2018年1月31日水曜日

《夢殿》を観る~能と土岐善麿

2018年1月31日(水) 14時~17時  喜多能楽堂
素謡《復活》からのつづき

第二部 演目解説 三浦裕子
素謡《復活》中入後 (前シテ:マグダラのマリア)
   後シテ/イエス 金子敬一郎 ペテロ 佐々木多門
         み弟子 佐藤陽 狩野祐一
         地謡 金子敬一郎 佐々木多門 大島輝久 友枝真也
      塩津圭介 佐藤寛泰 佐藤陽 狩野祐一

半能《夢殿》シテ老人/聖徳太子 大村定
   ワキ僧 舘田善博
   藤田貴寛 森澤勇司 柿原光博 大川典良
   後見 塩津哲生 粟谷浩之
   地謡 永島茂 友枝雄人 内田成信 粟谷充雄
      大島輝久 友枝真也 塩津圭介 佐藤寛泰



これまで能《実朝》《鶴》《夢殿》、素謡《復活》を拝見して感じたのは、土岐善麿&喜多実の新作能には、以下の傾向があるということ。
(全部が全部、そうではないのですが。)

(1)シテの出は、幕中からの呼掛(「なうなう」or輪唱)が比較的多い。
(2)ワキが出ず、通常ワキ方が担うような役をシテ方が勤める。
(3)舞事は早舞タイプが多用され、早舞の場合、幕際まで行って、くるくる回ったり袖を巻き上げたりと、決めの所作を行い、ナガシの囃子で本舞台へ戻ってくる。


《夢殿》は、土岐善麿&喜多実が最初に手掛けた記念すべき第一作。
上記3つの要素を備えたこの曲は、その後の創作活動を方向づけるプロトタイプ的作品といえるのかも。



半能《夢殿》
半能形式の上演なので、後場の前に、前場のワキの次第と名ノリがプラスされます。

前場では、飢人に衣を与え、十七条憲法を定めるなど聖徳太子の偉業を語ったのち、老人は金色の光を放って消え失せます。


【後場】
後場では、聖徳太子が黒駒に乗って富士の高嶺から、遠く白山、立山までを駆け巡ったさまが再現されます。

〈シテの出〉
出端の囃子で後シテ・聖徳太子が登場。
胸の前で閉じた扇を両手でもつ、笏のポーズのまま一の松へ。

出立は、衣紋に着付けた狩衣に、浅黄の指貫(込大口)。

髪型はオスベラカシ。頭頂部には小さな髷が、くるんと2つ。
面は、プログラムの写真のような「中将」を想像していたのですが、おそらく「童子」か「慈童」でしょうか(童子よりもう少し年長の、喝食のような顔立ち)。
永遠の少年という、聖徳太子の神秘性が強調された姿です。

シテは一の松から舞台へ、馬に乗ってムチを打つ体で、閉じた扇を振りながら進みます。


〈早舞〉
大小前で達拝をして、いよいよ早舞。
大村定さんのシテは初めて拝見、きれいでした。

三段目で扇を閉じ、大小鼓の流シで橋掛りへ。
ここはおそらく、富士山を黒駒で駆けてゆくところ。

三の松でくるくるっと左袖を巻き上げ、そのまま富士の高嶺から下界を見下ろすように、しばし見込む。
巻き上げた袖を前に突き出したまま静止しているのは、ぐっと手綱を引いて、馬の足を止めている感じでしょうか。

さらに、袖を巻き上げたまま、総流シで舞台へ戻り、袖を返して身を沈ませる型。

四段目では、閉じた扇を笏のように持ったまま舞う、聖徳太子らしい舞。
五段目で扇を開き、常の早舞のように舞います。



〈終曲〉
「踏むは八葉、蓮華の上」と、法華曼荼羅を思わせる天空を黒駒で翔りながら、連山をめぐってゆく。
「孤嶺のかなた」で抱エ扇、「三越路や」で雲ノ扇、「夢の告げ」で両袖を巻き上げるなどの型が続き、最後は常座で、笏のポーズのまま留拍子。



作者の創意工夫が随所に生かされた《夢殿》。
演能もすばらしく、堪能しました。

武蔵野大学と喜多流の方々に、感謝!






素謡《復活》~能と土岐善麿《夢殿》を観る

2018年1月31日(水) 14時~17時  喜多能楽堂


第一部 ごあいさつ
  「聖徳太子と親鸞」 三田誠広
  「土岐善麿と喜多実の新作能創作活動」岩城賢太郎
  「英語能創作者からみた土岐善麿の新作能」リチャード・エマート

第二部 演目解説 三浦裕子
素謡《復活》中入後 (前シテ:マグダラのマリア)
   後シテ/イエス 金子敬一郎 ペテロ 佐々木多門
         み弟子 佐藤陽 狩野祐一
         地謡 金子敬一郎 佐々木多門 大島輝久 友枝真也
      塩津圭介 佐藤寛泰 佐藤陽 狩野祐一

半能《夢殿》シテ老人/聖徳太子 大村定
   ワキ僧 舘田善博
   藤田貴寛 森澤勇司 柿原光博 大川典良
   後見 塩津哲生 粟谷浩之
   地謡 永島茂 友枝雄人 内田成信 粟谷充雄
      大島輝久 友枝真也 塩津圭介 佐藤寛泰



今年で三度目となる土岐善麿公開講座&新作能公演。
このような貴重な公演・講座を、ひろく一般に向けて毎年開催するのはどれほど大変なことだろう。関係者・演者の方々のご苦労がしのばれます。


新作能とはいえ「喜多流の財産」といわれるほど、土岐善麿と喜多実による曲の完成度はきわめて高い。

国文学の知の宝庫とされる土岐善麿が手がえた詞章は、室町期のそれと比べても遜色ないほど格調高く、良い意味で綴れ錦のように多様な引用が織り込まれ、色とりどりのイメージを喚起する。
曲の構成も緻密かつ簡潔で、舞の見どころ、囃子の聴かせどころが要所に盛り込まれ、クライマックスに向かって展開していく。



【素謡《復活》中入後】
土岐善麿新作能には、《使徒パウロ》、《復活》、《ユダ》というキリスト教三部作があるらしく(三作目の《ユダ》は作曲されず)、《復活》は《使徒パウロ》につづく二作目だったという。

