2017年12月19日火曜日

梅若玄祥の《景清》~国立能楽堂定例公演

2017年12月15日(金)18時30分~20分45分 国立能楽堂

能《景清》 シテ 梅若玄祥
    ツレ人丸 馬野正基 トモ従者 谷本健吾
    ワキ里人 宝生欣哉
    杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄
    後見 山崎正道 小田切康陽
    地謡 観世銕之丞 浅井文義 西村高夫 柴田稔
       角当直隆 山中迓晶 川口晃平 観世淳夫



ぜひとも拝見したかった玄祥師の《景清》。
演者の人生そのものが芸の肥やしになる曲ほど、この方の存在感がさらに増して、表現に奥行きが出る。《頼政》も《山姥》も、そして《景清》も、他のシテでは物足りなく思えるくらい、玄祥師の演能にはインパクトがある。
配役も最高だし、玄祥師の芸容の大きさに触れた舞台だった。


〈松門之出〉
小書はないけれど、笛のアシライ・松門之応答(会釈)が入る。

杉市和師の笛が、藁屋住まいのうら寂しく侘びれた風情と、景清の厭世的で孤独な心情を切々と奏で、そこへ作り物の中から、シテの声が響いてくる。
凋落のなかにも枯れてはいない、鈍い艶のある謡。


「あさましや窶れはてたる有様を」で、引廻しが下され、景清が姿を現す。
角帽子(沙門)はつけず、ロマンスグレーのような白垂に墨色の水衣・白大口という、シックな出立。
景清の面にも品格があり、老残・落魄の底でほの白く光る、武士の気概や矜持を強く感じさせる。
床几に掛けるシテの姿は端正で、胸を打つような美しさ。
ふだんの玄祥師のふくよかさや丸みは微塵も感じさせず、芯の通った精神の骨格が衣を着たような直線的な印象さえ受ける。


ツレやトモ、ワキとのやり取りの時でも、シテは面の裏で目を閉じているのではないかと思わせるほど、相手の声を聞いてから顔をそちらのほうへ向ける。
それも、相手に正対して目を合わせるのではなく、わずかに角度をずらすため、いかにも耳だけで反応しているように見える。

杖のつき方も、じつにさりげない。ごく自然に目の不自由な人が身体の一部として使っている様子。



〈父娘の対面〉
欣哉さん扮する人情味あふれる里人の引き合わせで、景清と人丸は対面する。
馬野さんの人丸が、とても可愛らしい。
おそらく謡曲中、最も長い道のり(鎌倉→宮崎)を、父に会いたい一心で旅してきた人丸のひたむきさ、健気さが感じられた。
トモの谷本さんも、人丸の一途な思いをなんとか実らせようと、若い娘を長い道中ずっと守り続けてきた硬派なボディーガードの雰囲気。

父と娘は見つめ合い、「疎き人をも訪へかしとて怨みそしる」で、景清は人丸の頬に愛情をこめて手を当てるような所作。
目が見えない分、せめて頬に触れて、娘の存在とぬくもりをたしかめようとする父の思いが伝わってくる。



〈錣引きの仕方話〉
「景清これを見て」で、鼓の特殊な手が入り、シテは水衣の肩を脱ぎ、
「物々しやと夕日影に」で床几から立ち上がり、
「打物ひらめかいて」と、右手の扇を見、
「斬ってかかれば」で、太刀に見立てた扇を振り下ろし、
「兵は四方へぱっとぞ逃げにける」で、左右に面を切る。

屋島の合戦での武勇伝を語る場面は、玄祥師らしく写実的で大胆な表現になるかと思っていたが、比較的抑制が利いていた。
これが、この日の気格高い景清の雰囲気と合っていて、若き日の自分の姿を俯瞰して追憶しているようにも思える。
武士の誇りを持ち続けつつ、人生に対する未練よりも、達観に近づいている感じを受けた。




〈今生の別れ〉
語り終えた景清は、別れの時が来たことを娘に告げる。

「さらばよ留まる」「行くぞとの」で、景清は諭すように娘の背中を押す。
人丸の背中から離れたその指が、立ち去ろうとする娘を引き留めるように、微かに震えている。
景清の、言葉にできない心の内を、震える指が語っている。

指の先から見えない触手が伸びて、人丸に絡みつこうとしているかのよう。
心と行動の矛盾。
伝えられなかったほんとうの想い。

こういうところの表現が、とりわけ見事だった。








2017年12月17日日曜日

国立能楽堂十二月定例公演《因幡堂》

2017年12月15日(金)18時30分~20分45分 国立能楽堂

狂言《因幡堂》シテ夫 高澤祐介
       アド妻 河路雅義

能《景清》 シテ 梅若玄祥
    ツレ人丸 馬野正基 トモ従者 谷本健吾
    ワキ里人 宝生欣哉
    杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄
    後見 山崎正道 小田切康陽
    地謡 観世銕之丞 浅井文義 西村高夫 柴田稔
       角当直隆 山中迓晶 川口晃平 観世淳夫



この日は、国立能楽堂特別展「備前池田家伝来・野崎家能楽コレクション」の最終日。


いつまで見ていても見飽きない、能面の名品・優品が充実した展示だった。

後期展示では、「孫次郎(天下一友閑)」、「セイエン」「改玄」が美しかったし、「増髪」「生成」(いずれも天下一友閑)のインパクトのある不気味さや、「童子(艶童)」の艶めかしさ、「蛙」のゾッとする冷たさなど、どれも心に残る作品ばかり。

なかでも、優れていたのが「深井(深女)」と「痩女」(いずれも出目)。
深井(深女)は、その名の通り、《砧》や《朝長》の前シテなどの、深みのある名曲にふさわしい高い品格があり、《痩女》は顔立ちの整った気品のある美形で、《求塚》や《定家》など、いかにも地獄や妄執の責め苦を負った薄幸の美女、といった風情を感じさせる。

この面をあのシテがつけて、あの曲で舞ったら……と、想像の世界で遊ぶしかないのが残念。
宮崎・延岡の天下一薪能のような、地元の素晴らしい能面を使った公演が開催されることを願ってやみません。

ああ、ほんと、終わってしまって、名残惜しい展示でした。



肝心の狂言《因幡堂》の感想は……よかったです。
初めから終わりまで、隣に座った女性のいびきが凄くて、あまり集中できなかったのですが、生理現象だから仕方ない……?

古女房は、わわしいし、大酒呑みだから、新しい奥さんがいい! という気持は、たいていの殿方が(行動に移さないまでも)心に秘めているものなのかも。
そんなふうに言いながら、古女房の怒りを恐れて戦々恐々するあたりも、いつの世も変わらない。
夫婦って、こんなもんだよね。




梅若玄祥の《景清》につづく




2017年12月12日火曜日

小平市平櫛田中彫刻美術館・大江宏設計「九十八叟院」

師走の休日は人ごみを避けて、近場の穴場へ。
近場だとかえって足が向かなくて、訪れたのはこの日が初めて。
思っていたよりもはるかに良かったです!

旧平櫛田中邸「九十八叟院」

平櫛田中の旧邸宅は、大江宏が設計した書院造の名建築。
現在は、美術館に隣接する記念館となっています。



平櫛田中が98歳の時に建てたことから「九十八叟院」と呼ばれるこの旧居は、とにかく素敵な空間。 こういう建物を見るとわくわくします。

彫刻用原木・クスノキ

樹齢500年の楠の原木(5.5トン)は、その後の30年の創作活動のために、田中が100歳の時に購入したもの。

100歳以降も、「鏡獅子」に匹敵する女性の舞姿(モデルは武原はん)を彫るつもりだったというから、凄まじい創作意欲! 
この樹齢500年の原木そのものが、平櫛田中に見えてくる。



お庭も、大江宏らしい端正で品格のある構成。


エントランス
玄関先の格子戸が、ステンドグラスのよう。陰翳礼讃の世界。



こういう様式、好きだなあ。
どこか人間的なぬくもりのある、和風モダニズム建築。


茶室の坪庭
坪庭に切株があるのが、平櫛田中らしい趣き。


茶室、にじり口が見える

四畳半の茶室に掛けられていたのは、平櫛田中の書「無心」の御軸。




雁行する石畳の配置も、大江宏っぽい。


小平市平櫛田中彫刻美術館

記念館に隣接する彫刻美術館。
こちらも、かなり見応えがありました。

平櫛田中彫刻の魅力は、モデルがもつ雰囲気、その人が発する「気」を、そのまま作品から感じ取れること。
生身の人間の魂から発せられるエネルギーが彼の作品からも発せられ、まるでその人自身と向き合っているような気分になる。

平櫛田中といえば、真っ先に岡倉天心像が思い浮かぶ。
明治の巨人の、怪物めいた存在感・威圧感が、その量塊とともにたしかな手ごたえで迫ってくる。

《鏡獅子》1965年、木彫彩色、高さ58㎝

とはいえ、この美術館の目玉は、やっぱり《鏡獅子》。
国立劇場の2メートルの鏡獅子の4分の1のスケールで創られたこの像は、小型作品ならではの密度の高い充実した造形。
ビリビリと音を立てて炸裂するような気の放電すら感じられる。

《鏡獅子》の試作品として、六代目尾上菊五郎のふんどし像と頭部の像も展示されている。
裸体像(六代目は裸で弟子に指導していたという)は背面から見ると、臀部の盛り上がりや、中心部に寄せた背中の筋肉の形がすばらしい。
頭部像は、音羽屋らしい口許やあごのぽってりした肉付きが、本作の《鏡獅子》よりも顕著にあらわれている。

それでも、わたしがこの《鏡獅子》を見て思い出すのは、能楽師・十世片山九郎右衛門の《石橋》だった。
カマエや重心のかけ方、一点を見つめる集中力の強さ、気迫の漲り方が、九郎右衛門さんの《石橋》そのものなのだ。
体型もおそらく六代目尾上菊五郎に似ているのではないだろうか。


他にも印象的な作品ばかりだったが、とくに強く惹かれたのが、《良寛上人》と《月姫》。
子供たちと手鞠をしたり、泥棒に布団を盗ませてあげたりする逸話で有名な良寛さん。
平櫛田中の作品では、品のいい細面の禅僧が膝の上で書物を開いて静かに読み耽る姿で描かれる。
良寛さんがまとう、安らかで泰然とした優しい雰囲気が、まわりの空間全体に漂っている。

《月姫》は、若く美しい女性ではなく、生活感をにじませる中年女性のブロンズ像。
器量も十人並みで、パーマをかけた主婦の、黄ばんだような人生を感じさせる。

「月姫」という言葉にはロマンティックな響きがあるが、
月の満ち欠けのように、ごく自然に子を生み・育て・老いてゆく、地に足のついた人生を歩んできた女性こそが《月姫》なのだ、という意味だろうか。








2017年12月6日水曜日

端坐


観世元伯さんの訃報から数日。
感情が込み上げてきて、何も手につかず、何も書くことができなかった。

どんな言葉も虚しく響いて、思いをうまく表現できない。

何よりも、無念だ。 あまりにも、無念すぎる。

周囲も、観客も、そして何よりも、ご本人が無念だったろうし、それを思うと、とてもじゃないけど、やりきれない。やりきれるわけがない。

あの太鼓はまさしく当代きっての、天下無双、唯一無二のものだったし、
これから今まで以上に数えきれないほど多くの感動を、多くの人に与えてくださるはずだった。
能の舞台の素晴らしさ、囃子の醍醐味を、ひとり一人の胸に、深く、深く、刻みつけてくださるはずだった。
そして、多くの大切なものを、次の世代に受け渡してゆくはずだった。

それなのに!!


