2019年1月23日水曜日

片山九郎右衛門の《東北》~京都能楽養成会研究公演

2019年1月21日(月)17時30分~20時20分 京都観世会館
京都能楽養成会研究公演・舞囃子三番からのつづき

能《東北》シテ 片山九郎右衛門
  ワキ 宝生欣哉 
  アイ 茂山千五郎
  杉市和 吉阪一郎 河村凛太郎
  後見 大江信行 梅田嘉宏
  地謡 味方玄 橋本忠樹 河村和貴
     河村和晃 大江広祐 樹下千慧




大寒を迎えた京都の夜。
冷たい空気が静寂を深め、森閑とした能舞台で、演者も観客もいつも以上に感覚が研ぎ澄まされる。夜は、夢の世界がしみこむ時間、夢とうつつのはざまの時間。この舞台を夜能で拝見できてよかった。


【前場】
旅の僧が、東国から花の都にやってくる。
欣哉さんの道行は、姿そのものが詩的で、こちらの想像力をかきたてる。多くの名脇役がそうであるように、いわくありげな影をまとう。なにか過去のありそうな、漂泊の僧。

この僧だからこそ、亡者と魂が共鳴し、女の霊が彼の前に現れたのだろう。そう思わせるだけの雰囲気を、欣哉さんの旅僧は醸している。


前場では、シテの声が印象的だった。
「な~う、な~う」という幕のなかからの声。
これがなんとも、色っぽい。

こんなに色っぽい九郎右衛門さんの声を聞いたのは初めてかもしれない。先日、舞妓さんの舞で聞いた地方さんの艶っぽい声を思い出す。

とはいえ、女性の声音を真似ているのではなく、あくまでお能の発声法に則った呼掛の声、れっきとした深みのある男性の声だ。それなのに熟した果実のような、豊潤なみずみずしさがある。



【後場】
河村凛太郎さんの小鼓が、鬘物の一声の囃子らしい繊細な音色。後シテの出の空気を醸成する。

シテの出立は緋大口に紫長絹。
長絹の文様は、たなびく霞を抽象化したような横のラインがいくつも入ったシンプルなデザイン。紫の地色もほどよく褪色して暗灰色に見え、春の夜のおぼろを能装束に仕立てたような風情がある。

そのおぼろな春の夜に、和泉式部の霊がふわり、ふわりと、袖をひるがえし、梅の香のような芳香をほのかに漂わせる。


序ノ舞の序を踏むときの、装束の裾からのぞく白い足。
白足袋を履いたその足がハッとするほど、なまめかしい。

芥川龍之介は桜間弓川のハコビを観て「あの足にさわってみたい欲望を感じた」と言ったが、名人の足というものは表現力がじつに豊かだ。


何がどう違うのか、具体的には分からないけれど、白足袋を履いた九郎右衛門さんの足は、たとえば、大天狗を演じた時と、貴公子を演じた時とでは違う。《東北》のような貴婦人の霊を演じた時の足は、狂女物の母親役の足とはまったく違う。


それは、女性の足というよりも、観念的に理想化された女の足であり、楚々とした聖性をもちつつも、この上なく官能的だ。これこそ、才色兼備の恋多き女としてイメージされる和泉式部の足だった。


序ノ舞で、官能的な足が向きを変えるとき、足そのものは少しも動かない(ように見える)。

まるで回転台に載っているように、不動のまま、90度、180度と、自由自在に身体の向きを変え、姿そのもの、動きそのものが、甘美な芸術品となって、観客を陶酔させていた。


シテが袖を翻すたびに、どこかで梅が一輪咲いて、春が近づいてくるようだった。

袖を巻き上げ、袖を返すたびに、甘い春の夜の香りが漂ってくるようだった。



終演後、能楽堂を出ると、空には明るく、大きな満月(スーパームーン)が出ていたのかもしれない。でも、わたしはそれにさえ気づかないほど、幸せな余韻に浸っていた。





2019年1月22日火曜日

京都能楽養成会研究公演

2019年1月21日(月)17時30分~20時20分 京都観世会館

舞囃子《高砂》シテ 樹下千慧
  杉市和 吉阪倫平 河村大 前川光範
  地謡 梅田嘉宏 河村和晃
     河村浩太郎 大江広祐

舞囃子《小塩》シテ 大江広祐
  森田保美 唐錦崇玄 河村大 前川光範
  地謡 大江信行 河村和貴
     河村浩太郎 樹下千慧

舞囃子《巴》シテ 廣田幸稔
  森田保美 曽和鼓堂 河村裕一郎
  後見 豊嶋晃嗣
  地謡 宇髙徳成 山田伊純 惣明貞助
     湯川稜 向井弘記 辻剛史

小舞《雪山》茂山七五三
  茂山千作 茂山千五郎 井口竜也
  茂山虎真 茂山竜正

能《東北》シテ 片山九郎右衛門
  ワキ 宝生欣哉 アイ 茂山千五郎
  杉市和 吉阪一郎 河村凛太郎
  後見 大江信行 梅田嘉宏
  地謡 味方玄 橋本忠樹 河村和貴
     河村和晃 大江広祐 樹下千慧




いまだに信じられない。こんなに豪華な番組&配役が研究公演なんて! 番組をいただいたときはミスプリントかと思って、二度見したほど。

こちらに来てからよく感じるけれど、京都ってすごい。次世代の育成にどれほど心血を注いでいるのか、この公演を観ただけでもその熱い思いが伝わってくる。研修生の方々も、講師陣の熱演に応えるだけの意気込みとパフォーマンスを披露されていて、なんかちょっと、感動的で、胸が熱くなった。



舞囃子《高砂》
冒頭からホームラン連打か!というくらい、スカッとカッコいい《高砂》。

まず、お囃子が素晴らしい。
わが家の家宝DVDの舞囃子《高砂》の笛と太鼓も、杉市和さんと前川光範さんなのだけれど、京都の《高砂》といえば、このお二方の笛と太鼓というぐらい、わたしの脳にはこのお二人の音色がインプットされている。
杉市和さんの笛にはほかの誰にも出せない、やみつきになるような独特の味わいがある。

そして、前川光範さんの超絶に凄い腹筋と背筋による、からくり人形のようなバチさばき、あざやかな早打ち、絶叫のように響きわたる掛け声。関西で《高砂》といえば、やはり、この方の太鼓の右に出るものはない。

