2015年8月31日月曜日

第21回 能楽座自主公演 《海士・解脱之伝》後場

能楽座自主公演《海士・解脱之伝》前場のつづき

茂山茂さんのアイ語りのあと、いよいよ後場。

(能楽座のパンフレットには上演される舞囃子・狂言・能の全詞章が掲載。
間狂言の詞章まで載っているのでとっても親切で分かりやすい。)


常よりも荘重な出端の囃子にのって揚幕があがると、
暗闇の奥から龍女(?)の姿をした後シテ・片山九郎右衛門があらわれる。

観世水模様の金地をあしらった純白の舞衣に紅地模様大口。
頭には白蓮の天冠を戴き、経巻を持った左手を前方に差し出したまま、
海面を滑るように、橋掛りをスーッと平行移動して進んでくる。

パンフレットには「龍女」と書かれているけれど、
「解脱之伝」の後シテは、龍女から男子を経て、
解脱する存在へと進んだ変成男子の最終段階ではないだろうか。
(龍女だったら頭に戴くのは蓮の天冠ではなく、輪冠龍戴だろうし。)



九郎右衛門さんは何をやってもうまいけれど、
こういう神々しい役柄がほんとうによく似合う。

人間離れしたこの世のものではない清らかさ、崇高さ。
そして男女の別を超越した、両性具有的な高貴な色香。

後光のようなまばゆい光が全身から放たれているようにも見える。

後シテは、ふつうの人間には出せない不思議なスピード感で一の松まで進み、
「寂冥無人声」で正面に向き直り、見所を厳かに見下ろす。

伏し目がちな増の面の憂いと慈愛をたたえたまなざしが、
日本の聖母・狩野芳崖の悲母観音を彷彿とさせる。


一の松でポーズを取ったあと、シテはシテ柱を過ぎたあたりで動きを減速させ、
水鳥が羽ばたく直前にするように身体をほんの少し伸びあがらせて一瞬静止し
足だけ先に向きを変えてから、身体全体の向きを変えて舞台へ入る。


九郎右衛門さんのこの流麗な序破急の一連の所作が
とても優雅で気品にあふれていて、いつもぼーっと見惚れてしまう。
天冠の瓔珞が微かに揺れるリズムさえ優婉な趣を添えている。


シテはワキ座手前に向かうと、床几から下りて下居した子方(長山凛三)に経巻を渡す。
子方はこれを広げて、シテが舞っているあいだずっと読み続けているのだけれど、
凛三くん、さすがです。
忍耐強く、微動だにせず、きれいな姿勢で巻物に目を注ぎ続けていた。
舞も群を抜いて光ってるし、たぶん十年に一度出るか出ないかの逸材なんだろうな、
この子方さんは。


そしてここからシテはイロエに入っていく。
このときの舞姿をなんと表現すればいいのだろう。

面と装束の力を最大限に引き出して、自己の存在そのものを
一瞬で消えてゆく甘美な夢のような芸術作品にしたのが九郎右衛門さんの舞だった。

いまわたしが記録しているのは、はかない夢の残像。
その束の間のきらめきは心のなかで美化され理想化されて、
宝石のような結晶のカケラとなって記憶に刻まれていく。


イロエはあっという間に終わりに近づき、
(出血大サービスで早舞も舞ってほしかったけれどそれは小書的に無理?)、
シテは背筋を伸ばしたままスーッと膝を屈して、合掌。
その後立ち上がり、袖を翻して、常座で留拍子。

わたしの気持ちが多分に投影されているからだろう、
シテも心なしか名残惜しそうに見える。


そのままシテは橋掛りをわたり、揚幕の奥へと消え去った。

あとに残されたのは感動と、虚脱感、喪失感。


(夏の終わりは、なんとなく感傷的になるのです。)




第21回 能楽座自主公演 《海士・解脱之伝》前場

第21回 能楽座自主公演 金春惣右衛門・片山幽雪・近藤乾之助 偲ぶ会のつづき

能 《海士・解脱之伝》海人 観世銕之丞 龍女 片山九郎右衛門
    藤原房前 長山凜三  浦の男 茂山茂
     従者 福王茂十郎 茂山茂 矢野昌平

    藤田六郎兵衛 幸正昭 山本哲也 三島元太郎
    後見 大槻文蔵 分林道冶 長山桂三
    地謡 梅若玄祥 梅若紀彰 山崎正道 馬野正基
       角当直隆 梅田嘉宏 川口晃平 観世淳夫



幽雪師を(おそらく金春惣右衛門師も)偲んで、観世流・東西当主の義兄弟が
前シテ・後シテを演じ分ける稀小書の《海士・解脱之伝》。

銕之丞師と九郎右衛門さんは同じ人に師事したとはいえ、
芸風は団十郎と仁左衛門のそれと同じくらいに違って見える。
でも、2人に共通するのは作品への深い理解と
その理解を舞台で自在に表現できる高い芸の力だと思う。
この日の公演はそのことが見事に証明された名舞台だった。


 * * *

大臣一行の登場
子方の房前大臣がワキ・ワキツレ従者を従えて登場。
讃岐の志度の浦で亡くなった母の追善のためにこの地を訪れたことを語る。
名子方・凛三くんの存在も舞台で光っていた。
(それにしても子供って成長につれて顔立ちがどんどん変わっていくのですね。以前拝見した時と比べてお顔の印象が違って見えた。ライトの加減かもしれないけれど、お父様に似てきた?)


