2017年12月19日火曜日

梅若玄祥の《景清》~国立能楽堂定例公演

2017年12月15日(金)18時30分~20分45分 国立能楽堂

能《景清》 シテ 梅若玄祥
    ツレ人丸 馬野正基 トモ従者 谷本健吾
    ワキ里人 宝生欣哉
    杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄
    後見 山崎正道 小田切康陽
    地謡 観世銕之丞 浅井文義 西村高夫 柴田稔
       角当直隆 山中迓晶 川口晃平 観世淳夫



ぜひとも拝見したかった玄祥師の《景清》。
演者の人生そのものが芸の肥やしになる曲ほど、この方の存在感がさらに増して、表現に奥行きが出る。《頼政》も《山姥》も、そして《景清》も、他のシテでは物足りなく思えるくらい、玄祥師の演能にはインパクトがある。
配役も最高だし、玄祥師の芸容の大きさに触れた舞台だった。


〈松門之出〉
小書はないけれど、笛のアシライ・松門之応答(会釈)が入る。

杉市和師の笛が、藁屋住まいのうら寂しく侘びれた風情と、景清の厭世的で孤独な心情を切々と奏で、そこへ作り物の中から、シテの声が響いてくる。
凋落のなかにも枯れてはいない、鈍い艶のある謡。


「あさましや窶れはてたる有様を」で、引廻しが下され、景清が姿を現す。
角帽子(沙門)はつけず、ロマンスグレーのような白垂に墨色の水衣・白大口という、シックな出立。
景清の面にも品格があり、老残・落魄の底でほの白く光る、武士の気概や矜持を強く感じさせる。
床几に掛けるシテの姿は端正で、胸を打つような美しさ。
ふだんの玄祥師のふくよかさや丸みは微塵も感じさせず、芯の通った精神の骨格が衣を着たような直線的な印象さえ受ける。


ツレやトモ、ワキとのやり取りの時でも、シテは面の裏で目を閉じているのではないかと思わせるほど、相手の声を聞いてから顔をそちらのほうへ向ける。
それも、相手に正対して目を合わせるのではなく、わずかに角度をずらすため、いかにも耳だけで反応しているように見える。

杖のつき方も、じつにさりげない。ごく自然に目の不自由な人が身体の一部として使っている様子。



〈父娘の対面〉
欣哉さん扮する人情味あふれる里人の引き合わせで、景清と人丸は対面する。
馬野さんの人丸が、とても可愛らしい。
おそらく謡曲中、最も長い道のり(鎌倉→宮崎)を、父に会いたい一心で旅してきた人丸のひたむきさ、健気さが感じられた。
トモの谷本さんも、人丸の一途な思いをなんとか実らせようと、若い娘を長い道中ずっと守り続けてきた硬派なボディーガードの雰囲気。

父と娘は見つめ合い、「疎き人をも訪へかしとて怨みそしる」で、景清は人丸の頬に愛情をこめて手を当てるような所作。
目が見えない分、せめて頬に触れて、娘の存在とぬくもりをたしかめようとする父の思いが伝わってくる。



〈錣引きの仕方話〉
「景清これを見て」で、鼓の特殊な手が入り、シテは水衣の肩を脱ぎ、
「物々しやと夕日影に」で床几から立ち上がり、
「打物ひらめかいて」と、右手の扇を見、
「斬ってかかれば」で、太刀に見立てた扇を振り下ろし、
「兵は四方へぱっとぞ逃げにける」で、左右に面を切る。

屋島の合戦での武勇伝を語る場面は、玄祥師らしく写実的で大胆な表現になるかと思っていたが、比較的抑制が利いていた。
これが、この日の気格高い景清の雰囲気と合っていて、若き日の自分の姿を俯瞰して追憶しているようにも思える。
武士の誇りを持ち続けつつ、人生に対する未練よりも、達観に近づいている感じを受けた。




〈今生の別れ〉
語り終えた景清は、別れの時が来たことを娘に告げる。

「さらばよ留まる」「行くぞとの」で、景清は諭すように娘の背中を押す。
人丸の背中から離れたその指が、立ち去ろうとする娘を引き留めるように、微かに震えている。
景清の、言葉にできない心の内を、震える指が語っている。

指の先から見えない触手が伸びて、人丸に絡みつこうとしているかのよう。
心と行動の矛盾。
伝えられなかったほんとうの想い。

こういうところの表現が、とりわけ見事だった。








2017年12月17日日曜日

国立能楽堂十二月定例公演《因幡堂》

2017年12月15日(金)18時30分~20分45分 国立能楽堂

狂言《因幡堂》シテ夫 高澤祐介
       アド妻 河路雅義

能《景清》 シテ 梅若玄祥
    ツレ人丸 馬野正基 トモ従者 谷本健吾
    ワキ里人 宝生欣哉
    杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄
    後見 山崎正道 小田切康陽
    地謡 観世銕之丞 浅井文義 西村高夫 柴田稔
       角当直隆 山中迓晶 川口晃平 観世淳夫



