「あれこそ籬が島候ふよ。融の大臣、つねは御舟を寄せられ、御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし」━━世阿弥作《融》より
京都駅から徒歩15分。
五条大橋の西側、高瀬川沿いに源融の六条河原院跡があります。
かつては京都と伏見をつなぐ運河だった高瀬川。
2本のエノキの巨木が立つ「籬の森」 |
のちに現在の五条大橋の近くの森が、河原院の籬が島のイメージと重なり、いつしか「籬の森」と呼ばれるようになったといいます。
「此附近 源融河原院址」 |
森の名残りらしく、木蔭は昼間でも薄暗く、ひっそりとしています。
籬の森は、鴨川の氾濫により埋没したそうです。
巨木の背後には小さな祠が、洞窟のようにぽっかりと口を開けていました。
秘密基地のような、祠のなかに入ってみると……。
御神体の榎木の古株のうえに「榎木大明神」と刻まれた石が祀られていました。
キツネさんたちが守護しています。
伝承によると、源融の六条河原院で祭祀されていた稲荷社が起源だといいます。
いまも屋敷神として篤く崇敬されているんですね。
難波の浦から運んだ海水で塩焼きをして、陸奥塩竈の風景を写した六条河原院。
そのイメージは周辺の地域にも深く浸透していきました。
そうした影響の一端が「本塩竈町」という地名からもうかがえます。
塩竈山・上徳寺 |
光源氏の巨大邸宅・六条院が、源融の六条河原院をモデルに構想されたことはよく知られていますね。
東は現在の寺町通、西は柳馬場通、北は五条通のやや北、南は六条通のやや北に及ぶ広大な敷地が光源氏の大邸宅「六条院」だったとされますが、位置も規模も、源融の「六条河原院」とほぼ一致します。
また『源氏物語』には、光源氏の六条院が、六条御息所の旧宅(秋好中宮が母・六条御息所から相続した旧居近辺)の上に造営されたことが記されています。
「六条京極のわたりに、中宮の御旧き宮のほとりを、四町を占めて造らせたまふ」(「若紫」の巻)
源融と六条御息所。
古代ロマンの二大亡霊ゆかりの地。
それがこの高瀬川沿いの六条河原院跡といえるでしょう。
紫式部も世阿弥も、作品を書くにあたり、この地を訪れたのかもしれません。
後代、ここは色街として栄え、趣深い遊郭建築がいまも残されています。
(それについては別記事「五条楽園━━遊郭建築の宝庫」をご参照ください。)
高瀬川沿いの路上で涼んでいたにゃんこ。
0 件のコメント:
コメントを投稿