2018年12月31日月曜日

こちらも初詣におすすめ! イノシシに乗る摩利支天~建仁寺禅居庵

2018年12月29日(土)  建仁寺・禅居庵

護王神社が「猪の神社」なら、こちらは「猪のお寺」。

建仁寺の塔頭・禅居庵には、開山清拙正澄(大鑑禅師)が将来した「摩利支天」が祀られています。



寺の由緒によると、この寺の摩利支天像は七頭の猪に坐った姿をしていることから、亥年の守り本尊として信仰されているとのこと。

秘仏のため通常は非公開ですが、来年(亥年)1月1日~31日には、御開帳されるそうです。



境内には、狛猪がいっぱい。


牙の感じとか、けっこうリアル。
摩利支天を守護するように、威嚇的な造形です。



あまり知られてないので、亥年の初詣には穴場かもしれません。





本年も拙ブログにご訪問くださり、ありがとうございました。
どうぞ良き新年をお迎えくださいませ。







2018年12月30日日曜日

六道珍皇寺~「六道の辻とかや」

2018年12月29日(土)  六道珍皇寺

もうひとつ、六道の辻があるのが六道珍皇寺。

かの有名な小野篁の冥途通いの井戸があるお寺です。


山門の前にたつ「六道の辻」の大きな石碑。

能《熊野》では、熊野は、前記事に掲載した西福寺(地蔵堂)を通ったあと、愛宕念仏寺(現在は元地のみ)を過ぎ、「六道の辻とかや」と、六道の辻に至ります。

熊野のいう「六道の辻とかや」にあたるのが、おそらく、この六道珍皇寺あたりでしょう。



閻魔堂(篁堂)の閻魔王像。

閻魔さまの手前には、亡者の生前の行いが映し出されるという浄瑠璃鏡も置かれ、地獄の閻魔裁きのようすがリアルに再現されています。



こちらは小野篁像。
両脇には、冥官と獄卒。

江戸時代の木彫像ですが、迫力があります。
三体とも、院派の仏師・院達の作である可能性が高いとされています。

閻魔堂の彫刻群は格子越しに眺めるだけなので、細部は見えなかったのですが、機会があれば、近くで見てみたいですね。



そしてこちらが、小野篁の冥途通いの井戸(右)。



井戸だけをアップするとこんな感じ。

以前に、嵯峨釈迦堂「清凉寺」の記事で紹介しましたが、小野篁が冥途通いに使った六道珍皇寺の井戸は、冥途の入り口です。

篁の冥途通いの出口となったのが、嵯峨野にあった福正寺の井戸でした。
それゆえ嵯峨野の井戸のあった場所は、「生(しょう)の六道」といわれたそうです。

つまり、「鳥辺野」(東山)から「化野」(嵯峨野)という二大葬地を、冥界の井戸がつないでいたと昔の人は考えていたのですね。

いにしえの人々の世界観。わたしにはとてもロマンティックに思えます。
あの世が今よりももっと身近で、現世と陸続きになっているような感覚があったように感じるのです。




西福寺~《熊野》の地蔵堂?~六道の辻その1

2018年12月29日(土) 西福寺(子育地蔵尊)

京都には「六道の辻」の石碑の立つ場所がいくつかあります。


そのひとつが、ここ、清福寺。


西福寺は、弘法大師御作の「子育地蔵尊」が祀られているお寺。

能《熊野》に出てくる「六波羅の地蔵堂よと伏し拝む」の「地蔵堂」が、このお寺ではないかと思っています。

つまり熊野は、先日紹介した六波羅蜜寺あたりの平宗盛邸から花見車に乗り、四条五条の橋を行き交う老若男女貴賤都鄙の姿を眺めながら鴨川沿いを北上。
そこから右折して、この子育地蔵(西福寺)に至り、地蔵尊を伏し拝みます。



こちらは不動明王。

弘法大師御作の地蔵尊は、無数の石仏に囲まれて、不動明王の向かって左側に安置されていました。

おそらくこの石仏たちは、その昔ここが葬送の地・鳥辺野への入り口だったころ、人々が死者を弔うために、卒塔婆とともに立てたものかもしれません。

西福寺だけでなく、六波羅蜜寺にも六道珍皇寺にも、摩耗して風化した石仏たちが境内の片隅に数多く安置されていました。
この辺りが六道の辻だったころの、いにしえの通りの姿が偲ばれます。

この寺の石仏たちも、水子供養のため赤い前掛けをつけ、ずらりと並んでいて……見ているだけで悲しく恐ろしい気分になり、写真を撮るのは控えて、ただ手を合わせました。




西福寺の斜め向かいにあるのが、幽霊の子育て飴で知られる「みなとや幽霊子育飴本舗」。



お店の前に張られた由来によると;

慶長四年、妻を亡くしたばかりの男が、妻の墓から泣き声がするので掘り返してみたところ、妻が産んだ赤ん坊を見つけた。その子が父親に発見されるまで、夜な夜な飴を買いに来る女がいたが、子どもが掘り出された後は、ぱたりと来なくなったという。子どもは8歳で出家し、のちに高名な僧となる。
この店の飴は「幽霊子育ての飴」と評判になり、薬飴だともてはやされ、今に至るまで京の名物として知られている。

ということらしい。

幽霊子育飴は、麦芽水飴と砂糖を原料にした琥珀色の飴。
これをお湯で溶かし、ショウガを加えて冷やすと、夏に美味しい冷やしあめになるそうです。きっと滋養があるんですね。
冷やしあめは大好きなので、夏になったら試してみます。





阿古屋塚・玉三郎奉納~源平栄枯盛衰

2018年12月29日(土)  六波羅蜜寺
空也踊躍念仏からのつづき
六波羅蜜寺の本当の脇にひっそり佇む阿古屋塚。
阿古屋塚の手前には、五代目坂東玉三郎が奉納した由緒碑も建っている。


「奉納 五代目 坂東玉三郎 平成二十三年 十一月吉日」

六代目歌右衛門はもとより、梅枝さんや児太郎さんも、阿古屋を演じるにあたりこの塚に手を合わせたのだろうか。



玉三郎が奉納した阿古屋塚の由緒碑によると、「阿古屋の菩提を弔うため鎌倉時代に建立す。石造宝塔は鎌倉時代の作で、その下の台座は古墳時代の石棺の石蓋を用いている」とのこと。

五条坂の傾城だった阿古屋。
景清と逢瀬を重ねたのも、この付近だったと思うと、感慨深いものがある。
能《景清》で、九州日向国に盲目の景清を訪ねた娘も、(実在の人物ならば)この辺りの生まれかもしれない。




阿古屋塚の隣には、平清盛の塚もある。

平家全盛期、六波羅蜜寺の敷地内には、平家一門の拠点・六波羅館があり、平家の屋敷が立ち並んでいたという。

能《熊野》でおなじみの、平宗盛の館があったのも、この辺りだろうか。
熊野は、ここから花見車に乗って出発し、清水寺へ向かった。

ここ六波羅は、能や歌舞伎ともゆかりの深い場所だ。


やがて平家の時代が終焉すると、この地を支配したのが源頼朝だった。
頼朝の没後は、北条氏が幕府の出先機関「六波羅探題」をこの地に置いた。

その鎌倉幕府も、足利氏の政権に取って代わられる。
六波羅蜜寺は、平氏から源氏、源氏から足利氏へと為政者が移り変わるなか、幾度も戦火に見舞われたが、幸い、本堂だけは焼失を免れ、本堂内部・内陣は創建当時の面影を微かにとどめている。

堂内は撮影禁止で画像はないが、拝見したところ、柱や梁の染みのように見える部分は、おそらく剥落し褪色し尽くした文様の跡だと思う。

かつては極彩色に塗りこめられた色鮮やかな文様。
いまでは滲んだ染みのように見えるその文様こそが、戦火を逃れた勲章のようにも感じられる。
染みのなかに、ほのかに見える花の名残り。
老女物の名舞台を観たときはこんな気分になるのかもしれない。