この日は、国立能楽堂特別展「備前池田家伝来・野崎家能楽コレクション」の最終日。


いつまで見ていても見飽きない、能面の名品・優品が充実した展示だった。

後期展示では、「孫次郎(天下一友閑)」、「セイエン」「改玄」が美しかったし、「増髪」「生成」(いずれも天下一友閑)のインパクトのある不気味さや、「童子(艶童)」の艶めかしさ、「蛙」のゾッとする冷たさなど、どれも心に残る作品ばかり。

なかでも、優れていたのが「深井(深女)」と「痩女」(いずれも出目)。
深井(深女)は、その名の通り、《砧》や《朝長》の前シテなどの、深みのある名曲にふさわしい高い品格があり、《痩女》は顔立ちの整った気品のある美形で、《求塚》や《定家》など、いかにも地獄や妄執の責め苦を負った薄幸の美女、といった風情を感じさせる。

この面をあのシテがつけて、あの曲で舞ったら……と、想像の世界で遊ぶしかないのが残念。
宮崎・延岡の天下一薪能のような、地元の素晴らしい能面を使った公演が開催されることを願ってやみません。

ああ、ほんと、終わってしまって、名残惜しい展示でした。



肝心の狂言《因幡堂》の感想は……よかったです。
初めから終わりまで、隣に座った女性のいびきが凄くて、あまり集中できなかったのですが、生理現象だから仕方ない……?

古女房は、わわしいし、大酒呑みだから、新しい奥さんがいい! という気持は、たいていの殿方が(行動に移さないまでも)心に秘めているものなのかも。
そんなふうに言いながら、古女房の怒りを恐れて戦々恐々するあたりも、いつの世も変わらない。
夫婦って、こんなもんだよね。




梅若玄祥の《景清》につづく




2017年12月12日火曜日

小平市平櫛田中彫刻美術館・大江宏設計「九十八叟院」

師走の休日は人ごみを避けて、近場の穴場へ。
近場だとかえって足が向かなくて、訪れたのはこの日が初めて。
思っていたよりもはるかに良かったです!

旧平櫛田中邸「九十八叟院」

平櫛田中の旧邸宅は、大江宏が設計した書院造の名建築。
現在は、美術館に隣接する記念館となっています。



平櫛田中が98歳の時に建てたことから「九十八叟院」と呼ばれるこの旧居は、とにかく素敵な空間。 こういう建物を見るとわくわくします。

彫刻用原木・クスノキ

樹齢500年の楠の原木(5.5トン)は、その後の30年の創作活動のために、田中が100歳の時に購入したもの。

100歳以降も、「鏡獅子」に匹敵する女性の舞姿(モデルは武原はん)を彫るつもりだったというから、凄まじい創作意欲! 
この樹齢500年の原木そのものが、平櫛田中に見えてくる。



お庭も、大江宏らしい端正で品格のある構成。


エントランス
玄関先の格子戸が、ステンドグラスのよう。陰翳礼讃の世界。



こういう様式、好きだなあ。
どこか人間的なぬくもりのある、和風モダニズム建築。


茶室の坪庭
坪庭に切株があるのが、平櫛田中らしい趣き。


茶室、にじり口が見える

四畳半の茶室に掛けられていたのは、平櫛田中の書「無心」の御軸。




雁行する石畳の配置も、大江宏っぽい。


小平市平櫛田中彫刻美術館

記念館に隣接する彫刻美術館。
こちらも、かなり見応えがありました。

平櫛田中彫刻の魅力は、モデルがもつ雰囲気、その人が発する「気」を、そのまま作品から感じ取れること。
生身の人間の魂から発せられるエネルギーが彼の作品からも発せられ、まるでその人自身と向き合っているような気分になる。

平櫛田中といえば、真っ先に岡倉天心像が思い浮かぶ。
明治の巨人の、怪物めいた存在感・威圧感が、その量塊とともにたしかな手ごたえで迫ってくる。

《鏡獅子》1965年、木彫彩色、高さ58㎝

とはいえ、この美術館の目玉は、やっぱり《鏡獅子》。
国立劇場の2メートルの鏡獅子の4分の1のスケールで創られたこの像は、小型作品ならではの密度の高い充実した造形。
ビリビリと音を立てて炸裂するような気の放電すら感じられる。

《鏡獅子》の試作品として、六代目尾上菊五郎のふんどし像と頭部の像も展示されている。
裸体像(六代目は裸で弟子に指導していたという)は背面から見ると、臀部の盛り上がりや、中心部に寄せた背中の筋肉の形がすばらしい。
頭部像は、音羽屋らしい口許やあごのぽってりした肉付きが、本作の《鏡獅子》よりも顕著にあらわれている。