神の領域に入ったような、玄妙な太鼓だった。

天高く突き抜けるような、高く澄みきった掛け声だった。

芭蕉の句の古池に木魂する水音のように、金属質の響きが森閑たる静寂を際立たせる、そんな出端だった。

あの早笛、大ベシ、あの早舞、あの神楽、あの神舞、あの中之舞・序之舞、あの舞働、あの楽、あの祈リ、あの乱、あの獅子……。


いつも舞台の最後に、
太鼓と扇を持ってスッと立ち上がり、揚幕のほうに向き直って、書道でぐっと力をためてから筆を払うように、特徴的なリズムで半歩下がり、絶妙な間を置いてから歩み出し、橋掛りを去ってゆく。
舞台にピリオドを打つような一連の所作と、余韻に彩りを添えるあの後姿を見送るのが好きだった。


この一年、観世元伯さん不在の太鼓物を観てきたけれど、
ぜんぜんちがうのだ、あの方の太鼓がないと。

シテが素晴らしければ素晴らしいほど、地謡が良ければ良いほど、舞台の完成度の点で、囃子の、元伯さん不在が、大きくひびいてくる。
そこだけが宝玉の瑕のように浮き上がってくる。



あの、一分の狂いもないほど緻密で繊細な太鼓には、ひと粒、ひと粒に、打ち手の魂が込められ、
そのたびごとに貴い命が削られていた……。

そして、怖ろしいことに、舞台芸術は儚い。
死後の再発見、再評価などはなく、
将来必ずや与えられたであろう最高の栄誉を、授与される日を待たずに終わってしまった師の芸術は、観客の記憶とともに、やがて薄らぎ、いつかは消えてしまうのだろうか。



最後に拝見したのは、昨年11月の末、梅若の能楽堂での社中会だった。
少し咳をされていて、体調がすぐれない御様子だった。

《砧・梓之出》だったと思う。
この日、わたしも体調がすぐれず中入りで退席した。
間狂言なので、元伯師は左横を向かれ、こちらに背中を向けていた。

わたしは席を立ち、もう一度、振り返った。

舞台の上には、あの、元伯さんの世にも美しい端坐する姿があった。
体調を崩されていても、少しも乱れない、美しい木彫仏のような佇まい。

いつもと変わらない穏やかな秋の日の午後。
能楽堂を出ると、入り口に植えられた桜の紅葉がきれいだった。


また、すぐに会えると思っていた。

いつでも、会えると思っていた。
















2017年11月22日水曜日

狂言《隠狸》舞囃子《三笑》半能《石橋》~片山幽雪追善

2017年11月19日(日)11時~17時40分  国立能楽堂
能《三輪・白式神神楽》からのつづき
狂言《隠狸》太郎冠者 野村萬 主 野村万作

仕舞《班女》   山本順之
  《江口キリ》 観世銕之丞
  《融》    梅若玄祥
  地謡 片山九郎右衛門 梅田邦久 武田邦弘 橘保向 河村博重

舞囃子《三笑》観世喜之 大槻文蔵 浅見真州  
  一噌幸弘 曽和正博 柿原崇志 小寺佐七

半能《石橋》シテ 片山清愛
   ワキ 宝生欣也 アイ 野村萬斎
   杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
   後見 観世清和 片山九郎右衛門 片山伸吾
   地謡 大槻文蔵 観世喜正 武田邦弘 西村高夫
      味方玄 分林道治 梅田嘉宏 観世淳夫



片山幽雪師の芸については、わたしは仕舞1番と舞囃子1番を拝見しただけですが、その最晩年にかろうじて立ち会えたのは幸いでした。

本公演のプログラムに綴られた、「我が家の風は、『死ぬまで舞台に立ちたい』父の無言の叫びだと思います」という九郎右衛門さんの言葉が、そのまま九郎右衛門さんの舞台生活につながっているように感じます。

それを殊更強く感じたのが、昨年の「延岡天下一薪能」での《道成寺》。
それでなくても危険な鐘入り(しかも、野外のクレーンから吊るした鐘)を、滑りやすい雨のなか、大切な面・装束を濡らして勤められたことを知り、ひとつの舞台にかける九郎右衛門さんの熱意と覚悟に思いを馳せたものでした。
だからこそ、九郎右衛門さんの舞台には、人を感動させる力があるのかもしれません。




狂言《隠狸》
文句なしに面白い!
このお二人の共演は、わたしは初めて拝見したのですが、「狂言のことはよくわからない」という人でも、間違いなく楽しめると思う。
名人同士の呼吸の合わせ方、間合いの感覚って、絶妙だなー。
サラリとした軽み、掛け合いの妙味、芸の闊達さ。
拝見できたことに感謝。
それにしても、タヌキのぬいぐるみ(?)が可愛すぎる!



仕舞《江口キリ》
滋味掬すべき銕之丞師の《江口 キリ》。
思いの深さとか、情の篤さのようなものがにじみ出ている。

追善の舞とは、こういうものをいうのでしょう。
舞い手自身の、人間的な深みを感じさせる。
銕之丞さんの舞台をもっと拝見したいと思った。



 
舞囃子《三笑》
なんとも、すごいメンバー。
舞は三者三様。
観世喜之さんはシテなので、「俺についてこい」的な自由奔放さ。
浅見真州さんは他のお二人に合わせつつ全体のバランスを図っている感じ。
大槻文蔵さんはシテ・ツレに合わせつつも、ご自身の舞の美しさ・完成度の高さのほうを重視して、多少バラバラでも気にしない、という印象。

こちらの目は、おのずと文蔵師に惹きつけられる。
ほかの御二方と比べると、文蔵師は比較的腰高。それでいて、重心はしっかりと安定していて、体軸がスーッと伸び、とにかく端正。
美意識の高さが舞にあらわれている。



半能《石橋》
囃子陣が大御所ぞろい。
忠雄さんが、めちゃくちゃ、かっこいい!
そして、掛け声も若い!
忠雄師が若いころに録音した「獅子」のCDを持っているのですが、あの時とほとんど変わっていない。
今に至るまで、ずーっと大鼓トップを走り続け、他の追随を許さない。
ほんと、凄い人です。
ほかの方々も、三役すべて一流どころで固めた《石橋》。

シテの清愛さんは面はつけず、《望月》のシテのような赤頭に緋縮緬の覆面姿。
とても身軽で、飛び返りや飛び安座の到達点が高い!
それにしても、まだ中学生で国立能楽堂という檜舞台に立ち、シテとして舞台を勤めるのだから凄いなあ。
たぶん、二十歳前後で道成寺を披かれるのでしょう。
ほんとうに厳しい世界。


「獅子団乱旋の~」の前に、シテが正中で飛び返りをして、大小前で両手をついて俯せになった時、後見の九郎右衛門さんが大小鼓のあいだから出てきて、清愛さんの赤頭を整えたですが、

これを見て、わが家宝DVDの「第11回日本伝統文化振興財団賞・片山清司」に収録された《石橋》で、同じように、幽雪さん(当時九世九郎右衛門)が大小鼓のあいだから出てきて、九郎右衛門さん(当時・清司)の赤頭を直している姿を思い出しました。

不思議なことに、幽雪さんが整えた赤頭は、その後どんなに激しい動きをしても、まったく乱れなかったのです!
親から子、師から弟子へ、強い「念」が送られているのですね、きっと。

こうやって芸が受け継がれていくんだなあと、胸にじーんと来るものがありました。







2017年11月21日火曜日

片山九郎右衛門の《三輪・白式神神楽》後場~片山幽雪追善

2017年11月19日(日)11時~17時40分  国立能楽堂
《三輪・白式神神楽》前場・片山幽雪三回忌追善能からのつづき
白式神神楽でも、この長い橋掛かりが効果的に使われた

能《三輪・白式神神楽》シテ 片山九郎右衛門
   ワキ 宝生欣也 
   アイ 野村万蔵
   杉市和 吉阪一郎 亀井広忠 前川光長
   後見 浅見真州 青木道喜 味方玄
   地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 観世喜正 山崎正道
      片山伸吾 分林道治 橋本忠樹 観世淳夫


拝見するたびに、スケールが大きくなっていく十世片山九郎右衛門。
(そして怖ろしいほど多忙さも増していく。すこし心配なのです。)



【後場】
〈後シテの登場〉
なほも不審に思し召さば、訪ひ来ませ、杉立てる門をしるしにて━━。

女神の三輪明神が、男神の住吉明神に贈ったとされる歌「恋しくは訪ひきませ千早振三輪の山もと杉立てる門」にもとづくこの言葉には、禅竹らしい色めいた魅力が含まれている。

里人の勧めに後押しされるように、玄賓僧都が杉の神木を訪れると、木陰から女神が姿を現す。

「神体あらたに見え給ふ」で、引廻しが下ろされ、後シテがまばゆい姿で出現する。
純白の狩衣を衣紋に着け、白大口、髪は鬘帯の着けないオスベラカシ。
大きな榊を、右手に立てて持っている。



〈クセ・三輪神婚譚〉
三輪神婚譚が語られるクセは、舞グセではなく、作り物に入ったままの居グセ。
玄祥師・地頭、銕之丞師・副地頭、両脇に喜正さん・山崎正道さん、前列には淳夫さん+片山門下の面々という最強の地謡が、神話の世界に描かれた、女の疑念・不信、歎き、衝撃、執着など、今日まで続く女の不幸の根元を謡いあげる。

神婚譚を語る形で静かに佇むシテの全身から、おごそかな光が放射されているよう。シテのまわりが、明かりが灯ったようにぼうっと明るくなっている。

「帰るところを知らんとて」で、シテは立ち上がって作り物から出、「まだ青柳の糸長く」で、左袖に右袖を重ねるように巻き上げる。



〈イロエ〉
シテ「八百万の神遊」、地「これぞ神楽の初めなる」、
シテ「ちはやぶる」で、常座に立って榊を振り、
そこから大小前へ至り、クルクルと回りながら正先で下居。
榊を押しいただき、左右左と振る。端から勢いよく振り、中央でいったん止めて、もう一方の端へやさしく振りきる。そこから立ち上がって榊を振りながら、立廻り。

場が清められ、こちらの罪や穢れも浄化されていく気分になる。

光を放つ、このうえなく清らかな女神。物腰もうっとりするほどエレガントで、幅広の大口との対比で、足首がほっそりとして淑やかに見える。



〈神楽〉
シテは「天岩戸を引き立てて」で、常座に戻り、
地「神は跡なく入り給へば」と、両袖を被いて身をかがめ、
地「常闇の世と早なりぬ」で、かがんだままの姿勢で廻り、
シテ「八百万の神たち」で、下居して両袖を下ろすと、
立ち上がって、

岩戸の前にてこれを歎き━━

「歎き」の語尾は、神々の慟哭をあらわすように、かすれ、尾を引く。

あたりは、漆黒の闇。
光のない世界。

神楽の序は、擦拍子。
打楽器の掛け声はなく、大小太鼓が一粒ずつ打ち、
シテは、暗闇をさぐるように、静かな足拍子を踏む。

杉市和さんの笛の音が木霊する暗闇のなか、
シテの姿だけが白く発光しながら、
こちらに迫ってくる。

ハッと息を呑んだまま呼吸が止まりそうなほど、崇高な感覚に襲われた。
宗教感覚というのは、こういうものかもしれない。
なぜか、身体がふるえて、ふるえながらシテの舞を観ていた。

女神の舞なのか、女神に捧げる舞なのか、そういう区別もなくなり、
男女の性も揺らいで、
シテはこの瞬間、この世で最も美しく、崇高な存在だった。


地直リで、榊から扇に持ち替えたシテは橋掛りに進み、
三の松で、風に揺蕩うようにくるくるとまわったのち、
間を置いて、ゆっくりと左袖を被き、
さらに間を置いて、右手の扇で顔を隠して翁の型。
(九郎右衛門さんのこの「間」! わたしの愛する美しい間の取り方!)


そこから少し後ずさりするように、身を引いたあと、
視界がほとんど効かないなか、大小太鼓のナガシで、
サーッと暁光が射すように、長い橋掛りを駆け抜け、
舞台に至り、さらに作り物に入って下居。




〈終曲〉
「岩戸を少し開き給へば」で、雲ノ扇。
作り物から出て、見所を八百万の神々に見立ててて、
「人の面白々と見ゆる」で、左右を見まわし、
「面白や」と、ユウケン。


シテは一の松で左袖を巻き上げたまま、
「関の戸の世も明け」で、東の空を見上げたのち、
そのまま揚幕の向こうへと消えていった。


覚むるや名残なるらん

玄賓僧都は脇座前で下居して合掌。


シテの居た場所には、光の残影がまだ漂っていた……。





《隠狸》《三笑》《石橋》へつづく




2017年11月20日月曜日

《三輪・白式神神楽》前場~片山幽雪三回忌追善能

2017年11月19日(日)11時~17時40分  国立能楽堂
能《海士・二段返・解脱之伝》・舞囃子《頼政》からのつづき
帰りは、とっぷり日も暮れて

能《三輪・白式神神楽》シテ 片山九郎右衛門
   ワキ 宝生欣也 
   アイ 野村万蔵
   杉市和 吉阪一郎 亀井広忠 前川光長
   後見 浅見真州 青木道喜 味方玄
   地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 観世喜正 山崎正道
      片山伸吾 分林道治 橋本忠樹 観世淳夫



凄いものを観てしまった。
ずーっと観たかった九郎右衛門さんの白式神神楽は、予想をはるかに超えていた。ヴァーグナーの神話劇のような壮大な世界が目の前で展開して、圧倒されるような迫力、ドラマ性に、文字通り身体がふるえた。

能の醍醐味を余すところなく詰め込んだ巧みな演出と、それを十分に生かした選び抜かれた演者たち。この舞台を拝見できて、ほんとうによかった!!


