2017年11月5日(日)13時~17時 国立能楽堂
《松風》シテ 友枝昭世
ツレ狩野了一 ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
杉市和 曽和正博 國川純
後見 内田安信 中村邦生
地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 出雲康雅
佐藤陽 内田成信 大島輝久 谷友矩
《茶壺》シテ 野村萬
アド野村万之丞 小アド野村万蔵
《野守》シテ 友枝真也
ワキ則久英志 アイ能村晶人
一噌隆之 森澤勇司 柿原光博 小寺真佐人
後見 塩津哲生 佐々木多門
地謡 大村定 長島茂 友枝雄人 金子敬一郎
塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤寛泰
楽しみにしていた友枝昭世さんの《松風》。
昭世さんや万三郎さん、九郎右衛門さんの舞台を拝見していつも思うけど、名手の舞台には意外性がある。
好い意味で、こちらの予想を裏切ってくれる。
公演記録で観た昭世さんの《松風》は、狂気に突き動かされ、恋の熱情がシテの全身から立ちのぼるような凄さだった。
今回もそういう《松風》を勝手にイメージしていたのですが;
この日の《松風》では、そうした「情念の極み」的な側面は比較的抑えられ、シテは、身を焦がし、身悶えしながら待ち続けた恋の苦悩の日々を、どこか甘く、懐かしい想いで振り返りつつ、追慕の舞っているようだった。
最後には、松風の魂が昇華されて、
その分身だった村雨とひとつになり、
行平の象徴であり、恋の墓標でもある松とも不離一体となって、
松の精とも、月の精ともつかない、朧げに透き通った存在となり、
みずから松風を聞きながら、
引き潮とともに海の彼方へ、
あるいは、月の世界へと還っていくようだった。
万三郎さんの舞台でもいつも感じるように、
友枝昭世さんも拝見するたびに、削ぎ落せるものは削ぎ落しつつ、体の軸が微塵もぶれない強靭な足腰で、舞と型の精髄を、力みのない軽やかさで舞っている。
ほんとうは膨大なエネルギーと細心の注意・神経を使っているのだろうけれど、あらゆる自然の摂理や物理的束縛から解放されて、「型」もほとんど「型」ではなくなったかのように、自由に、自然に、軽やかに舞っているように見える。
とりわけ万三郎師の舞には、そうした印象がある。
世阿弥がしばしば使った「少な少なに」という言葉、
それでいて「花はいや増しに見えしなり」という言葉を想起させる。
そして、この御二人に共通するのは、終曲部でじつに印象深く、意味ありげな視線をこちらに投げかけること。
もちろん、それはこちらの一方的な錯覚&妄想にすぎないのだろう。
でも、シテが面を通して観客に投げかける視線によって、シテとの一体感がさらに高まり、観る者を曲中に深く、強く引きこみ、演者とともに創り上げた独自の物語世界を観者の脳裏に映写させる。
こういうことができるのも、名手のなせる業だと思う。
いま現在の友枝昭世師にしか舞えない唯一無二の《松風》、いまの昭世師独自の《松風》の世界を堪能できた至福……。
前置きが長くなったので
細かい内容は、友枝昭世の《松風》に続きます。
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