2018年5月14日月曜日

青嵐会~河村能舞台

2018年5月12日 10時15分~17時30分  河村能舞台



番外能《雷電》シテ 河村紀仁
   ワキ 原大 ワキツレ 原陸 アイ 茂山忠三郎
   杉市和 曽和鼓堂 谷口正壽 前川光長

番外仕舞《笠之段》  林宗一郎
    《自然居士》 河村和重
    《笹之段》  河村晴久

番外舞囃子《須磨源氏・窕》 河村晴道
    杉市和 吉阪一郎 谷口正壽 前川光長 




こちらも、行きたかった能楽堂。
家紋の入った門幕をくぐると、そこは、つくばいと飛び石の置かれた趣のあるお庭。さらに履物を脱いで上がった先には、桟敷席に囲まれた能舞台が。
ドキドキ胸が高鳴るような、ときめく空間。


屋根の下に繊細な透し彫りの入った欄間のある凝った造り


河村晴道さんの社中会へは、東京のセルリアンタワーで開かれた「府中青嵐会三十五周年記念会」にうかがったことがあり、大変豪華な会だったと今でも記憶に残っている(地謡に川口晃平さんが参加されていたのも印象深かった)。
その河村晴道さんの会を、こうして本拠地で拝見できるなんて!

社中の方々もお師匠様の芸風をよく受け継いでいらして、皆さん舞姿のラインがきれいで、とくに手の表情がこまやか。
これは京都のお素人の方々に共通していえることだけれど、美しい間合いというものを心得ていらして、舞のなかに余白や余韻がごく自然に織り込まれている。きっと、美しい余白のある暮らしをされているのだろう。

そして、東京の時と同じく、河村晴道さんの御社中会は番外能・仕舞・舞囃子も充実すぎるほどの充実ぶり(以下は簡単なメモ)。



番外能《雷電》シテ 河村紀仁
河村晴美資産の御子息のお舞台。まだ大学在学中か、卒業されたばかりでしょうか。

前場では、黒い影のようなものが、音もなく、スーッと現れる。
黒頭に怪士の面をつけたシテの登場の際の、気配を消した妖しげな雰囲気が見事。菅丞相の亡霊のメラメラと内に秘めた恨みが立ち込めていた。

後場は凶悪な顰(しかみ)の面で、一畳台の飛び乗り・降りも鮮やか。
そして、先日の大江定期能でも思ったけれど、京都の若いシテ方さんって、面遣いや袖捌きのうまい人が多い。
関西の能楽界が力を入れている養成会の成果だろうか。
それと、河村能舞台も大江能楽堂も修学旅行生を対象にした公演をよく行っているそうだから、そうしたなかで若い人たちも面装束をつけて舞台で舞うという経験を、早くから積んでおられるのかもしれない。

舞台馴れしているように感じさせるほど、袖を巻き、被くところが決まっていて、良い舞台でした。将来が楽しみなシテ方さん。



番外仕舞《笠之段》林宗一郎
林喜右衛門師に似てこられたなあと思うところが、舞の端々に感じられた。

東京からこちらに戻った時にぜひとも拝見したかったのが、林喜右衛門師の舞台(喜右衛門師の仕舞や舞囃子は観たことがあったが、能ではなかったのだ)。
しかし、間に合わなかった……。

林喜右衛門師こそ、もっと評価されてしかるべき方だった。
もっと東京に招かれて能を舞ってしかるべきだったし、NHKで放送されて映像を残しておくべき方だった。
無念で、残念だ。

でも、最晩年の喜右衛門師の芸の一端に触れることができただけでも幸いだったのかもしれない。
その芸系を受け継ぐ方々の舞台をこうして拝見できるのも、能楽愛好者として幸せだと思う。

話は変わるけれど、
林一門の地謡は、宗一郎さんが地頭で入った時と、そうでない時とでは随分違う。
宗一郎さんが入らないときは、京観世(五軒家)本来の謡なのだろうか。
京都の名水のような、やわらかい謡。
宗一郎さんが地頭で入ると、フォッサマグナの向こうの、すこし硬度の高い水が加わる。
宗一郎さんの謡も素敵だけれど、京風の謡もとても魅力的だ。そういうヴァリエーションを楽しみながら、聴いていた。




 
番外舞囃子《須磨源氏・窕》 河村晴道
おそらく河村晴道さんは、林喜右衛門師の芸風をもっともよく受け継いでいる方ではないだろうか。
端正で品格があり、そのうえ晴道さん独自の繊細優美さがある。

観世寿夫はいくつかの著書のなかで「中年の役者は、力量があればあるほど、その人間としての体臭の強さのようなものに観客の反発を買うおそれがある」とか「役者の主張やナマな肉体は、中年以上の場合、どうも邪魔なものとして浮き上がってくるようだ」と言っている。

河村晴道さんは、そうした中年役者特有の体臭やナマな肉体、余計な自己主張を観客に感じさせない、稀有な役者さんのひとり。
舞姿にも清潔感があり、彼が舞う光源氏には貴公子らしい気品が漂うとともに、兜率天に行って「女たらしぶり」を改心したような、聖人君子的な清廉さがあった。


「窕」の小書のため、能であれば早舞の途中に橋掛りの三の松でクツログところを、舞囃子では舞台上で下居のまま、しばし静止する。
この、何もしない静止の状態がじつに雄弁で、シテの美しい不動の姿が観客の想像力を喚起し、時間の空白のなかに源氏物語の世界が絵巻物のように彩り豊かに展開してゆく。

シテの動きそのものが表現過剰に陥らず抑制が利いているからこそ、一瞬のなかに無限の世界が描き出される。


わたしは目の前に展開される美しい世界に惹き込まれ、まるく大きな幸福感に満たされていた。









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