2016年11月10日木曜日

友枝会~狂言《鐘の音》・能《国栖》

2016年11月6日(日) 13時~17時15分   国立能楽堂
友枝昭世の《野宮》後場からのつづき

狂言《鐘の音》シテ野村萬 アド能村晶人

能《国栖》シテ友枝雄人 ツレ姥 友枝真也 
   ツレ天女 友枝雄太郎 子方 内田利成
   ワキ工藤和也ワキツレ則久英志 御厨誠吾→代演
   アイ野村虎之介 野村拳之介
   一噌隆之 観世新九郎 大倉慶乃助 観世元伯
   後見 内田安信 塩津哲生
   地謡 大村定 粟谷明生 狩野了一 谷大作
      塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤陽



感想は早めに勢いで書かないと、恐ろしいことに観たそばから忘れてしまう (><)
まだ一週間も経ってないのにすでに前世の記憶のような……。
このまま放置すると観たことすら忘れそうなので、急いで書き留めておきます。

狂言《鐘の音》
グレーブラウンの可愛らしいふくら雀の肩衣を着た野村萬師。
鐘の音を聴くために鎌倉の寺々をめぐるのですが、シテの視線のマジックにより、その眼前に建つ山門の威容がこちらにもありありと見えてくる!

そして鐘の音。
最初に撞いたのはスタンダードな鐘、次に着いたのは薄く鋳造された鐘、三番目はヒビの入った割れ鐘、最後は建長寺の荘厳な鐘。
その振動が観客の肋骨に響いてくるような、鐘の個性あった音の表現が萬師ならでは。
それぞれの鐘が揺れるときの重さや大きさ、鉄の厚みや質の違いまでもが伝わってくる!




能《国栖》
友枝雄人さん・真也さんについては舞囃子は拝見したことがあるけれど、面・装束をつけた舞台はまだ観たことがなく、《国栖》も初見なので、楽しみにしていました。

【前場】
一声の囃子で、ワキ・ワキツレとともに輿にのった子方さんが登場。
ワキ・ワキツレの謡がかなりバラバラで節もちょっと不安定。
ハコビや謡で情景を描き出すのってほんとうは凄いことなんだと実感する。


さて、芝居的要素の多い前場。
アシライ出で、シテ・ツレが舟に乗った態で登場する。

シテの雄人さんは無地熨斗目着流に茶水衣、腰蓑。面は笑尉だろうか?
おもむろに彼方の空を見上げて、「姥やたまへ!(見給へ)」と指をさす。
ベツレヘムの星を見つけた東方三博士を思わせる劇的な場面だ。

友枝雄人さんは間の取り方がうまく、この紫雲を見つける場面と、追手が逃げていくのを見届ける場面の「間」が見事。 鮎ノ段も老人が若返ったようにキビキビ。

ツレの姥役の友枝真也さんは、この舞台の演者(立役)のなかでは謡が断然うまく、所作や立ち居振る舞い・下居も品があってきれいだった。
(この方の謡や詞が入ると、舞台がぐっと引き締まる。)


アイの二人も、逃げ足の速い弱腰の追手を好演されていた。



【後場】
中入から太鼓が入り、下リ端二段が奏され、続いて天女が登場して五節之舞を舞う。
後場で観客の目を奪ったのは、なんといっても、後ツレ天女役の友枝雄太郎さん。
愛らしい、エンジェリックな天女。そして、うまい!
まだ二十歳なんて。将来が楽しみな方だ。

さらに、後シテの蔵王権現が無地熨斗目を被き、低く屈みながら登場。
一の松で赤頭・狩衣・半切姿(面は大飛出)を威勢よく現し、力強い舞を舞う。
天武の御代を寿ぐと同時に、友枝ファミリーの前途を祝福するような舞台でした。



2016年11月9日水曜日

友枝昭世の《野宮》後場~友枝會

2016年11月6日(日) 13時~17時15分   国立能楽堂
友枝会~《野宮》前場からのつづき

能《野宮》シテ友枝昭世 
  ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
  一噌仙幸→一噌隆之 曾和正博 柿原崇志
  後見 中村邦生 佐々木多門
  地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 出雲康雅 長島茂
     大島輝久 内田成信 金子敬一郎 佐藤寛泰

