2019年1月23日水曜日

片山九郎右衛門の《東北》~京都能楽養成会研究公演

2019年1月21日(月)17時30分~20時20分 京都観世会館
京都能楽養成会研究公演・舞囃子三番からのつづき

能《東北》シテ 片山九郎右衛門
  ワキ 宝生欣哉 
  アイ 茂山千五郎
  杉市和 吉阪一郎 河村凛太郎
  後見 大江信行 梅田嘉宏
  地謡 味方玄 橋本忠樹 河村和貴
     河村和晃 大江広祐 樹下千慧




大寒を迎えた京都の夜。
冷たい空気が静寂を深め、森閑とした能舞台で、演者も観客もいつも以上に感覚が研ぎ澄まされる。夜は、夢の世界がしみこむ時間、夢とうつつのはざまの時間。この舞台を夜能で拝見できてよかった。


【前場】
旅の僧が、東国から花の都にやってくる。
欣哉さんの道行は、姿そのものが詩的で、こちらの想像力をかきたてる。多くの名脇役がそうであるように、いわくありげな影をまとう。なにか過去のありそうな、漂泊の僧。

この僧だからこそ、亡者と魂が共鳴し、女の霊が彼の前に現れたのだろう。そう思わせるだけの雰囲気を、欣哉さんの旅僧は醸している。


前場では、シテの声が印象的だった。
「な~う、な~う」という幕のなかからの声。
これがなんとも、色っぽい。

こんなに色っぽい九郎右衛門さんの声を聞いたのは初めてかもしれない。先日、舞妓さんの舞で聞いた地方さんの艶っぽい声を思い出す。

とはいえ、女性の声音を真似ているのではなく、あくまでお能の発声法に則った呼掛の声、れっきとした深みのある男性の声だ。それなのに熟した果実のような、豊潤なみずみずしさがある。



【後場】
河村凛太郎さんの小鼓が、鬘物の一声の囃子らしい繊細な音色。後シテの出の空気を醸成する。

シテの出立は緋大口に紫長絹。
長絹の文様は、たなびく霞を抽象化したような横のラインがいくつも入ったシンプルなデザイン。紫の地色もほどよく褪色して暗灰色に見え、春の夜のおぼろを能装束に仕立てたような風情がある。

そのおぼろな春の夜に、和泉式部の霊がふわり、ふわりと、袖をひるがえし、梅の香のような芳香をほのかに漂わせる。


序ノ舞の序を踏むときの、装束の裾からのぞく白い足。
白足袋を履いたその足がハッとするほど、なまめかしい。

芥川龍之介は桜間弓川のハコビを観て「あの足にさわってみたい欲望を感じた」と言ったが、名人の足というものは表現力がじつに豊かだ。


何がどう違うのか、具体的には分からないけれど、白足袋を履いた九郎右衛門さんの足は、たとえば、大天狗を演じた時と、貴公子を演じた時とでは違う。《東北》のような貴婦人の霊を演じた時の足は、狂女物の母親役の足とはまったく違う。


それは、女性の足というよりも、観念的に理想化された女の足であり、楚々とした聖性をもちつつも、この上なく官能的だ。これこそ、才色兼備の恋多き女としてイメージされる和泉式部の足だった。


序ノ舞で、官能的な足が向きを変えるとき、足そのものは少しも動かない(ように見える)。

まるで回転台に載っているように、不動のまま、90度、180度と、自由自在に身体の向きを変え、姿そのもの、動きそのものが、甘美な芸術品となって、観客を陶酔させていた。


シテが袖を翻すたびに、どこかで梅が一輪咲いて、春が近づいてくるようだった。

袖を巻き上げ、袖を返すたびに、甘い春の夜の香りが漂ってくるようだった。



終演後、能楽堂を出ると、空には明るく、大きな満月(スーパームーン)が出ていたのかもしれない。でも、わたしはそれにさえ気づかないほど、幸せな余韻に浸っていた。





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