【前場】
〈ワキの登場〉
笛の調べに誘われるように、ワキの玄賓僧都があらわれる。
杉市和さんが奏でる笛の音と、欣哉さんの姿・ハコビが、うら寂しい秋の大和路、三輪山の麓の枯れた景色、冷たく澄んだ空気の質感を映し出す。

『発心集』などを読むと、玄賓僧都は高貴な人妻に恋をしたことがあり、不浄観によって煩悩を克服したという。
玄賓といえば、遁世僧のイメージが強いが、その厭世的な枯淡の風情の奥底に、ほのかな色ツヤ、かすかな余焔が感じられる。欣哉さんの演じる玄賓像にはそんな雰囲気が漂う。



〈シテの登場〉
この次第の囃子もよかった。
広忠さんの抒情的な掛け声。この日は、濁りのない響き。囃子後見には源次郎さん、忠雄さんなど、そうそうたる顔ぶれ。

シテの繊細なハコビが、道なき道をはるばる訪ねてきた女のほそい足を印象づける。
出立は一見シックでも、よく見ると精緻な文様が施された紅無唐織。手には桶。面は、目鼻立ちのはっきりした艶麗な深井。


シテは一の松で立ち止まり、秋の山路を見渡すようにしばし見所を見入ったのち、後ろを向いて、「三輪の山もと道もなし、檜原の奥を訪ねん」と謡いだす。

ここの次第は三遍返し。地取りを受けてのシテの返しは、高音に張った調子で、山道を分け入る感じが強調される。
この時、シテはずっと後ろを向いたまま。

九郎右衛門さんの後姿が美しい。
唐織着流は難しく、名手でも高齢の人は背中が丸まっているし、比較的若い人は隙があって、鑑賞に堪える後姿の人はそう多くはない。

九郎右衛門さんの唐織着流の後姿は、中年の女性が歩んできた人生の翳りのようなものをまとっていて、それがこの女性のどこか後ろめたい罪の意識と、そこから生まれる奥ゆかしさにつながっていた。


(次第の「檜原の奥」にある檜原神社は、元伊勢とも呼ばれており、ここが地理的にも、終曲部で謡われる「伊勢と三輪の神」とが重なり合う土地であることが伏線的に示されている。)



〈庵室へ→シテとワキのやり取り→中入〉
玄賓の庵にたどり着いたシテは、僧との掛け合いののち、左手で「柴の網戸を押し開」く所作をして庵のなかへ入り、「罪を助けてたび給へ」と、手を合わせて懇願する。

ここのところは、イエスの足もとに跪き、香油を塗ったマグダラのマリアを思わせる。なにか、罪深い女の原型のようなもの、そして、それを赦す聖者のイメージと、両者の心の交流の物語が、洋の東西を問わず存在したのかもしれない。
(この場合、樒・閼伽の水が「香油」にあたる 。)


所望した衣を、玄賓から受け取るシテの姿がとても印象的だった。
まるで恋い焦がれた憧れの人から、大切なものを受け取る可憐な少女のよう。はにかむように、悦びを噛み締めるように、左腕に衣を愛おしく抱きしめる。

そして、僧と女は、心を込めてじっとたがいを見つめ合う。

何かが、たしかに、二人のあいだに流れている。
敬慕する側と、敬慕される側。
思いを受け取り、思いを与え合う、そのことがこちらにも伝わってくる。

九郎右衛門さんと欣哉さんならではの、心に残るシーン。
シテからワキへ、演者から観客へ。心より心に伝ふるもの……。





《三輪・白式神神楽》後場につづく







2017年11月19日日曜日

片山幽雪三回忌追善能《海士・二段返・解脱之伝》舞囃子《頼政》

2017年11月19日(日)11時~17時40分  国立能楽堂

能楽堂前の銀杏並木
連吟《賀茂》
 梅田嘉宏 橋本忠樹 分林道治 味方玄 河村博重 古橋正邦
 青木道喜 武田邦弘 小林慶三 梅田邦久 橘保向 橋本礒道

仕舞《通盛》   観世芳伸
  《松虫キリ》 片山伸吾
  《野宮》   武田志房
  《蝉丸》   山階彌右衛門
  《天鼓》   観世喜正
  《船辨慶キリ》観世淳夫
  地謡 小林慶三 武田邦弘 橋本礒道 青木道喜 梅田嘉宏

能《海士・二段返・解脱之伝》シテ 観世清和
  子方 谷本悠太朗 ワキ 殿田謙吉 御厨誠吾
  アイ 野村万之丞
  藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井広忠 観世元伯→小寺佐七
  後見 大槻文蔵 山階彌右衛門 坂口貴信
  地謡 観世銕之丞 浅井文義 観世芳伸 清水寛二
     柴田稔 馬野正木 長山桂三 谷本健吾

舞囃子《頼政》シテ 友枝昭世
  藤田六郎兵衛 成田達志 柿原崇志
  香川靖嗣 塩津哲生 粟谷能夫 友枝雄人 狩野了一

能《三輪・白式神神楽》シテ 片山九郎右衛門
   ワキ 宝生欣也 アイ 野村万蔵
   杉市和 吉阪一郎 亀井広忠 前川光長
   後見 浅見真州 青木道喜 味方玄
   梅若玄祥 観世銕之丞 観世喜正 山崎正道
   片山伸吾 分林道治 橋本忠樹 観世淳夫

狂言《隠狸》太郎冠者 野村萬 主 野村万作

仕舞《班女》   山本順之
  《江口キリ》 観世銕之丞
  《融》    梅若玄祥
  地謡 片山九郎右衛門 梅田邦久 武田邦弘 橘保向 河村博重

舞囃子《三笑》観世喜之 大槻文蔵 浅見真州  
  一噌幸弘 曽和正博 柿原崇志 小寺佐七

半能《石橋》シテ 片山清愛
   ワキ 宝生欣也 アイ 野村萬斎
   杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
   後見 観世清和 片山九郎右衛門 片山伸吾
   地謡 大槻文蔵 観世喜正 武田邦弘 西村高夫
      味方玄 分林道治 梅田嘉宏 観世淳夫


今振り返っても思うのですが、何年かあとにこの日のことを、夢のように幸せだったと、思い返すような気がします。
今をときめく超一流の方々が一堂に会した、ほんとうに夢のように豪華絢爛で、密度の濃い、充実すぎるほど充実した公演!

見所は着物率が高く、井上八千代さん・安寿子さんもロビーでご挨拶をされていて、追善公演だけど華やか。京都から来られた方も多かったようです。


長丁場の割には休憩時間が少ないため、序盤は途中で休憩を入れ、観世喜正さんと淳夫さんの仕舞には間に合うように戻ってきたのですが、「仕舞が終わるまで席に戻らないでください」とスタッフの人に言われ、残念ながら拝見できず。
そんなわけで、感想は能《海士》から。


能《海士・二段返・解脱之伝》
願いが叶うなら、あの方の太鼓で二段返を聴きたかった……。

「解脱之伝」は、2年前の能楽座自主公演で、銕之丞・九郎右衛門の義兄弟共演(前シテ/後シテ)で観たことがある。
前シテ・銕之丞さんが表した純朴な海女のもつ母性のたくましさと、後シテ・九郎右衛門さんが舞った、菩薩となった海女の光り輝く荘厳さ━━どちらも素晴らしく、忘れがたい舞台だった。

清和宗家の《海士・解脱之伝》は、それとはまた趣きが異なる。

〈前場〉
前シテは、水衣は着用せず、
小菊や芝草などを横段にあしらったグリーンの唐織着流(脱下ゲ)。
ウィリアム・モリス調の垢抜けた洋風な色柄で、もしかすると、何年か前に拝見した《芭蕉》の時の唐織なのかも。
面は深井なのだけど、増かと思うくらい、若くて美形の顔立ちをしている。

全体的になにか、こう、高位の品格のある女性のような洗練された雰囲気。
生前、肉体労働をしていた庶民(海女)の亡霊のイメージからはかけ離れている気もするが、きっと、ヴィジュアルを重視されたのだろう。

玉之段はさすがだった。
橋掛りを効果的に用い、手に汗握るような逃亡劇を高い技術力で表現(まさに「玉之段」のお手本)。
それを、銕仙会メインの地謡と最高の囃子陣がさらに盛り上げ、見応え・聴き応え満点だった。


〈後場〉
出端・二段返は、出端越しの後に二段返の手を打つため三段構成となり、厳粛で、重々しい。
途中で半幕があがり、後シテが姿を見せる。
半幕の状態がかなり長く、解脱して菩薩になった海女が、法華経による弔いにしばし聞き入る風情。

後シテの出立は、「解脱之伝」の小書により龍女ではなく、菩薩になったことをあらわすため、菊唐草の紅地舞衣に、金箔で立涌模様を施した白紋大口。
頭には白蓮の天冠を戴き、面は泣増。
左手に経巻をもって現れる。

舞は、これも「解脱之伝」の小書により、早舞がイロエとなり、荘重な囃子で舞いあげる。

地謡・囃子の素晴らしさとともに、子方さんもよかった。
谷本悠太朗さんは、以前拝見した《船弁慶》の義経役でも思ったけれど、立ち居や姿に高貴な役柄にふさわしい品がある。
将来有望な方なので、御兄弟ともども、このまま能楽の道に進んでくれるといいな。



休憩をはさんで、
舞囃子《頼政》
休憩時間が短かったせいか、まだ席に戻ってこられない人が多く、空席が目立つなか舞囃子が始まった。
そして驚いたことに、わたしの席の、通路を隔てた斜め前の女性が、こともあろうに友枝昭世師の《頼政》を見ながら、ずっとお菓子を食べていた!!


気を取り直して舞台に集中。

床几に掛けての仕方話もいいけれど、
やはり立ち上がって、左腰に差したもう一本の扇を、刀のようにサッと抜くあたりからが、昭世さんの真骨頂。

「切っ先を揃えて」で、開いた扇を盾のように左手にもち、
「ここを最期と戦うたり」で、右手に持った扇を刀に見立てて振り落とす。
百戦錬磨の武将のような隙のない身のこなし。

「芝の上に扇を打ち敷き」で、開いた扇を床に落とし、
「鎧脱ぎ捨て座を組みて」で、安座し、扇を取りあげて閉じ、
「刀を抜きながら」と、刀に見立てた右手の扇に目をやり、

埋木の花咲くこともなかりしに、身のなるはてはあはれなりけり

最期を覚悟した老武者の、埋木に咲く一輪の花のような艶のある謡。

「埋もれ木」とは言いながら、やりたいこと、やるべきことは、すべてやり尽くしたという燃焼感。
「あはれなりけり」と言いながら、もう充分生きた、生ききった、という潔さ。
サムライのダンディズムが、シテの全身から立ちのぼる。

最後は「扇の芝の草の陰に帰るとて失せにけり」で、枕ノ扇。

チャンドラーの小説を思わせる、どこかハードボイルドなカッコよさのある《頼政》だった。





《三輪・白式神神楽》前場につづく



2017年11月13日月曜日

《鐘巻》黒川能~国立能楽堂特別企画公演

2017年11月11日(土)13時~17時 国立能楽堂
黒川能《木曽願書》《こんかい》からのつづき

能《木曽願書》上座
  
狂言《こんかい(釣狐)》上座

能《鐘巻》下座


休憩をはさんで、いよいよ、下座による《鐘巻》上演です。

前述のように下座の《鐘巻》も、上座の《木曽願書》と同様、明治中期に復曲されたもの。
上下両座の良い意味での競争が、復曲熱に拍車をかけたのですね。


【道成寺との違い】
能《道成寺》との大きな違いは、現行《道成寺》でカットされた部分が、下座の《鐘巻》には残されているということ。
大まかにいうと、現行《道成寺》にはない以下の部分が、黒川の《鐘巻》には残っています(以下は個人的メモ)。

(1)ワキの名ノリのあとの、ワキ・ワキツレのサシと上ゲ歌の部分。
「そもそもこの道成寺と申すは、造立去って七百歳」から「月はほどなく入りがたの……貴賤群衆は遍しや」まで。

(2)シテ白拍子とワキ住僧のやり取りの部分。
ワキ「埒より内に押して入らんと申す女はいづくに候ぞ」から、地「この金は洞庭の撞きたらばこそ聞こえめ」まで。

(3)髪長姫伝説をベースにした道成寺縁起のクリ・サシ・クセの部分。
地「それ祇園精舎の鐘の声は諸行無常の響きたり」から、地「(髪長姫が)雲居に召されける、その勅使をば橘の」まで。
(これが現行《道成寺》では、乱拍子のあと、ワカ「道成の卿承り……道成寺とは名づけたり」と、いきなり道成卿の名が出てくるので、なんのこっちゃ分からない、前後関係が不明な感じになっています。)

(4)終曲部の終わり方。
現行《道成寺》では、後シテ蛇体は「日高の川浪深遠に飛んでぞ入りにける」となり、調伏した僧たちは「わが本坊にぞ帰りける」となっているのに対し、
黒川能《鐘巻》では、「またこの鐘をつくづくと返り見、執心は消えてぞ失せにける」となっている。


そのほか、細かいところでいうと、黒川の《鐘巻》では、五流の《道成寺》のように、鐘を竹棒にかけて担いでくることはなく、横倒しにした鐘を能力たちがじかに持って舞台に運んできます。

鐘も、黒川《鐘巻》のものは、比較的小ぶりで、軽そうでした。
(この小さな空間で、鐘を全く揺らさずに、物着をするのは至難の業だと思いますが、それをシテは見事になさっていました。)

また、アイの能力たちが、橋掛りではなく、脇正でゴロンと転がって寝込んだり、ワキ・ワキツレの僧たちも、能力と同様に寝入ったりするのも、御愛嬌 (=^^=)

間狂言も五流の《道成寺》とは違っていて、能力たちの会話は、
ほら、ナントカ拍子を寺に入れてしまったから……、紫(ムラサキ)拍子? ちゃうちゃう、白拍子やんっ! という、こんな関西弁じゃなかったけれど、これを東北弁にしたようなノリ♪

こういうところも、式楽化していない黒川能の、素朴な持ち味でした。


【前場】
黒川能では、五流に並ぶほど素晴らしい面・装束が使われています。
この《鐘巻》でも、そう。
前シテは、鱗文様の擦箔着付に、黒地縫箔腰巻。
壺折にしたクリーム色の唐織も良い具合に古色を帯びて美しい。

面は、内省的で悲しげな表情の曲見。
深みのある良い顔。名品です。

この優れた女面を、シテはじつに巧く使いこなされていて、
面遣いによって愁いのある翳りが生まれ、怨みの奥底に潜む、「こんなはずじゃなかった」という白拍子の後悔、愛する人に愛されたかった、ただ、それだけなのに、なぜ、こんなことになってしまったのか、という自責の念や悲しみが浮き上がってきます。

黒川独特の謡と囃子が、土俗的な妖しい雰囲気を引き立て、《鐘巻》に描かれた人間心理のドロドロとした陰湿さ、手に負えなさ、悲劇性(そして後場では、蛇のヌメヌメした執念深さ)を醸し出していました。

乱拍子では、巧みな足遣いで蛇の鎌首の動きや執念深さがあらわされ、烏帽子の払い落しも鮮やか。
鐘入りも、小刻みの足拍子の後、ワン、ツー、スリーのジャンプで吸い込まれるように鐘の中に入り、鐘の落すタイミングも見事でした!




