2015年10月31日土曜日

府中青嵐会 三十五周年記念会~河村晴道師会

2015年10月31日(土)  9時45分~17時50分   セルリアンタワー能楽堂

番外仕舞《高砂》  樹下千慧
    《田村キリ》河村浩太郎

舞囃子《難波》《敦盛・二段之舞》《須磨源氏クツロギ》
      藤田六郎兵衛 吉阪一郎 河村大 小寺眞佐人

能《猩々》シテ社中の方、ワキ殿田謙吉
      藤田六郎兵衛 吉阪一郎 河村大 小寺眞佐人

素謡《道成寺》シテ社中の方、林宗一郎
       河村和貴 河村和晃 茂山良暢

舞囃子 《山姥・立廻》 《江口》 《船弁慶・後》
      藤田六郎兵衛 吉阪一郎 河村大 小寺眞佐人

番外仕舞《井筒》林喜右衛門
    《殺生石》林宗一郎

番囃子《楊貴妃》 宝生欣哉
    藤田六郎兵衛 吉阪一郎 河村大 

番外仕舞《国栖キリ》  河村紀仁

舞囃子《右近・破之舞》《松風》《砧・後》
     藤田六郎兵衛 吉阪一郎 河村大 小寺眞佐人

番外仕舞《松虫キリ》   河村晴久
    《班女・舞アト》 河村和重

番外能《羽衣・彩色之伝》 シテ河村晴道 ワキ宝生欣哉
        藤田六郎兵衛 吉阪一郎 河村大 小寺眞佐人
        後見 味方團 川口晃平
        地頭 林喜右衛門
附祝言



とっても楽しみにしていた河村晴道師の社中会。
地謡はもとより囃子方も笛・大小鼓を名古屋・京都から呼び寄せるという贅沢さ。
見所は終始ほぼ満席の盛況ぶりでした。

スタートは、樹下千慧さんと河村浩太郎さんの番外仕舞から。
去年の東西合同研究発表会で舞囃子を拝見した時から気になっていたお二人。
樹下さんは去年よりもさらに身体の芯が強化されてしなやかさが増し、
浩太郎さんも力強さがアップして、それぞれに見る者を惹きつける魅力的な舞だった。

この年代がめきめきと着実に芸を磨いているのが何よりも素晴らしい。



独吟を挟んで舞囃子3番。
この日のお囃子は藤田六郎兵衛師、吉阪一郎師、河村大師、小寺真佐人師だけで
舞囃子9番、能2番、番囃子1番を勤めるという相当ハードなもの。
とくに笛と大鼓はヘロヘロになってたんじゃないかなー。

とはいえ、東京でこのメンバーで拝見するということはめったにないので
見る側としては大変有り難い。

とりわけ河村大師は、映像以外では初めて拝見するので興味津々。
石井流大鼓自体、初めてかもしれない。
化粧調べを膝の後ろに垂らすところは高安流に似ている。

打ち方は、葛野流の忠雄氏のようにドライブを効かせて打つのではなく、
かといって、高安流の柿原師のように腕を真っ直ぐに伸ばして
鼓に吸い込まれるように打つのでもなく、
手のひらを前後にひらひらしならせて打つ。
もしくは大倉流の山本哲也師のように、お仕置き系というか、
お尻ペンペンするような打ち方も時折見られるが、
これは同じ地域で活動するうちに自然に受ける影響の結果かもしれない。
手組については分からないけれど、石井流独特の手もいろいろあるのだろう。

打音は高安流・葛野流に比べて角のとれたソフトな音色。
掛け声は、下顎を大きく下に引いて出す、
どこか引き延ばすような粘りのある掛け声だけれど、これは石井流というよりも
河村大師独特のものかもしれない。


さて、能《猩々》や素謡《道成寺》を経て、林父子の番外仕舞。
喜右衛門・宗一郎父子に注目したのは、ちょうど観能を始めた2年前に宝生能楽堂で開かれた社中会で喜右衛門・宗一郎による番外舞囃子《乱・双之舞》を拝見したときから。
相舞なのにゴーイングマイウェイ的な、それぞれの個性、カラー、テンポが際立つ舞いっぷりと、「不調和の美」ともいうべき不思議な魅力に衝撃を受けたのだった。

仕舞《井筒》 林喜右衛門
これほど哀切を帯びた、陰影の奥深い《井筒》を見たのは初めて。
「しぼめる花の色なうて匂ひ残りて」で
スローモーションのようにゆっくりと下居し、扇で顔を隠す。
その一瞬ごとに、色彩がしだいに薄れてモノクロの世界に変わってゆくよう。
花も女もやがて萎れて色褪せてゆく、
とらえどころのない美のうつろいや儚さが表現された仕舞だった。


仕舞《殺生石》 林宗一郎
宗一郎師は、東西合わせてシテ方三十代部門で群を抜いていると思う。

一言でいうと「凄い!」。
隙や気のゆるみというものがまったくない。
ダイナミックで見事なフォームの飛び返りをしても呼吸がまったく乱れない。
鋭利な名刀のような切れ味の芸の技。
将来名人になる人って、おそらくこういう人なのだろう。
格や次元がまるで違う。
以前、坂口貴信之會で観世流の若手シテ方10人が仕舞を舞ったのだけれど、
その中で宗一郎さんと関根祥丸さんだけは別格だった。
(国立能楽堂主催の公演もこういう実力のある若手をもっと出してほしい。)


