2019年7月29日月曜日

金剛家 能面・能装束展観「宮廷装束と能装束」~御代替りによせて

2019年7月28日(日)金剛能楽堂


金剛家の能面・装束展へは初めて行ったけど、「面金剛」と言われるだけあって、垂涎ものの名品の数々……。
何度も来ている人に聞いたところ、今年はとくに金剛流でもトップクラスの面が数多く展示されているとのこと。改元記念?

メインとなる展示場は、能舞台と橋掛り。
ここの照明はやわらかみのある電球色だから、展示された能面たちもいちだんときれいに見える。
能面好きにはパラダイスすぎて、御宗家の対談や会場各所に待機していた能楽師さんたちから興味深いお話をうかがっているうちに、2時間半の滞在時間があっという間に過ぎてしまった。

(舞台中央には上村松篁筆の鳳凰長絹が飾られていたのですが、この日の夜にEテレ「古典芸能への招待」で放送された京都薪能では、お家元がこれをお召しになって《羽衣》を舞われていた。なんてタイムリー!)



【対談】
金剛流宗家と、衣紋道山科流若宗家・山科言親氏との対談。

事前に調べた情報によると、衣紋道とは装束着付けの方法のこと。
藤原時代の貴族たちは緩やかでゆったりしたフォルムの装束(柔装束:なえしょうぞく)を着ていたが、平安末期になると、鳥羽上皇の好みや新興勢力・武士たちの気風を反映して、かっちりした装束着付け(剛装束:こわしょうぞく)が好まれるようになる。
剛装束はごわごわとして着にくいため特別な着付けが必要となり、ここから「衣紋」という技術が生み出され、鎌倉・室町期に衣紋道の二流「高倉流」と「山科流」が誕生した。

この山科流の若宗家が、この日の対談相手・山科言親氏。
京都の御曹司を絵に描いたような物腰のやわらかい、品のある方。対談では気さくな感じで、金剛流御宗家のお話をうまく引き出していらっしゃった(金剛流宗家と山科流宗家とは、金剛流御令嬢の嫁ぎ先の御親戚、というご関係のようです)。


金剛流宗家のお話が、ちょっと他ではうかがえないことばかり。
以下は自分のための断片的なメモ。

〈明治の名人・金剛勤之助〉
宝生九郎と並び称された明治の名人・金剛謹之助(野村金剛家出身。その子息が金剛流宗家・金剛巌)は、蹴鞠や琵琶も習っていて、そうした素養を能《遊行柳》の蹴鞠の型や《絃上》の琵琶を弾く型に生かしたという。
謹之助が蹴鞠に使った鴨沓が野村金剛家に残っていた。その鴨沓には野村家の「沢瀉」の家紋、沓を入れる箱には金剛流の家紋が記されていて、弟子家だった野村家から金剛宗家となる過渡期的な当時の状況がうかがえる。


〈武家出身の野村金剛家〉
野村金剛家が御所の許されたのは、野村家がもとは佐々木源氏系の侍の家だったからである。豊臣秀次が金剛流を贔屓にしていため、家臣だった野村家も金剛流の能を習ったが、秀次失脚の際、野村家も失脚し、のちに能役者に転向したという。


徳川時代になって、能役者は名字帯刀が許されたが、身分制度上は士農工商の下に位置しており、「猿楽師」は禁中への出入りは許されなかった。そこで、武士出身の野村金剛家が御所に出勤し演能を行った(本来の金剛宗家・坂戸金剛家も猿楽師出身なので宮中への出入りは許されなかった)。


〈四座一流が残ったのは秀吉のおかげ〉
足利氏が贔屓にしたのは観世だけだったが、豊臣秀吉は大和猿楽をすべて残そうと応援した。
秀吉自身がパトロンとなったのは金春流だったが、他の大名たちにそれぞれ特定の流派を後援させて、大和猿楽各流派にパトロンをつけさせた。今日、能楽シテ方・四座一流が残っているのは、秀吉のおかげでもある。