【後場】
鐘が上がると、蛇体は両手をついて俯けに伏せた状態で姿を現します。
後シテの扮装は、赤頭ではなく、黒頭。
般若の面は、凄みのある形相ですが、その奥から悲痛な叫びが聞こえてきそう。
恋しすぎて狂乱した女の哀しい姿かもしれません。

体に巻いた衣を落とす鱗落しは、橋掛りではなく、後見座の前。

柱巻は蛇の執念深さというよりも、追い詰められた感じ。

実のところ、後シテには前場のような勢いがなく、動作がやや緩慢で、もしかすると、鐘入りの際に怪我をされたのかと少し心配に。
よくわからないけれど、もともとそういうものなのかな?

最後は僧たちに祈り伏せられ、「執心は消えてぞ失せにけり」と、揚幕の奥に消えていきますが、その前に蛇体の女は、「また、この鐘をつくづくと返り見」と、一の松で立ち止まり、振り返って鐘を見ます。
その時のシテの姿が、とても印象的でした。


《木曽願書》《こんかい》《鐘巻》、いずれも民俗芸能としてとても良い舞台でした。
ほんとうに、拝見できてよかった!






黒川能《木曽願書》《こんかい》~国立能楽堂特別企画公演

2017年11月11日(土)13時~17時 国立能楽堂

橋掛りの壁に掛けられた、春日神社の社紋「六つ目結の紋」
これは、12~16世紀に領主として黒川能を庇護した武藤氏の家紋でもある

能《木曽願書》上座
  
狂言《こんかい(釣狐)》上座

能《鐘巻》下座



先月の椎葉神楽、四天王寺舞楽の国立能楽堂公演に続き、今回は黒川能。
東京に居ながらにして楽しめるのが嬉しい。

今回上演された《木曽願書》と《鐘巻》は、それぞれ上座と下座によって明治中期に復曲されたもの。
幕末までは藩主・酒井氏の庇護のもとで発展してきた黒川能が、維新の混乱ののち、上下両座が競って実演曲を開拓。五流では廃曲になったものも、次々とレパートリーに加えられたという。
(これって、凄いことだと思う!)

権力者の庇護もなく、観光や町おこしのためでもなく、ただ黒川能と王祇祭への純粋な情熱に突き動かされ、集落の結束力・組織力に支えられて展開してきたというところに、黒川の人々の並ならぬパワーと努力を感じる。

さらに、演能の最初と最後に、一同が両手をついて深々と総礼をするのも、黒川能の特徴だ。
ちょうど《翁》でシテが正先で神々に向かって恭しく一礼するような、美しく敬虔なお辞儀で、「ああ、これは神事なんだ!」と素直に納得させる。
神の存在、神への畏敬の念のようなものが随所に感じられるのも、黒川能の魅力だった。


ふだん五流の能を観ている者の目には、黒川能は何かとても、前衛的でアヴァンギャルドに映った。
とにかく、ぶっ飛んでいたのだ!


能《木曽願書》上座
木曽義仲の倶利伽羅落の説話を舞台化したものだが、江戸中期に大幅に改作された観世流の《木曽》では、シテが太夫坊覚明なのにたいし、黒川能の《木曽願書》では義仲がシテとなる。
三読物のひとつとされる木曽願書を読み上げるのも、観世流では覚明だが、黒川能では義仲が勤める。

また、黒川能では酒宴のシーンと男舞がカットされ、代わりに源平戦闘場面(斬組)が残されている。

と、いうところまではあらかじめ知っていたのですが、後場の思わぬ展開にビックリ!!

【前場】
まず、笛片を先頭に、囃子方4人→地謡4人が揚幕から登場します(切戸口は後見のみが使用)。
地謡が脇座のところまで舞台前方にずれ、代わりに笛方が、通常の笛座ではなく、地謡前列右端の位置に着座します。

ん? 囃子方が4人?

直面物の現在能なのに、なぜ、太鼓が入るのだろう?
と、思ったら、これは後場への伏線でした。

一声(?)らしき囃子で、シテとツレの立衆が登場。
どこか森田流の寺井政数を思わせる、魔的な短調系の笛が味わい深い。

大小鼓の掛け合いも独特で、アイヤアーハー×3、ア、イヤイヤ、アーハー、ハイヤーアーハー、のような感じ。
時折、「ハッホンヨー」的な掛け声もあるが、聞きなれたものとはずいぶん違っていて地方色が強い。
地頭が前列端に座るのも、黒川流。

謡は、東北地方独特の方言なまりが混じり、なにかの呪文のような響き。
一音一音のあとに、「ナビキ」という、音の末尾の高さを変えたり、上下に震わせたりする謡い方をするのが、黒川の特徴とされている。

登場したシテ・ツレは、黒川能独特のカマエのまま、橋掛りを進んでくる。
両手の人差し指をまっすぐに伸ばし、両腕をかなり開いた状態に保つのが、黒川の基本のカマエ。
このカマエの形が、上掲写真の「六つ目結の紋」の形に似ていて、興味深い。


前場は、シテが義仲になって木曽願書を読み上げる以外は、観世流の《木曽》とだいたい同じ。
前述のように、黒川流の謡で読み上げられた願書には、祝詞のような呪術性があり、今にして思えば、それが後シテの登場へとつながっていた!


【後場】
早笛っぽい囃子で、ツレの立衆が登場。

カケリ風の囃子のなか、立衆たちが倶利伽羅峠での戦いを斬組(源氏は白鉢巻、平家は赤鉢巻)で再現していたかと思うと、
囃子が変わって揚幕が上がり、

なんと、
羽生八幡の神霊(後シテ)登場!!

ええっ! 
《木曽願書》って、現在物じゃなかったの!?

予期せぬ展開に驚きつつ、息を呑んで観ていると、
怪士系の面をつけ、男神の出立に身を包んだ後シテが、手にした弓にいきなり矢をつがえ、平家軍めがけて発射!

これには平家軍もひとたまりもなく、義仲軍は大勝を収めたのでした!
(たしかに神霊が出現したほうが、木曽願書の効力が視覚化されて分かりやすい。なるほどー。)


狂言《こんかい》上座
《釣狐》の別名だそうですが、黒川能では秘曲扱いではなく、「こんかい」には「後悔」の意味が重ねられているといいます。

《釣狐》では、後シテはキツネの着ぐるみを体全体に着るのに対し、黒川では、狐の面をかけ、毛皮のようなものを背中に被るのみ。

またキツネの罠も、《釣狐》は、木枠でつくった簡素なものに黒いネズミっぽい餌が載っている形ですが、黒川の罠には、尻尾のついた黒いネズミの餌が吊り下げられ、それを覆う熊笹のような草木が付けられていて、本物っぽい。
おそらく、実際に罠を仕掛けていた村人たちの実体験に基づく形状なのでしょう。

大習や極重習という大曲扱いではないものの、黒川の《こんかい》でも、シテのいかにもキツネらしい、獣性を帯びたリアルな所作に見応えがあります。
重々しくなく、もったいぶらないところも、黒川能の魅力です。

最後は、《釣狐》のようにキツネが罠を外して逃げるのではなく、罠にかかったままで終わってしまいます。
(キツネさんの運命や如何に!?)

こういうところも、自然とじかに対峙してきた黒川の里ならではの展開なのかもしれません。



黒川能《鐘巻》につづく






2017年11月6日月曜日

人でなしの恋 ~友枝昭世の《松風》

2017年11月5日(日)13時~17時  国立能楽堂
友枝会《松風》からのつづき

《松風》シテ 友枝昭世
   ツレ狩野了一 ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
   杉市和 曽和正博 國川純
   後見 内田安信 中村邦生
   地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 出雲康雅
      佐藤陽 内田成信 大島輝久 谷友矩


前記事でざっと感想を述べたのですが、心に刻んでおきたいので、とくに印象に残った部分を記しておこうと思います。

【ワキの旅僧の登場】
欣哉さんの旅僧は、さまざまな過去を想像させる漂泊の僧。
二人の姉妹の松の墓標に向かう姿にも、真摯で深い、憐みの心が感じられる。
欣哉さんの持ち味のひとつが、この外見上の、共感力の高さだ。



【松風村雨の登場→潮汲み】
登場楽は真ノ一声(簡略形?)。
杉市和さんの笛の音から、妖しく澄んだ月の光と、真珠のようにキラキラ輝く白い砂浜の映像が浮かび上がり、夜の浜辺に美しい姉妹が姿を現す。

舞台に入ったシテ・ツレは、同吟・掛け合いを経て、潮汲みの場面へ。

「寄せては返るかたをなみ(片男波)」で、「寄せる波」と「返る波」をあらわすべく、正中にいたシテが、角に置かれた汐汲車に近づくのと入れ替えに、脇正にいたツレが、常座までタラタラと下がる。

さらにシテは面を遣って、「芦辺の田鶴こそは立ち騒げ」と、水際にいた鶴たちが一斉にはばたくのを目で追い、「四方の嵐も音添えて」で、強風に耳を澄ますように辺りをゆっくりと見渡す。

須磨の浦の美しい光景を、シテの所作と囃子で次々と描写していくのも、この曲の見どころ。
詞章と演者の動き・地謡が呼応し、観客の五感を心地よく刺激する。


汐汲車の前で下居したシテは、「さのみなど海士人の憂き秋のみを過ごすらん」で、せつない思い出を汲み上げるように、開いた扇で舞台外から汐を汲む所作をする。
一度目はたっぷりと、二度目は控えめに。


「見れば月こそ桶にあれ」と、姉妹は月の影が映る桶をのぞきこむ。
「月は一つ」、「影は」「二つ」━━。
月は、一人の乙女の象徴。
影は、一人の乙女が感情(松風)と理性(村雨)に分離した、二つの人格の象徴だと思う。
恋をすると誰しも、感情と理性のはざまで揺れ動く。
その様子を演劇化したのが《松風》であり、だからこそ、その揺れ動き、自制の効かなくなった狂乱に、観客も自分の過去or現在の恋心を重ね合わせてしまうのかもしれない。



【クセ】
クセ地の前あたりから、喜多流の地謡が色艶を増していく。

床几に掛かったシテは、行平の形見の衣を左手に持ち、
「形見こそ今は仇なれ」と、衣を脇へ遠ざけつつも、
「これなくは、忘るる隙もありなと」と、やはり形見を引き寄せて、いとおしげに見入る。

さらに床几から立ち上がり、
「捨てても置かれず」で、衣を振り捨てるような所作をしたのち、
「取れば面影に立ちまさり」と、掻き立てられるように形見を抱きつつ、
「涙に伏し沈む事ぞ悲しき」で、衣を熱く抱擁しながら、小さく回って、松のほうへ近づいていく。

シテの腕のなかの烏帽子と狩衣が、まるで実体のある人形のように見え、
しっとりと、思い込めた抱擁は、江戸川乱歩の『人でなしの恋』を連想させる。

長持ちのなかの美しい京人形に、命懸けの恋をした男の話だ。

シテが狂おしく抱きしめた行平の人形には、過去の恋の亡霊が憑依し、その人形はやがて若き日の松風の姿と重なって、シテは行平とともに、恋に身を焦がした自分自身をも抱きしめているように見える。

