2016年1月10日日曜日

国立能楽堂普及公演 《仲光》

国立能楽堂普及公演 解説・《麻生》からのつづき

三種の神器に見立てた特大の餅・柿串・小橙、そして裏白、海藻も
本物が使われている国立能楽堂の鏡餅 (さすがに伊勢海老は作り物)


能《仲光・愁傷之舞》 藤原仲光 大槻文蔵 
      多田満仲 観世銕之丞
       美女丸 長山凜三 幸寿丸 谷本悠太朗
      恵心僧都 宝生閑→宝生欣哉 従者 山本則孝
      一噌庸二 大倉源次郎 白坂信行
      後見 赤坂禎友 武富康之
      地謡 浅見真州 浅井文義 泉雅一郎 阿部信之
         浅見慈一 長山桂三 谷本健吾 安藤貴康



祝言物の多い正月らしくない残酷な曲ながら、
新年早々素晴らしい舞台に巡り合えて幸先の良いスタートとなった。



囃子方・地謡が定位置に着くと、ツレの多田満仲がしずしずと登場し、
ワキ座で床几にかかる。


満仲の出立は、薄浅葱の指貫に墨色の狩衣。

瞬間湯沸かし器のように短気な性格を表すためか、
狩衣には、火花を思わせる鋭い笹葉の模様が金地でちりばめられている。



そこへ美女丸と幸寿丸を先立ててシテの仲光登場。
仲光は、主君・満仲に命じられて、
中山寺に預けられていた美女丸を連れて戻ってきたところ。


シテの装束は、雲と鶴の模様の掛直垂に白大口。
(幸寿を斬る前に物着で肩上げ、のちに物着で元に戻す。)



美女丸は、源氏香と胡蝶の模様が入った鮮やかなコバルトブルーの長絹に大口。
幸寿丸は、朱色系の縫箔に児袴。


一方が他方の身代わりとなり、人生が交差する幼い二人の身の上の対比が
この装束にも反映されている。


現代でいえば、幸寿は美女丸の「首ドナー」となるよう運命づけられた
ある意味、クローンのような存在なのだ。




寺に預けたにもかかわらず経も読めず歌も詠めず管弦もおぼつかない息子に
怒りを爆発させた満仲は、美女丸を手打ちにしようと刀に手をかける。




この満仲役の銕之丞が凄かった! まさに、はまり役。

実子を手に掛けようとするほどの怒りを、感情がむき出しにならないよう
能としての節度を保ったまま表現するのは至難の技だと思う。


それを、「雷を落とす」という言葉通りのビリビリした凄まじい怒号で、
しかも品位を落とさずに、絶妙なさじ加減で演じていた。



前半は切戸口に退くまで、シテの影がかすむほど銕之丞師の存在感が圧倒的だった。
(この方の現代物をもっと見てみたい。)





主君の袖に取りついて制した仲光は、満仲から美女丸を討つよう命じられる。


武士の身として、主君の息子(未来の主君)を討つことをためらう仲光。

そこへ仲光の子・幸寿丸が、自分が身代わりになると申し出る。



自分を斬ってくれという我が子と、
ならば自分も斬ってほしいという主君の子との板挟みになり、
仲光は葛藤の渦中で身を引き裂かれる思い。




死を覚悟して合掌する二人の子方の背後で逡巡していた仲光は、
「思い切りつつ親心の闇討に現なき」で、
太刀を振り上げ、右足をドンと強く踏む。



幸寿丸がバタリと倒れ、
シテは太刀をワキ柱方向に投げ捨て、幸寿は切戸口から退く。





幸寿丸を斬ったあと、一瞬の沈黙があり、
取り返しのつかない恐ろしい現実の重みがずしりと響く。



余計な感情表現を一切排し、型にあくまで忠実な文蔵師だからこそ、
この音のない一瞬が見事に生きてくる。





後半

比叡山の恵心僧都が美女丸を伴って登場。

高僧の位の高さを映しだす欣哉師の人間離れしたハコビによって、
場の空気が一足ごとに塗り替えられてゆく。




橋掛りで案内をこうワキと、対応するシテ。

すべての事情を知り尽くし、仲光の心の内まで見抜いている恵心僧都の登場によって
舞台は新たな展開を見せる。


そのことを観る者に十分に納得させる欣哉師の世俗を超越したような
所作と物腰、そして静謐な佇まいと深い包容力。


この雰囲気を出せる人って、閑師をのぞけば、欣哉さんしかいないだろうな。





本舞台に入ったワキは、ツレの満仲と対峙し、
幸寿が身代わりになったおかげで美女丸が生きていることを明かす。



文蔵師、銕之丞師、欣哉師、名子方・凛三くんと
そうそうたる顔触れがそろった舞台には濃密な気がたちこめ、
充実した舞台空間になっていた。





満仲が美女丸を赦し、仲光は祝いの酒宴を催す。

このとき、満仲親子に扇で酌をしたあと、
シテは、地謡前の恵心僧都の前にも進み出る。



ワキは扇を開いて盃に見立て、シテは盃に酒を注ぐ。

恵心僧都は、仲光の思いを汲みとるように、静かに盃を飲み干して言う。



いかに仲光り、めでたき折りなれば、ひとさし御舞ひ候へ



多くの場合、男舞には酒がつきものになっていて、
ワキに、「ひとさし御舞ひ候へ」と酒宴で言われて
シテが舞うのがほぼ定型となっている。



だから、《仲光》でも
ワキの恵心がこの能天気で無神経ともいえる言葉を
自らの手で実子を殺めた仲光に向かって言うのだと思っていた。



でも、この日の欣哉さんを見て、それだけではないような気がした。



男舞を舞うことには、たんにめでたい席で舞を舞う以上の意味があり、
一人の男の言うに言われぬ思い、
世のあらゆる理不尽さ、不条理、人の愚かさ、罪悪感を
酒とともに飲み干し、胸にぐっとしまい込むという
男の美学の結晶、その表現が、男舞なのではないだろうか。



そういう意味での男舞を舞う機会を、恵心は仲光に提供したのだ。




文蔵師の男舞は、能という芸術形態から一ミリたりとも逸脱しない、
《仲光》という曲の位に沿った極めて抽象化された舞。



だからこそ、見る側はそこに滲み出る悲哀を感じとり、
仲光の心に自分の心を重ね合わせ、
いつしか仲光と一体となって男舞の世界に没入していくことができる。



文蔵師が舞った愁傷之舞――。


一の松で膝をつき、そっとシオリ、
もう一度、あふれ出る感情を押し込むように、ぐいっと深く、長くシオル。


その抽象性のなかに込められた万感の思い。




わが子の幸寿があるならば、美女御前と相舞させ、
仲光手拍子囃し、ただいまの涙を感涙と思はば、いかがは嬉しかるべき


わたしは不覚にも
作者の術中にはってしまい、ここで涙がどっとあふれてきた。





仲光もはるかに脇輿に参り、このたびの御不審人為にあらず、
かまひて手習学問ねんごろにおはしませ



仲光は、恵心とともに寺に帰る美女丸の肩に手を載せ、
学問に精進するよう真剣な目で祈念する。

幸寿を犬死させないためにも。



凛三くんは、今回も不動の下居や立ち姿の美しい非凡な子方ぶりで、
美女丸がこの先、高僧になることを予感させたまま恵心とともに去っていった。



二人を見送った仲光は、安座して、モロジオリをするように深く合掌。




抑制が効いているからこそ伝わるものがある。

過剰にならないからこそ、人の心を動かせる。


そのことを実感した舞台だった。








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