2018年11月11日日曜日

修学院離宮 ~御所・離宮参観の最終章

2018年11月初旬   修学院離宮
↑上御茶屋・隣雲亭からの眺望

御所離宮参観・第3弾、最後に訪れたのは、修学院離宮です。

これまで仙洞御所、桂離宮と観てきましたが、雄大な自然のなかにもっともよく溶け込んでいるのが、この修学院離宮のように感じました。

敷地内には、現在も耕作されている田畑が広がり、御茶屋の建物は装飾を排した素朴な造りで、後水尾上皇は限りなく本物に近い「山荘の侘び住まい」を求めていたのでしょう。
華やかな京で贅を尽くした生活を送った人ならではの憧れだったのかもしれません。

また、後水尾上皇の時代、「公家衆諸法度」「禁中並公家諸法度」などによって天皇の日常までも幕府によって縛られ、徳川家が外戚として圧力をかけてきたこともあり、閑静な山中での隠遁生活を渇望する上皇の思いが、この修学院離宮に結実したのではないでしょうか。


↑上御茶屋の浴竜池越しに見る隣雲亭


修学院離宮は、桂離宮から30年以上たった1655~56年に後水尾上皇によって造営が始められ、1659年に完成した山荘(上御茶屋・下御茶屋)です。
これに、後水尾上皇の皇女・光子内親王のために造営された朱宮(あけのみや)御所と、東福門院の女御御所が後代に加わり、「中御茶屋」と呼ばれました。

かくして上御茶屋・中御茶屋・下御茶屋の三つの離宮と、それらをつなぐ松並木、広い田畑、借景となる山林で構成される、総面積54.5万㎡の広大な離宮が保存維持され、現在に至っています。



比叡山の麓、東山連峰の山裾にある修学院離宮では、都市部よりも紅葉が進んでいました。



紅葉と青紅葉が混じって、この時期にしか味わえない趣きがあります。




 ↑下御茶屋の御幸門
参観ツアーの最初は、下御茶屋。


下御茶屋の唯一の建物が、後水尾上皇行の御座所となった「寿月観」。
扁額は、後水尾上皇の筆。
上皇のお人柄がしのばれる格調高い御手です。



寿月観・一の間にある三畳の上段。
間口いっぱいに床があり、その横に琵琶などを置く琵琶床。
棚の上の天袋小襖には鶴、地袋小襖には、岩に蘭が描かれています。

ただし、現在の寿月観は、1824年に再建されたものなので、後水尾上皇が実際に過ごされた場所ではないそうです。




 二の間との境の襖絵も、後水尾院没後の作。
岸駒筆の《虎渓三笑》。能《三笑》の世界ですね。




右の建物が、朱宮御所の一部だった中御茶屋の「楽只軒」。
軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」に由来し、後水尾院の命名とされています。




楽只軒の前に広がる庭。



東福門院の女院御所の奥対面所から移築された「客殿」。
網を干した形になっている「網干の欄干」が、女性の住まいらしい瀟洒な印象。




中御茶屋・客殿の「霞棚」。
互い違いに配された大小の棚板が、霞がたなびいて見えることから「霞棚」と呼ばれたそうです。
霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚と並んで「天下三名棚」のひとつと称されています。

↑の画像では見えにくいかもしれませんが、地袋小襖の引手は羽子板形、床壁の腰張りは群青と金箔の菱形を並べた幾何学文、床、襖、壁には金泥で雲が描かれ、そのうえに和歌や漢詩の色紙が貼り混ぜられており、細部まで非常に凝った、雅であでやかなしつらえになっています。
ここにも上下御茶屋とは趣味の異なる、女性らしいセンスがうかがえます。




