2016年9月27日火曜日

片山九郎右衛門・いまに生きる歴史的能舞台「西本願寺」~能狂言とゆかりの寺

2016年9月27日(火)14時40分~16時15分 最高気温30℃ 武蔵野大学・雪頂講堂

残暑がぶり返したように蒸し暑かったけど、
キャンパスでは彼岸花が咲き、金木犀の香りが。

京都観世会会長・片山能楽・京舞保存財団理事長 片山九郎右衛門
文化庁芸能部門文化財調査官・武蔵野大能楽資料センター研究員 金子健
能楽資料センター長 三浦裕子

(1)片山九郎右衛門プロフィール紹介

(2)西本願寺南能舞台での降誕会能(5月21日)について
   今年の演能《経正》の映像紹介

(3)西本願寺の能舞台の紹介
  南能舞台(重文)と北能舞台(国宝)で舞った時の感覚の違い

(4)書院内の座敷能舞台



「本年度の公開講座のハイライト!」と三浦先生がおっしゃったように、わたしにとっても今年のハイライトとなる待ち焦がれた講座。
すっごく楽しくて、幸せな時間だった。

講演後、わたしの隣に座っていた老紳士もいたく感動した様子で、「ああ、今日はほんとうに良い日だった!」と幸せそうにしきりに言っていたし、三々五々に散っていく御婦人たちも「とても良かったわねえ」と満足気だった。

九郎右衛門さんはいつものように気取らず、気負わず、終始穏やかな笑顔。
この方からは人を幸せな気分にする和やかなオーラがふんわりと漂ってくる。



以下は、講座で印象に残ったことの簡単なメモ。

嬉しかったのは、今年5月の西本願寺南舞台で催された降誕会能の映像が一部上映されたこと。

以前、5月の京都新聞電子版に九郎右衛門さんの《経正》の様子が紹介されているのを見たとき、その画像があまりにもきれいなので大事に保存して時々うっとりと眺めていたから、この日の上映は願ってもない粋な計らい(少し期待してたけど)。



九郎右衛門さん曰く、西本願寺の能舞台では、古くて良い面・装束はよく映えるけれど、新しい能面や装束では浮いてしまうとのこと。

自然の微妙な光のなかで装束の色彩がうつろい、能面はさまざまな表情を見せるという。

とくに北能舞台の自然光は、小面のようなのっぺりとした能面でも繊細な陰翳によって目鼻立ちがくっきりと見え、面のもつデッサン力の強さが引き立つそうだ。


装束の紅色が青味がかって見えたりするというから、笹紅(京紅)のような高価な染料が使われていたのだろうか。

普通の着物でも昔の良いものは、織りにも染めにも上質な糸や染料が使われていたから、能装束ではなおさらだろう。

ご自身で舞っていても気持ちの良い舞台なのだそうです。


ただし、雨の日や湿度の高い日は、舞台の床が湿気で滑りにくくなるので、以前はそういう場合、鹿革足袋を履いていたという。
また、屋外の舞台はすぐに足袋が汚れてしまうため、中入りで足袋を履き替えなくてはならないとのこと。



その他、西本願寺書院内の敷舞台の映像も素晴らしく、松鶴図の障壁画や鴻の欄間に囲まれた座敷の舞台は圧巻。


西本願寺以外の普通の能舞台のなかで、舞いにくい能楽堂のお話も面白かった。


九郎右衛門さんのお話によると、舞台の四本の柱を二本同時に見ることはできないので、瞬間瞬間で三角測量のようなことをして自分の位置や見えない柱の位置を把握し、舞っているとのこと。

あの驚異的な空間認識能力は、一瞬ごとの脳内三角測量によるものなんですね。



おもに正中から目付柱までの距離によって、能舞台の広さor狭さを感覚的に感じるというのも興味深い。

能面の裏側で展開されるシテ独自の世界・次元・感覚についてもっとお話を聞いてみたかった。
そこには観る側からはうかがい知れない未知の世界が開けている気がする。



講座終了後、講堂の外に出ると、はるか前方に黒紋付姿の九郎右衛門さんと研究者の方々の行列が、浅草の襲名のお練りのように歩いてゆくのが見えた。

この日の翌日には、わたしの地元のT市で九郎右衛門さんの《清経》の事前講座が開催される。
この事前講座は明月能(ホール能だけど)とともに大変評判がよく、T市在住の人がうらやましい。
東京ではもう当分、九郎右衛門さんの御舞台は拝見できないもの……。









2016年9月16日金曜日

東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》後場

2016年9月14日(水) 18時~20時50分   国立能楽堂
東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》前場からのつづき

能《融・笏之舞》友枝昭世
  ワキ宝生欣哉  アイ能村晶人
  松田弘之 鵜澤洋太郎 國川純 観世元伯
  後見 中村邦生 狩野了一
  地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
     佐々木多門 内田成信 友枝雄人 金子敬一郎