前シテ・海士の霊の登場
一声の囃子とともに前シテ・海士の霊が登場。

前シテは白い摺箔に、目の覚めるような深いグリーンの縫箔を腰巻にして、その上から渋いブルーの水衣(海士の労働を象徴するように着古されたようなクタッとした味わい)を羽織っている。
手には例の如く、右手に鎌、左手にみるめ。
縫箔とみるめの緑がマッチして、互いを引き立て合っていた。
面は、母性を感じさせる穏やかで少し悲しげな深井。

海士の女は大臣一行と出会い、従者から水底のみるめ(海藻)を刈ってほしいと頼まれる。

(前シテは「痛はしや旅づかれ」で後見に台詞をつけられ、ハコビもおそらく汗で滑りが悪かったように思う。やはり義兄弟対決はふだん以上に緊張するのだろうか。)


天満つ月も満潮の、みるめをいざや刈ろうよ


ここで前シテは正面に背を向け、後見が出て、シテからみるめを受け取り、水衣を脱がす。
白い摺箔に緑の縫箔を腰巻にしただけの姿は、上半身裸になった海士乙女のスタイル。

国芳の浮世絵をはじめ刺青の人気モティーフにもなっている玉取姫のこの姿は、
気概と根性のある官能的な美女をあらわすシンボリックな図でもあるのだろう。
能なのでオブラートに包まれているが、
見方によってはかなりエロティックな出で立ちであり、
銕之丞師が肉感的なせいか、浮世絵の玉取姫を連想させた。


玉之段から中入りまで
前シテは面向不背の珠の謂れを語った後、ワキの従者に請われて、龍宮での凄絶な玉取シーンを再現する。

この玉之段では銕之丞氏が本領発揮!
臨場感あふれる迫真の型の連続で、じつに見応えがあった。

わが子への一途な思いに決死の覚悟で海底に踏み入れたけれど、
そこは底なしの深海の世界。
狙う明珠は、摩天楼のようにそびえ立つ高さおよそ100メートルの宝玉の塔に収められ、
八龍(八岐大蛇? 八匹の龍?)やサメや恐ろしい姿の魚たちが目を光らせている。

海士は一瞬、怖気づき、西の海面を見上げて、故郷や夫・子供に思いをはせる。
そのやわらかく、懐かしげな表情――。


銕之丞師の面の扱いが非常に巧みで、深井の面に血が通い、生気が宿る。
まるで汗水たらして働く生身のたくましい海士の女のように、
表情が豊かに変化して、観る者を海士の世界にぐいぐい引き込んでゆく。


海士は気弱な心を振り払い、決意を固めるように手を合わせて志度寺の観音薩埵に祈願し、利剣(鎌)を額にあてて龍宮に飛びこんでゆく。

勇ましいシーンだけれど、その姿はけっして男ではない。
わが子を救うために燃え盛る猛火の中に無我夢中で飛び込んでいくような、
勇敢な母の姿そのものだった。
龍やサメに追いかけられ、乳の下を掻き切って珠を押し込める場面は、
仔鹿を狙う猛獣に体当たりで挑む母鹿のよう。

陸に引き揚げられ、明珠が淡海公に渡ったことを語ったシテは、
自分こそその母親の海士であることを告げて、子方の大臣に文(扇)を渡し、
海の底へと消えてゆく。

前シテは橋掛りの一の松で足を止め、名残惜しそうに子方のほうを振り向いて、シオル。
母性の化身のような深く大きなその姿。

この感動的なシーンを、地頭・玄祥師×副地・紀彰師の地謡が、
緩急・強弱を巧みにつけながらドラマティックに盛り上げ、
さらに六郎兵衛師の笛が抒情性豊かに彩ってゆく。


ここまでですでに号泣モードにスイッチが入ってしまい、涙が止まらなくなりそう。
《海士》で、文字通り海より深い母の愛を感じたのは、これが初めてだった。

九世銕之丞師は、人生経験(とくに苦労した経験)が芸の肥やしになって芸を深めていくタイプの役者さんかもしれない。
他のシテ方には出せない独特の味わいがある。


長くなったので、
第21回 能楽座自主公演 《海士・解脱之伝》後場につづく





2015年8月30日日曜日

第21回 能楽座自主公演 金春惣右衛門・片山幽雪・近藤乾之助 偲ぶ会

            
2015830日(日)気温24度 曇り時々雨 14時半~17時45分 国立能楽堂

舞囃子 《安宅・延年之舞》 大槻文蔵
    松田弘之 大倉源次郎 安福光雄
    地謡 長山桂三 梅若紀彰 観世銕之丞 馬野正基


独吟  《海道下り》  野村萬


舞囃子 《天鼓》  高橋章
     藤田次郎 大倉源次郎 安福光雄 観世元伯→不在(大小楽の誤り)
     地謡 金井雄資 大坪喜美雄 武田孝史 大友順


独吟 《砧・待謡》 宝生閑→宝生欣哉(怪我のため)