2018年12月29日土曜日

空也踊躍念仏 ~六波羅蜜寺

2018年12月29日(土)16時~16時30分 六波羅蜜寺


さすがに師走の末ともなると観光客もまばらで、京の町は歩きやすく過ごしやすい。
この日は、空也踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)を観に、六波羅蜜寺を訪れた。

平安中期に空也上人によって創始された踊念仏は、鎌倉時代に幕府によって弾圧され、以来800年にわたり、この寺でひそかに修されてきた。この念仏踊りが「かくれ念仏」とも呼ばれるゆえんである。
(秘儀だった空也踊躍念仏は、1970年代に重要無形文化財に指定されたのを機に一般公開された。)


寺の入り口には、お約束の「マニ車(一願石)」。

念仏踊りが行われる本堂には老若男女100人以上が詰めかけ、読売新聞や京都新聞などの取材も入っていた。
けっこう有名というか、人気なんですね。念仏踊り。


【住職による解説〕
まずは、ご住職による解説から。

空也上人の出生については諸説あるが、ご住職によると、醍醐天皇の第二皇子として生まれ、長じて出家したという。

村上天皇の御代の天暦5年(951年)、京都で疫病が流行した。空也上人は十一面観音を彫り、疫病封じを祈願。
さらには、梅干しと結び昆布を入れた「皇福茶(おうぶくちゃ」という薬湯を考案し、庶民にふるまい、疫病の拡散を防ぐべく火葬を奨励したという。

(この皇福茶は今でも正月三が日に参拝者にふるまわれ、この日も御守りと一緒に販売されていた。無病息災の効能があるらしい。わたしもお正月用に購入。)


そうした空也の尽力が功を奏して、疫病は沈静化。村上天皇はその褒美として、空也のために六波羅蜜寺の前身・西光寺を建立した。

疫病の流行は収まったものの、人々の恐怖心は癒えず、京の人々は、今でいうPTSDのようなトラウマ的うつ状態に陥っていた。

そこで空也が人々の心の傷を癒すために創案したのが、念仏踊りだった。

空也の念仏踊りは瞬く間に広まり、鎌倉期には大流行したが、民衆の団結力を恐れた幕府がこれを弾圧。念仏踊りは地下に潜り、「かくれ念仏」として一般の目に触れることなく、この寺で、ひそかに執り行われてきた。

そうした背景から、空也踊躍念仏には以下のような特徴がある。

(1)「南無阿弥陀仏」という言葉を、聞かれても分かりにくいように「モーダーナンマイトー」という、意味不明な響きに変えている。

(2)誰かが来てもいつでも中止できるよう、言葉に終わりが決められていない。ゆえに、唐突に終了する。

(3)般若心経などの普通のお勤めのなかに、念仏を紛れ込ませている。


住職の話によると、この念仏踊りには、罪業消滅の功徳があるとのこと。

「この日集まった一般の皆さんも、念仏僧とともに、モーダ―ナンマイト―、と唱えることで、一年の罪穢れを祓い、希望に満ちた良い新年を迎えましょう!」とご住職。

そんなわけで、みんなで念仏の練習をしたあと、いよいよ本番!



【空也踊躍念仏】
本堂の内陣には、大きな厨子が三つ並んで壇の上に立っている。
空也が彫ったという本尊・十一面観音は、12年に1度開帳される秘仏のため、中央の厨子のなかかどこかに納められているのだろう。

まずは、5~6人の僧侶が壇のまわりを取り囲み、十一面観音の真言と般若心経を唱える。
やがて僧侶たちは首から下げた伏鉦(ふせがね)を叩きながら、念仏を唱和しはじめた。

鉦を叩き、念仏を唱え、二歩進んでは体をかがめて静止、二歩進んでは体をかがめて静止、という動作をくり返しながら、壇のまわりをまわっていく。

さらに念仏は、例の「モーダーナンマイトー」へと移っていく。

僧侶たちは、「モーダー」で、大きく前かがみになって体を下に向け、
「ナンマイトー」で、体を上に向けて、大きく反らせる。
鉦を叩きながら、下を向いたり、上を向いたりするしぐさ。
何かの絵巻物か図絵で観たことがある。
いずれにしろ、ハードなエクササイズだ。

観衆たちも念仏に加わり、堂内は熱気を帯び、しだいにヒートアップしていく。
みんなで声を出し、単純な動作をリズミカルに繰り返す。
それだけのことだけれど、この単純な動作を集団で熱中して行うことで、鬱々とした気分が晴れ、吹き飛ばされていく。
踊念仏がもてはやされた理由が少しわかった気がする。
頭を使うのではなく、集団で声を出し、体を動かすこと。
現代のストレス対策にもいいかもしれない。


(ドグラ・マグラ風に)チャカポコ、チャカポコ。
モーダーナンマイトー、モーダーナンマイトー。
チャカポコ、モーダーナンマイトー、モーダーナンマイトー。
チャカポコ、チャカポコ。

すると、突然!
唐突に住職の絶叫が聴こえ、カン、カン、カン!と鉦が鳴り響いたかと思うと、念仏も伏鉦もぴたりとやんだ。
蜘蛛の子を散らすように、僧侶たちがコソコソと逃げ去ってゆく。

あっけない幕切れ。
これぞ、「かくれ念仏」。

最後は観衆も内陣に入り、お焼香をして御本尊をお参り。
帰りに「肌守り」をいただいた。

これが肌守り。お財布やスマホカバーに入れて、いつも持ち歩くと厄除けになるそう。

罪穢れが払われて、スッキリした気分。楽しかった。

外部の彩色は近年、塗り替えられたものなのであざやか。






阿古屋塚~玉三郎奉納につづく




2018年12月25日火曜日

クリスマス・イヴ能~大阪能楽養成会研究発表会《菊慈童》《箙》ほか

2018年12月24日(月)14時~17時 大槻能楽堂

能《菊慈童》シテ 西野翠舟
   ワキ 福王和幸
   野口眞琴 清水皓祐 守家由訓 中田一葉
   後見 武富康之 寺澤拓海
   地謡 今村哲朗 笠田裕樹 大槻裕一 浦田親良

舞囃子《紅葉狩》石黒空
   貞光智宣 成田奏 山本寿弥
   地謡 辰巳大二郎 辰巳孝弥

舞囃子《六浦》寺澤拓海
   貞光智宣 清水皓祐 守家由訓 中田一葉
   地謡 大槻裕一 浦田親良

独吟《放下僧》高林昌司

能《箙》シテ 金春飛翔
   ワキ 喜多雅人 アイ 小西玲央
   赤井啓三 成田奏 山本寿弥
   後見 湯本哲明 酒井賢一
   地謡 金春穂高 中田能光 佐藤俊之



大阪能楽養成会、いつもながら気合入ってる!
番組が何か月も前から用意され、出演能楽師さんたちもSNSで発信しているし、各演目の演者が書いた解説が配られるなど、手作り感があって、若手能楽師さんたちの意気込みが伝わってくる。
舞台のほうも、今年最後の発表会にふさわしく濃い内容だった。


際立っていたのは若手囃子方さんの躍進ぶり。
やはりシテ方と比べて、囃子方のほうが若いうちから舞台経験が豊富だからだろうか、聴いていて「あっ、良いなあ」と思う方が多い。

笛方の野口眞琴さん、貞光智宣さん、どちらの笛もそれぞれに味わい深い。現時点でこの域まで達していたら、将来はどんな笛方さんになるだろうと、いまから楽しみ。


成田奏さんの小鼓がとりわけ素晴らしい。
以前から注目していたけれど、ここ半年くらいでさらに成長された。ブラインドテストで何も知らされずに耳だけで聴いていたら、若手の方とは到底思えないくらい。
掛け声も音色も、魅力がある。

