「降誕会祝賀能をより楽しむために」片山九郎右衛門
修復のため南能舞台の塀が撤去されていた。 画像は、橋掛り越しに書院を眺めたところ |
(書院にて)
(2)本年の演目解説
・開演前の”触れ”について
・能《田村》について
能面「童子」「平太」の紹介
・狂言《延命袋》について
・能《百万》について
能面「曲見」「深井」の紹介
(南能舞台にて)
(3)仕舞《田村キリ》
(書院にて)
(4)《田村》謡の稽古
「今もその名に流れたる」から「おそかなるべしや」
(舞台と書院で)
(5)参加者の連吟で仕舞《田村》を実演
国宝・浪之間玄関の檜皮葺の屋根も無残な状態に |
能《歌占》や《船橋》を見逃したのはとても残念でしたが、平成最後に九郎右衛門さんの仕舞を南舞台で拝見し、謡のお稽古を国宝・対面所(鴻之間)で体験できて、めっちゃ幸せ♪ 一生の思い出になりそう。
わたしの隣に座った女性はお能を観るのははじめてだったそうですが、終演後、とても楽しまれた御様子で「素敵な方ね」と九郎右衛門さんについてもおっしゃっていて、なんだかこちらも嬉しい気分。
それにしても、昨年の降誕会祝賀能の際の拙ブログ画像と比べると、文化財建築物の塀や屋根など、あちこちで地震・台風・大雨の爪痕が生々しく残っていて、復興の大変さをあらためて実感します。檜皮葺などは原皮師が減少して、檜油を含んだ上質の檜皮を得るのさえ困難だろうし。。。
九郎右衛門さんのインタビュー記事が載った冊子 |
さて、いつもながら楽しいお話が満載だったのですが、いちばん印象に残ったのが、能《田村》の前場についての解説。要約すると;
前場で使われる「童子」の面は、少年の風貌に大人の知謀を兼ね備えた不思議な存在というイメージ、護法童子のようなイメージであらわされる。
前場で童子が箒をもって現れるのは、桜の橋で天と地をつなぐことのできた少年が玉箒を掃きながら向こう側に渡ってゆく伝説がその背景にあるからではないか。
坂上田村麿はほんとうは心優しい人なので、蝦夷の指導者・アテルイとの約束を破ったことについても心を痛めている部分があったのだろう。だから、伝説の少年のように玉箒で清めながらいつかそれを橋に見立てて向こうへ行ってしまいたいという願望を抱いていて、それが前場のような形で表われたのではないだろうか。
という趣旨のことを九郎右衛門さんはおっしゃっていた。
登場人物の内面に深く入り込んだ、ロマンティックな解釈。愛があるよね。能の主人公や登場人物にたいして、身近な存在のように優しいまなざしでみつめている。九郎右衛門さんが語ると、そのキャラクターが自分と同じ悩みや苦しみをもつ血の通った存在として息づいてくる。
講座は70分だけど、物凄く濃い内容。
《田村》の仕舞を二度も舞ってくださった。
最初はキリ。書院から南能舞台まで(けっこう離れている距離)を往復し、橋掛りを歩きながらもいろいろ解説して、さらに舞台では、一人で舞って謡って何役もこなす、というハードさ。
二度目は、清水寺縁起の箇所の謡のお稽古のあと、書院にいる参加者全員が習ったばかりの謡を連吟。それに合わせて、九郎右衛門さんが南能舞台で舞う、というもの。
簡単には覚えられなかったけれど、とにかく、仕舞を舞う九郎右衛門さんまでどうか届け!!と念じながら、渾身の力を込めて謡いました! 全身で謡うのは気持ちいい!
自分たちの謡で、あこがれの方が舞ってくださるなんて夢のよう。
平成最後の素敵な思い出。
九郎右衛門さんと西本願寺さんに感謝!
(このあと、九郎右衛門さんは観世会館に舞い戻って《熊野》の後見を勤められたのでしょう。ほんと、ハードだ。。。)
西本願寺の門前には仏壇関係のお店が軒を並べる。
その先にある特色ある建物が、本願寺伝道院。
本願寺伝道院、明治45(1912)年竣工、伊東忠太設計 |
大きなドームの下には、イスラム建築風の窓。こういうところは、同じく伊東忠太設計の築地本願寺に似ている。ドームのまわりを欄干が取り囲む装飾も特徴的。
ロマネスク風の幻獣たち。
こちらはグリフォンっぽい。
羽根の生えたゾウさん。