 楽只軒に通じる階段との境には、狩野敦信筆の祇園祭の放下鉾と岩戸山の杉戸絵。



大和の満開の桜と長谷寺の風景が金泥を散らして描かれた二の間の襖絵。
その隣にある杉戸絵がユニークなので、以下にクローズアップします。



鯉の杉戸絵には網も描きこまれ、しかも、ところどころに網がほつれているところなど、芸が細かい。

あまりにリアルな鯉の絵なので、絵から抜け出すのを防ぐために網が加筆されたとか。
落語のネタになりそうな伝承ですね。



 中御茶屋を出ると、細長い松並木を通っていきます。
ここはかつては馬車道でしたが、左右に田畑が広がっているため、明治になって天皇が現人神になられたのを機に、目隠し代わりに松並木が植えられたといいます。



上御茶屋の中門をくぐると、右は山路、左は池畔の道となります。
一般参観者の順路は山路。
↑の山路は、迷路のような「大刈込」のなかをめぐりながら、山路を上っていきます。


暗く狭い大刈込の山路を上っていくと、頂上に至り、急に目隠しを外されたように眺望が開けます。

眼下に広がる浴龍池の景色。
遠景には北山連峰、左寄りに愛宕山がそびえ、壮大な風景が広がります。



丘の頂上に建つ、上御茶屋の隣雲亭。

1824年に再建された隣雲亭は、浴龍池を眺望するための簡素な建物。
床や棚などの座敷飾りは一切ありません。

手前の板の間(広縁)は、「洗詩台」と呼ばれ、その名の通り、池を見下ろしながら想を練り、詩作に耽るための場所だったのでしょう。




浴龍池に浮かぶ中島「万松塢(ばんしょうう)」と窮邃亭をつなぐ「千歳橋」。
宝形造と寄棟造の屋根をかけ、金の鳳凰をのせた千歳橋は、修学院離宮の素朴で簡素な他の建築物とは趣きの異なるものですが、それもそのはず、この橋は19世紀初めに京都所司代と水野忠邦がそれぞれ橋台と屋形を寄進したもの。

王朝風簡素な趣味に、突如、武家のテイストが闖入した雰囲気ですね。

千歳橋について、ブルーノ・タウトは、「がさつな橋」「この橋はあらん限りの力をつくして飾りたてられ、これさえ無ければ完全な調和を保っているはずの御庭の中で、あたかも拳で眼を打つような印象を与える……実に醜悪なものである」と酷評しています。

でも、わたしが感じたのは、この橋によって庭園に「破」の要素が与えられ、「破調の美」が生じているということ。

こういう異物が混入していないと、修学院離宮の庭園はあまりにも自然に溶け込み、調和が取れすぎていて、面白みがないのです。




御水尾院の創建当時のまま残っている唯一の建物が、この「窮邃亭」。
上皇の好みをいちばん感じることのできる空間です。


内部は、18畳の一室のみで、間仕切りはありません。
上段に座られた上皇が、蔀を開け放して、眼下の浴龍池と庭園を望んだ光景が目に浮かぶよう。

この窮邃亭を能舞台に、それにつづく土橋を橋掛りに、遠景の比叡山を富士山に見立て、能《羽衣》をイメージした結果、窮邃亭から望む中島が「三保島」と名づけられたそうです。


舟着場。後水尾上皇は、よくここで舟遊びを楽しまれたといいます。


浴龍池をめぐりながら参観。


楓橋。11月下旬になると、もっときれいなのでしょうね。


修学院離宮には袖型灯籠や崩家型燈籠など、見どころとなる燈籠がたくさんあるのですが、参観ツアーでは、背後から宮内庁警察の方が威圧的に迫ってくるため、とにかく前に進まなくてはならず、一部の燈籠しか見つけることができませんでした。。。

↑上の灯籠は、山寺型燈籠。

 こちらは、入母屋造の屋根をのせた屋形型燈籠。


隣雲亭から坂道を下った、雄滝を望む位置に立つ滝見燈籠。



こうして仙洞御所、桂離宮、修学院離宮とめぐり、個人的には桂離宮がいちばん好きですが、それぞれの特徴と醍醐味を堪能できてよかったです。








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