後場は珍しい喜多流「笏之舞」。
このシテで、この小書、この演者。
プログラムに書かれた「一期一会の能」という源次郎師の言葉にふさわしい舞台だった。
(以下は「笏之舞」のメモ的なもの。記憶違いは多々あるかもしれません。)


【間狂言】
間狂言の途中からアシライ笛が入り、アイのシャベリが終わる瞬間に、アシライがピタッとおさまるように吹き終わる。
この魔法のような間合いの取り方、さすがです。


ワキの待謡→出端】
ワキの待謡「夢待ち顔の旅音かな」で、半幕が上がり、まばゆい白狩衣に身を包み、床几に掛かった後シテの姿が現れる。

出端の囃子に誘われて、シテが胸の前で手を合わせて笏を持つ姿(いわゆる聖徳太子のポーズ)でスルスルと登場。

常座で「忘れて年を経しものを」と謡い出し、
脇正で「雪を廻らす雲の袖」と、サシコミ・ヒラキ。



【笏之舞】
通常ならば「受けたり受けたり遊舞の袖」のあと早舞に入るところを、
「序」のような囃子に合わせて大小前で足拍子。


その大小前から、ゆったりとした足取りで角(目付柱)に至り、
目付柱から脇柱に向かう際にのみ、囃子が大小太鼓のゆっくりとしたナガシとなる。

シテは脇柱に至ると、やがて舞台を一巡し、
正中でいったん下居して笏を腰に差し、扇に持ち替える。


ここまで、《翁》のような厳かな儀式を観ている気分。


そこから舞台を小さく廻って、大小前で両袖の露をとって達拝。
囃子はゆっくりとした早舞(?)になり、シテは露を放して舞い始める。

初段オロシのあと笛が盤渉になり、
シテは橋掛りに進むことなく、すべて本舞台の上で五段の早舞を舞いあげる。


個人的な好みでいうと、やはり他の小書のようにシテが橋掛りに行ってそこで舞ったりクツロイだりして何らかの印象的な所作を見せ、囃子もそれを盛り上げるようなドラマティックな手を打ったほうが、観ているほうも胸が高まるような気がした。

本舞台上だけの緩やかなテンポの早舞というのは、どうしても見せ場に欠けてしまう。
(と思うのは、ほかの小書で覚える高揚感を知ってしまったからかも。)

この小書がめったに上演されない理由も、そのあたりにあるのかもしれない。





【終曲】
しっとりとした憂いのある貴公子、友枝昭世師の融がもっとも美しく見えた場面だ。

「月もはや影傾きて」で、雲ノ扇をしたシテの視線が青白く薄れゆく月の光を描き出す。

夢のように朧気に輝きながら月の都に帰るその後ろ姿を、
観客の気持ちを代弁するかのように名残惜しげにワキが見送る。


このときの欣哉さんの表情がなんとも言えない。
次々と大物役者を相手に大きな舞台を勤め、その経験を糧に芸を高めていらっしゃる。
この日の舞台も、友枝昭世師にまったく引けを取らないほどの品格を感じさせ、シテを見送るこの視線によって、月の都に昇る融の姿を見事に表現していた。
もともと上手い方だけど、恐ろしいスピードで芸にさらに磨きがかかっていくその過程を観客として目撃するのは、なんてわくわくする体験なのだろう。






東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》前場

2016年9月14日(水) 18時~20時50分   国立能楽堂
東京能楽囃子科協議会定式能・九月夜能~舞囃子《巴》・狂言《三本柱》からのつづき

能《融・笏之舞》友枝昭世
  ワキ宝生欣哉  アイ能村晶人
  松田弘之 鵜澤洋太郎 國川純 観世元伯
  後見 中村邦生 狩野了一
  地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
     佐々木多門 内田成信 友枝雄人 金子敬一郎



喜多流の《笏之舞》の小書は初見。
国立能楽堂図書室で金春流《笏之舞》の映像記録は観たことがあるけれど、同じ小書名でも流派によってずいぶん違う(金春流ではシテが笏を持って舞い、早舞が急ノ舞になる)。

喜多流の《笏之舞》は、観ていて(あるいは舞っていて)面白いかどうかは別として、囃子的には特殊な手が多く、かなりマニアック。
そのうえ友枝昭世師をお呼びしての舞台。

お調べにいつもより入念に時間をかけ、とくに太鼓が最後まで調整に余念がない。
気合のほどが伝わってくる。



【前場】
名ノリ笛で諸国一見の僧が登場。

松田さん(東京囃子科協議会の笛方エース!)がいつもより心もち早めに笛を口元にあて、わずかでも吹きかすりのないように意識を極度に集中させて吹いているのがわかる。
ヒシギの時は、仕損じたら腹を切るくらいの意気込みだ。