ここに、河村大さんと吉阪倫平さんの大小鼓が絡んでくる。倫平さん、相変わらずの天才児ぶり。いや、天才児というよりも、小鼓の腕では、もうすでにれっきとした大人顔負けのプロ。掛け声も声変わりの声がだいぶ安定してきて、河村大さんとの掛け合いも聴き応え十分。
地謡も京都観世らしい謡。大江広祐さんのワキ謡も素敵だった。

さらに、シテの樹下千慧さんがよかった!
謡に明朗で颯爽とした伸びやかさがあり、舞の緩急の付け方にも品格とキレがあって、観ていてじつに清々しく、目が釘付けになる。この方の舞のリズム、間の取り方は、どことなく九郎右衛門さんに似ている。目に美しい舞姿だった。



舞囃子《小塩》
曲趣がガラリと変わり、「動」から「静」へ。
大江広祐さんは細身で背が高いし、宝生流のように腰を低く落とさないので、どうしても腰高に見えてしまうけれど、それでいて、体の軸がまったくブレていない。

こういう体型で、これくらい腰高の構えだと遠心力に影響されそうなものなのに、足拍子も安定していて、盤石の姿勢。鍛え抜かれた、しなやかな鋼のような足腰なのかもしれない。
(細身&長身で体がふらつきやすい人は、こういう人に習うといいのかも。)


序ノ舞は「気」が内へ向かって放出され、身体の中心が充実している。ひとつひとつの所作はきわめて繊細なのに、熱く、強い芯のようなものを感じさせる。何かを訴えかけてくるような舞、観る者に想像の余地を与えてくれるような舞だった。

お囃子もしっとりとした趣きがあり、唐錦崇玄さんもとくに序ノ舞の序の小鼓がたっぷりとしていて、地謡にもどこか雅やかな優しさがあった。




舞囃子《巴》
先月も、金剛若宗家の《巴》を拝見したばかり。
後シテの出をのぞいて、後場のほとんどを舞い、薙刀、笠、小袖、小太刀などの道具も使うので、これはもう袴能のようなもの。後見の豊嶋晃嗣さんがさりげないながらも、けっこう忙しく立ち働いておられた。

シテの廣田幸稔さんはベテランらしい、そつのない所作と動き。
「涙にむせぶばかりなり」とシオリ、少し間をおいてから、「かくて御前を立ち上がり」で、すっくと立ちあがる。

この決然と立ちあがるところに、巴の女らしさと、気丈さ、健気さが描写されていた。巴だけでなく、女という、この上なく強い性を象徴するような表現だった。

地謡は観世とはひと味違う奥行きを感じさせ、お囃子で研修生の河村裕一郎さんの掛け声が良かった。



茂山七五三さんの小舞《雪山》、拝見したかったのですが、休憩なしのノンストップ公演なので、休憩時間にあてました。


片山九郎右衛門の《東北》につづく



2019年1月19日土曜日

先斗町歌舞練場~京都日本画新展・記念シンポジウム

209年1月19日(土)14~16時 先斗町歌舞練場
先斗町歌舞練場、武田五一設計、1927年

今月25日から「えき」KYOTOで開催される日本画新展2019のシンポジウムへ。

会場となった先斗町歌舞練場は、建築的にも興味深い場所です。



屋根の上には、舞楽面「蘭陵王」の像

歌舞練場入口の屋根の上に鎮座している謎の像。

一瞬、ロマネスクの怪物? ゴシック建築のガーゴイル? と、思ってしまいますが、これは舞楽面の「蘭陵王」を象ったもの。
蘭陵王は歌舞音曲の神様なので、歌舞練場の守護神にぴったりです。

蘭陵王の両脇に、小さな太鼓があるのが見えますでしょうか?

先斗町が鴨川と高瀬川に挟まれている、つまり「川」と「川」に挟まれているのを、「皮」と「皮」に挟まれた太鼓に見立て、太鼓が「ポン」と鳴ることから、「ぽんと町」と呼ばれるようになった、という名前の由来の一説を図像化したもののようです。

なんだか、遊び心がありますね。 



レトロすぎるほどレトロな外観
内部もけっこう老朽化が進んでいます。
それでは、なかに入ってみましょう。




シンポジウムのプログラムは以下の通り。

オープニング:先斗町の舞妓さんによる舞
  《梅にも春》
  《祇園小唄》《鴨川小唄》
   地方 かず美さん
   舞妓 市結さん、市すみさん、市愛さん

パネルディスカッション
   原田マハ(小説家)
   林潤一(日本画家)
   野地耕一郎(泉屋博古館分館長)
   丸山勉(日本画家)
コーディネーター 田島達也(京都市立芸大教授)



冒頭の舞妓さんの舞が素敵でした。
この日は最前列に座っていたので、間近で拝見できてラッキー。

この時期にぴったりの春らしい演目で、舞妓さんたちのお着物も、水色やラベンダー色、菜の花のような明るい黄色など春らしい色合い。

「ぽっちり」の帯留めもゴージャスにきらめき、髪には正月らしい松竹梅の簪。
日本の女性美の結晶のようなあでやかさ。

腰や肩の動きがなんとも優美で、手の表現がしなやかで、やわらかい。
美酒に酔ったように、うっとりと見惚れてしまう。美しいものって、どうしてこんなに人を幸せにするのだろう。

地方さんの声にも、凛としたなかに艶っぽい色気があって、素敵だなぁ。

それにしても、舞妓さんだからお稽古歴もそう長くないと思うのですが、やっぱりプロって凄い! これだけ人を惹きつける魅力があるのですもの。
プロとしての心構えを持ち、厳しい稽古を重ねた人のもつオーラ。人に見られて、憧れられて、輝きを増す独特のオーラを彼女たちはまとっている。
たおやかで、露のようにきらりと輝く美しい舞。いつまでも観ていたかった。



パネルディスカッションでは、パネリストそれぞれが好きな日本画を3点ずつ紹介して、その良さを語るというコーナーがあり、紹介された作品を以下に挙げるとこんな感じ。

原田マハ氏は、竹内栖鳳《若き家鴨》、福田平八郎《淪》、上村松園《序の舞》。
林潤一氏は、菊池芳文《小雨ふる吉野》、西村五雲《日照雨》、山口華楊《鶏頭の庭》。
野地耕一郎氏は、池大雅《竹石図》、柳原紫峰《蓮》、村上華岳《春泥》。
円山勉氏は、村上華岳《峯茂松》 、長谷川等伯《楓図》、雪舟《天橋立図》。
田島達也氏は、狩野山雪《籬に草花図》、円山応挙《牡丹孔雀図》、岡本神草《口紅》。

