2019年8月28日水曜日

片山九郎右衛門の《定家》~京都観世会8月例会

2019年8月25日(日)京都観世会館
定家の時雨亭跡とされる嵯峨野・二尊院

能《定家》梅若実→片山九郎右衛門
(梅若実右股関節症のため代演)
 福王茂十郎 是川正彦 喜多雅人
 千本辺りの者 小笠原匡
 杉市和 大倉源次郎 河村大
 後見 井上裕久 林宗一郎
 地謡 梅若実 河村和重 浦田保親
        浦部幸裕 橋本光史 松野浩行
        大江泰正 河村和晃


この10日間ほど、片山九郎右衛門さんはほとんど連日のようにシテを勤めていらっしゃる。そうした過密スケジュールのなかで、突然、舞うことになった大曲《定家》。それでこれだけの高いレベル━━熟練の役者が周到に準備を重ねて仕上げるくらいのレベル━━の舞台を上演されるとは! やっぱり凄い方です。
見えないところで、いったいどれほどの努力をされているのだろう……。



【前場】
前シテの出立は、秋の草花をあしらった青白の段替唐織。涼しげな配色だが、まばゆい白地に金糸が織り込まれ、上品で趣味が良い。
装束に照明が反射して、後光のような輝きがシテの体を包んでいる。だが、その光には温かみはなく、どこか人を寄せつけない、バリアのようなものを感じさせる。
近寄りがたい、気高さ。

梅若実地頭の初同「今降るも、宿は昔の時雨にて」で、冷たい雨の降る廃園にいにしえの面影が宿り、そこに佇むシテの姿が、氷のように鋭く冷たい気品をたたえている。近づくと怪我をするような鋭利な気品。

これほど冷たく、近づきがたい九郎右衛門さんのシテを観るのは初めてだった。

「妄執を助け給へや」のところでも、僧に向かって合掌することはなく、ただ相手をじっと見つめている。
誰にも弱さを見せず、誰にもすがらない。
それが高貴で気高い式子内親王の生き方だったのだろうか。



〈中入〉
作り物に入るところでは、
「かげろふの石に残す形だに」で、シテは正中から後ろに下がって、石塔に背をつけたかと思うと、そのまま塗り込められたようにピタッと張り付き、石の彫像と化す。

石塔と一体化して、みずからも石像になったかと思うほど、シテはしばらく不動のまま。

やがて、「苦しみを助け給へ」でいったん石塔から離れてワキへ向き、そのままくるりと向きを変えて、作り物へ中入。



【後場】
習ノ一声は、深い洞窟の底から響いてくるような大小鼓の音色。
河村大さんの大鼓の響き、なんて深みのある音なんだろう! 遠い過去の記憶を呼び覚ますような魔力のある音色。
そこへ源次郎さんの小鼓と杉市和さんの笛も重なり、囃子の音の世界が、遠い恋の記憶を連れてくる。


「夢かとよ、闇のうつつの宇津の山」
塚の中から響いてくるシテの声は、悲しみでもない、苦しみでもない、名状しがたい感情の奥底から湧きあがる、うめくような、あえぐような、せつない声。


「朝の雲」「夕べの雨と」
中国の故事「朝雲暮雨」を引いて男女の交情をほのめかす場面では、シテは声を昂らせ、内奥に沸々と燃えたぎる熱情をほのめかす。


引廻しが下ろされて現れたシテは、灰紫の長絹に水浅葱大口という出立。
面は灰色がかった長絹の顔映りのせいで、一瞬「痩女」かと思ったほど。前と同じ増の面だが、蔦葛の翳になり、塚のなかの後シテの顔は色褪せたようにやつれて見える。



〈序ノ舞〉
序ノ舞は崇高な気品に貫かれた、冷たく、美しい、愛する者を撥ねつけるような拒絶の舞。
時おり見せる「身を沈める型」が斎院時代の巫女性を垣間見せる。

舞の後半では、キリで喩えられる蔦葛で縛られた葛城の女神のような神秘性すら漂っていた。

だが、冷たい序ノ舞から一転、舞い終えたシテの謡「おもなの舞のありさまやな」は、炎のような熱い情念で燃えていた。
抑えに抑えていた情熱が、ここで一気にほとばしったかのような熱い謡。紅潮した生身の女の情感があふれ出す。


冷たい拒絶と、熱い思い。
求めれば拒まれ、離れれば燃え上がる。

両極端の思いが自分のなかで内部分裂を起こし、そのはざまで揺れ動き、懊悩する。そんな内親王をイメージさせた。だからこそ、定家は彼女に妄執を抱き、死後も離れられずに、這い纏うしかなかったのだろうか。



〈終曲〉
最後に、シテは八の字を描くように作り物を出入りしたのち、塚のなかで独楽のようにくるくるまわって葛に這い纏われるさまを表し、愛する定家の抱擁を受け入れるように静かに下居して、枕の扇。

こちらも時雨亭跡とされる嵯峨野・常寂光寺

【付記】
時雨亭の場所は《定家》では「千本辺り」(今出川通千本付近)となっていますが、実際に時雨亭があったとされるのは嵯峨野のようです(時雨亭跡は嵯峨野の常寂光寺、二尊院、厭離庵など諸説あります)。

《定家》の作者とされる金春禅竹がなぜ、時雨亭を「千本辺り」に設定したのかは定かではありませんが、当時は時雨亭が千本辺りに存在したと思われていたのかもしれません。あるいは、禅竹自身が舞台を「都の内」に設定し、曲全体に「都の香り」をそこはかとなく漂わせたかったのかもしれません。

画像は昨年11月に嵯峨野を訪れた時のものですが、近くには祇王寺もあり、晩秋の嵯峨野には、能《定家》の舞台にふさわしい物寂しく枯れた風情が漂っていました。



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