2016年3月26日(土) 10時~17時 矢来能楽堂
番外仕舞《猩々》 林喜右衛門
地謡 林宗一郎 河村晴久 河村晴道 味方團
田茂井廣道 松野浩行 河村浩太郎 樹下千慧
(ほかに仕舞、素謡、独吟、独調など盛りだくさん)
2時ごろの仕舞《定家》から拝見しました。
こういう社中会は東京で林一門の芸を拝見できる貴重な機会。
社中会にうかがうのはこれで3度目くらいなので、
ようやく門下の方々のお顔とお名前が一致してきたかも。
(人の顔と名前を覚えるのが不得手なのです……。)
リニューアルした矢来は初めて。座席のあいだが広くなってスッキリ。
こども教室の発表もあってチビッコたちが元気に走り回っていたのですが、わたしの席の前をお子さんたちが追いかけっこをしながら通り抜けても、こちらが足先をひょいと座席の下に引っ込めれば、ぶつかることなくスルリと通れるくらい。
矢来のシックでレトロな雰囲気はそのままで心地良く鑑賞できるので、うまく設計されているなーと感心したものです。
で、肝心の社中会。
社中の方々、皆さんレベルが高くて、曲に集中しつつ楽しみながら舞っていらっしゃるのが伝わってきました。
そして何よりも、林一門の地謡が味わい深い。
矢来なので音響の良さも相まって、その清澄で華やかな謡いに
うっとりと聴き惚れる、聴き惚れる……。
同じ京観世でも、片山家とは少し趣きが異なるのですね。
幽雪師時代の片山家の謡は存じ上げないのですが、
当代九郎右衛門さんの謡はどちらかというと幽雪師よりも、
(CDなどで聴く)八世銕之丞の謡いに近いようにわたしには感じられます。
それに九郎右衛門さんは東京で地謡に入る機会も多いので、
東京観世流の謡が大分混じっているように思うのですが、
林一門の謡は、わたしがイメージする「ザ・京観世」の謡い。
祇園白川の宵桜、水面に花びらがはらはらと舞う風情なのです。
(あくまで京都の観世流のことをあまり知らない人間の独断と偏見ですので、
トンチンカンな感想でもご容赦を。)
そんなわけで林一門の香しい謡を存分に堪能したあとは、
お待ちかねの喜右衛門師の番外仕舞。
肩の力が抜けた、洗練の極みのような舞姿はどこか万三郎師を思わせる。
もちろんそれぞれ芸風は異なるけれど、
喜右衛門師も万三郎師と同様、
感情を過剰に表現したり、物語を説明的に演じたりするようなクドさがない。
純度の高い抽象的な舞。
世阿弥のいう、閑花風に入る芸境といえばいいのか。
銀の椀に雪を積む、白雪のような輝き。
喜右衛門師のお能は拝見したことがないので、ぜひ観てみたい。
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2016年3月28日月曜日
2016年3月23日水曜日
神遊 20周年第50回記念 最終公演《姨捨》後場
神遊 20周年第50回記念 最終公演《姨捨》前場からのつづき
アイ里人 山本泰太郎
一噌隆之 観世新九郎 柿原弘和 観世元伯
後見 観世清和 観世喜之 奥川恒治
地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 片山九郎右衛門 山崎正道
馬野正基 味方玄 坂真太郎 坂口貴信
【一声】
幕があがり、その空間の裂け目から白い蝶が羽化するように、
ゆっくり、そうっと、そうっと、
神聖な儀式のごとく厳かに歩みを運び、後シテの老女が現れる。
喜正さんの御本を拝読した時から憧れていた廿八宿星長絹が、
金色の月の光を受けてみずから耀き、
銀泥で捺染された星々が神秘的な光を放っている。
その息を呑むような美しさはゴッホの《ローヌ川の星降る夜》を思わせる。
冷たく蒼い星空が美しければ美しいほど画家の孤独や悲しみが際立つように、
老女の姿が光り輝くほど、彼女の言い知れぬ胸の内が偲ばれる。
蜻蛉の翅のように儚く透き通る、繊細な白い紗の長絹。
矢来観世家が銕之丞家から分家する際に贈られたという明治期のこの装束は、喜正さんには裄丈が短く、肘・膝をかなり折り曲げたまま着けていらっしゃるのかもしれないけれど(これは肉体的に相当大変なことだと思う)、観ていて違和感はなく、装束と姥の面をつけた後シテは、更級の月の精のように清らかな老女が舞台に顕現した姿に見えた。
【クリ・サシ・クセ】
老若男女・貴賎を問わず、世界をあまねく照らす無辺光の有り難さ。