このなかで、とりわけこだわりポイントの解説が面白かったのが、野地耕一郎氏。

柳原紫峰の《蓮》はわたしは未見なのですが、朝もやに包まれた湖に浮かぶ睡蓮の花が描線を使わずに、しっとりとした水気とともに描かれていて、是非見てみたいと思った。
千總が所蔵していて、時おり千總ギャラリーに展示されるようなので、チェックしてみよう。

村上華岳の《春泥》は、華岳がぜんそくを患ってから描いたもの。通常、線を引くときは息を詰めて描かないといけないが、喘息を患った華岳にはそれができない。《春泥》に描かれた線は、華岳の呼吸に合わせて、脈動している、それがこの絵の醍醐味だと野地氏は言う。
残念ながら、この絵は個人像なので、めったに見ることができないそうだが、何かの折に出展されていたら、味わってみたいと思った。



ロビーからは鴨川が一望できる。


歌舞練場の窓から眺めた鴨川の風景

冬のカップルには寄り添っている雰囲気があって、絵になります。




冬の三条大橋と春を待つ桜の木。





2019年1月16日水曜日

『芸の心 能狂言終わりなき道』野村四郎×山本東次郎


「世の中の評価や収入のような見返りを求めずに、ただひたすら理想を目指すことが出来る。死ぬまでその道を追い求めることができるということは、舞台人にとって一番幸せなことじゃないかと思うんです」━━ 四世山本東次郎


野村四郎×山本東次郎の対談集『芸の心 能狂言の終わりなき道』を読んだ。冒頭の言葉は、そこからの引用。「乱れて盛んになるよりは、むしろ固く守って滅びよ」という三世東次郎の教えを固く守ってきた当代東次郎師だけに、どっしりと腹の座った言葉だと思う。みずからが信じるものに向かって、まっすぐに突き進む潔さと純粋さが、東次郎師の舞台にはある。


本書『芸の心』には、人間国宝にして能楽界の重鎮であるお二方にしか言えないような、ある種のタブー、能界の裏事情的内容がぎっしり詰まっている。

それはおそらく、このお二方が現在の能界にたいして「これだけは言っておきたい!」「これだけは言っておかねば!」ということを、能狂言の未来のためにあえて公表したのだと思う。

たとえば、能楽界の「身分制度」について。

新作能の作曲をするにも、そういうことが自由にできる立場の人と、まったくできない立場の人というのがあると、野村四郎師は言う。また、それぞれの家でも、長男は出来ても、次男は出来ない(やらせてもらえない)こともあるとおっしゃっている。

四郎師自身は狂言方名家の四男。しかも、シテ方に転向して以降、現在のような確固たる地位を築くまでは、ある意味、平社員のような立ち位置で、新作・復曲能を自由に手掛けることができない立場におられた。さぞかし辛く、悔しい思いをされたことだろう。



個人的な感覚からすれば、どんな分野であれ、努力と才能が報われる社会であってほしいと思う。おそらく、お二方が心酔した観世寿夫も、そういうところに疑問を抱き、風穴を開けようとしたのではないだろうか。


観世寿夫といえば、両師が敬愛した観世寿夫についてのエピソードや秘話が数多く語られている。

たとえば、観世寿夫の装束着付について。
観世寿夫は装束を着けた時に、アキレス腱のところに唐織がぴたっと綺麗にくっついていて、それを1時間~1時間半持続させたそうだ。
また、舞台へ出て、鏡の間へ帰ってくるまで、着付けをした時の状態がそのまま持続し、まったく崩れることがなかったという。

装束が崩れるということは、型が崩れるということ。つまり、観世寿夫の型はまったく崩れなかったのだろう。

また、観世栄夫が喜多流に転向したように、兄である観世寿夫も宝生流に転向したがっていたという話も初耳だった(東次郎師の父・三世東次郎が思いとどまらせたという)。
いまでもレジェンドとして崇拝されている観世寿夫にも、みずからの芸の方向性について思い悩み、試行錯誤をしていた時代があったのだ。彼の意外な一面を垣間見た気がする。


それに比べて……という感じで、近年、楽屋の空気がとみに弛緩していることについても両師は苦言を呈している。(ほかにも、最近の能界のアカンところをいろいろ……)



このほか、囃子方の座り方について、背もたれに座っているような姿勢の人が最近多くなっていることも指摘されていた。

床几に掛かる時、後ろへ倒れるような姿勢ではダメで、シテ方も囃子方も、床几をすーっと引かれても、そのままの格好で崩れてはいけないと教えられたそうだ。

間語りの時も、べたっと座るのではなく、お尻の下に紙が一枚入るようにして語るようにと教えられたという。そうしないと、出てくる「気」が違ってくるし、那須語などは、パッととっさに動けないともおっしゃっていた。


そう言われて、舞台を観ていると、たしかに囃子方さんには、後ろに重心をかけ、お尻をどっしりと載せて坐っている人が多いのに気づく。

逆にいうと、たとえば「気」の放出が充実している大鼓の谷口正壽さんなどは、しっかり前に重心をかけた姿勢で座っておられた。

思い返せば、大倉源次郎師の座り方も重心が前にぐっと掛かっていた。故・観世元伯師も坐する姿の美しい人だった。一流の能楽師さんは座り方からして違う。座り方には、その人の心構えが反映され、それが芸のレベルを測るひとつの物差しになると思う。


能楽界の、そして、人生の荒波をくぐり抜けてきた重鎮お二方の言葉は意味深長で、舞台をまた違う角度から楽しむヒントを与えてくれる。両師の芸に対する深い思いが伝わってくる良書だった。




追記:山本東次郎師の言葉に、もうひとつ心に残ったものがある。

「ガンジーの言葉に『明日死ぬと思って生きよ、永遠に生きると思って学べ』とあります。実際私もそのように念じて生きていきたいと思っています。」

わたしも、座右の銘にしよう!