能《復活》はタイトル通り、イエスの復活を題材にしたもの。
キリスト教をベースにした新作能といえば、多田富雄作《長崎の聖母》があるけれど、それよりもはるか以前に創られていたことから、当時としてはいかに革新的だったかがうかがえる。


〈幻の前場〉
この日カットされた前場は、マグダラのマリアが前シテ。
ストーリーは、捕えられたイエスを見捨てて三度否認したペテロ(ツレ)が、鶏の声に慄いていると、マグダラのマリア(前シテ)が現れて、イエスの復活を知らせ、イエスの墓を尋ねていくというもの。

初演ポスターに掲載されたマグダラのマリアは、水衣に着流という出立。
アトリビュートの香油壺は、写真では持っていない。

個人的には、ペテロの罪悪感・絶望感が前場の眼目のような気がします。


〈後場〉
さて、この日上演された後場は、ペテロたちがガリラヤ湖で漁をしている場面。
はじめは不漁で魚が網にかからなかったのが、岸辺に立つ人影の教えに従い、網を打ったところ、大漁となる。
その人影こそ、誰あろう、復活したイエス(後シテ)だった!
自分を裏切ったペテロにイエスは問う、「ペテロよ汝、誰よりも、われを愛するや」。
ペテロは答え、弟子たちとともに歓喜にむせびながら、主を讃える。


裏切りと悔恨に満ちた聖書物語。
そういう、人の弱さ・愚かさを描いているところがとても好きで、
この新作能《復活》も、前場からペテロの心の動きを追っていくと、時代を超えて誰の胸にも響く人間の業と、その業を乗り越えて高みを目指す志向心が表現されていると思う。
能としての上演が待たれるところです。

(詞章には「舞」としか記載されていないのですが、復活したイエスの舞って、どんなものだろう? 神舞? 太鼓序ノ舞? 天女ではないけれど、まさかの下リ端?)


本曲のキーパーソンとなるペテロを勤めたのは佐々木多門さん。
悔悟の情が底流する厳粛な謡から、イエス復活の歓びにあふれた謡へと変化して、この素謡のテーマをそれとなく感じさせた。

中堅と若手で構成される地謡は美声の人が多く、節付けの妙とあいまって、「雲はかかやき風は凪ぎ、見よ全能者の右にいますは」のところは、どこかグレゴリオ聖歌を思わせる荘厳さ。

「聖なるかな……永遠にいます主を讃えん」という聖書的な文言が、謡の節で謡われるのは、なんとも不思議な感覚です。
こういうのも繰り返し再演され練られていくうちに、和様化された洋食のような親しみのある美味しさに変わってゆくのかもしれません。



半能《夢殿》につづく





バックステージツアー~神々との邂逅

2018年1月27日(土)12時30分~17時 喜多能楽堂

翁付絵馬・女体の終演後はバックステージツアー。

舞台上から二階席を見る

舞台正面の階(きざはし)からのぼって、緋毛氈の敷かれたところを歩く。

能舞台にあがるのも生まれて初めて。
なんて言えばいいんだろう、照明が思った以上にきつくて、まぶしい。
クラクラ、めまいがしそう。

見所は「眼」の集合体。
あらゆる眼が、一斉にこちらを見る。
無数の眼が、固唾をのんで凝視している。
そのなかで、重い装束を身につけ、
暗く息苦しい能面の裏で、
狭い視界で、
ほんの少し見える四本の柱と、足の裏の感覚だけを頼りに、
限りなく、夢のように、美しく舞う━━。

シテとして舞台に出るというのは、「戦場に放り出されるようなもの」。
そう言っていた片山九郎右衛門さんの言葉を思い出す。
そこでは、グラディエーターのように、
生死をかけた戦いが静かに繰り広げられる。
そんな場所なのだ、能舞台というのは。



後座から見た揚幕と橋掛り


作り物のなかは、ほんとうに狭い。


切戸口
切戸口も初めてくぐる。
茶道のにじり口ほどではないにしろ、思った以上に、低い。
ここを、そつなく、きれいな所作で通り抜けるだけでも至難の業だ。
社中会で素人の方がふつうにくぐっているように見ても、実際には難しいことだと気づかされる。


鏡板の老松


装束の間
先ほどの《翁》で使用された翁狩衣、指貫、白綾。
この狩衣は、平成になってから作られたものとのこと。



囃子方さんたちが着けていた侍烏帽子



鏡の間にて
鏡の間にて、《絵馬・女体》の三柱神と対面。
なるほど、これが「神々との邂逅」だったんだ!


皆さん、最初は微動だにしないので、人形かと思うほど。
時々、機械仕掛けのように、順番に幣を振り、片袖を被き、両袖を巻き上げて、決めポーズ。
何気なく立っているようでいて、骨格・姿勢の整い方がふつうの人と違うから、間近で見るとほんとうにきれい。



マジックミラーの裏側から

楽屋から舞台と見所はこんなふうに見えるのですね。


貴重な経験でした!







2018年1月29日月曜日

翁付絵馬・女体~喜多流

2018年1月27日(土)12時30分~17時 喜多能楽堂

能《翁》 塩津哲生
  三番三 山本泰太郎 千歳 山本凛太郎
  笛 一噌隆之 小鼓 曽和伊喜夫 住駒充彦 森貴史 大鼓 大倉慶乃助
  後見 香川靖嗣 中村邦生
  狂言後見 山本則孝 山本則秀
  地謡 友枝昭世 粟谷能夫 大村定 長島茂
     友枝真也 塩津圭介 佐藤寛泰 佐藤陽

能《絵馬・女体》老翁/天照大神 友枝雄人
  姥 内田成信
  天鈿女命 狩野了一 手力雄命 金子敬一郎
  ワキ家臣 大日方寛 
  蓬莱の鬼 山本則重 山本則秀 若松隆
   一噌隆之 曽和伊喜夫 大倉慶乃助 林雄一郎
(音声ガイド 佐々木多門)