乱歩の耽美的で倒錯的な世界とも通じる、官能的なシーンだった。



【物着→シテ・ツレ掛け合い】
正中で水衣を脱ぎ、紫長絹に烏帽子を身につけたシテは、ハッと気づいたように松を見上げ、「あら嬉しやあの松蔭に行平の御立ちあるが……」と狂喜して、立ち上がる。
ここは割と(ちょっと大げさすぎるくらい)、はっきりとした面遣い。

ここから「立ち別れ~」で、シテ・ツレがシオリつつ交差し、ツレは笛座へ、シテは橋掛りに向かう見せ場となるが、この日は比較的あっさりめで、シテは幕際までは行かずに、二の松でUターンして舞台に戻り、中ノ舞に入っていく。



【中ノ舞→破ノ舞→終曲】
中ノ舞は、甘い陶酔に身を任せつつ、過ぎ去った恋を哀悼するような追想の舞。
シテは二段オロシで右袖を巻き上げ、じいっと松を見つめる。

舞を得たシテは、「磯馴松の」で袖を巻き上げて松に駆け寄り、
「なつかしや~」で後ろに下がって左袖を巻き上げたままシオリ返し。

さらに破ノ舞に入り、脇座前で袖を被き、そのまま作り物の松の前、正先ギリギリを駆け抜けていく。


なにかここで、過去の恋への妄執も情念も浄化され、小面の表情から曇りが抜け、月のように澄んでいくのが見て取れた。

ツレを先立てて橋掛りを去ってゆくシテは、三の松の手前で立ち止まり、振り返って袖を被き、懐かしげに松を見つめる。


そのまなざしには、行平への苦しく断ちがたい恋情はなく、
すべては過去のものとして悟り、諦観した、静かな穏やかさがあった。





友枝会《松風》~概観

2017年11月5日(日)13時~17時  国立能楽堂

《松風》シテ 友枝昭世
   ツレ狩野了一 ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
   杉市和 曽和正博 國川純
   後見 内田安信 中村邦生
   地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 出雲康雅
      佐藤陽 内田成信 大島輝久 谷友矩

《茶壺》シテ 野村萬
    アド野村万之丞 小アド野村万蔵

《野守》シテ 友枝真也
   ワキ則久英志 アイ能村晶人
   一噌隆之 森澤勇司 柿原光博 小寺真佐人
   後見 塩津哲生 佐々木多門
   地謡 大村定 長島茂 友枝雄人 金子敬一郎
      塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤寛泰



楽しみにしていた友枝昭世さんの《松風》。
昭世さんや万三郎さん、九郎右衛門さんの舞台を拝見していつも思うけど、名手の舞台には意外性がある。
好い意味で、こちらの予想を裏切ってくれる。

公演記録で観た昭世さんの《松風》は、狂気に突き動かされ、恋の熱情がシテの全身から立ちのぼるような凄さだった。

今回もそういう《松風》を勝手にイメージしていたのですが;

この日の《松風》では、そうした「情念の極み」的な側面は比較的抑えられ、シテは、身を焦がし、身悶えしながら待ち続けた恋の苦悩の日々を、どこか甘く、懐かしい想いで振り返りつつ、追慕の舞っているようだった。


最後には、松風の魂が昇華されて、
その分身だった村雨とひとつになり、
行平の象徴であり、恋の墓標でもある松とも不離一体となって、
松の精とも、月の精ともつかない、朧げに透き通った存在となり、
みずから松風を聞きながら、
引き潮とともに海の彼方へ、
あるいは、月の世界へと還っていくようだった。


万三郎さんの舞台でもいつも感じるように、
友枝昭世さんも拝見するたびに、削ぎ落せるものは削ぎ落しつつ、体の軸が微塵もぶれない強靭な足腰で、舞と型の精髄を、力みのない軽やかさで舞っている。

ほんとうは膨大なエネルギーと細心の注意・神経を使っているのだろうけれど、あらゆる自然の摂理や物理的束縛から解放されて、「型」もほとんど「型」ではなくなったかのように、自由に、自然に、軽やかに舞っているように見える。
とりわけ万三郎師の舞には、そうした印象がある。


世阿弥がしばしば使った「少な少なに」という言葉、
それでいて「花はいや増しに見えしなり」という言葉を想起させる。


そして、この御二人に共通するのは、終曲部でじつに印象深く、意味ありげな視線をこちらに投げかけること。
もちろん、それはこちらの一方的な錯覚&妄想にすぎないのだろう。

でも、シテが面を通して観客に投げかける視線によって、シテとの一体感がさらに高まり、観る者を曲中に深く、強く引きこみ、演者とともに創り上げた独自の物語世界を観者の脳裏に映写させる。
こういうことができるのも、名手のなせる業だと思う。


いま現在の友枝昭世師にしか舞えない唯一無二の《松風》、いまの昭世師独自の《松風》の世界を堪能できた至福……。




前置きが長くなったので
細かい内容は、友枝昭世の《松風》に続きます。





2017年10月30日月曜日

大槻文蔵の《弱法師》~寺社と能〈四天王寺〉国立能楽堂企画公演

2017年10月28日(土)13時~15時50分 国立能楽堂
天王寺舞楽からのつづき

能《弱法師》シテ俊徳丸 大槻文蔵
      ワキ高安通俊 福王和幸 アイ従者 善竹十郎
      藤田六郎兵衛 大倉源次郎 柿原崇志
      後見 武富康之 大槻裕一
      地謡 観世銕之丞 柴田稔 馬野正基 浅見慈一
         長山桂三 観世淳夫 谷本健吾 安藤貴康



大槻文蔵師に対しては、観能の原体験ともいうべき、トラウマがあります。
大学時代、大槻能楽堂で文蔵師の鬘物を見て爆睡したことがあり、それを機に「能なんか症」に罹患。近年になるまで能の魅力に気づかずにいました。
(もちろん、爆睡したのはわたしが未熟だったせいなのです。)
ただ、相性の問題もあるのでしょうか、まちがいなく当代第一人者のおひとりだと思いますし、人間的にも尊敬できる方のようにお見受けするのですが、正直、ちょっと敬遠気味でした。

前置きが長くなりましたが、《弱法師》、良い舞台でした!


【一声の囃子→シテの登場】
とりわけ心を打たれたのが、一声の囃子。
源次郎師の小鼓は音色が美しいだけでなく、
俊徳丸の身に降りかかった不運、絶望、視力さえ失うほどの悲惨な境遇を切々と物語り、謡いあげる。
シテが出る前から、俊徳丸の気配が漂ってくる。

柿原崇志師の大鼓も冴えわたり、老いてますます盛ん、脂がエネルギッシュに乗り切っている。
後見には孝則さん。
若竹のように伸び盛りの孫に、芸の真髄を身をもって教えることができる現役バリバリの崇志師は、とても幸せな囃子方さんだ。


味わい深い囃子によって、与太者・あぶれ者がたむろする四天王寺界隈の猥雑さ━━弱法師の世界が醸成されたところへ、シテが登場する。

幕離れも美事。
弱法師の面も素晴らしい。
悲哀と諦観が入り混じる複雑な能面の表情が、さまざまな物語性を宿していて、こちらの想像力を掻き立てる。
この弱法師の面にもっともふさわしく、もっとも自然な、胴体と手足、姿勢と所作・挙動を、シテはほとんど理想的な形で表現している。
運命に苛まれた、細くやつれ、うちひしがれた身体。
そして、その内側に潜む若くみずみずしい生気と色気、名家育ちの気品。

《弱法師》の俊徳丸に必要なすべてがシテの姿と挙措に集約されている。


【終曲へ】
俊徳丸が石の鳥居から境内に入るところは、自分を保護する聖域に漂着したような安堵感が感じられ、梅の香を聞くところは、艶めく春の香りがふんわりと漂うよう。

地面に倒れ伏すところは、俊徳丸を押しのけて突き飛ばし、無神経にぶつかってくる群衆を、3D映像のようにリアリティ豊かに感じさせる。

シテは非の打ち所がないように見える。
それをどこか遠巻きに、左脳的に眺めている自分。




【元雅の意図】
《弱法師》を初めて見た時は、「満目青山は心にあり」の箇所がこの曲の眼目だと思い込んでいたけれど、実はそのあとの、群衆に突き飛ばされ嗤われて、「今よりは狂はじ」と心に誓う、その箇所こそが核心部分なのではないかと、この日の舞台を観て気づかされた。


元雅が描きたかったのは、「幸せは心の中にある」という、いかにも悟ったような綺麗事のではないのかもしれない。
俊徳丸が、「今よりは狂はじ」と固く心に決め、感情の発露を胸の内に封じ込めるところ、人の嘲笑を超然とはねつけられず、悟りきれない人間の心情を描いたところに、この曲の醍醐味があると思う。


高安通俊はみずから追放した息子を、夜陰に紛れて連れ帰る。
家に帰った後も、土地の名士である通俊は世間体を気にして、息子を奥座敷に隠し住まわせるような予感がする。
俊徳丸も過剰な期待は抱かず、なかば幽閉状態になることを覚悟で、「今よりは狂はじ」と感情を押し殺し、運命に身を任せて生きていくのだろうか。

孤独でいたいけな少年の姿のまま橋掛りを去っていくシテの後姿が、かつて観た《菊慈童・酈縣山の前場で深山の流刑地に赴く慈童の姿と少しだけ重なって見えた。






2017年10月29日日曜日

天王寺舞楽~国立能楽堂企画公演〈四天王寺〉

2017年10月28日(土)13時~15時50分 国立能楽堂
解説からのつづき
天王寺舞楽:天王寺楽所雅亮会(以和貴会)
解説 小野真龍
《採桑老》 一人舞 懸人(1人)
《甘州》  四人舞
《鮮莫者》 一人舞
      京不見御笛当役(1人)
      打物:鞨鼓1、太鼓1、鉦鼓1
      管方:鳳笙3、篳篥3、龍笛3
      装束方3

能《弱法師》シテ俊徳丸 大槻文蔵
      ワキ高安通俊 福王和幸 アイ従者 善竹十郎
      藤田六郎兵衛 大倉源次郎 柿原崇志
      後見 武富康之 大槻裕一
      地謡 観世銕之丞 柴田稔 馬野正基 浅見慈一
         長山桂三 観世淳夫 谷本健吾 安藤貴康



さて、いよいよ天王寺舞楽公演です。
明治以降、京都・奈良・天王寺の楽人たちが東京に召され、四天王寺の舞楽法要も一時中断しますが、その後、雅亮会が結成され、舞楽法要が再興されます。

それにしても、先日拝見した宮内庁楽部は国家公務員として安定した収入があるのに対し、四天王寺の雅亮会の方々はどうされているのだろう(兼業かな?)。雅楽発祥の地で古式の舞を継承していくことのご苦労がしのばれます。


《採桑老》 
左方(唐楽)・盤渉調の一人舞
不老長寿の妙薬を探す老人を表現した舞。この舞を舞うと死ぬという不吉な言い伝えもあるとされるが、平安期には長寿をことほぐ舞だったという。

装束は別装束(冬直衣)で、白地の袍に、浅葱色の指貫。
白地金襴の牟子(頭巾)に笹をつけている。
鳩の作り物のついた鳩杖を持っているのも特徴的。

面は、能の翁面の造形に影響を与えたとされる老人面だが、老人といっても、鼻筋の通った整った顔立ちの美形の老人で、実在の人間をモデルにしたようなリアルさがある。

舞人は老人らしく、鳥兜をかぶった懸人に伴われ、懸人の肩に手をのせたまま、揚幕から橋掛りを通って登場(→退場の時も懸人が付き添う。高齢者介護を舞に取り入れたところが凄い!)。

足を開いて、低く腰を落とす「落居」などの舞楽独特の舞の手が入る。
膝を直角に曲げて腰を落とすスクワットのような手が多用され、大変なエクササイズだ。
四天王寺の楽人が、老人らしさを演出するために振り付けたとされる「洟をかむ」手もあるらしい。

盤渉調の音楽に癒される……。
美しい老人の舞だった。



《甘州》
左方・平調の四人舞。
唐の玄宗皇帝の御遊の際、官女の装束が風になびくさまが、仙女が舞うように見えたため、その様子を舞楽化したものとされる。

装束は襲装束だが、袍の両肩を脱ぐ「前掛(まえだれ)・裾(きょ)」に着装する。
頭には鳥兜ではなく、冠に緌(おいかけ)を着けていて、いかにも平安貴族らしい出立。


曲の構成は、
①破の「延甘州」、②急の「早甘州」の二段に分けて舞われる。

「種子播手(たねをまくて)」などの型があるそうだが、どの動きがそれに相当するのかはわからなかった。
足をあげて踵をつき、上体を前後させる手など、勇壮かつ優雅な舞。



《鮮莫者》 
左方・盤渉調、一人の舞人が激しく動き回る走舞。

曲の由来にはおもに二つの説があるが、
聖徳太子が建立した四天王寺では、太子が河内国の亀瀬を渡りながら尺八(古代雅楽に用いられた縦笛のこと)を吹いていたところ、その音色に感動した信貴山の山神が猿の姿で現れ、舞を舞ったという故事にちなんで上演される。