2019年1月15日火曜日

能《小鍛冶》と仕舞五番~京都観世会例会

2019年1月13日(日)11時~17時45分 京都観世会館
《難波・鞨鼓出之伝》 《羽衣・彩色之伝》からのつづき

仕舞《屋島》  浦田保浩
  《野守》  杉浦豊彦
 地謡 橋本雅夫 橋本礒道 味方團 浦田親良

仕舞《老松》  片山九郎右衛門
  《東北》  井上裕久
  《鞍馬天狗》林宗一郎
 地謡 武田邦弘 牧野和夫
    橋本擴三郎 宮本茂樹
 
能《小鍛冶》シテ童子/稲荷明神 深野貴彦
 ワキ三条宗近 小林努 ワキツレ橘道成 原陸
 アイ宗近ノ下人 山口耕道
 森田保美 曽和鼓堂 河村眞之介 前川光範
 後見 深野新次郎 河村晴久
 地謡 浦田保親 越賀隆之 味方玄 
    浅井通昭 橋本光史 吉田篤史 
    松野浩行 河村和貴



東京と京都の見所の違いのひとつが、男性の着物率。女性の着物率はそう変わらないけれども、京都の見所では和装の男性が多い(初会だったからかな?)。
いわゆる旦那衆だろうか、仕事柄だろうか、それとも純粋に趣味で楽しむ方が多いのだろうか、とにかく着物をさらりと着こなしている殿方が少なくない。さすがは京の着倒れ、和服が板についている。


【仕舞五番】
名家の当主による仕舞は、いずれ菖蒲か杜若、といった風情。見応えがある。
杉浦豊彦さんの《野守》は気迫充実。今年一年に向けての意気込みが感じられる。来月例会の《源氏供養》がますます楽しみ。


九郎右衛門さんの《老松》
かぎりなく「不動」に近い、ゆっくりした動き。神さびた老松のおごそかさと、若い梢のあでやかさ。ほんの少しの動き、ほんの少しの所作のなかに、ほんのり艶のある美が宿っている。
来週の《東北》が待ち遠しい。ずっとあこがれていた九郎右衛門さんの鬘物。どうか、無事に拝見できますように。



林宗一郎さんの《鞍馬天狗》
宗一郎さんも坂口貴信さんと同じく、仕舞や舞囃子で観た時のほうが「おお、凄い!」と思うことが多い。この日の仕舞も素敵だった。

お能では、袖の扱いとか、舞台の空間認識とか、面装束を着けたうえでの表現力の自由さとか、そうした舞台経験を山ほど積まないと得られないような要素がプラスされるから、仕舞・舞囃子とのギャップは致し方ないのかもしれない。



袖の扱いといえば、この日上演された観世清和家元の《羽衣・彩色之伝》での袖の扱いが印象深かった。
それは、シテが序ノ舞の二段オロシで左袖を被いてしばし静止する際、袖が大きく前に垂れて、顔(能面)にかぶさってしまった時のことである。

通常、ほかのシテならば、被いた袖が顔(能面)の前に垂れ下がってしまっても、どうしようもできずに、そのまま静止していることが多い。

しかし清和家元は、袖のなかの左腕をグイッと勢いよく上に伸ばし、顔の前に垂れた袖を天冠の上まで高く引き上げ、美しい増の面を縁取るように袖をかぶせて、見事に、さりげなくポーズを決め直したのだった。

このリカバリーの見事さ、熟練の技に感じ入った。舞台経験が豊富でないとなかなかこうはいかない。さすがだ。

(正直言うと、袖を被いて静止している時間があまりにも長いので、長絹の袖が天冠に引っかかったのかと思ったほど。シテの腕がプルプル震えていたし。後見は気づかない様子で、こちらはハラハラしたけれど、実際のところはどうだったのだろう??)



能《小鍛冶》
最後の小鍛冶は、切能らしい盛り上がり。
深野貴彦さんの前シテの童子は神秘的で、きれいだったし、何よりもお囃子が冴えていた。
前川光範さんのバチさばきと掛け声はいつもながら精彩に富み、新年から絶好調。この方の太鼓が入ると、舞台が生き生きと躍動する。
他のお囃子ももちろんよかったし、地謡も攻めの謡で、おめでたく、華やかな舞台だった。


朝から晩までお能漬けで、豪華な初会、堪能しました。









2019年1月14日月曜日

《羽衣・彩色之伝》~京都観世会一月例会

2019年1月13日(日)11時~17時45分 京都観世会館
《難波・鞨鼓出之伝からのつづき
能《羽衣・彩色之伝》シテ天人 観世清和
 ワキ白龍 福王茂十郎 
 ツレ喜多雅人 中村宜成
 杉市和 林吉兵衛 河村大 前川光長
 後見 片山九郎右衛門 林宗一郎
 地謡 井上裕久 河村和重 河村晴道 
    片山伸吾 味方團 橋本忠樹 
    大江泰正 大江広祐

仕舞《老松》  片山九郎右衛門
  《東北》  井上裕久
  《鞍馬天狗》林宗一郎
地謡 武田邦弘 牧野和夫
   橋本擴三郎 宮本茂樹

能《小鍛冶》シテ童子/稲荷明神 深野貴彦
 ワキ三条宗近 小林努 ワキツレ橘道成 原陸
 アイ宗近ノ下人 山口耕道
 森田保美 曽和鼓堂 河村眞之介 前川光範
 後見 深野新次郎 河村晴久
 地謡 浦田保親 越賀隆之 味方玄 
    浅井通昭 橋本光史 吉田篤史 
    松野浩行 河村和貴



元旦の謡初式でも書いたように、観世清和家元による《羽衣・彩色之伝》は、元旦朝にテレビで全国放送されたばかり(テレビ放送では、お囃子は一噌隆之、観世新九郎、亀井忠雄、林雄一郎、地謡は宗家系能楽師という「ザ・東京」的メンバーだった。)


同じ曲、同じ小書、同じシテによる舞台。そして驚いたことに、この日はシテの装束までテレビ放送の時とまったく同じ、紅地鳳凰縫箔腰巻に白地藤花蝶文様長絹という出立だった。

逆にいうと、同じ曲、同じ小書、同じ装束の同じシテによる舞台を観ることで、東京と京都のお囃子・地謡の芸風の違い、京都観世独自の味わいが浮かび上がる。


京都観世の謡は伸びやかで、青空に響きわたるような清々しさがあった。天女が空高く上昇していくときの、明るく澄んだ空気さながらの明朗さ。聴いているだけで心が晴れわたる。