強吟・弱吟を織り交ぜて謡いあげられた極楽浄土の世界。
最強の地謡陣の謡によって観る者の五感が刺激され、
玉の楼閣を吹き抜ける糸竹の調べや
宝の池を縁取る並木の花々と芳香、迦陵頻伽の妙なる声が、
仮想現実のように浮かび上がる。
老女が語った浄土のありさまは、
凍死寸前のマッチ売りの少女がマッチを擦って見た光景のように
老女が飢えと孤独と衰弱のなかで目にした幻影のようにわたしには思われた。
【序ノ舞】
「昔恋しき夜遊の袖」で太鼓が入り、
その音色が雲間から射す月光のように凛然と響き渡ると、
場の空気がいっそう静まり、舞台が別の次元へと高められてゆく。
5人の20年が結晶した序の舞の「序」。
それぞれがそれぞれに呼応し、
脈動するようにほんの少し上下するシテの足先が、
老女の幽かな生命力をほのめかすよう。
二段に入り、シテは角で扇を左手に持ち替え、
そのまま左に回りこんで太鼓前で安座。
左手に抱え込んだ開いた扇に、水鏡のように月を映し込み、
しばしうっとりと眺め、陶然とした表情を浮かべる。
やがて扇に映じた月のなかに
幼い甥を育てた日々が浮かび上がったかのように、
懐かしげに扇をじいっと見入る。
そして、扇から顔をそむけるように右(脇正)を向いて、
絶望とも諦念ともつかない、名状しがたい表情を浮かべる。
月の満ち欠けのごとき世の無常、人の心の移り変わりを受け入れつつも嘆き、
やるせない妄執の念に苦悶するかのように。
この弄月之型で姥の面は奇跡のように息づき、
雄弁な表情で、見る者の感情と想像力をさまざまに掻き立てる。
無機物を有機的に操るシテの精妙な面の扱いに圧倒された。
老女が浮かべたあの表情は今でも胸を締めつける。
満点の星空のもと、
手が届きそうなほど大きくて近い姨捨山の月に照らされて
老女は静かに舞う。
悲しくて、孤独で、孤独で、孤独で、そして幸せな境地。
やがて空が白みはじめ、老女の姿は薄らいで透明になり、
立ち去る旅人たちを彼女はひとり見送る。
ひとり捨てられて老女が
昔こそあらめ今もまた姨捨山とぞなりにける
老女は正中ですうっと静かに下居して、
両手を前で合わせて終演。
ありがとう、そして、
さようなら、神遊。
能《姨捨》シテ里女/老女 観世喜正
ワキ都人 宝生欣哉 ワキツレ大日方寛 御厨誠吾アイ里人 山本泰太郎
一噌隆之 観世新九郎 柿原弘和 観世元伯
後見 観世清和 観世喜之 奥川恒治
地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 片山九郎右衛門 山崎正道
馬野正基 味方玄 坂真太郎 坂口貴信
【一声】
幕があがり、その空間の裂け目から白い蝶が羽化するように、
ゆっくり、そうっと、そうっと、
神聖な儀式のごとく厳かに歩みを運び、後シテの老女が現れる。
喜正さんの御本を拝読した時から憧れていた廿八宿星長絹が、
金色の月の光を受けてみずから耀き、
銀泥で捺染された星々が神秘的な光を放っている。
その息を呑むような美しさはゴッホの《ローヌ川の星降る夜》を思わせる。
冷たく蒼い星空が美しければ美しいほど画家の孤独や悲しみが際立つように、
老女の姿が光り輝くほど、彼女の言い知れぬ胸の内が偲ばれる。
蜻蛉の翅のように儚く透き通る、繊細な白い紗の長絹。
矢来観世家が銕之丞家から分家する際に贈られたという明治期のこの装束は、喜正さんには裄丈が短く、肘・膝をかなり折り曲げたまま着けていらっしゃるのかもしれないけれど(これは肉体的に相当大変なことだと思う)、観ていて違和感はなく、装束と姥の面をつけた後シテは、更級の月の精のように清らかな老女が舞台に顕現した姿に見えた。
【クリ・サシ・クセ】
老若男女・貴賎を問わず、世界をあまねく照らす無辺光の有り難さ。
強吟・弱吟を織り交ぜて謡いあげられた極楽浄土の世界。
最強の地謡陣の謡によって観る者の五感が刺激され、
玉の楼閣を吹き抜ける糸竹の調べや
宝の池を縁取る並木の花々と芳香、迦陵頻伽の妙なる声が、
仮想現実のように浮かび上がる。
老女が語った浄土のありさまは、
凍死寸前のマッチ売りの少女がマッチを擦って見た光景のように
老女が飢えと孤独と衰弱のなかで目にした幻影のようにわたしには思われた。
【序ノ舞】
「昔恋しき夜遊の袖」で太鼓が入り、
その音色が雲間から射す月光のように凛然と響き渡ると、