狂言《鐘の音》シテ野村萬 アド能村晶人

能《国栖》シテ友枝雄人 ツレ姥 友枝真也 
   ツレ天女 友枝雄太郎 子方 内田利成
   ワキ工藤和也ワキツレ則久英志 御厨誠吾→代演
   アイ野村虎之介 野村拳之介
   一噌隆之 観世新九郎 大倉慶乃助 観世元伯
   後見 内田安信 塩津哲生
   地謡 大村定 粟谷明生 狩野了一 谷大作
      塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤陽





【後場】
〈一声→後シテの出〉
前シテの時とはまったく違う、牛車に乗った貴婦人を思わせる優雅な律動感のあるハコビ。

シテの出立は神々しく輝く白地長絹に、艶やかな京紫の色大口。
面は前シテと同じだろうか。

斎宮とともに伊勢に下った御息所と、心を野宮に残したままの御息所。
心身ともに半聖半俗の御息所の存在が装束にもあらわされている。



〈シテ・ワキの掛け合い〉
シテは常座に入り、ワキとの掛け合い。車争いの様子が再現される。

ここのワキの謡「所狭きまで立て並ぶる」や「御車とて人を払ひ、立ち騒ぎたるその中に」「車の前後に」がいつになく強い調子に感じる。

この欣哉さんの強い謡には車争いの臨場感を高めるとともに、シテの気持ちの昂ぶりを代弁する働きもあり、非常にドラマティックな場面となっていた。

(御息所も、自分の気持ちをこれほど理解し同調してくれる人にこれまで出会ったことがないのではないだろうか。
だからこそ欣哉さん扮する僧の前で、抑えに抑えた思いを解き放ち破ノ舞に至るのだと、その心のプロセスがよくわかるシテとワキの掛け合いだった。)



〈車争い→序ノ舞〉
御息所の妄執の元凶となる屈辱シーン。
人々ながえに取り付きつつ」で、右袖巻き上げ、
「人だまひの奥に押しやられて」で、押しやられるように後ずさりし、
「身のほどぞ思ひ知られたる」で、顔を隠すように右袖を二度上げ、
「身はなほ牛(憂し)の小車の廻り廻りきて」で、閉じた扇を左肩上にあげ、肩越しに牛車を引くようにして舞台を小さくまわる。

そして、観世流では「昔を思ふ花の袖」のところが、喜多流では「昔に帰る花の袖」となり、よりいっそう旧懐の舞としての遡及的要素が強くなる。


序ノ舞の、白い長絹に達拝の姿は巫女的なイメージ。
嫉妬や恨みなどの負の感情を知らなかった、無垢で幸せな頃の清らかな舞。


喜多流の序ノ舞だからだろうか(それとも昭世師の独創だろうか)、二段オロシでは地謡前で右袖を巻き上げるなど、全体的に舞台上手に比重を置いた序ノ舞。
(上掛りでは脇正で右袖を被くなど、舞台下手側に比重が置かれる。)



〈破ノ舞→終曲〉
地面におりた露に、月の光が反射してキラキラと美しく光る森のなか、
この露を払いつつ源氏が訪れたあの日のことをシテは思い出す。

露打ち払ひ」で、開いた扇で露を払い、
「(訪はれし我もその人も)ただ夢の世と古りゆく」で、声なき嘆きとともに後退し、
「誰松(待つ)虫の音はりんりんとして」で、耳を澄ます。

彼女が聴きたかったのは虫の音か、それとも、ここを訪れる源氏の足音なのか。

御息所もまた、松風や井筒の女のように「待つ女」なのだと思った。


ここで、シテは思いが一気にあふれ出たように鳥居に駆け寄り、手を伸ばす。
おそらく彼女にとって鳥居は、あの日の象徴であり、源氏の姿そのものなのだ。

その鳥居に触れそうで、触れない。
ほんとうは触れたいのに、思いきり抱きしめたいのに、理性でぐっと思いとどまる。



理性と感情に引き裂かれ、ときには生霊となりながらも、感情と理性のあいだで苦悩し、ひとりで闘い抜いたのが友枝昭世の御息所だった。

(この場面をいま思い出すだけで、彼女の孤独な闘い、孤独な葛藤が胸に迫ってきて、涙があふれてくる。)



自己矛盾に翻弄されたシテは狂おしい破ノ舞を舞い、鳥居から出ることもなく、本舞台の上で車にうち乗り、「火宅~」で終わる地謡とともに、ふたたび迷妄のなかへと還っていった。