笛の東京・一噌流と京都・森田流の違いも、序ノ舞などはまるで別の旋律、別の曲に聴こえるほど。杉市和さん×前川光長さんは京都のお囃子のゴールデンコンビであり、《羽衣》の序ノ舞の品格のある位にはこのお二方の音色と存在感が欠かせない。


音の世界が違うと、舞台を包む色合いも違ってくる。色調の違いが、曲の雰囲気の違いを生み、観る側が受ける印象も変わる。明るく、冴え冴えとした空気感がこの日の舞台にはあった。とくに、天女が上昇していくときの霞がたなびくような空気感は、シテとともに、京都のお囃子と地謡の音がつくりだしたものだった。



〈彩色之伝〉
「彩色之伝」は、数ある《羽衣》の小書のなかで最も重い小書だという。「彩色之伝」の特徴を以下に挙げると;

(1)クリ・サシ・クセがカットされる
つまり、地次第「東遊の駿河舞、東遊の駿河舞、この時や始めなるらん」のあと、クリ・サシ・クセをすっ飛ばして、「南無帰命月天子本地大勢至」の謡となり、シテは、常座で下居して合掌しながら、月の本体である大勢至菩薩に礼拝する。

(2)序ノ舞が盤渉になる
浜辺の爽やかさをより意識した演出。

(3)破ノ舞がイロエに変わる
①序ノ舞を舞い終えたシテは、「靡くも返すも舞の袖」で、大小前で左袖を被き、その後、ゆっくりと角へ行ってしばし立ち止まる。
②それから橋掛りへ行き、二の松で左袖を被く。
③左袖を被いたまま、総ナガシの囃子で舞台へ。
④大小前で、キリ地「東遊のかずかずに~」となる。

以上が、小書「彩色之伝」の内容だが、この日の舞台ではこの特殊演出に加えて、最後の幕入りで面白い演出があった。

「愛鷹山や富士の高嶺」で左袖を被いたシテは、舞台にいる白龍のほうを振り返り、そのまま後ろ向きに後ずさりしながら、幕のなかへと消えていった。

真っ青な空に引かれた白い飛行機雲。そんな爽やかな余韻が漂う舞台だった。



仕舞五番+能《小鍛冶》につづく




2019年1月13日日曜日

翁付脇能《難波・鞨鼓出之伝》~京都観世会一月例会

2019年1月13日(日)11時~17時45分 京都観世会館

能《翁》シテ 大江又三郎
 千歳 樹下千慧 三番叟 茂山忠三郎 
 面箱 井口竜也
 杉信太朗 吉坂一郎・清水皓祐・荒木建作 
 谷口正壽 井上敬介
 後見 浦田保浩 大江信行
 狂言後見 鈴木三の津 山口耕道
 地謡 杉浦豊彦 古橋正邦 河村博重 
    吉浪壽晃 分林道治 田茂井廣道 
    梅田嘉宏 河村和晃

能《難波・鞨鼓出之伝》シテ尉/王仁 青木道喜
 ツレ男 河村浩太郎 ツレ木華開耶姫 浦部幸裕
 アイ梅の精 松本薫

狂言《鎧》果報者 茂山千作
 太郎冠者 茂山千五郎 すっぱ 網谷正美
 
仕舞《屋島》  浦田保浩
  《野守》  杉浦豊彦
 地謡 橋本雅夫 橋本礒道 味方團 浦田親良

能《羽衣・彩色之伝》シテ天人 観世清和
 ワキ白龍 福王茂十郎 
 ツレ喜多雅人 中村宜成
 杉市和 林吉兵衛 河村大 前川光長
 後見 片山九郎右衛門 林宗一郎
 地謡 井上裕久 河村和重 河村晴道 
    片山伸吾 味方團 橋本忠樹 
    大江泰正 大江広祐

仕舞《老松》  片山九郎右衛門
  《東北》  井上裕久
  《鞍馬天狗》林宗一郎
地謡 武田邦弘 牧野和夫 
   橋本擴三郎 宮本茂樹

能《小鍛冶》シテ童子/稲荷明神 深野貴彦
 ワキ三条宗近 小林努 ワキツレ橘道成 原陸
 アイ宗近ノ下人 山口耕道
 森田保美 曽和鼓堂 河村眞之介 前川光範
 後見 深野新次郎 河村晴久
 地謡 浦田保親 越賀隆之 味方玄 
    浅井通昭 橋本光史 吉田篤史 
    松野浩行 河村和貴



はじめての京都観世会初会。
1階は補助席も満席、2階も大入りの大盛況。

おもしろいのは、東京の数番立公演では、お目当ての舞台だけ観て帰ってしまう観客が多いのに、ここ京都では7時間近くの長丁場にもかかわらず、最初から最後までほぼ満席状態が続いていたこと。
京都の人って、ほんとにお能が好きなんですね。



翁付脇能《難波・鞨鼓出之伝》
新帝(仁徳天皇)誕生を寿ぐ《難波》は、今年の日本の正月にぴったりやないですか!
《翁》、《難波》、そして、武具を忘れた平和な時代を描く狂言《鎧》がひと続きになっていて、新年と新たな御代への予祝的要素が濃厚な、なんともめでたい番組構成である。(もちろん《羽衣》と《小鍛冶》も!)


わたし自身は《難波》という曲は観たことがある気がするだけで、じつは初見だと思う。しかも珍しい小書付き。これは必見だった。

京都観世会報誌『能』1月号に寄稿された天野文雄先生の論考に、観世流の小書「鞨鼓出之伝」について詳しく述べられている。

それによると、現行の観世流《難波》と他の四流の《難波》との間には、いくつかの大きな違いがあるという。
(他の四流の《難波》が原形。本来は《難波梅》という曲名だったそうである。)

観世と他流との大きな違いを以下に上げると;

観世以外の四流の《難波》
①前ジテは来序で中入
②後ジテ登場前の待謡がない(金剛のみ例外)
③後シテは〈楽〉を舞う
④装束も悪尉系の面に鳥兜といった異人の装束となる
⑤後場で鞨鼓台の作り物が出る


観世の現行《難波》(小書なし)
①前ジテの中入は来序ではなく、通常のもの
②後ジテ登場前に待謡がある
③後ジテは〈神舞〉を舞う
④面装束も邯鄲男に透冠という脇能神舞物の出立となる
⑤後場で鞨鼓台は出ない。