場の空気がいっそう静まり、舞台が別の次元へと高められてゆく。
5人の20年が結晶した序の舞の「序」。
それぞれがそれぞれに呼応し、
脈動するようにほんの少し上下するシテの足先が、
老女の幽かな生命力をほのめかすよう。
二段に入り、シテは角で扇を左手に持ち替え、
そのまま左に回りこんで太鼓前で安座。
左手に抱え込んだ開いた扇に、水鏡のように月を映し込み、
しばしうっとりと眺め、陶然とした表情を浮かべる。
やがて扇に映じた月のなかに
幼い甥を育てた日々が浮かび上がったかのように、
懐かしげに扇をじいっと見入る。
そして、扇から顔をそむけるように右(脇正)を向いて、
絶望とも諦念ともつかない、名状しがたい表情を浮かべる。
月の満ち欠けのごとき世の無常、人の心の移り変わりを受け入れつつも嘆き、
やるせない妄執の念に苦悶するかのように。
この弄月之型で姥の面は奇跡のように息づき、
雄弁な表情で、見る者の感情と想像力をさまざまに掻き立てる。
無機物を有機的に操るシテの精妙な面の扱いに圧倒された。
老女が浮かべたあの表情は今でも胸を締めつける。
満点の星空のもと、
手が届きそうなほど大きくて近い姨捨山の月に照らされて
老女は静かに舞う。
悲しくて、孤独で、孤独で、孤独で、そして幸せな境地。
やがて空が白みはじめ、老女の姿は薄らいで透明になり、
立ち去る旅人たちを彼女はひとり見送る。
ひとり捨てられて老女が
昔こそあらめ今もまた姨捨山とぞなりにける
老女は正中ですうっと静かに下居して、
両手を前で合わせて終演。
ありがとう、そして、
さようなら、神遊。
2016年3月22日火曜日
神遊 20周年第50回記念 最終公演《姨捨》前場
神遊 20周年第50回記念最終公演・仕舞・一調・狂言《土筆》からのつづき
アイ里人 山本泰太郎
一噌隆之 観世新九郎 柿原弘和 観世元伯
後見 観世清和 観世喜之 奥川恒治
地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 片山九郎右衛門 山崎正道
馬野正基 味方玄 坂真太郎 坂口貴信
【次第】
長裃姿で重々しく登場した囃子方。
舞台上の緊迫感・緊張感が見る側にも伝わってきて、こちらも目眩がしそうなほど胸がどきどきする。
静かな熱気のこもった次第の囃子に乗って、ワキ・ワキツレが登場。
ワキが下宝生になると
謡曲集などに収録されている詞章(「都方に住居仕る者にて候」)とは違って、
「これは陸奥しのぶ何某にて候、われ久しく都に候ひて、洛陽の寺社名所旧跡四季折節の風情残りなく一見仕りて候」となり、みちのく出身だが在京期間の長い「都の者」という複雑なアイデンティティに変わり、僧侶でもない職業・身分不詳の謎の風流人という設定になる。
笠を目深に被ったワキは彼自身も暗い過去を背負っているかのように、
いわくありげな深い陰翳を感じさせる。
【シテの登場】
姨捨山に到着したワキ一行。
どこまでも果てしなく広がる大空が間近に迫る壮大な風景。
ここでこのまま日没を待ち、名月を眺めようと胸を躍らせていると、
草木の影もなく、山路も見えない方角から女の声が聞こえてくる。
幕の奥から「の~うの~う」と低い声が響き、シテの姿が橋掛りに現れたのはだいぶ間があってから。
シテの存在感が強調される。
出立は渋い金と鈍色地のシックな段替唐織に、
面は深井だろうか、増かと見紛うほど若くて端麗な女面。
《姨捨》の前シテの位置づけは難しい。
幼い甥を育てていたころの、老女の若き日のイメージを彷彿とさせながらも、その姿をあまりにも忠実に再現すると「草衣しをたれて」のようなボロボロの衣裳をつけなければならないから、能では豪華な装束と美しい面をつけて、鄙びた中年女性賤しさという写実性は一切見せない。
前シテの姿に、老女本来の「老い」のイメージをどれだけ投影すべきなのだろう。
この疑問に喜正さんは滑らかさを抑えた重みのあるハコビと、かすれ気味の謡などの繊細緻密な工夫で応えていたように思う。
橋掛りを進むシテにワキは、かつて姨捨山に老女が捨てられたそうですが、その跡はどこでしょうか、と尋ねる。
シテは幕のほうを振り返り、この高い桂の木の蔭こそ姨捨の場所、ここにそのまま亡骸が埋もれていますと答える。
シテが一の松、ワキが脇座に立ち、
両者が掛け合いのなかで同じ空気に溶け込み、
心を通わせたところで、初同。
この地謡が凄かった!!