2016年11月7日月曜日

友枝会~《野宮》前場

2016年11月6日(日) 13時~17時15分   国立能楽堂



能《野宮》シテ友枝昭世 
  ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
  一噌仙幸→一噌隆之 曾和正博 柿原崇志
  後見 中村邦生 佐々木多門
  地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 出雲康雅 長島茂
     大島輝久 内田成信 金子敬一郎 佐藤寛泰

狂言《鐘の音》シテ野村萬 アド能村晶人

能《国栖》シテ友枝雄人 ツレ姥 友枝真也 
   ツレ天女 友枝雄太郎 子方 内田利成
      ワキ工藤和也 ワキツレ則久英志 御厨誠吾→代演
      アイ野村虎之介 野村拳之介
     一噌隆之 観世新九郎 大倉慶乃助 観世元伯
      後見 内田安信 塩津哲生
   地謡 大村定 粟谷明生 狩野了一 谷大作
      塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤陽




今月で、観能三周年を迎えます。
わたしにとって友枝会はいわばその記念公演。
ひとつだけ贅沢を言えば脇能or修羅能と狂言が先にあって、《野宮》がラストだったらもっとよかったなー。
感動をほかの舞台で上書きせずに、しばらくボーッと、余韻に浸っていたかった。


【前場】
〈ワキの登場〉
名ノリ笛でワキが登場。
一噌仙幸師の代演で笛を吹いた隆之さんが《国栖》と連続登板。
《野宮》の仙幸師の代わりには一噌庸二or藤田次郎さんがいいと思っていたのですが、隆之さんの笛もこの日は良かった。
とくにヒシギが《野宮》にふさわしい繊細で情趣豊かなヒシギになっていて、いつのまにか階段をいくつか登られたのを感じた。


そして、ワキの欣哉さん。
幕を出た瞬間からその美しいすり足とともに、晩秋の冷え冷えとした空気を運んでくる。
この方のハコビとすらりとした姿勢には、しっとりとした詩情が漂っている。
所作のひとつひとつが詩の韻律を生み出してゆく。

そのまま舞台へ進み、紅葉も色褪せた森の景色に溶け込む。
鳥居之前で手を合わせ、野宮→伊勢→仏の道に思いを馳せて心を澄ませていると;


〈シテの登場〉
次第の囃子にのってシテが現れる。

何か、強い重力に抵抗するような重いハコビ。
野宮へ還ることを戒める自分と、どうしても毎年ここへ還ってきてしまう自分。
後ろにグッと踏みとどまろうとする力と、前に強く引かれて進もうとする力。

相反する力の拮抗と矛盾する心の葛藤が、その重い抵抗を感じさせるハコビに象徴されていた。

前シテの出立は、秋の草花がぎっしり織り込まれた精緻な唐織。
面は増だろうか。
現代的な目鼻立ちのはっきりした美女だ。
(チラシの写真と同じ面?)

シテは鳥居の前に佇む男の姿を見て「とくとく帰り給へよ」と、ここが神にとって、そして自分にとっての不可侵の聖地であることを毅然と示すが、だからといって相手を冷たくはねつけるわけではない。
その声には、つねに心を武装してきた彼女が旅僧と通じ合う何かを感じ取り、相手をなかば受け入れるような響きがあった。


〈初同〉
喜多流の謡の醍醐味が凝縮されたような素晴らしい地謡。
謡によって《野宮》にふさわしい物哀しい雰囲気が醸成され、
条件反射的に泣いてしまう映画音楽を聴いた時のように、この初同から涙があふれてきて、後場の山場になるとほとんど号泣しそうになる。


「うらがれの草葉に荒るる野宮の」から、シテは鳥居前に進み、
「跡なつかしきここにしも」で、下居して榊を供え、
その長月七日の日も今日にめぐり気にけり」で、後ろに下がってワキに向く。


そして「火焼屋の微かなる光は我が想い内にある」で目付柱やや上方を見るのだが、
その時、ポッと頬を上気させたような、ときめきを覚えた少女のような表情を浮かべる。

彼女は嫉妬に狂った半面、少女のような純愛を心の奥底で燃やし続けていた――そんな想像が湧いてくる。
その一途な愛に見合った愛され方をしていたらこんなに苦しまなくて済んだだろうに。