【一声→シテの登場→名所教え→汐汲み→中入】
前シテは、茶水衣、濃灰色無地熨斗目、腰蓑。
面は三光尉だろうか(朝倉尉かも)。 
友枝さんがつけると何でも品良く見える。

一の松でハコビの速度を緩め、常座に立ち、懐かしげに大きくあたりを見回す。
この所作、視線の動きによって、廃墟と化した河原の院の荒涼とした風景が立ち現れる。


名所教えの場面でも、ワキと二人で視線の先を合わせつつ互いに心を通わせていくさまが、物寂しい景色の中でほのぼのとした温かみを感じさせた。
しみじみとした情景を謡い上げる地謡もよかった。


ただこの日はわたしの感覚の問題かもしれないけれど、先日の袴能《天鼓》に比べると、なにかもうひとつ、手放しで感動できない壁のようなものを感じてしまった。
(注:先日のような神の領域に入った舞台を70代半ばで毎回勤めるのは不可能に近いし、友枝昭世師の舞台に対する期待が大きすぎるがゆえのきわめて個人的な感想なので、一般的な基準からすればとても良い舞台でした。)


「いざや汐を汲まんとて」でシテは常座に置いていた田子を担いで、正先ギリギリまで出、
「汲めば月をも袖に望汐の」で、舞台外に桶を下ろして汐を汲み、両桶に映る月を観る。


高度な技術を要する場面。
ここもこのシテ本来の力をもってすれば、汲み上げた水の量感・質感さえも感じさせる印象深いシーンになっていたはずだと、いつもに増して認知的不協和のジレンマに陥ってしまう。



中入の時はタタタと足早に橋掛りを帰る途中、三の松でスピードを緩めてから幕に入る。

これがなんともいえない優雅なリズムで、余韻を漂わせる中入だった。




東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》後場につづく




2016年9月15日木曜日

東京能楽囃子科協議会定式能・九月夜能~舞囃子《巴》・狂言《三本柱》など

2016年9月14日(水) 18時~20時50分   国立能楽堂
舞囃子《巴》 金春安明
   中谷明 幸信吾 亀井実
   地謡 本田光洋 辻井八郎 本田芳樹
      金春憲和 本田布由樹

一調《籠太鼓》浅井文義×亀井俊一
一管《鷺》 一噌仙幸→休演

狂言《三本柱》 野村萬
    野村万蔵 河野佑紀 野村虎之介
      槻宅聡 大倉源次郎 柿原弘和 桜井均

能《融・笏之舞》友枝昭世
  ワキ宝生欣哉  アイ能村晶人
  松田弘之 鵜澤洋太郎 國川純 観世元伯
  後見 中村邦生 狩野了一
  地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
     佐々木多門 内田成信 友枝雄人 金子敬一郎




わたしも含めて、囃子科協議会定式能デビューという方が多かった模様。
友枝昭世効果は凄い!
自由席しかとれなかったので早めに行ったらすでに長蛇の列 Σ(゚口゚;
好みの席に座れてラッキーだったけど、席種別全席指定制のほうが有り難い。

とはいえ終演後にロビーで、くまもん募金箱をもつ可愛らしい能楽師さん発見(飯冨孔明さんかな?)。義援能に行けなかったので願ってもない機会だった。




舞囃子《巴》
中谷明師の笛が聴けてよかった!

もちろんCDでしか聴いたことがないけれど、わたしは寺井政数の笛を偏愛していて、その芸風をもっともよく受け継ぐ中谷明師の笛も(こちらももっぱらCD『室町の仮面劇』で聴くだけだけど)とても好き。
この日は全盛期を思わせる冴えた音色で、こちらもうっとり幸せな気分。



舞囃子のシテは、謡にも芸風にも独特のクセのある金春流宗家。
あまり積極的に拝見することはなかったけれど、さすがは一流派の長だけあって、観ているうちにしだいに引き込まれていく。

どの瞬間にも途切れなく気が漲っていて、女武者・巴の凛とした精神性と溶け合っている。

「汝は女なり、しのぶ便りもあるべし」という義仲の言葉(地謡)を、正先に両手をついて、お辞儀をしたままじっと聞き入る場面はことさら美しく、彼女の胸に去来する複雑な思いを想像させる。