豪華すぎるほど豪華な地謡で、無駄に豪華な地謡だと裏目に出る場合もあるのですが、さすがは玄祥師。
謡による抜群の人心掌握術で観客の心をとろかし、ハートを鷲づかみにして、さらにガンガン揺さぶりをかけてくる。
荒涼とした景色と、詞章によって暗示されたシテの深い孤独がひしひしと伝わり、
もう初同の段階で涙があふれてきて、ほとんど感涙のフライング。
(泣くと視界が滲んで舞台が見えなくなるので)、まだ早い、泣いちゃダメ、と自分に言い聞かせながら涙を抑えるのに苦労しました。
シテは、後ほど月とともに現れて、あなた方の夜遊をお慰めましょうと言い残し、夕暮れの木の蔭に姿を消す。
神遊 20周年第50回記念 最終公演《姨捨》後場につづく
付記1
《姨捨》ついては、「月に見ゆるも恥ずかしや」部分の演技について世阿弥が言及した内容が『申楽談儀』に記されていることから一般的に世阿弥作とされているけれど、
「露」や「なかなか」、「身」、「袖を返す」など、禅竹好みのことばが後場にちりばめられ、最後も「姨捨山とぞなりにける」と、禅竹作品に特徴的な円環構造を示していることから、世阿弥の原作に禅竹が手を加えた可能性も捨てきれないなーと個人的には思っています。
付記2
老女の墓標である桂の木の作り物を大小前に出して、そこに前シテが中入りし、その中で物着をして後シテとなって登場すれば、《定家》と同じ構成になるけれど、そういう演出は古い時代にもなかったのだろうかと、ふと思った。
能《姨捨》シテ里女/老女 観世喜正
ワキ都人 宝生欣哉 ワキツレ大日方寛 御厨誠吾アイ里人 山本泰太郎
一噌隆之 観世新九郎 柿原弘和 観世元伯
後見 観世清和 観世喜之 奥川恒治
地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 片山九郎右衛門 山崎正道
馬野正基 味方玄 坂真太郎 坂口貴信
【次第】
長裃姿で重々しく登場した囃子方。
舞台上の緊迫感・緊張感が見る側にも伝わってきて、こちらも目眩がしそうなほど胸がどきどきする。
静かな熱気のこもった次第の囃子に乗って、ワキ・ワキツレが登場。
ワキが下宝生になると
謡曲集などに収録されている詞章(「都方に住居仕る者にて候」)とは違って、
「これは陸奥しのぶ何某にて候、われ久しく都に候ひて、洛陽の寺社名所旧跡四季折節の風情残りなく一見仕りて候」となり、みちのく出身だが在京期間の長い「都の者」という複雑なアイデンティティに変わり、僧侶でもない職業・身分不詳の謎の風流人という設定になる。
笠を目深に被ったワキは彼自身も暗い過去を背負っているかのように、
いわくありげな深い陰翳を感じさせる。
【シテの登場】
姨捨山に到着したワキ一行。
どこまでも果てしなく広がる大空が間近に迫る壮大な風景。
ここでこのまま日没を待ち、名月を眺めようと胸を躍らせていると、
草木の影もなく、山路も見えない方角から女の声が聞こえてくる。
幕の奥から「の~うの~う」と低い声が響き、シテの姿が橋掛りに現れたのはだいぶ間があってから。
シテの存在感が強調される。
出立は渋い金と鈍色地のシックな段替唐織に、
面は深井だろうか、増かと見紛うほど若くて端麗な女面。
《姨捨》の前シテの位置づけは難しい。
幼い甥を育てていたころの、老女の若き日のイメージを彷彿とさせながらも、その姿をあまりにも忠実に再現すると「草衣しをたれて」のようなボロボロの衣裳をつけなければならないから、能では豪華な装束と美しい面をつけて、鄙びた中年女性賤しさという写実性は一切見せない。
前シテの姿に、老女本来の「老い」のイメージをどれだけ投影すべきなのだろう。
この疑問に喜正さんは滑らかさを抑えた重みのあるハコビと、かすれ気味の謡などの繊細緻密な工夫で応えていたように思う。
橋掛りを進むシテにワキは、かつて姨捨山に老女が捨てられたそうですが、その跡はどこでしょうか、と尋ねる。
シテは幕のほうを振り返り、この高い桂の木の蔭こそ姨捨の場所、ここにそのまま亡骸が埋もれていますと答える。
シテが一の松、ワキが脇座に立ち、
両者が掛け合いのなかで同じ空気に溶け込み、
心を通わせたところで、初同。
この地謡が凄かった!!