成田奏さん×山本寿弥さんのコンビの後ろに、TTRのお二人が後見でつかれたのも面白かった。親子とも同世代。それぞれにお師匠様の芸風を受け継いでいらっしゃる。



能《菊慈童》
シテを舞われた西野翠舟さん、よかった。
慈童の美しい面と、シテの雰囲気がぴったり合っている。
男性でも女性でもない、子供でも大人でもない、性別も年齢も曖昧な独特の神秘性と寵童ならではの色気を感じさせる舞姿だった。

地謡もお囃子も聴き応えがあった。




能《箙》
金春飛翔さんの舞台を観てみたかったので楽しみにしていた。

やっぱり、この方の舞台は独特だ。
謡が上手いのかどうか、よくわからないまま引き込まれていく。

箙の梅の由来を語るところなども、なにかの祟りの秘密でも打ち明けるような恐ろしさを漂わせていて、曲の内容とは一致しないのだけれど、摩訶不思議な力がある。
腹の底から謡っているというのも、こちらを惹きつける要因かもしれない。

後シテの今若の面が美しく、水も滴るような若武者姿だが、生田の森での合戦を再現するところは、美しさよりも、泥臭く血と汗にまみれた戦場の様子が描写される。

この泥臭さ、土臭さ、呪術的なおどろおどろしさが、ほかの誰にもない、金春飛翔さん独自の魅力。大和猿楽の源流を感じさせる舞台だった。





2018年12月23日日曜日

友枝昭世の《藤戸》~大槻能楽堂自主公演

2018年12月22日(土)14時~16時45分 大槻能楽堂
西国旅情~お話、狂言《福の神》からのつづき

能《藤戸》シテ母/漁夫の霊 友枝昭世
   ワキ佐々木盛綱 殿田健吉
   ワキツレ従者 則久英志 平木豊男
   アイ盛綱の下人 善竹忠亮
   竹市学 横山晴明 白坂信行 三島元太郎
   後見 狩野了一 友枝雄人
   地謡 粟谷能夫 出雲康雄 粟谷明生 長島茂
      高林呻二 粟谷充雄 金子敬一郎 内田成信


これまで拝見した友枝昭世さんの舞台の中でいちばん好きなのが、袴能《天鼓》だった。後シテの、あの透き通るように純粋な舞姿が強く印象に残っている。

《天鼓》と《藤戸》とは、強者に我が子の命を奪われた親と、殺された子の亡霊をそれぞれ前・後シテに配置し、改心した権力者による管絃講が営まれるという点でよく似た構成でありながら、前・後シテとも、主人公たちのキャラクターはきわめて対照的だ。

わたしの勝手な思い込みかもしれないけれど、人間臭く生々しい《藤戸》は、友枝昭世さんの芸風や個性とはあまりそぐわない(要するにニンに合わない)気がするが、それを当代きっての名手がどう演じられるのか、とても興味があった。

この日の大槻能楽堂は、立見客もぎっしり詰めかけるほどの超満員。東京の見所でお見かけしたお顔もちらほら。冬至にもかかわらず、熱気に包まれていた。



【前場】
ワキの佐々木盛綱一行が登場する。
病気療養後に復帰した殿田さん、久しぶりに拝見する。復帰されて誠に喜ばしい。
しかし、まだ本調子ではなく、お辛そうに見える。以前には決してなかった絶句があるなど、かなり無理をして舞台に立たれているのではないだろうか。



〈シテの登場〉
お囃子が素晴らしい。とくに、竹市学さんの笛。
藤田流らしい吹き込みの強さ、鋭さに加えて、この方の笛には独特の翳りと繊細な趣きがあり、曲趣に寄り添いつつ、その情感を高めている。
この年代の囃子方さんで、ここまで芸位の高い人はほかにはいないと思う。
現役笛方さんのなかではいちばん好きかもしれない。


一声の囃子の竹市さんの笛に聞き惚れていると、気がつけば、シテがすでに一の松まで来ていた。

まったく気配を感じさせないし、身体は不動を保っているのに、全身から激しい勢いが感じられる。
まるで、訴訟に来た群集をかき分け、息せき切って、盛綱の前に出たような強い勢い。
「よくもっ! よくもっ!」という激しい感情がメラメラと立ち昇っている。



〈シテの訴え〉
息子を殺して海に沈めただろう!と詰め寄る母親にたいして、シラを切る盛綱。

あなたに浅瀬を教えて、殺されたのは、「まさしき我が子にて候ふものを!」と、シテは語気を強めて、盛綱に迫る。


わが子を返せと詰め寄るところでは、
「なき子を同じ道になしてたばせ給へ」と、シテは自分も殺してほしいと、ワキの右側に向かって突き進むが、わけもなく跳ねのけられる。

さわに、「我が子返させ給へや」で、ワキのほうへ左手をつよく突き出し、狂乱のあげく、モロジオリ。


(本公演冒頭の村上湛氏のお話によると、片山幽雪師はこの場面で、ワキの刀をねらって突進していくとおしゃっていたという。
その刀で相手を刺すのか、それとも自分を刺すつもりなのかわからないが、「殺気をもって行かなあかん」、というのが幽雪流のやり方だったらしい。)


わたしの席からはワキに向うシテの後姿しか見えなかったため、殺気までは感じ取れなかったが、友枝昭世さんにしては珍しいほど、リアルで写実的な、はげしく強い感情表現だったと思う。



〈流儀による詞章の違い〉
番組と一緒に喜多流の詞章も配布された。
観世の詞章と比較してみると、けっこう違っていて面白い。(*付記参照)



【後場~友枝昭世の本領発揮!】
〈後シテ登場〉
下掛りでは太鼓が入るため、後シテの登場楽は、一声ではなく、出端になる。
太鼓の入った出端のほうが管絃講らしく聴こえる。

揚幕が上がると、冷たく、暗い水底から、漁師の亡霊がぬるりと浮かび上がり、そのまま水面をすべるように、陰々とした昏さで橋掛りを進んでいく。

ああ、このハコビ。
やっぱりこの方は、こういう、この世ならぬ存在のほうがしっくり合う。


後シテの第一声も、観世のものとは違っていた。

「うたかたの、哀れに消えし露の身の、何に残りの心なるらん」

陰鬱な声と謡。果てしないほどの「うかばれなさ」。


痩男の面は、アゴを出さずに顔をすっぱりと覆うようにつけられ、シテの身体・魂と面・装束が完全に一体化し、漁師の亡霊が水にぐっしょり濡れたまま舞台に現れたかのような錯覚を起こさせる。
げっそりと落ちくぼんだ眼窩には暗い光が宿り、シテの身体が向きを変えるごとに、目玉がギョロギョロと動いているように見える。

両生類のように粘着性のある、恨みがましい姿。

殺害場面の再現で身体を刺し抜かれる場面では、刀に見立てた竿で突きさす所作を、グサッグサッと写実的に演じるのではなく、映画の回想シーンでスローモーションがかかったような映像芸術的表現。

そこから浮きぬ沈みぬ流されて、水底に沈んでいく型の哀れさ、悲しさ。

陰隠滅滅たる、底なしの怨みの淵に観客を引き込んでおいてから、
最後の、「彼の岸に至りて」で、竿をパッと放す。

その瞬間、
シテの身体がふわっと軽くなったように見え、漁夫の魂が怨みの苦悩から、ふっと解放されたのが感じられた。

最後は、「成仏得脱の身と成りぬ」で、合掌。



この解脱の瞬間の表現が、とりわけ見事だった。




*付記
たとえば、漁師を殺したことについて、最初はシラを切っていた盛綱が、やがて認めて、しだいに母親に同情的になるところ。
観世の詞章では、盛綱は「あら不憫や候」とか、「かの物の跡をも弔ひ、妻子をも世に立てうずるにてあるぞ」など、憐みの言葉や、遺族の面倒を見ることなどを口に出して伝えている。

それにたいして、喜多流の詞章では、そうした言葉は盛綱の口からは出ず、地謡によって「うつつなき有様を見るこそ哀れなりけれ」と謡われたり、母親を送り届けるアイの下人を通して間接的に伝えられたりするのみである。

