2018年11月27日火曜日

片山九郎右衛門の《海士》~能と狂言の会・国際交流の夕べ

2018年11月20日(火)18時30分~20時45分 京都観世会館
観世会館近くの京都写真美術館。たまにのぞいてみると面白い作品に出会える。

能《海士》海士/龍女 片山九郎右衛門
    藤原房前 片山峻佑
    ワキ 福王知登 是川雅彦 喜多雅人
    アイ浦の男 茂山逸平
    後見 河村博重 味方玄
    地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 片山伸吾
       田茂井廣道 大江信行 橋本忠樹 梅田嘉宏



やっぱり、舞衣姿で舞う九郎右衛門さんの早舞は最高!
今年も九郎右衛門さんの数々の素敵な舞台を拝見したが、そのなかでもいちばん感動した。これこそ言葉の壁を飛び越えて、圧倒的な美の力で観る者を魅了する、当代屈指の舞台だった。


【前場】
冒頭、藤原房前一行が、讃岐国志度浦を訪れる。
片山峻佑さんは「芸筋が良い」子方さん。
房前役にふさわしい威厳を品格が漂うハコビと立ち居振る舞い。落ち着いた物腰。それに謡もうまい。将来が楽しみな子方さんだ。

一声の囃子で登場した前シテは、白地摺箔に笹柄の紫縫箔腰巻に、青みがかった墨色の縷水衣という出立。
右手には鎌、左手には杉葉(みるめ)。
深井の面は遠目で観ると若く美しいが、近くで見ると、深く憂いのある陰翳が刻まれている。

浦の海女だという女は、従者に問われるままに、昔、藤原不比等がこの地を訪れ、「面向不背の珠」を龍王から奪還すべく、海女乙女を契りを結び、房前大臣が生まれたことを話す。

これを聞いて驚いた子方・房前が、「やあ、これこそ房前の大臣よ」と名乗ったときの、前シテの表情━━。

目の前にいるのがわが子だと知った時の、母の驚きと感動。
それを表現する所作は、けっして写実的なものではなく、型を忠実に踏襲しているだけである。
しかし、シテの全身から愛情深い母性が熱い湯気のように立ち昇り、オキシトシンが脳内で大量分泌されているのが感じ取れるほど、なんともいえない、慈愛に満ちた表情を浮かべている。

硬質であるはずの能面の、やわらかな表情の動き、目や口元のやさしく柔和な緩み。

物腰や所作のごく微妙な変化だけで、冷たい能面が、こんなにもしっとりと包み込むような、豊かな母の表情を浮かべられるものだろうか。

おそらくシテには、さまざまな人物の心理・心の動きの引き出しがたくさんあって、そこから役柄に応じた心模様を選び出しているのかもしれない。
そしてそれを、高い技術で表現できる人なのだろう。



〈玉之段〉
驚いたのが、「大悲の利剣を額に当て、龍宮の中に飛び入れば」で、パッと飛び込むところ。

シテは、ヒラリと身を躍らせて宙高く飛び上がったかと思うと、音も振動もないまま、ヒタリと静かに着地した。
着地の際に音だけでなく、わずかな振動もないなんて……まるで忍者の特撮かCG映像のよう。人間業ではなかった。


乳の下を掻き切る場面は、8月の仕舞「玉之段」ではほとんど涼しい顔をして、すーっと真一文字に胸の下を扇で斬ったが、この日は、グサリッと胸を抉るように突き刺す、リアルな表現。
外国籍の人にも視覚的にわかりやすいよう、迫真性を高めた「玉之段」だった。


中入前、シテは「この筆の後を御覧じて、普請をなさで弔へや」で、文に見立てた扇を子方に渡す。
そして「波の底に沈みけり」で、海の底に沈んでいくように、立ち姿から徐々に身を沈め、常座で下居。
送り笛に送られながら、橋掛りをゆっくりと去っていった。


【後場】
出端の囃子で登場した後シテは、白地に金で唐草模様をあしらった舞衣に、花七宝の紋大口、頭には見事な龍戴、左手に経巻。
面は、どこか物問いたげな泥眼。

3年前、九郎右衛門さんの後シテで、能楽座自主公演の《海士・解脱之伝》を観た(前シテは銕之丞さん)。
あの時は蓮花の天冠を被り、小書にふさわしい解脱感、狩野芳崖の悲母観音のような菩薩感が強く、この世ならぬ神々しい光に輝いていた。

この日の後シテにはまだ人間味があり、生身の女性のもつ潤いのある母性本能を感じさせた。

シテは、子方に経巻を手渡し、わが子がそれを読誦するあいだ、悲しげにシオリながら、常座へ至り、振り返って子方を見つめる。

そこから達拝となり、盤渉早舞へ。

ここからはもう、頭では何も考えない、感覚だけの世界。
どこまでも無限に広がる舞の美のなかに、ただ心地よく身をゆだね、魂が溶けてゆく感覚。

シテが袖をひるがえすたびに、悲しみの雫のようなものがパッとはじけ、シャボン玉のように消えてゆく。

ただ美しいだけではない、一抹の悲しみと翳りのある龍女の舞。

早舞三段目の途中から、シテは橋掛りへ行き、三の松で、風に舞う花びらのように、クルクル、クルクル、とまわり、しばし佇む。

お囃子も止んだ、完全なる静止、完全なる静寂。
余情をたたえた美しい「間」。

この余白のなかに、観客は龍女の思い、胸のうちを夢想し、舞台と観客の想像力の相乗効果で、一人一人のなかに、オリジナルな《海士》が創られてゆく。

囃子の総ナガシで、橋掛りから舞台に戻った龍女からは、あらゆる迷いも、人間的な苦悩も、すべて消え去り、冴え冴えとした光に包まれていた。








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