バックステージツアー



神々との邂逅~ワークショップ編からのつづきです。


《翁》
喜多流の(というか下掛りの)《翁》を観るのははじめて。
下掛りでは面箱が千歳を兼ねるため、千歳の舞も狂言方が勤めます。
千歳兼面箱は、三番三で問答の相手と鈴の手渡しなどの役目があるから、翁帰りも、翁一人で孤独に帰るのですね(ちょっと寂しそう……)。


【三番三】
山本泰太郎さんの三番三を観るのは、これで三度目でしょうか。
今まででいちばんシャープでカッコよく、より洗練された印象。
大鼓の大倉慶乃助も気迫満点。
観ているほうも、身体が自然にノッテきます。

今月は、茂山忠三郎家・千五郎家、そして山本東次郎家と、大蔵流の三つの家の当主・次期当主の三番三を拝見する機会に恵まれたのですが、比べてみると、それぞれに特色があります。

山本泰太郎さん(東次郎家)の三番三は、東京では農耕民族的色彩がやや強いように思っていたのですが、式楽の伝統や和泉流などからの影響もあるのでしょうか、茂山家のものに比べると、人(観客)を意識した折り目正しい芸風。

京都・茂山家は寺社に奉納する機会が多いためでしょうか、神々への祈りにウェイトを置いた、比較的土の香りのする祭祀的な色合いが強かったように感じました。
(たまたま拝見したのが、奉納能だったからかもしれませんが。)

こんなふうに違いを体感できたのも、今年の正月の大きな収穫です。


【音取置鼓】
この日の《翁》でとりわけ目を引いたのが、曽和伊喜夫さん。
おそらく今まで拝見した小鼓頭取のなかで最年少ではないでしょうか。
去年6月の青翔会でも拝見していて、その時はノーマークだったのですが、この日の幸流小鼓三丁は息も合い、清々しく、聴いていて気持ちがいい。
隣の住駒充彦さんがさりげなくサポートしているのも好印象。

《翁》のあとの音取置鼓も落ち着きがあり、聴き応え十分。
小鼓方には将来有望な十代・二十代が多く、能楽界の希望の星ですね。



《絵馬・女体》
【礼ワキ】
幕が上がって、ワキの家臣が登場。
三の松で両手を広げて爪先立ち、常座でヒシギとともに一礼。
ここで大鼓が入り、真ノ次第の後半が奏されます。

【前場】
名ノリ笛でワキの名乗リとなり、道行は省かれて、着ゼリフ。
真ノ一声の囃子で、シテ・ツレが登場する。
このあと、クセもカットされ、前場は駆け足で過ぎていきます。
(ともあれ、《絵馬》は半能か舞囃子でしか観たことがなかったので、拝見できてよかった→宮の作り物の左右扉に、それぞれフックがついていて、そこに絵馬を掛けるようになっているのですね。)


【後場】
後場は一転、華やか。
出端の囃子で、天鈿女、天照大神、手力雄の順に登場。

天鈿女は、小面、牡丹の天冠、朱地長絹、白大口。
天照大神は、小面、日輪天冠、白狩衣(衣紋着付)、緋大口。
手力雄は、天神、法被、半切。

友枝雄人さんの神舞は、理知的で直ぐなる舞。

金子敬一郎さんは、天鈿女が幣を振りながら近づいていって、神楽から神舞に直ったところで安座からサッと立ちあがるところが見事。

天鈿女の狩野了一さんは先日の《鉢木》のツレが良かったので、あらためて注目したのですが、この方、舞も謡も立ち居振る舞いも、総合的に巧くてバランスが取れている。
神楽も、岩戸に隠れた女神が誘い出されるのも無理はないと思わせるほど、魅力的な舞でした。



バックヤードツアー編につづく




2018年1月27日土曜日

能「翁」~神々との邂逅:ワークショップ編

2018年1月27日(土)12時30分~17時 喜多能楽堂

バックステージツアーで、鏡の間にて撮影
左から天鈿女(狩野了一さん)、天照大神(友枝雄人さん)、手力雄(金子敬一郎さん)


ワークショップ:《翁》精進潔斎の神事体験

能《翁》 塩津哲生
  三番三 山本泰太郎 千歳 山本凛太郎
  笛 一噌隆之 小鼓 曽和伊喜夫 住駒充彦 森貴史 大鼓 大倉慶乃助
  後見 香川靖嗣 中村邦生
  狂言後見 山本則孝 山本則秀
  地謡 友枝昭世 粟谷能夫 大村定 長島茂
     友枝真也 塩津圭介 佐藤寛泰 佐藤陽

能《絵馬・女体》老翁/天照大神 友枝雄人
  姥 内田成信
  天鈿女命 狩野了一 手力雄命 金子敬一郎
  ワキ家臣 大日方寛 
  蓬莱の鬼 山本則重 山本則秀 若松隆
   一噌隆之 曽和伊喜夫 大倉慶乃助 林雄一郎
(音声ガイド 佐々木多門)

バックステージツアー



びっくりするほど盛りだくさんで、太っ腹な内容!
友枝雄人さんが企画・監督・指揮をされたとか。
いつもながら、抜群の企画力。 とにかく、面白かった!!


翁かざりの略式バージョン


本公演の目玉のひとつが、《翁》の神事体験(お清め)のワークショップ。
会場は2階ロビーなのでけっこう並びましたが、貴重な経験でした。

翁上演前のお清めについては本や何かで聞いてはいたけれど、神聖で厳粛な神事を、まさか体験できるとは!