つまり、喜多流の詞章だと、改心していく盛綱の心の軌跡が見えにくく、なぜ、あれほど強く詰め寄っていた母親が、急におとなしくなって、下人とともに家に帰るのかも分かりにくい。

おそらく、喜多流の詞章のほうが原型に近く、観世の詞章は分かりにくさを解消するために、のちに改訂が加えられたのかもしれない。







2018年12月22日土曜日

大槻能楽堂自主公演 西国旅情~お話、狂言《福の神》

2018年12月22日(土)14時~16時45分 大槻能楽堂

お話「春の湊の生末」 村上湛

狂言《福の神》シテ福の神 善竹忠重
   アド参詣人 茂山忠三郎 山口耕道
   後見 善竹忠亮
   地謡 岡村和彦 前川吉也 牟田素之 小林維毅

能《藤戸》シテ母/漁夫の霊 友枝昭世
   ワキ佐々木盛綱 殿田健吉
   ワキツレ従者 則久英志 平木豊男
   アイ盛綱の下人 善竹忠亮
   竹市学 横山晴明 白坂信行 三島元太郎
   後見 狩野了一 友枝雄人
   地謡 粟谷能夫 出雲康雄 粟谷明生 長島茂
      高林呻二 粟谷充雄 金子敬一郎 内田成信



大槻能楽堂の改修について、この日得た情報によると、来年7~12月の改修期間中は大槻能楽堂の主催公演はないとのこと(てっきり、どこかの会館を借りてやるのかと思っていた)。
なので、改修前の来年度の主催公演は、4~6月の自主公演3つとろうそく能1つのみで、番組の発表は年明け以降らしい。

関西で友枝昭世さんや梅若万三郎さんのお舞台を拝見できる数少ない機会のひとつが、大槻能楽堂主催公演だったから、ちょっとショック。
来年4~6月の公演のなかに、観たいものがあるといいな。


お話「春の湊の生末」 村上湛
村上湛氏のお話を拝聴するのははじめて。
国立能楽堂のプログラムやTV放送のこの方の解説が好きで、楽しみにしていたこの日のお話、期待以上に面白かった。
最初、割り当てられた時間が40分と聞いて「長っ!」と思ったのだが、さすがは博覧強記な方だけあって、いろいろな方向に話を広げつつ、最後はひとつのテーマに収斂させていくという巧みな話術で長さを感じさせないばかりか、もっと聞いていたいくらいだった。

(以下は、わたしが勝手に咀嚼して書いているので、村上氏の実際の言葉とは違っています。)

そのひとつのテーマとはお話のタイトルにもある、能《藤戸》のワキの次第「春の湊の生末」。
このワキの次第は、新古今集に収められた寂連法師の歌「暮れてゆく春の湊は知らねども霞に落つる宇治の柴舟」の発想を借りたものである。

この寂連法師の歌に詠みこまれた「惜春」の思い、「時の流れの止め難さ」、それがこの曲のテーマではないか。

藤戸合戦があったのは、『平家物語』では9月、『吾妻鏡』では12月とされているが、能《藤戸》の作者はあえて3月に設定することで、晩春の花である「藤」(藤戸にちなむ花)と呼応させ、漢詩の伝統を引く「惜春」という文学的情緒を暗示している。

《藤戸》のワキは、佐々木盛綱という実在の人物の重い人生を背負った存在として登場する。
彼は《敦盛》の熊谷直実と同様、武士である。
武士とは、art of murderに長けた人殺しのプロ、人を効率よく殺すプロフェッショナルであるが、その一方で、人を殺すことへの罪の意識ももっている。それゆえ武士の時代となった鎌倉時代には念仏宗や禅宗が隆盛し、多くの武士が帰依した。
熊谷直実も念仏僧として出家し、佐々木盛綱も曲の途中で改心する。

《藤戸》の登場人物たちはそれぞれ人間くさい生々しい感情を持っているが、つまるところ、武士も漁師も命限られた儚い存在であり、勝者も敗者も同じ、死にゆく存在なのである。

生々しい出来事、生々しい感情のぶつかり合いを、大きく俯瞰して見るような視点。それが、この曲を貫く「春の湊の生末」ということ、つまり「死にゆく人間の生末」ということなのかもしれない。




狂言《福の神》
異流公演ではないけれど、善竹彌五郎家と茂山忠三郎家の「異家」共演。
やっぱり神戸と京都、彌五郎家と忠三郎家とは芸風がだいぶ違う。

善竹家のことはあまりよく知らないけれど、忠重さんは東京の大蔵吉次郎さんと活舌や発声の感じがよく似ている。
面は専用面の「福之神」だろうか。
やわらかい表情で、とても楽しそうに笑っている。
見ているだけで幸せになりそうな顔立ちだ。

福の神が説く、富貴の心得。
早起き、人にやさしく、客を拒まず、夫婦仲よく。

どれひとつ、まともにできていないわたし。
今年も反省点ばかりだけど、笑う門には福来る。
とにかく、笑って新しい年を迎えよう。



友枝昭世の《藤戸》につづく









2018年12月17日月曜日

春日若宮おん祭 断念!


1年前にこちらに戻ることが決まってから、ずっと楽しみにしていた春日若宮おん祭。

でも、気温の低下とリンクして一週間ほど前からガラガラッと体調を崩してしまい(風邪っぽい?)、年末年始を控え、これ以上悪化させないためにも、今日のおん祭は断念しました。めっちゃ無念!
(15日の河村定期能の《誓願寺》も観たかったけれど、こちらも断念。)

「冬の奈良の屋外で長時間観る」、というのは相当さむくて覚悟がいります。
体調が良くないとだめですね。

来年こそは!
と思いつつも、寒さに弱いわたし、はたして行けるのだろうか。







2018年12月14日金曜日

初詣はイノシシが守護する護王神社へGo!

地下鉄丸太町or今出川駅から徒歩7~8分、蛤御門の前に建つ護王神社。
金剛能楽堂の近くにあるこの神社は、別名「いのしし神社」。
狛犬ならぬ「狛猪」が守護するイノシシとゆかりの深いお社です。
11月末にお礼参りに行ったら、すでに来年の開運「猪」絵馬が。



手水舎で水が出るのは、龍の口からではなく、イノシシの口。



こちらが正面。
中門には、足のマークの御守りが掛かっています。


御守りのアップ。
足腰の守護神なので、足腰に悩みを持つ参拝者が絶えません。

以前ブログに書いたように、母が夏に椎間板ヘルニアになり日常生活も困難なほどだったのですが、わたしがこの神社にお参りし、腰のお守りをいただいて母に贈ったところ、驚くほど回復して、以前と同じように歩けるようになったのです!

腰を傷めた母の念願だった箕面の滝での紅葉狩も楽しめるようになったし、ほんとうに神徳の高い神様です。




護王神社でイノシシが重んじられているのは、祭神の和気清麻呂と関係しています。

弓削道鏡の陰謀によって大隈国(現・鹿児島県)に流されることになった清麻呂は、旅の途中、道鏡の放った刺客に襲われ、足の筋を切られてしまいます。

すると、どこからともなく三百頭のイノシシが現れて、清麻呂の輿を取り囲み、道中を守護します。
さらにイノシシたちの守護によって清麻呂の足の痛みも治っていったといいます。


こちらが本殿。


境内にはあちこちにイノシシ(霊猪像)が見られます。


こちらは、「いのちよみがえり霊木猪」という飛翔親子猪。


霊木から、親イノシシの顔と、子イノシシたちの姿が!


