「世の中の評価や収入のような見返りを求めずに、ただひたすら理想を目指すことが出来る。死ぬまでその道を追い求めることができるということは、舞台人にとって一番幸せなことじゃないかと思うんです」━━ 四世山本東次郎
野村四郎×山本東次郎の対談集『芸の心 能狂言の終わりなき道』を読んだ。冒頭の言葉は、そこからの引用。「乱れて盛んになるよりは、むしろ固く守って滅びよ」という三世東次郎の教えを固く守ってきた当代東次郎師だけに、どっしりと腹の座った言葉だと思う。みずからが信じるものに向かって、まっすぐに突き進む潔さと純粋さが、東次郎師の舞台にはある。
本書『芸の心』には、人間国宝にして能楽界の重鎮であるお二方にしか言えないような、ある種のタブー、能界の裏事情的内容がぎっしり詰まっている。
それはおそらく、このお二方が現在の能界にたいして「これだけは言っておきたい!」「これだけは言っておかねば!」ということを、能狂言の未来のためにあえて公表したのだと思う。
たとえば、能楽界の「身分制度」について。
新作能の作曲をするにも、そういうことが自由にできる立場の人と、まったくできない立場の人というのがあると、野村四郎師は言う。また、それぞれの家でも、長男は出来ても、次男は出来ない(やらせてもらえない)こともあるとおっしゃっている。
四郎師自身は狂言方名家の四男。しかも、シテ方に転向して以降、現在のような確固たる地位を築くまでは、ある意味、平社員のような立ち位置で、新作・復曲能を自由に手掛けることができない立場におられた。さぞかし辛く、悔しい思いをされたことだろう。
個人的な感覚からすれば、どんな分野であれ、努力と才能が報われる社会であってほしいと思う。おそらく、お二方が心酔した観世寿夫も、そういうところに疑問を抱き、風穴を開けようとしたのではないだろうか。
観世寿夫といえば、両師が敬愛した観世寿夫についてのエピソードや秘話が数多く語られている。
たとえば、観世寿夫の装束着付について。
観世寿夫は装束を着けた時に、アキレス腱のところに唐織がぴたっと綺麗にくっついていて、それを1時間~1時間半持続させたそうだ。
また、舞台へ出て、鏡の間へ帰ってくるまで、着付けをした時の状態がそのまま持続し、まったく崩れることがなかったという。
装束が崩れるということは、型が崩れるということ。つまり、観世寿夫の型はまったく崩れなかったのだろう。
また、観世栄夫が喜多流に転向したように、兄である観世寿夫も宝生流に転向したがっていたという話も初耳だった(東次郎師の父・三世東次郎が思いとどまらせたという)。
いまでもレジェンドとして崇拝されている観世寿夫にも、みずからの芸の方向性について思い悩み、試行錯誤をしていた時代があったのだ。彼の意外な一面を垣間見た気がする。
それに比べて……という感じで、近年、楽屋の空気がとみに弛緩していることについても両師は苦言を呈している。(ほかにも、最近の能界のアカンところをいろいろ……)
このほか、囃子方の座り方について、背もたれに座っているような姿勢の人が最近多くなっていることも指摘されていた。
床几に掛かる時、後ろへ倒れるような姿勢ではダメで、シテ方も囃子方も、床几をすーっと引かれても、そのままの格好で崩れてはいけないと教えられたそうだ。
間語りの時も、べたっと座るのではなく、お尻の下に紙が一枚入るようにして語るようにと教えられたという。そうしないと、出てくる「気」が違ってくるし、那須語などは、パッととっさに動けないともおっしゃっていた。
そう言われて、舞台を観ていると、たしかに囃子方さんには、後ろに重心をかけ、お尻をどっしりと載せて坐っている人が多いのに気づく。
逆にいうと、たとえば「気」の放出が充実している大鼓の谷口正壽さんなどは、しっかり前に重心をかけた姿勢で座っておられた。
思い返せば、大倉源次郎師の座り方も重心が前にぐっと掛かっていた。故・観世元伯師も坐する姿の美しい人だった。一流の能楽師さんは座り方からして違う。座り方には、その人の心構えが反映され、それが芸のレベルを測るひとつの物差しになると思う。
能楽界の、そして、人生の荒波をくぐり抜けてきた重鎮お二方の言葉は意味深長で、舞台をまた違う角度から楽しむヒントを与えてくれる。両師の芸に対する深い思いが伝わってくる良書だった。
追記:山本東次郎師の言葉に、もうひとつ心に残ったものがある。
「ガンジーの言葉に『明日死ぬと思って生きよ、永遠に生きると思って学べ』とあります。実際私もそのように念じて生きていきたいと思っています。」
わたしも、座右の銘にしよう!
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