羽衣》のシテ吉田潔司さんの芸に、とりわけ強くそのことを感じました。

《神歌》は井上一門の、いかにも京観世らしい謡。大好きです。
仕舞の吉田篤史さんは以前から拝見したいと思っていたので、拝見できてよかった! 
吉田潔司さんの《羽衣》は、天上から吹く風に乗って軽やかに舞うような、天女のやさしい後光を感じさせる舞で、こちらも幸せな空気に包まれていくよう。
吉浪さん地頭の地謡もすばらしい。



境内に詰めかけた地元の人たちも、お祭りと、お能と、この場に居ること自体を心から楽しんでいらっしゃる御様子で、あたりいっぱいがあたたかくて良い「気」に満たされ、そこに一緒に存在していることがとても心地よかった。
こういう場の空気、神々の存在する場のエネルギーそのものを感じる素朴な幸福感が、神事能の魅力のひとつです。

いただいた福豆
可愛い福豆をいただいたので、帰宅後、無病息災を願って家族でいただきました。



神心流尚道館・六世家元
詩吟や二胡演奏などの奉納も。お家元、かっこよかった。






境内には摂社のほかにも、数々の磐座が祀られていて、この神社の古さを物語ります。


観能熱、けっこう冷め切ってたけれど、久々に拝見すると良いものですね。
11月・12月はお目当ての公演がいろいろあるので、楽しみです。





2018年10月27日土曜日

野宮神社~黒木の鳥居と小柴垣

2018年10月21日(日)  野宮神社


清凉寺の嵯峨狂言に行く途中で野宮神社に立ち寄ったのですが、この日は午後から斎宮行列があったため、正午の境内は平安装束の人々であふれていました。
狭い参道も、観光客ですし詰め状態。

そんなわけで、野宮神社は清凉寺からの帰りに再度訪れることにしました。


「夕暮れの秋の風、森の木の間の夕月夜」
夕刻、再び訪れた野宮神社。
やはり、黒木の鳥居には、凛と引き締まった「結界感」があります。


樹皮がついたままの徳島県産クヌギの原木を使用した鳥居。
貴重な原木なので、樹脂加工が施されているとのこと。

樹皮の質感と黒の色合いがシックで、美しい。
この形は、日本最古の鳥居形式といわれています。


明かりの灯った境内。
最近は縁結びで人気なので、若い女性やカップルで大変にぎわっていました。

『源氏物語』や能《野宮》では、どちらかというと「別れ」のイメージが強いのですが、境内には縁結びの神様として知られる大黒天が祀られているため、そちらを観光のウリにしているんですね。

大黒天の横には、「お亀石」という亀の形をした岩があり、これを撫でながら一つだけ願い事をすれば、一年以内に叶うとか。
わたしも、あることをお願いしてみました。
さて、どうなりますことやら。


「ものはかなしや小柴垣……」
クロモジで作られた小柴垣。
原宿か渋谷のような若い男女の賑わいをよそに、黒木の鳥居と小柴垣のまわりにだけ冷え寂びた空気が漂っていて、能の《野宮》の雰囲気を少しだけ味わうことができます。




「野宮竹」といわれる真竹。
かつては大嘗祭にも使用されたと言います。

光源氏も、野宮竹の鬱蒼と生い茂るうら寂しい道を通って、ここへ詣でたのでしょうか。











2018年10月25日木曜日

栖霞観から清凉寺へ ~《融》が《百万》に乗っ取られた場所

2018年10月22日(日) 清凉寺(嵯峨釈迦堂)
いにしえの葬送の地・嵯峨野には、謡曲ゆかりの地がたくさんあります。
ここは地獄や六道の辻とも関係が深く、民俗学・妖怪学的にも興味深い場所です。

清凉寺の経蔵に納められた法輪
日本のマニ車ともいわれる法輪(転法輪とも)。
一回まわしただけで、一切経を読むのと同じ功徳が得られるという(お手軽な気もするけれど)ありがたい仏具。堂内には念仏のBGMが流れていました。


さて、ここ清凉寺は、嵯峨野の名の由来となった嵯峨天皇の皇子で、能《融》の主人公でもある源融の別荘「栖霞観」があった場所です。

融の邸宅・六条河原院では、塩竈の浦の景色を模した庭園など「海」のモティーフが用いられていたのにたいし、嵯峨野の別荘は「栖霞観」の名が示すように、道教思想にもとづいた仙境をイメージしてつくられたのかもしれません。

融の没後、彼の姿を写したといわれる阿弥陀如来を安置するために、別荘・栖霞観は「栖霞寺」という寺院に改められました。


多宝塔
仁王門をくぐると、左手に多宝塔があります。
この塔の後ろにひっそりと佇むのが、源融のお墓です。

境内の通りからは見えないので、なかなか見つからなかったのですが、お寺の方にお尋ねして、ようやく探しあてました。
源融の墓とされる宝篋印塔
人通りのまったくない多宝塔の裏にひっそりと。
苔むして摩耗した古い石造りの宝篋印塔。
融の墓所にふさわしい、静かで、安らかな場所です。