番外能《羽衣・彩色之伝》
初めて拝見する河村晴道師の番外能。こちらも楽しみにしていました。

ワキは宝生欣哉師。 ワキツレは連れずに一人で登場。
一声と名乗りの後、(時間短縮のため?)下歌・上歌はカットして、橋掛りの欄干に掛けてあった美しい衣を発見、持ち帰って家宝にしようとします。

そこへ揚幕の中から「のうその衣はこなたのにて候」という声。
「それは天人の衣とて」でようやく幕の中から姿を現したシテは、
後光が射しているようなそれはそれは美しい天女でした。

シテの晴道師は細身で背が高いので、朱地藤模様縫箔を腰巻のモギドウ出立の胸に
補正をいっぱい詰めたその姿は、ボン・キュッ・ボンのグラマーな八頭身の現代風天女。
面の増女もシテのスリムな体格に合う、目鼻立ちのはっきりした超美形。

白蓮の天冠をつけているため余計に背が高く見え、
髻を高く結いあげた、少女のように可憐で美しい鞍馬寺の定慶作・聖観音に似ていて、
うっとりと見入ってしまう。

とはいえ、お能では縦長体型でなおかつ天冠をつけていると、
遠心力が働いて重心が取りづらく、身体のバランスが時折若干崩れがちだった。
(おそらく疲労もあったのかも。アウェイでの大規模社中会の最後に自身がシテとなって
能1番を舞うというのは並大抵の気力・体力ではないと思う。ただただ、敬服!)

物着(後見の團さんは装束付けが上手い)の後、
シテはプラチナカラーの立涌地紋舞衣姿となり、クリ・サシ・クセは抜いてさっそく序ノ舞。
艶やかな舞姿に、六郎兵衛師の盤渉序ノ舞が冴える。
その後、橋掛りでイロエ。

地謡も本会全体を通じて強吟・弱吟ともに味わい深く(情感豊かな弱吟はとりわけ秀逸)、
モデルさんのように容姿の美しい21世紀型の天女を堪能。
京観世・林一門のレヴェルの高さをあらためて実感しました。

社中の方々も皆さんお上手で、舞囃子《松風》と《砧》を舞われた方はとくに素晴らしかった。
素敵な社中会を拝見させていただきありがとうございました。


追記:大鼓の河村大師を初めて拝見すると書いたけれど、
拙ブログを検索してみると、京都観世会館で拝見済みだった。
九郎右衛門さんに意識が集中しすぎて、他がまったく見えていなかったみたい……。


2015年10月26日月曜日

橘香会《石橋・大獅子》など

橘香会《石橋・大獅子》のつづき

仕舞《盛久》   青木一郎
  《芦刈》   梅若紀長→お休み
  《七騎落》  中村 裕
     地謡 梅若万佐晴 泉雅一郎 伊藤嘉章 青木健一

狂言《蝸牛》 シテ山伏 野村萬斎 アド主 月崎晴夫
       アド太郎冠者 石田幸雄

仕舞 《清経キリ》 梅若志長
   《駒之段》  梅若万佐晴
   《笹之段》  野村四郎
           地謡 梅若万三郎 伊藤嘉章 長谷川晴彦 梅若紀長

能《石橋・大獅子》   シテ尉/白獅子 遠田修
        ツレ赤獅子 梅若泰志・ 梅若久紀
       ワキ寂照法師 野口能弘
   アイ山の精 竹山悠樹
   栗林祐輔 鵜澤洋太郎 大倉正之助 徳田宗久
    後見 梅若万佐晴 中村裕 泉雅一郎
    地謡 青木一郎 加藤眞悟 八田達弥 長谷川晴彦
       古室知也 青木健一 根岸晃一 若林泰敏



見所では、《定家》の終演後、狂言終演後と、段階的に観客が減り、
《石橋》の演能前になると、正面席前方は閑散とした状態。
正面席に近いほど人が減り、脇正面がいちばん密集しているという、
普段とは逆の現象が起きていた。
それぞれの事情だから仕方がないけれど、なんだか演者が気の毒になる……。

狂言《蝸牛》は面白かった!
やっぱり萬斎さんは間狂言より、狂言のほうが生き生きとしている。
石田さんと月崎さんももちろん冴えていて、久々に狂言で大笑いした。


仕舞は初見の方が多く、物覚えが悪いわたしは顔と名前がなかなか一致しない(笑)。
紀長師は今回も休演だったので、まだ一度も拝見したことがない。
(たまたまなのか代演・休演が多い気がする。どうされたのだろう?)