一調 《西行桜》 梅若玄祥×観世元伯


狂言 《二千石》 主人 野村万作 太郎冠者 茂山千五郎
               後見 山下守之 深田博治


能 《海士・解脱之伝》海人 観世銕之丞 龍女 片山九郎右衛門
        藤原房前 長山凜三  浦の男 茂山茂
      従者 福王茂十郎 茂山茂 矢野昌平
    藤田六郎兵衛 幸正昭 山本哲也 三島元太郎
    後見 大槻文蔵 分林道冶 長山桂三
    地謡 梅若玄祥 梅若紀彰 山崎正道 馬野正基
       角当直隆 梅田嘉宏 川口晃平 観世淳夫

 
 

おもに追善にちなむ演目で構成された第21回能楽座自主公演。
能楽座ならではの趣向が凝らされていて、夏の最後を飾るにふさわしい贅沢な会だった。


舞囃子 《安宅・延年之舞》
文蔵師の大きな魅力のひとつが、序破急の繊細なグラデーション。
舞や謡に緩急やメリハリをつけるのは大事なのだけれど、名人になればなるほど、
それがゴツゴツした感じではなく、実になめらかかつ自然で、
作為や計算をまったく感じさせない。
どれほどわずかな動きでも、どれほど微小な「間」でも、
なにが美しく、なにが美しくないかを、きっと本能的に知り抜いていて、
一瞬一瞬、より美しいものを直感的に選択しているのかもしれない。

その一瞬ごとの選択によって、彼の舞う時間と空間が
それまで見たことのない美しい色に染められてゆく。


男らしい延年之舞でも角張ったところがまったくなく、
激流を下ってきた天然石のような豊かな丸みを帯びている。

エイッいう掛け声のあと、両足で飛びあがらなかったのは、
数珠を振り上げた拍子に、珠が飛び散ったからだろうか。
その後も、本来ならば2度ジャンプするはずだけれど、ここでも飛びあがらず。
珠の上に着地して転倒すると危ないので、致し方ない。


長年の稽古によって身体に沁み込んだ美の芳香がおのずと滲み出て
能楽堂を気品のある香りで満たすような舞姿だった。



舞囃子 《天鼓》
チラシには元伯師の名前が載っていたので、観世流の「弄鼓之舞」のような太鼓入り盤渉楽かと思っていたら、当日のパンフレットでは大小楽になっていて大ショック! Σ(T□T)
もう1月以上も元伯さんの太鼓を聴いてないため禁断症状が……。

藤田次郎師の笛がとてもきれいだった。
源次郎師はもちろん、安福光雄さんも安定していて好きな大鼓方さん。

地謡は謡いの上手い宝生流の精鋭を集めましたという感じで、きっちりした端正な謡。
(個人的には大友順師がとくにうまいと思う。)

高橋章師の舞は宝生流らしく、重心をきわめて低く取る。

足拍子が速くなりがちなどと思ってしまうのは、
うまい人だけにほんのわずかな瑕瑾でも目立ってしまうせいだろう。

きれいで、折り目正しい舞囃子でした。



独吟《砧・待謡》
危惧していた通り、宝生閑師はお休みだった。

わたしが閑師の《砧》をはじめて拝見した時のことは忘れられない。
喉から絞り出すように出た「無慙やな」のかすれた声で完全にノックアウト。
じーんと涙があふれてきた。
この声なら、この言葉なら、怨みつらみも晴れて成仏できると思った。
これほどまでに亡霊を癒す声があるだろうか。

だからこの待謡を楽しみにしていたのだけれど、
今日の欣哉師は代役ながら素晴らしかった。
声のかすれ方、間の取り方、抑揚の付け方、聴く者の心の奥深くにぐっと突き刺さるような語り方まで、閑師にそっくりで、芸は確かに受け継がれていると実感した。

今のところ、ワキ方でいちばん好きなのが欣哉さんだ。
これからもこの声と語りに癒されていくのだろう。

閑師の容態は気になるけれど、ハートネットTVで見たあのお辛そうなお姿を思い出すと、
どうかお身体をお大事にして、休養なさってくださいと祈るような気持ちになる。
舞台人にとっては舞台に立てないことのほうが辛いのかもしれないけれど。




一調 《西行桜》
玄祥師の謡に元伯師の太鼓。  極上の一調。

待てしばし、待てしばし、夜はまだ深きぞ、白むは花の影なりけり


深い夜が花の影から薄らいでいく。
夜と曙のあわい。
その微妙な余白と陰影を音によって表現したような2人の一調だった。




狂言 《二千石》
こうした異流共演ってたまにあるらしいけれど、わたしは初めて。
たぶん、観る人が観ればすごいのかもしれない。
ふつうに楽しかったし、家の芸の継承をことほぐというのは、本公演のテーマにぴったりだと思った。
それ以上のことは今のわたしには分からない。