豪華すぎるほど豪華な地謡で、無駄に豪華な地謡だと裏目に出る場合もあるのですが、さすがは玄祥師。
謡による抜群の人心掌握術で観客の心をとろかし、ハートを鷲づかみにして、さらにガンガン揺さぶりをかけてくる。
荒涼とした景色と、詞章によって暗示されたシテの深い孤独がひしひしと伝わり、
もう初同の段階で涙があふれてきて、ほとんど感涙のフライング。
(泣くと視界が滲んで舞台が見えなくなるので)、まだ早い、泣いちゃダメ、と自分に言い聞かせながら涙を抑えるのに苦労しました。
シテは、後ほど月とともに現れて、あなた方の夜遊をお慰めましょうと言い残し、夕暮れの木の蔭に姿を消す。
神遊 20周年第50回記念 最終公演《姨捨》後場につづく
付記1
《姨捨》ついては、「月に見ゆるも恥ずかしや」部分の演技について世阿弥が言及した内容が『申楽談儀』に記されていることから一般的に世阿弥作とされているけれど、
「露」や「なかなか」、「身」、「袖を返す」など、禅竹好みのことばが後場にちりばめられ、最後も「姨捨山とぞなりにける」と、禅竹作品に特徴的な円環構造を示していることから、世阿弥の原作に禅竹が手を加えた可能性も捨てきれないなーと個人的には思っています。
付記2
老女の墓標である桂の木の作り物を大小前に出して、そこに前シテが中入りし、その中で物着をして後シテとなって登場すれば、《定家》と同じ構成になるけれど、そういう演出は古い時代にもなかったのだろうかと、ふと思った。
神遊 20周年第50回記念最終公演・仕舞・一調・狂言《土筆》
2016年3月20日(日) 13時30分~17時30分 国立能楽堂
仕舞《卒都婆小町》観世喜之
《融》 片山九郎右衛門
地謡 観世喜正 遠藤喜久 奥川恒治 坂真太郎
仕舞《砧之段》 梅若玄祥
《藤戸》 観世銕之丞
地謡 山崎正道 馬野正基 味方玄 坂口貴信
一調《景清》観世清和×柿原崇志
能《姨捨》シテ里女/老女 観世喜正
ワキ都人 宝生欣哉 ワキツレ大日方寛 御厨誠吾
アイ里人 山本泰太郎
一噌隆之 観世新九郎 柿原弘和 観世元伯
後見 観世清和 観世喜之 奥川恒治
地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 片山九郎右衛門 山崎正道
馬野正基 味方玄 坂真太郎 坂口貴信
公演パンフレットが充実していて永久保存版。
メンバー一人ひとりのあいさつと金子直樹氏による解説、
観世宗家、銕之丞師、玄祥師、東次郎師、森常好師、萬斎師による寄稿文、
そしてメンバーの座談会
(自虐ネタや裏話も絡めた神遊ヒストリー、第2回公演の写真が若い!)
最後に全公演のチラシを載せたKAMIASOBI WORKS GALLERY1997-2016。
当時は能公演チラシ専用の写真撮影をするのは画期的なことだったそうです。
さまざまな試みをして新風を吹き込んでこられたのだと改めて歴史を感じます。
そして20年50回記念まで継続したこと、継続できたことが何より凄い!
長年応援してきたファンの方々はきっと感無量でしょうね。
さて、冒頭からいきなり濃厚な仕舞4番が続きます。
《卒都婆小町》 観世喜之
「あら苦しめまひや」のシテの謡が秀逸。
「胸苦しやと悲しみて」で開いた扇をグッと胸にあてたまま後ずさりして心の痛みを表し
「一夜を待たで死したりし」で、身も心も尽き果てたようにガクリと安座。
磨き抜かれた芸と表現力が凝縮された極上の仕舞でした。
《融》 片山九郎右衛門
「九郎右衛門さんだ!!」と心のなかで舞いあがっているうちに
あっというまに終わってしまった……。
まさしく名残惜しの面影。
この5分が永遠にループしてほしいくらい。
九郎右衛門さんのシテで十三段之舞をぜひ観てみたい!
《砧之段》 梅若玄祥
ここから地謡が変わり、山崎正道さんが地頭になると、
他の地謡メンバーが他会の能楽師でも謡がとたんに「梅若調」になる。
その梅若調の砧之段。
この日の玄祥師は調子が良いように見えたし、
《姨捨》の中入りでも中座することなく長時間ずっと座っていらっしゃったから、
膝や腰も回復されたのだと思っていた。
相当ご無理をされていたのだろうか。
《藤戸》 観世銕之丞
銕之丞師はおそらくこういう曲(殺害時の有様を再現するタイプの曲)は得意分野ではないだろうか。
臨場感あふれる迫真の仕舞だった。
一調《景清》 観世清和×柿原崇志
観世宗家のパンフ寄稿文が殊更すばらしい!