仕舞《笹之段》
仕舞ではやはり野村四郎師が別格だ。
演者全員が裃を着用する凛とした空気のなか、
この日最高の出来だった地謡とシテとの見事な掛け合い。

万三郎師が地頭に入ると、地謡がぐっと引き締まり、
ミラクルな化学反応が起きたように芳醇でまろやかになる。

万三郎師と野村四郎師というタイプの異なる両雄が縦糸・横糸となって
古烏帽子をかぶり、髪を振り乱して念仏を唱え舞い狂う百万の世界を紡いでいく。

わが子への狂おしいほどの切々とした恋しさが伝わってきて、
思いがけず凄い舞台を拝見したことに胸が震えた。
これほど感動した仕舞は久しぶり。



能《石橋・大獅子》
シテの遠田修師も初めて拝見するけれど、かなり巧い方なのですね。
幕の出から上手い人の雰囲気をまとっていて、期待が持てそう。

観世流では通常、《石橋》の前シテは童子だけど、この舞台では尉だった。
前シテ・尉ヴァージョンも初めて拝見する。

面は小尉だろうか?
とても品が良く、そしてどことなく影のある神秘的な老人面だ。

ワキの寂昭法師に石橋の謂れを語る段、空高く雲の高さから滝が落ち、
瀧壺には霧が立ち底が見えない、目がくらむほど峻厳な巌に細く滑りやすい石橋が
掛かっている様子が、おどろおどろしく語られて目に浮かぶよう。

やがて老人は、有り難い影向があるから舞っていなさいと告げて立ち去る。

ここから中入りとなり、山の精の間狂言のあと、いよいよ乱序!
大倉正之助師もこの日が初見(初めてばっかりです)だけれど、打音が独特。
笛と小鼓がよかった。

後場の大獅子も迫力あったし、統率もとれてたし、
紅白獅子ともに飛び返り・飛び安座もよく決まっていて楽しめた。

おめでたい石橋なのに見所が寂しいというカルチャーショック。
判官びいきのような気持ちになり、盛大に拍手を送った。





橘香会 《定家》

2015年10月25日(日) 13時半~18時20分     国立能楽堂
解説    馬場あき子

能《定家》 シテ里女/式子内親王の霊 梅若万三郎
      ワキ旅僧 福王和幸  アイ 野村萬斎
       松田弘之 久田舜一郎 亀井忠雄
    後見 野村四郎 山中迓晶 青木健一
    地謡 伊藤嘉章 西村高夫 清水寛二→柴田稔 加藤眞悟
       八田達弥 長谷川晴彦 梅若泰志 古室知也
  (休憩20分)

仕舞《盛久》   青木一郎
  《芦刈》   梅若紀長→お休み
  《七騎落》  中村 裕
        地謡 梅若万佐晴 泉雅一郎 伊藤嘉章 青木健一

狂言《蝸牛》 シテ山伏 野村萬斎 アド主 月崎晴夫
       アド太郎冠者 石田幸雄

仕舞 《清経キリ》 梅若志長
   《駒之段》   梅若万佐晴
   《笹之段》  野村四郎
           地謡 梅若万三郎 伊藤嘉章 長谷川晴彦 梅若紀長

能《石橋・大獅子》   シテ尉/白獅子 遠田修
               ツレ赤獅子 梅若泰志・ 梅若久紀
             ワキ寂照法師 野口能弘
                   アイ山の精 竹山悠樹
                  栗林祐輔 鵜澤洋太郎 大倉正之助 徳田宗久
            後見 梅若万佐晴 中村裕 泉雅一郎
            地謡 青木一郎 加藤眞悟 八田達弥 長谷川晴彦
               古室知也 青木健一 根岸晃一 若林泰敏



「好きなお能の曲は?」と聞かれて、真っ先に答えるのが《野宮》、その次が《定家》。
でも、禅竹物のこの二曲は上演回数が少ないうえに、
納得できる舞台にはなかなか出会えない。
この方ならば……と期待を込めて、この日、万三郎師の《定家》に臨んだ。

結果は、良い意味での「裏切り」と意外性に満ちた、
いかにも万三郎さんらしい、万三郎さんにしか実現できない《定家》だった。


【前場】

山より出づる北時雨 行方や定めなかるらん

禅竹が「雨の能作者」と言われるように、物語は晩秋の冷たい時雨で始まる。
木々に紅葉の残る冬枯れの京の夕暮れ。

冒頭から見所を酔わせて《定家》の世界へグイグイ引き込む次第の囃子。
とくに笛のすすり泣くような物悲しい音色に、全身がしびれるような陶酔感を覚える。
囃子の響きとともに、舞台が黄昏色に染まっていく。


旅装たちが一軒の古い庵に目をとめ雨宿りに向かうと、
背後(幕の中)から女の声がして、
ワキとのしばしの問答の後、シテはようやく幕から姿を現す。

前シテの面は増。 
この増女は不思議な面だ。
氷のように冷たく整った美しい顔は、憂いを帯びたり、悲哀に沈んだり、
恥じらいを含んだりと、一瞬ごとに微妙に表情を変えていく。
その伏し目がちな瞳はまばたきしているようにさえ見えることもあった。