こちらも猪の姿をした霊木。



2018年12月6日木曜日

『鼓に生きる』田中佐太郎


歌舞伎囃子方・田中佐太郎さんの『鼓に生きる』(聞き手・氷川まりこ、淡交社)を最近読んだ。

佐太郎さんは、言わずと知れた亀井忠雄師の奥様にして、三響會三兄弟のお母様でもある。

兄と四人姉妹の三女として生まれた佐太郎さんが、なぜ、人間国宝・十一世田中傳左衛門の後継者となったのか。それにはさまざまないきさつが絡んでいるが、彼女の素直で、忍耐強く(おそらく負けず嫌いで)、きわめてストイックな性格が大きく影響しているのかもしれない。

芸や生き方に対するストイシズムは、「舞台は命がけ」という忠雄師とも共通するし、三人の御子息にも受け継がれている。


受け継がれているといえば、「礼を重んじる心」もそのひとつかもしれない。

伝統芸能に携わる方々の多くがそうだけれども、佐太郎さんもとりわけ礼儀を重んじる方で、一番最初に教え、徹底するのが「挨拶」だという。

この箇所を読んで思い出したのが、亀井広忠さんの礼儀正しさだった。

広忠さんは、わたしのような縁もゆかりもないただの一般観客にも、いつもとても丁寧に挨拶をしてくださる。
広忠さんが座っていらっしゃる時に、わたしがたまたま通りかかり、軽く会釈をして通り過ぎようとした時なども、向こうはわざわざ立ち上がって丁寧なお辞儀を返してくだり、恐縮した覚えがある。
硬派で、礼儀正しい、能楽界の高倉健のような方だと思った。


また、個人的にとてもうれしかったのが、佐太郎さんの能楽太鼓のお師匠様が、わたしが偏愛・敬愛する柿本豊次だったこと。

柿本豊次の太鼓はもちろんCDでしか聴いたことがなく、お姿も画像のぼやけた白黒写真でしか拝見したことがなかったが、本書では佐太郎さんの襲名披露公演で、彼女の太鼓後見についた柿本豊次の姿が鮮明に掲載されている。

(ちなみに、この襲名披露公演で大鼓を勤めたのが亀井忠雄師。つまり、この公演は、お二人の馴れ初めともなった記念すべきものでもあったのだ。その申し合わせの写真には、忠雄師を見つめる佐太郎さんの恋する乙女のような表情が写っていて、この写真を観ただけで、結ばれるべくして結ばれたお二人なのがよくわかる。)


柿本豊次は、家の子ではなく、外から入って人間国宝にまで上り詰めた方だが、御自身が大変苦労されただけに、同じ思いをさせたくないと玄人弟子はとらなかった。
だから残念ながら、豊次の芸系は絶えてしまったのだが、佐太郎さんを通じて、三人の御子息にその片鱗が受け継がれているように思う。

柿本豊次から佐太郎さんへ、そして御子息へと受け継がれたものとは、豊次が言っていた「玄人は舞台を楽しんではいけない」という自制心と、おのれの芸への客観的視線なのかもしれない。


この自制心は、佐太郎さんの家庭生活にも及んでいる。
三男・傳次郎さんによると、
「母は、男四人(夫と三兄弟)が食卓についているあいだ、ずっと料理を作って、運んで、よそって……そうやってわれわれが食べ終わったころ、母がようやく食卓につくのです。(中略)母は自分の好きなものを作ったことは、たぶん一度もないんじゃないでしょうか。たまの外食のときでも、店選びは父に任せていますし。なにを食べたいとか、ここに行きたいとか、そういう母の自己主張や好き嫌いを、私は一度も聞いたことがないですね」という。

凄い! の一言である。

常人には到底まねできないが、並みの女では太刀打ちできないようなこういう女性でないと、亀井忠雄師の奥様は勤まらないだろうし、三人の御子息を、ただの玄人ではなく、プロとして「”超”がつく一級品」に育て上げることもできなかったにちがいない。



「(指導者が)手をあげること」について、佐太郎さんは現代社会の風潮に一石を投じる言葉を述べられている。

「あえて誤解を恐れずに言えば、怒りの感情に任せて叩くのはいけないけれど、手をあげて叱らなければならないときがあるのです。」
「それぐらい真剣にやっているんだという覚悟を伝えるために、必要なときがあるのです。」

伝統の継承のなかで、師が弟子に真剣勝負でぶつかっていかなければ、伝わらないことがあるのかもしれない。
「暴力行為とはどんな理由であれ、決して許されるべきではない」とよく言われるが、ほんとうにそうだろうか。

「天下一品の教育者」といわれる佐太郎さんの言葉には含蓄があり、いろいろ考えさせられた。









2018年12月5日水曜日

金剛龍謹《巴》~日本書籍出版協会京都支部・文化講演会

2018年12月1日(土)14時~16時10分 金剛能楽堂
金剛能楽堂ではなく、自宅近くの紅葉。

半能《巴》 シテ 金剛龍謹
    ワキ 有松遼一
    森田保美 林大和 谷口正壽
    後見 廣田幸稔 豊嶋幸洋
    地謡 金剛永謹 豊嶋晃嗣 宇髙竜成 宇髙徳成
    働キ 惣明貞助


金剛流で《巴》を観るのは初めて。
若宗家のお能を拝見するのも初めてだったが、印象的なお舞台で、まだ30歳くらいの方なのにさすが。長刀さばきや所作はもとより、謡が見事で、巴の思いが強く迫ってくる。



【ワキ次第→道行→待謡】
次第の囃子でワキが登場。
半能のため、ワキの次第→名乗り→道行となり、待謡に。

有松遼一さんは、たしか兼業のワキ方さんと聞いていたけれど、ハコビも謡もきれいだし、脇座でじっと座っている姿にも知的な精神性が感じられて、いい役者さんだ。


【シテの登場→ロンギでの型どころ】
後シテの出立は、唐織壺折に白大口、梨打烏帽子に白鉢巻き。手には長刀。
唐織は、美麗な花々に扇面をあしらったゴージャスな装束。
こうした絢爛な装束の選択も金剛流らしい。

面は、巴の健気な性格が強調されたような、愛らしい小面。

義仲の最期の様子が語られるロンギでは、観世流との違いが顕著だった。
(以下は、過去に拝見した片山九郎右衛門さんや味方玄さんの《巴》の型との比較。)

たとえば、薄氷の張る深田にはまって動けなくなったところ。
「手綱にすがって鞭を打てども」の箇所を、観世では両手で手綱に縋りつき、扇で鞭打つ所作であらわしていた。
金剛流では、馬に鞭打つところを、足拍子で表現。

つづく、「前後を忘じて控へ給へり」では、観世では、床几から腰を浮かせて、再び床几に掛かっていた。
それに対し、金剛では、床几から立ち上がって角へ進み、その後、後ずさりして床几のところまで戻ってから座るという、けっこう難度の高い型。


「はや御自害候へ」では、シテは、義仲が見所正面にいる体で、正先で下居して長刀を置き、「巴も供と申せば」で、両手をついてお辞儀。


義仲から形見の刀と小袖をもって木曽に届けるよう命じられると、「涙にむせぶばかりなり」で、巴はシオル。

このシオリが、額に手を近づける通常のシオリではなく、とても印象深い型だった。

シテは顔をグッとうつむけて、顔の下に手を当てる。
小面の瞳から、いまにも、大粒の涙がぽとぽと零れ落ちてくるように。

シオリの角度や位置をわずかに変えるだけで、こんなにも違って見えるなんて。

義仲と運命を共にできなかった巴の無念と心残りが、このシオリに凝集されていて、彼女の悲しみがこちらの胸に深く刻まれた。



【敵の大軍との闘い→義仲との別れ】
シテが、あざやかな長刀さばきで敵軍を追い払い、橋掛りまで攻め込んでいるあいだに、正先には白い小袖が置かれる。

一の松で振り返ったシテは、すでに自害した義仲の遺体を見つけ、驚いて、長刀を投げ捨て、正先まで戻ってくる。

「巴、泣く泣く、賜りて」で、形見の小袖を両手で掲げ、遺体をじっと見つめて暇を告げる。

が、「行けども悲しや行きやらぬ」で、立ち止まり、逡巡し、
「君の名残りをいかにせん」で、名残惜しげに振り返る。


一の松で、シテは下居して物着。
烏帽子、唐織を脱ぎ、白鉢巻きをとって、白装束となったシテは、「小太刀を衣に引き隠し」とあるように、布でくるんだ刀を左手に、笠を右手に持ち、舞台に戻って、笠を掲げながら舞うように舞台を回る。