そっと、手を合わせました。


隠元禅師筆「栴檀瑞像」の額がかかった釈迦堂
阿弥陀三尊像を本尊とする栖霞寺の創建から数十年たったころのこと。
生前の釈迦の姿を写したとされる「三国伝来の釈迦像」を模刻した清釈迦如来立像が日本に請来されました。

この釈迦如来像を安置するべく栖霞寺の境内に建立されたのが、清凉寺です。

かくして源融ゆかりの栖霞寺は、境内に建立された清凉寺に(ひらたく言えば)乗っ取られる形となり、本尊の座も、阿弥陀如来から釈迦如来へと変わってしまいました。

(現在、源融の姿を写したとされる阿弥陀如来と脇侍たちは、霊宝館に収蔵されています。寺院や宗派の興亡・変遷をたどると、時代のパワーが貴族から庶民へと徐々に移り変わっていったのが感じられます。)

春の嵯峨大念仏のにぎわいを舞台にした能《百万》でも、清凉寺の釈迦如来像が賛美されています。
「毘首羯磨が作りし赤栴檀の尊容、やがて神力を現じて、天竺震旦我が朝三国に渡り、ありがたくも、この寺に現じ給へり」


清凉寺が融通念仏と結びついたのは、13世紀のこと。母親と生き別れになった円覚上人が、嵯峨釈迦堂(清凉寺)を融通念仏根本道場に定めたことによるとされています。

円覚上人は、念仏参加者が十万人に達するごとに一基の塔を建てて供養したことから、「十万上人」と呼ばれました。

清凉寺では、この十万上人(円覚上人)の母子再会譚を能に仕立てたのが、能《百万》(原曲《嵯峨大念仏の女物狂》)だと考えられています。
十万上人の追善法会などでは、「母見た」にちなんで「ハハアーミータ ボウシュ」という念仏が唱えられるそうです(「ボウシュ」は「母処」の意味とのこと)。

嵯峨大念仏狂言にも、いわばご当地ソングとして演目の中に《百万》があるのですが、嵯峨狂言の《百万》では、子方の名前が「十万」になっており、「百万の子ども=十万上人」であることが明示されています。

十万上人は、清凉寺の墓地に静かに眠っています。
清凉寺には、《廓文章》などで知られる夕霧太夫の墓もありますが、ほかにも歴史上有名な方々の墓標が立っています。

豊臣秀頼首塚
清凉寺の再興に尽力した豊臣秀頼もそのひとり。
隣には、大坂の陣諸霊供養碑もあります。

生の六道(小野篁遺跡)
小野篁が、六道珍皇寺の井戸を通って冥途通いをしたという話は有名ですが、六道珍皇の井戸は、冥途の入り口です。
篁の冥途通いの出口となったのが、嵯峨野にあった福正寺の井戸でした。
それゆえ嵯峨野のこの地は、「生(しょう)の六道」といわれたそうです。

福正寺は、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、清凉寺境内にある嵯峨薬師寺に吸収合併され、こうして「生の六道」の遺跡だけが残されました。

東山から嵯峨野まで、つまり、「鳥辺野」から「化野」という二大葬地を冥界の井戸がつないでいたと昔の人は考えていたのですね。

いにしえ人の脳内では、あの世とこの世がこんなふうにつながっていたんだと、その世界観と自由なイマジネーションを垣間見た気がして、面白いものです。
日常のなかに、四次元空間の穴がぽっかり開いているような、そんな思考だったのでしょうか。
夢があって、いいなあ。








2018年10月23日火曜日

《紅葉狩》《土蜘蛛》~嵯峨大念佛狂言 Special Guest 千本ゑんま堂狂言

2018年10月21日(日)13時~16時30分 清凉寺・嵯峨狂言堂
嵯峨大念佛狂言~狂言堂こけら落とし公演 with 千本ゑんま堂狂言からのつづき

嵯峨狂言《土蜘蛛》

番 組
《愛宕詣》(やわらかもん) 嵯峨大念佛狂言

《鬼の念佛》(やわらかもん)千本ゑんま堂大念佛狂言

《紅葉狩》(かたもん)   千本ゑんま堂大念佛狂言

《土蜘蛛》(かたもん)   嵯峨大念佛狂言



嵯峨狂言堂落慶記念公演の後半は、スペクタクル能にもとづく、カタモンの念佛狂言。

能の《紅葉狩》や《土蜘蛛》との違いは、念仏狂言には「飛び込み」という演出があること。
土蜘蛛や渡辺綱・平井保昌たちが、揚幕前の仕掛けに飛び込んで、まるで忍者のように、奈落へとサッと姿を消す。
これが、スピーディでカッコいい。
鬼女や土蜘蛛との斬り合いも、迫力があり、見応え十分!