第21回能楽座自主公演《海士・解脱之伝》前場後場につづく。



                

2015年8月23日日曜日

第弐会 紀彰の会 ~舞への誘い

2015年8月22日(土) 最高気温34度 13時~15時45分 梅若能楽学院会館


J・S・バッハ シャコンヌ  梅若紀彰
      ヴァイオリン 河村典子

仕舞《嵐山》    土田英貴
   《半蔀クセ》  安藤貴康
   《舎利》    足疾鬼 谷本健吾  韋駄天 松山隆之
         地謡 角当直隆 山崎正道 梅若長左衛門 長島充

舞囃子 《三輪》  梅若紀彰
      松田弘之 鵜澤洋太郎 亀井広忠 小寺真佐人
      地謡 土田英貴 角当直隆 梅若長左衛門 安藤貴康

    (休憩)

舞囃子 《善知鳥》 梅若紀彰
      松田弘之 鵜澤洋太郎 亀井広忠 
      地謡 松山隆之 長島充 山崎正道 谷本健吾

仕舞《箙》       角当直隆
   《筺之段》    長島充
   《弱法師》    山崎正道
   《卒塔婆小町》 梅若長左衛門
      地謡 土田英貴 松山隆之 梅若紀彰 谷本健吾 安藤貴康

    (休憩)

舞囃子《熊坂》   梅若紀彰
      松田弘之 鵜澤洋太郎 亀井広忠 小寺真佐人
      地謡 土田英貴 安藤貴康 松山隆之
          谷本健吾 長島充 山崎正道 角当直隆 

附祝言
懇親会


      

第弐回紀彰の会は(チラシでは)内容がやや不明で、比較的マニアックな番組。
と思っていたら、
フタを開けてみると、紀彰師の感性が随所に生かされた意外性に富む公演だった。


J・S・バッハ シャコンヌ  梅若紀彰
羽生くんがフィギュアで使っても良さそうな激しくドラマティックなバッハのシャコンヌ。
これを能楽の舞に合わせると、いったいどんなふうになるのだろうと思っていたら、
随所に工夫が凝らされて、見どころが多く、完成度の高い作品に仕上がっていた。

まずは、ヴァイオリンの河村氏が洋服姿に白足袋を履いて揚幕から入場。
切戸口からは紀彰師。

この日は曲ごとに主役の紀彰師が紋付き袴をお召替えなさっていたのですが、
冒頭のシャコンヌでは、薄紫の紋付きに細かい縦縞のグレーの袴。
すっきり爽やかな印象です。

ため息がでるほど繊細優美なハコビから始まり、
扇で雨を受けるような型があるかと思えば、
時計回り、さらに反時計まわりへと螺旋状に旋回する型もあり、
そうかと思えば扇を投げて拾う舞や、
猩々乱のような流れ足や頭振り、枕ノ扇もあり、
さらには扇で水を汲む型や、扇を筆に見立てて文字を書く型など、
紀彰さんのオリジナリティとアレンジのセンスがいかんなく発揮された一番。

それぞれの場面でストーリーを夢想しながら観るともっと楽しいのかもしれないけれど、
そんな余裕はなく、ただただ独創的で美しい舞に見入っていた。

マーラーの交響曲第5番アダージェットやカヴァレリア・ルスティカーナのインターメッツォ
などもお能の舞に合う気がする。
でも、能楽堂で演奏するにはヴァイオリンかチェロの無伴奏曲がいいのでしょうね。

河村氏の演奏も素晴らしく、
岩に砕ける滝の水飛沫のようにぶつかり合い溶け合った素敵な共演だった。


(この後、紀彰さんが舞台に再び登場し、お能が初めての人のために簡単な解説。
地声をはじめて拝聴する。舞の直後だったので、息が上がって大変そう。)


仕舞 《嵐山》 豪快な飛び返り。
    《半蔀》 安藤さんにぴったりな曲。 丁寧な舞。きれいな声。
         他の方の舞の時に杖や扇を差し出す所作もきれいで、勉強になる。
    《舎利》 梅若会と銕仙会のコラボ仕舞。 見ていて楽しい。



舞囃子 《三輪》          
ようやくお囃子登場。
(松田師以外第一回紀彰の会よりも(あくまで)比較的若いメンバーだけれど、
流儀は同じ、森田流、大倉流、葛野流、観世流。
シテによってやりやすい流儀があるのかしら。)

紀彰師の出立は、灰緑色の紋付きにブルーグレイの袴。

この曲に関しては地謡とお囃子の調子がいまひとつ。
松田師は好い笛方さんだけれど、この《三輪》での笛はピンとこなかった。
他の囃子方もどうも神楽に乗りきれてない感があって、
大好きな《三輪》の世界に耽溺したいのに、何かが邪魔をしている。

「神楽を奏して舞ひ給へば」で、お囃子の沈黙を破って、
太鼓が頭の鋭い掛け声とともに入っていくのだけれど、
ここも太鼓が決め手となる箇所だけに、どうしても物足りなく感じてしまう。
地謡も総じて弱く、盛り上げるところも盛り上がらず。
(囃子も地謡も悪くはないのだけれど、シテとのバランスが。)