自分の番がまわってきたときは、ちょっとドキドキ。

祭壇には面箱が安置され、その左右には友枝雄人さんと狩野了一さんがお神酒を手に立っていて、わたしは狩野さんから注いでいただきました。
(記念に盃を持ち帰れるようにと、包装用の半紙までくださって至れり尽くせり。)


お神酒をいただいていると、背後で金子敬一郎さんがカチカチと切り火を切ってくださいます。

そうこうしているうちに、塩と洗米を載せた盆が差し出され、塩を体にまいて、洗米を口にふくみ、心身を清めます。


人がいっぱいで慌ただしかったけど、ほんとうに身も心も浄化された気分。
今年は個人的に健康運が良くないそうですが、これでなんとか切り抜けられるといいな。


かくして演者も観客も潔斎を済ませたところで、翁付き絵馬・女体は始まったのでした。


翁付絵馬・女体へつづく








2018年1月26日金曜日

《鉢木》後場~国立能楽堂特別公演

2018年1月25日(木) 13時~16時 国立能楽堂

能《鉢木》シテ佐野常世 友枝昭世
    ツレ常世妻 狩野了一
    ワキ最明寺時頼 森常好 二階堂某 森常太郎
    アイ早打 炭光太郎 二階堂従者 小笠原匡
    松田弘之 成田達志 亀井忠雄
    後見 中村邦夫 友枝雄人
    地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
       友枝真也 内田成信 佐々木多門 大島輝久


《鉢木》前場からのつづきです。

【後場】
一声の囃子で、回国修行から戻った最明寺時頼、二階堂某、従者が登場。
越之段の後、早笛となります。
名手ぞろいの囃子方、この一声→半早笛も、聴かせどころ、聴きどころ。


きらびやかな諸軍勢のなか、ただ一騎、佐野常世の痩せ馬だけが、心ははやれど足が言うことを聞かず、思うように前に進まない。

腰から抜き出した鞭で打てども打てども、先へは進まず、
「足弱車の乗りぢから」で、一の松から三の松までダラダラと後退、
「追ひかけたり」で、苛立ちをぶちまけるように鞭を投げ捨て、舞台へ。

このあたりの遠近感・スピード感・軍勢にどんどん追い抜けれて行く感じの出し方、能の枠を逸しない範囲での、常世の感情表現はさすが。



〈時代劇的大団円〉
最明寺の命により、二階堂は、諸軍勢のなかから一番みすぼらしい姿の常世を見つけ出す。
御前に参るよう命じられた常世は、謀反人に間違われたのだと早合点し、斬首も覚悟で前に出る。

鉢木を伐る前と後とでは、常世の心も大きく変化し、腹をくくった潔さが前面に押し出される。

そして、後場の山場はなんといっても、ワキ・最明寺の長ゼリフ。

「これこそいつぞやの大雪に宿仮りし修行者よ、見忘れてあるか」は、いかにも時代劇っぽい台詞ですが、この日のワキ方・森常好さんも、遠山の金さんばりの名調子。
いまにも片肌を脱いでべらんめえ調で、「この桜吹雪が目に入らぬか!」と言いだしそうなくらい小気味よい名裁きで、威厳と貫禄十分!


友枝昭世師も、「見忘れてあるか!」で、勧進帳の弁慶のようにダダッと後ろに下がって両手をついて深々とお辞儀。

現在物の面白さが最高潮に達したところで、終曲。
無事本領安堵となった常世は、三の松で長刀を担ぎ、意気揚々と愛妻のもとへ帰ったのでした。









友枝昭世の《鉢木》前場~国立能楽堂特別公演

2018年1月25日(木) 13時~16時 国立能楽堂

能《鉢木》シテ佐野常世 友枝昭世
    ツレ常世妻 狩野了一
    ワキ最明寺時頼 森常好 二階堂某 森常太郎
    アイ早打 炭光太郎 二階堂従者 小笠原匡
    松田弘之 成田達志 亀井忠雄
    後見 中村邦夫 友枝雄人
    地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
       友枝真也 内田成信 佐々木多門 大島輝久


首都圏の大雪から数日たったこの日もまだ雪がだいぶ残っていて、能楽堂の中庭はミニチュアの雪景色。《鉢木》のために誂えたような上演日和。

それにしても、《鉢木》は難しい曲です……。
友枝昭世師は亡霊・精霊など、現実を超えた夢の世界が似合う舞の名手。
「能ではなく芝居」と言われるこの現在物のシテは舞もほとんどなく、どちらかというと、ニンにない役柄かもしれない(観世寿夫も《鉢木》を好まなかったというし)、だからこそ昭世師ならではの《鉢木》が生まれたのかもしれません。



【前場】
ツレは出し置きで地謡前に静かに座り、最明寺時頼扮する旅僧と、一夜の宿をめぐってやり取りをする。

狩野了一さんはもしかすると、友枝昭世のツレを最も多く勤めていらっしゃるのではないだろうか。謡も合わせやすく、姿も端正、昭世師が絶大な信頼を寄せていらっしゃるのがよくわかる。
この日の常世妻役も、慣れない貧乏暮らしを切り盛りして、落魄した夫を支えつつ、掌でコロコロ転がしている……というキーパーソン的な役どころを、もとは武家の奥方らしく、品よく美しく演じていて凄く良かった。



〈シテの出〉
幕が上がり、素襖裃姿で現れたシテは、雪原の彼方に霞んでいるように見える。
雪の湿り気を感じさせる、少し重みのあるハコビ。
一の松に立ち、かすかに辺りを見渡すようにして第一声を発する。
その声音は、わたしには少し意表を突くものだった。


ぁ、あぁ……降ったる雪かな


なにかこう、戦禍の後の焼け野原を目にした時のような声。
すべてが灰燼に帰して何もかも失い、呆然と立ち尽くす人が発したような声。
愁嘆のその向こうにある、形容しがたい感情から絞り出された声だった。

「袂も朽ちて袖せばき」で、石川啄木がじっと手を見るように、左袖をむなしく見つめ、「あら面白からずの雪の日かな」に、厭世観を滲ませる。


この場面ではピンとこなかったのだが、次の場面、その次の場面と展開するうちに、常世の心理描写が入念に計算されているのが伝わってきた。


冒頭の厭世観、人間不信、人間的な感覚・温情の鈍麻があったからこそ、一夜の宿を拒む次の場面につながってくる。

この時の一抹の後悔が、妻の助言によって悔恨・懺悔の情へと膨らみ、夕闇迫る雪原で僧侶の姿を必死で探すうちに、人間的な感情や心のゆとりを取り戻し、僧が佇む雪景色に感興を催して「駒とめて袖打ち払ふ陰もなし」の定家の歌を引くに至り、さらには秘蔵の鉢木でのもてなしへとつながってゆく。



〈薪ノ段→いざ鎌倉の覚悟〉
正先に、雪をかぶった鉢木の作り物が出され、いよいよ薪ノ段。

「捨人のための鉢木切るとても」で扇を開き、まるで我が子を斬るような、覚悟と逡巡が入り混じる。
次の「雪打ち払い見れば面白やいかにせん」で、未練ありげに鉢木をしばし見つめたのち、扇を閉じる。

