2019年9月27日金曜日

片山九郎右衛門の《三井寺・無俳之伝》

2019年9月22日(土)京都観世会館
京都観世会九月例会《錦木》からのつづき
三井寺の仁王門(重文・室町時代)
この曲の作者もこの門をくぐったのかも

能《三井寺・無俳之伝》片山九郎右衛門
 千満 梅田晃煕 能力 茂山忠三郎
 宝生欣哉 平木豊男 宝生尚哉
 杉市和 飯田清一 河村大
 後見 大江又三郎 青木道喜
 地謡 浅井文義 河村和重 河村晴道
  分林道治 大江信行 宮本茂樹
      河村和貴 大江広祐

仕舞《道明寺》浦田保親
  《松風》河村晴久
  《松虫キリ》鷲尾世志子
  《善界》浦部幸裕

能《天鼓・弄鼓之舞》浦田保浩
 ワキ福王和幸 アイ茂山千五郎
 森田保美 久田舜一郎 谷口正壽 前川光範
 後見 杉浦豊彦 深野新次郎
 地謡 河村晴久 河村博重 片山伸吾
        味方團 吉田篤史 松野浩行
    大江泰正 河村和晃




《三井寺》は昨年の片山定期能(シテは味方玄さん)でも拝見しましたが、この日は「無俳之伝」の小書付き。
「無俳(おかしなし)之伝」とは、前場で夢占いをする清水寺門前の者が登場しない演出のこと(「俳」は狂言方の意)。江戸中期につくられたこの小書については、「曲の作為に反する」として批判的な見方をする研究者や能評家もいらっしゃるようです。

演能時間を短縮するたんなる便法とみなされがちなこの小書ですが、狂言方による夢占いの場面をそぎ落としたからこそ、母の深い祈りと神仏への訴えが観る者の心に強く迫る……九郎右衛門さんの「無俳之伝」はそんな小書の真意をみごとに表現した舞台でした。



【前場】
登場楽も気配もなく、ふと気がつけば、いつのまにかシテが登場していた。

シテの出立は、花模様の水色地と青い縦縞の生成地の段替唐織壺折に、秋草花をあしらったシックで豪華な焦茶地の縫箔腰巻という非常に凝った取り合わせ。地味で渋いながらも上質なセンスが光る、贅を尽くした装束。
色艶の美しい塗笠を目深にかぶり、どこか思いつめたような表情をしている。
面は、角度によっては増のようにも見える、超美形の深井。


「南無や大慈大悲の観世音……」

正先で下居して、一心に手を合わせる千満丸の母。
情愛に満ちた深い母性を感じさせるその姿は、さながらイエスの助命を祈る聖母マリアを思わせる。おごそかな一条の光が照らしているかのように、シテの姿がぼうっと浮かび上がる。

「いまだ若木のみどり子に再びなどか逢はざらん、再びなどか逢はざらん」

魂の奥底から振り絞るような悲痛な祈りの言葉が、清水の観音さまに訴えかける。

やがてシテは、にわかに啓示を受けたかのようにハッと覚醒し「あら有難や候……あらたなる霊夢を蒙りて」と数珠をもつ手で合掌し、三井寺めざして中入。

音楽的な要素を最小限にとどめた静謐で崇高な場面。オリジナルの《三井寺》にはない、この小書ならではの良さが際立つ前場だった。




【後場】
茂山忠三郎さんの小舞「いたいけしたるもの」は後場の眼目のひとつ。張り子の顔、練稚児、しゅくしゃ結びにささ結びと玩具尽しのこの小舞を、じつに身軽で身のこなしで舞っていた。飛び返りはまるで無重力空間で舞うかのよう。体重の重みを感じさせない軽やかな着地も見事。
「ジャモ~ン、モォ~ン、モオォ~ン」と三井寺の鐘をつくところも、空気を震わせて伝わってくる妙なる音の残響、音の波の揺らめきが巧みに表現されていた。



〈カケリと鐘ノ段〉
狂女越一声を経て、ナガシのような囃子からカケリに入る。
澄みきった秋の夜空に浮かぶ月。冷たく照らす銀色の月に誘われるように、シテはルナティックなカケリを舞う。魂がなかば遊離したような、夢うつつの狂気の舞。

そこから一転、中国の故事を引いて、鐘をつく理由を説く議論の場面では、冷静で理知的な面をのぞかせる。


鐘ノ段では、本物の鐘をつくように色とりどりの錦の紐を巧みに操る写実性と、作り物と一体化した舞のような優雅な所作が印象的。

名文をちりばめたクセで、シテは静かに面をテラして鐘の音を聴く。その姿を介して、琵琶湖の湖面に響きわたる三井寺の名鐘の澄んだ音色が聴こえてきた。



浦田保浩《天鼓・弄鼓之舞》につづく




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