それゆえ、京不見御笛当役と呼ばれる龍笛の音頭(リーダー)が、聖徳太子の扮装をして舞台脇で演奏する。
「京不見御笛(きょうみずのおふえ)」とは、聖徳太子ゆかりの名笛を指し、かつては実際に演奏に用いられたそうだが、現在は自前の笛を吹くという。

聖徳太子に扮した京不見御笛当役の出立は、左方の襲装束に、纓(えい)がプロペラのように大きく左右に張り出した唐冠を被り、腰には太刀を佩いたもの。
この日は、笛座に立って演奏していた。

曲の構成は、
①古楽乱声(こがくらんじょう):舞人が登場し、出手(でるて)を舞う。
②蘇莫者音取
③当曲序
④当曲破

猿のような山神の化身たる舞人の扮装は、毛皮を模したような毛縁裲襠をつけ、その上から蓑を着る。袍は紅地の紗で、袖先を露紐で括る。袴も足首のところで括っている。
手に持つ桴は、ずんぐりしたゼンマイのような独特の形状。

赤い舌を出した金色の面には、長い髪がついている。

舞人の動きも猿を模したように、ぴょこぴょうこ動いたり、小走りになったり、首を片方に傾けてから勢いよく反対側に向けたりするなど、敏捷な動物を思わせる。


笛を吹く貴公子の聖徳太子と、猿に扮した山神の共演。
雅楽の調べとあいまって、古代ロマンを感じさせる幻想的な舞台だった。



能《弱法師》へつづく



2017年10月28日土曜日

国立能楽堂企画公演・寺社と能〈四天王寺〉天王寺舞楽・弱法師

2017年10月28日(土)13時~15時50分 またもや雨 国立能楽堂

能舞台に出現した舞楽空間
向かって左から、鉦鼓、太鼓、鞨鼓
 天王寺舞楽:天王寺楽所雅亮会(以和貴会)
解説 小野真龍
《採桑老》 一人舞 懸人(1人)
《甘州》  四人舞
《鮮莫者》 一人舞
      京不見御笛当役
      打物:鞨鼓1、太鼓1、鉦鼓1
      管方:鳳笙3、篳篥3、龍笛3
      装束方3

能《弱法師》シテ俊徳丸 大槻文蔵
      ワキ高安通俊 福王和幸 アイ従者 善竹十郎
      藤田六郎兵衛 大倉源次郎 柿原崇志
      後見 武富康之 大槻裕一
      地謡 観世銕之丞 柴田稔 馬野正基 浅見慈一
         長山桂三 観世淳夫 谷本健吾 安藤貴康


国立能楽堂で、雅楽の公演が催されるのは初めてとのこと。
今まで開催されなかった理由は、やっぱり、沓でしょうか……。

能舞台は足袋が基本だし、先日の神楽公演のときも演者は足袋を履いていたし。
観ていて抵抗がなかったといえば……うーん、どうかな。
《張良》でさえ沓は履かずに、投げて、拾いに行くだけですから。
(と、思ったら、調べてみると流儀によっては《張良》で沓を履いて歩く演出もあるのですね。ちょっとびっくりだけど、なるほどー。)

それはともかく、天王寺舞楽自体は素晴らしかったです!

(なんと!)小野妹子の末裔という小野真龍氏の解説では、天王寺舞楽と能との親近性が挙げられていて興味深い。
少し補足して、能と天王寺舞楽(or雅楽全般)との類似性をまとめてみると;


(1)能も雅楽も、秦河勝(もしくはその子息)を始祖とする点
『風姿花伝』には、天下に災いがあった時、聖徳太子が六十六番のものまね(神楽)を秦河勝に演じさせたのが、申楽の初めであることが書かれている。

いっぽう雅楽も、聖徳太子が外来音楽で仏教を称揚するべく、秦河勝の息子や縁者たちに、隋などから伝来した音楽を学ばせたことが始まりとされる。この河勝の子息たちが、四天王寺の四楽家(東儀・林・・岡)の祖となった。



(2)散楽(物まね芸)的要素が入っている点
大和申楽には、ものまね芸的な要素が入っているが、天王寺舞楽も、宮内庁の雅楽に比べると、リアルな写実的所作が多く含まれる。

(わたしが先日、宮内庁雅楽演奏会で観た《胡徳楽》にも、ヨタヨタと背中を丸め、腰をかがめて歩く所作など、観客の笑いを誘うようなリアルで物真似的な表現があり、まるで狂言の元祖みたいだと思ったのですが、宮内庁の雅楽にもそうした散楽的要素が残っているようです。)

また、世阿弥は京への進出にあたり、雅楽から序破急の概念を取り入れて、たんなる物真似芸を洗練させたとのこと(能の囃子の「盤渉」や「黄鐘」の概念も、雅楽から採用したものですね)。



(3)神仏習合
近世まで日本の宗教は神仏習合(混淆)が一般的だったが、明治以降、雅楽は天皇を荘厳するためのものとなり、仏教色が排除された。

しかし、天王寺舞楽では、聖徳太子の命日の法要である聖霊会に仏舎利をのせた神輿が出るなど、神仏混淆的要素がいまも残っている。
能楽でも、謡曲の中で神仏が習合されている。


雅楽も能楽も、その由来を聖徳太子と秦河勝に辿ることができるというのが面白い!


天王寺舞楽公演の様子は次の記事に掲載します。




2017年10月26日木曜日

椎葉神楽・悠久の舞~能舞台に神々が舞い降りる

2017年10月26日(木)13時30分~18時 国立能楽堂


主宰者挨拶
基調講演 神楽のはじまりと芸能への進化 神崎宣武
     椎葉神楽への誘い       小川直之

神楽公演・第一部
案永(あんなが)、大神(だいじん)、鬼神(きじん)

神楽公演・第二部
ちんち、かんしん、手力男、森の弓、泰平楽、弓通し


能舞台の上に再現された神楽の神庭(こうにわ)
去年の高千穂神楽と比べると、シンプルかつシック


昨年の高千穂の夜神楽に続いて、国立能楽堂での2度目の宮崎神楽公演!

今回は、九州山地にある椎葉村の神楽です。
村内26地区に伝承されている椎葉神楽は、地区によって、舞や衣装、太鼓の調子が異なり、この日上演された「向山日添神楽」は、椎葉村の熊本県境に近い20戸100人ほどの向山日添集落に伝わる神楽だそうです。

椎葉神楽の特色としては;

(1)現在も狩猟や焼畑農業を営む山間部の集落であることから、神楽にも狩猟神事が織り込まれ、山の神の贈り物である猪肉を奉納したり、村人たちで肉を切り分けたり、猪の頭を神前に供えたりする。

(2)仏教色を一掃する唯一神道化の影響がみられず、神仏混淆の唱教が多く残されている。

(3)修験道の影響がみられる。たとえば、採物舞では、錫杖のように鉄の輪に遊環(ゆかん)をつけたものを持ち、頭の鉢巻きの下には、修験者の兜巾を模した三角形や五角形のすみとり紙を挟む。

などが挙げられます。

演奏も太鼓だけというシンプルさ。


祭壇上の神楽面のアップ。向かって右側の面が公演で使用された。


わたしが個人的に感じたのは、
昨年見た日之影神楽や高千穂神楽は。天岩戸伝説などの具体的な物語を演劇的かつ写実的に描いていたのに対して、椎葉神楽は、神話にもとづく「手力男」をのぞけば、抽象的な舞が多く、演劇性に頼らないぶん、舞の技術力・体力に高い水準が求められること。


このように剣を掲げて、大きく反り返る型を数十回繰り返すなどハードな舞


かなりハードな舞の型が連続し、それが長く続くため、相当のスタミナも要求されます。狩猟や焼畑耕作など日々の労働で鍛え抜かれた身体で舞う男っぽい舞。

厳しい自然と対峙しつつ、自然の恵みに感謝するという、現代の都会生活では忘れ去られている感覚が椎葉神楽には息づいていて、それがとても魅力でした。



神楽公演
それぞれの演目を簡単に紹介します(解説はプログラムを参考にしています)。

①案永(あんなが)
案永
椎葉神楽唯一の楽器・太鼓の由来を説く、唱教のみの演目。





②大神(だいじん)

大神
笠、白張、袴の姿で舞う二人舞。
右手に鈴、左手に、大神幣を持つ。


採物となる幣は左から、稲荷幣、五ツ天皇幣、荒神幣、大神幣



③鬼神

鬼神

二人舞。一人は、面、毛笠、白張、袴、青襷、赤緑白の背負い紙。
左手に扇、右手の面棒をバトンのようにくるくる回して舞う。
もう一人は、すみとり紙に赤鉢巻き、白張、袴に赤襷。
鈴と扇で舞う。





④ちんち
ちんち

4人舞。すみとり紙に赤の名が鉢巻き、白の舞衣に赤の紐帯、稲荷幣を腰に差した姿で舞う。
右手に鈴、左手に扇。




⑤かんしん
かんしん
4人舞。すみとり紙に赤の長鉢巻、白の舞衣に赤の紐帯、一組は赤、一組は青の長襷の姿で舞う。
男らしく勇壮な剣舞。



⑥手力雄(たぢから)

手力男
太夫の一人舞。
手力面にしゃぐま、その上に毛笠をかぶる。白張、袴、赤の腰帯、腰には稲荷幣を2本交差させて差す。
右手に鈴、左手には二本組の大神幣を持つ。
凝った型が続く、難度の高い舞。




⑦森の弓

森の弓
右手に鈴、左手に弓を持つ二人舞。
こういうところが、いかにも狩猟の民らしい。



⑧泰平楽

泰平楽

観客も立ち上がって、お土産にいただいた幣を持ち、演者と一緒に舞う。
泰平の世を祈願して。
舞はよくわからなかったけど、楽しかった!

お土産にいただいた幣

観客が会場を出る際には、茅の輪くぐりのように、二本の弓を立てて輪にした間をくぐって、無病息災をお祈りする「弓通し」が行われた。


椎葉村のおもてなしの心に感謝!
舞中心の神楽なので、個人的には昨年以上に楽しめた公演でした!





2017年10月24日火曜日

万三郎の《当麻》後場・橘香会~古代大和のレイライン

2017年10月22日(日)13時~15時5分  国立能楽堂
《当麻》前場からのつづき (台風接近のため1番のみ拝見)

能《当麻》シテ化尼/中将姫 梅若万三郎
   ツレ化女 八田達弥
   ワキ旅僧  福王和幸 従僧 村瀬提 矢野昌平
   アイ門前ノ者 野村万禄
   槻宅聡 久田舜一郎 亀井忠雄 林雄一郎
   後見 清水寛二 山中迓晶
   地謡 伊藤嘉章 西村高夫 加藤眞悟 馬野正基
      長谷川晴彦 梅若泰志 永島充 古室知也



能《当麻》の舞台は、彼岸中日の二上山の麓。
二上山の真東には三輪山があり、この古代大和の太陽の道に沿って、春分・秋分の日には、三輪山から昇った太陽が、二上山へと沈んでいく。
 
小川光三著『大和の原像』(大和書房)によると、二上山と三輪山を東西につなぐレイラインの延長線上には、伊勢神宮の故地とされる伊勢斎宮跡があり、彼岸の中日には斎宮跡から昇った太陽が、三輪山を通って、二上山に沈むという。

ここからは私見だが、
能《三輪》で天岩戸伝説が再現されるのも、偶然ではないと思う。

《三輪》の時節とされる晩秋には、三輪山から見て日の出の方角が、ちょうど現在の伊勢神宮に当たることになる。

つまり、《三輪》の舞台の進行と呼応するように、シテが夜神楽を舞ったのち、「常闇の雲晴れて、日月光り輝けば」で、伊勢の方角から朝日が光輝き、アマテラスの象徴である曙光が三輪山をサーッと照らすと、三輪山頂にある「磐座」に降臨して、文字通り、「伊勢と三輪の神」(天照と大物主)が「一体分身」となるのだ。


大和申楽出身の《当麻》や《三輪》の作者は、先祖代々刷り込まれた古代大和の太陽信仰を無意識に感じながら、これらの名作を作曲したのかもしれない。

万三郎の《当麻》は、太陽の光と存在を感じさせる舞台だった。



【後場】
出端の囃子で、後シテが現れる。
「二段返」の小書を元伯さんの太鼓で観たのは3年前の銕仙会
もうずいぶん、遠い昔のような気がする……。
この日の太鼓は林雄一郎さん。音色が澄んで、研ぎ澄まされてきた。端正な居住まいもお師匠様の風を受け継いでいらっしゃる。

中将姫の出立は、白蓮の天冠にサーモンピンクの緋大口、唐草文を金で施した輝くような舞衣。
面は、佳麗無比の増。
もしかすると、2年前の《定家》の時と同じものだろうか?
いつまでも飽きることなく眺めていたいほど神々しい女面で、万三郎の中将姫にしっくり合う。シテを選ぶタイプの増の面だと思う。



