2014年7月16日水曜日

国立能楽堂定例公演 《芭蕉》

狂言 因幡堂 山本則孝 山本泰太郎

                       

能 芭蕉 薬草喩品 
     シテ観世清河寿  ワキ森常好  アイ山本東次郎
       一噌庸二 大倉源次郎 柿原崇志
    
   地謡  梅若玄祥、梅若紀彰、岡久広 浅見重好
       坂口貴信 清水義也 角幸二郎 山崎正道

          

                       

敬愛する禅竹の《芭蕉》。

シテも地謡も三役も最高の布陣だし、
とっても期待していたのですが……。



         
考えてみると、《芭蕉》って
上演時間2時間以上の大曲の割には、
登場人物も芭蕉の精のシテと僧侶のワキだけで

これといった見せ場もない。。



草木国土悉皆成仏をテーマにしていて、
最後は「芭蕉は破れて残りけり」で終わる、
とても抽象的な曲です。

         
               


(この終わり方が禅竹らしくてクールでかっこいいと思うのですが、

研究者の中にはこれにセクシャルな暗喩が込められていると言う人もいます。

単なる深読みだと思うけれど。)



 
そう、詞章だけ読むと、極めて前衛的でどこか謎めいていて、

私は好きなのですが、実際に上演した場合、かなり退屈な曲です。



         
これで見所を惹き込むのは相当力量がいるんちゃうかなー。



             
後場では、序之舞の笛の音の強力な催眠効果も手伝って、

睡魔との闘いでした。



         
(見所も寝落ちしてはる人が多かったようです。

能楽堂内が涼しいのもあるのかもしれないけれど。

動物は体温が下がると眠くなるのです。


         
               

シテもやや低調だったんじゃないかな。

キレイだし、ソツはないのだけれど、

足のハコビにどことなく力がなくて、
(草木の精の演出の一部?)

面の下で意識が朦朧としてはるんちゃうかと思ったり。


             

とはいえ、「深井」の面がとても美しく神秘的でした。
                   
この面は斜め前から見ると特に妖しい美しさを漂わせます。



前シテの装束は、ウィリアム・モリスのファブリックのような
                
渋いグリーン地に小菊などの秋草花をあしらった唐織。


後シテは、グレイがかった水色の長絹に明るめの浅葱色の大口。
                
草木の葉を思わせる色合いで、芭蕉の精にぴったり。

「霜の経、露の緯こそ、弱からし。草の、袂も」の詞に合った
繊細で儚げな衣でした。

           


開演前と中入の時に、シテか後見かどなたかは分かりませんが、

楽屋からゴホゴホッと凄い咳が聞こえてきて、

調子が悪そうでした。

              
(夏風邪が流行っているようで、見所でも咳をする人が多かったです。)



そんなこんなで、ちょっと不完全燃焼。

お能の夏場の公演数が少ない理由が少し分かった気がしました。

2014年7月15日火曜日

第28回テアトル・ノウ東京公演 《砧》 心に残る名演

2014年7月12日 宝生能楽堂

仕舞  鵜之段  味方健
    松風   味方團
舞囃子  三笑  片山幽雪 片山九郎右衛門 観世淳夫
          藤田六郎兵衛 成田達志 亀井忠雄 観世元伯
                   
狂言  茶壷 野村萬斎 内藤連 高野和憲

                   
能   シテ味方玄  ツレ(夕霧)谷本健吾  
      ワキ宝生欣哉 森常太郎    アイ野村萬斎
     笛・藤田六郎兵衛、小鼓・成田達志、大鼓・ 亀井忠雄、太鼓・観世元伯
                       
     後見 片山幽雪 清水寛治 味方團
                          
     地謡 片山九郎右衛門、観世喜正、浅見滋一、河村時晴
       分林道治、梅田嘉宏、安藤貴康、観世淳夫


正面席も中正面も完売したそうだから、ほぼ満席だったんじゃないかな。

まずは仕舞から。
御父様の味方健さんは今回もパンフレットに興味深い論考を書いておられて、読み応えがありました。
特に印象に残った部分を以下に引用。

「『衣に落つる松の声……夜寒を風や報らすらん』は観阿弥によって曲舞から導入された
[次第]が、世阿弥によって昇華した一好例で、冷えがあり、冴えがあり、しをれがある。
いや、近代にいう象徴詩である。
象徴詩とは、明治に上田敏によってフランスからはじめて輸入されたものでは、
けっしてないのだ。」