万三郎によって生気を吹き込まれた能面は、生身の女性とは異なる、
現実には存在しえない高貴なヒロインとして息づき、見る者を幻惑する。

里の女は旅の僧に、庵の名称「時雨の亭」の由来について、
その昔、藤原定家が建てて、時雨にまつわる歌を詠んだと説明し、
僧と目を交わす。

秋の時雨のこの時期に、時雨に降られて、時雨の亭に雨宿りに訪れた旅の僧。

ともに何かの因縁を感じたらしく、シテとワキは見つめ合い、
女は、供養したいお墓があるので一緒にお参りしてほしいと僧を誘う。


このシテとワキの交流には、人間らしいぬくもりはない。

彼らのあいだにあるのは安易で甘ったるい感傷ではなく、
禅竹の曲、そして歌人・定家の作品の根底にある冷たい虚無感。

この醒めた虚無感のようなものが、
シテとワキのあいだをゆるやかに流れ、それがこの舞台の基調をなしていた。
(福王和幸師がワキに起用された理由もここにあるのかもしれない。)



二人が向かった先には、蔦葛の這いまとう古塚があった。
女は定家と式子内親王の悲恋を語り、二人の歌を引きながらその辛さを僧に伝える。


玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする(弱るなる)
                  式子内親王

死ぬほどつらい忍ぶ恋に耐えられず、二人の心も弱り、


歎くとも恋ふとも逢はむ道やなき君葛城の峰の(白)雲
                   藤原定家



逢えない苦しみは定家を妄執へと駆り立て、式子内親王亡き後、
定家葛となってその墓に這いまとわり、恋の炎のように紅葉するという。


定家の妄執を解くよう僧に頼んだ女は、「我こそ式子内親王」と名乗って立ち上がり、
塚に寄り添い、その壁に吸い込まれるように、塚の中へ消えていく。

(一瞬、引廻をすり抜けたのかと錯覚するほど、万三郎師はスルリと塚へ入っていった。)



中入】
萬斎さんの間狂言。 なんとなく、ここだけが萬斎ワールド。

(そういえば、広忠の会の《定家》の間狂言も萬斎さんなんですね。
行こうかどうしようか迷い中。出演者を見るとチケット自体取るのが難しそう。
味方さんの《定家》はそれこそ粘着質の情念の世界、
感情表現豊かな《定家》になると予想←《砧》の時もかなり情感豊かだった。)



後場】
中入りのあいだに大鼓は焙じたてのものに交換されたのだけれど、
焙じ方か良くなかったのか、前場のお道具よりも音質が下がっていて、
打音が響かず、こもってしまう。
(忠雄師のいつもの澄みきった純度の高い音色ではなかったのは、
もしかすると意図的にそうしたのだろうか?)


また、ワキの待謡のあと、シテは塚の中で謡い、しばし地謡との掛け合いとなるのだが、
このときのシテの詞「花も紅葉もちりぢりに」が、「花も嵐もちりぢりに」になっていた。
(万三郎さんの言い間違い?) 
たぶんこの詞は、定家の有名な歌「見渡せば花も紅葉もなかりけり」を暗示している
箇所だと思う。


こんなふうに、後場の冒頭にはやや弛緩した空気が流れたけれど、
「外はつれなき定家かづら」で引廻しがはずされると、
シテの意表を突く姿が見所を惹きつけ、舞台はふたたび求心性を帯びていく。

塚の中から現れたその姿――。
後シテの面は痩女か泥眼を予想していたが、(嬉しいことに)期待を裏切って
前場と同じ増女。
そして枝垂れた風情が定家葛を思わせる、柳模様の緑地の長絹(露は紫)に
オレンジシャーベットカラーの色大口。



ワキによる薬草喩本の読誦のおかけで、塚に這いまとっていた定家葛が
ほろほろと解け、式子内親王の霊はよろよろと立ちあがって塚から出る。
そして僧に合掌し、お礼として、華やかなりしころ宮中で舞った舞をお目にかけましょう
と言う。

そして、万三郎の《定家》の序ノ舞。
通常の《定家》に期待される暗さや陰鬱さとは無縁の、ひたすら美しい舞。

そこには「力み」や「努力の跡」というものが一切見えない。
あるのは、洗練の極みと品格の高さだけ。

皇女として斎宮を十年勤め、
斎宮を辞してのち、十歳年下の才気あふれる貴公子と恋に落ち、やがて別れる。
元斎宮という特別な身分とプライド。
婚期を過ぎた年上の女という負い目。
生涯で一度だけ味わった束の間の恋。

そうした女性の内に秘めた思いを舞で表現すると万三郎のこの序ノ舞になるのだろうか。

悲しみや苦しみといった負の感情は極限まで抑制され、
舞のなかに見え隠れする深い翳りに、シテの思いの断片をうかがうことができる。

昔を今に返す花の袖。
ひるがえす袖は甘美な羞恥心に震え、焚きしめた薫香と男の移り香を運んでくるよう。

僧の読誦によって定家葛を解かれ、成仏するかと思えたシテは、
舞っているうちに過去の記憶がよみがえり、ふたたび過去の恋に埋没していく。


夜の契りの夢のうちにとありつる所に帰るは、葛の葉の元の如く


もとの如く、
シテはいったん塚に戻り、ふたたび塚から前に出て、
定家葛の這いまわる様子を再現するように、
作り物の右前柱のまわりを一度だけ時計回りにまわってから、
再び塚に入り、左手に持った扇を顔前にかざしながら夢見るように座り込み、終焉。