(中森晶三『能の見どころ』によると、観世の《難波》で神舞を舞うのは、昔、大事な催しの折に、ほかに〈楽〉の曲が出たため、脇能の《難波》を神舞物にしたためだという。)


観世の現行《難波》と他四流の《難波》の折衷案的演出として考案されたのが、「鞨鼓出之伝」だった(考案者は観世元章。明和の改正の結果、この小書が生まれたらしい)。


「鞨鼓出之伝」において、観世・小書なし《難波》と他流の《難波》の演出要素がどのようにミックスされているのかというと、
「鞨鼓出之伝」では、
(1)中入は来序ではなく、通常の中入
  (観世・難波の演出)
(2)後ジテの登場前に待謡がある
  (観世・難波の演出)
(3)後ジテは〈楽〉を舞う
  (他四流・難波の演出)
(4)面装束は邯鄲男、透冠
  (観世・難波の演出)
(5)後場で鞨鼓台の作り物が出る
  (他四流・難波の演出)
となる。


ところが、
この日、京都観世会で上演された「鞨鼓出之伝」は、天野先生が解説した「鞨鼓出之伝」とは異なり、意表を突くものだった。


具体的にいうと、上記「鞨鼓出之伝」の(1)~(5)の特徴のうち、観世・難波の演出要素であった(1)(2)(4)が、すべて他四流の難波の演出に倣い、前ジテは来序で中入りし、待謡はカットされ、面装束は悪尉系の面に鳥兜の出立だった。


わたし自身は通常の《難波》も「鞨鼓出之伝」も未見だったので、今回のような他流と同じ演出法での上演はよくあることなのか、それとも京都観世会ならではの新たな試みなのかは分からない。

いずれにしろ、小書なしの観世・難波や「鞨鼓出之伝」よりも、この日の演出のほうがすっきりとして整合性がとれているように感じた。

後シテ王仁は百済出身(伝承では百済に渡来した唐人)なので、〈神舞〉よりも〈楽〉を舞うのがふさわしいし、〈楽〉を舞うのであれば、神舞物の邯鄲男に透冠という出立よりも、悪尉に鳥兜のほうがしっくりくる。


たんに既存の演出をなぞるだけでなく、再考を重ねて、曲への理解を深めたうえでの京都観世会の上演。観客にとっても、何が飛び出してくるかわからない面白さがあるし、演出意図を自分なりに探っていくと、いろいろ気づかされることがある。



【ほかに印象に残ったことを箇条書きに】
●翁付脇能なので、《翁》の後に音取・置鼓があることを期待したが、やはり京都観世会でもカットされていた(泣)。
おそらく時間の都合上だろう、致し方ない。なにしろ、《翁》と《難波》と《鎧》を休憩なしのノーカット、3時間半ぶっ続けでやっていたので、観る方も演る方も、もうこれが限界だったのだから。
とはいえ、音取・置鼓はとても好きだし、京都のお囃子で是非とも聞いてみたい。来年こそは翁付脇能の完全版を!と、切に願います。


●音取といえば、間狂言で梅の精が出てきて、笛(青葉の笛?)を吹く真似をする場面。狂言の笛を吹く真似に合わせて、笛の杉信太朗さんが、音取、ユリ、舞事の笛を吹くという演出が面白かった。
スギシンさんの笛は、最近とみに好い味わいが出てきて、音色も透き通ってきた。


●お囃子では、やはり谷口正壽さんが光っていた。三番三の揉み出しもカッコよく、この方が大鼓を打つと、舞台に覇気のある「気」が注入される。


●後ツレの木華開耶姫がラヴリー! 月輪の天冠に紅地舞衣・緑地大口というクリスマスカラー&白地摺箔着付で、紅白梅を表現したのでしょうか。
木華開耶姫は桜の女神というイメージだったけれど、考えてみれば、日本の「花」って奈良時代までは梅だったから、当然、木華開耶姫のシンボルフラワーも本来は梅だったのかもしれない。
浦部幸裕さんは謡もうまい。井上一門の方々は謡が特にいい!


●鞨鼓台は「古き鼓の苔むして、打ち鳴らす、打ち鳴らす」で、後シテがバチを持って、太鼓を打つ所作をするのに使われれる。「難波の鳥も驚かぬ御代なり、ありがたや」でも、太鼓を打つ所作。

後シテは〈楽〉の前半はバチを持って舞い、途中で扇に持ち替えて舞う。
前シテの面は小牛尉。
後シテは茗荷悪尉系の面だろうか。目尻が下がり、眉間にちょっと悲しげな、憂いのあるシワが寄っている。優しげな表情には、心惹かれるものがあった。



能《羽衣・彩色之伝》につづく




2019年1月8日火曜日

金剛流謡初式 2019

2019年1月3日 12時~13時 金剛能楽堂
 ロビーに飾られた新年のお祝いの花々。

素謡《神歌》金剛永謹 金剛龍謹
   地謡 流儀一同

仕舞《淡路》  宇髙竜成
  《田村クセ》豊嶋幸洋
  《草紙洗》 今井清隆
  《鞍馬天狗》廣田幸稔
   地謡 豊嶋晃嗣 宇髙徳成 重本昌也 惣明貞助
  《難波》  種田道一
  《羽衣クセ》宇髙通成
  《春栄》  豊嶋晃嗣
  《猩々》  今井克紀
   地謡 宇髙竜成 宇髙徳成 山田伊純 向井弘記

舞囃子《高砂》 金剛龍謹
   杉市和 曽和鼓堂 石井保彦 前川光範
   地謡 今井克紀 宇髙徳成 山田伊純
      惣明貞助 向井弘記

三が日三日目、こちらの謡初式も満席。
能舞台のお正月飾りも、流儀や家々によって異なるのがおもしろい。

《神歌》
鏡の間からカチカチと切火で浄める音が聴こえてくる。
照明が極度に落とされるせいか、舞台にも見所にも、ピーンと張りつめた緊張感が漂う。透き通った空気。

平安神宮新年奉納の金剛流の《神楽式》ではシテ謡の箇所が和語になっていたけれど、この日の神歌では、通常の漢語(音読み)に戻っていた。

たとえば、神楽式では「千年(ちとせ)の鶴」だったのが、神歌では「千年(せんねん)の鶴」に、「万代(よろずよ)の池の亀は、甲に三極(みつのきはみ)を備へたり」だったのが、神歌では「万代(ばんだい)の池の亀は、甲に三極(さんきょく)を備へたり」と、通常の読み方になっていた。
金剛流では《神楽式》のシテ謡のみ、読み方を変えているらしい。

また、観世の《翁》では「なぞの翁ども」となっているところが、金春も金剛も「なじょの翁ども」となっている点も興味深い。
たしか、奈良津比古神社の翁舞でも「なじょの翁ども」と謡っていたように記憶する。おそらく本来の翁の詞章は「なじょの翁ども」か、それに類する詞だったのかもしれない。
(上掛りの詞章で「なぞ(謎)の翁ども」になっているのは、意味が通りやすいように「なじょの翁ども」から変更したものかもしれない。)

ではいったい、「なじょの翁ども」の「なじょ」とは、何のことだろう?