                
紀彰師自身の舞は際立っていた。
特に、型と型のあいだの静止しているところ。
シテの精神的・肉体的気の充実と、彼を取り巻くすべての気の流れとの
絶妙な均衡と拮抗のなかで生み出された静止の状態、
それが紀彰師のせぬひまだった。

舞の一瞬一瞬をとらえたくて、まばたきするのも惜しいくらい。



舞囃子 《善知鳥》 
休憩をはさんで、第二部。
お色直しをされた紀彰師の出で立ちは、緑がかった墨色の紋付きに灰茶の袴。
この紋付きが何ともいえない深みとコクのある色合いで素敵だった。
(《善知鳥》の曲趣にもぴったり。)

クセで「報いをも忘れける事業をなしし悔しさを」と生前の殺生業を悔いつつ、
杖を持って立ち上がり、舞は静から動へと移っていく。

うとうと呼ばれて、子はやすかたと答へけり

シテが「うとう」と謡って足拍子を踏むと、ここからドラマティックに転調する。
第二部になると、お囃子も面目躍如。
とくに、追打ノカケリでは大小鼓が炸裂し、激しい鼓に引かれたシテは憑かれたように
正先に置かれた笠を小鳥に見立てて杖を振り、鳥打ち猟を再現する。

「親は空にて血の涙を」でシテは杖を地謡と笛座のあいだにサッと投げ(お見事!)
「降らせば濡れじと」で笠を手に取り、
「菅蓑や笠を傾け」で笠を掲げて血の雨を避け、
しばらく笠での舞事のあと、
「血の涙に目も紅に沁み渡るは紅葉の橋の」で、笠を目付柱手前に投げ(こちらも見事!)、
今度は扇を手にして、地獄での有様をリアルに描写する。

この世では善知鳥に見えていた鳥が地獄では怪鳥となって(シテが羽ばたく)、
鉄の嘴と罪人を苛み、胴の爪で罪人の眼球をつかむ。
シテは鉤爪のように手指を立てて、目をくりぬく型をする(無惨!)。
猛火にむせんで声も出ず、ついに「羽抜鳥の報いか」でがっくりと安座。

さらに地謡が、うとうが鷹となり、雉となったシテを追い回す有様を語り、
最後は僧に弔いを託して終曲。

《善知鳥》では地謡も緩急を巧みに操り、
お能一番にも匹敵するほどの充実した舞囃子だった。




仕舞《筺之段》   九皐会からの唯一の出演者。
            以前拝見した時も思ったけれど、きれいな舞。
   《弱法師》   謡が玄祥師に似て、うまい。
   《卒塔婆小町》 シテの雰囲気と曲調が合っていて、
             他の人には出せない味わいがあった。

    


舞囃子《熊坂》   梅若紀彰
最後の一番は、紗の黒紋付きに黄土色の袴でキリッと。

舞囃子+シャコンヌで4番目にしていちばん激しい曲。
いったいどれほど強靭な肉体なのだろう。
素人には想像もつかないけれど、
疲れをまったく感じさせない、ダイナミックなアクションの連続。
そして最後には、
仲間たちの弔い合戦に臨み、はからずも敗北して命を落とした熊坂の無念さも滲ませて。

パンフレットに書かれていた通り、舞の表現力の可能性を堪能したお舞台だった。


終演後は1階ロビーにて懇親会があり、わたしも能楽関係の懇親会に初参加。
紀彰さんはもちろん、引っ張りだこで、ファンの方々と写真を撮ったり談笑したり。
他の出演者の方々も顔を出していらっしゃった。
女流能楽師のレイヤーさんが浴衣の着流しを、男性のように対丈でお召しになり、
帯(角帯?)もお腹ではなく、腰のあたりで締めていて、
宝塚の男役のようにカッコいい。
(女流の皆さんはこのように浴衣を着るのだろうか。)
わたしも夫の浴衣を借りて真似してみたくなったけれど、
わたしにはムリムリ。
あれは、美人でスタイルが良くて、さらには姿勢や所作など、
日ごろの鍛錬があるからこそ成り立つ着こなしなのだろう。

ところで、ロビーに張ってあったポスターとチラシに気になるものがあった。
今年12月19日「朗読と演奏で綴る 谷崎潤一郎 文豪の聴いた音曲」という公演。
(紀彰師は朗読で御出演。)
自宅で三味線を弾く谷崎の写真がポスターになっていて、これがなんとも趣深い。
音で味わう谷崎ワールド、気になる……。







2015年8月18日火曜日

相模薪能 《金札》《簸屑》《海士》

寒川神社の薪能のつづき

注連縄が張り巡らされた本殿前の特設能舞台
                
     
半能《金札》 天太玉命 観世喜正 
        ワキ殿田謙吉 ワキツレ則久英志
        一噌隆之 鵜澤洋太郎 國川純 小寺佐七
      後見 遠藤喜久 弘田裕一
      地謡 奥川恒治 駒瀬直也 小島英明 佐久間二郎
         坂真太郎 井上卓夫 久保田宏二 中森健之介