万三郎のこのエンディングも予想外だった。

他のシテならば、定家葛が再び這いまわるのを強調するために、
塚の作り物の柱を八の字を描くように回ったり、同じ柱を何度も回ったり、
あるいは塚の中で座り込む時も、両腕で自分の身体を抱くように演じたり、
扇を持った左手で身体を覆うようにしたりすることもあるけれど、
万三郎師の演出はじつに淡白。


おそらく万三郎師は、クドさやドロドロした粘着性を好まないのだろう。
凝った演出や豊かな感情表現を好む玄祥師とは対照的だ。

なんとなく、万三郎師の芸風には、
理知的・技巧的・耽美的な歌人としての定家の作風に通じるものがあるように思う。


定家葛とは、定家の妄執ではなく、
式子内親王の妄想の中で生み出されたものではなかったのか。

浮世離れした元聖女の倒錯した妄想こそ、
万三郎師が描きたかったものではないだろうか。


と、それこそ勝手な妄想をしてしまったが、
いずれにしろ万三郎師ならではの優雅な倦怠と冷たい官能性を秘めた、
美の極致とでもいいたくなる《定家》だった。


彼以外のシテで、このような《定家》を観ることはもうないのかもしれない。




追記:
橋掛りを帰る時、通常、シテがシテ柱を過ぎるとすぐにワキが立ちあがり
その際に余韻を台無しにしてしまうことが多いのだけれど、
この日のワキは、シテが一の松を過ぎるのを待ってから静かに立ち上がり、
その後も、余韻を乱さないよう配慮している様子がうかがえた。
ワキの福王和幸師にも拍手を送りたい。


橘香会《石橋・大獅子》などにつづく

2015年10月20日火曜日

第八回 青翔会 《舎利》

2015年10月19日(月) 13時~15時10分   国立能楽堂

狂言 和泉流《痺》 シテ 上杉啓太 アド 能村晶人

舞囃子 喜多流《松虫》 塩津圭介
                 高村裕 岡本はる奈 柿原孝則
        地謡 佐々木多門 友枝真也 大島輝久
               谷 友矩 佐藤寛泰

舞囃子 観世流 《鞍馬天狗》 上田彰敏
         藤田六郎兵衛 唐錦崇玄 大倉慶乃助 姥浦理沙
         地謡 井上裕久 浅見重好 角幸二郎
           清水義也 関根祥丸

能 宝生流 《舎利》 シテ里人/足疾鬼 當山淳司 
          ツレ 韋駄天 金森良充
          ワキ 旅僧 矢野昌平 アイ 河野佑紀
                 熊本俊太郎 飯冨孔明(よしあき) 亀井洋佑 澤田晃良
                   後見 宝生和英 水上優
              地謡 辰巳満次郎 今井泰行 高橋亘 小倉伸二郎
                 小林晋也 亀井雄二 東川尚史 金井賢郎

二年前に訪れた美保の関:《舎利》のワキ旅僧の出身地


毎回楽しみにしている青翔会。
この日も、初めて拝見する方がいたり、一段と進歩されている方がいたりと、
満足度の高い公演となりました。


狂言《痺》
前回の第七回青翔会では初舞台で小舞《鵜の舞》をされた上杉啓太さん。
まだ第九期能楽研修生なのですが、今回はいきなりシテの太郎冠者なんですね。
最初のほうは詞が浮いていて、乗りきれていない感じだったけど、しだいに滑りがよくなり、面白味も増してきた。見所からは温かい拍手が送られた。



舞囃子《松虫》
(チラシには「男舞」とあったけれど「黄鐘早舞」なのでは?)

地謡後列には燦ノ会のメンバー。
喜多流独特の凛とした謡が、
秋の野、草葉にすだく虫、流水の盃、忘れ得ぬ友を待つ心を描き出し、
シテの鋼のように鍛えられたしなやかな細身の身体が曲趣に合っていて、
舞台は秋の夜の冷え冷えと澄みきった空気に包まれてゆく。

啓介師は緩急のつけ方が巧みで、所作や物腰が洗練され、妖しげで美しい男の友情の世界を、しっとりと繊細に舞っていた。


こういう舞台を拝見すると、喜多流って少数精鋭だと思う。
個人個人のレベルが総じて高く、能という芸に向き合う気持ちというか、
魂に一本筋が通っている。

最後に舞い終えて、定位置に戻り、扇をいったん膝前に置いて、
余韻を残すように大きく一呼吸置いてから、扇を取り上げる、
シテのこの間合いがすごく良かった。
(多くの人は、この間合いを大切にせずに、舞い終えたことで気を抜いて、
余韻を台無しにしてしまう。)