金春流って上手い人でも肩の線が角張っていたり、肩が上っていたり、首が前に出ていたりするのがどうも気になるけど、好みの問題かもしれない。



狂言《三本柱》
チラシには掲載されてなかったから、囃子陣が豪華でビックリ。
ちょっとしたサプライズ。
こういうのも囃子方主催の公演ならではでしょうか。


狂言については、
三人がそれぞれ担ぐ柱の扱いに、芸の差がおのずと出てしまう。

実際には軽い小道具の柱を持ち上げる時、
万蔵さんは筋肉の張り方、顔の表情、腰の入れ具合などによって、本物の木柱に見合うだけのずっしりした重量感を感じさせる。


茶道の世界でも、「重いものは軽く、軽いものは重く持て」とよく言われるけれど、それを実際に表現するのがいかに難しいかは、あとの二人を見ればよくわかる。


この日は小望月。
大きな満月にススキという河野さんの肩衣の柄が素敵だった。



東京能楽囃子科協議会九月夜能 《融・笏之舞》前場につづく




千駄ヶ谷能楽堂周辺と鳩森神社秋季例大祭神賑能《杜若》

2016年9月10日(土)    国立能楽堂周辺&鳩森神社

映画のロケに使えそうな鶴の湯
能楽堂の裏手にある「鶴の湯」。
壁には富士山の絵、番台もついている清く正しいザ・銭湯。

ガラスの欄間飾りのデザインがノスタルジックでおしゃれ。

営業を続けているうちに、いつか実際に入ってみたい。





千駄ヶ谷の富士塚
国立能楽堂の裏手を回って鳩森神社へ。
この日は例大祭。


ここから登っていきます。

富士塚、登ってみたかったけれど、蚊の餌食になりそうなのでもう少し寒くなってから。


形からして蓬莱山を模しているのでしょうか。



甲賀稲荷社

境内は意外と広い




立派な能舞台

神賑能・番組
火入式
仕舞《養老》     伊藤眞也
   《小袖曽我》  矢島佑大 
             真茅俊太朗
連吟《松虫》     青木伸夫
             柿沼義孝
仕舞《紅葉狩クセ》 櫻間右陣

能《杜若》   シテ塚原明  ワキ森常太郎
        藤田次郎 田邊恭資 柿原孝則 大川典良
        後見 櫻間右陣 柿沼義孝
        地謡 桑原朗 伊藤眞也 志賀朝男 青木伸夫
            中市篤志 杉井久信 藤田安彦 矢島佑大


お囃子と地謡が好かった。
神社の境内に響く藤田次郎さんの笛。
いつもに増して透明感がある。

物着アシライの大小鼓も情緒豊か。
とくに柿原孝則さんの進歩がめざましく、この方、才能あるんだなーと思う。
聴く者に訴えかけるような掛け声も、20代前半でこれくらい出せるのは素晴らしい。








2016年9月11日日曜日

片山九郎右衛門の《小鍛冶・黒頭》~銕仙会定期公演9月

2016年9月9日(金)重陽の節句 18時~21時15分    宝生能楽堂
銕仙会定期公演9月~能《楊貴妃》からのつづき

能楽堂の隣に祀られている水道橋稲荷大明神
霊験あらたかなお稲荷さん

能《小鍛冶 黒頭》童子/稲荷明神 片山九郎右衛門
ワキ三條宗近 森常好 勅使 舘田善博
アイ宗近ノ下人 内藤連
     竹市学 幸清次郎 柿原弘和 小寺佐七
     後見 観世銕之丞 清水寛二
     地謡 柴田稔 小早川修 泉雅一郎 馬野正基
        北浪貴裕 谷本健吾 安藤貴康 鵜澤光



「黒頭」の小書で観るのは初めて。
九郎右衛門さんらしい独創性を感じさせる見せ場が随所にあり、これまで観た《小鍛冶》のイメージをガラリと変える印象深い舞台だった。


【前場】
「御剣を打て!」との勅諚を、勅使から伝えられた小鍛冶宗近(森常好)。

相槌を打つ者がいないため最初は戸惑うものの、「この上はとにもかくにも宗近が」と腹を括り、稲荷明神に参詣する。
ここまでは常と同じ。


前シテの出】
そこへ、幕の中から「のうのう」と呼び掛ける声。


……と、思いきや、
またしても九郎右衛門さんにやられてしまった!

コトリとかすかな気配がして振り向くと、シテはすでに幕の外に立っていた。

去年の《殺生石・白頭》と同様、知らぬ間に、忽然と姿を現していたのだ。

ほんとうに幕が上がったのだろうか?
それとも、囃子方みたいに片幕で出てきたのだろうか?

シテの幕離れを観るのが好きなわたしは、大抵の場合、シテが幕に掛かったあたりからその気配を感じとる。
シテが幕から出る瞬間を見逃すことはほとんどないのに、九郎右衛門さんにはいつも出し抜かれてしまう。
ある意味、嬉しいサプライズ!