仕舞前半四番
タツシゲさんがダントツにすばらしい。この方、年齢的には若手後期に属するけれど、芸の上では流儀の中核を担う「花形役者さん」だと思う。


仕舞後半四番
後半では、豊嶋晃嗣さんがよかった。
地頭はタツシゲさん。舞よし、謡よし。座っている姿勢も腰がきれいに入っていて、心構えが姿にあらわれている。


舞囃子《高砂》
若宗家は美声で、オペラのテノール歌手のようによく通る。
途中で、「八段之舞か?」と思うほど、テンポが緩んだ箇所があったが、笛のせいだろうか。
観世とは、型が要所要所で違うところが面白い。
金剛流も喜多流と同様、「悪魔を祓い」で両ユウケンをしない。「梅花を折って」のところは、扇を開いたままの型。

下掛りと上掛りの型を比較すると、後者はより具象的な表現になっている。とはいえ、型のことはほとんどわからないから、たんなる印象にすぎないのだけれども。


今年もお正月からたくさんお能を拝見できて、楽しかった♪
あこがれの能楽師さんともお話したり、ご挨拶したり。
ありがとうございました。





2019年1月7日月曜日

無鄰菴

2019年1月1日(火)  無鄰菴
平安神宮で新年奉納を観たあとは、近くの無鄰菴へ。

無鄰菴は、明治29年(1896年)に造営された山縣有朋の別荘。
七代目小川治兵衛の庭園は国の名勝に指定され、南禅寺界隈の別荘群では唯一通年公開されています。


お正月らしいしつらえ。


母屋の和室は簡素な趣き。


今はとても貴重となった手延べの窓ガラス。
木製の桟と歪んだ窓ガラスには、ノスタルジックなむくもりがあります。


見た目は素敵ですが、実際に暮らすには木製サッシの窓と障子ではおそろしく寒い!
とくに冬の京都は……。


こちらは洋館2階の応接室。
ここで、山縣有朋が伊藤博文たちと日露開戦に向けて話し合った「無鄰菴会議」が開かれたといいます。

壁には、狩野派の金碧障壁画。
ストーブの煙突が垂直ではなく、水平にとりつけられているのに注目。
煙突が横向きに取り付けられているのは、見事な障壁画をさえぎらないたよう、設計者・新家孝正(にいのみたかまさ)が配慮したためだそうです。


洋室の天井は、豪華な折り上げ格天井。
和洋折衷のバランスが絶妙です。



「此庭園の主山というのは喃(のう)、此前に青く聳える東山である……石の配置、樹木の栽方(うえかた)、皆これから割出して来なければならん」 山縣有朋

借景の東山こそが、この庭の主役。


琵琶湖疎水を引き込んだ流水と水辺、石の配置の妙。


薮内流の燕庵を模してつくられた主座敷のある茶室。


母屋の外観。素朴で落ち着いた佇まい。


疎水を引き込んだせせらぎが、耳にやさしい。


カモさんたちも、のんびり、気持ちよさそう。


花も紅葉もなかりけり。
冬枯れの庭園も、いいものです。






京都能楽会新年奉納 2019

2019年1月1日 12時15分~13時30分 平安神宮神楽殿

神楽殿へつづく朱塗りの回廊

《神楽式》翁 金剛永謹
  千歳 島田洋海  三番三 茂山千之丞
  左鴻泰弘 林大輝 谷口正壽
  種田道一 金剛龍謹 豊嶋晃嗣 惣明貞助

仕舞《高砂》   杉浦豊彦
  《田村クセ》 浦部幸裕
  《草子洗小町》河村和重
  《鞍馬天狗》 大江広祐
 地謡 浦田保親 片山伸吾 田茂井廣道 深野貴彦

仕舞《八島》   廣田幸稔
 地謡 豊嶋幸洋 今井克紀 山田伊純 重本昌也

小舞《三人夫》  茂山千作 茂山逸平 茂山忠三郎
 地謡 茂山あきら 茂山茂 松本薫 山下守之

装束付舞囃子《猩々》シテ 分林道治
 ワキ 岡充
 森田保美 曽和鼓堂 井林久登 井上敬介
 地謡 井上裕久 味方團 橋本忠樹 大江泰正 



謡初式のあとは、平安神宮で行われる京都能楽会新年奉納へ。
例年通り、演者も観客も、謡初式との掛け持ちが多く、岡崎公園に立ち並ぶ露店をのぞきながら、ぞろぞろ移動するのもおなじみの風景。


【神楽式】
元旦早々、《翁》を拝見できるなんて! お正月ムード満点。

金春安明著『金春の能』によると、《神楽式》とは、明治初年に金春・金剛の両大夫が相談して、春日社の神事用に簡略化した《翁》の小書のことだという。
とはいえ、同じ《神楽式》でも、金春流と金剛流とでは若干違っている。
(金春流の《神楽式》は現在、春日若宮おん祭のお旅所祭で上演される。)

以下に、金春・金剛の《神楽式》の共通点・相違点をあげると;

共通点
(1)直面で舞う
(2)白浄衣で舞う
(3)小鼓が一丁
(4)三番三の揉ノ段がない

相違点
(1)金春流の《神楽式》では千歳は出ないが、金剛流の《神楽式》では千歳の舞がある。

(2)金剛流ではシテ謡の漢語(音読み)を、和語(訓読み)に換えている。
たとえば、この日わたしが聞き取った箇所でいうと、「千年(ちとせ)の鶴は」「甲に三極(みつのきわみ)を備へたり」「天下泰平(あめがした、やすらかに、たいらかに)」など、訓読みの和語になっていた。