味方健さんは関西(京都?)でお能関連の講座を開いていらっしゃると聞いたことがあるけれど、
ほんと、受けてみたい!
いろんな意味で関西に帰りたい……。


弟君の味方團さんの仕舞《松風》も謡も舞もとてもきれい。
やはり当然と言うか、師匠の林喜右衛門さんと芸風が似ていらっしゃって
ゆったりとした洗練された間合いで、わたしの好きな芸風。
東京では團さんを拝見する機会がめったにないけれど、もっと見てみたい。
どんどん東京に進出してくださ~い!! 待ってます!


舞囃子《三笑》は、祖父、叔父、孫の肉親三代から成る現在・過去・未来の象徴のような相舞。
どうしても九郎右衛門さんに目が釘付けになってしまう。
この方、非の打ちどころがない。
扇を持った手をあげるだけでも、何かふんわりキラキラした美しいものが身体から発散されているよう。
いずれにしろ、貴重な相舞でした。 


次は、萬歳さんの《茶壷》。
やっぱり萬歳さんの狂言は面白い!
でもなんか、お疲れだった御様子で、目が真っ赤で、おやつれになっていたような……。
(そんなわたしも目の下クマだらけだったので、人のこと言えないけれど。)


休憩を挟んでいよいよ《砧》。
これがもう最高でした!  心に残る名演。

これを見たら、もう他の《砧》は見れないんじゃないかなっていうくらい。

お囃子も名手揃いで、哀調を帯びた調べと掛け声で砧のしっとりとした世界をつくりあげていて、
囃子を聞いているだけで、感動的な映画音楽を聴いている時のように涙が出てきました。

地謡も、またすっごくよかった!
九郎右衛門さんが地頭で、観世喜正さんが副地って、贅沢すぎませんか。
それで、いつもなら喜正さんの謡が際立ちすぎることが多いのだけれど、
(それはそれでいいのだけれど、喜正さんの謡が好きだから)
今日は地頭に遠慮してか、曲調に合わせるためか、
全体にとてもバランスがとれていて、
詞章ははっきり聞きとれるけれど、強すぎず、かといって弱すぎず、
秋の澄んだ夜気に響き渡るような、
物悲しく、やるせない哀切を帯びた素晴らしい謡だったのです。

ツレもワキももちろん良くて、
そして何よりも味方玄さんが演じた北の方が朧たけた美しい中年女性で、
所帯じみた雰囲気に堕しやすい《砧》の世界を、
もっと高雅で品格のあるものに高めていたように思います。

装束もとても上品で洗練されていて、
前シテは、ゴブラン織りのような異国的な色柄の無色唐織、
後シテは、白い上着に、若草のような清々しい色合いの大口、
とセンスの良い取り合わせ。

この白と浅葱色の清らかな装束の取り合わせと、
シテのこの世ならぬ、重力から解放されたような神々しい舞と、
聞くだけで号泣しそうになる、憂愁に満ちた囃子と、
切々と謡い上げる絶妙な地謡とが混然一体となって、
能舞台を不思議で神秘的なオーラで包み込み、
                        
最後は、
シテの身体が厳かな純白の光に包まれて
天使の梯子を昇っていくように、
安らかに橋掛りから天に昇っていったのでした――。


――《砧》って名曲だけれど、最後があまりにも簡単に成仏してしまうので、
安易でお手軽な終わり方だなあと思っていたのですが、
味方さんの砧は、北の方の霊が成仏していくさまを、
夢の中の世界のようにファンタスティックに描いていて、
世阿弥の意図はこういうものだったのかと納得させるようなエンディング。

ピーター・グリーナウェイの『プロスペローの本』を彷彿させるような、
幻想的で美しい映像を見る者の脳裏に現出させてくれる、そんな《砧》でした。




追記:前場の舞の見せどころ「夏衣薄き契はいまはしや」あたりで、
   脇正面前方(最前列?)で、大きな携帯音が3度も鳴ったのはほんとうに残念でした。
   もう、ハラキリものです。 
     こういう人って、自分が取り返しのつかないことをしてるという自覚がないのかな……。