前シテ童子は黒地縫箔腰巻のモギドウ姿に、片山家所蔵の大喝食。
手には稲穂。

この大喝食は中性的というか、どこか女性的な感じのする少年面で、おすべらかしの喝食鬘や白地に金文様のまばゆい擦箔の装束と相まって、巫女のような神秘的な存在に見える。



【クリ・サシ・クセ】
クリ・サシ・居グセで、剣の威徳を称える中国・日本の故事が語られ、「尊は剣を抜いて」で、シテは立ち上がり、ヤマトタケルによる東征と草薙剣の由来を地謡の謡に合わせて舞い表す。


燃え盛る枯野の草を薙ぎ払うさまを、手にした稲穂で表現するのだが、この稲穂がシャカシャカとマラカスのような音がするのが面白い。


不思議な童子は、わたしには神通力があるから心配無用だと宗近に告げ、わたしが相槌を打つから鍛冶壇を用意して待つよう言い残し、橋掛りを去っていく。


「その時節に参り会ひて御力をつけ申すべし」で、シテは一の松で振り返って欄干に寄り掛かるように下居し、ワキに向かって片手を差しのべる。


欄干越しに差しのべた手の表現や、女性っぽい姿態に情感がこもっていて、まるで去りゆく妻が愛する夫に思いを告げている姿のように、指先から強い「念」が送られているのがわかる。


相槌を打つのに必要な阿吽の呼吸のようなものを、前場からすでに通わせているのが感じられた。


欄干から手を差しだすこの型は、もとから小書にあったのか、それとも九郎右衛門さんの独創なのだろうか。

いつも思うけれど、この方の舞台はクリエイティブで魅力的だ。




後場】
ノットの囃子で、ワキが鍛冶壇に向かい、神の加護を祈願する。

通常ならば「謹上再拝」で太鼓が打ち出し、早笛となるところが、特殊な囃子となり、


後シテも半幕で姿を現す代わりに、
幕を上げて三ノ松まで出て、欄干から身を乗り出し、かなり長いあいだ見所を眼光鋭く見込む。
(美しく静止したシテの姿が印象深く、いまも目に焼きついている。)


そこから、幕の中に吸い込まれるように素早く後ずさりしながら再び幕に入り、竹市さんの切り裂くような笛が鳴って、今度は早笛の囃子とともに威勢よく登場!


一の松までダダーッと進んで、欄干に足を掛けポーズを決める。

この一連の動作と間の取り方が、九郎右衛門さんならではのカッコよさ!!



後シテは、輪冠狐戴なしの黒頭・緑地立涌文厚板モギドウに半切姿。
面は徳若作・牙飛出とのこと。
(狐蛇は怖すぎるから、牙飛出でよかった♪)


舞台上での舞働が華麗でもっと観ていたかったけれど、あっという間に終了。


宗近との相槌の時の「ちょうと打つ」で打って、グイィッ力を入れて槌を長く引くのが特徴的だった。


かくして見事に打ちあがった稲荷の神体・小狐丸を勅使に捧げたのち、稲荷明神は叢雲に飛び乗り、稲荷の峯に帰っていったのだった。



 


銕仙会定期公演9月~能《楊貴妃》

2016年9月9日(金)18時~21時15分 29℃  宝生能楽堂

能《楊貴妃》楊貴妃 観世清和
   ワキ方士 宝生欣哉
   アイ蓬莱国ノ者 中村修一
       一噌仙幸→一噌庸二 曾和正博 安福光雄
   後見 浅見真州 永島忠侈
   地謡 野村四郎 浅井文義 西村高夫 浅見慈一
      長山桂三 谷本健吾 観世淳夫 青木健一

狂言《菊の花》太郎冠者 野村万作 主 石田幸雄

能《小鍛冶 黒頭》童子/稲荷明神 片山九郎右衛門
          ワキ三條宗近 森常好  勅使 舘田善博
          アイ宗近ノ下人 内藤連
     竹市学 幸清次郎 柿原弘和 小寺佐七
     後見 観世銕之丞 清水寛二
     地謡 柴田稔 小早川修 泉雅一郎 馬野正基
        北浪貴裕 谷本健吾 安藤貴康 鵜澤光




先月の観世会定期能につづいて清和+清司による鬘物+切能の組み合わせ。
(九郎右衛門さん、東京では切能が多いので鬘物も観てみたい←切望!)

まずは、宗家の《楊貴妃》から。
おそらく御宗家はこういう曲がお好きなのだろう、曲への愛情が伝わってきた。



【ワキの出→道行→蓬莱宮へ】
このところ連続して欣哉さんのワキを拝見している。
代演もあるから今年は恐ろしく多忙で、一日に何番も勤める日が続き、線の細い方なので御身が心配なほど。
もちろん、どの舞台にも全力投球。
玄人・素人の会を問わず、この方の芸には身体の姿勢と同じく、ピンっと一本筋の通ったゆるぎなく清々しい緊張感が漲っている。