演者の配置は三尊形式のように、中央に翁、右に三番三、左に千歳が並ぶ。

三人とも白い装束を着けているので、まるで神官が舞っているような厳かな雰囲気がある。

ただひとつ気になるのは、観世の「日吉式」と同様、翁が直面という点だ。
《翁》は翁面という御神体をつけることで、はじめて成立する芸能といえる。その《翁》を直面で上演すれば、「神の不在」ということにならないだろうか。

金春流では、《神楽式》を《翁》の小書という扱いではなく、別曲扱いをすると聞く。そうすることで、「神の不在」という矛盾と折り合いをつけているのかもしれない。


茂山童司改メ千之丞さんの鈴ノ段がよかった!
いつもと表情がまるで違うので、最初は誰だか分らなかったほど、真剣・真摯な面持ち。いかにも農耕祭礼らしく、鈴を振りながら祈りを込めて、種をまき、土壌を踏み鳴らし、大地の力を呼び覚ます。
しだいにテンポが速まり、リズミカルな足拍子とともに、こちらの気分も高揚し、不思議な上昇感とともに、舞と囃子はクライマックスへ。


観世流仕舞四番
浦部幸裕さんの舞をはじめて拝見。
大江広祐さんの《鞍馬天狗》はキレがあり、天狗の迫力と敏捷さを感じさせた。


金剛流仕舞《八島》
金剛流も喜多流と同じく、扇を二本使うようだ。


茂山家の小舞《三人夫》
小舞《三人夫》というのは、能でいうと《三笑》的なもの? それとも《弓矢立合》?
昨年も小舞《三人夫》が奉納されたので、きっと毎年恒例なのだろう。

それにしても、茂山逸平さんはお正月、テレビに出ずっぱりだった。
ちょうど同じ時刻に裏番組的に放送された「古典男子」をはじめ、茂山狂言の茂山逸平作新作狂言《かけとり》のシテ、《宗旦狐》《素袍落》の解説、「京都和菓子 千年の旅」と、三が日は毎日のようにペペさんの顔をテレビで観ていたように思う。
超売れっ子。



装束付舞囃子《猩々》
内容的には半能。
分林さん、謡がとてもうまく、地謡もいい! 
舞姿も素敵で、目にも美しく、なんともめでたい《猩々》だった。

観客のなかには、初詣のついでにちょっと覗いて、お能を初めて観たという人も多いだろうから、良いPRになったのではないだろうか。



2019年1月5日土曜日

京都観世会「謡初式」 2019

2019年1月1日(火)10時30分~11時40分   京都観世会館

堂本印象の老松の前には、年神様が宿った鏡餅。翁飾りに似た独特の飾りつけ。

舞囃子《高砂》片山九郎右衛門
   杉信太朗 曽和鼓堂 渡部諭 前川光範

仕舞《鶴亀》   橋本雅夫
  《屋島》   片山伸吾
  《草子洗小町》大江又三郎
  《国栖キリ》 杉浦豊彦

舞囃子《羽衣》浦田保浩
   杉市和 林大和 河村大 井上敬介

狂言小舞《雪山》茂山七五三
   地謡 茂山一門

舞囃子《猩々》河村和重
   森田保美 吉阪一郎 石井保彦 前川光長

祝言《四海波》 観世会会員一同




初詣客でにぎわう岡崎の観世会館。
早めに行って並んでいたら、能楽師さんたちが続々と楽屋に入っていく。
ほとんどの方が和装で、「とんび」というのだろうか、インバネス風の和装コート、あれってめっちゃカッコいい! 
京都の町並みにも合うし、素敵だなあと思う。
和装で颯爽と楽屋入りする能楽師さんが多いと、こちらの気分も盛り上がる。開場前からすでに舞台の予告がはじまっている気がするもの。



舞囃子《高砂》
まっさらな一年が、九郎右衛門さんの《高砂》で始まる! 

確固とした信念に貫かれた決意表明のような《高砂》だった。清流のようにみずみずしく、引き締まった舞。

それでいて、やはり《高砂》というのは、男女和合、男と女の睦み合いを賛美し、奨励する舞なのだと感じさせる。
男と女が恋に落ち、結ばれ、添い遂げる。
この単純な営みこそ、国が常緑の松のように存続し、繁茂するために欠かせない「根」であり「幹」だと、のびやかに語りかけてくる。
男女の愛を、これほど清々しく爽やかにすすめる舞も、世界で珍しいのではないだろうか。

終盤の「悪魔を祓う」力強い両ユウケン。
邪気を祓い、寄せつけない清爽さ。
港を出て、波を分けて進む船のような、御大典奉祝の年の新たな船出。



舞囃子《羽衣》
地謡が素晴らしい!
謡初式の地謡は総勢十数人の編成なのだが、大人数でも統率が取れていて、京都観世らしい謡だ。
今月の初会の《羽衣・彩色之伝》も観る予定なので、こちらも楽しみ。

元旦にはEテレで、同じく清和家元による《羽衣・彩色之伝》(銀座の観世能楽堂にて収録)が放送された。
両者を比較して、東京と京都とでは地謡・お囃子どう違うのか、注目してみたい。(シテ以外の配役は、三役の流儀も地謡もまったく異なるので東西比較に最適のなです。)




祝言《四海波》
京都観世会一同がずらりと三角形に並んだ姿は、いつもながら圧巻!

京都観世会館会報誌『能』の最新号に、金子直樹氏の「京都に惹かれるその訳は」というエッセイが掲載され、そのなかで「京都観世会の魅力の第一」として「多様性と団結力」が挙げられていた。

京都観世会の魅力のひとつが団結力というのは、よくわかる。
今年の《四海波》も、昨年の謡初式にも増して、京都観世会の団結力と一体感が強く感じられた。

それぞれの芸を高め、京都観世全体のレベルアップに欠かせない団結力。
文化芸術の中心・京都で活躍する能楽師としての自負と矜持。
ここには、京都の土壌に育まれてきた能楽集団ならではの独特の気風がある。

今年の例会はどれも能3番仕立てで、珍しい小書がついたり、大曲があったり、大人数の豪華な曲があったりと、これまで以上にパワーアップした内容だ。
年間予定を見ただけで、「京都観世会ここにあり!」という、熱い意気込みが伝わってくる。