老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
岩 浅井文義 河村和重 味方玄
浦田保親 吉浪壽晃 片山伸吾
分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 林宗一郎
第二部 ディスカッション
観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄
《鷹姫》後場からのつづきです。
休憩をはさんで、ディスカッション。
舞台を終えたばかりで大変だなあ。
でも、銕之丞さん九郎右衛門さんと義兄弟そろってお話を聞くのははじめてだし、九郎右衛門さんはもとより、銕之丞さんのトークも好きなので、観客としてはうれしい。
お話は西野春雄さんが半分くらいを担当されて、九郎右衛門さんと銕之丞さんのトークは四分の一ずつくらい。
印象に残ったのは、九郎右衛門さんのお話。
九郎右衛門さん曰く、幕から出て幕へ帰っていく能舞台には決まりごとが多いが、そのことで「守られている」ように感じたという。
だだっ広い劇場空間では、何もないところから作り込んでいかなくてはならない。とくに、能《鷹姫》のもつ輪廻感、ループ感は、能舞台では表現しやすいけれども、劇場空間ではこれがなかなか難しいとおっしゃっていた。
輪廻感・ループ感とは関係ないかもしれないけれど、この日わたしが感じたのは、エンディングの空虚感というか、「間の持たなさ」だった。
鷹姫が消え去ったあと、空賦麟は不動のまま泉の前で安座し、動いているのは老人だけ。なにかこう、間のびした感じが延々と続いたような感覚があった。
たとえば、同じように老人が妄執を抱く《恋重荷》などは、美しい女御が最後まで舞台に出ていて、老人に責めさいなまれる。舞台上には、サディスティックであでやかな花が最後まで咲いている。
いっぽう、鷹姫のいない後半の《鷹姫》は明かりの消えたステージのような華のない欠如感が続いていた。
これは、作曲した横道萬里雄が老人の執念にウェイトを置いたことが原因だと思うけれども。
また、空間設計については何度も何度も練り直したらしく、担当されたドットアーキテクツの方々に「何度も作り直していただき、この場をお借りして感謝申し上げます」と九郎右衛門さんから謝辞が捧げられた。演出サイドも相当ご苦労されたのですね。
1967年の初演以来ずっと《鷹姫》を観つづけてきた西野さんは、近年はいろいろな演出がされいて、なかには「やりすぎだ」と思うものもある、という趣旨のことをおっしゃっていた。
九郎右衛門さんも、今回ちょっとやりすぎた部分もあったかもしれない、というようなことを匂わせておられた。
個人的には、今回の演出はとても好きで良かったと思う。とくに、鷹姫が魔の山の頂まで飛翔して(実際には急斜面を駆け上って)消え去る演出はすばらしかった。
ただ、音響効果は不要だったのではないだろうか。
冒頭の風の吹きすさぶ音は、たとえば、竹市学さんの笛の物寂しい音色でいくらでも表現できるだろう。
水が湧き出る際の、ゴボゴボッという音も、スモークと照明、そしてコロスの輪唱だけでも、水が湧き出るさまが十分に伝わってくる。
《鷹姫》に限らず、能には人工的な効果音は不要だとわたし自身は思っているけれど、そういう価値観もこれから変わっていくのだろうか……?
あれこれ書いたけれど、この日の舞台と九郎右衛門さんの鷹姫は、わたしにとって一生の思い出になると思う。
素敵なお舞台、ありがとうございました。
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