ただひとつ残念だったのは、地謡前列がシテのせっかくの間合いを無視して、
シテより先に、さっさと扇を取って、腰に差したこと。

地謡は、シテが扇を取るタイミングに合わせて扇を扱う方が見た目に美しい。




舞囃子《鞍馬天狗》
たぶん、拝見するのは初めての唐錦崇玄さん。
幸流小鼓方で1992年生まれだそうですが、隣の藤田六郎兵衛師と同じくらい恰幅がよく、
若いのになぜか風格がある。

金春流太鼓方の姥浦理紗さんは二度目。
研修中の方としては打音はとても上手いけれど、やはり女性だと掛け声が大変。
もちろん他のパートの掛け声も重要だけれど、とくに太鼓は多くの場合、後場の囃子の出だしと締めに重大な役割を担い、その出来不出来が一曲の成否を決める。
男性でもあの掛け声は難しいのに、女性だと相当なハンデになるだろう。
前人未到の道を歩もうとされているのだなー。

シテはキレのある舞働を颯爽と舞い(まだお若く身体も薄いので
天狗の重々しさは若干足りなかったけど)、ダイナミックな飛び返りで見所を魅了した。
地謡も重層的で厚みがあり、申し分ない。




能《舎利》
前半の舞囃子2番ではいずれもシテと地謡がとてもよく、お囃子は、後半の能がいちばんよかった。

やっぱり、熊本俊太郎さんの笛はいい!
所作も相変わらず美しい!
この笛を聴きたいがために青翔会にうかがっている部分もある。
森田流寺井家って他流や分派に押され気味なところがあるので頑張ってほしいな。

澤田さんの太鼓もますます元伯師の芸風に似てきて、
お調べを聴いていると、一瞬「あれ、元伯さん?」と聞き間違えるほど。
プロとしての完成度も一段と高まり、これからが楽しみな太鼓方さんだ。

飯冨孔明さんには、怖い顔した源次郎師が後見にずっとついていて、
飯冨さんご本人はさぞかし緊張されたのではないだろうか。
でもそうした手厚い指導の甲斐あって、チ・タ音の粒がとてもきれいに響いていた。
(この音をこれほどきれいに出せる人はそう多くはない。)


ワキの矢野さんは相変わらず謡いが好く、聴き惚れる。

シテは前半の居グセがきれいでした。
一畳台の扱いがシテ・ツレともにまだ慣れてない印象があり、特にツレが台への昇り下りの際に慎重すぎるというか、こわごわとした感じがあって舞台の流れがところどころ切れてしまった気がするけれど、全体的には大過なく、楽しい舞台でした


アイ狂言の、橋掛りをゴロゴロ転がりながら「ゆりなおせ、ゆりなおせ」というのは、《道成寺》に向けての下準備的な意味あいもあるのだろうか。
間狂言もことのほか楽しめました。


そしてイロエから早笛に変わる囃子がなんともカッコイイ!
ノリノリのコンサート会場にいるみたいに胸がドキドキ、熱くなる。
若手囃子方のカッコよさが際立った《舎利》でした。


そういえば、九郎右衛門さんの絵本『舎利』の最後に、僧がこのように語っています。

「かつて、あれだけこらしめられたのに、
また(舎利を)取りかえそうとするとは、よくよくのこと。
結局、あの足疾鬼も、お釈迦さまに近づきたかったにちがいない。
ただそのことが、うまく伝えられなかっただけではないだろうか。」