         
狂言《簸屑》 太郎冠者 野村萬斎 主 中村修一
        次郎冠者 深田博治  後見 内藤連

神酒賜わりの儀

能 《海士》 海人/龍女 中森貫太  房前大臣 片倉翼 
           ワキ殿田謙吉 ワキツレ大日方寛 浦人 竹山悠樹
       一噌隆之 鵜澤洋太郎 國川純 小寺佐七
       後見 奥川恒治 駒瀬直也
       地謡 弘田裕一 五木田三郎 鈴木啓吾 遠藤喜久
          佐久間二郎 小島英明 坂真太郎 中森健之介



花柳眞理子氏による日本舞踊「島の千歳」(小鼓最高!)のあと、いよいよ薪能の始まり。
 
半能《金札》
まずは、ワキの勅使が従者を従えて登場。
「これは桓武天皇に仕え奉る臣下なり」と名乗り、伏見の里に大宮を造営するために遣わされた旨を述べる。
 
このあとの《海士》の時もそうだったけれど、
ワキのハコビが常とは違ってスタスタと進んでいく。
真夏の薪能だから全体的にテンポを速めているのだろうか?
 
 
半能なので金札が降ってくる場面はすっとばして、いきなり天太玉命(あめのふとたまのみこと)があらわれる。
 
特設能舞台の揚幕は鎌倉能舞台と同様、正面向きにつけられているため、揚幕がジャンッとあがると、シテは正面向きにいったん出てポーズを決めた後、舞台方向に向き直り、橋掛りを進む。
登場直後のシテの姿を真正面から見ることはなかなかないので、ある意味、貴重な体験。
 
シテの装束は、半切、厚板、法被肩上→見るからに暑そう。
面は天神だろうか。 なぜか不敵な笑みを浮かべている。
頭には金札をつけた冠を被っていて、分かりやすい(笑)。
 
右手に矢、左手に弓を持つ勇壮な武神だ。
 
天野文雄先生の『翁猿楽研究』によると《金札》の原型では、シテの天太玉命の前に、ツレの天女が登場して舞を舞っていたのではないかとのこと。
もしもそうならば、観世流の《金札》は、省略に省略を重ねて、かろうじて半能という現在の形で残っていることになる。
いずれにしろ、とても短いし、祝言性の高い曲なので、こういう神社での薪能にはぴったり。
 
 
さて、しばらく舞台上で弓矢を手にして謡いと舞を披露したシテは、「悪魔を射祓い」で、正中で弓をつがえ、揚幕方向に狙いを定めて矢をビュンッと放つ。
放たれた矢は二の松あたりの橋掛り上に見事に落下。 これぞ破魔矢!
ピタリと決まる心地良さ。 見ていてスカッとする。
《張良》で沓を投げる時もそうだったけれど、喜正さんは何事にも器用でそつがない。
 
舞働となり、さらに「弓をはづし、剣をおさめ」で、角にて下居し、弓を置いて弦をはずし、扇に持ち替え、「ゆるがぬ御代とぞなりにける」で留拍子。
 
平和祈願にふさわしい曲と颯爽とした舞だった。
 
 
 
狂言《簸屑》
太郎冠者が眠そうにお茶の屑を挽いているところに、次郎冠者がやってくる。
眠気覚ましにと、次郎冠者は仕方話をしたり小舞を舞ったりするのだが、太郎冠者はうとうと寝入ってしまう。
腹を立てた次郎冠者は、いたずら心を起こして、寝ている太郎冠者に鬼の面をかぶせる。
戻ってきた主人は、家の中に鬼がいるのを見てびっくり。
鬼になった太郎冠者を追い出そうとする主人に、「どうか置いてください」と泣きながら駄々をこねる太郎冠者。
最後には、次郎冠者のいたずらだったことが分かり、太郎冠者が次郎冠者を追いかけておしまい。
 
寝たり、泣いたり、怒ったり、なかなか難しい役どころだと思うけれど、
やっぱり萬斎さんうまいなー。
深田さんとの掛け合いも息が合っていて、面白かった。
 
 
神酒賜わりの儀
狂言のあと、例年ならば休憩が入るそうだが、この日は休憩はなしで、「神酒賜わりの儀」という儀式が執り行われた。
これは、素晴らしい演能をした演者の労をねぎらうために、神前に捧げられた御神酒を楽屋に届ける儀式。
薪能の元祖とされる興福寺薪御能で上出来な能のつど、春日明神に使いを立てて奉告し、楽屋に酒肴を届ける習わしがあったことに由来するという。
 
 
能《海士》
子方の房前大臣とワキ・ワキツレの従者登場。
ワキが讃岐の志度の浦に着いたという着きゼリフのあと、前シテの海人登場。
品のある美しい深井の面。
浅葱の水衣に、濃紺の縫箔と鬘帯というシックな出立。
右手に鎌、左手に海松藻(みるめ)。
 