最後は、小太刀と笠を落として、合掌。
常座で留拍子。


シテの姿から後ろ髪を引かれる思いがにじみ出た、余韻のあるラスト。
いい舞台でした。







2018年12月3日月曜日

日本書籍出版協会京都支部・文化講演会~金剛宗家講演と仕舞

2018年12月1日(土)14時~16時10分 金剛能楽堂
一番手前(一の松)に展示された長絹には、上村松篁筆の鳳凰が描かれている。

第一部・講演「能の魅力」 金剛永謹

第二部 仕舞《井筒》  廣田幸稔
      《笠之段》 豊嶋晃嗣
      豊嶋幸洋 宇髙竜成 宇髙徳成 惣明貞助

半能《巴》 シテ 金剛龍謹
    ワキ 有松遼一
    森田保美 林大和 谷口正壽
    後見 廣田幸稔 豊嶋幸洋
    地謡 金剛永謹 豊嶋晃嗣 宇髙竜成 宇髙徳成
    働キ 惣明貞助




金剛宗家による講演も、若宗家による公演も、濃~い内容で大満足!
金剛流も素敵な流儀ですね。
来年はもっと拝見できればいいな。


講演「能の魅力」 金剛永謹
能の歴史や面装束についての解説。
40分ほどの講演でしたが、鷹揚で品格のある金剛宗家の魅力がギュッと詰まっていて楽しかった。
もっとお話を聞いていたかったくらい。

印象に残ったことだけをザっと書き留めておきます。

能の曲は、これまで3000曲くらい作られてきたが、現在も上演されているのは200曲ほどとのこと。

(つまり、ほとんどが廃曲になり、取捨選択されて残ったのが現行曲。お能の曲にもダーウィンの自然淘汰の原理が働いているのですね。)


室町~桃山時代には、能の作曲が活発な時期だった。
さまざまな曲に対応すべく、能面も70~8種類ほどが創作されてきた。
室町~桃山期に作られた能面は「本面」と呼ばれる。

江戸時代になると、新作能の創作が幕府によって禁止された。
それゆえ、能面も新たな種類が創られなくなり、もっぱら「本面」の「写し」の制作が主流となった。

「本面」と「写し」との違いは、
「本面」には、作者の創作意欲にあふれ、生命力がみなぎっている。
だから、役者に力がないと、面に負けてしまう。


いっぽう、「写し」には創造性が乏しく、生命力に欠ける傾向がある。
しかし、きれいに整ったものが多いため、舞台で使いやすい。


このように能面の説明をした後で、金剛家所蔵の本面の名品を6つの種類別に紹介してくださった。

(1)翁面・白色尉:どこか父尉っぽい顔立ちで、ふつうの翁面ほどには笑っていない。古態を残す翁面だった。

(2)尉面・峻厳な表情をした小牛尉

(3)男面・喝食:少し角度を変えるだけで、豊かな表情を見せる。品行方正で凛とした顔の喝食。

(4)女面:豊麗な「雪の小面」

(5)女の鬼面・般若:般若の面は、上半分と下半分の表情が違う。上半分(目元)は「悲しみ」の表情。下半分(口元)は「怒り」の表情。ワキとのバトルの時、調伏される際は下を向き、逆襲する際は上を向くようにする。

(6)男の鬼面・「鼓悪尉」と「悪尉癋見」:鼓悪尉は《綾鼓》の専用面で、口が空いた「阿」の表情。悪尉癋見は口を閉じた「吽」の表情。「阿」と「吽」の2つの面をそろえることで、悪霊を祓うと考えられた。


以上、本面の物凄い名品を見せてくださったのですが、見やすい席から間近で拝見したので、眼福すぎて胸がいっぱい!

「面金剛」といわれるだけあって、能楽師&能面好き垂涎の名品ぞろい。こうした面たちが、実際の舞台ではどんなふうに見えるのだろう。

喝食や雪の小面、鼓悪尉など、独特の個性があり、それ自体に強い「気」が宿っているから、生半可な役者では太刀打ちできない気がする。そう考えると、なおさら観てみたい。



【仕舞2番】
豊嶋晃嗣さんの舞を観るのはほんとうに久しぶり。
かなりお痩せになったのではないだろうか。
髪型も変わったので、言われないと誰だか分らなかったくらい。
「笠之段」、とてもよかった。

それと、この仕舞の地謡がとてもいい!
「舞金剛」といわれるけれど、わたしは金剛流のこの謡いがすごく好き。
いまの金剛流は「謡金剛」といってもいいんじゃないかな。

〈メモ〉
金剛流は仕舞謡のとき、扇を床と平行になるように寝かせて、膝の上で両手で持つ。



金剛龍謹の半能《巴》につづく





2018年12月1日土曜日

梅若万三郎の《井筒・物着》~松月会

2018年11月23日(金) 大槻能楽堂
松月会・能と囃子~大倉流小鼓の会からのつづき

能《井筒・物着》シテ 梅若万三郎 
    ワキ 福王茂十郎
    赤井啓三 社中の方 河村大
    後見 加藤眞悟 上田貴弘
    地頭 大槻文蔵



今年の個人的ベスト1はまちがいなく、6月に観た万三郎師の《大原御幸》だと思っていた。
でも、同じシテによるこの《井筒》が、同点一位か、それ以上かもしれない。

(曲趣が異なるので比べようもないけれども。それにまだ友枝昭世さんの《藤戸》があるから、順位が変動するかも。)

おそらくこの日の序ノ舞は、生涯忘れないだろう。
忘れたくない、何度も反芻して、何度も、何度も、心のなかに蘇らせたい舞だった。


【前場】
橋掛りをゆくシテのハコビに、足腰の衰えを強く感じる。

しかし、常座にスッと立つ姿は、さざ波さえ立たない、鏡面のような湖の静けさ。
ことばを絶する美しさで、女は、ただ、そこに立っている。

シテの姿も謡も、これまで観たどの井筒の女よりも抽象的だった。

そこには、シテ自身の作為や演出はなにも感じられず、「役になりきる」とか、「役の気持ちで演じる」などという要素は一切ない。

年齢や肉体の衰えに応じたさまざまな工夫も、かぎりなく自由な、無為自然のあり方のように見えた。

余計な要素をすべて排した高い抽象性ゆえに、シテの存在そのものが観る者の想像力を刺激する。

シテの佇まいから連想される、思いや、面影や、記憶のかけらが、無秩序に立ち現れては消えてゆく。

そして、それらがコラージュのようにわたしの心のなかで結合し、解体され、再構築されて、万三郎の《井筒》の世界を有機的に描き出していった。



【序ノ舞】
動きは最小限

無駄な動作、無駄な力を、かぎりなく、極限まで削ぎ落とした序ノ舞。
二段オロシでもシテは袖を被くことなく、袖をふわりと巻いただけ。

華麗優美な色彩に染まっていた芸が、時を経て、褪色に褪色を重ねた果てに、完全に色が抜け、最後に残った薄墨のゆるやかな線。

それは、真っ白な状態から描いた墨絵ではない。
あでやかな色彩が抜けたあとに残る、紗のかかったような色艶がうっすらと透けている。

美しい影、その気配だけが、残り香だけが、舞っている。


この精妙な舞は、言葉であらわすべきではないのかもしれない。
言葉であらわせばあらわすほど、この日の序ノ舞から乖離して、遠ざかってしまう。

妙なる花が風に舞う趣き、それを世阿弥は「妙花風」と名づけた。
言語も意味も及ばない世界。
この舞こそが、そうなのかもしれない。


シテが舞っているのか、それを観ている自分の魂が舞っているのか。
最後には、その区別さえつかなくなり、ただ、ひたすら、うすく滲んだ舞の美のなかに耽溺し、じんわりとこみ上げてくる幸福感に身を浸していた。