神遊のメンバーとそれほど年齢が離れているわけではないのに(「花の会」では同年代ということになっている)、彼らに対して配慮と敬意の行き届いた親心あふれる温かい文章。
細部まで心配りがされていて、こういう文章は並みの立場の人ではなかなか書けない。
御家元がいつまでもスリムな理由もわかる気がした。
柿原崇志師は変化球ではなく、直球で勝負する大鼓。
御家元も直球で投げて、相手の直球を受けとめる。
零落した老武者・景清の気概と潔さを感じさせる一調でした。
狂言《土筆》
やっぱり東次郎さんは魔法使い。
東次郎師が春の野に出た設定で見所を見渡すだけで、
そこは一面のどかな春景色に早変わり。
所作や物腰、顔の表情と言葉だけで、見えないものをリアルに現出させる魔法。
そして東次郎さんの存在自体が春の野山のように優しく、あたたかい。
神遊 20周年第50回記念 最終公演《姨捨》前場につづく
仕舞《卒都婆小町》観世喜之
《融》 片山九郎右衛門
地謡 観世喜正 遠藤喜久 奥川恒治 坂真太郎
仕舞《砧之段》 梅若玄祥
《藤戸》 観世銕之丞
地謡 山崎正道 馬野正基 味方玄 坂口貴信
一調《景清》観世清和×柿原崇志
狂言《土筆》シテ山本東次郎 アド山本則俊
後見 山本凜太郎能《姨捨》シテ里女/老女 観世喜正
ワキ都人 宝生欣哉 ワキツレ大日方寛 御厨誠吾
アイ里人 山本泰太郎
一噌隆之 観世新九郎 柿原弘和 観世元伯
後見 観世清和 観世喜之 奥川恒治
地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 片山九郎右衛門 山崎正道
馬野正基 味方玄 坂真太郎 坂口貴信
公演パンフレットが充実していて永久保存版。
メンバー一人ひとりのあいさつと金子直樹氏による解説、
観世宗家、銕之丞師、玄祥師、東次郎師、森常好師、萬斎師による寄稿文、
そしてメンバーの座談会
(自虐ネタや裏話も絡めた神遊ヒストリー、第2回公演の写真が若い!)
最後に全公演のチラシを載せたKAMIASOBI WORKS GALLERY1997-2016。
当時は能公演チラシ専用の写真撮影をするのは画期的なことだったそうです。
さまざまな試みをして新風を吹き込んでこられたのだと改めて歴史を感じます。
そして20年50回記念まで継続したこと、継続できたことが何より凄い!
長年応援してきたファンの方々はきっと感無量でしょうね。
さて、冒頭からいきなり濃厚な仕舞4番が続きます。
《卒都婆小町》 観世喜之
「あら苦しめまひや」のシテの謡が秀逸。
「胸苦しやと悲しみて」で開いた扇をグッと胸にあてたまま後ずさりして心の痛みを表し
「一夜を待たで死したりし」で、身も心も尽き果てたようにガクリと安座。
磨き抜かれた芸と表現力が凝縮された極上の仕舞でした。
《融》 片山九郎右衛門
「九郎右衛門さんだ!!」と心のなかで舞いあがっているうちに
あっというまに終わってしまった……。
まさしく名残惜しの面影。
この5分が永遠にループしてほしいくらい。
九郎右衛門さんのシテで十三段之舞をぜひ観てみたい!
《砧之段》 梅若玄祥
ここから地謡が変わり、山崎正道さんが地頭になると、
他の地謡メンバーが他会の能楽師でも謡がとたんに「梅若調」になる。
その梅若調の砧之段。
この日の玄祥師は調子が良いように見えたし、
《姨捨》の中入りでも中座することなく長時間ずっと座っていらっしゃったから、
膝や腰も回復されたのだと思っていた。
相当ご無理をされていたのだろうか。
《藤戸》 観世銕之丞
銕之丞師はおそらくこういう曲(殺害時の有様を再現するタイプの曲)は得意分野ではないだろうか。
臨場感あふれる迫真の仕舞だった。
一調《景清》 観世清和×柿原崇志
観世宗家のパンフ寄稿文が殊更すばらしい!