秘蔵の鉢木は、過去の栄華の象徴。
梅、桜、松と、大事な植木を伐るたびに、過去への未練も断ち切っていく。

それはおそらく常世が日頃から願いつつも、どうしてもできなかったことなのだろう。
過去の威光、過去の自分を断ち切れないことが、現在の苦しみとなっていた。
僧を薪でもてなすことは、常世にとって、過去と決別するまたとないチャンスなのだ。


そうしてすべてを断ち切り手放したあとに、
常世に残ったのはただひとつ、武士としての意地と矜持。


ボロボロの具足に錆びた長刀、痩せた馬を最明寺に指し示し、
「鎌倉に御大事あれば」「あの馬に乗り」と、
下居のまま片足を、バンッ!、とひとつ足拍子して、
見得を切るようなその姿に、サムライの美学が凝縮されていた。




《鉢木》後場につづく











2018年1月25日木曜日

国立能楽堂特別公演《宗論》

2018年1月25日(木) 13時~16時 国立能楽堂

仕舞《花月キリ》観世喜之
    地謡 観世喜正 小玉三郎 弘田裕一 駒瀬直也

狂言《宗論》シテ浄土僧 野村萬
   アド法華僧 野村万蔵 宿の主 野村万禄
   栗林祐輔 森貴史 亀井洋佑

能《鉢木》シテ佐野常世 友枝昭世
    ツレ常世妻 狩野了一
    ワキ最明寺時頼 森常好 二階堂某 森常太郎
    アイ早打 炭光太郎 二階堂従者 小笠原匡
    松田弘之 成田達志 亀井忠雄
    後見 中村邦夫 友枝雄人
    地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
       友枝真也 内田成信 佐々木多門 大島輝久


言うまでもないことだけど、やっぱり《宗論》は名曲だなあ。
宗教の根本という普遍的なテーマを、押しつけがましくも説教臭くもなく、笑いの中に巧みに織り交ぜて提示している。
ある意味、宗教和解の理想の姿。
世界を見渡しても、現実にはなかなかこうはいかないからこそ今に通じる。
本当はシリアスな問題だからこそ、狂言のなかでは愛嬌たっぷりに茶化しじゃれ合う絶妙のユーモア感覚。
日本でも宗教が暴力的・闘争的だった時代に、こういうシニカルで挑戦的な作品を書くなんて、すごい狂言作者がいたものだと思う。
世界中の人に観てほしい狂言です。



次第の囃子で法華僧(野村万蔵)が登場する。
囃子方は、次の《鉢木》の囃子方とそれぞれ同じ流派。そのまま能の囃子の後見を勤められていた。
栗林さんをはじめ、お囃子がいい。
ちょっと入るだけで、隠し味的に舞台を引き立てる。


シテとアドの息も合っていて、
とくに宗論の肝でもある、「一念弥陀仏即滅無量罪」「または無量の菜!菜!」と唱えれば、塩と山椒だけの粗末なお斎でも、膳の向こうには「牛蒡、湯葉、紅麩、椎茸……ありとあらゆる無量の菜が有る、有る」と思って食べる。これを「一念弥陀仏即滅無量罪」「または無量の菜、菜」と噛み砕いて易しく説く、法文の心が、なんと有難いことか!
というくだりは、名人ならではの滑稽味。


それと最後の、浄土僧と法華僧がたがいに「なもうだ~」「蓮華きょう~」と言い合いながら、片足ずつ上げて、笠と扇を左右に打ち合わせ、踊り念仏or踊り題目をするうち、題目と念仏を取り違えるところ。

ここの舞の型はかなりハードだと思うのですが、息は上がっていたものの、野村萬師の片足立った姿勢の美しさ・確かさ、足腰の強さは驚異的!
超人的な米寿。凄すぎです。
(シテ方・ワキ方のこの年齢で、体の軸がこれだけ安定している人は、たぶんいないと思う)。


ちなみに、狂言の《宗論》を改作した落語の《宗論》もあるそうです。
(落語のほうは、浄土真宗VSキリスト教)
落語THE MOVIEで放送されないかなー。



友枝昭世の《鉢木》前場につづく









2018年1月15日月曜日

世界花小栗判官・通し狂言~四幕十場

2018年初春歌舞伎公演 12時~16時10分 国立劇場大劇場


盗賊風間八郎            尾上菊五郎
執権細川政元・万屋後家お槙     中村時蔵
猟師浪七・横山太郎秀国       尾上松緑
小栗判官兼氏           尾上菊之助
照手姫              尾上右近
浪七女房小藤・お駒・横山太郎妻  中村梅枝    ほか

小栗判官の大凧。ロビー対面には敵役・風間八郎の凧も。

発端    (京) 室町御所塀外の場
序幕 〈春〉(相模)鎌倉扇ケ谷横山館奥庭の場
          同      奥御殿の場
          江の島沖の場
二幕目〈夏〉(近江)堅田浦浪七内の場
          同 湖水檀風の場
二幕目〈秋〉(美濃)青墓宿宝光院の場       
          同 万屋湯殿の場
          同  奥座敷の場
大詰 〈冬〉(紀伊)熊野那智山の場

かわいい羽子板のディスプレイ


小栗物の決定版『姫競双葉絵草紙』を補綴・改作し、その醍醐味をギュッと詰め込んだ世界花小栗判官。

菊之助はこの世代の御曹司のなかでいちばん巧いと思っている役者さん。
今回も期待を裏切らず、登場とともに劇場全体が燦然と輝くような花のある存在感と、地道に積み上げた確かな芸で観客を魅了した。
荒馬(人食い馬?)鬼鹿毛を見事に乗りこなす、腰を入れた姿勢の美しいこと。
それからこの方、間の取り方が上手い。
許嫁の照手姫と、祝言を挙げるはずだったお駒のあいだに挟まれて戸惑うときのなど、間の感覚が絶妙だった。