念仏狂言の囃子は、カンが鉦、デンが太鼓、これに横笛が入るというシンプルな構成。
鬼や化け物が出てくる際には、「カンカン、カンカン、カンカン、カンカン」という早鐘(はやがね)と呼ばれる、鉦による囃子が入るのだが、この音色がおどろおどろしくて、良い味を出していた。


《紅葉狩》の平維盛と太郎冠者
千本ゑんま堂狂言《紅葉狩》
戸隠山に鬼退治に訪れた平維盛。お供は、狂言らしく太郎冠者。
舞台には、本物の紅葉が飾られるが、まだ色づいていないので青紅葉。



酔いつぶれた維盛から太刀を奪った謎の女
 そこへ、謎の女が登場。
このときの謡が、能《紅葉狩》の次第と同じ「時雨を急ぐ紅葉狩、深き山路を尋ねん」だった。節まわしも能の謡とまったく同じ。地取がないのが物足りなく思えるほど。

ほかにも能狂言の詞章を借用したセリフや言い回しがいろいろあり、有声劇の千本ゑんま堂狂言では、能楽からの影響がより強く感じられた。




鬼女とのバトル
鬼女の面は般若ではなく、こんな感じの面。

最後は、メデューサのように首をバッサリ斬り落とされる。
こういうのも、暗示的でシンボリックな能の表現とは異なるところ。





嵯峨狂言《土蜘蛛》。酒宴で杯を飲み干す源頼光
締めくくりは、嵯峨狂言の《土蜘蛛》
これがとってもよかった!! 

おおらかな間合いや、無言劇ならではの手話のような優雅なしぐさ、そして、メリハリのある展開、立ち回りのキレの良さなど、嵯峨狂言の魅力がいっぱい詰まっている。

無言の仮面劇なので、視覚も限定され、聴覚にも頼れない。
そのため演者たちは、ボンッと1つ足拍子を踏むことで、進行の相図を送り合う。
逆に言うと、この足拍子だけで互いの間を計り合うのだから、じつは相当高度な技と経験が必要とされるのではないだろうか。



頼光を襲う土蜘蛛の精
酒宴の途中で気分が悪くなった頼光が一人で休んでいると、土蜘蛛の精が襲ってくる。
(能では前シテは怪しげな僧形の人物だが、嵯峨狂言では最初から鬼面で現れる。)

キンキラの擦箔にクモの巣もようの青い衣が、ハードロック風。
腰帯があるのも能っぽくて、おしゃれ。



頼光は名刀・膝丸で応戦
気がついた頼光は名刀・膝丸で蜘蛛の精を斬りつけるが、相手は糸を撒いて逃げ去る。
(ここで、蜘蛛の精は、飛び込みを使って、奈落へ姿を消す。)

ここでの頼光の刀捌きがとてもかっこよく、蜘蛛の精の糸吐きもみごと。
飛び込みも鮮やかに決まっていた。




異変を察知して、駆けつける綱と保昌
頼光は、駆けつけた渡辺綱と平井保昌に事情を説明。
二人に土蜘蛛退治を命じる。

綱が癋見系、保昌が天神系の能面をかけ、頼光が神楽系の面をつけているのも妙にマッチしていて、おもしろい。

(平井保昌は「頼光四天王」ではなく「道長四天王」なのに、ここでは頼光の家来になっている。そもそも土蜘蛛退治に行くのが独武者ではないのは、綱と保昌が江戸時代の人気者だったから?)




巨大なソフトクリームのような松明を掲げて、土蜘蛛を捜索する綱と保昌。
癋見と天神の共演って、能ではなかなかない気がする。



土蜘蛛を見つけて、大立ち回り。


土蜘蛛も必死で応戦!



最後は、綱と保昌の挟み撃ち。 あわれ、土蜘蛛!


生首の表現とか、めっちゃリアル。

こういう神事芸能には、ほかにはない魅力がある。
関西にはまだまだたくさんあるので、いろいろ観に行こう!