〈称賛浄土教の伝授〉
中将姫の精魂は、ワキ僧に経巻を授け、経巻を広げたワキとともに称賛浄土教を読誦し、阿弥陀如来の教えを説く。

シテと地謡の掛け合いの箇所に特殊な節が入り、「令心不乱、乱るなよ」では「なよぉ~~」、「十声(とこえ)も」では「もぉ~~」と、高音の節でグンッと山をつくるような独特の謡い方をするのが特徴的。



〈早舞〉
森田流の破掛リの盤渉早舞。
菩薩の境地に至った中将姫が仏の教えを説く高貴で荘厳な舞のため、速度は速くなく、ゆったりしている。

まばゆい光の粒子をまき散らしながら、純白の袖を翻すシテの姿は、
かぎりなく軽やかで、自由で、天使のように無心に見える。

天冠の瓔珞ゆらめきが、陰翳のうつろいをつくり、
中将姫はうっとりとした法悦の表情を浮かべ、
極楽の世界を垣間見せるその舞姿に、阿弥陀如来の面影が重なり合う。

シテは舞うなかで、
中将姫になり、菩薩になり、阿弥陀仏になり、

さまざまに印象を変えながら、
やがてすべては一体となり、

「さを投ぐる間の夢の」と、常座で左袖を巻き上げ、

万三郎は、こちらに
まっすぐ視線を向けたまま、

一歩、二歩、三歩、
しずかに、おごそかに、後ろに下がりつつ

夕日のような金色の後光に包まれながら、

ゆっくりと、沈んでゆく
あの山の向こうへ

志賀津彦、大津皇子、隼別、天若日子、
俤人、
山越の阿弥陀……

すべては、シテのなかで溶け合い、
ひとつになって、

あの山の向こうへ
消えていった。







2017年10月23日月曜日

国立の能楽堂で、万三郎の当麻を見た ~橘香会《当麻》前場

2017年10月22日(日)12時30分~17時40分  国立能楽堂

解説 馬場あき子

能《当麻》シテ化尼/中将姫 梅若万三郎
   ツレ化女 八田達弥
   ワキ旅僧  福王和幸 従僧 村瀬提 矢野昌平
   アイ門前ノ者 野村万禄
   槻宅聡 久田舜一郎 亀井忠雄 林雄一郎
   後見 清水寛二 山中迓晶
   地謡 伊藤嘉章 西村高夫 加藤眞悟 馬野正基
      長谷川晴彦 梅若泰志 永島充 古室知也

狂言《萩大名》シテ大名 野村萬
  アド太郎冠者 野村万之丞 茶屋 野村万蔵

仕舞《葛城》    梅若万佐晴
  《邯鄲・楽アト》中村裕
    伊藤嘉章 遠田修 梅若久紀 根岸晃一

能《山姥》シテ女/山姥 青木健一
   ツレ百万山姥 観世淳夫
   ワキ大日方寛 舘田善博 梅村昌功
   アイ里人 能村晶人
   藤田次郎 古賀裕己 佃良太郎 小寺真佐人
   後見 加藤眞悟 谷本健吾
   地謡 青木一郎 八田達弥 梅若紀長 長谷川晴彦
      遠田修 梅若泰志 古室知也 梅若久紀


タイトル通りのことを、ずっと経験したいと願っていた。
帰りは、「星が輝き、雨が消え残った夜道を歩いていた」わけではなく、台風接近中の土砂降りのなか、ずぶ濡れで帰宅したわけだけど、それでも「白い袖が飜り、金色の冠がきらめき、中将姫は、未だ眼の前を舞って」いた。
もちろん、万三郎は小林秀雄が観た万三郎ではなく、当代万三郎、わたしにとって、美しい「花」そのものの万三郎だ。

今年は秋から冬にかけて、このシテでこの曲を観たい!と切望していた舞台がいくつかあり、今、この時、能を観ていてよかったと心から思う。


【前場】
次第の囃子で念仏僧の一行が登場。
ワキは茶水衣に角帽子、ワキツレはブルーの水衣、青灰色の着流。

『一遍聖絵』には、鎌倉期に一遍上人が当麻寺に詣でた際、中将姫自筆の称賛浄土教一巻を寺僧から譲られた話が描かれているから、おそらくこのワキは一遍上人がモデルなのだろう。

ワキ僧が三熊野詣からの帰途に当麻寺に立ち寄るという設定も、熊野権現の本地が当麻曼荼羅に影向するという、当時の信仰が反映されているのかもしれない。


〈シテ・ツレの登場〉
シテとツレが一声の囃子で登場し、それぞれ三の松と一の松に立つ。
シテの出立は、クリームがかった白い花帽子に薄茶の水衣、桔梗などの秋花をあしらった古色の美しい段替唐織。手には杖。

シテの面が、印象的だ。
目じりが下がり、眉間にしわを寄せた通常の「姥」ではなく、
盲目のようなその目は横にスッと伸びる切れ長で、皺が少なく、かすかな若さの残滓が認められる相貌には聡明な輝きと神々しい品格が漂い、表情には慈愛よりも、毅然とした厳しさがある。


シテとツレが、名所教えのように当麻寺と染殿の井を紹介し、シテとワキとの掛け合いのあと、地謡が受けるくだり。
「掛けし蓮の色桜、花の錦の経緯に、雲の絶え間に晴れ曇る、雪も、緑も、紅も」と、錦の綴れのように風景を色あざやかに織り込んでいく詞章が美しい。

シテは、「西吹く秋の風ならん」で、西方浄土からの音信を聞くように、脇正を向いて風の音にそっと耳を澄またのち、
大小前で床几に掛かり、クリ・サシ・クセで、地謡を介して中将姫譚を語っていく。


〈クリ・サシ・クセ〉
当麻曼荼羅の縁起が強吟のクセで語られる。

いつもながら、万三郎の静止の姿はこのうえなく美しい。
水晶を刻んだ彫刻のように、静かに光を透過して、その時々でさまざまな色にきらめきながら、語られた物語を不動のまま紡いでいく。
水晶玉に占いの結果が映写されるように、観ているほうは、老尼の脳裏に浮かぶ映像をのぞいている気分になる。


そして、語られる物語をしっかり受け止めるのが、ワキの念仏僧。
福王和幸さんの下居姿は、万三郎の相手役にふさわしく、重心が天地を繋ぐ軸上に安定しており、シテの「気」を受け止め、見事に共鳴していた。

シテより先に登場し、シテの後に退場して舞台を終始見守るワキ。
その存在は、書類の隅を一カ所だけ留めるホッチキスのようなもの。
パラパラと書類をめくるように展開する物語を、舞台の隅の脇座でしっかり繋ぎとめ、舞台を継続して引き締める。

だからこそ、ワキの下居の佇まいは極めて重要で、物語の展開に即して、どこから見ても美しい姿勢を保つには非常に高い技術力・身体能力が求められる。
和幸さんは技と骨格のしっかりした、良いワキ方さんだと思う。



〈化尼化女(阿弥陀如来・観音菩薩)に変じて中入〉
老尼は物語るうちに正体を明かし、紫雲に乗って昇天する。

シテは「二上の嶽とは」で、床几から立ち上がって前進し、
「二上の山とこそ人はいへど」で、両手を杖の上に置く。
「尼上の嶽とは申すなり」で、脇正に進んだかと思うと、
「老いの坂を登り登る」で、
腰の曲がった老婆のように、腰をグッと低く落として杖を突き、
左、右と向いて、ジグザグに山を登るような特殊な足遣いをしたのち、
「雲に乗りて」で、杖を捨て、
「紫雲に乗りて上りけり」で、雲がたなびくように余韻を残しつつゆっくりと中入。

送り笛はなく、間狂言の途中から笛が入る演出だった。



《当麻》後場につづく





2017年10月21日土曜日

宮内庁雅楽演奏会

2017年10月21日(土)14時30分~16時 皇居・宮内庁楽部

2階から見た舞台
手前向かって右から鞨鼓、楽太鼓、鉦鼓。
奥にあるのが、右方用の大太鼓(右)と左方用大太鼓(左)

【曲目】
(1)管弦: 盤渉調音取・青海波・千秋楽
(2)舞楽: 陵王・胡徳楽


嬉しいことに、今月は雅楽鑑賞の機会に恵まれ、この日が第一弾!
曲目にちなんで、鼓青海波の地紋入り色無地に向い鶴の袋帯を締めていくつもりだったけど、雨のなか開場前に着物で並ぶなんてムリッ!と思い、断念。
10月なのに雨ばかり……。



こちらは1階から見た舞台
開場20分くらい前に着いたのですが、すでに途方もなく長~い列。
でも、ラッキーなことに1階最前列に座れました。
2階のほうが全体を見渡せていいいらしいけど、演者の息遣いや動きを感じたかったから。




左方(唐楽)用大太鼓
 ↑舞台向かって左にあるのが、左方(唐楽による舞楽)に使われる大太鼓。
縁飾りには、阿吽の昇龍。
鼓面が三つ巴で、竿先に日輪がついているのが特徴。
鼓面の色彩も、下↓の右方用の大太鼓に比べて華やか。




右方(高麗楽)用の大太鼓
↑向かって右にあるのが、右方(高麗楽による舞楽)に使用される大太鼓。
縁飾りには、鳳凰、鼓面が二つ巴で、竿先には月輪がついています。





大鉦鼓
↑左右それぞれの大太鼓の脇にある大鉦鼓。
こちらも大太鼓と同じく舞楽用で、左方・右方に合わせてそれぞれ昇龍と鳳凰が火炎形の縁飾りに彫刻されています。



さて、肝心の雅楽演奏はとっても素晴らしく、この空間ならではの独特の雰囲気があって堪能しました。
まずは、「管絃」から。
管絃とは、舞楽のメインとなる「当曲」の部分を管絃編成で演奏するもので、「音取」という短い前奏曲が奏されます。これにより盤渉調や黄鐘調といった、曲の調子の雰囲気が醸成されていくのです。


〈盤渉調音取〉
能楽囃子にも盤渉音取があるけれど、それとはだいぶ違っていて、
音取は、各楽器の音頭(リード奏者)のみが演奏。まずは笙から吹き始め、篳篥、鞨鼓と演奏に加わり、最後に琵琶と筝が弾き始めます。
海面の水平線の彼方が、ほのぼのと白みがかっていくような雰囲気。



〈青海波〉
『源氏物語』の「紅葉の賀」で、光源氏と頭中将が舞ったことで有名な曲。

もとは平調の曲だったのが、9世紀前半の仁明天皇のときに、勅命によって盤渉調に移されたというから、『源氏物語』が書かれたときにはすでに盤渉調だったことになります。

ほかの管絃と同様、横笛から吹き始め、鞨鼓がアンサンブル全体の統一者となって、最初はゆっくりとしたテンポで始め、徐々にテンポをあげていく。
打つ、というよりも、掻き鳴らすような独特の演奏法で、鞠が弾むようなトレモロ奏法を多用。

琵琶がとくに素敵で、能楽師のようなキリッと背筋を伸ばした座り方ではなく、ゆったりと腰を後ろに引き気味に座り、絃を掻き鳴らす手がじつに優雅で、舞の手のように見えます。
音色も穏やかな響きで、旋律を弾くのではなく、清らかな水の雫が零れるような、光のきらめきを感じさせる装飾音を奏でてゆく。

《青海波》の後半には、打楽器のリズムのパターンが変化し、「千鳥懸」や「男波(おなみ)」「女波(めなみ)」などの打法が加わります。

全体的に、波の穏やかな大海原に美しい朝日が昇ってゆく情景を思わせる曲でした。



〈千秋楽〉
これも横笛から始まり、鞨鼓、鉦鼓、小・篳篥が純に加わり、絃楽器が音頭から参加して、もう一人の琵琶奏者も加わって、音に厚みを増していきます。
この曲を聴いていると、錦秋に輝く古刹の伽藍が目に浮かんでくるようです。



さて、休憩をはさんで、いよいよ舞楽。

〈陵王〉:左方舞(唐楽の舞楽)、調子は壱越調
もっともメジャーな舞楽といってもいいほど、有名な曲。
北斉(550~577年)の蘭陵王長恭が容姿があまりにも美しく、軍の士気が上がらなかったため、獰猛な仮面をつけて戦場に臨んだところ、大勝利を収めたという故事にちなんで作曲されたといいます。

陵王に扮した舞人は、龍を戴いた吊り顎の面をつけ(目も上下に動くそうですが目の動きはわからず)、毛縁裲襠という、縁に毛のついた唐織の貫頭衣を身につけます。

曲の構成は以下の通り;
(1)小乱声
(2)乱序→舞人が登場し、出手(でるて)を舞う。
(3)囀(さえずり)→無伴奏部分(ここはカットされたかも?)
(4)沙陀調音取
(5)当曲→曲のメイン
(6)乱序→舞人が入手(いりて)を舞い、退場。