相手役の右近さんも所作が美しく、可憐で艶やかな照手姫を好演。
小栗判官と並ぶと、まさに絵から抜け出たような絢爛たる美男美女。

菊五郎の魔王のような悪役ぶり、時蔵の奥行きのある演じ方、松緑さんの立ち廻りと身を投げうって照手姫を救った「檀風」の術など見応えたっぷり。


そして今回、大きく目を見張ったのが 浪七女房・小藤/万屋娘お駒/横田弥太郎妻・浅香の三役をこなした若手女方・梅枝さんの芸の力。
小藤とお駒は殺され役なのだが、この殺され方がじつに見事。

まず世話物女房の小藤は、照手姫を連れ去ったチンピラの兄に殺され、「わたしのことはいいから(元主君・小栗判官の許嫁だった)姫をどうか取り戻して!」と夫に言い残して息を引き取る。その妻の鑑のような健気さと、歌舞伎が求める人妻の色香を漂わせて死んでゆく凄絶美。
隣の席の御婦人方もプログラムで名前を確認し、「すごいわね」「素敵ねえ」と口々に言い合っていた。

次の万屋娘お駒は、小栗判官と祝言の約束を交わした純情な娘役。相手に一目ぼれした時のぽうーっと判官を見つめる愛らしさ。照手姫に判官を取られた時の、嫉妬に狂って身をよじる所作、般若のような目つきと悶絶するほどの哀しさ、絶望。
実の母(時蔵→父子共演)に殺される時の、サディスティックな海老ぞり、「なぜ……わたしが……こんなことに」と問いかけるような無念の死にざま……。

若いのに芸に深みがあるし、これからもっと時蔵さんから吸収して、好い役者さんになりはると思う。

                                         
おなじみ平櫛田中《鏡獅子》
覇気のある造形には六代目菊五郎と田中の魂がまちがいなく宿っている!



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2018年1月10日水曜日

能とオペラ~「松風」をめぐって

2018年1月10日(水)14時~16時 国立能楽堂

開演前に舞台に置かれた汐汲車
桶には白浜に松。カラフルなボウジがお菓子みたいにポップ。

【第一部】《松風》汐汲の段&狂乱の段
      シテ松風 観世銕之丞
      ツレ村雨 谷本健吾
      栗林祐輔 田邊恭資 大倉慶乃助
      地謡 馬野正基 浅見慈一 長山桂三
      解説 宮本圭造

【第二部】座談会
   観世銕之丞 細川俊夫 柿木伸之 宮本圭造



あぜくら会&新国立劇場クラブ・ジ・アトレとの合同企画イベント。
あぜくら会が指定した席に座ったので、ふだん自分が選ぶ席とは見え方も違い、ちょっと新鮮だった。

袴能(?)の部分上演だったため、
代わりにロビーには《松風》で使用される面・装束・扇の展示。

縫い箔の裾模様。刺繍が見事。愛嬌のあるサギさん。


第一部は、汐汲の段と狂乱の段という見せ場(それぞれ「いざいざ汐を汲まんとて」から「憂しとも思はぬ汐路かな」までと「うたての人の言ひ事や」から「松風ばかりや残るらん」まで)を上演し、あいだに宮本圭造さんの解説が入るというもの。


「舞囃子形式」とあったけれど、袴能の部分上演というか、まるで銕仙会の稽古能を観ている感じ(実際に観たことはないけれど)。
あの青山の舞台で、こんなふうに稽古能をされているのか、と想像しながら見るのも一興です。

それにしても、いきなり中途半端な箇所から始まっても、違和感なく舞台に集中して、スーッと役になりきれるところは、さすがはプロの役者さん。
こんな無茶ぶりて的な企画にも当意即妙に対応できる、銕仙会の底力と素材そのものの味を堪能しました。


銕之丞さんの汐汲みの場面がことに美しい。
「更けゆく月こそさやかなれ」で、顔面をテラして、夜空に浮かぶ月を見、
「松島や雄島の海士の月にだに」で、披いた扇で汐を汲む。
零れ落ちる海水が月の光を反射して、宝石が散らばるようにきらきらと輝いている。
「影を汲むこそ心あれ」と、桶の水面に映る月をのぞきこむ。
うっとりするほどロマンティックな光景だ。

狂乱の段の中ノ舞も惹きこまれる。
シテは昨年あたりから体の軸が安定し、緩急の付け方も一段と洗練されてきた。
舞姿に一本のしなやかな芯が通っていて、円熟味を増している。


谷本さんのツレもシテと息が合っていて、下居姿もきれいだった。
狂乱の場面が生きるのも、村雨の謡と存在があればこそ。
この子弟コンビの松風村雨、謡の呼吸にしっくりくるものがあり、とてもよかった!


ロビーに展示されていた節木増(国立能楽堂所蔵)
目元に妖しい狂気を宿していて、松風にぴったり
実際の舞台で拝見できたらいいのだけれど……。









2018年1月9日火曜日

金剛流謡初式

2018年1月3日 12時(11時半開場)~13時10分 金剛能楽堂



素謡《神歌》金剛永謹 金剛龍謹
   地謡 豊嶋三千春 今井清隆 松野恭憲 宇高通成
      種田道一 廣田幸稔 山田純夫 
      坂本立津朗 植田恭三 ほか流儀一同

仕舞《淡路》    豊嶋晃嗣
  《東北クセ》  宇高通成
  《葛城キリ》  廣田幸稔
  《小鍛冶キリ》 豊嶋幸洋
    地謡 今井克紀 宇高竜成 宇高徳成 惣明貞助

  《鶴亀》    今井克紀
  《田村クセ》  種田道一
  《羽衣キリ》  今井清隆
  《国栖》    宇高竜成  
    地謡 豊嶋晃嗣 重本昌也 山田伊純 向井弘記

舞囃子《高砂》 金剛龍謹
    杉信太朗 林大和 石井保彦 前川光範
    地謡 豊嶋幸洋 宇高徳成 山田伊純
       惣明貞助 向井弘記   



八坂神社から金剛能楽堂へ。
こちらの謡初式もほぼ満席の盛況ぶり。

鏡板の上にしめ飾りを飾った能舞台

金剛能楽堂ははじめて。
こちらは、わたしが知る能楽堂のなかでは最も照明を落とし、見所も比較的暗く、まるでロウソク能のよう。
かなり明るめの観世会館とは対照的だった。
(個人的な好みでは両者の中間くらいの、国立能楽堂の照明が見やすいかな。慣れているせいもあるけれど。)



素謡《神歌》
総勢26人の地謡を従えた宗家父子による《神歌》。
元旦の舞囃子《高砂》のときも感じたことですが、龍謹さんは謡が好いですねえ。



仕舞《国栖》
仕舞前半の若い地謡が良かった。

そして後半に《国栖》を舞った宇高竜成さん!
この日は、八坂神社での寒気が消えず、雪山遭難者のように意識が朦朧としていたのですが、竜成さんの舞でパキッと覚醒。

この方、金剛流若手の中では相当実力のある方ではないだろうか。
隙のない、引き締まった舞姿にぐんぐん惹き込まれる!
はじめて拝見したけれど、注目株だ。



舞囃子《高砂》
すっごくノリノリの、熱い舞台!

