能《姨捨》シテ里女/老女 観世喜正
ワキ都人 宝生欣哉 ワキツレ大日方寛 御厨誠吾アイ里人 山本泰太郎
一噌隆之 観世新九郎 柿原弘和 観世元伯
後見 観世清和 観世喜之 奥川恒治
地謡 梅若玄祥 観世銕之丞 片山九郎右衛門 山崎正道
馬野正基 味方玄 坂真太郎 坂口貴信
【次第】
長裃姿で重々しく登場した囃子方。
舞台上の緊迫感・緊張感が見る側にも伝わってきて、こちらも目眩がしそうなほど胸がどきどきする。
静かな熱気のこもった次第の囃子に乗って、ワキ・ワキツレが登場。
ワキが下宝生になると
謡曲集などに収録されている詞章(「都方に住居仕る者にて候」)とは違って、
「これは陸奥しのぶ何某にて候、われ久しく都に候ひて、洛陽の寺社名所旧跡四季折節の風情残りなく一見仕りて候」となり、みちのく出身だが在京期間の長い「都の者」という複雑なアイデンティティに変わり、僧侶でもない職業・身分不詳の謎の風流人という設定になる。
笠を目深に被ったワキは彼自身も暗い過去を背負っているかのように、
いわくありげな深い陰翳を感じさせる。
【シテの登場】
姨捨山に到着したワキ一行。
どこまでも果てしなく広がる大空が間近に迫る壮大な風景。
ここでこのまま日没を待ち、名月を眺めようと胸を躍らせていると、
草木の影もなく、山路も見えない方角から女の声が聞こえてくる。
幕の奥から「の~うの~う」と低い声が響き、シテの姿が橋掛りに現れたのはだいぶ間があってから。
シテの存在感が強調される。
出立は渋い金と鈍色地のシックな段替唐織に、
面は深井だろうか、増かと見紛うほど若くて端麗な女面。
《姨捨》の前シテの位置づけは難しい。
幼い甥を育てていたころの、老女の若き日のイメージを彷彿とさせながらも、その姿をあまりにも忠実に再現すると「草衣しをたれて」のようなボロボロの衣裳をつけなければならないから、能では豪華な装束と美しい面をつけて、鄙びた中年女性賤しさという写実性は一切見せない。
前シテの姿に、老女本来の「老い」のイメージをどれだけ投影すべきなのだろう。
この疑問に喜正さんは滑らかさを抑えた重みのあるハコビと、かすれ気味の謡などの繊細緻密な工夫で応えていたように思う。
橋掛りを進むシテにワキは、かつて姨捨山に老女が捨てられたそうですが、その跡はどこでしょうか、と尋ねる。
シテは幕のほうを振り返り、この高い桂の木の蔭こそ姨捨の場所、ここにそのまま亡骸が埋もれていますと答える。
シテが一の松、ワキが脇座に立ち、
両者が掛け合いのなかで同じ空気に溶け込み、
心を通わせたところで、初同。
この地謡が凄かった!!
豪華すぎるほど豪華な地謡で、無駄に豪華な地謡だと裏目に出る場合もあるのですが、さすがは玄祥師。
謡による抜群の人心掌握術で観客の心をとろかし、ハートを鷲づかみにして、さらにガンガン揺さぶりをかけてくる。
荒涼とした景色と、詞章によって暗示されたシテの深い孤独がひしひしと伝わり、
もう初同の段階で涙があふれてきて、ほとんど感涙のフライング。
(泣くと視界が滲んで舞台が見えなくなるので)、まだ早い、泣いちゃダメ、と自分に言い聞かせながら涙を抑えるのに苦労しました。
シテは、後ほど月とともに現れて、あなた方の夜遊をお慰めましょうと言い残し、夕暮れの木の蔭に姿を消す。
神遊 20周年第50回記念 最終公演《姨捨》後場につづく
付記1
《姨捨》ついては、「月に見ゆるも恥ずかしや」部分の演技について世阿弥が言及した内容が『申楽談儀』に記されていることから一般的に世阿弥作とされているけれど、
「露」や「なかなか」、「身」、「袖を返す」など、禅竹好みのことばが後場にちりばめられ、最後も「姨捨山とぞなりにける」と、禅竹作品に特徴的な円環構造を示していることから、世阿弥の原作に禅竹が手を加えた可能性も捨てきれないなーと個人的には思っています。
付記2
老女の墓標である桂の木の作り物を大小前に出して、そこに前シテが中入りし、その中で物着をして後シテとなって登場すれば、《定家》と同じ構成になるけれど、そういう演出は古い時代にもなかったのだろうかと、ふと思った。
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