松月会・能と囃子~大倉流小鼓の会

2018年11月23日(金) 大槻能楽堂
(拝見したもののみ記載)
舞囃子《小袖曽我》上田顕崇&上田宜照
    斉藤敦 社中の方 辻雅之

   《放下増》斉藤信輔
    貞光智宣 社中の方 上野義雄

   《自然居士》赤松禎友
    斉藤敦 社中の方 河村大

   《松虫》斉藤信隆
    貞光智宣 社中の方 上野義雄

   《高砂》 大槻裕一
    斉藤敦 社中の方 河村大 中田一葉

   《屋島》 寺澤幸裕
    貞光智宣 社中の方 辻芳昭

能《井筒・物着》シテ 梅若万三郎 
    ワキ 福王茂十郎
    赤井啓三 社中の方 河村大
    後見 加藤眞悟 上田貴弘
    地頭 大槻文蔵

舞囃子《安宅・延年之舞》上田貴弘
    野口亮 社中の方 山本哲也

   《葛城・大和舞》大槻文蔵
    赤井啓三 社中の方 辻芳昭 上田悟

   《弱法師・盲目之舞》久田勘鷗→上田拓司
    赤井啓三 社中の方 山本哲也

番囃子《正尊・起請文》シテ正尊 大槻文蔵
    義経 寺澤幸裕 姉和 大槻裕一 静 寺澤杏海
    弁慶 福王茂十郎
    野口亮 社中の方 辻芳昭 上田悟

舞囃子《善知鳥・翔入》長山禮三郎→観世喜正
    赤井啓三 社中の方 山本哲也

   《養老・五段》大西礼久
    野口亮 社中の方 辻芳昭 上田悟

半能《融・舞返》シテ観世喜正
   ワキ 江崎正左衛門
   野口亮 社中の方 山本哲也 中田弘美

ほかにも能《岩船》や一調、独鼓など盛りだくさん。




阪神の能楽師さんについてはほとんど存じ上げなかったから、こうした会は願ってもない機会。
まさに芸のテイスティング! 
社中の方々も音色のみならず掛け声もうまい方が多く、とくに一調・能・番囃子をされた方々は見事でした。


以下は単なる個人的メモ。

舞囃子《小袖曽我》上田顕崇&上田宜照
リアルご兄弟なので息が合っている。
上田宜照さんは型がきれい。
お二人とも若い女性ファンが多そう。


舞囃子《自然居士》赤松禎友
文蔵師の腹心、片腕のような方だけあって、芸風も文蔵師に似て折り目正しい。
いつもシリアスなお顔をされているが、プライベートでもそうなのだろうか。


舞囃子《松虫》斉藤信隆
豊かでたっぷりした、円熟期の舞。
こういうベテラン世代のうまい方って、関西ではなかなかいらっしゃらないので、貴重な存在だ。
機会があれば、お舞台を拝見したい。


舞囃子《高砂》 大槻裕一
若竹のように勢いのある清々しい高砂。
これから何度もこの方の高砂を拝見する機会があるだろうから、どう変化していくかが楽しみ。


舞囃子《屋島》寺澤幸裕
キリリッと引き締まったカッコいい《屋島》。
心惹かれる舞囃子だった。
来年あたり、この方の舞台も観てみたい。



能《井筒・物着》シテ 梅若万三郎 
万三郎氏の舞台については別記事に記載します。



舞囃子《葛城・大和舞》大槻文蔵
文蔵師については、舞はもちろんきれいだし、もしも好きになれたら関西での観能の幅が広がるだろうと思い、これまでも何度かチャレンジしてきた。
しかし、どうしてもこの方の謡が自分には合わなくて、謡に阻まれていた。

(あと、舞があまりにも完璧で非の打ちどころがないため、心に何も刺さらずに、心地よくサラサラと流れていくのが、いまひとつ入り込めない理由の一つだった。)

それがこの日、なんとなくだけれど、はじめてこの方の芸の魅力にほんの少し開眼したような気がした。

大和舞にはこれまでになくのめり込めたし、最後に正先で幣を振るところでは心底ゾクッとした。

阪神には良い囃子方さんが多い。
赤井啓三さんの笛も好きだし、上田悟さんの太鼓もよかった。



番囃子《正尊・起請文》シテ正尊 大槻文蔵
この《正尊》の番囃子、素晴らしかった!
正尊と弁慶との掛け合い。起請文。
文蔵師のだみ声に近い声質の渋い味わい。
自分には合わないと思っていた文蔵師の謡の、黒楽茶碗のような深みのある鈍い光り。

文蔵師の声質や謡には、鬘物などよりも、こういう曲のほうが合っているのかもしれない。
悟りを得たように泰然とした文蔵師の物腰にも見入ってしまった。

やはり食わず嫌いではいけないですね。
徐々に観る機会を増やしていかなくては。


社中の方は小鼓の音色だけでなく、構えがとても美しい方だった。
野口亮さんの笛も好み。



半能《融・舞返》シテ観世喜正
喜正さんのシテを拝見するのはどれくらいぶりだろう。
《杜若・恋之舞》を観て以来かもしれない。

《融・舞返》にぴったりのキレのあるスピーディな舞で、中堅真っただ中の、現在の喜正さんの技と芸の魅力を存分に楽しむことができた。

融の亡霊が、黒垂をつけているのもよかった。

初冠に中将の面には、ぜったいに黒垂が似合う!!と思う。
黒垂なしの初冠の出立の時もあるけれど、あれはどうしようもなく間の抜けた感じになって、せっかく良い舞台でも、興ざめしてしまうもの。

ほかのシテ方さんたちも、お願いします。
貴公子の出立のときは、どうか、黒垂をつけてください。


社中の方も、あの早舞と舞返の超早送り的スピードで打つ小鼓が、超絶にカッコよく、プロの囃子方さんも最高で、この舞台は地謡も、お囃子も、シテも見事だった。


このあとも、盛りだくさんな内容が続き、最後の寺澤拓海さんの能《岩船》もとても観たかったのですが、《融》で退席しました。
(半能《融》の終了時点で7時くらい。松月会は9時近くまで続いたそうです。)


梅若万三郎の能《井筒・物着》につづく








2018年11月29日木曜日

箕面大滝

2018年11月28日(水) 明治の森箕面国定公園
母のリクエストで箕面へ。
落差33メートルの大滝は、ぼーっと見ているだけでリフレッシュできます。




やっぱり、紅葉の名所だけあってきれい。



母は、夏に腰を痛めてほとんど歩けないほどだったのですが、すっかり元どおりの健脚に。この日の歩数は1万4000歩。 
母を治してくださった神様に感謝です!!


おサルさんもいました。
いまは、おサルさんたちを「野生」に戻すために、条例で餌やりが禁止されています。

(昔はお弁当を食べていると襲ってきたり、もみじの天ぷらをかっさらったりと、おサルさんのトラブルが多かったそうです。でもいまは、おサルさんと人間との良い共生関係ができつつあるみたい。)

自力で食べ物を探しているのでしょうか。
毛並みも良く、ころころした肉付き。着々と冬の準備をしているようです。





今年の紅葉は木がだめらしく、紅く色づく前に、茶色に枯れてしまうものも少なくないようです。度重なる異常気象のせいでしょうか。
↑の左手前の紅葉も、赤くならずに、青紅葉が茶色に変色しています。



平日なので人出もそれほど多くなく、ちょうどいいくらい。



台風21号の爪痕。
杉の木が何本も根こそぎ倒れていました。

いまは通行止めが一時解除中ですが、紅葉シーズンが終わると、崩落した山道・滝道の復旧工事が再会されるそうです。













2018年11月27日火曜日

片山九郎右衛門の《海士》~能と狂言の会・国際交流の夕べ

2018年11月20日(火)18時30分~20時45分 京都観世会館
観世会館近くの京都写真美術館。たまにのぞいてみると面白い作品に出会える。

能《海士》海士/龍女 片山九郎右衛門
    藤原房前 片山峻佑
    ワキ 福王知登 是川雅彦 喜多雅人
    アイ浦の男 茂山逸平
    後見 河村博重 味方玄
    地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 片山伸吾
       田茂井廣道 大江信行 橋本忠樹 梅田嘉宏