シテとワキとの問答のなかで、水底のみるめを刈ってほしいというワキに対して、
シテが、ああ、長旅でお腹がすいているのですね。刈らなくても、ここにみるめがあるので、これを召し上がってください、という。
ここのやり取りがどことなくユーモラス。
加えて、純朴で温かい海人の人柄も描写されている。
こういう真っ直ぐな性格だからこそ、大臣Sr の言葉をひたすら信じて、(うまく利用されたとは露疑うことなく)危険に身を投じていったのだろう。
 
玉之段はいつ見ても、母の強さ、偉大さを思い知らされる。
我が子の栄達のために、母親はここまで自己犠牲ができるものだろうか。
 
終戦記念日に《海士》を観ると、
御国のために命を擲った英霊の姿と重なるようにも思えてくる。
 
 
後シテは、モーヴ色の大口にクリーム色の舞衣。
龍戴をいただき、面は泥眼。 手には経巻。
全体的に母性を感じさせる優しい印象。
 
シテの貫太師は、謡の人だと思う。
もちろん舞もうまいけれど、謡が抜群にうまく、聴き惚れる。
 
早舞は激しさよりも、亡き人の魂を鎮め癒すような、やさしく厳かな舞。
柔和な空気に包まれるように終曲。
余韻に浸りたかったのだけれど、
ワキ・ワキツレ・子方があまりにも早く立ち上がったのが少し残念。
 
とはいえ、全体的には大満足!
夏のいい思い出になりました。
主催者・演者の方々、ありがとうございました。
 


帰り路。灯籠がともる参道は幻想的。



 

2015年8月16日日曜日

寒川神社の相模薪能

2015815日大東亜戦争終戦70年平和祈念 17時半~20時半 寒川神社

相模國一の宮・寒川神社は遠かった!
                  
神事  修祓、宮司一拝、献饌、祝詞奏上、謡「四海波」中森貫太、
     玉串奉奠(宮司・奉行・能楽師)、撤饌、宮司一拝
火入れ式
 
長唄舞 《島の千歳》 花柳流

半能《金札》 

狂言《簸屑(ひくず)》 

神酒賜わりの義

能 《海士》 


暑いのでいちばん涼しい絞りの浴衣で、寒川神社の薪能へ(ここは完全自由席制)。

萬斎ファンが朝早くから並ぶと聞いていたので、良い席はあきらめてかなり遅めに行ったのだけれど(着いた時点で千人以上の長蛇の列)、開場後に入ってみると、3列目の座席がエアポケットのように空いていてラッキー!
寒川大明神のお導きだろうか。 まことに霊験あらたかである。 


毎年終戦記念日に行われる相模薪能。
とくに今年は戦後70年ということもあり、平和祈願と慰霊の意味を込めて《金札》と《海士》が選曲されたという。

能奉納の前に神事が行われるのだが、これがとてもよかった。

能舞台の四方清祓では、力士が塩を撒くように、一人の神職が紙吹雪のようなものを四柱に撒き、もう一人の神職が幣で祓っていく。
こちらの心も浄化されていくようで清々しい。

その後、祝詞奏上があり、中森貫太師による「四海波」の謡があり、観客はそのたびに起立して一礼。
さらに神職とともに二礼二拍手一礼。
そして戦没者追悼と平和を祈願して全員で黙祷。
70年の節目の日に、こうした形で手を合わせることができたのは有り難かった。

さらに神事の一環として、火入れ式が執り行われた。

2人の巫女がそれぞれ神霊前の灯火を松明に点して橋掛りを渡り、舞台斜め前(目付柱とワキ柱の延長線上)に据えられた薪に点火する。

これによって神霊がかがり火に御遷りになったことを象徴し、かがり火となった神に演能をご覧いただくのだという。
神人合一の場としての薪能。
これが能楽本来の姿かもしれない。

寺社の境内で行われる薪能には独特の厳粛な雰囲気があって、
能楽の原点に立ち還るような気がする。


観能の感想は、相模薪能 《金札》《簸屑》《海士》に続く。


巨大な狛犬。なぜか阿形だけで、対になるはずの吽形がいない。


 

2015年8月14日金曜日

相模原薪能・狂言《千鳥》・能《葵上》

2015年8月13日(木) 曇り時々晴れ 18時半~20時半  相模女子大グランド特設舞台



能楽解説    東川光夫
火入れ式

仕舞 《八島》   野月聡
    《鵺》     金野泰大
       地謡 金森良充 小倉健太郎→當山淳司 小倉伸二郎 朝倉大輔

狂言 《千鳥》 太郎冠者 山本則俊   酒屋 山本則重
          主人 若松隆

能  《葵上》 六条御息所の生霊 宝生和英  照日の巫女 藪克徳
          ワキ 則久英志  ワキツレ 舘田善博 アイ 山本則秀
          栗林祐輔 飯冨孔明 大倉慶乃助 林雄一郎
     後見 東川光夫 小倉伸二郎 木谷哲也
     地謡 辰巳満次郎 野月聡 水上優 和久荘太郎
         當山淳司 佐野玄宜 金野泰大 小倉健太郎→若手シテ方

      


西日本への弾丸ダブル帰省を終えて、久々の観能。

この日は雨予報に反して絶好の薪能日和で、夕方の気温は28度。
吹き抜ける風が涼しくて気持ちいい。

運良く前方の指定席が取れたため、ことのほか至近距離で楽しめた。
(おまけに前の席の人が来なかったので、視界を遮るものがない最高のポジション!)