2018年10月22日月曜日

嵯峨大念佛狂言~狂言堂こけら落とし公演 with 千本ゑんま堂狂言

2018年10月21日(日)13時~16時30分 嵯峨釈迦堂(清凉寺)狂言堂

2階建ての狂言堂。1階は楽屋、2階が舞台。
嵯峨狂言堂では、客席は地上にあるため、観客は舞台を見上げるかたちに。

番 組
《愛宕詣》(やわらかもん) 嵯峨大念佛狂言

《鬼の念佛》(やわらかもん)千本ゑんま堂大念佛狂言

《紅葉狩》(かたもん)   千本ゑんま堂大念佛狂言

《土蜘蛛》(かたもん)   嵯峨大念佛狂言

(やわらかもん=狂言仕立ての喜劇。かたもん=能に主題した時代物。)


壬生狂言、千本ゑんま堂狂言と並んで京都三大念佛狂言に数えられる嵯峨大念佛狂言。
今回は、修復工事を終えた清凉寺・嵯峨狂言堂の落慶記念として、千本ゑんま堂狂言をスペシャルゲストに迎えての特別公演だった。

嵯峨狂言と千本ゑんま堂狂言は、どちらも念仏講から発生した宗教的仮面劇であるなど、共通性があり、共通する演目も多い。
その一方で、それぞれに特色や持ち味がある。

もっとも顕著な違いは、嵯峨狂言が壬生狂言と同じく無言劇(パントマイム)であるのにたいし、千本ゑんま堂狂言がセリフのある有声劇であること。

今回拝見して、この大きな違いが、芸風の違いにも反映されているように感じた。
嵯峨狂言は、同じく無言劇である江戸里神楽の所作・しぐさと重なる部分が多く、千本ゑんま堂狂言は、セリフまわしから所作・しぐさに至るまで、能楽の狂言、それも京都茂山家の芸の影響が見て取れた。
(おそらくゑんま堂狂言も最初は無言劇だったのが、大衆により分かりやすくするためにセリフを取り入れるようになり、その際に参考にしたのが、身近にあった茂山家の狂言だったのかもしれない。)



嵯峨狂言《愛宕詣》(やわらかもん)
嵯峨狂言《愛宕詣》
愛宕山は愛宕神社の御神体。愛宕山を中国の霊山・五台山に見立てて建立された清凉寺ともゆかりが深く、嵯峨狂言らしい演目だ。

上の画像は、愛宕神社にお参りにきた母娘。
娘は笠で顔を隠して、どこか訳ありの様子である。
女役の装束や着付けはほとんど現代の着物になっていて、面とのバランスがなんともシュール。

面は、ここでは深井風の美人だが、嵯峨狂言には、能面・狂言面・神楽面などさまざまな面が使われていて、「なるほど、こんな使い方もあるのか!」と、観ていて新鮮だった。

ちなみに面のつけ方は、目・鼻・口以外を白布2枚で覆い、髪をすっぽり隠した上から、演者の目の位置に合わせて面を着けるというもの。アゴを出すようにつける能楽とは、この辺も違っている。



「かわらけ投げ」をする旦那と共
母娘が愛宕山の茶店で休んでいると、参拝を済ませた旦那と共の者が、同じ茶店にやって来る。旦那たちは、かつて愛宕山名物だった「かわらけ投げ」をして遊ぶ。
(かわらけ投げ、懐かしい。神護寺でやったなあ。)

ストーリーは、娘を見初めた旦那が母親と交渉し、娘をもらう代わりに、太刀と羽織を母親に与える。娘と二人きりになった旦那が、笠で隠していた娘の顔を見ると、ビックリ、おかめ顔だった!というもの。

母親が娘を売ったり、気に入った女性を物品で自分のものにしたり、若い女性の容姿を揶揄したりするなど、話の内容もさることながら、露骨で卑猥なしぐさもあったりして、現代の感覚からすれば、欲望をむき出しにした、非人道的かつセクハラ満載の話に思えるかもしれない。でも、能楽とはあまりにも対照的なvulgarな表現に、当時の大衆の旺盛な生命力が感じられた。

昔は今より、いじめや差別がはるかに多かったのだろう。それでも、人々は些細なハラスメントをものともせず、たくましく生きていた。
こういう民俗芸能に触れていると、なんだか自分もすこしタフになるような気がする。




千本ゑんま堂狂言《鬼の念佛》(やわらかもん)
千本ゑんま堂狂言《鬼の念佛》
千本ゑんま堂狂言の特徴の1つが、閻魔や鬼など、地獄にまつわる演目が多いこと。

上の画像は、六道の辻に亡者が落ちてきたため、鬼が鉄杖で責め立てようとするが、亡者の唱える念仏にたじろいでいるところ。

亡者は痩男系、鬼は武悪系の面。
能面と狂言面のコラボという、面白い取り合わせ。





最後は、鉦鼓と撞木を持たされた鬼が念仏を唱えさせられる。
亡者は極楽に行くことを赦されるが、地獄に堕ちた罪人たちを救済するべく、みずから進んで地獄へ向かう。

聖人のような亡者が登場する、念仏の功徳を説いたお話。

最後は、狂言風に「横着者め、やるまいぞ、やるまいぞ」」で、鬼が亡者を追いかけて、おしまい。



公演後半はさらに面白かったので、別記事《紅葉狩》《土蜘蛛》につづきます。