やっぱり、舞衣姿で舞う九郎右衛門さんの早舞は最高!
今年も九郎右衛門さんの数々の素敵な舞台を拝見したが、そのなかでもいちばん感動した。これこそ言葉の壁を飛び越えて、圧倒的な美の力で観る者を魅了する、当代屈指の舞台だった。


【前場】
冒頭、藤原房前一行が、讃岐国志度浦を訪れる。
片山峻佑さんは「芸筋が良い」子方さん。
房前役にふさわしい威厳を品格が漂うハコビと立ち居振る舞い。落ち着いた物腰。それに謡もうまい。将来が楽しみな子方さんだ。

一声の囃子で登場した前シテは、白地摺箔に笹柄の紫縫箔腰巻に、青みがかった墨色の縷水衣という出立。
右手には鎌、左手には杉葉(みるめ)。
深井の面は遠目で観ると若く美しいが、近くで見ると、深く憂いのある陰翳が刻まれている。

浦の海女だという女は、従者に問われるままに、昔、藤原不比等がこの地を訪れ、「面向不背の珠」を龍王から奪還すべく、海女乙女を契りを結び、房前大臣が生まれたことを話す。

これを聞いて驚いた子方・房前が、「やあ、これこそ房前の大臣よ」と名乗ったときの、前シテの表情━━。

目の前にいるのがわが子だと知った時の、母の驚きと感動。
それを表現する所作は、けっして写実的なものではなく、型を忠実に踏襲しているだけである。
しかし、シテの全身から愛情深い母性が熱い湯気のように立ち昇り、オキシトシンが脳内で大量分泌されているのが感じ取れるほど、なんともいえない、慈愛に満ちた表情を浮かべている。

硬質であるはずの能面の、やわらかな表情の動き、目や口元のやさしく柔和な緩み。

物腰や所作のごく微妙な変化だけで、冷たい能面が、こんなにもしっとりと包み込むような、豊かな母の表情を浮かべられるものだろうか。

おそらくシテには、さまざまな人物の心理・心の動きの引き出しがたくさんあって、そこから役柄に応じた心模様を選び出しているのかもしれない。
そしてそれを、高い技術で表現できる人なのだろう。



〈玉之段〉
驚いたのが、「大悲の利剣を額に当て、龍宮の中に飛び入れば」で、パッと飛び込むところ。

シテは、ヒラリと身を躍らせて宙高く飛び上がったかと思うと、音も振動もないまま、ヒタリと静かに着地した。
着地の際に音だけでなく、わずかな振動もないなんて……まるで忍者の特撮かCG映像のよう。人間業ではなかった。


乳の下を掻き切る場面は、8月の仕舞「玉之段」ではほとんど涼しい顔をして、すーっと真一文字に胸の下を扇で斬ったが、この日は、グサリッと胸を抉るように突き刺す、リアルな表現。
外国籍の人にも視覚的にわかりやすいよう、迫真性を高めた「玉之段」だった。


中入前、シテは「この筆の後を御覧じて、普請をなさで弔へや」で、文に見立てた扇を子方に渡す。
そして「波の底に沈みけり」で、海の底に沈んでいくように、立ち姿から徐々に身を沈め、常座で下居。
送り笛に送られながら、橋掛りをゆっくりと去っていった。


【後場】
出端の囃子で登場した後シテは、白地に金で唐草模様をあしらった舞衣に、花七宝の紋大口、頭には見事な龍戴、左手に経巻。
面は、どこか物問いたげな泥眼。

3年前、九郎右衛門さんの後シテで、能楽座自主公演の《海士・解脱之伝》を観た(前シテは銕之丞さん)。
あの時は蓮花の天冠を被り、小書にふさわしい解脱感、狩野芳崖の悲母観音のような菩薩感が強く、この世ならぬ神々しい光に輝いていた。

この日の後シテにはまだ人間味があり、生身の女性のもつ潤いのある母性本能を感じさせた。

シテは、子方に経巻を手渡し、わが子がそれを読誦するあいだ、悲しげにシオリながら、常座へ至り、振り返って子方を見つめる。

そこから達拝となり、盤渉早舞へ。

ここからはもう、頭では何も考えない、感覚だけの世界。
どこまでも無限に広がる舞の美のなかに、ただ心地よく身をゆだね、魂が溶けてゆく感覚。

シテが袖をひるがえすたびに、悲しみの雫のようなものがパッとはじけ、シャボン玉のように消えてゆく。

ただ美しいだけではない、一抹の悲しみと翳りのある龍女の舞。

早舞三段目の途中から、シテは橋掛りへ行き、三の松で、風に舞う花びらのように、クルクル、クルクル、とまわり、しばし佇む。

お囃子も止んだ、完全なる静止、完全なる静寂。
余情をたたえた美しい「間」。

この余白のなかに、観客は龍女の思い、胸のうちを夢想し、舞台と観客の想像力の相乗効果で、一人一人のなかに、オリジナルな《海士》が創られてゆく。

囃子の総ナガシで、橋掛りから舞台に戻った龍女からは、あらゆる迷いも、人間的な苦悩も、すべて消え去り、冴え冴えとした光に包まれていた。








2018年11月26日月曜日

能と狂言の会~国際交流の夕べ

2018年11月20日(火)18時30分~20時45分  京都観世会館
桜紅葉が散り残った晩秋の白川。

狂言《墨塗》大名 茂山千作
    太郎冠者 茂山茂 女 茂山千五郎
    後見 島田洋海

能《海士》海士/龍女 片山九郎右衛門
    藤原房前 片山峻佑
    ワキ 福王知登 是川雅彦 喜多雅人
    アイ浦の男 茂山逸平
    後見 河村博重 味方玄
    地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 片山伸吾
       田茂井廣道 大江信行 橋本忠樹 梅田嘉宏


国際交流基金が主催しているだけあって、観客の7割以上が外国籍の方々。
狂言と能それぞれの終演後、何人かに感想をうかがったところ、狂言については、"It's interesting!""It's so simple, but so nice!" 能については、"It's so beautiful! I LOVE this art!!" といった感想が多く、かなりの好感触。


問題となる言葉の障壁に関しては、《墨塗》と《海士》の英訳シノプシスと、1960年に出版された『JAPANESE NOH DRAMA』から抜粋された《海士》のあらすじと詞章の英訳&詳しい注釈の英訳が配布され、外国籍の方々も、古語で書かれた詞章の意味がよく分からない日本人ビギナーと同じような状態で鑑賞できたのではないかなー。


狂言《墨塗》は言葉の意味は分からなくとも、あらすじさえ押さえておけばビジュアル的に可笑しみが伝わるから、良い選曲だった。
茂山家の芸風も、笑いのツボを全身で表現する上方的笑劇の要素を多分に含んでいて、声もよく通って大きいし、外国人受けしやすいように思った(ふだんよりも演技に誇張が加わったように感じたけれど、それは致し方ないのかも→山本東次郎さんなら目くじらを立てるだろうけど)。


このところ、千作さんの体調が悪そうなのがちょっと気になる。かなり無理をして舞台に立っていらっしゃるのかもしれない。



ところで、愛知県の岡崎信用金庫が毎月発行している『Monthly Report(経済月報)』11月号を観世会館でいただいた。
40ページ以上にわたり、片山家と京舞井上流の特集が組まれていて、信用金庫の広報誌としては異例の扱い。
九郎右衛門さんと井上八千代さんのそれぞれのロングインタビューのほか、今年7月に催された能装束・能面展の展示品の一部図版、能の歴史や曲の解説など、驚くほど充実した内容だった。

こんなにすばらしいメセナ活動をする信用金庫が愛知県にあるんですね。
めちゃくちゃ、イメージアップじゃないですか。
こういう企業や金融機関が増えてほしいな。


能《海士》につづく