《天鼓》の舞台(方丈)に面した重森三玲作の蓬莱山式枯山水「独坐庭」 |
大海をあらわす白砂の砂紋を、天鼓が戯れる呂水に見立てて鑑賞 |
能《天鼓・弄鼓之舞》シテ 片山九郎右衛門
ワキ 福王知登 アイ 茂山逸平
杉市和 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 青木道喜 河村和貴
地謡 古橋正邦 味方玄 分林道治
橋本忠樹 梅田嘉宏
面・装束の解説 片山九郎右衛門
アシスタント 味方玄 分林道治 河村和貴
舞台となった方丈(1535年建造)は、室町期の禅宗方丈建築の遺構。 朝鮮の金剛山を描いた襖絵は野添平米の筆 |
すべてが非日常━━。
夢のような空間で行われた、夢のような公演。
《天鼓》の舞台には、瑞峯院方丈の板の間が使われた。
襖絵が鏡板代わりで、舞台を囲む三方の畳の間が見所の代わり。
後座や地謡座がないため、囃子方も地謡も三間四方の本舞台に着座。さらに、作り物が正先に置かれたため、シテの舞う空間はかなり狭い。しかし、その狭さを感じさせない天衣無縫の舞だった。
【前場】
前シテ・王伯は白垂に頭巾をかぶり、紗のように薄い茶水衣をつけた、すっきりと品のある姿。演能後の解説によると、面は阿古父尉。小牛尉よりも哀愁が深く、人間的な顔立ちをしているため、こちらを選んだそうだ。
子に先立たれた老人の謡は、どこか幽雪師を思わせる渋みのある謡だ。
抑えても抑えても、どうしようもなくこみあげてくる悲しみが、王伯の全身からにじんでくる。
シオルときも「苦しみの海に沈むとかや」の「沈む」に合わせて、シオリの型に深く顔を沈ませてゆく。《天鼓》では、後漢の帝はキーパーソンであるにもかかわらずけっして姿を現さない、神のごとき存在として描かれる。
意に背けば理不尽に人の命を奪い、平穏な暮らしを破壊し、意に沿えば管絃講を催して丁重に弔うという、恐ろしくも慈悲深い、自然そのものを体現している。
不条理な「自然」あるいは「運命」に対して、嘆いても、恨んでも仕方がない。それでも嘆かずにはいられない人間の性を、王伯が代弁している。
帝が象徴する「自然」「運命」「現実」という、どうにもならないもの、絶対的な存在・現象にたいする、声なき怒り、慟哭、そして圧倒的な無力感を、シテのモロジオリが伝えていた。
【後場】
後シテ・天鼓の亡霊の面は、天下一(出目)友閑の童子。
まことに美麗で、どこか神秘的な雰囲気のある少年の面だ。
演能後の解説で、面だけを見せていただいたときは、たしかに友閑作らしい毛描の細かさや唇が紅さが際立っていたが、舞台で使われていた時とは印象が異なる。
九郎右衛門さんがつけて舞うと、上気したように頬が紅潮して潤いを帯び、脈動するような生気が宿る。
唐団扇を手に登場した天鼓は、「打つなり天の鼓」でバチに持ち替え、そこから、もう片時も話したくないというように、バチを持ったまま〈楽〉を舞う。
〈楽〉は盤渉。
方丈正面に広がる白砂で描かれた水紋は呂水の波となり、秋の夜空に包まれた禅寺で虫の声と盤渉楽がこの世に一つしかない旋律を奏でるなか、天鼓が水しぶきをあげながら、水面に戯れる。
その視線はおのずと天の鼓に向かい、袖を翻し、狭い空間を舞ううちに、鼓の作り物が跳ね飛ばされたが、それも、愛する太鼓を弄ぶ天真爛漫な姿そのもの、まさに「弄鼓之舞」だった。
猩々乱のように首をプルプル~と振り、袖を被き、飛び返り、袖を巻き……天空と水面のあいだを飛び跳ねているような、清らかで、軽やかな舞。
ああ、こんなふうに、
恨みも苦しみも悲しみも、無邪気に昇華できたらどんなにいいだろう。
これこそが人間にとっての最上の救い。
寒山拾得を能の舞台で表現したら、こういう姿になるのかもしれない。
(なんだか、ちょっとテンション低めの記事でした。もう少しわくわく胸を躍らせて感想を書けたらいいのにと自分でも思うのだけれど……。この日から三日連続で観能したあとに書いてるからかな。天鼓の無邪気さを見習いたい。)
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