九郎右衛門さんらしい心あたたまる《舎利》の解釈。
足疾鬼って、不器用で愛すべきキャラだったのですね。


美保神社


《舎利》の旅僧は、出雲の国の美保の関から、都の泉涌寺を訪れる。
写真は美保の関に建立された美保神社。
事代主と妻の三穂津姫が祀られている。


毎日朝夕に奉納される美保神社の巫女舞

観客の有無にかかわらず、毎日二度、神々に奉納される巫女舞。

観光汚染にされされいないこの地には神聖な空気が立ち込めている。






2015年10月16日金曜日

松江城

10月上旬は夫の実家に帰省。


祝・国宝指定! 松江城天守

1611年築城、当時の城主は堀尾忠晴。
構造は、複合式望楼型で、四重五階天守、地下一階。
高さ30メートル。




見事な石組

西洋の煉瓦造りのように画一的なブロックできっちり組むのではなく、
大小さまざまな石を組んで「遊び」をもたせることで、耐震性の高い城壁を造営した。

日本人の知恵と技術の結晶。

審美的にも、歪みや崩れのあるこうした左右非対称性が
日本の人々の美意識に適ったにちがいない。






黒壁が美しい

煤に漆を混ぜた塗料で塗られた防虫防腐効果の高いシックな黒壁。

機能性とともに、松平不昧公など茶人好みの渋さも兼ね備えている。

無駄を排した簡素な美。





松江城内部

鎧兜などが展示されていた。

天守を支える柱には、一面あるいは二~四面に板を張って、
鎹や鉄輪で留められているものがある。
これは「包板(つつみいた)」と呼ばれるとのこと。






天守閣からの眺め

山陰らしい重い雲が垂れこめた風景。
宍道湖と小高い山並みが見える。

雲間から差し込む陽射しが、天使の階段のよう。

宍道湖の向こう岸は、玉造温泉。






松江城公園内にある城山稲荷神社の狛犬

小泉八雲も散策を楽しんだという城山稲荷神社。
(祭神は稲荷神が宇迦之御魂神、八幡神が誉田別尊)。

手前は、前足を折り曲げて屈みこみ、お尻を突き出すように後ろ脚を伸ばした、
典型的な出雲系の狛犬。

その奥には、ハチ公像を思わせるワンちゃんっぽい狛犬。

ユニークな取り合わせ。




小泉八雲記念館

松江城御堀沿いのこの辺りは武家屋敷が残され、風情がある。





特別純米「不昧公」、「八雲愛飲の復元酒」、「松江づくし」

出雲地方の酒造りの伝統は、
神々にお神酒を奉納し、八岐大蛇に酒を飲ませた神話の時代から続く。

知られざる名酒も多い。

夫の実家の近くに蔵元がある稲田屋の純米吟醸「稲田姫」はとくにお勧め。


ところで、不昧公は茶人としては有名だけれど、お能にはあまり興味がなかったらしく、
出雲系神楽や巫女舞が盛んなこの地に能楽堂がないのは実に残念かつ無念である。




2015年10月8日木曜日

観世会荒磯能~《安達原》

2015年10月8日(木)  13時~16時半    梅若能楽学院会館

観世会荒磯能~《班女》からのつづき

能 《安達原》 シテ 角幸二郎 
    ワキ 野口能弘 アイ 前田晃一→三宅右矩
       囃子 成田寛人 田邊恭資 亀井洋佑 梶谷英樹
後見 武田宗和 坂井音晴
     地謡 岡久広 小早川修 藤波重孝 武田友志
        清水義也 武田文志 金子聡哉 関根祥丸  
        


シテの角幸二郎さんはお父様譲りのいかにも正統派といった端正な芸風をもつ人。
仕舞や舞囃子では何度も拝見しているけれど、能のシテではこれが初めて。

安達原は『智恵子抄』で有名な安達太良山山麓を指すという。
祐慶阿闍梨一行が一夜の宿を求めて訪れた粗末な庵。

大小前に置かれた萩小屋の作り物の引廻が外され、現れたのは色香の褪せた中年女性。
くすんだ深井の面には辛酸をなめ尽くしたような疲労と悲しみが刻まれ、ほどよく退色した緑灰いろの唐織には秋草花がぎっしりと織り込まれている。


げに侘び人の習いほど悲しきものはよもあらじ。
かかる浮世に秋の来て、朝けの風は身にしめども
胸を休むることもなく、昨日も空しく暮れぬれば
まどろむ夜半ぞ命なる、あら定めなの生涯やな


なんて悲しく、孤独な響きの謡なんだろう。
幸二郎師はたぶん40歳くらいだと思うけれど、この《安達原》では良い意味で若さが抜け、老いに蝕まれつつある女性のなかに堆積した人生の澱や得体の知れない闇のようなものを漂わせていていた。


シテの女主人が萩小屋から出ると、萩小屋は主の閨に変わり、阿闍梨一行は庵に迎え入れられた形となる。
一夜の宿の礼を述べた阿闍梨は、ふと見慣れないものに目を留める。
女主人は、これは枠桛輪(わくかせわ)だと説明し、阿闍梨の求めに応じて、糸車をまわす。


およそ人間のあだなることを案ずるに
人さらに若きことなし、ついには老いとなるものを
かほどはかなき夢の世をなどや厭はざる我ながら
あだなる心こそ恨みてもかひなかりけれ


何ともいえない情趣のある糸車を回す場面。
シテは時おり月に目をやりながら、遠い過去に思いをはせる。
若く、華やかだった日々。
信じていた人の裏切りの数々。
何度も傷つき、怨み、厭い、ついには世を捨てて、ひとり人外境に籠ったこと。
そして……。

シテは糸車を回しながら、何度か阿闍梨と向き合い、目を交わす。

もう一度、人を信じていいのではないか。
魔境に入った自分でも人の心を取り戻し、他人の誠実を信じることができるのではないか。

阿闍梨を目を交わしながら、シテは自分が人間らしい心を取り戻しつつあることを感じたに違いない。
だからこそ阿闍梨たちを温かくもてなそうと、ひとりで山に入り、薪を取ってくると言ったのではないのか。

すぐに帰るからと、立ちあがったシテは、「や、いかに申し候」と振り返り、阿闍梨に言う。

妾が帰らんまでこの閨の内ばし御覧じ候ふな

この「御覧じ候ふな」のあたりから、妖気がシテの全身から立ち昇り、語尾の「な」の響きには人間らしさが失われ、鬼の気配が感じられた。

人間の心を取り戻しつつあった鬼女の、どうしても秘密にしておきたい暗部。
その闇の部分を押し込めようとした刹那から、闇はマグマのように沸々と煮えたぎり、噴出の時を待っている。

そうした水面下で蠢く危険な状況を、シテが発した「御覧じ候ふな」の語尾は示していた。

(中入)