太鼓の光範さんが囃子をぐいぐいリード。
あの絶叫のような掛け声が炸裂し、からくり人形のように規則正しくあざやかなバチさばきが披露される。
ああ、やっぱり太鼓がいいと、お囃子はこんなに違うんだ! 
舞台全体に生気と活力が吹き込まれ、いきいきとした気迫に満ちてくる!

お囃子も、シテも、地謡も、すべてが水を得た魚のように、それぞれの持ち味を出し尽くし、見所も舞台と溶け合い、その場にいる人すべてがノリにノッて新年を寿ぐ。
ああ、よかった!楽しかった! と心から思える舞台だった。



ここでも、終演後にロビーで振る舞い酒が。
金剛流では観客ひとりひとりに、能楽師さん手ずから盃に注いで下さるというサービスぶり。

金剛流といい、京都観世会といい、おもてなしの心がすばらしく、ちょっと感動。
冬の京都は寒いけれど、心はほっこりあたたまる。

家族や親戚とも楽しく過ごせたし、ミッションも果たせたし、合間に観能もできたし、良いお正月でした。
神々と、出会った人々に、感謝!






2018年1月8日月曜日

八坂神社初能奉納

2018年1月3日 9時~10時5分 八坂神社能舞台 



能《翁》 翁 片山九郎右衛門
   千歳 分林道治
   三番三 茂山千五郎 面箱 島田洋海
   笛 杉信太朗
   小鼓頭取 曽和鼓童 胴脇 古田知英 手先 成田奏
   大鼓 石井保彦
   後見 味方玄 梅田嘉宏
   狂言後見 茂山茂 網谷正美
   地謡 青木道喜 橋本光史 田茂井廣道
      深野貴彦 橋本忠樹

仕舞《難波》 金剛永謹
   地謡 金剛龍謹 今井克紀 豊嶋晃嗣 宇高竜成 




今年を逃すと、八坂神社での九郎右衛門さんの《翁》は2年後になるから、拝見できてよかった!

朝方の雨はいったん止んだものの、開演前にまた降りはじめたり、雪に変わったりと、変則的なお天気。

それでも、切り火の赤い火花が散り、面箱が登場し、九郎右衛門さんがあらわれて橋掛りを進むころには、雲間から青空がぱあーっとのぞいて晴れてきた。
九郎右衛門さんの翁パワーでしょうか。
(そして不思議なことに、翁帰りのころには再び雪に。)



九郎右衛門さんの《翁》は、セルリアンタワーの15周年記念で拝見したことがあるけれど、こういう由緒ある神社で(しかも本殿や神々の社に正対する能舞台で)執り行われる神事としての《翁》には、ホテルの地下舞台で行われる《翁》とはまた違った、格別の趣きがある。
(もちろん、音響や空調は屋内能楽堂のほうが良く、セルリアンタワーの《翁》もとても感動的でした!)


それを最も強く感じたのが、正先での拝礼です。
京の人々の想いや願いを一身に背負い、細胞のひとつひとつにまで敬虔な祈りを込めて、目の前の神々に捧げる一礼。
その姿そのものが何にもまして尊く、畏敬の念さえ湧き上がる。
こちらの身も心も、洗い清められていくような気がします。


それと、あの翁の型の、左袖を被くところ。
一輪の白梅がほころぶように、香りと色気がふんわり漂う。
(こんなことを書いたら不謹慎かもしれないけれど)九郎右衛門さんの翁には、なにかこう、独特の色気がある。
厳粛ななかにある、やわらかさ、たおやかさ。
この色気は、「祇園さん」と呼ばれるこの神社に捧げる《翁》にふさわしい。



三番三は、大地を踏み固め、踏みしめ、踏み耕す「揉之段」と、小ぶりの鈴で地道に、着実に種をまく「鈴之段」がやはり神事に似つかわしく、大地に力強くしっかりと根を張った舞だった。





〈追記〉
奉納中は夢中で拝見していたけれど、終わってみると、凍死しそうなほど体が凍りついていた!
(防寒体制は万全だったはずなのに。)
冬の京都は、半端なく寒いっ!!





2018年1月7日日曜日

京都能楽会 新年奉納

2018年1月1日 12時30分~13時50分   平安神宮 神楽殿

朱塗りの建築に、御簾を透かした日差しと影が美しい
(神楽殿内部は撮影禁止のため、中から外を撮影)

能《翁・日吉式》翁 大江又三郎
   千歳 浅井通昭 三番三 茂山忠三郎
   笛 杉信太朗 小鼓 武村英敏 林大輝 林大和 大鼓 渡部諭
   地謡 井上裕久 河村晴道 吉浪嘉晃 大江広祐

舞囃子《高砂》シテ 金剛龍謹 
   ワキ 原大
   笛 左鴻泰弘 小鼓 曾和鼓堂 大鼓 井林久登 太鼓 前川光長
   地謡 廣田幸稔 豊嶋晃嗣 嶋崎暢久 惣明貞助

仕舞《田村クセ》 深野貴彦
  《東北キリ》 味方玄
  《猩々》   松野浩行
   地謡 橋本擴三郎 片山伸吾 河野浩太郎 宮本茂樹

仕舞《八島》   種田道一
   地謡 豊嶋幸洋 今井克紀 山田伊純 重本昌也 

小舞《三人夫》茂山あきら 茂山宗彦 茂山千三郎
   地謡 茂山千五郎 茂山七五三 茂山逸平 茂山童司

舞囃子《嵐山》河村晴久
   笛 森田保美 小鼓 林吉兵衛 大鼓 石井保彦 太鼓 前川光範
   地謡 青木道喜 浦田保親 河村和貴 大江泰正




観世会館を出て、初詣客でにぎわう平安神宮へ。
演者・観客とも掛け持ちする人も多く、こんなふうにみんなでぞろぞろ歩いて移動するのがなんだかおもしろい。
立ち並ぶ屋台に誘われ、「おいしそう!」とつぶやく能楽師さんも。