この登場の場面でも、天上界から黄泉の国、常世の国へと、楊貴妃を尋ねて異界をめぐる方士の魔法めいた足取りを、この世離れした美しいハコビで表現していた。


櫻間弓川のハコビを観て芥川龍之介が言った、「実際に触りたい欲望を感じた……平凡な肉体の一部とは思われない」足とは、このような足ではなかったろうか。



作り物の中からの謡】
方士が、太真殿という額のかかった宮の前まで来ると、引廻しのかかった宮の作り物から楊貴妃の声が聞こえてくる。

ここの「昔は驪山の春の園に……あら恋しのいにしえやな」は曲の要ともいうべき箇所。
シテの謡は引廻の中からよく通りつつも、憂いを含んだ響きがあり、気品も感じさせた。


「げにや六宮の粉黛の顔色のなきも理や」で引廻しが外され、床几に掛かった光り輝く姿が現れる。

シテの出立は白っぽいゴールドの唐織壺折に緋大口、天冠。
面は宗家所蔵の増女とのこと。

この増の面は、一見、古風な顔立ちに見えるが、舞台が進むにつれてさまざまな表情を見せてくる。
能面の見せ方・見え方はシテの力量にもよるのだろう。
第一印象は地味でパッとしなくても、時間がたつにつれて、だんだん凄い美人に見えてくる。
そういう人間のほうが魅力的に見えるもので、この面もそういう類の美女に思われた。


楊貴妃を探し当てた証拠が欲しいと方士から所望され、楊貴妃は簪を手渡すが、これはどこにでもある物だから、帝と交わした秘密の言葉を聞かせてほしいと言われ、二人の睦言を明かす。


「天にあらば願はくは比翼の鳥とならん、地にあらば願はくは連理の枝とならん」から「されども世の中の」あたり、地謡がひそやかな懐かしさまで感じさせて、胸にじーんと来るものがある。





【物着→イロエ→序ノ舞】
方士に手渡していた鳳凰の簪が、後見によってシテの天冠の頭頂部に差しこまれ、シテは舞台を一巡する。
イロエで入る笛の追慕の音色が美しい。


やがて楊貴妃は、皇帝との夜遊を偲ぶ霓裳羽衣の曲を舞う。

この日のシテは全般的には申し分なかったのだが、時折、ハコビに安定を欠くことがあり、これは「三重の帯」と詞章にもあるように楊貴妃のやつれてよろける雰囲気を出すための意図的な演出なのか、あるいは低調のためなのかと、測りかねていたのも事実。
でも、この序ノ舞は素晴らしかった。


腕の角度・高さ・身体の線、あらゆるものがお手本的な位置にあり、これぞまさに正統派、家元芸というものかと感じ入る。


そして、二段オロシ。

一噌康二師の笛がしっとりとテンポを緩めて悲しげな音色を響かせ、シテは伏せ目がちに脇正を向いて、甘美な追想に耽る。 
そのとき、


梨花一枝、雨を帯びたり



増の面からキラリとひと粒の涙が零れたように見えた。

そこに佇むのは、一人の打ちひしがれた可憐な女性。



わたしはあっと叫びそうになり、呆然とシテの顔を見つめていた。







片山九郎右衛門の《小鍛冶・黒頭》につづく



2016年9月6日火曜日

光宝会大会~三十五周年記念 

2016年9月4日(日)  11時~16時45分  宝生能楽堂
(シテ・ツレ・子方はすべて東川光夫・尚史師社中の方)

能《鶴亀》 ワキ殿田謙吉 ワキツレ則久英志・梅村昌功
       アイ善竹大二郎
       槻宅聡 幸信吾 佃良太郎 大川典良
       後見 東川光夫・尚史
       地謡 宝生和英など

能《祇王》 ワキ村山弘   アイ善竹富太郎
       藤田貴寛 幸信吾 佃良太郎
       後見 東川光夫・尚史
       地謡 辰巳満次郎など

舞囃子《融》 藤田貴寛 竹村英雄 佃良勝 桜井均
        地頭 宝生和英

能《綾鼓》  ワキ村山弘  アイ善竹十郎
        藤田貴寛 竹村英雄 佃良勝 桜井均
        後見 宝生和英 東川光夫
        地謡 小倉敏克など


能三番のほか舞囃子、仕舞、連吟、素謡など盛りだくさんの豪華な社中会。

首都圏をはじめ北海道から東北、中国地方まで全国各地から集まった社中の方々は皆さんとてもレベルが高く、なかでも能《綾鼓》のシテをなさった方が巧すぎてビックリ!