間狂言は、三宅右矩さんが代演。
これがとってもよかった!
「僕は(閨を)のぞくなと言われてないから、のぞいちゃいます!」みたいな感じで、天真爛漫なやんちゃぶり。
普段は間狂言でそんなに笑わないわたしでも爆笑してしまいました。
この方のテンポとわたしの笑いのツボが合うみたい。



(後場)
大好きな早笛に乗って後シテの鬼女登場。
般若の面は蛇に近い、邪悪さを醸した鬼面。
ほんとうは仏道に帰依したかった鬼女の悔恨を物語るように、装束には法輪がちりばめられている。
今度こそ、と思って信じた相手に裏切られた怒りはどれほどのものだったのだろう。
無神経な善意(善人)ほど厄介で恐ろしいものはない。

ここからイノリで、鬼女VS阿闍梨一行の激しいバトル。
田邊さんの小鼓が特に良かった。

わりとあっけなく鬼女は調伏され、最後は橋掛りで飛び返りで幕入り。


能二番ともじっくり楽しめた大満足の舞台でした。



観世会荒磯能~《班女》

2015年10月8日(木)  13時~16時半    梅若能楽学院会館

解説 「荒磯~能を楽しむために」  金子聡哉

仕舞 《放下僧・小歌》  武田祥照
   《鞍馬天狗》    小早川泰輝
     地謡 高梨万里 野村昌司 北浪貴裕 坂井音雅 

能 《班女》 シテ 武田宗典 
     ワキ 福王和幸 アイ 三宅近成
     囃子 藤田貴寛 鳥山直也 柿原弘和
     後見 観世清和 坂口貴信
     地謡 角寛次郎 浅見重好 松木千俊 岡庭祥大
        坂井音隆 新江和人 佐川勝貴 上田彰敏 
      
狂言 《狐塚》 太郎冠者 三宅右矩 
             主人 高澤祐介 次郎冠者 三宅近成
 
     (休憩20分)

能 《安達原》 シテ 角幸二郎 
       ワキ 野口能弘 アイ 前田晃一→三宅右矩
       囃子 成田寛人 田邊恭資 亀井洋佑 梶谷英樹
          後見 武田宗和 坂井音晴
     地謡 岡久広 小早川修 藤波重孝 武田友志
        清水義也 武田文志 金子聡哉 関根祥丸  
        

 

東中野になってから初めて行く(なおかつ今年最後の)荒磯能。
ここの能楽堂は入口周辺に駐車場があるので、能楽師さんとしばしば遭遇する。
この日も開場直前に出演者の方々がゾロソロと楽屋入り。
私服だと誰が誰だかよくわからない(笑)。
座席数も少なくなったので、補助席を含め、ほぼ満員の盛況でした。

解説と仕舞2番(祥照さん痩せて精悍になったような)が終わっていよいよお能。


能《班女》
おそらく観客の誰もが思ったと思うけれど、シテ、ワキ、アイ、後見も含めてイケメン率の高い舞台。
実力も相応にある人たちばかりだから、お能が初めてという女性の友人を誘うにはこういう舞台が素直に楽しめていいかもしれない。
いや、ヴィジュアルだけでなく内容も凄くよかったのです。

前場の見せ場は、仕事もしないで形見の扇を眺めながら少将の帰りを待っている花子を宿の長(アイ)が追い出す場面なのですが、三宅近成さんがヒステリックなオネエ系キャラを発揮していて面白い!


いっぽう、宗典さん扮する花子は想像通り、手足のすらりとした美女。
(唐織は扇に秋草花をあしらった若草色とサーモンピンクの段替。面は若女ではなく小面かな?)
宿の長の怒りにも一向に動じる気配はなく、どんな境遇に陥っても愛を貫く覚悟でいるのが伝わってくる。
可憐で淑やかに見えても、芯の強い本物の大和撫子。
後姿や物腰、佇まいなど、どれをとっても男っぽさは微塵もない、奥ゆかしい女性に見える。

宗典さん自身、細身に見えるけれど、体軸がしっかりしているから型やカマエが安定していて美しい。
身体が細長いと重心の取り方が難しく、不安定になりがちなのに、太くない、しなやかで強靭な筋肉を鍛えていらっしゃるのだろう。


ところで、貴公子である少将と遊女が恋人同士(夫婦?)という設定はあまりにも身分が違いすぎて不思議に思っていたのだけれど、鈴木啓吾著『能のうた』(新典社)によると、遊女や白拍子などの女性職能集団は内廷宮司の管轄下にあって、天皇・上皇・高位の貴族などにも仕えて寵愛を受けていたため、彼女たちの身分は低いものではなく、遊女になるには美貌はもとより高い教養と技芸力が必要だったという。
なるほど、静御前と義経のような関係と考えるといいのかもしれない。


後場はカケリや居グセ、中之舞など見どころが多いのですが、何と言っても感動的なのは、花子と少将が扇を見せ合う再会のシーン。
黄金時代のハリウッド映画のラストシーンのような甘美な場面を、絵のように美しいシテとワキが美しい所作で演じるのだから、見ている側もドキドキときめいて、否が応でも盛り上がる。
今まで見た中で最高にロマンティックな舞台でした。


観世会荒磯能~《安達原》につづく