まずは、東川師による能楽解説(シテ方の例に漏れず、お話が上手)。
《葵上》で演じられているのは、照日の巫女の頭の中の情景を劇として映し出したものという言葉が印象に残った。


仕舞《八島》の野月さんは、白い麻紋付に水色の袴姿という爽やかな出で立ち。
武士っぽい宝生流のなかでもとりわけサムライ的な雰囲気を持つ野月さんの《八島》は
キリリと引き締まって、辛口の冷酒のような味わい。

夕闇に包まれた金野さんの《鵺》は、名を上げた頼政と名を流した鵺という
勝者と敗者の明暗をくっきりと浮かび上がらせていた。

(地謡の小倉健太郎さんはお休みだったらしい。ちょっと心配。)


 
狂言《千鳥》
則俊師の太郎冠者と則重師の酒屋の掛け合い・間合いが絶妙で、場内爆笑。
お子さんの笑い声も聞こえてきたので、子供にも分かりやすかったみたい。
文句なしに面白かった!

装束のシワが少し気になったけれど、こういう薪能の楽屋は狭くて空調もないだろうから、
致し方ない。着替えるだけで汗だくになるだろうし。
出演者と主催者の苦労がしのばれる。



能《葵上》
皆さん休み明けなのか、こざっぱりと髪をカットした出演者多し。
加えて能楽堂の照明と異なるせいか、一部の人は顔がふだんとは違って見える。
(全体的に男前度up?)
近くの木立でツクツクボウシが時折鳴きはじめるのも真夏の薪能ならでは。

病床の葵上に見立てた出小袖が正先に置かれ、
闇の奥から音もなく照日の巫女が現れる。
小面だろうか、古風でどこか謎めいた女面。
静かにワキ座に着き、下居する佇まいが神秘的で美しく、
斜め後方からかがり火に照らされた能面が妖しい陰影をたたえて、見る者を惹きつける。

藪克徳師って上手い人とは思っていたけれど、芸力の相当高い人ではないだろうか。
不動のまま下居しているだけで、神がかったオーラを放っていて、
その姿が神々しいまでに美しく、ずっと、いつまでも鑑賞していたくなる。
(ツレとしていいのかどうかは分からないけれど)位の高い、
品格と存在感のある照日の巫女だった。


巫女の打ち鳴らす梓弓に惹かれて六条御息所の生霊登場。
(実際には一声の囃子に乗って登場するのだが、大鼓のカーンという音色が周囲のビルに反響して木霊となり、あの世から響いてくるような不思議な効果音となっていた。)

揚幕の奥に影のように立つシテの姿はひんやりとした冷気を漂わせ、
泥眼の面には怒りの影はなく、深い憂いがあるばかり。

「恨みはさらに尽きすまじ」など恨みの詞のところでシテが何度もシオルのは、
嫉妬や恨みといった悪感情に駆られたくないのに、自分の意志ではどうにもならない
無力感や気位の高さ、女の業の深さを嘆いているからだろうか。

気持ちが高ぶった御息所は葵上(出小袖)を打擲し、責めさいなむ。
メラメラと燃えるかがり火がシテの気持ちを代弁し、ドラマティックに演出する。


夢にだにかへらぬものを我が契り、昔語りになりぬれば
なほも思いは増鏡、その面影も恥ずかしや
枕に立てる破れ車うち乗せ隠れ行かうよ


ここでシテは怒りにまかせるように扇をバンッと投げ捨て、
壺織に着た唐織からするりと両腕を抜いて、そのまま唐織を巧みに引き被き、
「隠れ行かうよ」のタイミングでしばらく身を伏せたあと、
後見座に行き、中入・物着。

後見座では唐織を幕の代わりにした、三人の後見による見事な連係プレイだった。

その間、横川の小聖が呼ばれ、ノットの囃子とともに怨霊退散の祈祷を始め、
やがて後シテが唐織を被いたまま現れる。


いかに行者、はや帰り給へ。帰らで不覚し給ふなよ。


地の底の異界から響いてくるような凄みのある恐ろしい声。
位がぐんとマックスに高まったような威厳さえ感じさせる。
二十代でこれができるって、やはりすごい人です。

面はとても端正で気品のある般若の面。
高貴な美女の悲しみを造形化したらこんなふうになるのだろうか。
鬼というよりも、人間らしい感情を持つ、心に突き刺さるような美しい般若面だった。

やがて囃子に太鼓も加わってイノリとなり、小聖と後シテとの壮絶バトル。
最後は祈り伏せられた生霊が成仏・得脱の身となって、めでたしめでたし。


とても好い舞台で薪能の醍醐味を満喫した気分!
ありがとうございました。