素人の方だと知らなかったら、プロのシテ方さんが舞っていると思ってしまいそう。
(普通の素人さんではなく、教授か師範クラスの方でしょうか。)

面を掛けた状態でも謡の声がよく通って独特の味わいがあり、居グセの佇まいもきれい。
女御に詰め寄るところなども気合が抜けず、見応えがある。
ツレの方も巧い方で、玄人による演能を拝見したような充実感。


この日のお目当ては和英宗家地頭の地謡、
そして、はじめて拝見する高安流ワキ方の村山弘師と幸流小鼓方の竹村英雄師。


村山師と竹村師はどちらも京都を中心に活躍する能楽師さんだそうで、
とくに高安流のワキ方は東京では珍しいから楽しみにしていました。


村山師は恰幅が良く、姿勢がきれいで、堅実な芸風。
高安流の謡は、どちらかというと下宝よりも福王流に近い硬質な謡に聞こえ、
それが《祇王》の瀬尾太郎や《綾鼓》の臣下の役にとても合っていました。
もっといろんな役で拝見したい。


小鼓方の竹村師は70代後半くらいですが、背筋がスッと伸びて安定感のある演奏。
(去年亡くなったわたしの義父に雰囲気が似ていらっしゃるので、なんだか懐かしくなりました。)



和英宗家地頭の地謡はグッと引き締まってやっぱり好い。
それまで猛烈な睡魔に襲われていたのですが、
爽快なシャワーを浴びたように一気にリフレッシュ。
最近ますます御家元オーラが強くなられた気がする。





2016年9月5日月曜日

第十一回 香川靖嗣の会~秋 《遊行柳》

2016年9月3日(土) 14時~17時15分 曇りのち雨  喜多能楽堂
第十一回 香川靖嗣の会~秋 お話と狂言《鐘の音》からのつづき

能《遊行柳》 老人/朽木の柳の精 香川靖嗣
     ワキ 遊行上人 宝生欣哉
     ワキツレ 大日方寛 御厨誠吾
     アイ 里人 山本東次郎
     一噌幸弘 鵜澤洋太郎 國川純 観世元伯
     後見 塩津哲生 中村邦生
     地謡 友枝昭世 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
         金子敬一郎 狩野了一 友枝雄人 大島輝久
     働キ 友枝真也 塩津圭介




はじめて拝見する《遊行柳》。
まっさらな心で観た《遊行柳》が香川靖嗣師の舞台でよかった!


【前場】
奥州路に向かう遊行上人一行が、白河の関のはずれまでたどり着き、
2本の分かれ道に差しかかると、どこからともなく一人の老人が現れる。


幕内から「のうのう」と呼び掛ける声。

香川師の「のうのう」には、
長い眠りから覚めた何者かが洞窟の奥から呼び掛けてくるような響きがあり、
何かを真摯に希求するまっすぐで純真な心を感じさせた。


《遊行柳》の前シテについて具体的なイメージを持っていたわけではないけれど、
わたしが漠然と抱いていた《遊行柳》の老人像としっくり合う。

ここで心を掴まれた観客は、魂ごとシテに吸い寄せられてゆく。



橋掛りに現れたシテの出立は、
灰緑色の水衣に濃紺の無地熨斗目、左手に茶房の数珠、右手には杖。
面は三光尉だろうか?
やさしく、寂しげな表情の美しい尉面だ。


橋掛りを進む歩みが、
「老足なりともいま少し急ぎたまへ」と遊行上人から言われるほど遅いのは、
老齢のせいだけでなく、
植物が人間に変身して木の根が足になって動いているせいでもあるように見える。

(シテの所作や佇まいには植物的な感じが終始漂っていて、このあたりがさすが。)


老人は、朽木の柳が生える古塚に遊行上人を案内する。
この朽木の柳こそは、その昔、西行が
「道のべに清水流るる柳蔭、しばしとてこそ立ちどまりつれ」と
詠んだ名木だと言い残し、古塚の影に消え失せる。


この日の地謡も素晴らしかった!
詞章が聞き取りやすいうえに、場面に応じた調子で謡いあげていくので、
情景を映像のように鮮明に思い浮かべることができる。
友枝昭世地頭の喜多流の謡は、後場のクセでさらに生きてくる。



後場】
ワキの待謡のあと、出端の囃子。

元伯さんの太鼓の打ち出しで舞台の空気が一気に濃くなり、
音色と掛け声が時空のひずみをつくってゆく。

老人が消えた古塚が時空のひずみの間隙となり、
そこからシテのサシ謡が聞こえてくる。


いたずらに朽木の柳、時を得て
今ぞ御法にあひだけの


朽木の柳は、ずっと待っていた
長い、長い、長いあいだ、この古塚で、
あの時の遊行上人、あの時の西行法師の生まれ変わりのようなこの上人を!


引廻しがはずされ、柳の精は姿を現す。

床几に掛かったその姿は白灰色の大口に、灰色っぽい単狩衣。
面は皺尉かな?