それでも、わたしがこの《鏡獅子》を見て思い出すのは、能楽師・十世片山九郎右衛門の《石橋》だった。
カマエや重心のかけ方、一点を見つめる集中力の強さ、気迫の漲り方が、九郎右衛門さんの《石橋》そのものなのだ。
体型もおそらく六代目尾上菊五郎に似ているのではないだろうか。


他にも印象的な作品ばかりだったが、とくに強く惹かれたのが、《良寛上人》と《月姫》。
子供たちと手鞠をしたり、泥棒に布団を盗ませてあげたりする逸話で有名な良寛さん。
平櫛田中の作品では、品のいい細面の禅僧が膝の上で書物を開いて静かに読み耽る姿で描かれる。
良寛さんがまとう、安らかで泰然とした優しい雰囲気が、まわりの空間全体に漂っている。

《月姫》は、若く美しい女性ではなく、生活感をにじませる中年女性のブロンズ像。
器量も十人並みで、パーマをかけた主婦の、黄ばんだような人生を感じさせる。

「月姫」という言葉にはロマンティックな響きがあるが、
月の満ち欠けのように、ごく自然に子を生み・育て・老いてゆく、地に足のついた人生を歩んできた女性こそが《月姫》なのだ、という意味だろうか。








2017年12月6日水曜日

端坐


観世元伯さんの訃報から数日。
感情が込み上げてきて、何も手につかず、何も書くことができなかった。

どんな言葉も虚しく響いて、思いをうまく表現できない。

何よりも、無念だ。 あまりにも、無念すぎる。

周囲も、観客も、そして何よりも、ご本人が無念だったろうし、それを思うと、とてもじゃないけど、やりきれない。やりきれるわけがない。

あの太鼓はまさしく当代きっての、天下無双、唯一無二のものだったし、
これから今まで以上に数えきれないほど多くの感動を、多くの人に与えてくださるはずだった。
能の舞台の素晴らしさ、囃子の醍醐味を、ひとり一人の胸に、深く、深く、刻みつけてくださるはずだった。
そして、多くの大切なものを、次の世代に受け渡してゆくはずだった。

それなのに!!


神の領域に入ったような、玄妙な太鼓だった。

天高く突き抜けるような、高く澄みきった掛け声だった。

芭蕉の句の古池に木魂する水音のように、金属質の響きが森閑たる静寂を際立たせる、そんな出端だった。

あの早笛、大ベシ、あの早舞、あの神楽、あの神舞、あの中之舞・序之舞、あの舞働、あの楽、あの祈リ、あの乱、あの獅子……。


いつも舞台の最後に、
太鼓と扇を持ってスッと立ち上がり、揚幕のほうに向き直って、書道でぐっと力をためてから筆を払うように、特徴的なリズムで半歩下がり、絶妙な間を置いてから歩み出し、橋掛りを去ってゆく。
舞台にピリオドを打つような一連の所作と、余韻に彩りを添えるあの後姿を見送るのが好きだった。


この一年、観世元伯さん不在の太鼓物を観てきたけれど、
ぜんぜんちがうのだ、あの方の太鼓がないと。

シテが素晴らしければ素晴らしいほど、地謡が良ければ良いほど、舞台の完成度の点で、囃子の、元伯さん不在が、大きくひびいてくる。
そこだけが宝玉の瑕のように浮き上がってくる。



あの、一分の狂いもないほど緻密で繊細な太鼓には、ひと粒、ひと粒に、打ち手の魂が込められ、
そのたびごとに貴い命が削られていた……。

そして、怖ろしいことに、舞台芸術は儚い。
死後の再発見、再評価などはなく、
将来必ずや与えられたであろう最高の栄誉を、授与される日を待たずに終わってしまった師の芸術は、観客の記憶とともに、やがて薄らぎ、いつかは消えてしまうのだろうか。



最後に拝見したのは、昨年11月の末、梅若の能楽堂での社中会だった。
少し咳をされていて、体調がすぐれない御様子だった。

《砧・梓之出》だったと思う。
この日、わたしも体調がすぐれず中入りで退席した。
間狂言なので、元伯師は左横を向かれ、こちらに背中を向けていた。

わたしは席を立ち、もう一度、振り返った。

舞台の上には、あの、元伯さんの世にも美しい端坐する姿があった。
体調を崩されていても、少しも乱れない、美しい木彫仏のような佇まい。

いつもと変わらない穏やかな秋の日の午後。
能楽堂を出ると、入り口に植えられた桜の紅葉がきれいだった。


また、すぐに会えると思っていた。

いつでも、会えると思っていた。