〈クリ・サシ・クセ〉
正中で床几に掛かるシテの、気高いユリの花を思わせる美しさ。

御息所の悲劇は、その高根の花のような高貴な外見と、ほんとうは繊細で傷つきやすい内面とのギャップであり、その内面を素直にあらわせない(育ちや身分による)気位の高さ、不器用さなのかもしれない。

友枝昭世の前シテは、御息所の品格や気高さとともに、その奥に隠された可憐さや脆さ、そしておそらく東宮妃時代の愛らしさをも感じさせた。



やがて前シテは自らの名を明かすと、鳥居の柱に隠れ、送り笛とともに消えてゆく。



友枝會~《野宮》後場につづく






あまねく会・三十五周年記念大会二日目

2016年11月7日(月)        宝生能楽堂
(拝見したもののみ記載)

番外狂言《昆布売》 シテ昆布売 野村萬斎
             何某 飯田豪  後見 内藤連

能《邯鄲》 シテ盧生 社中の方 舞人 社中の方
   勅使 森常好
   大臣 殿田謙吉 大日方寛 御厨誠吾
   輿 野口能弘 野口琢弘
   寺井宏明 田邊恭資 柿原弘和 観世元伯
   後見 宝生和英 辰巳満次郎
   地謡 東川光夫 武田孝史 山内崇生 和久荘太郎
       澤田宏司 辰巳大二郎 辰巳和麿 木谷哲也

舞囃子《松虫》 シテ社中の方
     《富士太鼓》 シテ社中の方→辰巳満次郎
        藤田六郎兵衛 後藤嘉津幸 河村眞之介

舞囃子《源氏供養》 シテ社中の方

番外舞囃子 《安宅》 辰巳満次郎
    藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井広忠
    地謡 宝生和英 武田孝史 辰巳大二郎 辰巳和麿


1日目も能三番に辰巳大二郎さん・和麿さんの番外仕舞など豪華な社中会でしたが、友枝会と重なったため、2日目の途中から拝見。


萬斎さんの番外狂言。
話の内容よりも、萬斎さんの身体の動きの支点などに注目して観ていました。


能《邯鄲》
難しい型が多く、上演時間の長い大曲を舞われた社中の方が凄かった。
(満次郎師の社中の方々、皆さんうまい方ばかりでした。)

個人的には、昨日に続いて元伯さんの太鼓を聴けたことがヾ(=^▽^=)ノ


     
 

本会最大の聴きどころのひとつ(個人的お目当て)が囃子方を名古屋勢で固めた舞囃子。

六郎兵衛+後藤嘉津幸+河村眞之介の組み合わせを東京で観ることはめったにない。
藤田流&幸清流&石井流の組み合わせ自体、東京では珍しい。
と、思ったけれど、もしかすると、笛方を竹市学さんにした組み合わせなら、観世喜正さんとの共演であったような、なかったような?)

後藤さんはセルリアンタワー十五周年記念《翁》の脇鼓で、河村さんは鎌倉能舞台の乱能で拝見しただけなので、一度じっくり聴いてみたかったのです。


石井流は前にも書いたと思うけれど、化粧調べを高安流のように膝の後ろに垂らす(葛野流は前)。
河村眞之介さんの打音は、音響の良い宝生能楽堂でことさらよく響き、小鼓の後藤さんともまさに阿吽の呼吸。
これに六郎兵衛さんの鋭い笛が加わり、東京の囃子方とはひと味ちがう、名古屋独自のお囃子になり、これがすこぶるカッコイイ!

後藤さんの小鼓は、東京の小鼓方と比べると、息を吹きかけるなどの皮の湿度調整の回数が少ないように感じる。それでも、チ・タ音もきれいに出て、たっぷりとした豊潤な音色。

名古屋の囃子方さん凄くいい! もっと聴いていたかった。


舞囃子の《富士太鼓》は社中の方が舞う予定だったのが、満次郎師が舞うことになり、実質番外舞囃子が二番になった。

同じ「楽」の囃子でも、能《邯鄲》の楽(太鼓入り)とは、囃子方の流儀がすべて違っていて、まったく別の曲のように聴こえる。


最後は、満次郎師の番外舞囃子《安宅》。
六郎兵衛+源次郎+広忠の囃子に、地謡も個人的にはベストメンバー。
これで良くないわけがない!
侠気あふれる男っぽ~い安宅でした。