この狩衣は、多色の糸で織り上げた二重織の凝ったもので、
一見グレーに見えるけれど、シテの動きに合わせて
部分的に緑に見えたり、赤に見たり、さまざまな色に変化する。

時おり見せる赤が、クセで語られる王朝物語の華やかさを感じさせ、
朽木の柳自身の秘めた生命力や夢見る心を思わせる。


「暮に数ある沓の音」で足先で毬を蹴る型とともに、
小鼓がポンポンッと蹴られた毬の音を響かせる。


柳桜をこきまぜて


扇の動きとともに袖がはためき、
玉虫色の狩衣から薄紅と緑が浮き上がり、
京の柳桜が水面に映って揺れているような趣き。


悶死した柏木の悲恋が語られたあと、
「これは老いたる柳色の」とわが身を振り返り、
いよいよ序ノ舞。


香川師の《遊行柳》の序ノ舞は
人間的な生々しさはなく、
かといって枯れてもいない、
夕闇に灯籠が点るようなほんのりとした華やぎのある清浄な世界。


この方にしか出せない、湿り気のない朽ちた植物感。


人々の苦痛を癒してきた薬効の高い柳の木が、
いまその役目を終えて、安らかな眠りに就こうとしている。

肉体でも、物質でもない、その中間の存在が
感謝と慈愛に満ちた典雅な舞を舞っている――。




そして、「他生の縁ある上人の御法」で、ワキと見つめ合う。

この時の欣哉さんのまっすぐな視線と姿勢!

柳の精の思いは上人に受け止められ、
救われたことをこの視線と姿勢が語っていた。

だからこそ、朽木の柳はずっと待っていた、
この人だからこそ柳の精は待ち続け、救われたのだと、
見る者に思わせる視線と姿勢だった。



「秋の風打ち払い」の羽根扇ですべてを打ち払った柳の精は、
今度こそほんとうに露も葉もない朽木となる。

それでも、待ち焦がれた人と御法に出会えたその姿は
どこか満ち足りて見えた。





2016年9月3日土曜日

第十一回 香川靖嗣の会~秋 お話と狂言《鐘の音》

2016年9月3日(土) 14時~17時15分 曇りのち雨  喜多能楽堂

お話 柳桜をこきまぜて  金子直樹

狂言《鐘の音》 シテ 山本則俊 アド 山本泰太郎 山本則重

能《遊行柳》 老人/朽木の柳の精 香川靖嗣
     ワキ 遊行上人 宝生欣哉
     ワキツレ 大日方寛 御厨誠吾
     アイ 里人 山本東次郎
     一噌幸弘 鵜澤洋太郎 國川純 観世元伯
     後見 塩津哲生 中村邦生
     地謡 友枝昭世 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
         金子敬一郎 狩野了一 友枝雄人 大島輝久
     働キ 友枝真也 塩津圭介



今年7月の喜香会・番外仕舞《羽衣キリ》で初めて拝見した香川靖嗣師の舞。
仕舞冒頭で立ち上がったカマエの瞬間から、「おおっ!これは!」と、
心のなかで前のめりになり、そのまま目が吸いついたように離せない。
終了後、天女に魂を抜き取られたように、ポワンとなってしまった。
幸せな出会いと感動!

そんなわけで香川靖嗣師の《遊行柳》、楽しみにしていました。
(太鼓も1か月ぶりの元伯さんだし。禁断症状が出ていたから嬉しい!)



まずは、金子直樹先生のお話「柳桜をこきまぜて」から。

ごく普通の初歩的な解説なのだけど、語り口がソフトで癒し系。

開演前にロビーでおやつを食べたばかりなので、心地良い眠気に誘われる。
朗読CD向けの声と話し方。


以前拝見した時も感じたけれど、
喜多流の解説って能舞台に上がらずに、脇柱前の見所で話すのですね。
神聖な能舞台に対する敬意が感じられて好感が持てる。



狂言《鐘の音》
初めて拝見する狂言。
主人が「(刀の)付け金の値」と言ったのを、太郎冠者が「撞き鐘の音」と聞きちがえて、鎌倉の寺々の鐘を撞き、その音を聴いてまわるというお話。

シテの太郎冠者は、最近わたしが注目している山本則俊さん。

東次郎さんが太陽だとすれば、則俊さんは月のような存在。
まばゆい華やかさはないけれど、
奥座敷の暗がりで底光りのする金蒔絵のような陰翳がこの方にはある。
(by『陰翳礼讃』)
《月見座頭》のような作品ではそれが生きてくる。


この日の《鐘の音》では、諸寺の鐘を撞いてまわった太郎冠者が、最後に訪れた建長寺で鐘を撞きながら、鐘の音を擬音で表現するのが見事。

「ジャンモンモ~ン」と、鐘の振動や音の反響、ドップラー効果をあらわす声の強弱・高低・抑揚が素晴らしかった。


好きだな、山本家の噛めば噛むほど味が出る狂言。



第十一回 香川靖嗣の会~秋 能《遊行柳》につづく