2016年11月7日月曜日

友枝会~《野宮》前場

2016年11月6日(日) 13時~17時15分   国立能楽堂



能《野宮》シテ友枝昭世 
  ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
  一噌仙幸→一噌隆之 曾和正博 柿原崇志
  後見 中村邦生 佐々木多門
  地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 出雲康雅 長島茂
     大島輝久 内田成信 金子敬一郎 佐藤寛泰

狂言《鐘の音》シテ野村萬 アド能村晶人

能《国栖》シテ友枝雄人 ツレ姥 友枝真也 
   ツレ天女 友枝雄太郎 子方 内田利成
      ワキ工藤和也 ワキツレ則久英志 御厨誠吾→代演
      アイ野村虎之介 野村拳之介
     一噌隆之 観世新九郎 大倉慶乃助 観世元伯
      後見 内田安信 塩津哲生
   地謡 大村定 粟谷明生 狩野了一 谷大作
      塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤陽




今月で、観能三周年を迎えます。
わたしにとって友枝会はいわばその記念公演。
ひとつだけ贅沢を言えば脇能or修羅能と狂言が先にあって、《野宮》がラストだったらもっとよかったなー。
感動をほかの舞台で上書きせずに、しばらくボーッと、余韻に浸っていたかった。


【前場】
〈ワキの登場〉
名ノリ笛でワキが登場。
一噌仙幸師の代演で笛を吹いた隆之さんが《国栖》と連続登板。
《野宮》の仙幸師の代わりには一噌庸二or藤田次郎さんがいいと思っていたのですが、隆之さんの笛もこの日は良かった。
とくにヒシギが《野宮》にふさわしい繊細で情趣豊かなヒシギになっていて、いつのまにか階段をいくつか登られたのを感じた。


そして、ワキの欣哉さん。
幕を出た瞬間からその美しいすり足とともに、晩秋の冷え冷えとした空気を運んでくる。
この方のハコビとすらりとした姿勢には、しっとりとした詩情が漂っている。
所作のひとつひとつが詩の韻律を生み出してゆく。

そのまま舞台へ進み、紅葉も色褪せた森の景色に溶け込む。
鳥居之前で手を合わせ、野宮→伊勢→仏の道に思いを馳せて心を澄ませていると;


〈シテの登場〉
次第の囃子にのってシテが現れる。

何か、強い重力に抵抗するような重いハコビ。
野宮へ還ることを戒める自分と、どうしても毎年ここへ還ってきてしまう自分。
後ろにグッと踏みとどまろうとする力と、前に強く引かれて進もうとする力。

相反する力の拮抗と矛盾する心の葛藤が、その重い抵抗を感じさせるハコビに象徴されていた。

前シテの出立は、秋の草花がぎっしり織り込まれた精緻な唐織。
面は増だろうか。
現代的な目鼻立ちのはっきりした美女だ。
(チラシの写真と同じ面?)

シテは鳥居の前に佇む男の姿を見て「とくとく帰り給へよ」と、ここが神にとって、そして自分にとっての不可侵の聖地であることを毅然と示すが、だからといって相手を冷たくはねつけるわけではない。
その声には、つねに心を武装してきた彼女が旅僧と通じ合う何かを感じ取り、相手をなかば受け入れるような響きがあった。


〈初同〉
喜多流の謡の醍醐味が凝縮されたような素晴らしい地謡。
謡によって《野宮》にふさわしい物哀しい雰囲気が醸成され、
条件反射的に泣いてしまう映画音楽を聴いた時のように、この初同から涙があふれてきて、後場の山場になるとほとんど号泣しそうになる。


「うらがれの草葉に荒るる野宮の」から、シテは鳥居前に進み、
「跡なつかしきここにしも」で、下居して榊を供え、
その長月七日の日も今日にめぐり気にけり」で、後ろに下がってワキに向く。


そして「火焼屋の微かなる光は我が想い内にある」で目付柱やや上方を見るのだが、
その時、ポッと頬を上気させたような、ときめきを覚えた少女のような表情を浮かべる。

彼女は嫉妬に狂った半面、少女のような純愛を心の奥底で燃やし続けていた――そんな想像が湧いてくる。
その一途な愛に見合った愛され方をしていたらこんなに苦しまなくて済んだだろうに。



〈クリ・サシ・クセ〉
正中で床几に掛かるシテの、気高いユリの花を思わせる美しさ。

御息所の悲劇は、その高根の花のような高貴な外見と、ほんとうは繊細で傷つきやすい内面とのギャップであり、その内面を素直にあらわせない(育ちや身分による)気位の高さ、不器用さなのかもしれない。

友枝昭世の前シテは、御息所の品格や気高さとともに、その奥に隠された可憐さや脆さ、そしておそらく東宮妃時代の愛らしさをも感じさせた。



やがて前シテは自らの名を明かすと、鳥居の柱に隠れ、送り笛とともに消えてゆく。



友枝會~《野宮》後場につづく






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