2019年2月4日月曜日

舞台芸術としての《鷹姫》後場~ロームシアター京都

2019年2月3日(日)14時~16時20分 ロームシアター京都

第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
 老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
 岩 浅井文義 河村和重 味方玄 
   浦田保親  吉浪壽晃 片山伸吾
   分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
 竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
 後見 林宗一郎

第二部 ディスカッション
 観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄

舞台監督:前原和比古、照明:宮島靖和
空間設計:ドットアーキテクツ



《鷹姫》前場:舞台芸術としての伝統芸能からのつづき

前半では、動きが抑制された「静」の場面が展開したが、クライマックスはダイナミックで華やかな「動」の世界。そこからエンディングに向けて、枯渇、死、そして虚無の世界へと向かっていく。
このメリハリのきいた舞台展開、舞台美術・照明と、能の芸の技の組み合わせは見事だった。


【空賦麟と鷹姫の闘い】
老人が去り、鷹姫と二人きりになった空賦麟。

岩「空賦麟は鷹を見つ」

空賦麟の視線を感じた鷹姫は、袖を巻いて大きく羽ばたき、空賦麟に挑みかかる。空賦麟は剣で応戦。
ここから、鷹姫と空賦麟の一騎打ちに━━。

九郎右衛門さんの両袖を激しく巻く所作は、猛禽類の羽ばたきそのもの。
おそらく喜多流の新作能《鶴》のように、舞衣の袖を長く着付けたのではないだろうか。通常の袖よりも幅広で長い袖を巧みにひるがえす。

袖を巻くタイミングも速度も絶妙だった。
けっして形態模写をしているわけではなく、能の品格と舞のような美しさを備えつつ、美しい女の顔をしたセイレーンのような「怪鳥のイデア」を体現している。

バタバタッと翼で襲いかかる鷹姫に、必死で抗戦していた空賦麟だが、やがてその妖力に負けて、寝入ってしまう。


【湧き出る泉の水→急ノ舞】
そのとき、岩たちが呪文を唱えはじめた。

あたさらさまらききりさや…ききりさやおん、かからさやうん
水よ、水よ水よ、水よ水よ水よ

正先の岩に囲まれた泉から、スモークがもくもく立ちのぼり、ゴボゴボッゴボッと、水が湧く効果音が聞こえてくる。

正先に駆け寄り、泉をのぞく鷹姫。
泉の奥から光があふれ、鷹姫の顔を照らす。ライトアップされたその顔は、神々しいまでに輝き、光を放つ不死の水と共鳴していた。
扇で水を汲む所作をした鷹姫は、「しめしめ」とばかりに、霊水を手にした歓びの舞を舞う。

この急ノ舞風の舞は、《紅葉狩》で維茂が寝入るのを見届けた鬼女が急ノ舞を舞うところから着想を得たのかもしれない。



【持ち去られた不死の水】
急ノ舞の終わりころ、鷹姫はポンッと大きく拍子を踏み、空賦麟にかけた魔法を解く。
ハッと目覚めた空賦麟は、不死の水を手にした鷹姫を必死で追いかけてゆく。

鷹姫は、舞台奥の急斜面のスロープを身軽な身のこなしで駆けあがり、魔の山へと飛翔しながら消えていった。

ここの魔術的な飛翔の表現と、それを見事にこなした九郎右衛門さんの身体能力は「ブラヴォー!」のひと言に尽きる。
面をかけたほとんど見えない状態の縫箔腰巻姿で、あの急斜面を一気に、しかも、この上なく美しく、妖気を漂わせながら駆け上っていくなんて! 


