能《海士・二段返・解脱之伝》・舞囃子《頼政》からのつづき
帰りは、とっぷり日も暮れて |
能《三輪・白式神神楽》シテ 片山九郎右衛門
ワキ 宝生欣也
アイ 野村万蔵
杉市和 吉阪一郎 亀井広忠 前川光長
後見 浅見真州 青木道喜 味方玄
地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 観世喜正 山崎正道
片山伸吾 分林道治 橋本忠樹 観世淳夫
凄いものを観てしまった。
ずーっと観たかった九郎右衛門さんの白式神神楽は、予想をはるかに超えていた。ヴァーグナーの神話劇のような壮大な世界が目の前で展開して、圧倒されるような迫力、ドラマ性に、文字通り身体がふるえた。
能の醍醐味を余すところなく詰め込んだ巧みな演出と、それを十分に生かした選び抜かれた演者たち。この舞台を拝見できて、ほんとうによかった!!
【前場】
〈ワキの登場〉
笛の調べに誘われるように、ワキの玄賓僧都があらわれる。
杉市和さんが奏でる笛の音と、欣哉さんの姿・ハコビが、うら寂しい秋の大和路、三輪山の麓の枯れた景色、冷たく澄んだ空気の質感を映し出す。
『発心集』などを読むと、玄賓僧都は高貴な人妻に恋をしたことがあり、不浄観によって煩悩を克服したという。
玄賓といえば、遁世僧のイメージが強いが、その厭世的な枯淡の風情の奥底に、ほのかな色ツヤ、かすかな余焔が感じられる。欣哉さんの演じる玄賓像にはそんな雰囲気が漂う。
〈シテの登場〉
この次第の囃子もよかった。
広忠さんの抒情的な掛け声。この日は、濁りのない響き。囃子後見には源次郎さん、忠雄さんなど、そうそうたる顔ぶれ。
シテの繊細なハコビが、道なき道をはるばる訪ねてきた女のほそい足を印象づける。
出立は一見シックでも、よく見ると精緻な文様が施された紅無唐織。手には桶。面は、目鼻立ちのはっきりした艶麗な深井。
シテは一の松で立ち止まり、秋の山路を見渡すようにしばし見所を見入ったのち、後ろを向いて、「三輪の山もと道もなし、檜原の奥を訪ねん」と謡いだす。
ここの次第は三遍返し。地取りを受けてのシテの返しは、高音に張った調子で、山道を分け入る感じが強調される。
この時、シテはずっと後ろを向いたまま。
九郎右衛門さんの後姿が美しい。
唐織着流は難しく、名手でも高齢の人は背中が丸まっているし、比較的若い人は隙があって、鑑賞に堪える後姿の人はそう多くはない。
九郎右衛門さんの唐織着流の後姿は、中年の女性が歩んできた人生の翳りのようなものをまとっていて、それがこの女性のどこか後ろめたい罪の意識と、そこから生まれる奥ゆかしさにつながっていた。
(次第の「檜原の奥」にある檜原神社は、元伊勢とも呼ばれており、ここが地理的にも、終曲部で謡われる「伊勢と三輪の神」とが重なり合う土地であることが伏線的に示されている。)
〈庵室へ→シテとワキのやり取り→中入〉
玄賓の庵にたどり着いたシテは、僧との掛け合いののち、左手で「柴の網戸を押し開」く所作をして庵のなかへ入り、「罪を助けてたび給へ」と、手を合わせて懇願する。
ここのところは、イエスの足もとに跪き、香油を塗ったマグダラのマリアを思わせる。なにか、罪深い女の原型のようなもの、そして、それを赦す聖者のイメージと、両者の心の交流の物語が、洋の東西を問わず存在したのかもしれない。
(この場合、樒・閼伽の水が「香油」にあたる 。)
所望した衣を、玄賓から受け取るシテの姿がとても印象的だった。
まるで恋い焦がれた憧れの人から、大切なものを受け取る可憐な少女のよう。はにかむように、悦びを噛み締めるように、左腕に衣を愛おしく抱きしめる。
そして、僧と女は、心を込めてじっとたがいを見つめ合う。
何かが、たしかに、二人のあいだに流れている。
敬慕する側と、敬慕される側。
思いを受け取り、思いを与え合う、そのことがこちらにも伝わってくる。
九郎右衛門さんと欣哉さんならではの、心に残るシーン。
シテからワキへ、演者から観客へ。心より心に伝ふるもの……。
《三輪・白式神神楽》後場につづく
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