神楽殿では、前方は茣蓙に座り、後方は立ち見。
「死ぬほど寒い」という前情報により、雪ダルマレベルの着ぶくれ+カイロ6枚貼りの重装備だったので、幸い、そんなに寒くはなかったです。

なによりも驚いたのは、観能史上・最至近距離で拝見できたこと。
装束の文様の細かい部分はもとより、袖についたシミの形までよく見える! 
舞手が正先でサシコミをすれば、扇の先がコツンと当たりそうなほど。
舞台との段差もあまりないため、同じ舞台上で拝見している気分になる。

祭壇両脇のぼんぼりの明りが、厳粛な雰囲気を醸し出していて素敵でした。



《翁》の「日吉式」というのは、日吉大社のひとり翁にちなんでつくられたそうです。
(日吉大社が古くは「ひえ大社」と呼ばれたため、「日吉式」も「ひえのしき」と読むとのこと。)
翁も三番三も面はつけず、鈴之段はカットされ、囃子方は床几に掛けない。
また、通常は翁一人が正先で拝礼をしますが、日吉式では、翁・千歳・三番三の三人で礼をします。

要するに、日吉大社のひとり翁に、お囃子と三番三の揉之段をプラスしたのが《翁・日吉式》、ということでしょうか。

浅井通昭さんはもう中堅くらいの方かしら。初めて拝見しましたが、千歳の舞にみずみずしい勢いがあって、見応えがありました。

それから、大鼓の渡部諭さん。
謡初式でも出演されていましたが、片膝を立てて打つ揉み出しがシャープに決まってカッコよかったです。



舞囃子《高砂》
前川光長師の早打ちが華麗に冴えわたり、太鼓でときめいたのは、ほんと久しぶり。
先ほどの観世会館の《高砂》の太鼓は光範さん。
元旦から前川父子の太鼓が聴けたのは、耳福でした!



仕舞《東北キリ》
仕舞では、やはり味方玄さんが印象深い。
舞扇は金地で、表は華やかな紅梅、もう片面は清楚な白梅。
紋付の袖口からチラリとのぞく緑地の柄襦袢がさりげなくおしゃれ。
至近距離から観られる「場」を想定して、細部まで気を抜かない。

舞も、最初から最後まで意識の行き届いた緊張感に包まれ、その集中力の高さと持続に圧倒される。
氷に閉ざされた寒梅の、張り詰めた冷たさを連想させる。
こういうところが味方玄さんの魅力なのかも。



元旦の平安神宮





2018年1月6日土曜日

京都観世会「謡初式」 2018

2018年1月1日 10時30分~11時40分  京都観世会館

清々しい元旦の朝

舞囃子《高砂》 片山九郎右衛門

仕舞《鶴亀》   井上裕久
  《吉野天人》 河村晴久
  《鞍馬天狗》 浦田保浩

舞囃子《羽衣》  大江又三郎

狂言小舞《雪山》 茂山千作

舞囃子《猩々》  青木道喜

祝言《四海波》  全員



はじめてうかがう京都観世会の謡初式。
鏡板の前には鏡餅をお供えした祭壇が設けられ、いかにも神と人とをつなげる厳かな儀式がはじまりそう。
元旦早々、観世会館には多くの人が詰めかけ、1階は満席、2階もかなりの入りで、立ち見の方もいらしたとか。
観客もまさに老若男女。若い人も多く、演者も観客も、みなさん熱心。
京都は、能にアツい街なのだ。


舞台上に設けられた祭壇


今年の観能は九郎右衛門さんの舞囃子《高砂》ではじまる。
なんとも、めでたい!

ここの謡初式では、舞囃子でも仕舞でも地謡が14~18人構成。地謡が大人数なのは、「謡初式」の名の通り「謡を謡う」ことがメインだからかも。

切戸が開き、総勢16人の地謡を従えて九郎右衛門さんがあらわれた。
舞台にも見所にも、熱気と緊張感がみなぎるなか、「高砂や」の待謡がはじまった。

この日の九郎右衛門さんの《高砂》からは新年の決意と、祈りの念力のようなものが強く伝わってくる。
とくに両ユウケンのところ。
ほんとうに、神的パワーで魔を祓っているよう。
数時間前までは日吉大社の翁だった方だもの、ふつうの人とは威力が違う!


《高砂》は、片山一門主体の地謡だったのに対し、井上裕久さんの仕舞《鶴亀》の地謡は(たぶん)井上&林一門の構成。
昨年二月の東京での公演でも感じたけれど、さすがは謡講をされているだけあって、井上一門の謡はすばらしく、林一門の謡も京観世らしい、わたし好みの謡。
仕舞では、とりわけ謡に聴き惚れた。


最後は、全員による祝言《四海波》。
メディアでよく紹介されるのでおなじみの光景だけれど、九郎右衛門さんを先頭に総勢50名ほどの能楽師が舞台に勢ぞろいした姿は、壮観。

(これまで何度か拝見した東京の梅若の謡初式では、一門としてひとつにまとまり、式のあいだ終始キリッと背筋が伸びるような緊張感に貫かれていたが、京都観世会のように異なる門下の方々を束ねていくのは、また別のご苦労があるのだろうと思ったことだった。)




終了後、ロビーでは能楽師さんたちによる振る舞い酒が。

お酒をのせたトレーを持ってニコニコしている九郎右衛門さんから、いただこうかな、いただきたいな、と思いつつも、悲しいかな、あまりにも憧れすぎて半径3メートル以内には近づけず。。。

目の前に味方玄さんがいらっしゃったので、玄さんからいただいた。
おいしい!  好みの味(銘柄はなんだろう?)。
こういうところでいただくお酒は格別ですね。


身も心もあたたまったので、いざ、平安神宮へ。