2019年6月23日(日)京都観世会館
観阿弥祭・《通小町》《鵜飼》からのつづき
能《隅田川》シテ狂女 浅見真州
子方・梅若丸 味方遙
ワキ渡守 宝生欣哉 旅人 野口能弘
杉市和 大倉源次郎 國川純
後見 大江又三郎 味方玄
地謡 片山九郎右衛門 浦田保浩
古橋正邦 浦田保親 浅井通昭
橋本忠樹 大江泰正 河村浩太郎
浅見真州師はリアリズム的・演劇的な演出を好まれる方だと思う。
随所に工夫が凝らされ、舞台にドラマ性豊かなメリハリがある。それでいて「能」としての品位を損なわないギリギリの範囲にとどまっているところが、真州師の舞台の醍醐味だと思う。
一流どころをそろえたこの日の《隅田川》。各役の芸も光り、総合的にきわめて上質な舞台だった。
《隅田川》の役別の感想
【シテ】
真州師独自の演出かな? と思われる箇所がいくつか。
1つは、『伊勢物語』の歌「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」のあと、立廻リのような所作が入るところ。
古歌の引用のあとに、笛の音とともに舞台を半周することで、在原業平が抱いた恋慕や郷愁と、わが子を追い求めるシテの思いとがしみじみと重なり、狂女の心のうちが滲み出て舞台にあふれてくる。
2つ目は、わが子の死を知った狂女が、塚の前で泣き崩れるところ。この日の舞台では「道の辺の土となりて」で、杉市和さんの笛が入った。
パリ公演の《砧》でも、クライマックスで妻の亡霊が夫に怨みのたけをぶつけたあと、市和さんの笛が入り、夫(宝生欣哉)が数珠で合掌、長い「間」のあと妻が成仏する、という演出が加えられていた。
シテ、ワキ、笛ともにこの日と同じ配役だったが、シテの激情が昂る前後に名手の笛が入り「間」を取ることで、舞台変化や心理描写がより鮮明に伝わってくる。
そのいっぽうで演劇的表現が「能」の枠を逸脱しているように思える部分もあった。
たとえば、渡守が梅若丸の最期を語るところでは、シテは肩で息をするように身体を震わせて、心の動揺を表現していたが、ここまでいくと芝居的要素が強すぎて「やりすぎ」のように感じた。
逆に、「さりとては人々この土を返して今一度この世の姿を母に見せさせ給へや」と、塚の前で両手を思いっきり広げて土を掘り起こす所作をするところは、死者をよみがえらせる呪術儀礼のように見え、ドラマティックな表現が功を奏していた。
塚の中から梅若丸の声が聞こえてきたときの狂女の興奮や、わが子の亡霊が腕の間をすり抜けていく表現なども秀逸で、生身の女性の胸を掻きむしるような哀哭や絶望がリアルに伝わってきた。
【後見】
シテの水衣や縫箔の裾がはだけた時の後見の対応が名人芸!
とくに味方玄さん。
舞台進行の邪魔にならないよう絶妙なタイミングを見計らって、針で水衣を縫い留め、糸をハサミで切る……その間、わずか2秒。ほとんど目にも留まらぬ早業だった。後見の鑑ですね。
【ワキとワキツレ】
宝生欣哉さんの渡守を観るのはこれで3度目だろうか。
おなじみの桜模様の紺地素襖上下に、青・黄土・白の段熨斗目。
最初は上から目線で狂女を侮っていた渡守が、しだいに教養の豊かな相手に心を寄せ、やがて絶望の淵にいる彼女を親身にいたわってゆく、その過程、心の動きを欣哉さんは丹念に描く。好きだな、共感能力の高い欣哉さんの渡守。
野口能弘さんの旅人役もよかった。うまくなりはった。
【お囃子】
シテの登場楽・一声は、悲劇の予兆を感じさせるような物悲しいお囃子。
市和さんの笛と源次郎さんの小鼓は、もうそれを聴いただけで、ぎゅっと胸が締めつけられるよう。繊細かつ精巧な、デリケートな音色。
國川純さんの大鼓、なつかしい。パリ公演の映像では絶好調だったけれど、この日は湿度のせいだろうか、音色がやや不調だったかも。
【地謡】
私自身が無宗教でひねくれ者だからかもしれないが、「さあ、泣いてください!」と言わんばかりの子方を出す演出など、《隅田川》はどちらかというと苦手な曲だった。
でも今回の舞台では、観客の涙腺を刺戟するような「あざとさ」を地謡が希釈していて、《隅田川》っていい曲だなぁと心から感動できた。
あざとさがピークに達するのが、「南無阿弥陀仏」と唱えるところ。ここが特に苦手だったけれど、高音で謡う念仏のきれいなこと!
謡の声そのものが弔いの鐘のような清浄な響きを持っていて、「あざとさ」を感じる私の心を解きほぐし、純朴な東人たちが無心に祈る念仏唱和の輪のなかに、いつしか自分も入っていくような心地さえした。
演者がいて、観客がいて、《隅田川》の世界があって、それらが念仏唱和のなかでひとつに溶け合ってゆく。
悲しい物語だけれど、この空間にいることがたまらなく幸せだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