鷹姫を逃した空賦麟は、正先へ駆け戻り、水を求めて泉をのぞく。
しかし、泉のなかは空っぽ。
もはや不死の水が放つ光は消え、またもとの涸れた泉があるだけだった。
精魂尽き果てたように、愕然と安座する空賦麟。

(空賦麟役の宝生欣哉さんが凄かったのは、このがっくり安座した状態から終演まで、ずーっと長いあいだ不動のままだったこと。おそらく瞬きもほとんどしなかったと思う。)



【幽鬼(老人)の登場→終幕】
するとそこへ、不死の水への妄執ゆえに幽鬼となった老人が現れる。

出立は前場と同じ着流、白い縒水衣の下に金色の法被を着ていて、さりげなくゴージャス。髪は前と同じく結わない尉髪。手には鹿背杖。
面は、重荷悪尉? 鷲鼻で額には深い皺が刻まれ、怨念のこもった恐ろしい形相をしている。

老人「いかに空賦麟、さても得たるか泉の水…」

怨念のこもった暗い情念のメラメラとした燃やし方などは、銕之丞さんの持ち味が生きていた。執念渦巻く、どす黒く、よろよろした立ち廻りがリアル。悪尉の面の雰囲気とも凄くあっている。まさに、はまり役。

最後は、老人(幽鬼)が下居して岩と化す。
鹿背杖を空賦麟に手渡し、今度は空賦麟が泉の水が湧くのを待ち続けながら老いてゆくことを暗示して終幕。

(ふつうの能舞台と同様、老人、空賦麟、岩たちの順に舞台袖へと帰っていくのだけれど、ここは、通常の舞台演劇のようにサッと幕を下ろしたほうがドラマティックだったかも。)



《鷹姫》裏話ディスカッションへ続く




追記:原作との違い
《鷹姫》の上演を見て感じた、イェイツの戯曲"At the Hawk's Well"との主な違いは以下のとおり。

(1)three musicians(3人の楽人たち)と岩(コロス)
"At the Hawk's Well"では地謡と囃子方を兼ねたthree musicians(仮面のようなメーキャップを施している)が登場する。いっぽう《鷹姫》では、ギリシャ仮面劇から想を得たコロスが登場する。能へのコロスの導入は画期的。

(2)主人公の違い
"At the Hawk's Well"ではクー・フーリンが主人公に想定されているが、《鷹姫》では老人or鷹姫がシテに設定されている。

(3)鷹姫のキャラクターの違い
"At the Hawk's Well"では、泉を守る少女に、山の魑魅Sidheが取り憑いて、老人と若者に呪いをかける。だが、《鷹姫》では鷹姫は最初から魔物として登場する。

(4)結末の違い
"At the Hawk's Well"では、泉の水が得られなかったクー・フーリンは、老人を残してさっさと立ち去ってゆく(イェイツの連作へとつながっていく)が、《鷹姫》では、空賦麟が老人と同じ運命をたどることが暗示される。

イェイツの戯曲では欧米の他の作品と同じく、直線的な構造をしているのに対し、《鷹姫》は、禅竹作品に見られるような円環構造を示している。西洋と日本の世界観の違いが反映されているようで面白い。

(5)hazelと榛(はり)の違い
"At the Hawk's Well"では、葉の抜け落ちたhazel(榛:ハシバミ)の根元に泉があることになっている。それに対して、《鷹姫》では、榛(はり)の小林の根元に泉がある設定。榛(はり)はハンノキの古名で、ハンノキは英語でalderという。
おそらく"At the Hawk's Well"の邦訳で「榛(はしばみ)」とされていたのを、能の詞章を書く際に、「榛(はり)」と読み間違えてしまったからだと思う。

イェイツが、葉の抜け落ちたhazel(ハシバミ)の根元に、不死の水が湧く泉があるという設定にしたのには意味があると思う。

ハシバミは、ドルイド僧が儀式を行う際に用いた樹木のひとつであり、ハシバミの実は「知恵の実」とされた。また、古代ケルトではハシバミの枝は、水脈・鉱脈を探るダウジングに用いられた。不死の水の水脈を探るハシバミの枝。だが、そのハシバミの木は枯れかけている。
涸れた泉、枯れた聖木、荒涼とした絶海の孤島。
魔力と呪いが支配するこの島では、「知恵の実」は永久に実ることはない。
不毛と虚無の島。
それが、イェイツが描こうとした「鷹の泉にて」の舞台なのかもしれない。






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