2019年7月16日火曜日

片山九郎右衛門の《杜若・素囃子》~能楽にみる自然・人を超えた「いのち」の世界

2019年7月15日(月)大津市伝統芸能会館
琵琶湖の対岸、左に見える小高い山が、
俵藤太の大ムカデ退治で有名な「近江富士」三上山。
【番組】
お話 林和清

能《杜若・素囃子》片山九郎右衛門
 ワキ旅僧 江崎欽次郎
 杉市和 吉阪一郎 河村大 前川光範
 後見 味方玄 大江信行
 地謡 青木道喜 古橋正邦 分林道治
    橋本忠樹 梅田嘉宏 大江広祐


路面電車に乗ってちょっとした遠足気分♪
鎌倉能舞台へ向かう江ノ電みたい。

はじめて訪れた大津伝統芸能会館。
三井寺の茶店で実演販売されていた力餅と弁慶ひきずり鐘饅頭をいただいてから向かいました(美味しかった♡)。

さて肝心の舞台は、九郎右衛門さんのシテなので、さぞかし妖艶な《杜若》になるかと思いきや……さにあらず。
小書や装束の色合いが変わるだけで「これほど見えてくる世界が違うのか」と新鮮な驚きを覚えるほど、予想外の《杜若》だった。やっぱり九郎右衛門さん、意表を突いてくる。


注目すべきは後シテの装束。
公演チラシのあでやかな紫長絹とは違い、くすんだ納戸色(ブルーグレー)の長絹。文様の配置・配色もおとなしめ。初冠から日陰の糸を垂らしているが、挿しているのは杜若ではなく、小ぶりの梅花。

長絹の裾にあしらわれた露芝の文様が、『伊勢物語』の芥川の段で詠まれた業平と高子との愛の形見の歌「白珠か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを」を連想させる。


装束の抑えた色調のせいだろうか、これほど悲しげで、内省的な杜若の精は観たことがなかった。どこか《雲林院》にも通じる雰囲気、井筒の女の思慕の念のような思いがしっとりと立ち込める。



「素囃子(シラバヤシ)」の小書ゆえか、クリの前のイロエは省略され、序ノ舞がイロエに似た「素囃子」という舞に代わる。

この「素囃子」の導入部にも序を踏む箇所があるのだが、そのときのシテの足がおどろくほど神々しい。その犯しがたい神聖さゆえに、なおさら禁断を犯したくなるように、芥川龍之介ならずとも「あの足にさわりたい」とさえ思えてくる。

2年前の九郎右衛門さんの《龍田・移神楽》(東京G6にて)で、前シテの巫女が見所に背を向けて下居し、こちらに足の裏を見せたときにも同じ思いを抱いた。九郎右衛門さんが女体を演じるときの足は、生身の美女の足よりもはるかに清らかで美しく見える。

それでいて、たとえば九郎右衛門さんが癋見をつけて天狗などを演じた時の足には、どこかゴツゴツしたむさくるしさが漂い、触りたいという欲望は感じない。


同じ人物の、同じ白足袋をはいた足なのに、ハコビや物腰、全身から醸し出される空気感の違いで、観客にまったく違った感情を抱かせる。こういう表現力が九郎右衛門さんの凄さなんだろうなぁ。



【素囃子】
シテは序を踏んだあと、舞台を時計まわりに半周して、大小前に至り、扇を開いてから正先へ前進。それから反時計まわりに半周して、大小前に至る。

杜若の精と在原業平の姿が二重写しになり、業平と高子の恋の逃避行を思わせる悲しい雰囲気が再現される。

植物的な感じよりも、「杜若の精」という美しい器に、恋する男女の霊が入れ替わり依りついて、最後に両性具有的精霊になったような、そういう印象を受けた。


私の好きな「蝉の唐衣の」で左袖を広げて見つめる型(チラシのポーズ)がなかったのは、小書ゆえなのか、それとも九郎右衛門さんの工夫だろうか。

そのほか、通常と違う箇所がところどころあり、引き裂かれた恋人への思いを表現した、哀慕の舞のようだった。



【照明が……】
惜しむらくは、照明。
大津伝統芸能会館はチラシのデザインは最高なのに、照明が……なんでこんなことするのん?って思うくらい残念だった。

ほかの能楽堂であれば、私の席のあたりから観ると、能面に独特の陰翳が出て、想像力が刺激され、シテの心の動きや内面を思い描くことができるのに、ここの能楽堂では、ライトが前からだけでなく、横からもギラギラと照りつけ、べたっとした均一な舞台照明になっていた。
その結果、シテの動きに合わせて能面に生まれるはずの繊細な陰翳が完全に飛んでしまい、面の表面がテカテカと人工的に光って、舞台芸術としての能の醍醐味が半減してしまっていた。


とはいえ、地謡もみずみずしい清涼感のある謡で、ワキも素晴らしかったし(江崎欽次郎さん、これから注目しよう)、立方以外のシテ方さんが着る白紋付も涼しげで、私にとってひと夏のかけがえのない思い出、幸せな時間だった。




明るすぎる大津市伝統芸能会館の能舞台


このあと、大津市歴史博物館で石田友汀の《蘭亭曲水図》《雪中騎驢・泊船図》《西湖図》などを観てから、囃子Laboへ。


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