2019年5月26日(日)11時 京都観世会館
《夕顔・山ノ端之出・法味之伝》からのつづき
能《藤戸・蹉跎之伝》橋本雅夫
佐々木盛綱 殿田健吉
従者 則久英志 梅村昌功
下人 茂山千三郎→茂山逸平
森田保美 成田達志 山本哲也
後見 井上裕久 杉浦豊彦
地謡 河村晴道 味方玄 浦田保親
分林道治 深野貴彦 大江泰正
大江広祐 樹下千慧
この日の最高気温は34度。
暑いといえば暑いけれど、京都の暑さはまだまだ序ノ口。それよりも、能楽堂内の冷房の効きすぎ&乾燥は、病み上がりにはこたえてしまう。。。
なんとか持ちこたえるか?、と願っていたのに、《藤戸》の最後の最後で咳の発作が出てしまい、周囲の方々には多大なご迷惑をおかけしました。
隣の女性に睨まれてしまったけれど、にらまれて当然です。ほんとうにごめんなさい! 演者の方々にも深くお詫びを申し上げます。
さて、《藤戸・蹉跎之伝》。
ワキの殿田さん、ワキツレ則久さんは、昨年末に大槻能楽堂で観た友枝昭世さんの《藤戸》と同じ配役(このお二人は前日から2日続けての京都での公演)。
あの時の殿田さんは病気復帰後にはじめて拝見して、まだ本調子ではない御様子だった。この日も半年前よりは回復しているものの、まだ東京で拝見していたころの殿田さんとは違っている。
【前場】
お囃子は、TTRのお二人。後見にもそれぞれ御子息がついていらして、この大小鼓の存在感がハンパない。
男っぽい大鼓の流派のなかでもとりわけ男っぽい大倉流の大鼓。そのなかでも山本哲也さんが打つと「男気!」が炸裂する。
いっぽう、成田達志さんは小鼓らしく、大鼓方がどなたであっても相手に影のように寄り添いつつ、成田さんならではの覇気みなぎる小鼓を奏でてゆく。
好きだなあ、成田達志さんの小鼓。
この大小鼓のお二人が舞台中央で巨大な二枚岩のようにそびえたつ。
(成田さんの小鼓で、九郎右衛門さんの《道成寺》を観るのが夢。)
前シテの面は、痩女。
一声の囃子で登場したシテは、群集をかき分けるような足取りではないものの、一足一足に、強い念を感じさせる。
「なんとしても、これだけは言っておかねば、死んでも死にきれない!」という、息子を殺された母の執念がメラメラと立ち込める。
げっそりとやつれた痩女の面が、まるで本物の生きた中年女性のようにリアル。いかにも子を産み育てた感じのする生活感のある女面と、シテの姿・所作が一体化して、年老いた一人の母の悲しみや絶望、激しい嘆きがひしひしと伝わってくる。
シテの橋本雅夫さんもおそらくかなり御高齢で、足腰が弱っておられるようだが、それまで生きた人生の重み、経験の数々、重ねた稽古から、こうした胸を打つ母親の感情表現が生み出されるのかもしれない。
半年前に観た友枝昭世さんの藤戸・前シテは美しく整いすぎていて、そうした生身の感情が伝わってこなかった。こういう劇的な能は、身体表現以外の「何か」、美しさをかなぐり捨てた先にある「何か」が必要なのだろうか。。。
「蹉跎之伝」の小書なので、「亡き子と同じ道になして給ばせ給へ」で、両手を広げて、仇敵・佐々木盛綱へ突進し、ワキに掴みかかる手前で、右、左と膝を突き、安座(ふしまろぶ型)→モロジオリ、となる。
ここのタイミング、悲痛のあまり足がもつれて進めない、という感じを自然に出すのは難しいのだろうなぁ。
【後場】
後場の面は、たぶん河津(蛙)なのだが、ボサボサの黒頭の隙間からのぞく顔は、白骨化した骸骨のようにも見える。
昏い鬼火の光がその背後で燃えているような、恨めしい姿。
シテは、「(海路のしるべ)思へば三途の瀬踏なり」で、二足詰めて、三途の川を渡るさまを見せる。
後場も「蹉跎之伝」の小書により、「千尋の底に沈みしに」のあとにイロエが入り、舞台を一巡したのち、橋掛りへ行き、一の松で見込む。
その後、「浮きぬ沈みの埋木の岩のはざまに流れかかって」で、流れ漂うように橋掛りから舞台へ移動し、シテ柱にぶつかったところで、「藤戸の水底の」と、沈みこむように膝を突き、シテ柱にもたれてしばし正座。
そこから立ち上がって、舞台中央に進み、「悪霊の水神となって怨みをなさんと思ひしに」で、ワキに向って杖を振り上げ、いまにも襲い掛かろうとするところで━━
思はざるに、御弔いの御法の御舟に法を得て
と、成仏得脱の身となったのでした。
最後のほうは、咳の発作で舞台を観るどころではなかったので、気づいたら終わっていた感じ(>_<)。
でも、渋い味わいのある好い舞台でした。
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