舞楽のメインとなる当曲では、舞人は右手に金の桴を持ち、左では、人差し指と中指を突き出し、他の指を折る「剣印」という印を結んだ恰好で、
手足の動きを組み合わせた「掻合(かきあわせ)」や、足を横に開いて腰を低く落とす「落居」、頭を片方に傾けてから大太鼓に合わせて反対側をキッと向く「見(みる」などのさまざまな舞の手を組み入れて、勇壮かつ優雅に舞っていきます。


舞楽のなかでは比較的テンポの速い走舞とはいえ、唐楽らしく洗練された格調高い舞でした。



〈胡徳楽〉:右方舞(高麗楽の舞楽)、調子は高麗壱越調)
こちらは左方舞とは打って変わって、高麗楽らしい親しみやすさ。
主人と四人の客の酒宴で酒を注ぐ「瓶子取(へいしとり)」が、主人の目を盗んで酒を飲み、最後はへべれけに酔ってしまうという、喜劇調の黙劇。
瓶子取は太郎冠者のようなキャラクターだから、狂言の原型のような舞楽でした。

唐楽とは違い、高麗楽には笙は加わらず、管楽器は篳篥と高麗笛のみ。
また、鞨鼓の代わりに三ノ鼓が使用されるため、あの特徴的な鞨鼓のトレモロも入らず、音楽の雰囲気が左方舞とはかなり異なります。

さらに、高麗楽では退場楽が省略されるので、曲の構成は以下の通り;

(1)意調子→舞人(客役)二人登場したのち、勧盃(主人)、瓶子取、舞人二人の順に登場。
(2)当曲→舞人二人が出手(ずるて)を舞ったのち、所定の位置に着座。後から来た舞人二人が舞っている隙に、瓶子取が酒を盗み飲みする。
客人や主人が遠慮し合って、互いに酒をすすめ合うので、その間を瓶子取が右往左往するのも見どころ。客席からは笑いが。

舞人(宴席の客)四人の出立は、左方の襲装束(袍は着けない)に、酔客らしく、赤ら顔の長い鼻の面をつける。この面は、西域から来た胡人を模したものでしょうか。
面の鼻は、主賓の面以外は可動式で、寸劇の中で、長い鼻が邪魔で盃を飲みにくいのを、瓶子取が鼻を持ち上げて、無理やり飲ませるというオチになっています。
(芥川龍之介の『鼻』を思い出す。)


瓶子取は、牟子という頭巾に笹をさし、腫面という左右非対称に顔の醜く腫れあがった黒い面をつける。この面は、おそらく病を患い、その昔、不当に差別された人の相貌をかたどったものかもしれません。ヨタヨタと腰を曲げ、背中を丸めて歩く姿からも、聖書にも描かれた、彼の人々の暗い歴史が妖気のように漂ってきます。


勧盃(主人)の出立は、この曲が元は唐楽だったためか、左方の襲装束に緋色の袍、唐冠を被り、手には笏を持つ。
面は、「進鮮利古(しんそりこ)」という、神に薄衣を張って、抽象化した人面を描いた雑面。
太秦の牛祭で観た面に似ていて、秦氏との関連で考察してみるのも面白そう。


舞楽の時は楽人(管方)は舞台奥へ
↑舞楽の時は、管方(楽器演奏者)は、大太鼓の後ろの席へ移動。
大太鼓奏者も、背後から太鼓を打ちます。




白州っぽい玉砂利
能楽堂の白州のような玉砂利があるけれど、観客席の下も玉砂利になっているので、否応なく、玉砂利の上を歩くことに。







2017年10月20日金曜日

野崎家能楽コレクション~備前池田家伝来・国立能楽堂特別展

前期2017年10月4日~11月5日 後期11月7日~12月5日 国立能楽堂展示室



備前岡山藩主・池田家に伝来した能楽美術品の数々。
現在、林原美術館に所蔵されているものとは別に、製塩業で財を成した野崎家が明治期以降に池田家から拝領した一大コレクションを東京で初公開するという特別展。


能面の名品・優品が充実していて、能面好きにはたまらない展示です!

まだザッと眺めただけですが、前期展示品のなかで特に目についたのが、以下のもの。(番号は展示番号)


7.娩麗(べんり)、「天下一友閑」、江戸期17世紀
  万媚を上品にしたような優婉な女面。

11.増女、「天下一友閑」、江戸期17世紀

17.曲見、「天下一友閑」、江戸期17世紀

19.東来(あずまき)、「天下一近江」、江戸期17世紀
   小面を色っぽくしたような印象。

32.長霊癋見、「出目」、江戸期18世紀
  左右の瞳の向きが極端に違っていて、右目は斜め下、左目は斜め上を向き。
  ユニークな表情。

40.増女、室町期16~17世紀
 精神的な奥深さを感じさせる。通常の増と深井の間くらいの年齢に見える。名手の舞台で観てみたい。

49.牙悪尉、江戸期18世紀
  下あごに二本の牙。

56.東江(とごう)、江戸期18世紀
  喜多流の専用面となった怪士系の男面。

63.弱法師(蝉丸)、江戸期18世紀
  通常の弱法師の面のような少年っぽさはなく、壮年の男性の面影。
  妻を登場させる、世阿弥自筆本の《弱法師》にぴったり合いそう。


追記:本特別展には、「娩麗」や「東江」、あるいは後期展示の「セイエン」(清艶or凄艶のことかな?)など、聞きなれない名称の若い女面が陳列されているのですが、図版によると、みずから所蔵する小面に池田家がつけた愛称だそうです。各大名家で、愛蔵の名品に固有の愛称をつける習慣があったようです。


そのほか、全期を通じて展示される能人形「高砂」付き能舞台や、和漢図貼交屏風(源氏物語+漢画+能絵の屏風)など、見応えたっぷり。

千駄ヶ谷に行く機会ごとに、覗いてみようと思います。








2017年10月12日木曜日

運慶展~興福寺中金堂再建記念特別展

会期:2017年9月26日~11月26日  東京国立博物館 平成館



運慶展、予想以上に素晴らしく、懐かしい仏像たちとの再会に感無量。

とくに今回は、運慶の父・康慶の凄さに目を奪われた。
実物を前にした時の、彫刻空間にみなぎる迫力、像からほとばしる「気」のパワーには圧倒される。
時代や奈良仏師・大和猿楽の違いはあるけれど、現代まで生き続ける画期的な芸術を大成させたという点において、運慶が世阿弥なら、康慶は観阿弥ともいうべき存在。
もっと観阿弥レベルにメジャーになり、評価されてもよいのではないだろうか。



以下は、各コーナーごとの感想&メモ。

【第1章 運慶を生んだ系譜~康慶から運慶へ】
国宝《法相六祖坐像》康慶作 鎌倉期 1189年 興福寺
その康慶の作品。
衣文には、激流を思わせる勢いがあり、彫りが深い。
切れ味の冴えたノミ遣い。
寄せた眉根、深く刻まれた皺、上目遣いの眼の表情など、明治期の生き人形を見るようにリアルで生々しく、六祖それぞれの性格・人間性・感情が活写されている。


重文《四天王立像》康慶作 鎌倉期 1189年 興福寺
康慶の傑作。
息をのむような量塊(マッス)から放出される気迫と威圧的な存在感は圧巻!

何よりも魅力的なのは、邪鬼の表現だ。
巨大な四天王に踏みつけにされ、口を大きく開けて喘ぐ邪鬼からは、『北斗の拳』でケンシロウに殺られたときの「あぽぱ!」みたいな断末魔の叫びが聞こえてきそう。
甲冑の腹部にある海若(あまのじゃく)の、猛烈な噛みっぷりも面白い!



重文《阿弥陀如来および両脇侍坐像》 平安期 1151年 長岳寺
長岳寺・阿弥陀如来は日本最古の玉眼仏。
猫背気味の丸い背中や、おっとりした眠たげな目もとなど、定朝様の平安仏の面影を示している。


国宝《大日如来坐像》運慶作 平安期 1176年 円成寺
運慶20代、最初期の作。

一般に玉眼は、頭部の内刳の内側から凸状にした水晶片を嵌め込み、その水晶レンズの裏側から瞳や虹彩を描き、その上から和紙をあて、木と竹釘で固定する。

ギャラリースコープで各像の玉眼を観ていくと、それぞれの年齢や個性に合わせて、運慶がいかに微妙かつ精巧に、玉眼に変化を持たせているのかがよくわかる。

この伏し目で切れ長の目をした円成寺・大日如来像では、虹彩に艶のある紅が施され、白目の部分には少し濁りのある和紙が当てられていて、引き締まったみずみずしい体躯とは裏腹に、峻厳なほど老成した表情に仕上げられている。

瓔珞には青の宝玉、宝冠には赤い珠が残され、唇に入れられた紅の彩色も当時の名残りがをとどめていて、あでやか。


【第2章 運命の彫刻~その独創性】
国宝《毘沙門天立像》運慶作 鎌倉期 1186年 静岡・願成就院
康慶作・四天王寺立像の直後に観たからか、全体的にきれいにまとまりすぎているように見える。
とりわけ甲冑の表現があまりにも整いすぎていて、規格化された印象すら受ける。

もちろん、生命力あふれる逞しい肉体には充実したハリがあり、腰をひねったポーズも洗練されていて、名作なのは間違いないが、邪鬼も大人しく小さくまとまり、個人的には何かひとつ、面白みに欠ける気がした。




重文《地蔵菩薩坐像》運慶作 鎌倉期12世紀 六波羅蜜寺
今回の運慶展のなかで個人的にいちばん好きな像。
運慶作にしては珍しい一木造。
衣文表現が極めて流麗で、全体的には落ち着いた静謐な造形。

瞑想的な目はほとんど閉じているようでいて、心の奥底までしっかり見ていてくださる、分かってくださるように見える。
同じ空間にいるだけで心が癒されるような、美しい地蔵菩薩坐像だった。




国宝《八大童子立像》運慶作の6体 鎌倉期1197年 高野山金剛峰寺
どれも素晴らしいが、とりわけ制多伽童子は秀逸。

利発そうな顔立ちを引き立てているのが、玉眼の表現。
白目の部分は輝くように白く、黒曜石のような光を宿した瞳をとりまく虹彩の石榴色の赤は、少年らしい生気と色気を感じさせる。
黒目の大きさと視線の向きを左右で変えることで、まるで生きているように人間味のある精彩に富んだ表情を与えている。
(生身の人間も、通常、黒目の大きさが若干違う。)

衣に残された截金文様がライトを浴びてキラキラと光っているのも、少年期の輝きを伝えているよう。



国宝《無著・世親菩薩立像》運慶作 鎌倉期1212年ころ 興福寺
4世紀末~5世紀初頭に北インドで活躍した法相教額の大成者・無著世親兄弟。
実際に手掛けたのも運慶の二人の息子兄弟で、運慶が統括したとされる。

老年の無着の眼は、白目が鈍く濁った玉眼で、虹彩にも紅は入れられず、瞳がグラデーション的に茶色くぼかされ、眼輪筋にもたるみがあるが、世俗的な感情を超越したような、精神的な深みを湛えている。
左の目と頬を貫く二筋のヒビが、焼き物の金継ぎのような趣き。

手の表現が極めて精緻で、左爪が薄く伸び、皺のある手の甲には骨と血管が浮き出ている。

西域らしいエキゾチックな世親の鷲鼻も印象的だった。



国宝《四天王立像》運慶作か? 鎌倉期13世紀 興福寺南円堂
近年、運慶作である可能性が濃厚とされつつある4体の立像。

康慶の四天王立像の作風を受け継ぐような力強い量塊感。
おそらく運慶が子息や弟子たちに分担してつくせたのだろう、4体の出来にいくぶん差があり、増長天と多聞天が躍動感やポーズの勢い、体躯のプロポーション、顔の表情の気迫の点で抜きん出ている。



【第3章 運慶風の展開~運慶の息子と周辺の仏師】
国宝《重源上人坐像》   鎌倉期13世紀  東大寺
萎びてたるみきった肌の質感、頸の後ろの骨々しさなど、まるで即身成仏した高僧のようにリアルすぎるほどリアル。
この実体感・実在感からは、崇高なオーラさえ感じた。



国宝《天灯鬼・龍燈鬼立像》 龍燈鬼・康弁作 鎌倉期1215年 興福寺
天燈鬼の舌をそり上げ、歯をむき出しにした口からは豪放な叫び声が聞こえてきそう。
康慶作・四天王の邪鬼を思わせる闊達な表現。



重文《十二神将立像》   鎌倉期13世紀 浄瑠璃寺伝来
運慶没後の慶派仏師集団の作とされる。
頬杖をついてひと休みする者や、見栄を切る者、ディズニーキャラクターのような表情の者など、じつにユーモラス。
12体が勢ぞろいしたのは42年ぶりというから、仲間たちと再会できて神将像たちも楽しそう!



重文《子犬》 湛慶作か? 13世紀 高山寺
丸山派の絵画に出てきそうななんとも愛らしいワンちゃん。
耳がまだねていて、尻尾がクルリ。
首を傾げたポーズが、ビクター犬を思わせる。