〈秀吉は観世流を嫌った?〉
秀吉時代、徳川家康は観世流を贔屓にしていたから、秀吉にも観世の良さを認めてもらおうと、演能の機会を設けた。しかし秀吉は、当時観世流に組み込まれていた日吉(近江猿楽)のほうを評価し、観世には辛い評価をつけた。観世のほうも、秀吉の演能を観る「お能拝見」の折には、そっぽを向いていた。



〈染め分けの露〉
一般に長絹のツユは「一色」だけと決まっていて、「染め分け」を使うのは許されていない。しかし、野村金剛家だけはツユに染め分けを使うことが許されている。



〈金沢は金春流から宝生流へ〉
現在、金沢は宝生流王国だが、かつては金春流の地盤だった。それは、秀吉に仕えた前田家が、秀吉と同じく金春流を贔屓にしていたからだが、徳川時代に入り、徳川何代目かの将軍が宝生流を贔屓にしたため、当時の前田家城主も宝生流に乗り換えたからである。
とはいえ、贔屓にした役者は同じで、役者自身を金春流から宝生流に鞍替えさせたのだった。


などなど、「へえ~、そうなのか~!」という面白いお話がいっぱい。
まだまだ話し足りないような金剛御宗家でしたが、タイムキーパーの宇髙竜成さんから「タイムアウト!」のサインが何度も出て、残念ながら時間切れ。こういう研究者の著書には書かれない興味深いお話、もっと聞きたかったな~。




【能面・装束の展示】
若宗家にうかがったところ、もとの金剛宗家(坂戸金剛家)は、明治期にほとんどの能面・装束を手放してしまい、その多くが三井記念美術館に収蔵されているとのこと。
現在、金剛家が所蔵している名品の数々は、野村金剛家の金剛勤之助が、パトロンだった千草屋などの大坂の豪商の力を借りて集めたものだそうです。

目録などがなかったので、以下はざっとメモ。

(舞台右手に女面が年齢順に展示。女性の顔立ちの経年変化がよくわかる。)
雪の小面:龍右衛門作、室町時代
孫次郎:河内作、江戸時代 妖艶な女面。
増女:是閑作、桃山時代 深みのある美しさ。ずっと見ていたい。
曲見:河内作、江戸時代
檜垣姥:千代若作、室町時代


般若:夜叉作、室町時代。様式化されていない崩れや歪みが能面の恐ろしさを際立たせ、怨念がこもったような面。もっぱら《黒塚》に使われるそうです。とても怖いけれど、強く惹きつけられる。

般若:赤鶴作、室町時代
泥眼:河内作、江戸時代。悲しげで美しい表情。この泥眼で《海士》や《当麻》を拝見したい。
十寸神(ますがみ):増阿弥作、室町時代、古風で神秘的な面立ち。
野干:日氷作、室町時代

喝食:越智作、室町時代
鼓悪尉:赤鶴作、室町時代。悪尉のなかでも鼻が特大。その名の通り、《綾鼓》に使われるのかしら。

黒式尉:日光作、室町時代。
父尉:春日作、室町時代。うわあ、あの伝説的面打ち「春日」の作、神作じゃないですか! かつて神社などでの奉納の際に使われたのか、呪力の強さが伝わってくるよう。

中将:満照作、室町時代
蝉丸:満照作、室町時代
この満照という面打ちは三光坊の甥だそうだけれど、独特の作風。中将はエクスタシーに浸りきっているような、うっとりとしたエロティックな表情をしているし、蝉丸は夢見るような瞑想的な顔立ちで、半開きの口が今にも何かを語り出しそう。
優美でロマンティックな作風の面打ちですね、満照は。

平太:春若作、室町時代
三日月:徳若作、室町時代
大飛出:徳若作、室町時代

小飛出:福来(ふくらい)作、室町時代
猿飛出:赤鶴作、室町時代
大癋見:三光坊作、室町時代

装束も金剛流らしい華やかなものがいっぱい!



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