2016年8月25日(木) 18時半~21時 国立能楽堂
国立能楽堂企画公演・仕舞《頼政》からのつづき
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也 働キ 塩津圭介
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
袴能は初めて観る。
《天鼓》のように二場で別人を演じる曲を、面・装束なしでどう表現するのだろう?
そんな疑問を抱いていたが、この日の袴能はもはや人間業とは思えず、
シテは完全に神の領域に入っていた。
わたしなど途中から感動で身体が震えてきて、
あんなに胸が物理的にブルブル震えるなんて滅多にない経験。
【前場】
鞨鼓台の作り物が正先に置かれる観世流とは違い、
喜多流では鞨鼓台が目付柱手前に、一畳台が脇正側に置かれる。
この日は囃子方も極上の布陣。
氷が砕け散るような六郎兵衛さんの笛の音が響き、
大小鼓が秋の空のように澄み切った音色を奏でてゆく。
この繊細でやわらかな打音は忠雄&源次郎師ならでは。
そこへワキの勅使が登場する。
紋付袴姿の欣哉さんは、いつもにも増してハコビと姿勢の美しさが際立つ。
胸を突き出した前傾姿勢のまま上半身がスーッと伸びて、バレリーナのよう。
つづいて、いよいよシテの王伯が登場。
幕が上がり、やや間が合って姿を見せた前シテの出立は、
クリーム色の紋付(越後上布かな?)にベージュ色の袴。
薄い青に染められた家紋が朝顔のように見えて涼やか。
顔には完璧な直面をつけている。
素顔とはまったく違う、直面という能面。
芸の力によって生みだす「本物の仮面」を素顔につけるのが直面だと
この袴能を観て初めて分かった。
いや、自己という素顔をはずして直面をつける、というべきだろうか。
(直面は眼の動きが素顔とはまるで違う。
瞬きはもちろん、視線を左右に動かすこともない。
感情のわずかな起伏や息の乱れさえも感じさせない。
それを演能の最初から最後まで貫き通す驚異的な集中力!)
その直面をつけて、白を基調にした紋付袴を着た友枝昭世師は
どこからどう見ても、子に先立たれ憔悴しきった老人・王伯だった。
橋掛りを進むシテの姿には、
生きることに疲れ果てた老人のよぼよぼ感・よろよろ感が漂っている。
とはいえ、シテの足取りがよろよろしているわけでもなく、
左右の重心が不均衡なわけでもない。
ハコビはどこまでも美しく、身体の軸にもブレはなく、
頭の位置も一ミリの狂いもないほど同じ高さで平行移動している。
背中をほんの少しかがめたり、足をごくわずかに引きずり加減にしたりと、
微妙なニュアンスの集積が老いの影を生み出しているのだろうか。
老人らしい弱々しさをどこから漂わせているのか謎なのだが、
かろうじてこの世にとどまっている寄る辺のない雰囲気がその姿にはあった。
いにしえの人にとって、神の如き為政者の気まぐれは天変地異のようなもの。
青天の霹靂のように家族に降りかかった厄災はただ受け入れるしかなかったのだろう。
本来は怨むべき相手から「管弦講で弔う」と言われてモロジオリするのも、
地震で行方不明になっていた息子の遺体が発見され、ようやく供養できるようになった親の気持ちと共通するのかもしれない。
抑制され、抑圧された老人の胸のうち。
感情をむき出しにしないからこそ、
老人の深い悲しみと恨みがひしひしと伝わってくる。
そしてその胸のうちを切々と謡い上げる地謡も素晴らしい!
喜多流の地謡は終始姿勢を正して微動だにせず、ビシッと決まっている。
武士のストイックな美学を体現したような地謡が舞台を引き締め、
凛とした空気を送り込んでゆく。
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》後場へつづく
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