神遊のメンバーとそれほど年齢が離れているわけではないのに(「花の会」では同年代ということになっている)、彼らに対して配慮と敬意の行き届いた親心あふれる温かい文章。
細部まで心配りがされていて、こういう文章は並みの立場の人ではなかなか書けない。
御家元がいつまでもスリムな理由もわかる気がした。
柿原崇志師は変化球ではなく、直球で勝負する大鼓。
御家元も直球で投げて、相手の直球を受けとめる。
零落した老武者・景清の気概と潔さを感じさせる一調でした。
狂言《土筆》
やっぱり東次郎さんは魔法使い。
東次郎師が春の野に出た設定で見所を見渡すだけで、
そこは一面のどかな春景色に早変わり。
所作や物腰、顔の表情と言葉だけで、見えないものをリアルに現出させる魔法。
そして東次郎さんの存在自体が春の野山のように優しく、あたたかい。
神遊 20周年第50回記念 最終公演《姨捨》前場につづく
2016年3月14日月曜日
第九回 青翔会 《東北》
2016年3月14日(月) 13時~15時45分 国立能楽堂
地謡 深津洋子 村岡聖美 岩松由実
柏崎真由子 林美佐
地謡 今井泰行 辰巳満次郎 小倉健太郎
高橋憲正 佐野弘宜
アイ東北院門前の者 河野佑紀
小野寺竜一 岡本はる奈 柿原孝則
後見 観世清和 角幸二郎
地謡 山階彌右衛門 観世芳伸 浅見重好 木月宣行
武田宗典 鵜澤光 武田祥照 関根祥丸
真冬に逆戻りしたような冷たい雨の三月半ば。
このところ観能に熱が入らなかったのですが、青翔会は皆さん伸び盛り。
いずれも熱気あふれる舞台でした。
狂言《魚説法》
元漁師の新米僧が経文を覚えていないため、さまざまな魚の名前を織り交ぜて適当に説法をするというお話。
(拝見しながらアルチンボルトの《水》という絵が思い浮かんだ。魚介類で構成される奇怪な肖像画です。)
シテは角頭巾に灰色がかった薄紫の十徳、サーモンオレンジの狂言袴の出立。
春らしい色合いが愛嬌のある上杉さんに似合っていました。
(見所の女性から「可愛いわねえ」の声が。)
前回拝見した時よりも発声もさらに上手くなっていて、すんなりと楽しめた。
舞囃子《高砂》
シテの方はたまに化粧室などでお見かけして、モデルさんみたいにスタイル抜群の女性だと思っていた方(かな?たぶん)。
紋付の下の、上半身の前面にかなり補正を入れて、重心を低く取っていらっしゃるので、すらりと背の高い方だけれど、姿勢が比較的安定していたように思う。
地謡も女流で統一されていて、よくまとまっていた。
お囃子は、この日いちばんの出来。
ここで何度も書いているけれど、熊本さんの笛は個人的に好み。
大小鼓も息が合っていて、澤田さんの太鼓も良かった。
舞囃子《熊坂》
前の舞囃子組と入れ替えの時に見所(中正面の後ろ?)から男性の怒号が響いて、誰かが荷物がどうとか喚いている様子。
しばらく喧嘩の声が響いていたのですが、シテの金野泰大さんはその名の通り、泰然として謡と舞を披露された。
(こういう時の対応で株が一気にあがります。)
《熊坂》の宝生流の地謡がこの日の三流のなかでは一番良かった。
満次郎師の謡いがとくに◎
飯冨さんはやはり注目株。
前も書いたかもしれないけれど、
繊細なチ・タ音が源次郎師ゆずりで期待の小鼓方さんだ。
能《東北》
先月の社中会での舞囃子《三輪》が素晴らしかったので、坂口さんの《東北》、とても楽しみにしていました。
坂口さんの鬘物、序の舞物は初めて拝見したのですが、
そして、たしかにきれいだとは思ったのですが、
その一方で、序の舞の難しさ・手強さをあらためて実感した一番でした。
もちろん、坂口さんはアラフォー能楽師のなかではトップクラスのシテ方さんで、
この年代でこれだけの完成度で舞える人はそういないのは確か。
今まで拝見した青翔会の能のなかでも屈指の舞台でした。
ただ、
角で段をとって身体の向きを変える際にバランスを崩しかけたり、
袖を被く際に、袖を前方に被りすぎて面のほとんどが見えなくなったり、
(巧い人は被いた袖で面を庇のように覆って、能面に詩情豊かな陰翳を生み出す)
せっかくの節木増が生きていなかったり、
面のアテの加減なのか前場で顎の動きに合わせて面が上下に動いてしまったりと、
気になる部分もいくつか。
とはいえ、
後場で位と気を変え、高貴な和泉式部の霊にして歌舞の菩薩として現れた姿は美しく、
もはや若手のホープとしてではなく
中堅の実力者としての坂口さんの芸に期待しすぎているからやや辛口になるだけで、
他の人が同じように舞ったら普通にうまいレベルの序の舞でした。
ワキの矢野さんがハコビも居住まいも美しく、謡いも朗々として、
