2019年6月10日月曜日

万能を一心につなぐ ~山崎正和名誉教授文化勲章記念フォーラム

2019年6月8日(土)大阪大学会館・講堂
プログラムには、天野文雄先生による「能楽研究から見た戯曲《世阿弥》」なども


ひさしぶりの母校。
東京暮らしが長かったから、キャンパスを歩くとほとんど浦島太郎状態。

在学当時、山崎正和先生は文学部の「看板教授」だった(当時、天野文雄先生は演劇学助教授で、日本学科には妖怪学の泰斗・小松和彦先生もいた)。
わたしの専攻は演劇学ではなかったけれど、山崎先生の演劇学演習を受けていて、能をはじめて観たのもこの講座を通してだった。

学生時代の未熟なわたしには山崎正和先生が著した世阿弥の美学や芸術論は、読んでもピンとこなかった。でも、いま、お能に触れながら御著書を再読してみると、「ああ、こういうことだったのか」とすんなり飲み込めるようになってきた(かな?)。

たとえば、「秘すれば花なり」「万能を一心につなぐ事」について。

山崎先生によると、世阿弥は意識と無意識の対立と統一という観点から演技を説明しているという。

役者は舞や演技の部分部分を、最初は意識してつくっていく。
しかし、舞や演技を意識して行えば、それはぎこちなく「クサい」ものになってしまう。

そこで、表現を行いながらも、その表現意識を「われにも隠す」、つまり、無意識化するという徹底した自己抑制と自己訓練が必要となってくる。

稽古に稽古を重ねて、ひとつの表現がほとんど無意識的に役者の肉体から出るまで、訓練を積み重ねていく。

そうすれば、役者は表現を操作するのではなく、表現の自動的な流れによって、自分が運ばれていくような状態に達する(これが「万能を一心につなぐ事」)。

そうして観客が乗せられている陶酔の流れに、役者もまた乗せられゆく。
ここではじめて、分裂していた表現者と鑑賞者はひとつに融合することができる━━。


山崎正和先生によるこうした世阿弥の芸論解釈を再読して思い至るのは、先日、大倉流祖先祭で観た片山九郎右衛門師による舞囃子《邯鄲》だ。


私が目にしたのは、まさに徹底した自己抑制と自己訓練の果てに実現した究極の舞であり、その陶酔の流れのなかで、表現者と鑑賞者がひとつに融合した状態ではなかっただろうか。



フォーラムの鼎談では、教授会の裏話がメインだったけれど、配布された能楽学会編による山崎先生のインタビュー記事は一読の価値あり。

記事では「力なく見所を本とする」という世阿弥の言葉についても語られている。
「力なく」というのは、「やむを得なく」ということ。
世阿弥は、「どんなにがんばっても、役者というものは観客に理解されなければどうしようもない」「それが役者の宿命であり、やむを得ないことである」ということを嫌というほどわかっていて、その宿命を受け入れたうえで、この問題に対する戦略として数々の理論書・伝書を書いたのだろう。

山崎先生が29歳の時に書いた戯曲《世阿弥》(*)にも、元雅のセリフにこんな言葉がある。

「役者の命は見物です。人気です」

「見物ほど世に気まぐれなものはありませぬ。何が面白いのか、私自身わからぬ私に手を叩く。そうかと思うとつかの間に、人気は私を見放している。私は喝采などというものを、一日も真に受けたことはありませぬ。そのくせ私という男は、見物のあの喝采の中にしか命はないのだ」



*戯曲《世阿弥》が俳優座で上演されたときの演出助手が観世栄夫。その縁から、山崎先生は銕仙会と親しくなり、観世寿夫と『冥の会』をつくって、能の伝統と西洋の演劇を結びつける仕事もされたという。




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