最後も余韻を乱さぬようシテが一の松を過ぎるのを待ってから立ちあがるという配慮。
拝見するたびに進化されているのが頼もしい。
小野寺さんの笛も素敵で、
柿原孝則さんの大鼓は元気すぎたけれど気合十分で清々しい。
岡本はる奈さんは亡き師への追悼の意も込めて打っていらっしゃる気がした。
狂言《魚説法》 出家
上杉啓太 施主 能村晶人
後見
野村万蔵
舞囃子 金春流《高砂》
安達裕香
熊本俊太郎 曽和伊喜夫 大倉慶乃助 澤田晃良地謡 深津洋子 村岡聖美 岩松由実
柏崎真由子 林美佐
舞囃子 宝生流《熊坂》
金野泰大
熊本俊太郎 飯冨孔明 亀井洋佑 姥浦理紗地謡 今井泰行 辰巳満次郎 小倉健太郎
高橋憲正 佐野弘宜
能
《東北》里女/和泉式部 坂口貴信
ワキ
矢野昌平 ワキツレ 村瀬提 村瀬慧アイ東北院門前の者 河野佑紀
小野寺竜一 岡本はる奈 柿原孝則
後見 観世清和 角幸二郎
地謡 山階彌右衛門 観世芳伸 浅見重好 木月宣行
武田宗典 鵜澤光 武田祥照 関根祥丸
真冬に逆戻りしたような冷たい雨の三月半ば。
このところ観能に熱が入らなかったのですが、青翔会は皆さん伸び盛り。
いずれも熱気あふれる舞台でした。
狂言《魚説法》
元漁師の新米僧が経文を覚えていないため、さまざまな魚の名前を織り交ぜて適当に説法をするというお話。
(拝見しながらアルチンボルトの《水》という絵が思い浮かんだ。魚介類で構成される奇怪な肖像画です。)
シテは角頭巾に灰色がかった薄紫の十徳、サーモンオレンジの狂言袴の出立。
春らしい色合いが愛嬌のある上杉さんに似合っていました。
(見所の女性から「可愛いわねえ」の声が。)
前回拝見した時よりも発声もさらに上手くなっていて、すんなりと楽しめた。
舞囃子《高砂》
シテの方はたまに化粧室などでお見かけして、モデルさんみたいにスタイル抜群の女性だと思っていた方(かな?たぶん)。
紋付の下の、上半身の前面にかなり補正を入れて、重心を低く取っていらっしゃるので、すらりと背の高い方だけれど、姿勢が比較的安定していたように思う。
地謡も女流で統一されていて、よくまとまっていた。
お囃子は、この日いちばんの出来。
ここで何度も書いているけれど、熊本さんの笛は個人的に好み。
大小鼓も息が合っていて、澤田さんの太鼓も良かった。
舞囃子《熊坂》
前の舞囃子組と入れ替えの時に見所(中正面の後ろ?)から男性の怒号が響いて、誰かが荷物がどうとか喚いている様子。
しばらく喧嘩の声が響いていたのですが、シテの金野泰大さんはその名の通り、泰然として謡と舞を披露された。
(こういう時の対応で株が一気にあがります。)
《熊坂》の宝生流の地謡がこの日の三流のなかでは一番良かった。
満次郎師の謡いがとくに◎
飯冨さんはやはり注目株。
前も書いたかもしれないけれど、
繊細なチ・タ音が源次郎師ゆずりで期待の小鼓方さんだ。
能《東北》
先月の社中会での舞囃子《三輪》が素晴らしかったので、坂口さんの《東北》、とても楽しみにしていました。
坂口さんの鬘物、序の舞物は初めて拝見したのですが、
そして、たしかにきれいだとは思ったのですが、
その一方で、序の舞の難しさ・手強さをあらためて実感した一番でした。
もちろん、坂口さんはアラフォー能楽師のなかではトップクラスのシテ方さんで、
この年代でこれだけの完成度で舞える人はそういないのは確か。
今まで拝見した青翔会の能のなかでも屈指の舞台でした。
ただ、
角で段をとって身体の向きを変える際にバランスを崩しかけたり、
袖を被く際に、袖を前方に被りすぎて面のほとんどが見えなくなったり、
(巧い人は被いた袖で面を庇のように覆って、能面に詩情豊かな陰翳を生み出す)
せっかくの節木増が生きていなかったり、
面のアテの加減なのか前場で顎の動きに合わせて面が上下に動いてしまったりと、
気になる部分もいくつか。
とはいえ、
後場で位と気を変え、高貴な和泉式部の霊にして歌舞の菩薩として現れた姿は美しく、
もはや若手のホープとしてではなく
中堅の実力者としての坂口さんの芸に期待しすぎているからやや辛口になるだけで、
他の人が同じように舞ったら普通にうまいレベルの序の舞でした。
ワキの矢野さんがハコビも居住まいも美しく、謡いも朗々として、
最後も余韻を乱さぬようシテが一の松を過ぎるのを待ってから立ちあがるという配慮。
拝見するたびに進化されているのが頼もしい。
小野寺さんの笛も素敵で、
柿原孝則さんの大鼓は元気すぎたけれど気合十分で清々しい。
岡本はる奈さんは亡き師への追悼の意も込めて打っていらっしゃる気がした。